勉強会報告

2011年10月28日

 演題:「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
 講師:遁所 直樹(とんどころ なおき)
     社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長)
   日時:平成23年10月12日 (水) 16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要旨】
1)初めに
 昭和62年6月25日に五十嵐浜に飛び込んで首の骨を折り、重度の障がい者となりました。社会復帰をしたいと思っても、どうやったら社会人になれるのか、病院に2年半、施設に3年半おりました。社会的な入院と施設入所待ちのための6年にしてはならないと思い悩んでいました。 

 平成5年9月にダスキン障がい者リーダー海外派遣事業13期生としてアメリカの障がい者の生活を研修することができました。そこでは資格を取得して自立生活センターという障がい者が障がい者のための介護サービスや権利擁護活動を行っていました。特に私よりも重度の障がいをもって生き生きと勉強している姿を見て、日本では否定されていたこと(それはすごい理不尽なことと思っていましたが)アメリカでそうではなく合理的な配慮を求めて主張してよいことを確認したのです。日本では入学を認めてもらえなかった男性の障がい者(日本人)がカリフォルニアの大学で勉強していることからも納得しました。 

 ちなみに当時は私のような障がいがいちばん不幸であると思っていましたが、今は不本意な理由でレッテルを貼られ差別を受けている障がいの方がいらっしゃることを強く感じます。(平成23年11月13日新潟大学南キャンパスときめいとにおいて黒岩弁護士さんと障害者差別禁止法についてディスカッションします) 

2)資格取得
 目標は定まったのですが、現実的にどのように動いて良いか解らず、新潟に帰ってきてから、しばらく自宅での生活が続きましたが、行政書士・社会福祉士の資格を取得し、介護老人保健施設に就職しました。今までお客様であるという立場から社会人として厳しい現実を経験した2年半でした。結局体をこわして辞めることになりましたが、人間関係の難しさ、社会人として責任を学びました。 

3)自立生活支援センター新潟発足
 平成7年10月に篠田さんという脳性麻痺の障がいを持った方が中心として自立生活支援センター新潟を新潟市西区で立ち上げたのです。いつかは何らかの形で関わりたいと思いながら、接点がなく、高齢者福祉の援助者として活動をしておりました。彼らは月1回の入浴介助の生活保障しかなかったときから権利を主張し制度拡大のため活動されてこられました。私自身としては新潟県医療費助成が訪問看護で利用できるように要望書を提出し実現したこと、行政書士のワープロ受験を認めてもらったことなど啓発され実行してきました。 

4)NPO法人自立生活センター新潟
 平成12年市町村障がい者相談事業を自立生活支援センター新潟が新潟市から委託され、その相談員として自立生活支援センター新潟に就職したのです。そこから、平成15年支援費制度、平成18年障害者自立支援法と障がい者の制度がめまぐるしく動き始め、措置から契約に障がい者サービスも変わる時期に、NPO法人の申請を手探りでしたことを思い出します。介助サービスを受ける立場から介助サービスを提供する事業所となり、素人集団が経営に着手しても、なかなか軌道に乗ることができません。 

 さらに三条市水害、中越震災、中越沖地震など新潟で大きな災害が起こり、全国の障害者団体から問い合わせ先、および被災地支援の窓口としてその責任を果たすべくできることを少しずつ行いました。そのさなか、前事務局長が心不全で倒れ、運営は滞ることが多くなり、同時に職員も疲弊してこの時期は組織の立て直しに力を入れ途方に暮れたこともありました。 

5)そして社会福祉法人へ
 試行錯誤しながら10年たった平成22年、土地と建物をNPO法人所有にしたことを機会に、社会福祉法人の申請を行ったのです。NPO法人は創始者が抜けたらその理念を継続することは難しいといわれております。社会福祉法人にすることで、高齢者になっても、障がいをもっても最後まで地域で暮らすこと、さらには一般市民の視線に立った当たり前の暮らしができるように支援するという方針を継続していきたいと願い、社会福祉法人設立に至りました。 

 法人は障がい者が主体となって活動することを特徴としています。自立生活プログラムとピアカウンセリングを継続的に行うため、この10月1日地域活動支援センターぴあポートを開設しました。トイレットペーパーの販売、自立生活プログラムとして毎日の食事作りから始めています。 

 この10月から同行援護、グループホーム、ケアホームの住宅補助が開始されております、さらに来年からは障害者相談支援事業として指定特定相談事業(ケアプラン作成)および指定一般相談事業が開始されます。この大きな社会保障の制度の変遷に対応することができる懐の大きな法人として成長できるように努めていきたいと思います。
 

【追記】
 遁所さんが勉強会でお話するのは、今回が3回目です。そして登場する度に、進化した姿を披露してくれます。 

 第91回 2003年12月10日
 「期待せずあきらめず」遁所 直樹 
  新潟市障害者生活支援センター分室 
 頚椎損傷による四肢麻痺という障がいから、精神的にも立ち直り資格を得て、相談員として自立生活支援センター新潟に就職したころでした。「期待せず、諦めず」、記憶に残る言葉でした。家族をはじめ、多くの支援する人に巡り合うことができました。      
 
http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/chapter6-4.html 

 第121回 2006年4月12日
 「なぜ生まれる無年金障害者」遁所 直樹 
   NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
   兼 新潟学生無年金障害者の会 代表 
 当時の所属はNPO法人となっていました。全国の無年金障害者と手を取り合い、新潟での学生無年金障害の訴訟を起こしている最中でした。この訴訟を通してさまざまな弁護士さんと知り合いになれたといいます。「負けて勝つ」 国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負けるが、その後に制度は変わることがあるという話、新鮮でした。
 http://www.tcct.zaq.ne.jp/munenkin/niigata-kousaikiji.html 

 そして今回、第188回 2011年10月12日 
 「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
   遁所 直樹 
   社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長
 障がい者が主体となって活動することを旨とし、障がいを持っても最後まで地域で暮らし、当たり前の暮らしができるように支援する社会福祉法人を設立したということです。

 社会福祉法人自立生活福祉会ホームページ
 http://blog.canpan.info/jiritsu/

 学生時代の頚椎損傷による四肢麻痺という重い障がいは、遁所さんに大変な苦痛と努力を強いたのみでなく、社会的弱者のために頑張るという大きな目標を与えてくれたのだと思います、いや信じます。そんな彼をリスペクトし応援したいと思います。遁所さん、ますますの活躍を祈念しています。

2011年10月20日

「学問のすすめ」第5回講演会 済生会新潟第二病院眼科
 1)私と緑内障
    岩瀬 愛子 (たじみ岩瀬眼科)
 2)神経再生の最前線ー神経成長円錐の機能解明に向けてー
    栂野 哲哉 (新潟大学)

  日時:2011年10月29日(土)16時30分~19時30分
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

 リサーチマインドを持つ臨床医が育たなければ、医療の創造はありません。
 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、「学問のすすめ」講演会(主催:済生会新潟第二病院眼科)を、平成22年2月から開催しています。
 第5回講演会は、世界に誇る「多治見スタディ」を成し遂げた中心人物の一人である岩瀬愛子先生(たじみ岩瀬眼科)と、今井記念緑内障研究助成基金の平成22年度助成受賞の栂野哲哉先生(新潟大学眼科)に講師をお願いしました。
 

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私と緑内障
     岩瀬 愛子 (たじみ岩瀬眼科)
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【講演要旨】
 半生を語るという命題をもらい、どのようにして今までやってきたかを語るように依頼された。若い方の参考になるのか、まったくもって不明だけれども、自分を反省するよい機会としたい。

 昭和55年に岐阜大を卒業して眼科に入局した時、自分のテーマは「緑内障」と決めていた。当時の岐阜大は、早野三郎教授の下、黎明期の眼内レンズ関連の研究が主流であったのに「私は緑内障をやりたいのです」と研修医の分際で生意気にも早野教授に直訴したことがある。もちろん、眼内レンズ研究の動物実験のお手伝いもしていたが、願いかなって研修医としての私の最初の学会発表は、「閉塞隅角緑内障眼の生体計測」であり、早野教室としての最後の学会発表は、妊娠9カ月半で発表した「Mucopolysaccharidosisによる緑内障の病理」であった。後者は指導医舩橋正員先生のご指導で論文となった。

 直後に産休・育休に入り、勤務に復帰した時には、早野先生は学長になっておられ、後任の教授はなんと「緑内障」の北澤克明先生であった。テーマとして頂いたのは「ハンフリー視野計の日本第1号機」での仕事で、これは、同期の富田剛司先生(現東邦大眼科教授)が、最初に取り組み、器械の日本語化とデータベースの検証をしていたが、途中で留学されたことでその後の岐阜大のハンフリー視野計の仕事はすべて私にまわって来ることになったものであった。例えば、世界の収集サイトの一つとして「STATPAC用の正常眼データの収集~日本人正常眼データの同ソフトへの参加」、「SITAプログラム用の正常眼および緑内障眼データ収集」や「各種視野解析ソフトの開発・評価」などがあり、これらの関連研究で国際視野学会(IPS)にも参加させていただけるようになった。元々「緑内障」をテーマにしたい私であったので、IPSで多くの国内外の視野研究者及び緑内障研究者と接することができるようになったことは大変勉強になった。

 1990年、多治見市民病院眼科に赴任した。しかし、「自治体病院」での「研究」は周囲の理解がなかなか得られにくい状況であった。「自治体病院は大学のような研究機関ではない」、「学会出席のための休診は極力少なくして市民のために働けばよい」、「全科当直も当然であり、眼科24時間救急対応はDuty、研究をしている時間はあるのですか?」「男性医師でも言わないことを女医のくせに」などといわれ、そのたびに、さらに色々意見を言うと「眼科だけに特例は認められない。前例がないことを言わないでください」と返ってきた。これは当時よく病院職員から言われた台詞である。しかし、こだわりの「緑内障」を自分のライフワークとするべく、あきらめたくなかった私は、環境を整えるため市や市長、病院の職員に働きかけ、一方で臨床の成績をあげることで研究を続ける権利を確保しようと日々戦っていた。

 赴任から10年たった2000-2001年日本緑内障学会の疫学調査を多治見市で行うこととなり(多治見スタディ)、調査だけではなく同時に、多数の一般市民への眼科検診も実施することになり結果的に18000人の市民を検査した。この一大事業は、それまでの私の経歴と環境とをフルに生かして緑内障研究に貢献できる大きなチャンスとなった。そして、同時に、それまで、自己中心的に、臨床と研究とを確保しようと戦っていたつもりの私に、実は、赴任後10年の間に起こった、すべての人とのすべての事柄が、自分のためになっており、ひいてはこの事業を成功させ、そしてその後の研究につながっていることをわからせてくれた。「前例のないことを強引に言い出す女医」に根負けして親身になって一緒に考えてくれていた元病院職員は、人事異動で市役所のいろんな部署に配属されており、多治見市全体を巻き込む疫学調査という一大事業に、やはり親身になって各部署から協力をしてくれた。卒後ローテーションのない時代に直接眼科に入局した私は救急対応の知識は極めて少なかったが、「Dutyの全科当直」の時に電話で呼び出して来てもらった他科の医師から初めて学び、それが多治見スタディの巡回検診会場での救急対応に役にたった。「多治見スタディ」の実施期間には、岐阜大眼科の医師や、日本緑内障学会の多くの医師と団体戦で戦った。
   *「多治見スタディ」
  http://www.ryokunaisho.jp/general/ekigaku/tajimi.html

 その後、「久米島スタディ」にもつなぎ、今もなお、論文化で団体戦は続いている。これら、多くの人の、すべての知識、すべての知恵を総動員するような研究に参加できたことは、本当に幸せなことであった。北澤先生の指示で始まったことではあるが、神様がくれた仕事であったように思っている。「緑内障」をテーマに、「あきらめない」で仕事をしていてよかったと思う。 

 ところで、私の卒業した小学校に、亡き父がそこの校長をしていた頃に作った石碑がある。「立志」と刻まれている。父の座右の銘は「なさざる罪」であった。戦艦大和の沈没時に生き残った父にとっては別の意味もあったかもしれないとも思うが、私には「志を持ってそれを貫け、実現するように常に努力せよ、余裕があるようではいけない。余裕があるならもっとできる。責任のあるものは、最後まで努力をしなければならない。出来ることをしない場合には、それを、なさざる罪という。」という意味だと言っていた。そう教えられて育ってしまったので、本当は、「余裕」は大切なのではないかと今は思うけれども、いつも「余裕があるならもっとできる」と思ってしまう。 そして「志を持ってそれを貫く」「あきらめない」私の周りの人には、多大な迷惑をかけているような自覚も、最近やっと出てきたが、いまさら変われないかもしれない。

 「緑内障」になぜそんなにこだわるのか?私の母方の祖父は、昭和20年3月の東京大空襲の焼夷弾の下で緑内障の発作を起こしたと私に教えてくれた。「緑内障」は大好きな祖父の敵(かたき)なのである。

 私は今、公設民営化を機に、多治見市民病院を退職した。一開業医として、患者さんの日常に一番近いところにいる診療の中で、「緑内障」についての何か、大学などの研究機関では見つからない何かを、いつか発見できるのではないかと、わくわくしながら、小さなアンテナを張って診療している日々である。まだまだ、あきらめないつもりである。

【略歴】
 1980年 岐阜大学医学部医学科卒業
 1981年 岐阜大学医学部眼科助手
 1989年 岐阜大学学位取得(医学博士)・眼科専門医
 1990年 多治見市民病院眼科医長・岐阜大学非常勤講師
 1995年 多治見市民病院眼科診療部長
 1996年 International Perimetric Society(IPS:国際視野学会) Board Member
 2002年 日本緑内障学会評議員・IPS:Vice President (2002-2006)
 2005年 多治見市民病院副院長・日本眼科学会評議員
 2008年 金沢大学非常勤講師(眼科)
 2009年 たじみ岩瀬眼科院長・東海大学客員教授(眼科) 現在に至る

【賞罰】
 2003年 日本緑内障学会特別賞 (多治見スタディへの貢献に対して)
 2004年 AIGS Award (on behalf of Japanese Glaucoma Society)
 2006年 社団法人日本眼科医会表彰 会長賞
 2007年 第2回World Glaucoma Congress Poster入賞 

【主な論文】
1)The prevalence of primary open-angle glaucoma in Japanese: the Tajimi Study.
 Iwase A, Suzuki Y, Araie M, Yamamoto T, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group, Japan Glaucoma Society.
 Ophthalmology. 2004 Sep;111(9):1641-8.
2)The Tajimi Study report 2: prevalence of primary angle closure and secondary glaucoma in a Japanese population.
 Yamamoto T, Iwase A, Araie M, Suzuki Y, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group, Japan Glaucoma Society.
 Ophthalmology. 2005 Oct;112(10):1661-9.
3)Prevalence and causes of low vision and blindness in a Japanese adult population: the Tajimi Study.
 Iwase A, Araie M, Tomidokoro A, Yamamoto T, Shimizu H, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2006 Aug;113(8):1354-62.
4)Risk factors for open-angle glaucoma in a Japanese population: the Tajimi Study.
 Suzuki Y, Iwase A, Araie M, Yamamoto T, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,  Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2006 Sep;113(9):1613-7. Epub 2006 Jul 7.
5)Performance of frequency-doubling technology perimetry in a population-based prevalence survey of glaucoma: the Tajimi study.
 Iwase A, Tomidokoro A, Araie M, Shirato S, Shimizu H, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2007 Jan;114(1):27-32. Epub 2006 Oct 27.

 

 

 

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神経再生の最前線ー神経成長円錐の機能解明に向けてー
    栂野 哲哉 (新潟大学医歯学総合研究科視覚病態学分野)
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【講演要旨】
 大学院に在籍していた4年間、私は新潟大学の分子細胞機能学教室(注1)の五十嵐道弘教授のもとで神経再生に重要な成長円錐に関連する研究を行った。
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(注1)新潟大学医学部分子細胞機能学分野〈医学部生化学第二〉教室
  http://www.med.niigata-u.ac.jp/bc2/study/index.html
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 再生医学とは、胎児期にしか形成されない人体の組織が欠損した場合に、その機能を回復させる医学分野である。細胞レベル、組織レベル、器官レベルでの再生が必要となるケースが存在するが、後者になるほどその実現は困難となる。これまでの多大な研究成果により、いくつかの分野では臨床応用も始まっている。しかし、網膜や視神経を含む神経組織においては細胞体の脆弱性や分裂能の欠如、成人組織内では神経幹細胞がほとんど見られないなど幾多の困難がある。ES細胞やiPS細胞などの幹細胞技術の進展がこれらを打開しようとしている一方、神経細胞が機能を発揮するために最も重要な点である神経回路の再生という課題が残されている。

 緑内障を含む軸策索損傷による神経細胞が再生を果たし機能を再獲得するためのステップは次のとおりである。①細胞死シグナルの抑制、②軸索伸長のための細胞内の状態の切り替え、③グリア瘢痕の抑制、④標的ニューロンへの軸索誘導、⑤シナプスの形成。いずれのステップも重要であり日々研究努力が注がれているが、私の所属した研究室では主に④標的ニューロンへの軸索誘導、についてのメカニズムを分子細胞生物学的なアプローチでの解明することに力を注いでいる。 

 軸索誘導とは神経細胞が一本の軸索を伸長させ、標的のニューロンや組織に正しく導くための機構のことである。伸長している軸索の形態学的な特徴として先端に存在する成長円錐(注2)があり、この器官が外部の様々なシグナルを細胞内の骨格変化へと転換し、伸長方向を定めている。
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(注2)成長円錐
 成長円錐は、神経が伸びていく先端に存在する、運動性に富んだ構造体で、神経と神経(時には神経と筋肉)のつながりを作る(学術用語では「神経回路形成」「シナプス形成」)のに必須の役割を果たします。すなわち、標的となる神経(あるいは筋肉)の所まで、間違わずに成長円錐が伸びていって、正しい場所に到達したらそこで停止して、「シナプス」という神経同士の連絡する構造体を作る、ということです。この原理は、脳の形成や働きに絶対不可欠なものです。
 (分子細胞機能学教室(注1)のHPから)
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 この成長円錐による、軸索誘導の分子学的メカニズムが明らかとされた研究の一つに、ニワトリの網膜を使った実験がある。鳥類の網膜は視蓋と呼ばれる領域に正確な地理的投射を行っているが、これを実現するためにephrin-Eph 系と呼ばれる細胞表面にある認識機構が存在する。Ephはephrinと接触すると細胞内の骨格に変化を与え、伸長方向を反転させる(反発シグナル)。網膜神経節細胞においては鼻側に比べ、耳側でEphファミリーの一つEph A3がより多く発現しているが、視蓋においてはephrin A2が後方→前方の傾斜を持って発現している。その結果鼻側の神経軸索は視蓋後方に、耳側の神経軸索は前方に、といった地理的投射が可能となる。神経系の発生では、このようなシステムが決まった時期、場所に発現することにより正確な回路が形成される。 

 成長円錐には多彩な機能が存在するにもかかわらず、それを説明するに十分な分子学的基盤はほとんど知られていなかった。そこで我々の研究室ではまず、成長円錐に存在する蛋白質を網羅的に同定すること(プロテオーム解析:注3)を試みた。
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(注3)プロテオーム解析 プロテオミクス(proteomics)
 プロテオミクス(proteomics)は、ある系に存在するタンパク質を網羅的に(数百種類から2,000種類以上まで)同定する手法で、どのタンパク質がどの程度の量、存在するか、といった情報までわかります。新潟大学医学部分子細胞機能教室は成長円錐についてプロテオミクスを適用し、一挙に1,000種類近くの分子情報を把握しました。これは成長円錐に関して、世界で初めての研究で、さらにこれを推し進め、少なくともその内の一割以上が、成長円錐に強く濃縮されて局在し、また18種類のタンパク質がその中で、成長円錐の機能を支える分子であることを証明しました(PNAS 106: 17211-6[‘09])。
 (分子細胞機能学教室(注1)のHPから)
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 新生ラットの全脳を試料にステップワイズの遠心分画法を用いて成長円錐分画を取得、さらにこれを界面活性剤処理することにより細胞膜分画を得た。一般的なプロテオーム解析では2次元電気泳動により多くのタンパク質をゲル上に展開するが、不溶性蛋白質や、微量のタンパク質の同定に弱いという問題があった。そこでプロテオーム解析の先導的研究室である都立大学(現:首都大学東京)の磯部俊明先生らとの共同研究により2次元クロマトグラフィーを応用したプロテオーム解析をおこなった。これにより短時間の解析にもかかわらず945個の蛋白質を同定することができた。さらにその存在を確認するために、マウスの大脳皮質培養細胞を用いてこれらの蛋白質のうち、抗体が使用可能であった131種類のものについて免疫染色を行った。その結果全ての蛋白質で成長円錐への存在が確認され、本プロテオーム解析法の有用性が実証されたといえる。

 次にこれらの蛋白質の中から、成長円錐の機能に深くかかわっているものを同定することを試みた。まず、免疫染色における染色の度合いを数値化し、軸索と成長円錐での染色比を算出した。以前より成長円錐への局在があることが知られているGAP43の染色比を基準に、これと同等あるいはそれ以上の染色比がみられた68種類の蛋白質を選出し、機能の確認実験を行った。

 機能の詳細が未解明な蛋白質について検討する際、目的蛋白質を選択的に発現させないように遺伝子改変させたノックアウト動物が用いられてきた。しかし、細胞レベルでの実験が目的である場合にはコスト、労力、時間いずれも過大である点が問題であった。そこで近年そのメカニズムが明らかにされ、研究にも応用されているRNA干渉(RNAi)による遺伝子ノックダウン法を用い、培養マウス大脳皮質細胞におけるこれら候補蛋白質の神経軸索伸長への関与について検討した。その結果17種類のタンパク質においてRNAiの導入により、軸索伸長が有意に抑制されることが確認され、これらが成長円錐の機能に大きくかかわっていることが示唆された。今後はこれら候補蛋白の分子間相互作用や局在変化などの成長円錐内での詳細な機能についての発展が期待される。

 4年間の研究生活で私の得たものは数多くあるが、2つあげるとするならば医学論文のより実践的な読み方を習得できたこと、論理的思考に基づいた研究計画の立て方を学べたことである。是非これらを今後も研究生活に役立てたいと感じている所存である。

【略歴】
 1999年 新潟大学医学部卒業
  同年 新潟大学医学部眼科入局
 2000年 長野厚生連小諸厚生総合病院
 2005年 新潟大学大学院卒業
 2006年 新潟県立新発田病院医長
 2008年 新潟大学医歯学総合病院勤務
    現在に至る
【賞罰】
 今井記念緑内障研究助成基金 平成22年度助成受賞 

【おもな論文】
1)Role of Ser50 phosphorylation in SCG10 regulation of microtubule depolymerization.
 Togano T, Kurachi M, Watanabe M, Grenningloh G, Igarashi M:
 J Neurosci Res. 2005 May 80(4): 475-480.
 http://www.med.niigata-u.ac.jp/bc2/member_list/togano.pdf
2)Identification of functional marker proteins in the mammalian growth cone.
 Nozumi M, Togano T, Takahashi-Niki K, Lu J, Honda A, Taoka M, Shinkawa T, Koga H,Takeuchi K, Isobe T, Igarashi M:
 Proc Natl Acad Sci U S A. 2009 Oct 106(40): 17211-17216
3)Progression rate of total, and upper and lower visual field defects in open-angle glaucoma patients.
 Takeo Fukuchi, Takaiko Yoshino, Hideko Sawada, Masaaki Seki, Tetsuya Togano,Takayuki Tanaka, Jun Ueda, Haruki Abe,
 Clinical Ophthalmology, Vol.4, 1315 – 1323(2010)

 

2011年9月14日

 演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」
 講師:関 恒子 (長野県松本市)
  日時:平成23年9月14日 (水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
1) 始めに
 私は両眼に黄斑変性症を持っている。1996年先ず左眼に、その10ヵ月後右眼にも異常を自覚し、近視性血管新生黄斑症と診断された。1997年左眼に強膜短縮黄斑移動術、1999年右眼に全周切開の黄斑移動術を受けている。術後はかなりの視力の改善が見られたが、合併症と再発のために入院手術を繰り返し、現在は網膜萎縮の為に視力が徐々に低下している。治療はないが、今も通院検査を続け、時折ロービジョン(以下LV)ケアを受けている。
 医学的治療からLVケアへの過程、LVケアが私に果たしてきた役割、その中で気付いた点等を自身の経験を紹介しながら述べてみたい。 

2) 医学的治療からLVケアへ
 治療の結果はどうあれ、医学的治療を受けられることだけでも患者には救いとなる。患者は医学に見放されることが何より辛く、私の経験でも視力低下が進行する中、経過観察だけで過ごした1年間が最も辛い時期であった。患者はLVケアやリハビリよりも、先ず医学的治療による回復を強く願うので、LVケアやリハビリに至るまでにはある程度の期間が必要である。
 私が始めてケアを受けたのは、治療が一段落して落ち着いた日常生活を取り戻した頃で、発症してから約4年後だった。手術後視力は改善したものの歪み、暗視野、コントラスト感度の低下、両眼視ができないこと等から不便さを感じ、よく失敗もしていたので、ケアの必要性を自らが感じるようになっていた。 

3) LVケアが私に果たしてきた役割を整理してみる
 1.現在様々な視覚補助具があるが、それらについての情報を与えられたことによって、視力低下が進行しても大丈夫という安心と自信が生まれた。 

 2.視力低下の進行に応じた適切な補助具の選定を助けてもらうことによって、日常生活を維持させることができ、これが他人に甘え過ぎるのを防いでくれた。 

 3.視力が低下すると聞いた時、いろいろな事ができなくなると思い、自分の将来に希望をなくしたものである。できなくなった事は確かにあるが、今まだ殆どの事ができている。活動の幅を狭めないようにし、充実した人生を可能にしてくれたのがLVケアである。 

 4.医学的治療だけを受け、病気と必死で戦っていた頃は、LVケアを受ける程悪くなりたくない、それを受ける時は回復を諦め、将来をも諦める時だと思っていた。だが今は自分の人生を諦めない為にLVケアがある。 

4) どれだけの人がLVケアを知り、活用しているか
 LVという語自体、一般の人だけでなく、眼科の患者にさえ認知度が低い。私の調べた限り英語圏の外国人(医学関係者でない)も誰もこの語を理解しなかった。又地元の病院を訪れた際、電子ルーペを使っていた私の周りに眼科の患者とその家族が集まってきたが、誰も電子ルーペを知らず、その病院にはLV外来が標榜されているにも拘らず、それが何の為の場所か誰も知らなかった。
 LVケアの必要性とその重要性がもっと理解され、多くの人が活用できる場所であって欲しい。     

5) 私が受けてきたLVケアの中で気付いた疑問や問題点
 1.拡大鏡選びの原則に対す疑問
 拡大鏡選びはできるだけ広い視野を確保する為に文字が読み取れるうちの最低の倍率のものがよいとされる。この原則に従って購入した拡大鏡は、私の場合実生活の中では殆ど役に立たなかった。家の中の様々な条件下での使用を考えると余裕のある倍率の方が有用である。長文を読むにも疲れが少ない。私見では原則よりも個々の状態や主に何に使うのかで選ぶほうがよい。 

 2.拡大読書器
 私の知人は給付金で拡大読書器を購入したが、全く使用していないと言っている。使用中気分が悪くなる、又使用してもよく読めないからだそうである。使用法を習熟することによって有用にすることができるのではないだろうか。
 私程度の低視力者(障害未認定)にはかなり有用と思うが、20万円前後で高額である。拡大読書器よりはるかに安価な電子書籍リーダーやiPod等にもっと視覚障害者を意識した機能(拡大倍率をもっと大きくする等)を付加することはできないだろうか。 

 3.製品の個体差
 補助具を購入する際、他の機種との比較はできるが、同機種同士の比較はできない。その為個体差に気付かず、粗悪品を購入してしまう事がある。私自身正規品より劣る機能のものを購入し、知らずに使っていた経験を持つ。又正常使用での故障の多さも気になる。 

6) 終わりに
 視力の低下を告知された時、失明した場合のことやこれから先できなくなる事ばかりを考えたものだが、やがてまだできる事がたくさん残っていることに気付いた。どんな境遇においても、人は自分に残されたものに希望を託して生きるより仕方がないと思う。
 私は今自分に残された視力を最大限に活用し、人生を豊かにしようと努力しているつもりだが、この努力を支えてくれているのがLVケアである。LVケアがもっともっと普及してくれることを願っている。
 

【略 歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
 趣味は音楽。フルートとマンドリンの演奏を楽しんでいる。
 地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。

  

【追 記】
 関さんには、これまで2度お話して頂いています。 

 第135回(07‐06月)  済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
  講師:関 恒子(患者;松本市)
    日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

 第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:「賢い患者になるために
      -視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
  講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者) 

 これまでの講演もそうですが、今回もまた患者の気持ちが良く判るようにお話して下さいました。以下の言葉が印象に残っています。
 「悪くなるのに、何もしないことが辛い」、「医者に見放されるのが怖い」、「ロービジョンケアもいいが、やはり治ることを期待している」、「ロービジョンケアを受け入れるには、ある程度の期間が必要」、「視力は改善しても、日常生活は不便」、「ロービジョン者(低視力者)は、周囲の人に理解されにくい」 

 勉強会に参加された方から、以下の感想も届いています。
1)関さんのお話は、前向きな気持ちばかりでは無かった事に共感しました。何の病気でもそうですが、医師に「治療法が無い」と言われた時の絶望感たるや、想像するだけでも恐ろしいです。勉強会で話した(自分の)「見え方」を伝えるのは、家族やごく一部の親しい知人だけで、誰にでも言える訳ではありません。家族にも心配をかけまいとして、なかなか言えない方もいる様です。一緒にいる時間が多い人にこそ伝えるべきだと感じます。 

2)病気となってからの絶望、容認、順応という過程の中で、順応という部分でのプラス思考に感銘を覚えました。できないことよりもできることを積極的に探され、フルートやドイツ文学に興味をもたれ、活動していることは大変素晴らしいと感じました。また、視野や視力が悪くなってくることを想定して今できること、これからできなくなりそうなことを考えて行動されていることも大変素晴らしいと思いました。
 多数の補助器を購入され、お試しになられているということをお聞きしましたが、同機種での個体差(バラツキ)が多々あるということに驚きました。手作りが多いためでしょうか?ユーザーに取っては厄介なものであると思いました。 

3)障碍者として認められないで過ごす日々は色々な面で大変だと思います。だからこそ、ご自身が探し出されて切り開かれた人生に素直な敬服感を抱きました。何もしてもらえなかった一年間、治療での苦闘の三年間とご自身がつけられた決断。少しづつ低下する視力の八年間。期間こそ違え私にもあった日々です。 

 関さんがご自身の経験を理詰めでお話して下さるので、私たちにとっても理解することが可能となり、視覚に障がいを持つ方にも共感を得ているようです。
 関さん、今後もお話を聞くことが出来る機会を持ちたいと思います。宜しくお願い致します。

2011年7月20日

報告:第185回(11‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 盲学校弁論大会
  「新潟盲学校弁論大会イン済生会」
   日時:平成23年7月20日(水)16:30~18:15 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、ネット配信致しました。50数名のアクセスがありました。 

1)落語
  演目:「転失気」 「二人旅」
  演者:たら福亭美豚 (たらふくていヴィトン;新潟盲学校小学部6年)
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 自己紹介
 僕は、新潟盲学校小学部6年の加藤健太郎です。僕には、もう一つの名前があります。落語で、高座に上がる時の高座名、たら福亭美豚です。小学部2年の時の文化祭で、始めて大勢の人の前で発表してから、デイサービスや自治会で高座をさせてもらっています。昨年には、新潟県内を中心に活躍されている、落語家さんと出会うチャンスをいただき、たまに稽古をつけてもらったり、寄席に上がらせてもらっています。僕の落語を聞いて、たくさん、笑ってください。そうすると、僕も、楽しい気分になります。
 

2)盲学校弁論大会イン済生会
 1.「震災を通して」
    丸山 美樹(まるやま みき)  専攻科理療科2年
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 3月11日東日本大震災がおきました。その日は卒業式で、私は学校から帰ろうとしていた時でした。突然の揺れに驚き、大きくて長い揺れと学校が少し音を立てながら揺れていることに怖さを感じました。 震源地は宮城県沖、宮城県震度6、東京も火がでたところがある、そう聞いて不安な気持ちが溢れました。私には宮城県や岩手県、東京にも友達がいたからです。 学校から帰ってきて見たテレビには宮城県や岩手県の地震の被害の映像が流れていました。私がそれを体験したわけでもないのに泣きそうになりながら震源地に近い場所に住む友達にメールや電話をしました。 

 ほとんどの子からは大丈夫だと遅くなっても返事はきましたが、ただ1人岩手県の子と連絡がつきませんでした。テレビにはその子がすむ宮古市の地震と津波の被害の映像が、不安を煽るように何回も流れていました。どうか無事でいて、そう願いながら連絡を待つしかできませんでした。待っている不安の中、緊急地震速報の鳴る音やテレビの映像が流れる度、怖くて不安が増していきました。 

 こうやって怖がるだけで自分は何もできないのが、とても悔しかったです。被害を受けた場所の友達からくるメールに大丈夫だよと言葉をかけてあげるだけでした。傍にいてあげたいなと思うだけで何もできない自分は、とてもちっぽけでした。 そんな自分の小ささ無力さを実感する中、連絡がつかなかった岩手の友達からメールが届きました。安心から涙がでました。涙で滲んだ液晶画面には怪我は少しあるが大丈夫、あなたの言葉でがんばることができた、「本当にありがとう」そう書いてありました。 何もできていないと思っていた私には、そのたった一言のありがとうが嬉しくて嬉しくて、さらに涙が止まらなくなりました。私のつたない言葉が誰かの心を支えることができました。 

 今回のこの災害を通して言葉の力、言葉の大切さをとても実感できました。今まで何気なく使っていたありがとうを、これからはしっかりと伝えていきたいなと思いました。 

 (弁士紹介)
 専攻科理療科で国家試験に向けて勉強を頑張っています。写真を撮ること、音楽を聴くことと歌うことが好きです。部活では、バレー部、野球部、自然部など7つの部活に所属し色々な活動に参加しています。6月には北信越盲学校バレーボール大会と北信越盲学校野球大会に参加してきます。自分ができることを精一杯頑張ってきます。
 

 2.「過去・今・将来」 
    笠井 百華(かさい ももか)中学部3年
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 「だから障害者はやなんだよ!」 何でそんなことを言われるのか、悲しくなりました。小学校の時、クラスの皆や他の学級の人たちから避けられるようになりました。変な噂が流れ「あいつに近づくと汚れる」「あまり関わらない方がいいよ」と言われ、仲の良かった友達が私の周りから離れていってしまいました。私が話しかけても無視をされたり、物を隠されたりしたこともありました。私の目が少し見えにくいというだけで、どうして無視されたり、嫌な思いをしたりしなければならないのだろう。視覚障害があっても同じ人間なのに、とても悔しかったです。 

 中学校に進学するに当たり、私は新潟盲学校中学部に入学しました。周りの人から見た盲学校の生徒は、勉強内容が簡単、人の介助が必要なイメージがあるかもしれません。私もこの学校に来る前は同じようなイメージがありました。人数も少ないし、友達が出来るかなって思っていました。 

 でも、実際は違います。盲学校には、幼稚部から高等部あります。しかも、私の父よりも年上の人も真剣に学んでいて、色々な人たちと年齢を超えてお話が出来ます。例えば、勉強のやり方や部活動の悩み事など、深刻なことから、芸能人や学校の話まで、気軽に話が出来ます。中学部の皆とも仲良くなれたし、年上の高等部の方々とも、何でも話せる仲間がたくさん出来ました。このような仲間が体育祭や文化祭などでは、一つになって行事を盛り上げます。 

 勉強もわかりやすくなりました。拡大教科書やルーペ、拡大読書器などを使えば、以前は細かくて見えづらかった字も読みやすくなりました。点字を使って勉強する人もいます。見えにくい人には、スポーツは何も出来ないと思われがちですが、フロアバレー、グランドソフトボール、陸上などたくさんのスポーツがあります。音や床面、方向などを頼りにしながら競技しています。  

 新潟盲学校でも運動部が沢山あります。私は小学校の時は球技が好きではありませんでした。しかし、フロアバレーをやって初めで球技が楽しいものだと知り、好きになりました。だから私は部活動でフロアバレーをしています。いま、中学校生活を振り返ると、新潟盲学校に入学して良かったと思います。話せる仲間もでき、勉強もわかりやすくなり、部活動で汗を流し、充実した毎日を送っています。 

 将来私は、小学校の頃の自分のように、困っている人たちを助けられる人間になりたいと思います。そのためには、私に出来ることを増やしたり、人間的に成長して人を思いやる優しい心を身に付けたりしたいと思います。もっと人間らしく大きく成長したいです。障害のある人もない人も、お年寄りや子供など年齢に限らず、みんなで助け合っていく社会にしたいです。その社会の実現を目指して頑張っていきたいです。 

 (弁士紹介)
 私は、バレー部に所属し毎日練習をがんばっています。富山で行われる北信越バレーボール大会にも参加しました。初めての遠征で、とても楽しかったです。万代太鼓部にも所属していて、夏休みには新潟まつりに参加する予定です。部活動に勉強に毎日が充実しています。学校生活の中で悩むこともあるけれど、大切な友人がいるので頑張れます。中学校生活最後の年、思いっ切り何事も取り組みたいと思います。
 

【後 記】
 ここ10年、本勉強会で毎年7月に盲学校弁論大会を行い、毎回、多くの感動を貰っています。
 たら福亭美豚(たらふくていヴィトン)師匠は、前にも登場して頂いたことがありましたが、今回は変声期を迎えていました。しかしカスレ気味の声をテクニックでカバーするほどに、立派に成長していました。多くの人に笑ってもらえることが自分の喜びという思いに溢れた語りでした。笑顔と笑いは人の心を明るくします。
 丸山美樹さんの弁論は、優しさや繊細さに溢れていました。「ありがとう」の言葉をこれからも伝えて下さい。応援します。
 笠井百華さんは、明るい中学生でした。障がいのために受けた悔しさ、盲学校で生き生きと勉学に部活動に励んでいること、、、弁論を聞きながら、頑張れ!とエールを送りました。

 弁論大会では、盲学校の生徒さんの決意を聞くことが出来ます。それに対して私たちは何もしてあげられないのですが、「証人」としてその決意をお聞きすることは出来ます。今回も弁士の皆様の決意をしっかりとお聞きしました。私たちは、その夢がかなうようことを応援します。 

 今回は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、初めてのネット配信を成功させることが出来ました。今後も配信の予定です。ただ、、、ネットでも参加できますが、都合の付く方は、会場まで足を運んで講師との話し合いに参加して下さると嬉しいです。

2011年7月19日

「学問のすすめ」第4回講演会 済生会新潟第二病院眼科
 1)臨床研究における『運・鈍・根』
    三宅養三 (愛知医大理事長 名古屋大学名誉教授)
 2)経角膜電気刺激治療について  
    畑瀬哲尚 (新潟大学)    

    日時:2011年7月30日(土) 15:00~18:00   
  会場:済生会新潟第二病院 B棟2階研修会室    
 主催~済生会新潟第二病院眼科    参加費 無料  

 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、(チョッと大袈裟ですが)講演会「学問のすすめ」を開催しています。

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臨床研究における『運・鈍・根』」              
 三宅養三(愛知医科大学)
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【講演要旨】  
 安藤伸朗先生から「学問のすすめ」という主題で、臨床医におけるリサーチマインドの重要性を話すように依頼された。福沢諭吉の「学問のすすめ」には「天ハ人ノ上二人オ造ラズ人ノ下二人オ造ラズ」という有名な言葉があるが、これは「人間は生まれたときは皆同じ、歳を経て人間の差ができるのは学問をするか否かである」ということが言いたかったのである。そのため安藤先生がこの主題を選ばれたのは、ひとたび医師になった以上、終生学問を続けなければ碌な医師にはなれないことを強調されたかったのではないかと思う。  

 さて臨床研究における「運・鈍・根」という題を私が選んだのは、一生おもしろく学問を続けるにはどうすればよいかを自分の経験から得た独断的な思考から述べてみようと思ったからである。古くは北里柴三郎も強調しているように、臨床医学を行うためにはまず、あるいは常に、基礎医学を学ぶ(あるいは経験する)ことが極めて重要である。生体の基礎的なメカニズムを知らずに臨床医学は行うことは倫理的にも許されないとすら思われる。いや、そのような大げさなことではなく、基礎研究を経験して臨床を行う方が、どれだけ臨床に深く、また興味を持って従事できるかは、それを経験した人でなければ分からない。

 研究とはクイズ解きのようなものであるが、臨床研究の場合、神か悪魔が造った”疾病”という複雑なクイズの材料は、多くの想定外の側面を持っている。すべての研究で想定外の結果を得るということはそれ自体興味深く極めて重要なことであるが、臨床研究でそれが真に価値あるものである絶対条件は、その結果が正しいということである。  

 まず臨床研究における「運・鈍・根」の「鈍」とは何を意味するのだろうか。あまり時流に乗らず頑なに一つの研究を続けられることを指すのであろう。頭が切れ、先が読めすぎる人、すなわち「敏」に満ち満ちた人は臨床研究には向かないことがある。医師と患者の信頼関係を保ちながら正しい診断、その時点では最も患者にとって良い治療、治療効果あるいは病態経過の正しい評価を、非常に長期間にわたってフォローするという、あまり刺激的ではない地味な「根」の要る作業がまずできるかどうかであろう。その上でリサーチマインドを持って、その複雑な疾病を独自の思考方法でじっくり観察しているうちに「運」に巡り合え、大きな発見に繋がることがある。眼科学の歴史に残るような大きな臨床的新知見は、多くがこのような過程を経て見つけ出されており、また興味深いことに、多くの場合に基礎研究も経験した人がそれを成就している。  

 自分の40年を超す大学人としての経験を振り返ってみても、例えば私のライフワークの一つである夜盲症の研究は、眼科医になってすぐに生理学の御手洗玄洋先生の下で鯉の網膜単一細胞内電位を記録する研究に従事していたことから始まった。網膜水平細胞からの電位が研究テーマであったが、ときに記録された双極細胞からの反応が極めて興味深く、双極細胞が障害されるとどのような見え方になるかという単純な興味から、特殊な夜盲症にのめりこんだのが、その後30年以上続くことになる研究の始まりだった。  

 とにかく「鈍・根」で多くの症例を集め、正確な機能検査を続けているうちに、それまで一つの疾患と思われていた夜盲症が全く異なった二つの疾患の集合である可能性に気づき、最終的に遺伝子学的にそれを実証するまで、多くの論文を書き、また双極細胞に関する多くの新知見を得た。双極細胞の分析に適した2つの疾患に巡り合ったこと、またちょうど私の研究と時期を同じくして双極細胞を自由に変化させうる薬物が開発され動物で使用できたこと、これらはすべて私の持つ強力な「運」であろう。この一連の研究に30年以上を要し、現在も研究は進行中である。  

 もう一つのライフワークである黄斑部局所ERG(FERG)の開発とそれにより発見した新しい遺伝性黄斑疾患であるOccult macular dystrophy(OMD)もまさに「運・鈍・根」の賜物であった。FERGは1976年に米国留学をした時から始めた研究であったが、米国での3年間の研究では臨床的に使用可能な装置を開発することはできなかった。しかし3年間、日本に帰ってどのような工夫をするかを日夜考えて帰国した。帰国後恩師の御手洗教授に相談したところ、キャノンをご紹介くださった。キャノンは御手洗家とは極めて縁の深い会社である。その後のキャノンの熱心なご協力により、1986年に最も情報量の多いFERG装置の開発に成功した。研究を始めてから実に10年を要したわけだが、成功の最大の秘訣は、御手洗教授がキャノンをご紹介くださった「運」と10年間も粘っこくFERGを追い求めた「鈍・根」である。さらにこの装置を用いてその後20年以上にわたって根気よく5000例以上の臨床例の検査を行った。  

 その途上OMDが発見された。このOMDの遺伝子異常は残念ながら名古屋大学在籍中には発見されなかったが、私の持つ強力な運は退官後に移った東京医療センター・感覚器センターで開花した。そこでOMDの大家系が見つかり、新潟大学の臼井知聡先生、感覚器センターの岩田岳、角田和繁先生という、この家系の臨床分析、遺伝子分析に重要な貢献をされた方々によりOMDの変異遺伝子が同定された。FERGの開発に乗り出してから、通算34年を要したことになる。  「運・鈍・根」は昔から汎用された用語であるが、臼井知聡先生から、これに「縁」を加えるとより私の言いたいことに近づくと示唆して頂いたこと、東京女子医科大学名誉教授の大森安恵先生から、「鈍」は作家・渡辺淳一の「鈍感力」にも通ずる感覚であることを指摘して頂いたことに深く感謝したい。

【三宅養三先生;略歴】  
 三宅養三 (愛知医科大学理事長 名古屋大学名誉教授)  
 1967年 名古屋大学医学部卒業  
 1968年 名古屋大学眼科入局  
 1976~79年 ハーバード大・Retina Foundation留学  
 1997年 名古屋大学眼科教授  
 2000~2004年 国際臨床視覚電気生理学会・理事長  
 2005年 名古屋大学名誉教授、国立感覚器センター所長  
 2007~2010年 愛知淑徳大学教授、愛知淑徳大学クリニック院長  
 2010年 愛知医科大学理事長

 

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経角膜電気刺激治療について      
 畑瀬哲尚 (新潟大学)
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【講演要旨】
 これまで、視神経損傷や緑内障などの難治性視神経疾患に対して、さまざまな視神経機能回復の治療が試みられているが、十分な効果のあるものはない。近年、経角膜電気刺激(transcorneal electrical stimulation、以下TES)は網膜のミューラー細胞を賦活化し、Insulin-like growth factor (IGF-1)を誘導させ、網膜神経節細胞に対して神経保護作用を高める効果を有することが分かり、視神経疾患や網膜疾患に対する治療応用が報告されている。我々は種々の網膜視神経疾患にTESを行い治療効果を検討した。  

 対象は非動脈炎性虚血性視神経症28例31眼、発症後半年を経過し視神経萎縮に陥った症例(多くは視神経炎後や圧迫性視神経症)21例30眼、網膜色素変性症7例14眼、外傷性視神経症7例7眼、緑内障5例7眼、脳神経外科手術後の視力障害2例2眼等計70例91眼に対してTESを行い、治療前後で視力、視野検査等を行った。刺激条件は電流強度200~1600μA、パルス幅 10mS / phase、刺激頻度 20Hz、刺激時間30分間とした。施行間隔は約1か月とし、施行回数は3回を基本としたが、継続希望が強い方はそれ以上行った。視力の変化はlogMAR換算にて0.2以上の変化を改善ないし悪化とした。  結果は、非動脈炎性虚血性視神経症では7例7眼で改善、その他は不変であり、悪化はなかった。視神経萎縮に陥った症例では4例4眼、外傷性視神経症では4例4眼で改善を認め、その他は不変であり、悪化はなかった。緑内障では全例で不変だった。脳神経外科手術後の視力障害では2眼全例で改善を認めた。網膜色素変性症の症例では1例2眼に改善が疑われる結果を得たが、この結果についてはさらなる検討が必要と考える。  

 今回の検討から、急性期の疾患では自然改善との区別が難しい例もあるが、視神経疾患(非動脈炎性虚血性視神経症、視神経萎縮に陥った症例、外傷性視神経症、視交叉疾患脳外科術後)ではTESが有効な症例があり、副作用もないことから、積極的に試みてよい方法と考えられる。その一方、緑内障に対しては無効であった。  

 TESの臨床応用はまだ始まったばかりであり、今後、治療効果の判定基準や有効TES実施回数、長期効果など明らかにすべき課題や疑問がたくさんある。まず行うべき課題は、質疑応答で御質問をいただいたように、TESの効果を評価することができる他覚的検査法(CCDカメラを使用することによるRAPD(*)の定量的測定や電気生理検査など)の確立を実現させていくことだと考えている。

*RAPD~relative afferent pupillary defectの略  
たとえば右眼が視神経症で視力低下していて左眼が正常の場合、ペンライトを右眼から左へ動かすと左の瞳孔が縮瞳する。そこから右眼にライトを戻すと、ライトが来た瞬間には右眼は間接反応のため縮瞳しているが、ライトの明るさを右眼は感知できないのでライトを照らしているにも関わらず瞳孔がかえって開いてゆくという奇異な反応が見られる。これをRAPDと言い、視神経障害に出現する反応である。

【畑瀬哲尚先生;略歴】  
 畑瀬哲尚 (新潟大学)   
 2002年 新潟大学医学部卒業、
      新潟大学医歯学総合病院眼科入局   
 2003年 十日町病院眼科勤務   
 2004年 佐渡総合病院眼科勤務   
 2005年 海谷眼科勤務   
 2010年 医学博士   
 現在  新潟大学医歯学総合病院眼科医員