2017年6月10日
『竹本吉夫先生』 
新潟市内の会合で近くの老健施設を訪れた時、偶然にも「竹本吉夫先生」の銅像と出会った。竹本先生は、新潟大学第一内科出身で、30年間も秋田日赤病院の病院長を務められた大先輩である。眼科医の私は専門は異なっていたが、大学時代に医局長として大先輩と何度もお話をする機会があった。
そんな大先生を、当院眼科の小さな勉強会にわざわざ秋田からお呼びして、講演をしてもらったことがある。お亡くなりになる1年前だったので、先生は、一言も仰られなかったが、相当無理をしてお越しになったのだろう。今更ながら申し訳ないことをしたと悔やむ次第だ。
第66回済生会新潟第二病院眼科勉強会  
 演題:「病気と共存の健康―持病息災―」
 講師:竹本吉夫(秋田赤十字病院名誉院長)
  日時: 平成13年11月21日(水)16:00~17:30
  場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
 講演を拝聴した直後に記した感想がある。
 「期待通りスケールの大きい、判りやすい、テンポのある、素晴らしいお話でした。参加者の評判も上々でした。これだけのお話をされるのには、大変な準備が必要としたのではないかと思います。ありがとうございました。『老年期こそ人生の完成期、奉仕の時期』『音楽療法』『病因として、遺伝・環境・ライフスタイル・加齢』『宗教』『全人的ケア』『医療には限界がある』『人生の質、いのちの質、生活の質』『健康習慣』『セルフケアの重要性』『ボケ防止法』『ジェロントピア』。どの話題ももっともっと聞いてみたい話題でした。竹本先生の人生と人生観を教えて頂きました」
【竹本吉夫先生 ご略歴】
 大正14年(1925年) 5月26日生
 昭和18年 3月 旧制県立新潟中学校卒
 昭和20年 3月 旧制新潟高等学校理科乙類卒
 昭和24年 3月 新潟医科大學卒
 昭和27年10月 新潟大学医学部第一内科入局
 昭和33年 3月 医学博士
 昭和40年10月 新潟大学助教授
 昭和42年10月 秋田赤十字病院長・秋田赤十字看護専門学校長
 平成 8年 4月  秋田赤十字病院名誉院長
           日本赤十字秋田短期大学初代学長
 平成14年11月 胃がんのため新潟市内の老人保健施設で死去
参考
 「病院」という雑誌(37巻 12号 972、1978)に能登 彰夫氏が、「人:第5回日本病院会学会会長秋田赤十字病院院長竹本吉夫氏」と題して文を残している。
「二進も三進もゆかなくなった秋田赤十字病院の再建のために,院長として象牙の塔から赴任された野は昭和42年10月。やれるかなと危惧の念を抱いた者が多かった.新潟大学第一内科助教授で,数多くの業績があり,人望も厚く,将来は…と誰もが認めかつ期待していた人が,一転して泥まみれになる現場の責任者になったのだから。しかしやはり大した人物である.綿密な調査検討のもと,驚くべきエネルギーで,秋田赤十字病院のすべてを一新し,立派に復興させてしまった.大学人が院長職につくと,とかく独尊的になるか,あるいは全くの飾り物的になるか,ともかく地域の中で浮き上ってしまう例が多い中で,出色の院長である,地域医療はいかにあらねばならぬか,その中での病院の役割,そして医師像について医療人として確固たる信念をもった人である」
@新潟市内に残る竹本先生の銅像は、宮田亮平先生(前東京芸術大学学長、現文化庁長官)が制作したもの
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2016年7月13日

 糖尿病は洋の東西を問わず太古からあり、死に至る病である。1921年のインスリン発見(BantingとBest)により治療は大きく進展したが、それでも多くの合併症に脅かされる病であった。

 大森安恵先生が東京女子医大を卒業して、中山光重教授の教室(糖尿病)に入局したのは1956年。当時は我が国において糖尿病患者が増加し始めた時期である。1957年日本糖尿病学会設立、1961年メトホルミン発売、1965年スルホニルウレア(SU)発売と糖尿病治療の夜明けの時代であった。以来、先生は治療・教育・研究に邁進し、糖尿病治療のど真ん中で60年活躍している。

  血糖が高いと言われてすぐ病院を受診中断することなくコントロールを守り続ければ、糖尿病があっても合併症に苦しむことはない。そしてこと糖尿病に関しては、『知らなかった』『無知であった』ということは、悲しみを通り越して恐ろしいものである。

 「糖尿病でも母子ともに健康な出産ができる」-を日本の常識にした取組みは、特筆すべき業績だ。人間の魅力溢れる大森先生が、豊富な経験の引き出しから最良の治療を実践するべく奮闘し続ける日々の中、医師としての心意気、そして患者さん・医療者への提言を綴った本書はお勧めだ。

【目 次】
  1 患者さんとともに(教えることと教わること/名木 有馬のハルニレ/糖尿病に関する間違いだらけの常識 ほか)/
  2 医療者として(カッパドキアへの思い/すべての分野が専門家の集団ー糖尿病センター/心を耕すことは、頭脳を耕すより尊い ほか)/
  3 桜によせて(ひょうたん桜と糖尿病センター/「初波奈」の桜とおかみさん/神子の山桜と全国済生会糖尿病セミナー) 

【著者略歴】 大森安惠(オオモリヤスエ)
 1956年東京女子医科大学卒業。翌年、同大学第二内科入局。1974年同第二内科助教授。カナダのマクギル大学留学。1975年同糖尿病センター助教授。1977年にスイスのジュネーヴ大学留学。1981年同糖尿病センター教授。1991年より同センター所長兼主任教授。1997年定年退職。名誉教授。1998年国際糖尿病・妊娠学会(IADPSG)日本代表。2002年東日本循環器病院(現・海老名総合病院)糖尿病センター長
 

「糖尿病と向き合う 女性医師六〇年の軌跡」
  発売日: 2016年05月28日
  出版社: 時空出版
  サイズ: 単行本
  ページ数: 261p
 定 価: 2,268円(税込)2,100円(税抜)

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2015年12月13日

 「好きな店」と問われると、迷わずに「かつ力」と答える。家族ぐるみで通い始めてから、もう20年を超えた。今では多くのグルメ雑誌に登場する有名店で、とんかつ好きな人はすでにご存知であろう。カウンターに7~8名、小上がりにテーブル3つ。暖簾をくぐると日焼けしたご主人とおかみさんが、笑顔で迎えてくれる。

 特徴は「焼く」とんかつ。ご主人によると、「フライパンで焼く方が肉本来のうま味が伝わる」とのこと。メインのメニューは、ヒレかつ、豚かつ(ロース)、ロース厚切生姜焼き、カレーピラフ、ヒレかつ重等々。サイドメニューとして日替わりに、特製インドカレー(絶品!)、かつ力風チキンかつ(一度お楽しみあれ、ソースは要らない)等の主食のほか、厚焼き玉子などの副食等も用意されている。さらに「ご飯」(きらきらと光っている)・味噌汁(まことに美味しい)・ドレッシング(これだけで商品になっている)等全てにこだわりを感じる。

 どれを注文しようか迷われた方は、先ずはヒレかつ定食(1100円)から食すことをお勧めする。ヒレかつに特製ソースを少々、山のように盛られたコールスローにこれまた特製のドレッシングをたっぷりとかける。時折、マスターから料理の極意を伺うことも出来る。料理については門外漢の私だが、料理の奥深さにいつも感激して聞いている。

 美味しくて(日本一と信じている)、ボリュームたっぷり、気取らない、値段も手ごろ、予約不要、時に料理教室つき、家族向けには最適なお店である。 

住所:新潟市中央区米山2-9-9(けやき通り)
電話:025-247-4011
駐車場:あり(5台) 
営業時間:

 平日:11:30~14:00、17:30~22:00
 土・日・祝日:17:30~21:00
 定休日:第二日曜日、最終日曜日
 ランチ営業
場所:新潟駅南、駅を背に右方向にけやき通りをまっすぐ、新潟駅から597mの交差点左側

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2015年12月4日

 眼科が外科から独立して専門分野になったのは,ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz)が検眼鏡を発明したこと,緑内障に対する虹彩切除をグレーフェ(Friedrich Wilhelm Ernst Albrecht von Graefe)が始めたことが契機であるという(「臨床眼科」63巻 6号 879;2009/6/15)。

ヘルムホルツが検眼鏡を発明したのは1851年。
グレーフェが虹彩切除を確立したのはいつなのか?
 グレーフェ自身が創設した「Archiv fur Ophthalmologie」の3号に虹彩切除をテーマにUeber die Iridektomie bei Glaukom und ueber den glaukomatosen Process がある。これで、グレーフェが虹彩切除を確立したのは、1857年ということになった。

ドイツ眼科学会(DOG;Deutsche Ophthalmologische Geselschaft)が、外科から独立して発足に1857年と1863年の2説ある。
 緑内障の治療と、「エジプト病」の別名があるトラコーマを主題として1857年に第一回国際眼科学会がブリュッセルで開催された。グレーフェも主催者の一人であった。同年9月3~5日にグレーフェの呼びかけでハイデルベルグのホテルシュリーダー(Hotel Schrieder)で12人が集まり、12個の演題発表があった。当初は会則や報告書もなかった。初会合後、非公式ながら会合が毎年あった。1863年9月に初めてグレ-フェが4項からなる会則を定め、それ以降学会報告書が作成されるようになる。

 1940年までは、この1863年が公式なDOG発足日とされていた。ところが第二次世界大戦後、1857年の会が公式にドイツ眼科学会発足日と定められた。この辺りの事情はよく判らない。2007年には、ドイツ眼科学会発足150周年記念祝賀会が学会中に盛大に行われた。こうして眼科が外科から独立したのが1857年であることが明らかとなった。


尚、虹彩切除については岩田和雄先生(新潟大学名誉教授)、ドイツ眼科学会については三浦央子先生(リューベック;ドイツ)に情報提供して頂いた。

写真は、「眼科の父」Friedrich Wilhelm Ernst Albrecht von Graefe


@各国の第一回眼科学会
1857年 ドイツ(German Ophthalmological Society:DOG)
1890年 英国( Ophthalmological Society of the United Kingdom)
1896年 米国( American Academy of Ophthalmology and Otolaryngology 眼科と耳鼻科の合同学会 
 (1979年 American Academy of Ophthalmologyとして眼科学会が独立)
1897年 日本眼科学会総会(明治30年)


@本邦の医学学会の始まり
1893年(明治26年) 第一回日本解剖学会
1897年(明治30年) 第一回日本眼科学会
1899年(明治32年) 第一回日本外科学会
1903年(明治36年) 第一回日本内科学会

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2015年7月11日

尊敬する先輩の眼科医が、素敵な本を上梓された。
海洋クルーズというと世界一周の旅など時間もお金もかかる高級な旅のイメージがあるが、ここで紹介して頂くのは10日~14日のエーゲ海・アドリア海、地中海、バルト海を巡る旅。
掲載された写真は、すべてご本人がデジカメで撮影したもの。写真と豊富な記載を見ているだけで、そして日本にいながらに地中海を旅したような気分にさせてくれる観光ガイドである。
売り上げの著者受領分は、すべてユニセフやアイバンクに寄付するとのこと。一読をお奨めしたい。 

【登録情報】
単行本: 152ページ
出版社: 新潟日報事業社 (2015/5/13)
言語: 日本語 

【内容紹介】
西日常を忘れ、ゆったりとくつろげる究極の旅、海洋クルーズ。その魅力を写真とともにご案内します。訪ねたのはエーゲ海・アドリア海、地中海、バルト海の寄港地25カ所。船内施設や船内行事をはじめ、知っておきたいお役立ち情報も収録。

【著者について】
藤井 青(ふじい しげる)
新潟大学医学部卒業。新潟大学大学院医学専攻科(眼科学)修了。医学博士。
新潟大学医学部勤務後、1973年から新設の新潟市民病院に転任、眼科部長、地域医療部長、診療部長を歴任。2004年3月に定年退職後は、新潟医療技術専門学校教授(視能訓練士科学科長)としてコメディカルの教育に携わる。また、にいつ眼科名誉院長、新潟県眼科医会会長として地域医療に関わる。
現在は新潟市江南区、ふじい眼科名誉院長、新発田市今井眼科医院顧問。 

【主な著書】
『ふるさと新潟 眼玉の散歩』
『眼玉の道草』
『目玉のそぞろ歩き ニュージーランドで真夏の正月』など。

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2014年12月28日

新潟県の高田盲学校は、京都・東京に次いで全国で3番目にできた盲学校。設立には眼科医・大森隆碩(おおもり・りゅうせき;1846-1903)の獅子奮迅の尽力がありました。

1846 年(弘化3)隆碩は、高田藩医の長男として誕生しています。15 歳からは江戸で眼科の勉強。1864 年(元治元)高田で眼科医を開業。さらに大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学。医師ヘボンに師事し、ヘボンの和英辞典編纂を手伝っています。医学と英語力に長けていたようです。

高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験し、目の不自由な人の教育を真剣に考えるようになりました。 1886年(明治19)医師や視覚障害者たちと協力して、「訓盲談話会」を設立。彼は幹事長に就任。1887年、高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めました。この学校が高田盲学校へと発展します。

1891 年(明治24)「私立高田訓矇学校」を設立、隆碩は校長に就任。盲学校の誕生です。しかし盲学校の運営は綱渡りの連続。私財の多くを訓矇学校の運営費に充てました。「炭を買う金がない」と学校から連絡があると、奥様が着物を手に質屋に走ったといいます。

『心事末ダ必ズシモ盲セズ』
当初、盲人の方々が設立しようとしていた盲学校は、按摩などの技術を高めるテクノスクールでした。しかし、隆碩は、「技術習得だけではだめだ。人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養を積んで教育しなければならない」と主張し、技術学校ではなく本格的な学校設立を目指しました。彼の建学の精神と伝えられている『心事末ダ必ズシモ盲セズ』。この意味するところは、以下の様です「眼の病で視覚を失ったものは、視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり、何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」。

1903 年(明治36)、療養中だった東京で逝去(57 歳)しました。こうした長い歴史を持つ新潟県立高田盲学校は、2006年3月31日をもって閉校しました。



https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/92476.pdf#search=’%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E9%9A%86%E7%A2%A9
2006年3月31日 上越タイムス 「開学の精神」後世に残す
http://www6.ocn.ne.jp/~oasisu/igyouden.htm

 

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2014年10月10日

 
10月10日は、体育の日(東京オリンピックの開会式の日)だけでなく、「目の愛護デー」ということを知っておられる方は多いと思いますが、新潟と深く関係していることをご存知ですか?
以下に、幾つか根拠を挙げてみました。


1) 『明治天皇聖徳記念碑』 新潟市
http://andonoburo.net/off/1790

 明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、新潟大学医歯学総合病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。

 そこに記載されている内容は、、、明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。。

 当時、新潟県にはトラコーマの蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが当時27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にあったのである。


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2) 京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html

 10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。

 それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。

 これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422


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3) 新潟大学眼科HPより
 新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?
 http://www.med.niigata-u.ac.jp/oph/about_us1.html

 官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。

 明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。

 明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。

 因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在は10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。

 明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。

 ところでこのエピソードの要所要所に登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。

 幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。


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4) 竹山病院(新潟市)HP
http://www.takeyama-hsp.com/about_outline.html

竹山 屯(たむろ)
 慶応元年長崎に留学して医学を学び、新潟県医官となり、新潟医学校長(現新潟大学医学部)の職に就いて医育に尽瘁し、特に明治11年明治天皇の北陸巡幸に際して越後に入ってから沿道の住民に目の悪い者が非常に多い事に気付かれ病院長にご下問があり、その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上したことにより、ご下賜金を賜り眼疾の治療及び予防に尽くすようご沙汰があり、これを記念した石碑が現在も新潟医学所跡地に建立されております。竹山病院開設者。


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5) 千葉県眼科医会  「目の愛護デー」の由来について
 http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm
 (残念ながら、このURLは現在、無効)
 失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。

 ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。

 戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。


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6) 報告:【目の愛護デー記念講演会 2012】 岩田和雄名誉教授
 (第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題 「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」 
  講師 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:平成24年10月10日(水)16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
http://andonoburo.net/on/2595

【講演要旨】
 誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。

 当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。
(途中略)

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2014年10月4日

 著者の細井順氏から、発売前の著書が贈られてきた。細井氏は外科医を経て、現在はホスピス医として活躍している。ホスピス医として患者さんから受け取った「メッセージ」を、本人のがん体験と共に語っているお勧めの一冊だ。

 

実は、細井氏とは、お互いに幼稚園の頃からの親友だ。
細井氏との思い出
「竹馬の友」(「日本の眼科」2005年12月号 編集便りから)
 彼は私の一歳年上、2歳上の兄と私の間の学年である。当時盛岡に住んでいた私達兄弟と彼は、毎日お互いの家を行き来して遊んだ。私が幼稚園から小学1年生時代の3年間である。3人兄弟のような関係であった。
 学生時代に3人で一緒に旅行した。彼の結婚披露宴に兄弟で招かれた。私の結婚式に参列してもらった。時を経て彼は外科医になり、新潟で学会があった時、一緒に飲んだ。大学の講師になりそれなりに活躍しているようであった。名古屋で眼科の学会があった時、一緒に飲んだ。その時には彼はホスピスで仕事をしていた。もとから彼はクリスチャンで、彼らしい選択と思った。その後彼は滋賀に移り、京都の学会の折に時々会った。
 彼に会うといつも不思議な感覚を味わう。タイムスリップして一気に盛岡時代(幼稚園から小学校1年)に戻ってしまう。互いに50歳を過ぎ、バーのカウンターで互いに「順ちゃん」「伸ちゃん」と呼ぶ。それ以外の呼び方をお互いに知らない。中年男性がそんな呼び合いをしながら、仲良さそうに会話をしているのだから、さぞや周囲の人からは変に思われたかも知れない。
 そんな彼を新潟に呼んで講演会を開いた。「ホスピスに生きるひとたち」という演題で、約一時間の講演だった。最初は彼に講演など大丈夫かなと心配であったが、5分も経たないうちにそれは杞憂であることが判った。「ホスピスは、患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」「病気で死ぬのではない、人間だから死ぬ」「死ぬことは、生きている時の最後の大仕事」『患者の死』は外科医にとっては『苦い経験』だが、ホスピス医にとっては、『生きる力』」、、、、、。
 彼の講演は、間違いなく満員の聴衆を魅了した。嬉しかったが、正直チョッと不思議だった。なぜなら私にとって「順ちゃん」は、立派なホスピス医ではなく、今でも「やんちゃな遊び友達」であるからだ。
http://andonoburo.net/off/2209

 

細井氏をこれまでに何度か新潟にお呼びし、講演会を開催している。
@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2005『細井順 講演会』 
 演題:「ホスピスで生きる人たち」 
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2548 

@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2008『細井順 講演会』
(第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
 講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
   期日:平成20年2月23日(土) 午後4時~5時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2573

 

●『希望という名のホスピスで見つけたこと』~がんになったホスピス医の生き方論
 出版社・メーカー・レーベル:いのちのことば社・フォレストブックス
 発売日:2014/10/30
 著者:細井 順
 価格 1,296円 (税抜1,200円)
ホスピス医として死にゆく患者の傍らに立ち続けた日々は、一人の医師の心に豊かな「いのち」観を育んだ。自らのがん体験によってさらに深まった独自の死生観を語る。良く生き、良く死ぬとは何か、また超高齢社会でどう看取り、死を迎えたらいいのかも考える。 
http://www.gospelshop.jp/catalog/product_info.php/products_id/92886?osCsid=pkoi34k7gekhsitli1p6sggpv6

 

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2014年7月6日

『大橋屋』は湊町の香りを残す新潟島に位置します。古くから新潟の台所として、多くの人々に親しまれてきた料理店。その歴史は慶応3(1867)年に、鮮魚仲買業として創業し、大正9(1920)年に四代目慎太郎により料理業が開始されました。本館は、国の登録有形文化財(第15-0156号)に指定されています。本町茶寮は、平成14年に完成し、バリアフリーな建物になっております。
「大橋屋本町茶寮」は、庭園を望む座敷や大広間など数奇作りの和室に、モダンな洋室と趣きの異なる七つの部屋を用意。贅と粋を大切にした空間で、越後の素材を日本料理を味わう。創業当時から伝わる、その味は絶品。

 

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2014年5月18日

 アルビレックス新潟のホームグランドである「デンカビッグスワンスタジアム」の所在地は、新潟市中央区清五郎。「清五郎」という地名の由来を調べた。
 デンカビッグスワンスタジアム

 http://www.denka-bigswan.com/

 新潟は「新しい潟」と書かれた字のごとく、
沼地だった。そこに腰まで水につかりながら田を作り、開墾して出来たのが「新潟」である。その開拓者の一人が清五郎。今の新潟市中央区清五郎地区を開墾して志半ばで病に倒れ、亡くなった。その清五郎にちなんで、彼が耕していた場所を「清五郎」と呼ぶようになった。鳥屋野潟の堤防に植えられた一本松の隣に、地元の「一本松保存会」が建立した石碑が「清五郎の碑」である。その碑に新潟開墾の歴史と共に、清五郎の地名の由来が記されている。 

『清五郎地区の伝承』
 この集落は、寛永十七年(一六四〇)に、八人の農民により拓かれた。新発田に移封された領主 溝口氏の新田開発に夢を託し、加賀の国大聖寺三谷村細坪を後にした八人は、村の鎮守春日大明神を奉じて舟に乗り、この地に到り開墾を始めた。しばらくして仲間のひとり清五郎が病に倒れた。薬を富山まで求め親身に看病したが、ついに帰らぬ人となる。皆は夢半ばにして世を去った友を偲び、彼が愛したこの地を『清五郎』と呼ぶことにした。
 開墾の苦労は想像を超えていた。鳥屋野潟の水も幾度となく押し寄せる。それでも先人達は助け合い、人力で堤防を築き『清五郎』を守り抜いた。石碑の建つ場所は、その堤防の名残である。石碑の隣の松は、清五郎川 川口の目印に植えられ『一本松』と呼ばれた。芦が囲う潟を霧が覆えば、船は方向を失う。かすかに見えるこの松を頼りに、救われた人は多い。舟人が家路を急ぐ頃、佐渡の端に沈む夕日は水面に映えて、満目の水郷は武陵桃源の趣を見せていた。この情景は明治の漢詩に、鳥屋野潟八景の一つ『清里の夕照』と謳われた。
 我々は、この地を見守り続けた堤防と『一本松』を保存し、先人の努力を称えると共に、助け合いの精神が、いつまでも受け継がれることを願い、歴史の一端を石碑に記した。

 平成十九年五月
 清五郎地区 一本松保存会
 財団法人 亀田郷地域センター
http://www.kchiikicenter.jp/intro/segoro.html

 

「地図にない湖」亀田郷 佐野藤三郎 
http://niigata.iryo-coop.com/sano-story.html
 亀田郷とは市町村制上の行政単位ではなく、亀田郷土地改良区の呼称で、信濃川、阿賀野川の河川に囲まれた、東西約12キロ、南北約11キ ロの輪中地帯。新潟市の中心部、面積11、000ヘクタールの米どころ新潟でも有数の穀倉地帯。その3分の2が海抜ゼロメートル地帯で周囲の川より2メートル低く、近くにある鳥屋野潟(とやのがた)を中心部としたすり鉢状の地形で放っておけば川から水が流れ込んでくる地帯です。戦後まもなくまで、亀田郷の大半が常に湛水状態にあり、これを評して「地図にない湖」といわれてきた。

 田植えや稲刈りの際には、胸や腰まである泥水につかりながら何時間もかかる農作業は過酷を極めました。さらに大河川の氾濫による洪水常襲地帯では、三年に一度は収穫皆無の水田もあったといわれる。稲刈り前日に大雨が降り、穂先まで水につかり収穫量が激減するなど苦労の連続でした。襲いかかる両大河の水を鎮め、深田を乾田化するのは亀田郷農民の夢であり、悲願であった。

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