2018年5月13日

報告:第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会   5)岩崎 深雪
 「ささえ、ささえられて」
 日時:平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 2月の勉強会は、5名の方に講演して頂きました;小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)、大石華法(日本ケアメイク協会)、橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)、上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)、岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)。順に講演要約をお送りしています。今回は、岩崎深雪さんです。 

 演 題:「私のささやかなボランティア …」
 講 師:岩崎 深雪(新潟市;盲導犬ユーザー)
【講演要約】    
 私は、生まれつきの弱視で完全に視力を失ったのが2000年ころでした。2003年11月から盲導犬と生活するようになり、 盲導犬と歩くようになってからは、イベントや講演会・学校の事業など、さまざまな社会参加をするようになり、生活は一転しました。たくさんの人たちに出会い、いろいろな体験や経験をしていくうちに、「あたりまえ」から「感謝」へと、私の気持ちも少しづつ変化していきました。 

 たくさんの講演を聞いているうちに、「今まではみなさんにお世話になるばかりだったけど、私にも何か一つくらいできるボランティアがあるのではないかしら?」と考えるようになり、目が見えなくても人の話を聞くことならできるのではないかと思い、傾聴ボランティアの講習を4回受けて修了証書をいただきましたが、条件に合わなかったので実りませんでした。 

 次に受けたのが、元気力アップサポーターの講習でした。これは新潟市が介護支援事業の一環として行っているもので、これをすることによりご自身がより元気になっていただくことを目的としていて、市内に住所を有する65歳以上の方が市内の老人施設や事業所など(登録しているところ)に自分のできることをお手伝いに行くというものです。講習終了後登録者に手帳と登録事業所の一覧が来ます。そこには、各事業所が何をやってほしいかとか連絡先などが記してあります。その中から自分にできるサボートの事業所を見つけてアプローチして決めていきます。 

 私は盲導犬ユーザーの友達に誘っていただき、ある老人介護施設に頼まれたときに二人と2頭の盲導犬で伺っています。そこで施設に来ている人たちに盲導犬と触れあってもらっています。ホールにはたくさんの人たちが集まってきて、中には「また来たか」と犬の名前を呼んでくれたり、普段はにこりともしない人が盲導犬がそばに行くとにこにこしながら撫でているのだそうです。そんな様子を見て職員さんたちもびっくりしています。帰るときにはみんなで「また来てね」と言ってくれます。 

 この制度が続く限り、また私が元気でいる間は、自信の健康保持のためにも必要とする施設で話し相手やタオルたたみ、カラオケ披露、犬との触れ合い…など自分にできることを続けていきたいと思っています。 

【自己紹介】 
 昭和37年3月~新潟県立新潟盲学校高等部別科卒業。長野県の温泉地に就職。
 昭和42年3月~結婚し、佐渡へ。
 昭和47年9月~新潟市西蒲区岩室温泉に移住~ 平成24年新潟市東区に転居。
 平成15年11月~財団法人アイメイト協会より盲導犬1頭目を貸与。
 平成23年1月~盲導犬引退。引き続き2月に2頭目の貸与
 平成27年2月~日本ケアメイク協会、大石華法先生の講演を聞く。
      5月より大石先生の講座を受けはじめ、12月にフルメイクを終了
 現在に至る 

【参加者の感想】
・盲導犬に出会ってから生活が大きく変わり、岩崎様は人に頼るばかりの生活から他人のためになるボランテア活動が出来る様になった。お話は視覚障害が判明してからはもがき苦しんでいるばかりの私にとってとても感銘深いものでした。視覚障害が判明してからはもがき苦しんでいるばかりの私にとってとても感銘深いものでした。上林さんの生き方を私の今後の心の糧とし生きて行きたいと思いました。
 (新潟県三条市 女性)
・傾聴ボランティアや元気力アップサポーターとして、人の為に何かできることをしたいと前向きに生きておられる姿勢に、私も小さなことからはじめてみたいと勇気をいただきました。
 (神奈川県 眼科医)
・健常者であるにもかかわらず、時に愚痴を言ってしまっている自分が恥ずかしくなりました。諦めない、チャレンジする、人生を楽しむ人生の先輩から多くのメッセージが受け取れました。
 (兵庫県 ボランティア) 

【これまでの岩崎深雪さんの講演歴】
報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
    演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』  
    講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
     日時:平成18年9月13(水)16:30 ~ 18:00 
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
   http://andonoburo.net/on/6485 

報告:第240回(16-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会 若槻/岩崎
  演題:「ブラインドメイク 実践と体験」
  講師:岩崎 深雪(新潟市;盲導犬ユーザー)
     若槻 裕子(新潟市:化粧訓練士)
   日時:平成28年02月17日(水)16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来
  http://andonoburo.net/on/4538 

【後 記】
 岩崎さんにお話して頂いたのは、今回で3回目です。最初は2006年9月でした。幼いころからの人生、幾多の困難を淡々と語り、とても印象に残るお話でした。次は2016年2月ブラインドメイクのお話、メイクすることで生まれ変わったご自身を楽しそうにお話してくれました。
 今回は、今まではお世話になることばかりだったが、何かお役に立ちたいとボランティアをやっているとのこと。飾ることなく静かに語る声に姿に、とても魅力を感じます。
 ますますこれからもお元気に活躍されることを祈念しております。
 

第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
講師と演題
1.小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
  http://andonoburo.net/on/6438 
2.大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
  http://andonoburo.net/on/6455 
3.橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
    http://andonoburo.net/on/6464
4.上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
  http://andonoburo.net/on/6478
5.岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から毎月欠かさず265回続け、2018年(平成30年)3月で終了しました。
 この勉強会は誰でも参加出来ました。話題は眼科のことに限らず、何でもありでした。参加者は毎回約20から30名くらい。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しました。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会でした。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換がありました。
  日時:毎月第2水曜日午後 
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来  

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ 
  http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/ 
 2)安藤 伸朗 ホームページ
   http://andonoburo.net/ 

 

2018年4月28日

報告:第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会   4)上林 洋子
 「ささえ、ささえられて」
 日時:平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 2月の勉強会は、5名の方に講演して頂きました;小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)、大石華法(日本ケアメイク協会)、橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)、上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)、岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)。順に講演要約をお送りしています。今回は、上林洋子氏です。 

 演 題:「生きていてよかった!!」
 講 師:上林 洋子(新潟市;盲導犬ユーザー)
【講演要約】
 小・中学校時代の私は体育系は苦手で、思っていることがあっても自分から言い出せないという「消極的」な性格でした。中学卒業後「看護婦」になる夢を抱いて川崎市内の病院付属養成所に入学したのですが、緑内障の発病により新潟大学眼科で手術を受けました。担当医師から再発により失明の可能性が高いと言われ、親に説得され翌春に新潟盲学校高等部に入学しました。盲学校では、視野欠損があるものの文字の読み書きができるので何かと重宝がられ生徒会の役員を手伝わされました。ここで自分から思っていることを進んで発言できるようになった気がします。 

 出産、子育てのさ中に緑内障が再発し、手術を繰り返しながら39歳で両眼球摘出、全盲となりました。子育てや家事は工夫することによりできたのですが、一人で外を歩くことが怖くてできませんでした。そんな私を支えてくれたのは、喜怒哀楽を三十一文字の短歌に託すことでした。 

 子供たちが就職、大学にと家を離れた平成7年、先輩ユーザーの勧めにより盲導犬の訓練を受け、一緒に暮らすことになったのです。この盲導犬、意見を主張できない性格の私を見抜いてか、夫の発言がしっかりしていることを悟ったゆえか、歩行中でも、私より夫の指示に従うようになったのです。今思えば恥ずかしいのですが「消極的では世の中渡れない」と盲導犬から教えられたのでした。 

 それから我が家は早朝散歩のトレーニングで足・腰を鍛え平成9年、先輩ユーザーの提案により、盲導犬とともに富士山頂に立ちました。この時の達成感が忘れられず、視覚障害者とともに登る「山の会」に入会し、近在の里山をはじめ、立山、白馬、火打山、大峰山、五頭山、安達太良山…山頂を極めることができました。 

 また、25年ほど前に市の社会福祉協議会から小・中学校の福祉授業に関する協力依頼を受け、現在も続けています。

 消極的で人前で話すことが苦手だった私でしたが、失明により出会った人たちから生きるヒントをいただきました。また、歩行の一助となればと選んだ盲導犬歩行により、自分 の意思をはっきり相手に伝える生き方を身につけました。3代目の盲導犬も今年で定年退職(リタイヤ)です。4代目パートナーと暮らせるように、もうひと踏ん張り頑張りたいと思います。 

 ようやく私も人並みに「おばあちゃん」の境地に満足し、工夫を重ねることにより日々をエンジョイして「生きていてよかった!」と痛感しているこの頃です。そして、三十一文字に託してきた短歌の総まとめに取りかかっています。
 ・いつしらに色の記憶の薄れたり今朝は触れてみつチューリップの花
 ・ゆったりと浅き緑を踏む犬の歩みに合わせめぐる山裾
 ・風呂の栓抜きてしまい湯落とすとき渦巻きながら消えゆく一日
 ・盲導犬戸口に繋ぎ庭を掃く時折名を呼び吾の位置を知る
 ・人生のとどのつまりは皆ひとり一合に満たぬ明日の米研ぐ
 

【自己紹介】 上林 洋子(かんばやし ようこ)
 昭和36年 緑内障と診断される、視覚障害手帳(5級か6級?)
 昭和37年 新潟盲学校高等部入学
 昭和42年から短歌等の創作や編み物に挑戦
 昭和59年、両眼球摘出
 昭和60年ころ、漢点字、音声ワープロ等を取得
 平成5年から、社会福祉協議会の依頼を受け小、中学校などの福祉授業に協力
 平成7年、盲導犬ユーザーとなる
 平成9年、登山初体験(富士山) 

【参加者の感想】
・盲導犬に出会ってから生活が大きく変わり、やれば出来るを座右の銘とし編物・登山・短歌に力を注ぎ生きていて良かったとの心境となった。視覚障害が判明してからはもがき苦しんでいるばかりの私にとってとても感銘深いものでした。上林さんの生き方を私の今後の心の糧とし生きて行きたいと思いました。
 (新潟県三条市 女性)
・死にたいと思ったことが二度ありますとおっしゃる、そんな厳しい人生に真摯に向き合ってこられ、今は三代目の盲導犬とともに山登りなどアクティブな人生を送っていらっしゃるとのこと。前向きで明るい笑顔に感動しました。
 (神奈川県 眼科医)
・健常者であるにもかかわらず、時に愚痴を言ってしまっている自分が恥ずかしくなりました。諦めない、チャレンジする、人生を楽しむ人生の先輩から多くのメッセージが受け取れました。
 (兵庫県 ボランティア)
・力強く前向きな姿勢に胸打たれ、満足感を抱えて帰路につきました。
 (神奈川県 会社員) 

【後 記】
勉強会常連の上林さんにお話して頂きました。上林さんの優しい語り口調に吸い込まれ、心地良い感覚でお聞きしました。「生きていてよかった」ここに、上林さんの人生が集約されているのが、講演を拝聴してよく理解することが出来ました。幾多の苦難を乗り越えて、自らの精一杯の努力と、本気でぶつかり合いながらで築き上げた、多くの理解と愛情の中で、今を生き抜いている。。。。。今後は、上林さんの知識と経験、そして、エネルギーを多くの方々に伝え広めていただきたいと期待しています。益々の活躍を祈念しております。 

参考までに、これまで上林さんには勉強会で2回お話してもらいました。
第114回(05-09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
「限りなく透明な世界」  
 上林洋子(視覚障害者福祉協会会員、盲導犬ユーザーの会会員;新潟市)
 日時:平成17年9月14日16:30 ~ 18:00 
 http://andonoburo.net/on/6471

 第220回(14‐06月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「生きていてよかった!」
 講師:上林 洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)
  日時:平成26年6月11日(水)16:30 ~ 18:00 
 http://andonoburo.net/on/2848 

PS:先日、上林さんから、主人上林明様ご逝去の報が届きました。
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3月19日に夫上林明が旅立ってしまいました。覚悟をしていたとはいえ、心の整理がつかない日々です。
『酸素ボンベひたすら動く病室にあなたと分かつ限られし刻を』
『あなたもう苦しまなくともいいのです愛用のベレー棺に納む』
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謹んでご冥福をお祈りいたします。 

上林明様に、一度勉強会で講演して頂きました。とても心に残るお話でした。
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第239回(16-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会    上林明
 演題:「パラドックス的人生」
 講師:上林明(新潟市)
  日時:平成28年1月13日(水)16:30~18:00
 http://andonoburo.net/on/4401  
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第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
講師と演題
1.小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
  http://andonoburo.net/on/6438
2.大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
  http://andonoburo.net/on/6455
3.橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
    http://andonoburo.net/on/6464
4.上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
5.岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から毎月欠かさず265回続け、2018年(平成30年)3月で終了しました。
 この勉強会は誰でも参加出来ました。話題は眼科のことに限らず、何でもありでした。参加者は毎回約20から30名くらい。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しました。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会でした。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換がありました。
  日時:毎月第2水曜日午後 
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ 
  http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
   http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
   http://andonoburo.net/

 

2018年4月15日

報告:第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「ささえ、ささえられて」   3)橋本伸子
  日時:平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 2月の勉強会は、5名の方に講演して頂きました;小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)、大石華法(日本ケアメイク協会)、橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)、上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)、岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)。順に講演要約をお送りしています。今回は、橋本伸子氏です。 

演題:これからのロービジョンケア、看護師だからできること
講師:橋本伸子(しらお眼科;石川県 看護師)
【講演要約】
 私は眼科看護歴26年になるが、ロービジョンケアという言葉を知ったのはほんの6~7年前である。それまでは、眼科看護だと思っていた。今もケアと付くからには看護だと思っている。「見えなくなったらどうしよう…」この問いにどう答えたら良いのだろう。傾聴だけではそのひとの明日は変わらない。この思いが芯となり私を動かしてきた。では、何ができるだろう。 

 私達看護師は、身体に機能障害が残ってもリハビリをして地域で生活していける事をこれまでも経験している。あるいは身体の一部が失われるようなケースのケアについても経験している。いずれの場合も安全な環境調整から退院に向けての支援、また転倒予防、感染予防、再発予防などと予防的支援まで関わることができる。しかし、視覚障害に関しては、消極的だと言われる事が多くある。それは、これまでに視覚障害に対してのリハビリを臨床の中で目にする事がなかったためだと私は思っている。気持ちはあっても、視力検査や視野検査など保有視機能の評価だけでは動けない。私自身もそんな「足踏み期」は長かった。 

 それならば私達が学んではどうだろう。その先を歩く経験者に教われば良いのである。私はその答えにたどり着くまでに、失敗もしている。保有視機能だけをみて不便だと思い込み、活用できる社会制度や補助具の利用について来院するたびに積極的に紹介する事が役割だと思う「勘違いの思い込み期」もあった。これでは、結果、断られ敬遠される事になる。その後も、学会や研修でロービジョンケアを知るほど、少人数のクリニックで、ORT(視能訓練士)もいない環境ではロービジョンケアは難しいのではないかと感じる「ロービジョンケア委縮期」もあった。 

 しかし、今は患者さんから学べば良いと考えている。保有視機能をヒントにその方の生活環境、自宅での自立度、人生の経験値、見えにくい歴、病期(初期~末期)、進行性か固定か、そして発達段階の役割を考えた時に浮かぶ疑問があるはずである。いったいこの視力でどうやっているのだろうと思う事を尋ねるのである。それは、通院方法、病院の会計時のお金の区別、処方された薬の区別、自己血糖など目の前の事から、普段の生活の中にまで及ぶ。買い物、料理、体温計、学校や地域での役員、冠婚葬祭の付き合いなど。季節や気候に合わせて、さりげなく聞いていく。 

 これが、私が外来で実践している「できている事に目を向けるケア」であり患者さんから学ぶケアである。実践を続ける間に気が付いたことであるが、本当に多くのノウハウが隠れており、話す表情も明るいのである。できない事や不便だけを聞き出そうとした時の苦労とは真逆である。できている事に目を向けた時に、社会制度や補助具についての捉え方も変わってくる。自己肯定感にも繋がってくると感じている。補助具も見えなくなったから使うではなく、自分の事は自分でしたいから使うである。そして「お困りの事はないですか?」では得られなかった具体的なニーズが出てくるのである。 

 さらに、患者さんから学ぶケアを繰り返してきて見えてきたものは、地域での生活、家族との関係、協力者の有無、現状の捉え方などである。そして、必ず把握する必要があると感じていることが2つある。1つ目は、家族以外に繋がりがあるか、社会や地域との関わりの有無である。協力者が1人の場合、あるいは年齢背景によっては早めに介入しなければと危機感を覚える。通院できなくなってからでは遅いのである。2つ目は、転倒や怪我などの最近のヒヤッとした出来事や失敗談についての情報である。それによって予防的支援についても考えなくてはならない。その他にも日常生活用具給付、同行支援、福祉相談会、機器展など地域で利用できる社会資源の情報が届いているかである。知っていて利用しないのか、知らないから利用できないのかを確認することである。 

 そして、医院のトイレを使ったことがあるかもさりげなく確認している。当然のニーズである、待ち時間が長い時は特に排泄への配慮を忘れてはならない。病院に来る時は朝から飲まないようにしているとういう声も少なくないのである。外来には入院時のようなオリエンテーションがない。そのため、もし、使ったことがない場合は、説明する必要がある。 

 最後に、できている事に目を向けるケア、患者さんから学ぶケアはかなり面白い。目からウロコの連続である。しかし、同時に生活するということは、制度や補助具では解決できない問題が多い事を思い知る。私達はこのノウハウを学びながら、それをカスタマイズし還元していく力をつけなければならない。また、信頼関係を築くことで、通院の中断を予防し、適切な時期に社会資源と繋いでいくことも大きな役割だと感じている。さらに、これから各々の看護の臨床で細分化されたロービジョンケアが誕生してくることを期待している。 

 

【自己紹介】 橋本 伸子(しらお眼科;石川県 看護師)
 看護師 臨床デビューは、整形外科。その後、眼科に移動になり、毎日、整形外科に戻りたいと懇願しつつ、段々面白みにハマっていく。その後も移動で泌尿器科にも行き、退職後開業医の眼科へ。気が付けば、眼科看護歴26年となる。

  

【参加者の感想】
・視覚障害発症後のリハビリを目にしたことがなかったところからはじまったとはいえ、経験や知識に頼らず、無知を力に「私を育ててください」と患者様から教わる姿勢は橋本さんのお人柄と相まって素晴らしいアプローチだと思いました。経験者からノウハウを引き出し、新たな患者様に向けてカスタマイズしていく。「見えなくなったらどうしよう」に対しては、一番大きな不安要素を聞き出し、一緒に向き合うこと。など、大変勉強になりました。「見えなくなってからの人生の続きを描ける看護師」でありたいと語られたのが印象的でした。益々のご活躍を心からお祈り致します。
 (神奈川県、眼科医)

・眼科外来看護師としてなにができるか?見えなくなる患者に対して相手を受身にするのではなく、一緒に考えできることはなにか聞くことは素晴らしいと思いました。10人いたら10通りのやり方があり、できることも様々。まず聞くことでたくさんの情報を得るそして、次の方へカスタマイズすることはことに共感しました。当事者に寄り添う、共に考え、できることへと導きだせることが本物の指導者となれると感じます。それをクリアされ、さらなる飛躍をされておられる方の言葉は重みがありました。
 (兵庫県、ボランティア) 

【後 記】
橋本さんは、ストレートなヒトだと思います。「ロービジョンケア」はケアと付くから看護の領域だと思ったという勘違いからこの領域に足を踏み入れたようです。「見えなくなったらどうしよう…」この問いにどう答えたら良いのだろうとの想いが、芯となり彼女をつき動かしました。ロービジョンケアを担当する職種は多いのですが、多くの場合は眼科医と視能訓練士です。看護師が主体的に取り組んだ事例は多くはありません。橋本さんは、患者さんとの会話を通してニーズを探り、看護師ならではの視点で、時に視覚障害者の先輩からお聞きした方法も取り入れ、解決法を患者さんと共に考えるという「無知のアプローチ的手法」で、看護師ならではのロービジョンケアを実践してきました。 素晴らしいことだと思います。今後もますます活躍されることを祈念しております。 

 

第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
講師と演題
1.小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
  http://andonoburo.net/on/6438
2.大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
  http://andonoburo.net/on/6455
3.橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
4.上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
5.岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」   

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から毎月欠かさず265回続け、2018年(平成30年)3月で終了しました。
 この勉強会は誰でも参加出来ました。話題は眼科のことに限らず、何でもありでした。参加者は毎回約20から30名くらい。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しました。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会でした。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換がありました。
  日時:毎月第2水曜日午後 
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来   

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
   http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
   http://andonoburo.net/

 

 

2018年4月12日

報告:第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「ささえ、ささえられて」   2)大石華法
  日時:平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 2月の勉強会は、5名の方に講演して頂きました;小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)、大石華法(日本ケアメイク協会)、橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)、上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)、岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)。順に講演要約をお送りしています。今回は、大石華法氏です。 

演題:「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
【講演要約】
1.安藤伸朗先生との出会いと勉強会
 2012年7月、視覚障害リハビリテーション協会でブラインドメイクのポスター発表をした際に初めて安藤伸朗先生と出会いました。その運命の出会いから済生会新潟第二病院眼科勉強会に厚かましくも3回お話させていただきました。その勉強会も次回、第254回(平成30年3月14日)安藤伸朗先生自らのご講演、「これまでのこと、これからのこと」の演題を最後にして大きな節目が来ようとしています。
 264回の回数を安藤先生個人で継続開催することは私の想定を超えています。感銘以外の言葉が見つかりません。また1回1回の積み重ねで成り立つ264回という数字に計り知れない歴史と深い重み、そして安藤先生の情熱を感じます。その中で第228回、第240回、第253回に「ブラインドメイク」を中心とした題材でお話させていただけたことはとても光栄なことでした。
 この貴重な経験は、ブラインドメイクをとおして多くの視覚障害の方々と携わらせていただいたことで完成した「ブラインドメイク物語」と共に、私の人生の大切な宝物とさせていただきます。心よりお礼を申し上げます。 

2.“視覚障害の女性”ではなく “一人の女性”として
 視覚に障害のある女性から「人から化粧してもらうのではなくて、自分でしたい!」という言葉を耳にして、2010年に鏡を見なくても自分自身で化粧(フルメーキャップ)ができるブラインドメイクを考案しました。このプログラムは手指で化粧することができることから視覚障害者に受け入れられ、多くの視覚に障害のある方々が自分で化粧できるようになりました。
 受講者からは「お化粧すると心がウキウキします」「若返った気がします」「できないと思って諦めていた化粧ができると、楽しくて仕方がない」「顔を上げて歩けるようになりました」「お声掛けが多くなりました」「社会が優しくなったように感じます」「家族も喜んでくれています」「彼氏ができました」など耳にするたびに感動しました。
 この感動と共に大きな気付きがありました。それは、視覚に障害のある女性を“視覚障害の女性”という障害者の代名詞のような呼び方ではなく、また目の病気のために眼科へ通院する“一人の患者”ではなく、“一人の女性(レディー)”として接することの大切さでした。
 この気付きからさらに新しい気付きがありましした。それは、晴眼者であるの“私の声”ではなく、視覚障害者の“当事者の声”を社会へ届けなければならないことでした。そして、その当事者の声こそが社会を変え、世界の人たちの気持ちを変えることができる“力強い声”であることに気付くことができました。 

3.ブラインドメイク物語
 2017年8月に、その想いを1冊の書籍にして世に出すことができました。7名の視覚に障害のある女性たちがこれまでの自らの人生を振り返り、ブラインドメイクとの出会い、そしてそこから新しい自分を発見し、積極的な生き方をするという視覚障害者のストーリー(物語)、「ブラインドメイク物語」です。
 視覚に障害がある女性である前に“一人の女性(レディー)である”ことを伝えたかった。その想いが1冊の本になり、メディカ出版から発売が叶いました。また、本書の推薦者として、これまで実際にブラインドメイクをご覧になられて感動され、「視覚障害のQOL向上のためにブラインドメイクは必要!」とブラインドメイクを応援していただいている先生方に、「推薦の言葉」を執筆していただきました。
 安藤伸朗先生「ブラインドメイクは魔法なのか?」から始まり、松久充子先生「ブラインドメイクとの出会い」、久田まり子先生「化粧する手」、平野隆之先生「物語から当事者研究への発展を予感させます」、そして帯メッセージには田淵昭雄先生「女性として『生きる』、人として『活かす』 ブラインドメイク」です。真心執筆をしていただくことも叶うことができました。 

4.当事者の熱い想いは世界へ
 初版が1か月で完売されて増版となり、視覚障害者の読者がサピエで多く読んでいただいたことから上位に入りました。図書館や海外からも多くの取り寄せがあります。その中で、「ブラインドメイク物語」の第7編を執筆した全盲の女性が次のことを私に言ってきました。「視覚障害者は日本だけではありません。世界中にいます」「私と同じ思いをしている世界中の視覚障害者にブラインドメイクを知ってもらいたいのです」「ブラインドメイク物語を英語に翻訳させてもらっていいですか?」「英語に訳す時には視覚障害者でしか分からない微妙な英訳などがあるのです。私は当事者なのでよく理解できています。だから私に英語の翻訳をやらせてください!」この彼女の熱い想いに感動しました。
 今、「ブラインドメイク物語」の書籍は、日本語から英語へ、韓国語、中国語に翻訳されています。そして、ブラインドメイクDVDは、日本語、英語、韓国語、中国語、スペイン語に翻訳されて発売されています。今年はブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性たちによって「世界にブラインドメイクを広げよう!プロジェクト」が発足され、毎年1か国ずつ海外の視覚障害の女性たちとブラインドメイクをとおした国際交流会が開催されることがメディカ出版と企画されています。Made in Japanのブラインドメイクは、既に日本の国境を越えて、当事者の力によって世界に広がっています。  

【略 歴】
 1995年 中央大学 法学部法律学科 卒業
 2010年 大阪中央理容美容専門学校 卒業
 2010年 日本ケアメイク協会 代表
 2015年 日本福祉大学大学院 福祉社会開発研究科 博士課程
 2016年 一般社団法人日本ケアメイク協会 理事長
            日本福祉大学福祉社会開発研究所 研究員
 

【参加者の感想】
・ブラインドメイクも魔法なら、関西弁の軽妙なトークも魔法のようで思わず引き込まれてしまいました。早速「ブラインドメイク物語」を購入し読んでいます。患者様ひとりひとりの人生にブラインドメイクを通して向き合っておられて素晴らしいと思いました。さらに世界に発信していっていただきたいです。(神奈川県;眼科医)
・視覚障害者とブラインドメイクで関わってまだ1年半の私にとって、こちらの勉強会は新たな発見であり、出会いでもありました。メイク講師、化粧訓練士として健常者、高齢者、障害者へ社会への関わり方をサポートしていけるように、これからも精進していこうと強く思い、皆様から元気もいただきました。ありがとうございました。(兵庫県;ボランティア) 

【後 記】
 「自分でお化粧したい」という視覚障害者の声を聞いて、鏡を見なくても自分自身で化粧(フルメーキャップ)ができる化粧方法を開発。視覚障害者が生き生きと生まれ変わることを実感。7名の視覚に障害のある女性たちが、化粧と出会い、新しい自分を発見し、積極的な生き方をするという視覚障害者のストーリー(物語)、「ブラインドメイク物語」を出版した。「ブラインドメイク物語」は、初版が1か月で完売されて増版、英語・韓国語・中国語に翻訳されているという。まさに破竹の勢いだ。
 ロービジョンケアはハンディを乗り越えて人間らしく生きるというイメージがあるが、大石さんの視覚に障害のある人が鏡を見なくても自分自身でフルメーキャップできる化粧には、視覚障害者の方のみでなく家族及び支援者をも巻き込んだ活き活きとした笑顔に包まれた熱気を感じる。こうした明るいパワーで大いに視覚障害者の世界を変革して欲しい。 

 

第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
講師と演題
1.小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
  http://andonoburo.net/on/6438
2.大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
3.橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
4.上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
5.岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」  

=============================
『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から毎月欠かさず265回続け、2018年(平成30年)3月で終了しました。
 この勉強会は誰でも参加出来ました。話題は眼科のことに限らず、何でもありでした。参加者は毎回約20から30名くらい。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しました。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会でした。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換がありました。
  日時:毎月第2水曜日午後 
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来  

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
   http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
   http://andonoburo.net/

 

2018年4月8日

報告:第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「ささえ、ささえられて」   1)小林 章
  日時:平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 2月の勉強会は、5名の方に講演して頂きました;小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)、大石華法(日本ケアメイク協会)、橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)、上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)、岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)。順に講演要約をお送りします。今回は、小林章先生です。

 演題:「空気を感じて歩く楽しさと 少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
 講師:小林 章(社会福祉法人日本点字図書館 自立支援室) 

 歩行訓練の理論は、世界で初めて書かれた歩行訓練の理論書が使用され、著者は米国の歩行訓練士なので、教科書の言語は英語だった。その教科書の冒頭に歩行訓練の究極の目標が3つ書かれている。使用する歩行技術は安全(safe)で効率的(efficient)で、上品・優雅(graceful)でなければならない! 

 安全はまったくごもっとも、効率性も理解できる。でも上品で優雅という言葉が、晴眼者である今の自分にも縁遠いように思われて、そんな風に歩くのは無理、無理!と感じていたと記憶している。そんな折、American Foundation for the Bindが制作したビデオを講義で見る機会があった。そのビデオに登場したのはスーツを着た大柄の男性で、歩道の中央を颯爽と歩く様子が映し出されていた。背筋が伸び、視線は遠方に向いていた。その姿はまさに優雅で上品で、とても強い感動を覚え、その時の映像がおそらくその後、今日にいたるまで私の歩行モデルになっている。その映像を見てもう一つ感じたことは、見えない状態で優雅に上品に歩くことは、社会に対しても大きなインパクトを与えるということだった。 

 そこで再び3つの目標を考えてみる。見えない状態で、どうしたら安全に歩けるのだろうか?幅が10mにも満たない道路の上にいても、すぐに「今どこにいる」のか、「今どっちを向いている」のか分からなくなる。そんな経験をしながら歩いていると、「何かに触れながら歩きたい!」と切実に思う。いわゆる「伝い歩き」、杖で壁や路肩を触りながら歩く方法である。しかしある日の演習で「歩道の上を直進しなさい」という指導教官の指示を受けた私は、歩道と段差のない車道に出てしまうことが怖くて、建物側の壁を伝いながら歩き始めたところ、厳しく叱責されたのである。「誰が伝って良いと言った!」という強い言葉のみで、伝ってはいけない理由の説明がなかったが、指導員の怖さと、車道に出る怖さをひたすら我慢して歩いた記憶がある。伝わなくても歩けることには多くのメリットがある。伝い歩きは白杖を通して余分な情報が入ってくるため、曲がり角や目的地の入り口を見つけるなど、特定の目的以外で用いるのは好ましくないのだが、それはその後ずっと時間が経ってから理解したことである。 

 歩いている最中に進路が曲ってしまうことをベアリング(veering)というが、その当時私はよくベアリングしたものだった。道の真ん中を歩いていたはずなのに、すぐに何かにぶつかる。立ち止まって考えている間に足を動かしてしまい、方向がますます分からなくなる。そんな私でも、時間をかけた鍛錬は私のオリエンテーション能力を向上させてくれた。途中で脇道に迷い込んでも、冷静に分析して元の道に戻ることができるようになった。その小さな成功体験は自信となり、歩くことが急に楽しくなった。その後、訓練士として訓練に携わるようになってからも、学院の教官になってからも自ら歩くことを時々行ってきた。それらの体験から、特定の情報に集中せずにリラックスして歩くことができるようになれば、自然に入ってくる環境情報に気付くことができ、それを自分の位置、進行方向を判断する情報として使うことができるという確信が持てるようになった。歩道のない住宅街の道路では、建物や壁との距離感を反射音定位で感じとることができる。道路は路肩が排水性を高めるために傾いているため、足の傾き(深部感覚)を感じながら歩けば道路の端を真直ぐ歩くことができる。交差点にさしかかると路肩の傾きは平らになり、同時に空間の広がりを聴覚的にも感じとることができる。交差点に面した場所が広い駐車場でもないかぎり、空間が延びていることを近くからの反射音がないこと、遠方からかすかに聞こえるほんの僅かな何らかの音によって知ることができる。 

 このような環境情報に気付けるためには、前述のとおりリラックスして歩ける必要がある。リラックスするためには移動中の安全が確保されている必要があり、安全を確保するためには障害物を確実に発見し、足を踏み入れても安全が担保される白杖技術と、ある程度蛇行せずにまっすぐに歩くことができる直進推進力が必要である。この白杖基本操作の練習だけでも「白杖を中央に構えて!」「手首だけで左右均等に!」「肩幅よりも少しだけ広く!」「石突の高さは2.5cm以内で!」「杖の振りと足の振り出しは交互に!」などなど、訓練士の指摘は続く。基本技術を維持することに頭がいっぱいの状態、かつ、5m歩くたびに路肩にぶつかるようでは環境情報には気付けないし、結果的に気づけても、行動に瞬時に結び付けることはとても難しい。したがって、白杖操作や直進推進力などの基本的運動技能は無意識下で行えるようになるまで訓練をする必要がある。しかし、その土台さへ身に付けば、その後のステップアップはスピードが増す。感覚障害がない人であれば、環境情報を活用する技能は次第に高まっていく。 

 ここまでステップアップすることができたら、今歩いている場所に歩行者が多いか少ないか、近くに人がいるかいないかの判断は容易にできるようになる。公道を歩いている人の中には様々な年齢層の人がいる。年齢に関わりなく、予期せずに自分の前に振り出された白杖を避けることが難しいことがある。その白杖に躓いて転倒する事故が生じることがある。他の歩行者の存在を察知できるならば、白杖使用者は周囲の人の足をひっかけない配慮をする義務があると、私は考えている。その配慮はさほど難しくなく、白杖をなるべく垂直に立てて、ゆっくりと歩くことである。このように他者に配慮しつつ、人の流れを感じながら歩けることも楽しいと思えるし、この水準まで技術を獲得できる人には、周囲の人への心配りができるようになることを願っているし、またそのように訓練を行い、訓練士養成を行ってきた。 

 さてここまでは、視覚を活用しない想定の訓練の話であるが、歩くことに困っている視覚障害人口は実はロービジョンの人が圧倒的に多い。そして、多くのロービジョンの人のにとって、見えるが故に見えないことの象徴である白杖を持つことに強い抵抗感がある。白杖に対する抵抗感の有無に関わらず重要な事が二つある。一つは現在の視機能がどの程度使えるかを知ってもらうことであり、もう一つは、白杖は視機能の活用効率を高め、結果的に歩く安全性と効率性を高めることである。後者のことは、周辺視野障害のある人には顕著である。このふたつを体験的に伝えられることが、歩行訓練士の専門性だと考えている。そして究極は、歩行訓練を希望するすべての人に歩く楽しさと、白杖の便利さを伝えたいと考えている。
 

【自己紹介】
 国立の旧身体障害者更生施設34年間勤務のうち、理療教育課程受講者の進路指導係を2年、肢体不自由者のリハビリテーションを担うケースワーカーを7年務めた後、国立施設初の内部研修生として、国立障害者リハビリテーションセンター学院で歩行訓練士としての養成研修を受けました。正規の学生とは異なり、いわば内弟子のような形式での修行でした。その後、ケースワーカー兼歩行訓練士として塩原、神戸、所沢で通算8年勤務した後、国立障害者リハビリテーションセンター学院教官として19年間、歩行訓練士の養成に携わりました。平成29年3月で定年退職し、同年4月より現職として勤務しています。 


【参加者からの感想】
・「訓練は可能性を広げる」と仰っておられましたが、本来マルチタスクな歩く作業をオートマチック化し、視覚以外の聴覚(反射音定位)、触覚、深部感覚などを駆使し、安全に、効率的に、さらに上品で優雅に、白杖歩行をされる小林様のビデオに感銘を受けました。まさに、匠の技でした。これからも、視覚障害者の方の世界を広げていって欲しいと願います。(神奈川県;眼科医)

・歩行訓練士として、安全に、効率よく、そして、上品に優雅に歩く指導は、ブラインドメイクにも言えます。ブラインドメイク初期、アイマスクをして店内を歩く体験をしたときは、恐怖しかありませんでした。聴覚を意識する余裕など全くありませんでした。小林さんの、歩けることができると楽しい言葉は印象的でした。はたして、私の同行援護は楽しく歩いてもらえることができるているのだろうか?改めて反省をしました。(兵庫県;ボランティア) 

【後 記】
国立障害者リハビリテーションセンター学院教官として19年間、歩行訓練士の養成に携わったご経験から、白杖歩行の訓練について語って頂きました。白杖歩行は、安全・効率的は勿論、上品でなければならないとは意外でしたが納得でした。長年訓練を担当された方ではのコメントでした。小林先生の飾り気のないお人柄と、優しい語り口は聞く人の心を掴む魅力に溢れていました。
訓練の究極は、歩行訓練を希望するすべての人に歩く楽しさと、白杖の便利さを伝えたいと語って頂きました。先生は平成29年3月に定年退職し、4月から日本点字図書館に再就職し活躍中です。益々のご発展を祈念しております。 

 

第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
講師と演題
1.小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
2.大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
3.橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
4.上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
5.岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から毎月欠かさず265回続け、2018年(平成30年)3月で終了しました。
 この勉強会は誰でも参加出来ました。話題は眼科のことに限らず、何でもありでした。参加者は毎回約20から30名くらい。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しました。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会でした。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換がありました。
  日時:毎月第2水曜日午後 
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://occhie3.sakura.ne.jp/suzuran/
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
   http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
   http://andonoburo.net/
 

2018年3月2日

報告:第263回(18-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会    加藤 聡
 演題:ロービジョンケアを始めて分かったこと
 講師:加藤 聡(東京大学眼科)
  日時:平成30年01月10日(水)16:30 ~ 18:00
  会場:済生会新潟第二病院眼科外来 

【講演要約】
はじめに
 私は、眼科医になって31年経ち、一応眼科のことは精通した(つもりである)。その一方、ロービジョンケア始めて17年が経ち、日本ロービジョン学会の理事長になって5年務めているが、ロービジョンケアに携わっている人(特に福祉関係の人)から見れば、初心者であることには変わりはない。そこで一眼科医がロービジョンケアを始めてみると不思議なことがいっぱい経験したので、今日はその話をしたいと考え、副題として、「ここが変だよロービジョンケア」と銘うって9つの事柄について話す。 

1.眼科でロービジョンケアは医療から福祉への橋渡しが役割というけれど・・
 眼科医、視能訓練士、看護師教育に福祉の講義や試験科目はない。そのため、医療関係者は福祉についての知識は(よほど自分で勉強した人以外)ほぼ無いと考えてよい。よって、医療関係者は、病院ではソーシャルワーカーに、地域ではケースワーカーに丸投げというのが現状である。その一方、患者(視覚障害者)は医療関係者ならば、福祉制度に精通しているはずと考えているのではないかと思うことがあり、患者と医療関係者の齟齬が生まれている。

 また、医療において、患者は自由にアクセスできるという特徴がある。すなわち、例えば、東大病院には文京区以外の東京都、東京都以外の近県の患者も多く通院している。それに反して、福祉は行政区分によって福祉サービスが違い、東大病院の医療関係者が患者の地域ごとの福祉サービス知識習得は不可能な現状がある。 

2.日本ではロービジョンケアが盛んになってきているというけれど・・・
 全世界のロービジョンケア現状が昨年行われた国際ロービジョン学会で発発されていた(Chiang PP, et al.Ophthalmic Epidemiol,2011)が、日本はロービジョンケアのデータがとられていない空白地帯とされており、データがないのは195か国中17か国(9%)のみの中に入っていた。

 考えられる理由としてロービジョンの定義がWHOでは矯正視力が0.05以上、0.3未満となっており、日本での視覚障害による身体障害者基準のデータが生かせていないことが考えられる。今後、この種類のデータを作るのは医療側からなのか、福祉側からなのかを定めるる必要があると考えられた。 

3.視覚障害者は患者さん??
 医療側は当然「視覚障害者は患者さん」と考えている。すなわち何か病気があって視覚障害になっているのだからと考える。そのため、英語の論文の対象の項では、‘patients with low vision’と記載されていることが多い。

 その一方、福祉・教育側の方の考え方は、「世の中生まれながら、背の高い人がいるし低い人もいる、足の速い人がいるし遅い人もいる、視力の良い人もいるし悪い人もいる」という考え方に沿って、英語の論文の対象の項では、  ‘people with low vision’または‘children with low vision’と記載されている。

 このように同じ視覚障害者に対しても、医療側と教育・福祉側とではとらえ方が違うことを理解したうえで、お互いの考え方を尊重し、かつ自分の立場で接することが視覚障害者の幸福に繋がると考えている。 

4.視覚障害に対する研究は誰がする??
 私は平成28年にAMED(日本医療研究開発機構)の役員に就任し、国からの研究費の配分を決める役割を行っている。その中で、障害者対策総合研究事業というものがあるが、役員になった当初は視覚障害は全障害関係53課題中2題のみでほとんどが整形のリハと精神障害が占めていた。視覚障害の研究を行うべきものなのに多くは難病の研究(視覚障害にならないようにする研究)であった。また、課題設定にそもそも眼科医が携わっていなかったのも現状である。そこで、まず初めに手掛けたことは、視覚障害に関する研究課題の公募に変更した。例えば、「多職種協働による在宅ロービジョンケアに関する研究」「視覚障害者の就労実態を反映した支援マニュアルの開発」「災害時における視覚障害者対応システムの開発」などである。ところが 圧倒的に応募者が少ないという問題にすぐに直面してしまった。 

 現実は国は視覚障害に関する研究にお金をかけることは厭わないものの、他分野からも視覚障害のエビデンスのある研究が少ないと指摘されてしまう始末であった。そのようなことから、視覚障害に関する研究者不足を痛感している。非常に耳が痛い言葉であるが、「日本ロービジョン学会は何をしている!!!」と言われんばかりである。日本ロービジョン学会は今までにロービジョンケアの普及に努める活動は熱心であったが、学術活動の低迷しているように感じられる。そもそも視覚障害に関する研究者が不足しており、日本から世界に通じる視覚障害に関する研究が極めて少ないのが現状である。他人のことは言えず、自分自身の反省として今まで眼科関連の英語論文を約100本書いてきたが、そのうち、ロービジョンケアに関するものは僅かに4本しかなく、まずは自分自身から変えなければいけないと痛感しいている。  

5.視覚障害による身体障害者手帳基準はどのように決めたらよいか??
 身障者の基準は視力と視野の結果から決定されている。その問題点として、視力の和が示すように学術的にナンセンスの問題がり、また、エビデンスがなく級の線引きがされている。その一方、眼科医にとっては診断書を書くことが簡便なことが重要であり、すぐに学術的に正しくて(FVS)も、煩雑だと意見書を書かなくなってしまう、最終的に視覚障害者の不利益になってしまうことを危惧する。今後の改訂に当たり、改訂したことにより一人たりとも視覚障害者が級が下がったり、該当しなくなったりということはあってはならないことが前提であるが、世間が納得するより程度分類、すなわちエビデンスに基づいた等級分類が必要である。

 現状では視覚障害による身体障害者手帳の基準改定は眼科医ならば、誰もが必要性を感じているが、本当に満足する改訂ができるのか、まだ多くの問題が山積している。 

6.日常生活用具、補装具の給付は本当に視覚障害者のための制度??
 日常生活用具としての拡大読書器はほとんどのものが19万8千円である。あたかも先に19万8千円ありきのごとくである。量販店などの電気屋に行って電化製品の値段がすべて同じということはありえないのと対照的である。19万8千円の壁が存在し、それ以上の高機能のものを作る意欲が低下したり、それ以下の機能のものでも19万8千円で売ったりしているのではと勘ぐってしまうことがある。 

 昨年行われた国際ロービジョン学会2017(Den Haag)の器械展示場では、日本のメーカーは1社たりとも展示していなかった。私自身は日本製品の遮光眼鏡、拡大読書器など性能は良いと考えていたので、大変意外であった。そのような背景にうがった見方をすれば、日本製品は日本の公的補助の上でロービジョン関連企業として成立しているのであって、世界の自由競争に耐えうる製品を日本では作れないのかとも考えてしまう。すなわち、今のままでは日常生活用具、補装具の給付制度は、視覚障害者のためというよりロービジョン関連企業のためになってしまうのではないだろうか。ただし、日本のロービジョン関連企業は零細なところが多く、それらの企業を守ることが最終的に視覚障害者のためになることも事実であることも認識しておくべきことである。 

7.ロービジョンケアを始める眼科医=詐盲との闘いの始まり
 我々眼科医の願いは、「病気を治してよく見えるようにさせたい」「不幸にして直せない場合、ロービジョンケアで少しでも日常生活の不自由さを取り除いてあげたい」「その第一歩として障害者手帳の取得の意見書や障害年金の診断書を書こう」である。ただし、眼科医の願いが裏切られることがまれにある。ロービジョンケアを始めると診断書作成で嫌な思いをする(作成する眼科医にも確証が持てないため)ことがあるのが、悩ましい所である。 

8.超高齢化社会=ロービジョン患者の増加
 最近よく言われていることとして、「日本は超高齢化社会に突き進んでいる」→「平均寿命も延びた」→「そのため、ロービジョン患者も増加している    視覚障害者数 164万人→202万人」→「眼科においてこれからロービジョンケアは今まで以上に重要である」と一瞬納得する理論である。しかし、よくよく考えてみると、「平均寿命も延びた=内科や外科の進歩」「ロービジョン患者も増加→寿命は延びても機能の低下は防げないのか、眼科医療の限界?」ということになる。ましてやロービジョンケアは高齢者のためのものになるという考え方には納得がいかず、私自身は働き盛りの人にこそのロービジョンケアと考えている。 

9.ロービジョンケアの地方での切り捨て??
 最近の眼科医療は本邦においては均一化され、その手術成績はどの都道府県においても同様と考えられる。その一方、ロービジョンケアを行っている医療機関は偏在し、それ以上に福祉施設、眼鏡店なども偏在している。また、福祉サービスも地方により異なり、地方の眼科医のロービジョンケアに対する限界を感じることも仕方ない面もあるが、黙ってみているだけでhなく、今後の改善が必要である。 

 以上のようにロービジョンケアを始めて分かったこととして、9つの「ここが変だよロービジョンケア」として話させてもらった。一部不穏当な内容があったかもしれないが、このような本音を話せる場所で話させていただけたことに感謝する。 

 

【略 歴】 加藤 聡 (カトウ サトシ)
 1987年 新潟大学医学部医学科卒業
     東京大学医学部附属病院眼科入局
 1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
 1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
 2000年 King’s College London, St. Thomas’ Hospital研究員 
 2001年 東京大学医学部眼科講師
 2007年 東京大学医学部眼科准教授
 2013年 日本ロービジョン学会理事長
  現在に至る 

【後 記】
  日本ロービジョン学会理事長にお越し頂いての講演でした。理事長ならではのお話の数々。大きな講演会では言えないようなこんなことまで言っていいんかい!というような内容もありハラハラしながらも、大変面白く拝聴しました。学会にどっぷりつかっていながら、こんな風に客観的に考えることの出来る加藤先生、流石だと思いました。
 加藤先生がますますご活躍されること、祈念しております。
 

【今後の済生会新潟第二病院 眼科勉強会】
平成30年03月14日(水)16:00~18:00
 第265回(18-03)済生会新潟第二病院眼科勉強会(最終回)
  演題:これまでのこと、これからのこと
  講師:安藤伸朗(済生会新潟第二病院 眼科医)
 http://andonoburo.net/on/6388

 


 

2018年3月1日

報告:第260回(17-10)済生会新潟第二病院眼科勉強会 岩田和雄
 済生会新潟第二病院眼科「目の愛護デー講演会」
  日時:平成29年10月18日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来
 演題:「90歳が究め続けた緑内障の素顔と人生と」
 講師:岩田和雄(新潟大学名誉教授) 

【講演要約】
 90歳の自覚が全くない自分が、「90歳が究め続けた緑内障の素顔と人生」などと題して話をする矛盾に我ながらむしろ興味がある。 一句「卒寿とは おれのことかと 大笑い」。研究歴60有余年、永くもあり短くもあり。世に「風評」という現象がある。「流行」という現象もある。「情に棹させばながされる」は漱石の有名な言葉である。人間がすることであるから、学問にも類似の現象がある。華やかで、分かりよく、人口に膾炙しやすい安易な流れは、一世を風靡するかにみえるが、桃山文化の如くやがて消える宿命にある。そして、歴史の本流は何ら影響なく、決して流れの本態を変えることはない。それが真実というものだ(但し、教育は別)。 

 長いようで短い人生、いろいろのことがある。今日はアカデミックなお話ではなく、問わず語りで思いつくままに、面白そうなお話をしてみたい。
 小学校3年生の受け持ち先生に言われたことが今でもよく覚えている。曰く、「お前たちは、こういうものになりたい、なりたいと、思い続けていると、いずれ、そういうことになるものだ、面白いだろう!そしてお前たちが将来どんなに偉くなっても、俺が教えたことを忘れるな!」 

 私が中学生の時の東大哲学を専攻した校長の話が面白かった。曰く、「ある禅僧が雨宿りに入った洞穴に、空腹の虎がやってきた。虎に喰われない方法は??禅僧の解答は???」。その答えは、食われるのでなく、食わせるのだというものだった。その趣旨は、どんな時でも自分が主体にならねば事は成就しないということだ。寺田寅彦(漱石門下、東大物理学教授)曰く、「頭のいいひとは恋ができない。恋は盲目だからだ。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はその盲目な恋人にのみ、真心を打ち明けるものだ。頭の悪い人は、駄目に決まっていることでも一生懸命続け、いつか、それをしなかった人には、決して出会はない、特別のチャンスに巡り逢うことがよくあるものだ」。人は誰でも(医学研究者ももちろんのこと)、教科書やガイドラインをマスターしても、わからないことが山の如くに立ちふさがる。もっともらしい解説で満足すると、峠を越えたように錯覚し、安堵してしまう。そうすると深山はその本態を隠してしまい、真実はあざ笑ってカスミの彼方に消える。例えば近視とは、すぐに理解できるが、では、なぜ、そしてなぜ、と何故を3回繰り返すと世界でも一番レベルの高い最高の話題となる。 

 セレンデピテーSerendipity(幸運な偶然)という言葉がある。セイロン島の3人の王子が、島めぐりで思いもかけなかったことを発見する童話で、それに因み、幸運な偶然をセレンデピテーと表現するようになった。勿論、己の好奇心と知的高レベルが必要な条件である。1754年の造語である。ぺニシリンの発見のように、ノーベル賞受賞の研究には予知できない偶然の発見が多いのだ。 

 私は大戦後の何もない時代の昭和28年に新潟大学眼科教室に入局した。当時、眼科学では伝統的に眼圧が高いものが緑内障ということになっており、眼圧ばかり測っていた。偶然にステロイド点眼が緑内障を誘発した例を発見し発表、学問に興味を持ち始めた。文献もなく、外国雑誌に投稿できる状況になく、後刻文献で、ベルギーのフランソワ教授に次いで世界で2番目の発見になるべきことがわかった。数年後有名なゴールドマン教授がコーチゾン緑内障と命名、やがてベッカー教授のステロイドリスポンダー説へと発展。このことから反省した。一つ目は、わが未成熟、二つ目は、指導者がいなかったこと、三つめは、学問発展の方法論がなかったこと、四つ目は、欧英文発表のすべがなかったことだ。 

 ひよんなことから新天地がひらけた。人生は面白い。入局後、連日医局で夜遅くまで研究していた。ある時、教授が帰宅後に教授室に入り、その屑籠から(フンボルト)海外留学の応募用紙を見つけた。これはチャンスと、応募してみたところ見事に受理された。ドイツ、ボン大学留学(昭和36-38年)が叶ったのだ。どんなに狭き門でもおそれることなく、なんでもやってみることだ! 

 一途にやってきた緑内障の病態研究では、常に自身を叱咤激励して「白紙主義」を通した。つまり、敢えて既成概念を無視して真実にせまる主義に徹してきた。眼圧上昇の原因が隅角にあるから、前房隅角を究めようと思った。1950年代から電子顕微鏡が応用されるようになったが、当時大学眼科には電顕がない。そこで岩田式隅角鏡を開発し隅角の超拡大に挑んでみると、サルコイドーシスの患者の隅角に思わぬ発見をした。あまりの特徴に、サルコイドシスspecific な結節と主張したが、学会で反対されたり無視されたり。彼らはただの結節で、他のブドウ膜炎結節と同じ結節に過ぎないと反対した。注意深く拡大観察すれば、際立った特徴なのに、ただの結節としか見れず反対する低いレベルにあきれたものだ。後日、瀬川雄三教授(信州大学)が病理学的に岩田説を実証した。究極的には正道が次第に理解されるようになるものだ。 

 思い込んだら徹底して究明を続けること!臨床とか研究とかいうものはそうゆうもの!じっくり付き合うと、次つぎと、新事実や疑問がでてきて、止まらなくなる。あとは、センスと意欲次第。 

 一人の臨床研究者の60数年にわたる経験、研究課程の一端を吐露した。人それぞれに、ひとは膨大なエネルギーを秘めているものだ。己を高めつつ、常に白紙のつもりで問題に対処すれば新たな世界が開けるものだ。今回の話が 何かの参考になればと期待している。 

【略 歴】
 1954年 新潟大学眼科入局
 1961-3年   BONN 大学眼科留学(フォン・フンボルト奨学生)
 1972年 新潟大学眼科教授
 1993年 同定年退官、名誉教授
  日眼総会宿題報告、日眼総会特別講演、臨眼総会特別講演
  日本緑内障学会須田記念講演、国際緑内障研究グループ、メンバー 

【後 記】
恩師、岩田和雄新潟大学名誉教授にお話して頂きました。パワーポイントを駆使して、きれいな眼底写真や緑内障のスライドを交えての熱演でした。こういう人になりたいと思い続けることが大事、禅僧との問答、寺田寅彦の教えなどを交え、60年間緑内障を追及してこられた先生の眼科医としての一生を振り返り、多くの示唆に富んだ講演でした。若い医師にも聞いてもらいたい講演でした。今年(2018年9月の)緑内障学会で講演を担当されるとのこと、今回お聞きした内容は多くの経験ばかりでなく、事実と確信と信念に基づいた斬新な内容でした。講演の成功間違いなしと確信しました。何よりもおいくつになっても(卒寿を迎えられても)変わらぬ探究心は、私達門下生にとって、何よりの力強いメッセージでした。ありがとうございました。 

参加者の一人から、以下の様な感想が届きましたので紹介します。
Ullmanの「青春」を想起する岩田教授の講演でした。「人は希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」。卒寿を目前にして、なお信念と希望に満ち溢れているお姿に感動しました。とはいえ、心身ともに健康でなければ研究は続けられません。不断の努力は学問だけでなくご自身の健康にも注がれているのだと感じました。“幸運な偶然”といえど、多くの試行錯誤や失敗、自由な発想や独創的な発見からたまたま面白いことを見つけ出す。そのプロセスこそ大事にしなければならないことを細菌学のPasteurは「偶然は準備のない人を助けない」の一言で表しました。お聞きしてこの格言を思い出しました。心に残るお話の帰路、バスの車窓にぼんやり映る自分を、少し悔やんでいました。日頃の怠慢を振り返る機会をいただきました。

 

2018年1月14日

報告:第262(17-12)済生会新潟第二病院眼科勉強会   関 恒子
  日時:平成29年12月13日(水)16:30 ~ 18:00
  会場:済生会新潟第二病院 眼科外来
 演題:患者になってからの20年をふり返って私が伝えたいこと
 講師:関 恒子(長野県松本市) 

【講演要約】
1)始めに
 私が両眼に近視性の黄斑変性症を発症してからほぼ21年になる。発病当初はあらゆる物がはっきり見えないと安心できなかったものだが、今ではぼんやりしか見えなくてもそれなりに満足して生きていることが不思議に思える。病状の変化と共に様々な視力を経験し、様々な治療やリハビリを受け、それに関わる様々な人たちに出会ってきた。今日はこの21年間をまとめてみたい。 

2) ショックと理解力
 私は20年前左眼、18年前右眼に黄斑移動術を受け、視力は一旦改善したものの、現在両眼共に視力0. 1程で、網膜萎縮による視力低下と視野欠損が緩やかに進行しつつある。
 私の眼の異変は、21年前左眼の小さな歪みから始まった。今では黄斑変性症はよく知られ、有効な治療法もある病気だが、当時は歪みが起こっても、自分で黄斑変性症を疑うことはなかった。歪みが大きくなった10日後に漸く行った開業医の先生から、黄斑部の出血の為に視力が低下することと確かな治療法がないことを告げられて驚き「では治療法もないまま、やがて失明するのか」と失明の恐怖に襲われた。その後、大学病院で出血は黄斑中心窩にあり、近視性の新生血管黄斑症と診断された。後で考えると、先生は失明するとは言わなかったのに、視力が落ちて行けば当然その先は失明だと思い、最悪の事態しか考えられなくなっていた。私は近視眼だったが、それまで眼に特別な注意を払ったことがなく、当時は情報も少なかった為、診断は思いがけないものだった。その為ショックが大きく、平常なら理解できることも十分に理解できず、聞き逃したりもしたのだと思う。 

3)情報・知識があれば
 症状が悪化していくのに治療ができない苛立ちが大きくなってきた矢先、発症から10月後だったが、右眼にも発症がわかった。今度は左眼の時と違い、過剰な心配はせず、冷静に受け止めることもできた。それは開業医の先生から頂いた近視眼についての本を読み、強度近視眼のリスクについての知識を得ていたからである。予めの情報や知識は、ショックをやわらげ、病気を正しく理解するのに役立つ。 

4) 自分の人生を自分で決める ~ 自己決定
 既に両眼に発症し、左眼視力が0.3に低下した時、私は重要な決定を迫られた。視力回復の可能性があるという新しい手術、黄斑移動術を大学病院の先生から提案されたからである。視力が取り戻せるかもしれないと思うと嬉しく、どんな手術か聞かないまま私は即座に承諾した。その頃の私は患者としての経験が浅く、先生に質問することに遠慮があった。そんな私を助けてくれたのは大学病院を紹介してくれた開業医の先生で、手術を再検討する為に、最新手術に関する米国と日本の論文収集を協力してくれた。再考後も何もせずにいるより視力向上の可能性に賭けようと決心した私に対して、先生はより慎重であったが、結局私の意思が尊重された。その時自分の決定に対する責任を強く感じた。自分の将来を左右する重要な決定は自分自身がすべきであり、そうすることで自分の将来に責任を持つことができる。手術後、合併症と再発の為何回も手術を繰り返し、再び視力が低下する結果になったが、手術を受けたことを後悔したことは一度もない。私の決定を助けてくださった先生には今も感謝している。 

5) 「今ならできる」 ~ 新しいことへの挑戦
 左眼の手術から2年後、右眼にも黄斑移動術を受けることを勧められたが、今度は直ぐに承諾できなかった。それは、網膜剥離の合併症や手術後も繰り返した再発、手術でできた新たな暗点、視力表の視標が読めても生活に役立たなかったり、却って邪魔になる視力があること等様々な問題をこれ迄に経験したからである。視力には自分でしか評価できない部分があることも実感した。先生の熱心な説得と術法を変えるという言葉に、漸く手術を承諾したものの、結果に対する不安で一杯だった。幸いなことに、術前0.1位に低下した視力が0.6まで改善し、上方の暗視野、色の識別、暗順応がやや気になったが、歪みも小さく見え方の質が良いことが何より嬉しかった。右眼の視力が改善されたことで、私の意識はできるようになったことの方に向き、それがポジティブに生きることへのきっかけになったと思う。その一方、左眼のように再発して再び視力が低下する危惧を抱き、今のうちにこの視力を有効活用して今を大切に生きることを心に決めた。その為には何をしようかと考え、最初に実行したことは、読書に困難があったが(近く用の眼鏡の他に拡大鏡も必要だった)、 大学に通ってドイツ文学を学ぶ事だった。私は大学では薬学を学び、文学は全くの初心者だった。又毎年の海外旅行も「今ならできる」と思って始め、毎回来年はもう駄目かもと思いつつ10年程続いている。旅行といっても、1ヶ月程の滞在型で、自分で計画・手配し、一人で行く。文学も旅行も私の新たな挑戦の一環で、症状が進行する中、できなくなるかもという不安な気持ちが活動の源になっている。今ならできると奮起し、どこまでできるか挑戦することが私の今の課題である。 

6) 早期のリハビリ
 視機能低下の為にできなくなった事や、能率が悪くなった事、不便になった事は沢山ある。それでも私が行動範囲をそれ程狭めず、自立した生活を維持できるのは早くからロービジョンケア(LVC)に接する機会があったからだと思われる。発症して間もない頃、新聞が読み難いことを先生に話すと、先生は私に拡大鏡を下さった。視野の中心に歪みがあっても拡大鏡を使えば楽に読めることをこの時知り、今思うと、これが私のLVC初体験だった。遠くが見えない不便さを訴えた時に単眼鏡を下さったのもこの先生だった。発症後数年は専ら医学的治療で回復することを願い、視覚リハビリなどは治療を諦めた時でいいと思っていたのだが、私はごく早期に既にLVCを受けていたのである。私が今も活動を維持できているのは早期からのリハビリがあったからだと思う。  

7) 面倒がらずに補助具を使い、使いこなす
 私の経験では道具を使うことはかなり面倒なことである。外出先でカバンから取り出すだけでも億劫である。だがこれを乗り越えないと「見えない」「できない」ままになってしまう。今日常生活や外出先で私が最も重宝しているのはiPadで、私の毎年の海外滞在時に周囲がよく見えないのに道に迷わず歩き回れるのはiPadのお陰である。生活の幅を狭めない為に、又生活の質の向上の為に、適切な補助具をうまく使いこなしたいものだ。 

8) 最後に
 20年間を振り返えると、私は信頼できる先生方と医療スタッフの方々に出会えて患者として幸せだったと思う。現在も通院しており、視機能低下によって活動が低下しないよう願い、LVCに相談もしている。この20年の間に黄斑変性症の治療法が確立され、現在新しい治療法も開発されつつあることを思うと、私のような患者にも明るい未来が予感できることが大変嬉しい。
 

【略 歴】:松本市在住
  富山大学薬学部卒 薬剤師
 1996年左眼に続き右眼にも近視性血管新生黄斑症を発症
 1997年と1999年に黄斑移動術を受ける。
 この経験を生かして『豊かに老いる眼』を翻訳 (田野保雄監訳 文光堂)
 趣味はフルートの演奏、ドイツ文学研究、旅行など 

【後 記】
 関さんは、ご自身の身に降りかかった病と真摯に向き合い、前向きに取り組んでこられました。また自分の障害のことや、その時の感情などを非常に理性的に説明して下さいます。そのため新潟での勉強会に何度も松本からお呼びしています。患者さんにはもちろん、医療関係者にとってもとても参考になることをお話し下さいます。今回も期待どおりでした。

 関さんのこれまでの講演を、以下にまとめました。ご参照ください。 

関恒子さんのこれまでの講演要約
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第135回(07‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
 講師:関 恒子(患者;松本市)  
  日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00
 http://andonoburo.net/on/4530 

第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「賢い患者になるために 視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
 講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)
  日時:平成21年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
 http://andonoburo.net/on/4521 

第187回(11‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強
 演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」 
 講師:関 恒子 (長野県松本市)
  日時:平成23年9月14日(水)16:30 ~ 18:00
 http://andonoburo.net/on/4513 

第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
 講師:関 恒子 (松本市)
  日時:平成26年2月12日(水)16:30 ~ 18:00
 http://andonoburo.net/on/2512 

第241回(16‐03)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
 講師:関 恒子(長野県松本市)
  日時:平成28年03月09日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/4597
 

 

 

2017年11月24日

報告:第261回(17-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会   仲泊 聡
  日時:平成29年11月08日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 演題:「視覚障害者支援における課題の変遷」
 講師:仲泊 聡(理化学研究所 研究員;眼科医) 

【講演要約】
 私は、ごく普通の眼科医としての教育を受けたのち、1995年に神奈川リハビリテーション病院に勤務するようになって以来、20年余りを視覚障害者の皆さんとともに歩いて参りました。これまでに私が見聞きし、働きかけてきた視覚障害者支援の現場について、この機会にまとめてみました。まず、20世紀に起きたこと、そして、21世紀になってからは概ね10年ごとに区切り、最後には2021年からの10年についても展望したいと思います。 

 私が研修医をしていた頃、白内障手術に大きな変革の波が来ていました。そして、その技術が日に日に改良され、どんどん素晴らしい技術に発展する時代を過ごしてきました。私の同僚たちは、すべて手術に魅了されていきました。じつは、私が眼科医を目指したのは、分子生物学にハマって生化学教室に出入りしていた学生時代に、視神経再生の研究をしていた眼科の大学院生に出会ったのがきっかけでした。だから、卒業したら「研究」ができると思っていました。ところが周囲は手術一辺倒で、ちょっと違うなーと感じていた頃に、指導教授から研究テーマが与えられました。それが、なんと「大脳での色覚がどうやって生まれるかを調べよ」という課題でした。そこには、分子生物学とはまた違う魅惑の「脳科学」の世界が広がっていました。そして、その研究を深めるために私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。 

 ところが、そこで出会ったのは、大勢の視覚障害者の皆さんでした。正直言って「えらいところに来てしまった」と思いました。なぜなら、視力をよくするのが眼科医の仕事だと刷り込まれて6年もたっていましたので、治療ができない目の見えない患者さんというのは、私にとっては「申し訳ない」という以上の「恐ろしい」対象となっていたからです。しかし、そのような環境に私は13年も身を置くことができました。それは、慣れたということでなく、素晴らしい視覚障害者の友人をたくさん持つことができたからだと思います。目の不自由さを乗り越え、社会復帰している方達は、一様にコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女でした。そして、その病院と併設していた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから私は多くのことを学ばせていただきました。 

 20世紀の最後の5年を私は、そこで過ごしました。その期間は、実は視覚障害者支援のこれまでで最も元気な時代の最後のときだったのです。ライトホームの利用者さんの主な疾患は、ベーチェット病、網膜色素変性症と先天眼疾患でした。皆で登山を楽しむこともありました。しかし、世界ではその背景として大変な思想の転換が生じていたことを当時の私は知る由もありませんでした。戦後から障害者を庇護する政策が当たり前に続けられてきたなかで、1964年の世界盲人福祉協議会での「盲人の人間宣言」で、この庇護政策を『これほど盲人の人権を無視したシステムはない』と批判する方向性が打ち出されていました。 

 ライトのおじさんたちは、その動きを察知していました。そしてあの頃、私に課題は、1) 手帳の有無による大きな格差 2) 点字・白杖などステレオタイプな対応 3)障害者は守られるべきものと思われていること 4) 軍人になれなかった障害者に対する差別の因習 5) だから障害者にはなりたくないと手帳申請しない人がいること 6)障害者には経済的支援さえすればよいという行政等にあると聞かされていました。 

 21世紀になるとさすがの私もその異変に気づくようになりました。このままだと視覚障害者支援システムが崩壊してしまうという危機感をライトのおじさんたちと共有しました。そして、実際に障害者支援施設をゆるがす制度改革が次々に始まっていきました。措置に基づいて行われていた支援が、支援費制度になり、そして障害者自立支援法が2006年に施行されました。ライトホームの安泰の時代から徐々に入所者への対応の仕方が変わり、そして希望者激減の時代を私は彼らとともに歩きました。制度が庇護から自立へ変換するなかで、お金を払えない当事者や先を見通せない当事者が引きこもり、盲学校やリハ施設から姿を消していったのです。 

 そのような中で世間に先駆けていち早く行ったことは、地域での連携でした。現在の神奈川ロービジョンネットワークの前身となる会合を最初に開催したのが1999年2月のことでした。県内の4つの大学病院と県眼科医会に呼びかけ、それまでの教育と福祉主体の視覚障害者支援から医療と連携した支援体制の必要性を訴えました。なぜなら、視覚障害者の8割が眼科には通院しているという統計があったからです。リハの必要性を訴える場として、医療現場は欠かせないと考えたわけです。 

 この時代、私たちはこの先リハをする専門職がいなくなってしまうと考えていました。利用者が減るということは、行政から見れば需要がなくなったと解釈され、職員数が減らされます。自立支援法で障害の範囲が広がり、その区別がなくなったことから様々な特性を持った障害者が集まってきます。利用者の減少に歯止めをかけたくて施設側もそれまで拒んできた慢性疾患患者、高齢者、知的障害者を利用者として認めざるをえなくなっていきます。そして、それによって職員の視覚障害に対する専門性が奪われ、そして育たなくなっていくと考えました。 

 私は、2008年に神奈川を離れ、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターに異動しました。異動の動機は一言では言えませんが、そのなかにこの重大問題をなんとかしなければという気持ちもありました。そして、そのポストを利用して学会などに働きかけ、教育・福祉の医療との連携を呼び掛けてきました。1) スマートサイト 2)中間型アウトリーチ支援 3) ファーストステップ と様々な仕込みをしてきました。そして現在を含む2011年からの10年には、日本眼科医会や日本眼科学会が福祉・教育との連携を真剣に考えてくれるようになり、この考えが当たり前のこととして受け止められるようになりました。 

 そして、次の10年、何をすべきかについて考えました。現在、大勢の同志が立ち上がり、視覚障害者支援のサービスの質と量を担保するために働いてくださっています。しかし、それでもなお、そのサービスの行き届かない地域があります。これをなくすのは一筋縄ではいきませんが、現在のICT技術は、ほんの10年前には想像していなかったほどに発展しています。これを使って遠隔でも支援ができないものかと現在はその技術開発に取り組んでいます。さらに、その方向性を確認するために、障害者権利条約の26章のリハビリテーションのところを読み解いて、1) 障害者相互の支援2) できるだけ早期に 3) できるだけ近くで という3つのキーワードを指針として、これからの計画を立てていきたいと思っております。 

 今年の12月1日には、神戸アイセンターがオープンします。NEXT VISIONという公益法人の活動として、上述の方向性をしっかりと見据えた活動をしてまいりますので、皆様、今後ともよろしくお願いいたします。 

【略 歴】
 1989年 東京慈恵会医科大学医学部卒業
 1995年 神奈川リハビリテーション病院
 2003年 東京慈恵会医科大学医学部眼科講師
 2004年 スタンフォード大学心理学科留学
 2007年 東京慈恵会医科大学医学部眼科准教授
 2008年 国立リハ病院 第三機能回復訓練部長
 2010年 国立リハ病院 第二診療部長
 2016年 神戸理化学研究所 研究員 

【後 記】
 大学の准教授から国立障害者リハビリテーションセンター病院の部長職を8年間務めた後、研究所の一研究員に身を投じた気概の眼科医仲泊聡先生が、ご自身の半生と視覚障害者支援の歴史を絡めた素晴らしい講演でした。
 得てして大真面目に本筋を語るよりも、ポロリと本音を語る場面は人を惹きつけます。私は冒頭の5分間で魅了されてしまいました。・視力をよくするのが眼科医の仕事であり、どれだけの視力を良くしたかが通信簿、・視力の悪い患者さんは、申し訳ないというよりも怖い存在、・視力の不自由さを乗り越えた(目の前にいる)患者さんは素晴らしい人たち、、、、、
 講演では、目の不自由さを乗り越え、社会復帰したコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女、そして病院に併設されていた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから学んだこと断りながら、障害者を庇護する時代から自立支援への変革の理念と問題点等々が語られました。難しいイデオロギーや言葉・文章でしか得られなかった事柄が、平易な言葉で皮膚感覚で語られました。さらには現在の問題点、今後の展望も盛り込んだ膨大な講演でした。
 今後はNEXT VISIONという公益法人に身を置き活動していかれるとのこと、益々のご発展を祈念しております。 

 

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【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成29年12月13日(水)16:30 ~ 18:00
  第262(17-12)済生会新潟第二病院眼科勉強会
   演題:患者になってからの20年をふり返って私が伝えたいこと
   講師:関 恒子(長野県松本市) 

平成30年01月10日(水)16:30 ~ 18:00
 第263回(18-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題:ロービジョンケアを始めて分かったこと
  講師:加藤 聡(東京大学眼科准教授;日本ロービジョン学会理事長) 

平成30年02月14日(水)16:00 ~ 18:30
 第264回(18-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会「ささえ、ささえられて」
 小林 章(日本点字図書館:歩行訓練士)
 「空気を感じて歩く楽しさと  少しでも楽に歩ける視覚活用方法を伝えること」
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 「『ブラインドメイク物語』視覚障害者もメイクの力で人生が変わる!」
 橋本伸子(白尾眼科:石川県、看護師)
 「これからのロービジョンケア、看護師だからできること」
 上林洋子(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「生きていてよかった!!」
 岩崎深雪(盲導犬ユーザー;新潟市)
 「私のささやかなボランティア …」 

平成30年03月14日(水)16:00~18:00
  第265回(18-03)済生会新潟第二病院眼科勉強会(最終回)
   演題:これまでのこと、これからのこと
   講師:安藤伸朗(済生会新潟第二病院 眼科医)

 

2017年9月19日
報告:第259回(17-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会 小田浩一
  日時:平成29年09月13日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来
 演題:視覚障害研究・開発の過去・現在・未来
 講師:小田浩一 (東京女子大学教授)
【講演要約】
1.はじめに
 研究者・大学教員としてのキャリアは、今年で33年。残り10年で定年退職の節目になるので、これまでの自分の仕事を振り返りながら、未来を展望してみた。振り返ってみると、これまでに研究に従事してきたテーマは以下の4つである。ICTと視覚障害、フォントの研究、ロービジョンの視機能と行動の関係、ロービジョン・リハビリテーション。以下、順に述べることとする。
 
2.ICTと視覚障害
 1984年旧国立特殊教育総合研究所に赴任した当時に与えられたテーマは、コンピュータの視覚障害教育への応用であった。これは今流に言えば、ICTと視覚障害という大きなテーマになるだろうが、教育現場にまだPCが普及していない時代であり、テーマを与えた小柳恭治部長は慧眼ではあったが、ほとんどの同僚や研修生の態度は否定的で、PCを操作していると自閉症だの宇宙人だの、マシンが障害児の役に立つはずがないだのと冷たい批判を受けたことをよく覚えている。
 オーストラリア商務省から補助金をもらい、メルボルンに1ヶ月出張してユリーカA4という視覚障害のユーザ専用のPCの開発もした。視覚ディスプレイがなく、点字キーボードというシンプルなデザインはスティービーワンダーのお気に入りになったことで知られている。現場でのICTへの抵抗があまりにも大きいので、普及のためにPC講習会を開催したり、東京女子大学に転職後は大学のサーバをつかって全国規模のメーリングリストや視覚障害補助具のデータベースの公開などもした。
 1996年視覚障害の支援関係の情報資源をまとめたVIRN(Vision Impairment’s Resource Network)というサイトは、当時非常によく閲覧されていたようで、今では、VIRNという略語はnet辞書にも登録され、カナダの団体の名前にも使われている。米国連邦政府調達庁が公開していたWebアクセシビリティのガイドラインを許可を得て日本語訳して公開するなど、VIRNを使って初期の普及活動もした。杏林アイセンターでもロービジョン外来開設時はPC訓練にかなり力を入れていた。
 そのうちどっとブームが来たので、このテーマには少し距離を置いて、自分にしかできない研究に路線を変更していくことにした。現在はスマートフォンやタブレットPCが全盛で、今後はAIやVRがまた新しい可能性を開いていくと思われる。会場でデモをしたアプリ、写した対象をAIで認識して音声読み上げするTapTapSeeなどは、ICTが視覚障害を支援する姿の今後をよく示しているように思われる。
 
3.フォントの研究
 1987年にApple社のMacintoshというGUIのPCが出ると、フォントが自由に変えられることとマウスで図表が簡単につくれることに注目して、触図をつくるシステムを提案した。そのときにオリジナルの点字フォントを開発した。日本ではMS-DOSが全盛でWindows3が出る5年前だったこともあり、日の目は見なかったが、その後意外と海外でもよくつかわれていることをAppleのSpecial Education Officeの人たちに教えてもらった。フォントの研究もそこから研究テーマの1つになった。
 2000年ごろ、国立障害者リハビリテーションセンター研究所との共同研究の中で、後天性の盲ろうの人たちの文字として触覚でも視覚でも読みやすいフォントの開発をした。研究成果はAdobeのフォントデザインをしていた山本明彦さんが形にしてくれて2002年にForeFingerMとして世に出た。2006年にイワタのUDフォントが出る3年前の話である。これはカタカナだけのフォントで一般的には使いにくい仕様だったが、その後、類似のフォントが次第によく使われるようになった。タイプバンクのUDタイポスが一番似ていて使いやすいのではないだろうか。
 2013年ごろから共同印刷との共同研究で新しいUDフォント小春良読体を開発した。これは最近の読み研究の中で少しホットになっている読み分け困難(crowding)を減らすデザインになっている。そのために小さいサイズで読みやすい特徴がある。最近一般に市販することになった。
 
4.ロービジョンの視機能と行動の関係
 テーマの3つ目は、大学・大学院時代からの専門である視覚心理の関心を伸ばしていったもので、全盲の生徒が視覚を活用している様子に衝撃を受けてから、ロービジョンの視機能と行動の関係がどのようになるのかを研究するものになる。1987年にニューヨーク大学に留学してロービジョンと読書の心理学を勉強してもどってから、読書行動をメインの研究テーマにすることになった。
 1998年ミネソタ大学のロービジョン研究室のMNREADという読書評価チャートの日本版の開発を軸にして、多くの研究が生まれている。読書に影響しそうないろいろなパラメータを眼疾患に関連づけて地味に調べてきたが、今年2017年の国際学会では、欧米の研究者から今後そういう研究が必要だという意見が出ていた。
 
5.ロービジョン・リハビリテーション
 1991年故樋田哲夫教授の肝いりで杏林大学眼科にロービジョン外来が誕生した。1994年教え子の田中恵津子さんがロービジョン外来に関わることになり、ロービジョン・リハビリテーション自体が4つ目のテーマになった。1999年杏林大学付属病院の新外来棟建設に伴って杏林アイセンターが発足、アイセンターの目玉の一つはロービジョン外来であった。

 ロービジョン研究ディレクターという形で、田中恵津子さん、西脇友紀さん、新井千賀子さん、尾形真樹さんらロービジョン外来メンバーの研究・実践を後方支援した。以下のことは実際はこれらの杏林スタッフの仕事で僕はスーパーバイズしていただけである。
 臨床から生まれるさまざまなニーズが重要な研究や実践を導いてくれた。病院内の資源が限られていたので、東京のいろいろな視覚障害支援団体・施設と連絡をとり連携体制をつくり、連携時の個人情報の安全な交換法を決め、病院の内装の見えにくさを複数の患者とチェックして輝度コントラスト50%を確保する建物のアクセシビリティの研究をして、改装をしてもらったりというのが初期の実践研究だった。
 インテーク時にもれのないようにするQOL評価はVFQの初期のものを参考に日本人の生活に合わせたものをつくり、事後評価でどう改善がみられたかも評価できるように改良した。さらに、個々の項目に対して、どういう支援の手立て、外部連携先、情報があるかのリストを整備して、どのニーズにもなんらかの対応ができるような工夫をした。
 QOL評価は、ロービジョンサービスの効果を測定して改善していくPDCAやEBMのための大事なツールとなる重要なものであるが、開発後少しすると杏林でもルーチンで利用されるということがなくなっていた時期がある。そのQOL研究の中では、高齢のロービジョン患者に対する余暇活動の影響がはっきりしてきた。余暇活動のニーズは患者から言い出しにくいものなので丁寧なインテークが求められる。
 これらと並行して、MNREAD-Jを開発し読書評価をして拡大率を決めたり、いろいろな拡大補助具の特性・メガネとの関係を適切に調整する専門的な知識を月例ロービジョン研究会を通して蓄積・学習していった。ロービジョン外来は杏林アイセンターの1つのユニットとして、治療と並行したリハビリの提供や、リハビリを想定した治療方針の設定というように、整形外科とPTのような良い共生関係が生まれている。
 
5.おわりに
 今年2017年の国際ロービジョン学会で見学した、オランダのVisioという組織が提供しているロービジョン・リハビリテーションのあり方を紹介した。月額100ユーロという医療保険の中で提供されるサービスで、車の保険のように、ニーズが生じればいつでも決まった担当者に電話して対応をコーディネートしてもらうことができる。多種多様な専門家が多くは非常勤で所属する組織で、個々の利用者の電話での要望に応えられるようにしている。
 「ユーザーベース」というのは大きな発想の転換だが、考えてみれば無駄のないシステムで日本の今後はこのようにすると良いのではないかと思われた。
 
【略 歴】
 1981年 千葉大学人文学部心理学専攻卒業
 1984年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退
 1984年 国立特殊教育総合研究所視覚障害教育研究員
 1987年 アメリカ合衆国ニューヨーク大学在外研究員
 1992年 東京女子大学現代文化学部講師
 2009年~ 東京女子大学現代教養学部教授
 
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【後 記】
 東京女子大学の小田浩一教授にご自身の研究の過去・現在・未来について講演して頂きました。思えば1998年ごろから私が勝手に小田研の研究会に参加するようになり20年近くになります。
 先生は視覚心理物理学の大家で、これまで視覚心理の手法を用いて視覚障害者の抱える問題について先頭に立って学問を進めてこられました。
 講演ではこれまでのそして現在のお仕事をまとめてお話し下さいました。MNREAD-Jを開発し読書速度の評価、視覚障害者にも強いフォントの研究、視覚障碍者のwebアクセシビリティの研究、さらには杏林大学眼科ロービジョン外来立ち上げにも参画しています。
 未来のお話として、2017年国際ロービジョン学会での話題やオランダの視覚障害への対応Visioなども紹介して下さり、目から鱗のお話満載でした。
 日本のロービジョンケアをリードする小田浩一先生の研究の足跡を、直接伺うという贅沢をたっぷりと堪能しました。
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【これまでの小田先生の新潟での講演歴】
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【新潟ロービジョン研究会2010】
 日時:2010(平成22)年7月17日(土)14時00分 ~ 18時20分
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 テーマ:「『見えない』を『見える』に」
 会費:無料 要、事前登録
 1)特別講演
  「障がい者が支援機器を活用できる社会に」
   座長:安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
   演者:林 豊彦(新潟大学工学部福祉人間工学科・教授)
  「前進する網膜変性の治療」
   座長:加藤 聡 (東京大学眼科)
   演者:山本 修一(千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
            /日本網膜色素変性症協会副会長)
  「ロービジョンで見えるようになる」
   座長:張替 涼子 (新潟大学眼科)
   演者:小田 浩一 (東京女子大学人間科学科教授)
   http://andonoburo.net/on/2470
 
 
【第6回新潟ロービジョン研究会】
 日時:2005(平成17)年8月7日(日)
 会場:新潟大学医学部 有壬記念館
 参加費 2000円
1)特別講演
 「ロービジョンと読書」 小田 浩一(東京女子大学)
 「型にはめない対応を」 清水 美知子(歩行訓練士)
 「眼科医の悩み」 松村 美代(関西医大眼科)

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