『清五郎(せいごろう)の碑』 新潟開墾の歴史
2014年5月18日

 アルビレックス新潟のホームグランドである「デンカビッグスワンスタジアム」の所在地は、新潟市中央区清五郎。「清五郎」という地名の由来を調べた。
 デンカビッグスワンスタジアム

 http://www.denka-bigswan.com/

 新潟は「新しい潟」と書かれた字のごとく、
沼地だった。そこに腰まで水につかりながら田を作り、開墾して出来たのが「新潟」である。その開拓者の一人が清五郎。今の新潟市中央区清五郎地区を開墾して志半ばで病に倒れ、亡くなった。その清五郎にちなんで、彼が耕していた場所を「清五郎」と呼ぶようになった。鳥屋野潟の堤防に植えられた一本松の隣に、地元の「一本松保存会」が建立した石碑が「清五郎の碑」である。その碑に新潟開墾の歴史と共に、清五郎の地名の由来が記されている。 

『清五郎地区の伝承』
 この集落は、寛永十七年(一六四〇)に、八人の農民により拓かれた。新発田に移封された領主 溝口氏の新田開発に夢を託し、加賀の国大聖寺三谷村細坪を後にした八人は、村の鎮守春日大明神を奉じて舟に乗り、この地に到り開墾を始めた。しばらくして仲間のひとり清五郎が病に倒れた。薬を富山まで求め親身に看病したが、ついに帰らぬ人となる。皆は夢半ばにして世を去った友を偲び、彼が愛したこの地を『清五郎』と呼ぶことにした。
 開墾の苦労は想像を超えていた。鳥屋野潟の水も幾度となく押し寄せる。それでも先人達は助け合い、人力で堤防を築き『清五郎』を守り抜いた。石碑の建つ場所は、その堤防の名残である。石碑の隣の松は、清五郎川 川口の目印に植えられ『一本松』と呼ばれた。芦が囲う潟を霧が覆えば、船は方向を失う。かすかに見えるこの松を頼りに、救われた人は多い。舟人が家路を急ぐ頃、佐渡の端に沈む夕日は水面に映えて、満目の水郷は武陵桃源の趣を見せていた。この情景は明治の漢詩に、鳥屋野潟八景の一つ『清里の夕照』と謳われた。
 我々は、この地を見守り続けた堤防と『一本松』を保存し、先人の努力を称えると共に、助け合いの精神が、いつまでも受け継がれることを願い、歴史の一端を石碑に記した。

 平成十九年五月
 清五郎地区 一本松保存会
 財団法人 亀田郷地域センター
http://www.kchiikicenter.jp/intro/segoro.html

 

「地図にない湖」亀田郷 佐野藤三郎 
http://niigata.iryo-coop.com/sano-story.html
 亀田郷とは市町村制上の行政単位ではなく、亀田郷土地改良区の呼称で、信濃川、阿賀野川の河川に囲まれた、東西約12キロ、南北約11キ ロの輪中地帯。新潟市の中心部、面積11、000ヘクタールの米どころ新潟でも有数の穀倉地帯。その3分の2が海抜ゼロメートル地帯で周囲の川より2メートル低く、近くにある鳥屋野潟(とやのがた)を中心部としたすり鉢状の地形で放っておけば川から水が流れ込んでくる地帯です。戦後まもなくまで、亀田郷の大半が常に湛水状態にあり、これを評して「地図にない湖」といわれてきた。

 田植えや稲刈りの際には、胸や腰まである泥水につかりながら何時間もかかる農作業は過酷を極めました。さらに大河川の氾濫による洪水常襲地帯では、三年に一度は収穫皆無の水田もあったといわれる。稲刈り前日に大雨が降り、穂先まで水につかり収穫量が激減するなど苦労の連続でした。襲いかかる両大河の水を鎮め、深田を乾田化するのは亀田郷農民の夢であり、悲願であった。


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