報告:「学問のすすめ」第9回講演会 済生会新潟第二病院 眼科
2014年7月21日

「学問のすすめ」第9回講演会 済生会新潟第二病院 眼科
1.「学問はしたくはないけれど・・」
    加藤 聡 (東京大学眼科准教授)
2.「摩訶まか緑内障」
    木内 良明 (広島大学眼科教授)
 日時:2014年7月6日(日)  10時~13時 各講演1時間・質疑応答30分
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 参加無料

  

 リサーチマインドを持った臨床家は、新しい医療を創造することができます。難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。 本講演会は、若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもいたいと、2010年2月より済生会新潟第二病院眼科が主催して細々と続けている企画です。 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
  人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。(「学問のすすめ」福沢諭吉)

 

演題:学問はしたくはないけれど
講師:加藤 聡 (東京大学眼科)
講演要旨
 現在、医学研究を取り巻く問題が多く、毎日マスコミをにぎわしている。STAP細胞に関する問題が有名であるが、私が所属する東大病院でも降圧薬バルサルタンの臨床研究、白血病治療薬の臨床研究、アルツハイマー病に関する臨床研究、分子生物学教室からの論文の大量撤回などがある。これらの研究では何を目標にして学問をしているのだろうかと考えさせられる。このような問題を見るにつけ、学問の目標が、研究費集めや論文業績をあげるためと思えてしまうが、本来は少しでも良い医療を大勢の人に提供してもらいたいことが、医学における学問の原点のはずである。その為には、学問の順番として①不自由なことが存在し、②不自由なことの原因を追究し、③不自由なことを解決する方法をみつけ、④その方法を広めるのが、筋道であると考える。 

 私は新潟大学を卒業して、東京大学眼科に入局し、研修医2年目の頃、おぼつかない白内障手術(水晶体嚢外摘出術)を行うも、糖尿病眼では術後に炎症が強く出てしまい、眼底管理の上で妨げとなる虹彩後癒着を作ることがしばしばあった。その原因を知りたく、ちょうどその頃開発されたフレアメータにて炎症を定量化し、また電子顕微鏡による研究でその原因を探ることができた。 

 それがきっかけで糖尿病の眼の合併症、通常の人ならば網膜症に興味を持つところだが、私はもっぱら前眼部の病変に取り組むことになった。女子医大の糖尿病センターに勤務先が異動になり、朝から晩まで網膜光凝固に明けくれる日々のなか、糖尿病眼の白内障術後眼では前嚢収縮や後発白内障が網膜光凝固の妨げとなることを多く経験した。白内障術者にそのことを話してもYAGレーザーで解決されることなので、臨床的に問題ないと相手にしてもらえなかった。そこで、そのことを訴えるために後発白内障を定量化する方法を学んだが、その頃の日本ではSheimpflugカメラを用いた方法が主流で、周辺部の後発白内障の定量が行えなかった。そこで、それを学びに世界で初めて眼内レンズ移植が行われたロンドンのSt Thomas Hospitalに行き、その後の後発白内障を少なくなるための眼内レンズ、手術法の研究を行うことができた。

 その後、日本に戻り、東大病院に勤務するようになり、多くの増殖糖尿病網膜症症例の手術を見る機会があったが、中には充分な結果が得られない症例があった。その症例をさかのぼってみてみると、中には充分な光凝固の効果が得られていない例に遭遇することもあった。どんな上手な術者よりも適切な網膜光凝固が失明から救うことが明かであったため、そこからは、研究というよりも網膜光凝固教育に力を入れるようになった。今後は本邦での網膜光凝固の教育と同様に、より低侵襲の網膜光凝固方法の開発に力を入れたいと考えている。 

 その他に現在はロービジョンケアの普及にも力を入れている。ただし、ロービジョンケアを取り巻く問題は多く、その中でもロービジョンケアに対する眼科医の関心が少ないことが最も悩ましい。その理由として、ロービジョンケアの研究がサイエンスになりにくく、手術の習得に比べると技量が地味、保険点数の問題、ロービジョン者が眼科にかかる環境を作り上げていないなどがある。今後はロービジョンケアに関する研究・臨床を特殊化しないことが重要と考えている。 

 以上、今まで自分が関与してきたことを述べてきたが、最終的に学問の結果を世に知らしめることは重要なことの一つであり、私自身の論文投稿に対する考えを以下に示す。すなわち、どんなに低いインパクトファクターの雑誌でも掲載されれば、投稿しないことと格段の差があること。それというのも、現在はPubMedなどで検索するために必ずしも有名な雑誌でなくても調べたい項目さえ入力すれば、どんなに無名な雑誌からの論文も読むことができるからである。最終的に、自分の分野の研究を一生懸命見てくれる雑誌と出会うことも重要である。私の場合、最近ではインパクトファクターは2.345とそれほど高くはないが、糖尿病眼合併症領域のことを熱心に読んでくれるEinar Stefánsseonが編集長をしているActa Ophthalmologicaに好んで投稿している。すなわち、毎晩楽しむ晩酌のお酒でも必ずしも値段が高いものだけがおいしいのではなく、値段的にも自分に適したお酒を見つけるのと同じ楽しみとなる。 

 初めにも述べたが、現在医学研究をとりまく問題は多いが、少なくとも私は無理やり結果を出す学問をしたくはないと考えている。そのためには、学問と業績を混同させることなく、論文化しにくいnegative dataを大切にし、医療をしていく上で自分が知りたいことを調べ、それを世界に発信し続けられたらと考えている 

【略歴】  加藤 聡 (カトウ サトシ)
 1987年 新潟大学医学部医学科卒業
     東京大学医学部附属病院眼科入局
 1990年 東京逓信病院眼科
 1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
 1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
 2000年 King’s College London, St.Thomas’Hospital研究員
 2001年 東京大学医学部眼科講師 
 2007年 東京大学医学部眼科准教授 
 2013年 日本ロービジョン学会理事長 
 2014年 東大病院眼科科長兼任 
  現在に至る 

 

演題:「摩訶まか緑内障」
講師:木内 良明 (広島大学眼科教授)
講演要旨
  「摩訶」は古代インド語であるサンスクリットの「まはー」に漢字をあてたもので大きいとか、偉大なという意味です。般若心教は摩訶般波羅蜜多経とも呼ばれます。浄土に至るコツを示した経であると説明されています。緑内障患者にたいして一生懸命治療をしても失明上位疾患にあげられるのは不本意です。また、疾患や失明を恐れるだけでは患者さんを救うことができないわけですから、我々はその原因をさぐり、より良い治療方法を見つけ出さなくてはいけません。緑内障診療の浄土に至る道は遠く険しく感じます。 

 最近、五木寛之「親鸞」の連載が完結しました。親鸞は浄土真宗の宗祖です。「本願を信じ念仏申さば仏になる」と示されています。浄土真宗は「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する教えを持っています。法然の浄土宗と並んでこの他力本願の教えは多くの日本人に受け入れられました。今回の公演を行うに当たり、自分が緑内障に関する研究に携わった歴史を振り返えるという作業を行いました。その結果「他力本願」の人生であると改めて感じた次第です。この道一筋といった研究もなく、自分から進んで行った研究もありません。ただ、周りの環境に合わせながら「南無阿弥陀仏」の名号ではなく、ひたすら「なんでや、ほんまかいな」と唱えているだけです。 

 1983年に広島大学の眼科学教室に入局して、その後数年は自分の頭で考えて何かをするというよりも、命じられた仕事をひたすらこなすという毎日でした。それでも入局4年目ごろに学位は解剖学教室で、眼の発生の研究を行いたいと考えるようになりました。ニワトリの杯にウズラの杯の一部を移植することでニワトリとウズラのキメラを作る研究です。しかし、指導教官が米国留学し、さらに京都府立医大の教授になられました。仕方がないので眼科学教室の緑内障グループに参加することにしました。 

【細胞内情報伝達系の研究】
 広島大学の緑内障グループは毛様体の細胞内情報伝達系、特にcyclic AMP系の研究を行っていました。当時の三嶋助教授がYALE大学に留学していた時から始めた研究です。cyclic AMP分解酵素を阻害する薬剤を使って、眼圧、房水循環動態、毛様体の形態変化を研究して学位をもらいました。1980年代は細胞内情報伝達系の研究が注目を浴びておりました。特に神戸大学の西塚泰美先生はプロテインキナーゼCを発見し、新しい細胞内情報伝達系を明らかにしました。西塚泰美先生はノーベル賞候補と言われておりました。私のすぐ下の学年の医師も毛様体におけるプロテインキナーゼCの研究で学位をもらっています。三嶋助教授のご縁もあって学位をもらった直後にYALE大学の眼科学教室に留学させていただきました。 

【眼圧日内変動の研究】
 YALE大学の眼科学教室では眼圧日内変動をコントロールするメカニズムを解明する研究が行われていました。その一つの手段として細胞内情報伝達系の研究が使われていました。研究に専念できる環境は楽しく、有意義なものでした。家兎の眼圧日内変動には交感神経のうちα1受容体を介するシグナルが関与すること、メラトニンが関係しないことなどを明らかにすることができました。 

【ラタノプロストの開発】
 1993年に帰国するとキサラタンの開発が行われている最中で、キサラタンの開発研究にPhase 1から参加することができました。ラタノプロストの眼圧下降機序、ラタノプロストの眼圧日内変動に関する研究を行いました。やはり自分からの意志で何かを研究しようとしていません。自分の目の前にある餌、あるいは教授や助教授が用意してくれた餌を順番に食べていただけです。臨床は緑内障外来を担当しており、緑内障の手術を主に行っていました。教授が病院長になられて眼瞼下垂、眼瞼や眼窩の腫瘍の治療が回ってきたのは後で役に立ちました。 

【難治緑内障の治療】
 ちょうどこのころ超音波白内障手術が日本で広まり始めたころでした。小切開白内障手術は患者に大きな福音をもたらします。しかし、広島大学病院という環境ではその手技を習得することは不可能でした。志願して1996年の1年間は広島赤十字・原爆病院に出向して、前眼部から網膜まで幅広い疾患の診療を行いました。大学病院では緑内障馬鹿になっていたことに気づきました。眼科医として良いリハビリになったようです。翌年の1997年4月からは国立大阪病院で勤務させていただきました。実家の眼科が近いという理由もあってよい病診連携をとることができました。大阪というところは眼科の専門分化が進んだところでしたので、再び緑内障を専門としました。 

 国立大阪病院はそれまでの部長が硝子体手術やぶどう膜炎をご専門にされていた関係から血管新生緑内障やぶどう膜炎に続発した緑内障の患者がたくさんいました。難治性の緑内障に対する手術症例に恵まれ、より良い成績を得る方法を研修医の先生たちと考えました。ウサギ小屋もありましたのでラタノプロストが炎症眼に及ぼす影響を調べることができ、薬剤部の方たちとブナゾシンやドルゾラミドがメラニン色素に吸着する様子も観察しました。2003年から大手前病院に転勤となりました。ここの眼科は前眼部疾患の治療を専門とするところで、角膜移植も年間100件以上行われていました。レーシック用のエキシマレーザーもありました。角膜移植の3大合併症は、感染、拒絶反応、緑内障です。多くの移植後の緑内障の患者さんを診させていただきました。血管新生緑内障であれ、前眼部の病気に続発した緑内障であれ、チューブ手術を行っても眼圧を落ち着かせることができない症例がたまってきました。緑内障診療の地の果てを見た思いです。ここから先は基礎的な研究を絡ませないと臨床の進歩はないと感じていたところに、2006年に広島大学に戻る話が出てきたわけです。 

【眼に見えない現象を見る研究】
 広島大学に戻ったら手術治療の成績を向上させる研究をするぞ、と思っていました。しかし、待っていたのは原爆被爆者の緑内障調査と眼圧測定の様子を高速カメラで撮影するという研究でした。通常の状態では放射線は眼に見ることができません。非接触型の眼圧計で眼圧を測定する様子も眼に見えません。肉眼で見えないものを調べるいずれの研究も重要、かつ面白い研究です。幸い両者とも論文化することができ、第1段階をまとめることができました。放射線の影響を調べる研究の最大の危険因子は政治であることがわかりました。 

【この後】
 バルベルトインプラントが出てきて小児緑内障を含めて難治緑内障患者を救うことができるエリアが広がってまいりました。しかし、緑内障手術治療の成績改善の研究はまだまだ手につきません。「眼に見えない現象を見る研究」もまだ第1段階が終了しただけで完結していません。
 自分一人が面白がって研究を進めても仕方ありません。大学の永遠のテーマですが若い先生の教育が大切です。このテーマも眼の前に転がっている、仕方なしのテーマです。しかも「なんで研究しないのや」と仮説を立てての実験がしにくいのです。南無阿弥陀仏。 

【略歴】
 1983年 広島大学医学部医学科卒業
 1999年 広島大学医学部助手
 1990年 Yale大学 Yale Eye Center, Post doctoral associate
 1997年 国立大阪病院(眼科)医師
 2003年 国家公務員共済組合連合会 大手前病院眼科部長
 2006年 広島大学大学院医歯薬学総合研究科視覚病態学 教授 現在に至る