報告:第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
2014年3月15日

報告:第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
 講師:関 恒子 (松本市)
  日時:平成26年2月12日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 

【講演要約】
 黄斑変性症の発症から18年が経過した今、診断から入院治療、そして日常に戻って現在に至るまでを振り返る。心のうちに感じてきた一人の患者の想いに共感と理解を戴けたら幸いである。 

私の病歴
 1996年1月、先ず左眼に、その10ヶ月後右眼にも近視性血管新生黄斑症を発症し、左眼は1997年に強膜短縮の黄斑移動術を受け、右眼は1999年に全周切開の黄斑移動術を受けた。手術後も6年間は合併症や再発のために数度の入院手術を行い、様々な治療を受けている。現在は左眼0.3~0.4、右眼0.1~0.2、網膜の委縮のために視野の欠落が進行中である。 

診断当時のこと ー 家族の支えと良き協力者の存在
 発端は起床時左眼に見つけた小さな歪みだった。目の病気に対する知識が皆無だったため、一時的なものかもしれないと様子を見ていたが、歪みは解消せず、拡大したため、1週間後開業医を受診した。直ちに大学病院を紹介され、検査の結果、近視性血管新生黄斑症と診断された。その際「視力は低下していくだろう」ということと、「確立した治療法はない」ということが告げられた。 

 視力が低下すると聞いた時、先ず私の脳裏に浮かんだのは失明した自分の姿だった。そして字も読めなくなったら、これから先どうやって生きていったらいいのだろうと、思ってもいなかった診断結果に呆然とした。失明への不安と自分の将来への失望はとても大きく、有効な治療法がないということが更に私に打撃を与えた。 

 私は強度近視を持っていたが、それまで眼で特に苦労したことはなく、眼に特別な注意を払ったこともなかった。視力が低下すると言われて初めて眼の大切さに気付いた程だったが、その思いは「視力を失うくらいなら命を失うほうがましだ。私の眼は命より大切だ」というようになっていた。その私に夫は「命がなくなるわけではないからいいではないか」と言ってくれたが、その時の私には何の慰めにもならなかった。しかし期せずして私の二人の子供がそれぞれ夫と同じ様なことを言い、更に「世の中には全盲の人たちもいて、みんな元気に生きているよ」と息子に言われた時、初めて死んだほうがましだと考えた自分を恥じる気持になった。 

 動揺している私に対して、家族が少しも動揺を見せず、「生きていればいいではないか」と言ってくれた家族には今でも感謝している。もし家族までが動揺したり、悲しんだりする様子を見せたら、私の心痛は増していたに違いない。 

 次回の来院の時、開業医の先生は私に近視について書かれた一冊の本をくださった。私はその本によって自分の病気を理解し、冷静に見ることができるようになったと思う。後に症状が進行して行く過程においても、その知識は非常に役立った。過剰な心配や不安を抑えるためにも正しい知識は必要だ。この開業医の先生は、後に手術を決意する際にも多大な協力を惜しまず、現在に至るまで身近な先生として相談にのってくれている。私が発症した当時は黄斑変性症の情報はほとんどなかったが、この先生のような良い協力者がいてくれたことはこの上ない幸せなことであり、大変感謝している。 

入院治療の日々 ― 自分が選択したことには責任を持たねばならない
 発症から10ヶ月経つ頃には左眼で見る景色は何もかもがひどく屈折し、視野の中心にリング状の霞ができ、視力も0.3~0.4に落ちていた。右眼にも発症したのはそんな時だった。右眼の発症についてはある程度の覚悟はあったが、やはり衝撃を受け、何らかの治療を受けたいと切に願った。有効な治療法がないとされる中、通院していた大学病院から提案されたのは左眼の新生血管抜去術だった。しかし呈示された手術成績に不安を持った私は、開業医の先生に相談して転院し、そこで選択したのは、まだ確立していない最先端の黄斑移動術を受けることだった。 

 網膜手術の危険性など思い及ばなかった私は、視力改善の可能性があるとだけを聞いて手術を承諾してしまったが、病院を紹介してくれた開業医の先生にそれを報告すると、手術の決断をするには情報が不十分であるとの指摘を受けた。私たちは参考となる論文を取り寄せ、手術医にも説明をお願いし、そして最後の決断は私に任されたが、結局私は手術を受けることを決意した。視力の低下を認識しながら何の治療も受けずにいることの不安と苛立ちは、予後のわからない新しい手術を受けることの不安よりも遥かに大きかったからである。 

 この手術の結果は期待通りにはならず、不測の事態も様々起きたが、私は手術を受けたことを後悔したことはない。何もせずにいることは私にはできなかっただろうし、手術は当時の私に大きな希望を与えてくれた。選択が正しかったかどうかは見方によって異なるであろう。だが当時の私にとって最善の選択であったと信じ、自分自身の選択には責任を持たなければならないと思っている。 

 手術後の左眼は合併症や繰り返す再発で入院も長引き、更に数度の入院手術を繰り返したが、2年後には0.1~0.2になった右眼にも黄斑移動術を勧められた。しかし左眼の術中に生じた耳側の視野の欠損や、見え方の質の大切さを考えると、両眼に移動術を受けることは大いにためらわれた。たとえ視力0.1であっても、中心窩の暗点以外は正常だったので、私は右眼に頼って生活していたからである。右眼に施されようとしている手術は左眼のものと手法が異なる事、早いほうが効果的である事など主治医の熱い説得によって、結局私は手術を承諾した。幸い術後の経過は良好で、合併症や再発は起こらず、視力は0.6に改善し、私は見えるということに感動した。 

日常に戻って ― 目は見えるうちに…だが目には見えない大切な物もある
 6年間に渡る治療が終わり、日常に戻ってみると、右眼には淡色系の色の判別や遠近感、暗順応、両眼視などの問題があったものの、生活の質は向上し、私は感謝の日々を送った。しかし再び視力が低下することが考えられたので、視力が保たれている間に視力を最大限に活用しようと、拡大鏡を使って読書に励み、大学に通ってドイツ文学を学び始めた。これは私の「見える喜び」を更に大きくしてくれた。病を得たことによって失ったものは確かにある。しかし失ったものの数を数えても仕方がないから私は今何ができるかを考えて生きたい。病という負の要素は私に奮起する力を与えてくれた。ドイツ文学も、このところ毎年行っている単身の海外旅行もこれによるものである。 

 現在私の両眼は網膜萎縮による視野狭窄が進行して術前より状態は悪く、かなり生活を脅かしている。本当の困難はむしろこれからだろうと思っている。 

 最後に、「見える」ということについて考えてみたい。人は情報の80%を目から得ているという。これを聞く度に低視力者はどうなるのだろうと心配になる。だが、たとえ見えていたとしても本当に見たと言える物はどれだけあるだろうか。人は見える物全てを記憶にとどめる訳ではなく、自分に有用な情報だけを選別している。これは聞こえる物についても同じで、意識の違いによって見える物も聞こえる物も変わってくるはずだ。サン=テグジュペリは『星の王子様』の中で、「物事は心でしか見えない。大切な物は目には見えない」と言っている。私は視覚障害を持って以来、見える世界をとても大切にしてきた。しかしこれからは目には見えない大切な物の世界を探しながら生きたいと思う。 


【略歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
 趣味は音楽と旅行。フルートの演奏を楽しんでいる。地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。 


【後記】
 壮絶な18年間のドラマを拝聴した。18年前までは、ごく普通に見える生活を送っていた関さんが、眼科で「近視性血管新生黄斑症」と診断されて以来、生活も人生も大きく変わった。その後の長い闘病生活、治療はまだ手探り状態、そうした中で地元の主治医と相談し、当時最先端の治療を受ける。手術を何度も繰り返した。
 そうした過程で、治療を受ける患者の哲学(充分な告知・インフォームドコンセントを受けて、治療法について他人任せにせず自己責任のもとで自己決定しする)を学んでいく。
最後に、物事は心でしか見えない。大切なものは目には見えないという境地に至る。今後は眼に見えない大切な世界を探して生きていくと結んだ。
 関さんが歩んでこられたこれまでの人生を尊敬し、この勉強会で語って頂いたことに感謝致します。今後、ますます有意義な日々を過ごされることを祈念致します。 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
 眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
  日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年4月9日(水)16:30~18:00
  「視覚障害とゲームとQOLと…」
     前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科) 

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
  「視覚障がい者支援センター「ひかりの森」の過去・現在・未来
                  ~地域生活支援の拠点として~」
     松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
   「生きていてよかった!」
   上林洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長) 

 平成26年7月
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会