報告:『新潟ロービジョン研究会2011』〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 1
2011年2月9日

新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 
 特別講演 重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる
   佐藤 正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
       医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)  

 高次脳機能障害は、交通事故や転倒などによる外傷性脳損傷や脳血管障害・脳腫瘍・脳炎・低酸素性脳症などの疾患により発症します。脳の一部が損傷を受けることで、記憶、意思、感情などの高度な脳の機能に障害が現れる場合があります。このような障害を高次脳機能障害といい、外見上障害があることがわかりにくく、一見健常者との見分けがつかない場合もあり、そのため周囲の理解を得られにくいといった問題もあります。障害の程度によっては本人ですら気づかないということもあり、そこにこの障害の難しさがあります。2011年2月5日(土)午後、真冬の新潟に全国11都府県から120名が集い、外の寒さを吹き飛ばすような熱気に包まれ、盛況のうちに終了することが出来ました。この度、講師の先生に講演要旨をしたためて頂きましたので、ここに報告致します。 

新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 1
 日時:2011年2月5日(土)  15時~18時
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

特別講演   座長:永井 博子(神経内科医;押木内科神経内科医院)
 「重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる」
   佐藤 正純 (もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
       医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)  

【講演要旨】
 障害を負うまでの私は概ね順調な人生を送ってはいましたが、それでも秀才揃いの受験校に入学して自身の限界を見せ付けられた挫折、国立大学医学部に入学するまでの1年間の浪人生活、その在学中の父の早世など、若いうちに抗えない運命に立ち向かうための心の鍛錬をする機会があったのは幸せだったのかもしれません。

 横浜市大救命救急センターに医局長として勤務して、多くの患者さんの生死に立ち会ったことから、医療の限界と医のあずかり知らぬところで神に支配されている人の生死を実感したことは、私の死生感にも大きな影響を与えました。

  脳挫傷による1か月の昏睡から覚醒した時、友人はおろか家族の顔も確認できないほど視覚は失われ太陽が東から昇ることも1年が365日であることも忘れているほど記憶は失われていたのに、ピアノの前では指が自然に動いてジャズのスタンダードナンバーが弾けたことは残存能力の証明となり、心の支えにもなりました。 

 視覚と高次脳機能の重複障害への適切な対応がされないまま社会復帰は不可能と判断されてリハビリセンターを退院しましたが、「これ以上、何をお望みですか?」と言われて、それを挑戦状と感じて自らのリハビリプログラムを立て始めたことが自立に繋がったようです。 

 私にとってのリハビリテーション、すなわち全人間的復権の根本は、働き盛りの37歳で障害を負った自分がこのままで社会復帰もできずに人生を終えたくはないという人生の哲学、そして、自身のそれまでの技術と人脈を生かすとすれば、医学知識と臨床経験を生かした教育職で社会復帰を目指すべきではないかという目的。最後にその目的を達成する手段として音声読み上げソフトと通勤のための独立歩行の技術が必要と気づいてその訓練の場所を探したことが社会復帰に繋がりました。特にパソコンに記憶された情報を読み直す反復訓練は脳の可塑性をもたらして記憶障害の克服に役立ちました。 

 受傷6年後に教壇に上がって最初の講義を終えた時、生きていて本当によかったと思えた自分は、そこでリハビリテーション(人間的復権)の一段階を達成して初めて障害受容もできたのだと思っています。 

 私が今まで精神的な支えとしてきたことは、諦めるのではなく明らめる(障害を負った今の自分の可能性を明らかにする)こと。リハビリの内容を音楽や鉄道マニアといった自分の趣味などの楽しみに結びつけ、小さな結果の達成を喜んでリハビリを楽しむように心がけたこと。過去の自分を捨てて新しい自分を構築するのではなく、過去の経験と現在の可能性を重ね着して豊かな人生(重ね着人生)を築けば良いと思ったこと。瀕死の重傷から神様の導きで生かされた自らを『Challenged』(挑戦するよう神から運命づけられた人)と信じて、自分に与えられた仕事は神様から選ばれて与えられた試練と考えて決して諦めないと誓ったこと、などです。 

 これからも医師は一生勉強、障害者は一生リハビリと唱えて、常に楽しみと結びつけ、達成感も確認して心のリハビリを楽しみながら、より高い復権を目指した人生を進んで行きたいと思っています。
 

【佐藤正純先生の紹介】
 1996年2月、横浜市立大病院の脳神経外科医だった佐藤正純先生(当時;37歳)は、医者仲間と北海道へスキー旅行に行った。スノーボードで滑っていて転倒、頭部を強打し意識不明、ヘリで救急病院に運ばれた。頭部外傷事故で大手術の末、1ヶ月後に奇跡的に意識を取り戻した。しかし、待っていたのは、皮質盲(視覚障害)、記憶障害(高次脳機能障害)、歩行困難(マヒ)という三重苦であった。 

 趣味の音楽を手始めに懸命なリハビリを続け、6年後の2002年、三重苦を乗り越え医師免許を活かして、医療専門学校の非常勤講師として再出発した。今でもリハビリを重ねながら講師以外に、重度障害を負った障害者のリハビリ体験について語る講演活動を行い、さらには横浜伊勢佐木町のジャズハウス「first」で健常者に交じってジャムセッションのピアニストとして参加している。 

 「障害を負ったからといって人生観を変える必要はありません。昔の自分に新しい自分を重ね着すればいい。1粒で2度美味しい人生を送れて幸せです。」と佐藤先生は語る。
 参考:http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d19.html

【略歴】 佐藤正純 (さとう まさずみ)
 1958年6月 神奈川県横浜市生まれ
 1984年3月 群馬大学医学部医学科卒業、
      4月 横浜市立大学付属病院研修医
 1986年6月 横浜市立大学医学部脳神経外科学教室に入局
       神奈川県立こども医療センター、横浜南共済病院、神奈川県立足柄上病院の脳神経外科勤務を経て
 1992年6月 横浜市立大学救命救急センターに医局長として2年間勤務
 1996年2月 横浜市立大学医学部付属病院脳神経外科在職中にスポーツ事故で重度障害
 1999年12月 横浜市立大学医学部退職
 2002年4月 湘南医療福祉専門学校東洋療法科・介護福祉科非常勤講師として社会復帰
 2007年4月 介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館医療相談員として復職
       湘南医療福祉専門学校救急救命科 専任講師
       筑波大学附属視覚特別支援学校 高等部専攻科理学療法科 非常勤講師
       神奈川県立保健福祉大学 保健福祉学部 リハビリテーション学科 
       ゲスト講師などを兼任して現在に至る。 

 ・視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)副代表
   http://www.yuimaal.org/
  杉並区障害者福祉会館障害者バンド「ハローミュージック」バンドマスター
 

【公開講座 & 交流会に参加して】
 佐藤正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
      医療相談員:介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」)

 受傷から8年後、社会復帰から2年後の2004年に札幌にお招きいただいて最初の個人講演会をさせていただいてから年平均5件のペースで40件近くの講演を経験してきましたが、今回のようにリハビリテーションの専門家である先生方と並んでの本格的なシンポジウム形式は初めてだったので、開演前は柄にもなく緊張していました。 

 それでも、いつもの私のペースで冗談と雑談を交えながら訥々と話すうちに時間が足りなくなって予定していた内容のうち、どうにか60%の結果ではありましたが、最初に哲学ありきとする私のリハビリテーション理論、趣味などに結びつけ、達成感を感じることで楽しみながら進める心のリハビリ、神に生かされ、障害も神から与えられたものと悟る死生観と障害受容などはお伝えできたのではないかと思っております。 

 神奈川リハビリテーション病院入院中には担当医としてお世話になった仲泊聡先生を前にして、視覚と高次脳機能が合併した障害に対する神奈川リハビリの対応を批判しながら話すのはとてもやりにくかったのですが、一人の患者として率直にぶつけた思いを、仲泊先生がよく理解して受け入れてくださったのは有難かったです。 

 訓練開始前に白杖持参を受け入れていた私を評価して、自身の障害に合わせたリハビリテーションプログラムに沿って私の歩行訓練を担当してくださった東京都盲人福祉協会の山本先生もそうですが、野崎正和先生はリハビリテーションの中でも特に訓練生と生の会話をする時間が取れる立場を利用して、患者さんを丸ごと受け入れている温かさを感じました。 

 また、私がかつて所属していた高次脳機能障害者の団体「日本脳外傷友の会」でも何度か紹介されて名前だけは知っていた秘密の組織「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」について立神粧子先生から非常に貴重な情報をいただきました。そして、単なる私個人の理論ながら、私が心の拠り所として、相談を受けた方にも伝えていた「1粒で2度美味しい重ね着人生」は神経心理ピラミッド理論の自己同一性とも一致する点があることは自信に繋がりました。 

 喫茶「マキ」での懇親会では、眼科医でありプロミュージシャンでもある佐藤弥生先生の登場に圧倒されて逃げ出したくなりましたが、私の要望に応じて集まってくださった地元のジャズバンド、小林英夫バンドとのセッションで、思いがけずジャズのメッカである新潟でのひとときの演奏を楽しむことができました。
 

【印象記】

仲泊 聡(国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長 眼科医)
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 1995年7月1日、私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。医学部を卒業して7年目の夏でした。そのときの私は、障害者という概念について考えたこともない不届きな眼科医でした。大学の授業には障害の概念や社会の福祉システムについての項目はあったはずです。しかし、全く印象に残っていません。弟が脳膿瘍で片麻痺になり6歳で亡くなったことは自分の人生観に大きく影響していると思っていました。物心付いた頃には叔父の一人が失明し白杖を持っていました。従兄弟の一人が頸随損傷で四肢麻痺になっていました。それにもかかわらず、障害者は自分とはあまり縁がないような印象をもっていました。今となってはそれが不思議なくらいですが。

 佐藤正純さんが同院に入院されていたのは、1997年1月からの約1年と伺いました。私も眼科の外来でお目にかかっているはずです。重度の高次脳機能障害の患者さんでピアノがとびきり上手な人がいるといううわさは、私の耳にも入ってきていました。当時、私は「その」世界に飛び込んでまだ二年生です。佐藤さんの症状を紐解くことはまだ難問中の難問だったと記憶しています。

 1998年に私は放射線科の医師と一緒にファンクショナルMRIの仕事を始めました。通常のMRIではわからない大脳の機能低下を画像化するためです。2002年、国のモデル事業で高次脳機能障害の仕事が始まり、同院もその一員となり、リハ医師が中心となってガイドライン作成に向け高次脳機能障害の方のリハプログラムが試行錯誤で検討されました。私も研究要員としてファンクショナルMRIの仕事で参加させてもらっていました。そして、何と立神粧子先生の旦那様が同院に入院されていたのは、そのモデル事業が始まった頃だったのです。だから、私は眼科の診察をしていたに違いありません。佐藤さんに出会った頃よりはもう少し高次脳機能障害に対する知識も増えていたかもしれませんが、結局、あまりお役に立ててはいなかったようです。

 お二人のその後の壮絶な戦いを知り、そして、今を知ることで、自分の無知無力を反省するとともに、「決して諦めない」ことへの勇気が湧きました。10余年の月日を経て、かつて神奈川県の七沢の森の中で、このお二人と袖触れ合ったご縁を噛み締めつつ今回のお話を伺うことができました。そして、改めてリハへの「動機付け」の重要性を感じました。今後の診療活動の糧とさせていただきます。ありがとうございました。


永井博子 (神経内科医:押木内科神経内科医院)
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 特別講演 佐藤正純先生
 私は神経内科医として日頃神経難病の方と御家族にどうやって病気を受容していただくかで悩んでおりますので、佐藤先生が自分の専門分野の病気になって、どうやって病気を受容していらしたのかに、とても関心がありました。このことに関してはあまり触れてはいらっしゃいませんでしたが、リハビリに目標を設定することにより、達成感を持ちながらリハビリを続けられること、楽しくリハビリをやること、など常にポジティブに考えて行動していらっしゃることに感銘しました。 

 全体を通して
 最近、ようやく高次脳機能障害に少しずつ、関心が向けられるようになってはきましたが、まだまだ理解されていないというのが現状です。仲泊先生のお話にあったように、国も関心をもってくれるようになりましたが、対象となる高次脳機能障害を限定してしまっている状況です。そのような時期に、高次脳機能障害と視覚障害の重複障害の方のお話をうかがえて、かなり理解を深めることが出来たと思います。

 最後に小林さんの、リハビリは必要なんでしょうか、というなげかけ、そして、佐藤先生の、90分の講義が出来た時初めて病気を受容出来ました、というお言葉は、我々医療従事者は常に心に留めておかなければならないと思いました。 

 

野崎正和 (京都ライトハウス鳥居寮;歩行訓練士)
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 懇親会の音楽会はとても楽しいものでした。残念なことは、私が演歌人間で、ジャズなどを聞いてもよくわからないという点です。それで何が楽しいのかといえば、演奏している皆さんが、長くされているすごく上手な方から、それほど長くない方までとても楽しそうに演奏しておられたことです。楽器を演奏できるのはいいなーと思いました。 

 さて、以前から佐藤正純先生のお話をお聞きしたかったのですが、安藤先生のお力でかないました。しかし、私はパネラーになっていなければ、2月の新潟まで聞きに来れたかどうか分かりません。 そういう意味では、たくさんの参加者の皆さんに恥ずかしい限りです。先日、佐藤先生のお話をCDにして当事者のB氏にプレゼントしました。最近B氏も地域の学校や老人会などでお話をする機会が少しずつ増えていますから、佐藤先生のこなれたお話がとても良い教材になると思います。

 

立神粧子(フェリス女学院大学教授)
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 佐藤先生は、おひとりで自分と向き合う力をお持ちの方で、自らの能力を最大限に生かしていらっしゃるところが素晴らしいと思いました。Ruskの「自己同一性」の哲学と共通する哲学をもって、今もこれからも、重複障害を持って生きるということに真摯に取り組まれていかれるであろうと思います。 

 

新潟市 精神科医
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 初めて参加しましたが、このような会が長年継続されていることが素晴らしい。医師・専門職・当事者・一般の色々な立場の方が一緒に集まり勉強できる会で、しかも全国各地から集まっておられる事に驚きました。今回は精神病とは違う脳神経的障害である脳機能障害に関心を持って参加しました。 

 佐藤先生は心身ともに強靱な方で両方の力が相俟って回復されたかと感じました。同業者としては特に意識が戻らないときに回復したきっかけが、ポケベルで「先生急患です」と呼ばれたことに反応したというお話は大変印象的でした。リハの途中で「これ以上は無理」と打ち切られたときに、逆に奮起してアクティブになり試行錯誤して自立的にリハを行ったこと、一日一日の変化は分からなくても一週間、一ヶ月前の自分と比べて「自分を誉める」こと、自分を高めて行く努力、そして遂に一人歩きできるようになる、その過程に感動しました。

 耳からの情報は生の能力を喚起するような力があるのではないでしょうか。小さいときからの音楽的情緒的な豊かさが生きるのに役立った様に思います。 本日は哲学的な感慨も受け、「死は諦めで、生は明めである」という言葉など貴重な示唆を頂きました。病気ではなく事故で起こった高次脳機能の障害について学ぶ良い機会を与えて頂きありがとうございました。

 

新潟市 リハビリ医
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 今回は、公開講座にお招きいただきありがとうございました。リハビリテーション医療に携わるものとして感じたことを簡単にまとめてみました。 

佐藤正純先生の講演
 高次脳機能障害と視覚障害という難しい障害の重複にも関わらず、目標をたてて、実行していくその力に感動しました。自らリハビリテーションプログラムを作ったことなど驚かせられることばかりでした。原動力は「明るさ」でしょうか。一方、リハビリテーション医療に対する鋭い批判にはリハビリテーション関係者としていろいろ考えされられました。リハビリテーション医療は、医療者がゴールを設定し、ゴールに到達したと判断した場合は終了とするのが普通です。しかし、医療者が判断するゴールは必ずしも正確ではないこと、利用者の希望や要望を聴いているのか疑問であることが佐藤先生の例からわかります。障害が変化していく可能性を念頭に、フォローして、状態に応じた適切な対応をしていくことの必要性を感じました。 

質疑で出された意見について
 リハビリテーションは必要ないのではというのは極端だと思いますが、リハビリテーション医療が高次脳機能障害に対応できていないのは事実だと思います。障害の評価も難しい上、検査の結果から活動(生活、仕事、自動車運転など)の制限を説明しにくいこと、さらに、職業リハビリテーションと医療が連携していないことなど問題点が多いのが現状です。今後の課題と受け止めます。
 最後に、医療者、障害者が一同に会して勉強するという貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

 

新潟市 病院ソーシャルワーカー
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 この度はシンポジウムに参加させていただきてありがとうございました。とても実りのある会だったと思います。佐藤 正純先生の聡明さと素晴らしさにとても感動しました。障害の事を誰よりもご理解なさっている先生にとって、障害を受け入れる事がどんなに難しかったことかと思いますが、今の人生を楽しんでいらっしゃる姿が眩しかったです。