「眼科医として私だからできること」 報告:第212回(13‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
2013年10月14日

報告:第212回(13‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「眼科医として私だからできること」
 講師:西田 朋美
             (国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部 眼科医長)

  日時:平成25年10月9日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 私が眼科医を目指した動機は、父の病である。父は、私が生まれる前にベーチェット病が原因で失明しており、私は見えている時代の父を知らない。父が見えないことに気付いたのは就学前で、どうして見えないのか?と母にたずねた。母がその時に教えてくれた「ベーチェット病」という言葉は強く心に残り、私にとっては父から視力を奪った憎むべき敵であった。この敵に立ち向かうには、眼科医になって戦うしかないと幼い私は真剣に考えていた。 

 その後、幼い頃からの願いが実現し、私は本当に眼科医になった。しかも、ベーチェット病研究の第一人者の先生が率いる教室で学ばせていただけるという、とても恵まれた環境に身を置くことができた。新しい門出に意気揚々する反面、どうして医療の現場では福祉のことを学ぶことがないのだろう?と思うことも増えてきた。幼い頃から、盲学校や視力障害センターで勤務していた父を通して、数多くの視覚障害者の方々と交流する機会があった私にとっては、医療と福祉はとても密接したものという印象があった。しかし、実際には決してそうではない。その疑問は自分の臨床経験が増えるにつれ、ますます大きくなってきた。そして、多くの眼科医が視覚障害の患者さんに対して声をかける内容は、「見えなくなったら、エライことですからね、大変ですからね・・・」であり、それに対する視覚障害の患者さんの発言は、「見えなくなったら、何もできないし、死んだほうがまし、他がどんなに悪くなっても、目だけは見えていたい・・・」といった種類の言葉が大半だった。毎度その言葉を臨床の場で耳にするたびに、私には何か違うのでは?と思うことばかりだった。いろいろと自分なりに考えてみたが、一般社会にも眼科医にも視覚障害者の日常が単に知られていないのだという結論に至った。 

 振り返れば、私は幼少時から明るく楽しい視覚障害者と触れる機会が多く、視覚障害だからという理由で打ちひしがれている印象がほとんどなかったこともあり、逆に少々ショックだった。今はカリキュラムが違っているかもしれないが、思えば、私の医学部時代には障害者や福祉、診断書の書き方ひとつまともに習ったことがない。少しは患者さんに対してポジティブな発言ができるように、これからは医学部の学生や研修医の期間に、障害者や福祉に関しての知識が得られるようになるとよいと思う。 

 私が医者になって、20年が過ぎた。一般の眼科業務に加えて、私がぜひ継続して活動したいと思うことがいくつかある。一つ目は、視覚障害に関して、一般に正しく知ってもらうこと、二つ目は、ロービジョンケアと視覚障害スポーツに関して啓発していくこと、三つ目は、私がこの道にいる原点ともいえるベーチェット病に関して学び続けること、つまり、ベーチェット病研究班の会議を傍聴していくことである。2000年に第一回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いを通して、諸外国のベーチェット病患者さんが治療薬を手に入れるためにいかにご苦労されているのかを思い知った。それを機に、父が2001年にNPO法人眼炎症スタディーグループを立ち上げ、いくつかの国にコルヒチンを寄贈してきた。しかし、度重なる世情不安の中で継続困難となり、その後に法人名を海外たすけあいロービジョンネットワークと変えて、ロービジョンエイドを必要な諸外国に寄贈する活動を行っている。今年はそのために9月にモンゴルへ出向き、モンゴル眼科医会に拡大読書器、拡大鏡などを実際に運び、現地のニーズや活用状況を視察してきた。この手の活動もぜひ継続していきたい。 

 「失明を 幸に変えよと言いし母 臨終の日にも 我に念押す」は父が詠んだ短歌である。父がいよいよ見えなくなってきた時、医師に事実上の失明宣告を受けた。その直後、父の母は父に対して、「失明は誰でも経験できることではない。これを貴重な経験と思い、これを生かした仕事をしてはどうか?それがたとえどんなに小さな仕事でも、ひとつの社会貢献になるのではないか?」と語った。父もその言葉をすぐには受け入れることはできなかったようだが、失明して50年以上経過した今でも、父の座右の銘となり、これまで父は自分と同じ中途視覚障害の教え子さんたちにもこの言葉を語り続けてきたそうだ。私が思うに、この言葉は私にそのままあてはまる。眼科医の私にとって、生まれた時から視覚障害の父がいるということは、これ以上ない貴重な経験である。私の勤務先には、多くの視覚障害の患者さんがいらっしゃる。その方々を拝見する中で、私がこの半生で父を通して経験したことが実に役立つ。 

 こんな私なので、一般的な眼科医の仕事だけをしていたのでは、眼科医になった意味がない。あと何年眼科医ができるかわからないが、自分のミッションだと思って、今後私だからやれる仕事を眼科医の立場からできる限りやっていきたいと願っている。 

【略歴】
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科修了
 1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所留学
 2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部 眼科医長 
  現在に至る 

【後記】
 『眼科医として私だからこそできること』西田先生の力強い言葉が会場に響きました、、、、「私が生まれた時には、父は目が見えなかった」「父を目を見えないようにしたベ-チェット病は敵だった」「医師になって、やっと念願のベ-チェット病の研究に専念することが出来た」「医者は、障害者や福祉のことを知らな過ぎる」、、、参加者は、皆、感銘を受けました。
 「私だからできる仕事」ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指すとも聞こえました。自分にとってオンリーワンの仕事は何だろうと、講演を聞きながら自問自答しました。