『目の愛護デーの由来は新潟』 
2014年10月10日

 
10月10日は、体育の日(東京オリンピックの開会式の日)だけでなく、「目の愛護デー」ということを知っておられる方は多いと思いますが、新潟と深く関係していることをご存知ですか?
以下に、幾つか根拠を挙げてみました。


1) 『明治天皇聖徳記念碑』 新潟市
http://andonoburo.net/off/1790

 明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、新潟大学医歯学総合病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。

 そこに記載されている内容は、、、明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。。

 当時、新潟県にはトラコーマの蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが当時27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にあったのである。


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2) 京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
 http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html

 10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。

 それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。

 これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422


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3) 新潟大学眼科HPより
 新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?
 http://www.med.niigata-u.ac.jp/oph/about_us1.html

 官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。

 明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。

 明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。

 因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在は10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。

 明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。

 ところでこのエピソードの要所要所に登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。

 幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。


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4) 竹山病院(新潟市)HP
http://www.takeyama-hsp.com/about_outline.html

竹山 屯(たむろ)
 慶応元年長崎に留学して医学を学び、新潟県医官となり、新潟医学校長(現新潟大学医学部)の職に就いて医育に尽瘁し、特に明治11年明治天皇の北陸巡幸に際して越後に入ってから沿道の住民に目の悪い者が非常に多い事に気付かれ病院長にご下問があり、その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上したことにより、ご下賜金を賜り眼疾の治療及び予防に尽くすようご沙汰があり、これを記念した石碑が現在も新潟医学所跡地に建立されております。竹山病院開設者。


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5) 千葉県眼科医会  「目の愛護デー」の由来について
 http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm
 (残念ながら、このURLは現在、無効)
 失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。

 ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。

 戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。


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6) 報告:【目の愛護デー記念講演会 2012】 岩田和雄名誉教授
 (第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題 「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」 
  講師 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:平成24年10月10日(水)16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
http://andonoburo.net/on/2595

【講演要旨】
 誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。

 当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。
(途中略)


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