報告 第147回(08‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会  栗原 隆
2008年5月14日

報告:第147回(08‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会  栗原 隆
 演題:『自らの身体への自己決定と身体の公共性』
 講師:栗原 隆(新潟大学人文学部教授)
  日時:平成20年5月14日(水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】 
1)臓器売買の自由はあるか?
 自由主義とは、以下のように定義される。a)判断能力のある大人なら、b)自分の生命、身体、財産に関して、c)他人に危害を及ぼさない限り、d)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、e)自己決定の権限を持つ(加藤尚武『現代倫理学入門』)。
 では、臓器売買について自己決定はできるのか? 

2)法律で決まっているからとはいえ、どうして臓器を売買することはいけないのか?
 臓器が少ない現状では、人助けとなる自発的な自己犠牲とも言える臓器売買は許されていいのではないか?とも考えられる。
 以下に資料を示す。 

 日本における臓器移植希望者数(2008年4月末現在)と2006年の移植数
         待機患者数      脳死移植数   生体移植数

  心臓          100            10           0

  心肺同時         4              0           0

  肺            115             3           4

  肝臓          201              5        505

  腎臓     11,802    16+死体181      939
 

 2006年に行なわれた実際の移植数(国際比較)
          心臓      腎臓     肝臓

  日本      10   1,136    510

  アメリカ 2,224  17,091  6,650

  イギリス   162   2,130    659

  フランス   380   2,731  1,037
 

3)どのように売買が禁止されているのか?(法的根拠)
 「何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条1項)。
 「何人も、移植術に使用されるための臓器の提供を受けること若しくは受けたことの対価として財産上の利益の供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条2項)。
 さらに、「前各項の規定のいずれかに違反する行為に係るものであることを知って」臓器の摘出、使用を行なうことが、5項で禁じられている。 

4)世界でも売買は禁止されている
 しかしながら、臓器売買の禁止は、個人の自己決定によって、自らの臓器を売買して利益を手にしたいと考える人の自己決定権を侵害しているとも言えるし、また臓器の提供数の増加を阻害しているとも考えることができる。 

5)なぜ臓器売買が禁止されているのか
 「富者による『搾取』から貧者を『守る』必要がある」という議論が前提になっている。 

―反論―
 ラドクリフ・リチャーズ:十分な情報が提供され、支払いも確実になされるようにするためには、政府による適切な規制のもとで臓器売買がなされるようにするほうが望ましい。
 安部圭介・米倉滋人:個々の病院が臓器売買を恐れて一方的にルールを定め、そのために移植の必要な患者の親族に心理的圧迫が加えられたり、逆に臓器提供者が見つかっているにもかかわらず、親族ではないために移植がなされず、患者の生命が救われなかったりする状況は、経済的弱者の『保護』を言いつつ、別の弱者を抑圧する結果を招いていると言わざるを得ない。
 結局、臓器売買は、コントロールされた条件下、状況において許される!!という主張である。 

6)これを聞いて釈然としない気持ちはどこから来るのか?
 人体は売り物ではないという思想がある。売春、援助交際は、違法であり、倫理に反する。それは身体を売ることだからいけない、とされている。
 人間の尊厳は、道具を使うところにあるのだ。道具とは自らの外部の自然物を対象化して自らの目的遂行のための手段とすることである。自らの身体そのものを道具・手段にするのでは、動物と同じで、それでは人間の尊厳は失われる。 

小括
(脳死からの)臓器移植は、
1)「技術をもってできることなら」という〈技術信奉〉の流れのなかで、
2)生命を維持するためには、他人の臓器を買ってでもなんだって治そう、いや治すことができるという〈生命至上主義〉を大前提として、
3)他人の臓器であろうと、病気の臓器であろうと、とりあえず役に立つものは何だって使って、とりあえず、病状の改善という結果が出るなら、それは良いことだと見る〈功利主義〉に、
4)自らの身体に関しては、各々が「自由な自己決定権」を持っているので、自分の身体を文字通り売ってでも金銭を得たいという、〈自己決定〉も尊重されるべきという自由主義が後ろ盾をしている思想基盤の上で、
5)現実に臓器が不足している、というストーリーが進行するところに正当化されることになる。

 加えてしかも、脳死からの臓器移植がご遺体の損壊に繋がりかねず、また他人の死を待つ医療であるという後ろめたさを斟酌するならなおのこと、自発的な臓器売買は〈倫理的に許される〉、ということになるかもしれない。
 この結論で皆さんは満足するだろうか? なにやらグロテスクな話しになりかねない。 

 医療行為は、健康を回復するためのものである。ところがその提供者にあっては、健康を回復するどころかリスクが残る。したがって、健康な提供者から、金銭授受を目的として臓器を摘出することは、医療の目的からして許されることではない。 

7)人間の尊厳
 仮に、〈技術信奉〉〈生命至上主義〉〈功利主義〉〈自己決定〉のいずれを強調するにしても、臓器売買は、健康な体から臓器を摘出するものである以上、医療の目的に反する。人間は自ら「目的」なのであって、〈手段〉に堕すなら、人間の尊厳に悖る。
 「君自身の人格ならびに他のすべての人格に例外なく存するところの人間性を、いつまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」(カント『道徳形而上学原論』)。 

8)しかし、これで落ち着くであろうか?
 〈したい〉ことの実現を目指すのが〈自己決定〉であって、「するべきこと」実現を目指す「自律」とはまったく違う。従って、自らの身体への自己決定権が持ち出される限り、倫理性に反することさえ追求されることになる。
 臓器移植は、そうした自己決定権が認められるべきだという虚構の倫理性の上に成り立っている。その極端な形が臓器売買ということになろう。 

9)身体の公共性
 身体は個人の持ちものではない。身体=私である以上、自由な処分対象にはならない。
 「他人の身になる」―「身を持ち崩す」―「身から出た錆び」―「医療に身を入れる」―「身の程を知らない」―「身を立てる」
 そもそも、身体は、誰の所有物でもない。だからこそ自由に処分されえない、人格の尊厳の証なのである。 

10)人権観念の違い
 アメリカ式の考え方:人権とは個人の自由と権利であって、それ以上でも以下でもない。自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由であるとして、広範な処分権をその人個人人認めるのが基本となる。
 人体要素の売買も一概には禁止されない。移植目的で提供された臓器や組織の売買は法で禁じられているが、提供された組織を保存・仮構して売買することは認められ、広くビジネスとして行なわれている(橳島次郎『先端医療のルール』)。
 フランスの民法では、「法は人身の至上性を保障し、その尊厳へのあらゆる侵害を禁じ、人をその生命の始まりから尊重することを保障する」 (民法典第16条)。
 「各人は自らの体を尊重される権利を持つ」として、「人体の尊重」を人権として認める(同16条の1)。
 そのうえで、「人身の尊厳」の具体的な中身として、「人の体は不可侵である。人の体、その要素およびその産物は、財産権の対象にできない」(第16の1条)。――不可侵の原則
 「治療が必要な場合に人体への侵襲を行なうには、それに先立って本人の同意を取らなければならない」(第16条の3)。――同意原則
 「人体とその要素および産物に財産上の価値を与える効果を持つ取り決めは、無効である」(第16の5条)、「自分自身に対する実験研究や、自分の体の要素の摘出もしくは産物の採取に同意した者には、いかなる報酬も与えてはならない」(第16の6条)――無償原則 

 フランス国務院の報告書 『同意はすべての場合に不可欠であるが、すべてをカバーすることはできない。人は、部分であろうと全体であろうと自らの体についていたいと思うことを絶対にする自由を持つものではない。人格はその人自身からも守られなければいけないというのが、公共の秩序による要請である(橳島次郎『先端医療のルール』)。 

 自己決定が有効な範囲と身体の公共性への認識を深めることが必要である。 

 

【栗原隆氏 略歴】
 1951年11月 新潟県生まれ 小学校三年まで新潟市
 1970年3月 新潟県立長岡高等学校 卒業
 1974年3月 新潟大学人文学部哲学科 卒業
 1976年4月 名古屋大学大学院文学研究科(修士課程) 入学
 1977年3月 同 中退
 1979年3月 東北大学大学院文学研究科(修士課程)終了
 1984年3月 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)修了 学術博士の学位取得
 1984年8月 神戸大学大学院文化学研究科 助手
 1987年4月 神戸女子薬科大学 非常勤講師
 1991年4月 新潟大学教養部 助教授
 1994年4月 新潟大学人文学部 助教授
 1995年2月 新潟大学人文学部 教授  
  専門は、生命倫理学、環境倫理学、近世哲学(ドイツ観念論)

 

 

【後 記】
 臓器売買の自由はあるか?という今回の話題、かなり刺激的でした。人は誰でも長く、そして健やかに生きたいと願います。時には人の臓器を提供して頂いてでも、万能細胞の力を借りてでも、、、、、。 諸外国に比べ、日本における臓器移植の少ないという事実。今や臓器移植を望むなら、インドやフィリピンにでも行かなければならない時代です。 

 現代は、核家族化が進み、おじいさん・おばあさんと一緒に住むことが少なくなりました。身近な人の「死」を経験することがなくなりました。そして「死」を受け入れること、「死」について考える機会が少なくなってきました。臓器移植ばかりでなく、万能細胞や再生医療の話題が毎日のように流れて来ます。そもそも医学とは人間を死なないようにする学問だったのでしょうか? 
 しかし、誰も死ななくなったらどうなるのでしょうか?限りある資源環境である地球に住む人類、人口が増え続ることは不可能です。「死」を受け入れる覚悟も必要かもしれません。 

 それにしても今回のお話は、臓器売買の危うさを論理的に解釈することの大事さを示してくれました。生命倫理において、論理的思考は重要です。そして人間の生きるべき道筋を深く洞察する哲学が深く関わることも理解できました。一方、これは変だなと直観的に感じることのできる皮膚感覚を磨くことも大切だと感じました。
 毎回、興味深い話題を提供して下さる栗原隆先生に感謝致します。