勉強会報告

2013年1月13日

     日時:平成24年12月12日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 演題:「障がい者が、働くことを成功するために大切なこととは?」
 講師:星野 恵美子 (新潟医療福祉大学 社会福祉学科) 

【講演要旨】
1 なぜ、就労支援なのか=働くことの意味とは
 一定の年齢になれば障害の有無にかかわらず「自分の力で働く」ことが大切です。障がい者にとっては働くことは、リハビリテーションの最終目的であると同時に経済的な自立を助けます。また、自分自身が価値があり必要な存在だと認められ、自尊心の向上や社会的な孤立感を防ぐ基礎ともなります。

2 障害者就労の現状(全国、新潟県)
 日本では、事業主に一定の割合で障害者を雇用することが義務づけられています(障害者の法定雇用率)。障害者就労の現状を現すこの雇用率は、法定雇用率1.8%のところ、全国平均1.69%で、新潟県1.59%で全国41位であり、不十分な状況であり、障害者就労の改善が必要です。企業規模別の雇用率では従業員数が1000人以上の大企業は1.9%と雇用率を満たしています。企業規模が大きいほど障害者雇用率は高い傾向にあります。それは大企業では仕事が多様で、障がい者の働くための仕事を算出しやすいことと、障害者雇用納付金(1人当たり5万円/月)の負担が大きいため、障害者雇用に積極的になると考えられます。

3 働く現状、どんな仕事に、従業員の姿
 仕事のマッチングが障害者雇用では、重要です。障害別の仕事の実際としては以下の通りです。
・身体障害=事務的な作業。移動が多い営業職や大工、庭師等の外作業は負担が大。
・精神障害=特に制限なし、通院時間を確保する。負荷が高まらないように配慮する
・発達障害=手順や業務内容を視覚化する等の環境設定が重要。
・知的障害=清掃、管理業務補助、継続する作業等、いったん覚えるときちんと正確にこなせて信頼度が高い。

 仕事とのマッチングは大切ですが、これが障害者用の仕事というものはありません。業務と環境の改善と適切な配慮と人間関係を良くしていくことが必要です。星野ゼミでは、新潟市とともに、障害者雇用企業を訪問しインタビューを行いました。訪問企業~パワーズフジミ、大谷印章、コジマ電気、間食品、DeNA等 事業主側の理解と障害特性への配慮や工夫がなされており、障害を持つ従業員の方々が生き生きと働いておられたことが印象的でした。

4 視覚障がい者の就労状況(実際の就職事例から)
 ハローワーク新潟の今野統括指導官のとりまとめた平成19年ごろの3年間の鍼・灸・マッサージは除く就職事例です。21例の状況からは、三療職以外でも非常にバラエティーが多くの職種で就労されている。中でも事務職が電話交換も含めると10名と5割近い。そのほか調理や看護等の補助業務や、製造業務等幅広い就労状況です。また、障害程度も幅広く2級の方もおられます。このあたりは、支援機関としてのハローワークの努力も大きいと思われます。

5 働くために大切なことは何でしょう? 社会生活力です。
 社会性活力とは? 人間関係力(挨拶、言葉使い、報告)や生活をコントロールする力=朝起床し、3食を食べて、健康に配慮して、元気よく毎日通える体力、勤務時間5時まで毎日働けることや金銭管理をする力等です。これは、自分の生活の基礎をつくり、日々社会参加しながら自分らしく生きるためにとても大切です。買い物、掃除や安全な生活や男女交際、コミュニケーション、人間関係などは、誰でも生きていくために必要な当たり前のことですが、社会参加や仕事をするうえでの基本的なことで、生活しながら体験的に身に付けていくことです。就職がすぐできなくて何回もチャレンジすることは、障害の有無にかかわらず、大変なことです。大きな心の試練にもなります。
 このような時、懸命に努力する力は、小さい時の親子関係やしっかりと愛された実感が土台となって育まれてまいります。人への信頼感や安心感が大切なベースとなります。

6 就労支援の法制度 「障害者の雇用の促進等に関する法律」
 障害者雇用促進と職業の安定を図るため、①障害者雇用率制度、②障害者雇用納付金制度、③職業リハビリテーションの推進等が定められています。 障害者の雇用の推進機関としては、以下の3機関があります。
 1)ハローワーク:公共職業安定所:求職登録の上、職業紹介や職業相談等。
  事業主へ障害者求人の相談や指導、各種助成金の紹介等を行います
 2)地域障害者職業センター:職業評価、職業指導、職業準備訓練及び職場適応援助等、雇用管理上の専門的な助言を行います
 3)障害者就業・生活支援センター:障害者の職業的自立のため、地域で就職面と生活面の支援を一体的に行います。
 このような専門機関を活用すると、良いでしょう。

【略歴】
 新潟医療福祉大学  社会福祉学科 
 新潟県の福祉専門職として児童相談所等の各種の相談機関や障がい者の支援施設病院等に勤める。 
 2005年から現職で社会福祉士の育成にあたる。
 現在、社会福祉を学ぶ星野ゼミの学生たちと、新潟市の方とともに、障がい者雇用企業に訪問して、働く人たちの声や社長達の思いをインタビューを行い、学びを深めている。

【後記】
 今回は、障がいを持つ方の就労について勉強しました。
 ある視覚障がいの方は、リハビリの目標の一つに働いて税金を納めることといったのを覚えています。その時、税金が高いと文句を言っていた自分を恥じました。「働くこと、税金を納めることは国民の義務」 ともすると権利ばかり主張していて、義務を顧みない自分に気づかされました。
 でも障害を持つ方が就職するのは現実的には如何なんでしょうか?障がい者の方から、「障がいを持つ者にとって、結婚と就職は同じくらい大事で難しいことなんです」といことをお聞きしたことがあります。今回のお話を拝聴しても、そんなに簡単でないこと判りました。
 でもこのような実態を知ることから解決の第一歩が始まるのだと思います。福祉の根本を例えて、以下の様なエピソードがあります。高いところにあるものを取れない人がいた時、取ってあげるのではなく、足の踏み台を出してあげること。。やってあげるのではなく、やることをお手伝いする。人の尊厳を尊重しつつ、如何にその人らしく暮らせるようにするかを考える。そんなことを考えながら、今回のお話を拝聴しました。
 星野先生の益々の活躍を期待したいと思います。

 

2012年11月14日

 演題:「活力~どうやって生み出すかを考えてみませんか~」 
 講師:大島光芳 (上越市)
  日時:平成24年11月14日(水)16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 【講演要旨】
  2009年6月視神経萎縮で道路の白線が見えなくなり歩行が限界ギリギリの頃に、妻のすすめもあり新潟大学眼科のロービジョン外来で張替涼子先生の診察を受け、よし!この先生について行こうと決意しました。7月に休職と障害者手続を開始。直ぐに福祉制度による移動支援を受け、やがて家事援助も追加しました。家人は働きに出て、昼間は私一人だからです。

  12月に購入したパソコンを持って張替先生から紹介された新潟市の「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」(以後、オアシスと略)(注1)を訪問し、音声パソコンをフルキーで操作する練習ソフトを入れて頂いたのですが、その頃は全然できませんでした。ところが、翌月になると出来ちゃいました。
 (注1)「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」
 http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/

 2010年1月に福祉関係者5人が来宅して支援会議を開催してくれました。これはサポートする側と私との行き違いの是正のためなのですが、見えない私が家に一人だけなのが不安になり、先手を打つために年間活動計画を作成しました。何度も言い直しながらICレコーダー(パソコン購入時に妻が購入)に録音し、相談員に聞いてもらい、プリントして当日持参して頂きました。これで思い通りに事は順調に進みました。ところが、最後に「次回はいつにしますか?」との発言があり、来月と決まってしまいました。来月に再びと言われた時点でパソコンができるようにならねばと思いました。

  出来ないのは「できないと思っていたから出来なかった」事に気づきました。  1月にオアシスを訪問すると、操作はできるようになりましたと宣言し、必要そうなソフトは全て入れて下さいと申し出ました。使っているのはマイワードとマイニュースとマイメールだけですが、マイニュースが役立ちました。この中にNHKの「みんなのラジオ 聞いて聞かせて」が遡って聞けるようになっていました。石川充英さん(東京都視覚障害者生活支援センター)や工藤正一さん(タートル)の話を何度も聞いた。何せ時間は無限にありました。

  2月はこれを貪って3年前まで聞きました。中でも「完全マニュアル中途視覚障害者からの再出発」は私そのものであり、自分は全国的にみて普通なんだ、何とかなると少し自信がもどりました。「検証ガイドヘルプ事業」と「代読・代筆」は録音してマイワードに打ち込む事で本当にフルキーでの入力もできるようになりましたし、知識も深まりました。

  番組に登場した人物にも会いたい希望が湧き、直ぐに県内の視覚障害者の市会議員の青木学さん(注2)とのメール交信が可能になり、翌年2011年には長野放送で「里枝子の窓」のラジオ番組(注3)を持ちパーソナリティーをされている広沢里枝子さんにも会い、今年2012年は大阪府を訪問して岩井和彦さん(注4)にも会いました。彼は1949年の生まれですが、15歳の時の全国盲学校弁論大会優勝の「理解されない盲人」を前出のNHKラジオで聞いた時に、同じ思いをした先人がいると心が震えました。今もこの言葉に勇気をもらっています。初めから計画的だったわけではないですが、方向が掴めると次々と達成はできました。一歩踏み出すことで、多くの方々との出会いが可能になったのです。
 (注2)「青木 学」 (新潟市市会議員)
 http://www.aokimanabu.com/
(注3)「里枝子の窓」 信越放送(SBC)ラジオの長寿番組
  広沢 里枝子 (番組パーソナリティ)
 http://r-mado.com/index.html
(注4)「岩井 和彦」
 http://www.bunrikaku.com/book1/book1-608.html

 4月は障害を理由に断る事もできた半年任期の検察審査会のメンバーを受諾していました。翌月から裁判所で準公務員をつとめるのですからプレッシャーもあり、対応する為に集中して精神力を高めつつありました。

  メール交信はオアシスの小島紀代子さんが相手をして下さった事で可能になりました。5月1日受信したメールに「日本地図を作った男、伊能忠敬は人生後半の56歳から17年間、2歩で一間をかたくなにまもり、2歩目に踏みたくないものがあっても歩き続けた事で完成させた」とありました。そこへ、上越市から応募者が不足なの で1年任期の市政モニターをして欲しいとの封書が届きました。可能ならアンケートにはメールで回答とあります。既に一つ大役を受けていますから駄目だろうと思って読んでいる妻に、受諾の代筆を頼みました。オアシスからのメールに背中を押されたのです。「踏みたくない二歩目」とはこれだなと思い、お引受けする事にしました。

 いま思うと、裁判所へ1歩目を踏み出し、市役所へ2歩目を踏み出した、この2歩目を踏み出した事で体と同じように思考回路のパターンにも完全な体重移動が起こり、前へ前へと歩みだせたのだと思います。思えば、一歩目を踏み出す時は恐々でも出来ますが、二歩目を踏み出すには、前がかりにならないと出来ないのです。

  6月新潟大学眼科ロービジョン外来受診では翌月に済生会新潟第二病院で開催の「新潟ロービジョン研究会2010」を紹介され参加。フロアから「私はロービジョンを受診し、既に見えなくなっていた目が見えるようになったわけではありませんが、見通しが立つようになりました。見通しが立つ事は本当に有り難いです。ありがとうございました。」と発言しました。思いのほか反響がありました(注5)。
 (注5)済生会新潟第二病院眼科 研究会
  「ロービジョン研究会2010」の項を参照ください
 http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 2011年6月のロービジョン外来受診では本を読みだすきっかけを頂きました。 知識的に必要で読む本と会話の話題に必要で本を選んでいます。「怒りの正体」、「甘えの構造」、「怒るヒント」、「しつこさの精神病理」、「国家の品格」、「感動する脳」、「脳にわるい七つの習慣」。「サービスの達人たち」、「人は見た目が9割」、「的を椅射る言葉」、そして最近は「細胞生物学」等々「回復力」には、「うつ」になる原因は3つあり、その1)最大の目標が達成されて次が見いだせない5月病のような時、その2)目標設定が高すぎて障壁となり自分を過小評価して動きがとれないとき、その3)先の見通しが立たない時とありました。新潟ロービジョン研究会での私のコメントは、この3つ目に対して「見通しが立つようになりました」と言ったのだということを、今になって理解できました。

 少し戻りますが、2010年11月に初めて済生会病院の勉強会に参加しました。 講師の栗原隆先生(新潟大学人文学部教授)が私の手に分厚い本を乗せ、本を書きなさいと話して下さいました。これがきっかけで翌年1月からメーリングリストへ書き込みました。この勉強会に参加した事で、もう一つおまけが付きました。この時のガイドヘルパーさんが新潟駅で別れるときに、他にして欲しい事はないですかと言われたのがきっかけで翌月に新潟県ふれあいプラザを訪問しました。ここで私が探していた硬式野球部の1年後輩にも会えましたし、1学年上で全国選抜高校野球大会の優勝校を招待試合で破った強打者(肥田野)とも会うことが出来ました。少し動いた事で次々と偶然が奇跡のように起こりました。

  「まず一歩、そして二歩目を」。動くことで活力の源泉が生まれたように思います。私のスタートは確かにロービジョン外来受診にありました。その裏には同伴していた妻がロービジョンの文字を見つけ、眼科医に質問してくれました。いま私を精神的にを支えてくれているのは、妻と家族、そして周囲の多くの人たちからの「無償の愛」のように感じ、毎日を暮しております。


 【略 歴】
  1950年 直江津駅から7キロ新潟寄りの海岸沿いの新潟県上越市で生まれ育ち生活。硬式野球と地元消防団を経験。
  1971年4月 化学会社へ入社、2010年7月定年退職。
  2009年7月 アスファルト舗装の歩道の白線が見えなくなり休職開始。
    同年8月 視覚障碍者2級、年末には全く見えなくなり
   2010年5月1級。
視神経萎縮(原因不明)


 【後 記】
 3年前に視力障害のために会社を休職(翌年に定年退職)した大島さんが、如何に活力を取り戻したかについて熱演してくれた。 バリバリの会社員だったが、視神経委縮にて両眼の視力を失う。パソコンは購入したが、さっぱり手につかない。しかし市の社会福祉サービスの方の家庭訪問を機に、ICレコーダーを駆使し、パソコンも使いこなせるようになった。
 様々な人との出会いを紹介して感謝した後、何が行動の原点だったかについて「無償の愛」ではなかったかと振り返った。いつも人のことを思い遣り、何か自分に出来ることがないかと想う。60を少し過ぎた素敵な男のロマンを拝聴した勉強会だった。大島光芳さんに幸あれ!!

2012年10月26日

報告:【目の愛護デー記念講演会 2012】 岩田和雄名誉教授
(第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題 「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」 

  講師 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:平成24年10月10日(水)16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 私が医学生だった60数年前、眼科の有名な教科書の扉に「眼は心の窓、美貌の中心」と書いあった。現在では更に、脳の窓、全身病の窓、加齢の窓、情報受容の最大センターとなろう。若しも自分が失明したらと考えれば、眼の愛護デーの意義は自ずと明快であろう。 

 誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。 

 当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。 

 現在、山中教授のiPS細胞でノーベル賞受賞に湧いているが、一朝一夕に出来上がったものではないし、越えなければならないいくつかの頑強な壁が眼の前に立ちはだかっている。 

 私は、眼科医としての60年間、現在の大変な進歩にいたる艱難辛苦の過程をつぶさに体験してきた。例えば、白内障の手術と眼内レンズ移植は現在では日帰りでも可能な安全で信頼できる手術となり、日常大量の手術がなされているが、それはこの20-30年のことで、それまでは、牛の歩みよりまだ遅い幼稚きわまりない手術で、術者も患者さんも決死の覚悟に近い心情で手術に臨んだものである。絶対安静1週間以上で、ストレスで寿命を縮めた人も多く、しかも、術後は分厚い重い粗悪なメガネが必要であった。 

 現在、医学の急速な発展で、治療法の進歩も著しい。それにより難病も治癒できる部分が増えて、有難いことである。これにいたるまでの人類のたゆまぬ努力に感謝せねばなるまい。しかし、いまだ完璧なものはなく、失明にいたるリスクが津波の如くやってくる。果てることのない一層の研究と努力が要請される。 

 尚、 物が見えるために不可欠な、見えた途端に影像を消し去る不思議な機構や、病気との関連、光凝固療法の発展の苦心、角膜移植、iPS細胞から網膜移植の可能性が近いこと、宇宙飛行士に発生した珍しい眼症状、網膜疾患で失明した人にカメラの影像を網膜内に設置した電極に送り、電気信号を脳の中枢に送り、0.005 まで視力が可能となったこと等などについても解説した。 

 「眼の愛護デー」を契機に、日常気づかずにいる「見る」ことの大切さを改めて認識し、そのために大変な努力をしているヒトの視機能の生理と病態、失ったものを取り戻そうとする人類の努力に思いを致していただきたい。 

【岩田和雄先生 ご略歴】
  昭和28年新潟大学医学部眼科に入局
  昭和36-38年 ドイツのボン大学眼科に留学(フンボルト奨学生)
  昭和47年 新潟大学 眼科学 教授
  平成 5年 定年退職、新潟大学 名誉教授

 専門:緑内障学(病因、病態、診断、治療)
   国際緑内障学会理事、日本緑内障学会名誉会員、日本眼科学会名誉会員、
   
日本感染症学会名誉会員、日本神経眼科学会名誉会員など 

  旧日本サルコイドーシス学会理事、旧新潟眼球銀行理事長
  新潟日報文化賞、日本眼科学会特別貢献賞、日本眼科学会評議委員会賞
  須田記念賞、日本神経眼科学会石川メダル、日本臨床眼科学会会長賞
  環境保全功労賞(環境庁)
 叙勲 瑞宝中綬章 

【後記】
 平成8年6月に開始した済生会新潟第二病院眼科勉強会も200回になりました。この日はたまたま10月10日「目の愛護デー」。当初からこの200回目の勉強会は恩師である岩田先生にお話して頂こうと決めておりました。 

 講演は図や写真がふんだんで、多くの方に判りやすいものでした。「目の愛護デー」が新潟に由来するものであること、そして「トラホーム」、「近視治療」、「老眼治療」、「白内障手術」、「見えることの不思議 固視微動」、「光凝固」、「角膜移植」、「加齢黄斑症」、「人工網膜」、「宇宙飛行士の眼」、、、幅広い話題に感動しました。 

 「見る」ために、眼球は絶えず動いて(固視微動)新しい刺激を脳に送ることにより、視覚を得ているとう途方もない努力を不断に行っています(誰も意識していませんが)。そして眼疾患の治療のため、何世紀にもわたり、多くの先達が大変な努力をして今日の眼科学を発展させてきたことに思いを馳せることのできる講演でした。 

 岩田先生は、私が眼科医を目指して新潟大学眼科に入局させて頂いた時の教授です。大学の医局では教授のことを「おやじ」と言います(現在では言わなくなりましたが)。「おやじ」には叶いません。私が生まれた年に眼科医としてスタートし、これまで60年毎日、現役で眼科学の研鑽と研究に邁進しておられます。 

 4年前に傘寿をお迎えになりましたが、これからもますます元気で、多くのことを教えて頂きたいものと思います。 

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PS:『目の愛護デーの由来』 

1)新潟大学眼科HPより
 
新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?
 
http://www.med.niigata-u.ac.jp/oph/about_us1.html 

 官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。 

 明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。 

 明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。 

 因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在は10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。 

 明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。 

 ところでこのエピソードの要所要所に登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。

*竹山病院(新潟市)HP
http://www.takeyama-hsp.com/about_outline.html 

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2)京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html 

 10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。 

 それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。 

 これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422 

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3)千葉県眼科医会  「目の愛護デー」の由来について
 
http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm 

 失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。 

 ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。 

 戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。

2012年9月24日

「学問のすすめ」第8回講演会 済生会新潟第二病院 眼科
1)2型糖尿病の成因と治療戦略
    門脇 孝 (東京大学内科教授、日本糖尿病学会理事長)
2)疫学を基礎とした眼科学の展開
    山下 英俊 (山形大学眼科教授、医学部長) 

  日時:2012年9月15日(土) 15時~18時
  会場:済生会新潟第二病院  10階会議室A 

 リサーチマインドを持った臨床家は、新しい医療を創造することができます。難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。 本講演会は、若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもいたいと、2010年2月より済生会新潟第二病院眼科が主催して細々と続けている企画です。
  「学問のすすめ」講演会、第8回の今回は、糖尿病に関係したお二人に講師をお願いしました。一人はわが国の糖尿病研究の第一人者で、糖尿病の成因を精力的に模索しエビデンスに基づいた治療について追及している門脇 孝 先生(東京大学内科教授、日本糖尿病学会理事長)、もう一人は、我が国の糖尿病網膜症の第一人者で、眼科に統計的手法を本格的に導入し、眼科学が糖尿病の診療にどのようにして貢献していくかを疫学の切り口で語る山下 英俊 先生(山形大学眼科教授、医学部長)です。先生方の取り組んでこられた研究テーマを中心に、これからの医療を背負う人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいという若い人へのメッセージを添えての講演でした。 

 

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2型糖尿病の成因と治療戦略
   門脇 孝 (東京大学医学系研究科糖尿病・代謝内科)
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【講演抄録】
 2型糖尿病は、インスリン分泌低下の遺伝的素因のうえに環境要因による肥満・内臓脂肪蓄積、肝臓や筋肉の異所性脂肪蓄積、インスリン抵抗性など、メタボリックシンドロームの病態が加わることによって引き起こされ、細小血管症のみならず心血管疾患の重大なリスクとなる。発症前から膵β細胞の機能低下が認められ、そこにインスリン抵抗性が加わると、インスリン分泌代償的増加が惹起されるが、それが破綻すると糖尿病を発症する。脂肪細胞肥大・内臓脂肪蓄積では、脂肪組織・肝臓で慢性炎症が惹起され、善玉のアディポネクチンが減少して、インスリン抵抗性を引き起こす。糖尿病の治療の目的は健康な人と変わらない寿命と生活の質(QOL)の確保である。しかし、2000年までの糖尿病患者の平均寿命を調査した日本糖尿病学会のデータによると、男性で10歳、女性で13歳も短命となる。糖尿病治療に関しては、大規模研究によりエビデンスが蓄積されてきた。 

 近年、インスリン抵抗性改善薬、インクレチン関連薬をはじめ、さまざまな作用機序を有する新薬が開発され、低血糖を起こさずに食後を含めた高血糖を是正し、日内変動の少ない良質なHbA1cコントロールを実現することが治療の基本となっている。そのために、個々の患者の病態や進行度、合併症などを勘案し、どの薬剤をどのように組み合わせていくのか、エビデンスに基づきながら医師がしっかりと選択していかなければならない。将来は、アディポネクチン受容体作動薬など、患者の食事制限や運動の負担も軽減しながら、よりよいコントロールを得られるような新薬の開発にも期待が寄せられる 

【略歴】 門脇 孝 (東京大学大学院医学系研究科糖尿病・代謝内科教授)
 1978年 東京大学医学部卒業
 1980年 東京大学第三内科
 1986-1990年 米国NIH糖尿病部門客員研究員
 1990年 東京大学第三内科助手
 1996 年 東京大学第三内科講師
 2001年 東京大学大学院医学系研究科糖尿病・代謝内科助教授
 2003 年 東京大学大学院医学系研究科糖尿病・代謝内科教授
 2005年 東京大学医学部附属病院副病院長
 2008年 日本糖尿病学会理事長
 2011年 東京大学医学部附属病院長

 

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疫学を基礎とした眼科学の展開
   山下英俊 (山形大学医学部眼科学)
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【講演要旨】
 疫学研究は、その歴史として、ジョン・スノーのコレラに対する研究、日本では高木家寛の海軍における脚気の研究から発展したと考えられている。疫学のコンセプトは、原因不明の疾患の治療、できないまでも何らかの対応のために、実際にその現場で起こっている事実をきちんとう調べてデータを集めること、集められるデータの意味を目的にそって理論的に解析し意味づけをすること、その時点でのベストの対策を立てるというものである。ジョン・スノーの疫学研究の時点ではコレラ菌は発見されておらず、のちにロベルト・コッホの研究まで待たねばならない。また、脚気の原因はビタミンB1の不足であるが、ビタミンB1の鈴木梅太郎による発見は高木兼寛の脚気研究とその成果としての海軍における脚気の減少のずっと後のことである。これらの事実により、原因不明でも目の前の患者にその時点でのベストの治療を施行することをその職務と考えている臨床医にとって、疫学はとても大切な学問であると考える。また、疫学の研究はとくに社会との連携(住民、地方自治体など)がとても重要であり、研究のみを前面に押し出すのではなく、あくまで目の前のひとのためになるという視点をもって企画し、研究を遂行することにより長期に継続が可能になる。疫学を用いて、まだ解決していない糖尿病網膜症による視力障害に対する医療の闘い、チャレンジを紹介した。

 WHOのメタアナリシスによると、世界における糖尿病患者数2000年に約1億7千万人、2030年には倍増すると推計している。日本の患者数としては厚生労働省国民栄養調査と同時に行われている糖尿病実態調査によると、平成9年690万人、平成14年740万人、平成19年890万人と急激に増加している。これはWHOの推計を上回る速度である。糖尿病網膜症についてはMETA-EYE Study(TY Wong教授)メタアナリシスによると、現在、糖尿病網膜症患者は約1億人に上るとの推計がある。糖尿病網膜症は後天性視力障害の原因の約5分の1をしめ、大きな社会問題にもなっている。このような状態に対応するための治療をすすめ、国民全体の視力を生涯にわたって保持することが眼科医の国民に提供する医療の基本戦略である。厚生労働省が健康寿命を延ばし平均寿命に近づける基本政策を打ち出していることに対応して、健康寿命を指させる健康視力の保持という戦略を打ち立てる必要がある。 

 眼科医として、糖尿病網膜症の現状と今後の課題を考える必要がある。治療戦略の柱として本講演では3つの柱を提示した。(1)増加する糖尿病網膜症をきちんと治療する戦略、(2)予防医学の推進、(3)糖尿病患者数の増加にともなう大血管合併症(心筋梗塞、脳卒中)、細小血管合併症(網膜症、腎症、神経症)の増加の総合的な対策に対する眼科医としての貢献である。これは、我々眼科医が糖尿病診療体系の中での糖尿病網膜症診療レベルを高め、失明をふせぐ医療を推進すること、それに満足せず、糖尿病患者の寿命を延ばし、健康寿命を延ばすために糖尿病診療全体に協力、貢献していくことが重要であることを示した。このような眼科医療の進歩は近年の疫学研究の進歩により大いに推進されてきた。 

 以上のように眼科学が今日の日本の医療において大きな問題である糖尿病の診療にどのようにして貢献していくかを疫学の切り口で絞殺した。その際に大切であるのは、眼科医学が医学全体に貢献することで社会全体に貢献するという視点をいつももちつづけることである。 

 学問、そしてそれを担当する臨床医、医学研究者がこのような使命を果たすためには、有為な人材を継続的に育成することである。すぐれた研究者のもとにはすぐれた弟子が育成され、さらにすぐれた研究が育つ。教える側からの視点ではこのような教育の連鎖のなかで弟子を育成しているという歴史的な責任感を持つこと、学問の面白さと臨床を行う上での高度な倫理観をきちんと伝えることが大切である。教えを受ける若い世帯には、ぜひ、いい恩師を見つけて、ひとのためになる研究が楽しく素晴らしいものであるかという興奮を受けついてほしいと考えている。そして、恩師への恩返しはその受けた教育、薫陶を次の世代につなげることであるという使命感をもってもらいたいということである。 

【略歴】 山下 英俊 (山形大学眼科教授、医学部長)
 1981年6月 東京大学医学部眼科学教室医員(研修医)
 1982年4月 東京大学医学部眼科学講座助手
 1985年1月 国家公務員等共済組合連合会三宿病院、自衛隊中央病院眼科
 1987年1月 東京大学医学部眼科学教室講師
 1992年5月-1994年8月 スウエーデン、ウプサラ大学へ留学
 1994年9月  東京大学医学部眼科学教室講師へ復職
 1999年7月 山形大学医学部眼科学教授
 2003年11月~2010年3月 山形大学医学部附属病院長兼務
 2010年4月1日より 山形大学医学部長兼務

 

 

2012年7月25日

報告:第197回(12‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会
    日時:平成24年7月25日(水)16:30 ~ 18:00 *第4水曜日です
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 毎年7月に企画している新潟県立新潟盲学校の皆さんによる弁論大会です。今年も3名の弁士が想いを語ってくれました。 

1.「僕の将来の夢」 
   加藤 健太郎 (新潟県立新潟盲学校 中学部1年)
 NHKテレビの落語が大好きで、小学校1年生の夏休みに落語を始めた。3年生の頃から老人ホームなどで慰問活動をするようになった。一人でも僕の落語を聞いて元気になってくれると嬉しい。4年生のときに水都家艶笑(みなとやえんしょう)師匠に弟子入りして、一番弟子になり右左の使い分けなどを教わり、師匠の定期寄席にも出させてもらうようになった。僕は「笑点」を毎週見ている。特にいつも明るい、林家たい平師匠が大好きだ。
 将来は、たい平師匠について全国を元気にする落語家になりたい。日本中を笑顔にできる落語家になりたい。そして、10年後に真打ちに昇進し、15年後には「笑点」のメンバーになりたい。 

2.「将来に向けての目標」 
   古川 和未 (新潟県立新潟盲学校 本科保健理療科1年)
 ストレスが溜まっていた。昨年の10月のある日、一人で衝動的に上越まで行ってしまった。先生方や両親、そして様々な方にも迷惑を掛けた。そのことが、自分を見つめ直すきっかけになった。専攻科理療科で勉強していたが、自分は保健理療科に行きたい。将来は、あん摩・マッサージをしたいという自分の気持ちに気が付いた。盲学校では、6つの部活動(万代太鼓など)を行い、体育祭では白組の応援団長を務めた。
 人とのコミュニケーションをとるのが得意ではない。治療院ではお客さんとのお付き合いが大切だ。ストレスに対する対処策を学び、任されたことをやり抜き、何事にも挑戦する人生を送りたい。
 注:理療科は、高卒後3年で、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験と、はり師・きゅう師国家試験の受験資格を得る専攻課理療科と、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験だけの受験資格を得る本科保健理療科がある。 

3.「心との約束」  
  左近 啓奈 (新潟県立新潟盲学校 中学部2年)
 盲学校に入学する前は、普通小学校に通っていた。6年生のとき、学校の先生から「点字を学習しないか」と突然言われた。驚きと葛藤、そして不安。「見えるのに、どうして点字をやらなければいけないのか?」と、自問し悩んだ。中学1年生の夏休みに点字の宿題をもらった。しかし、先生に言われて仕方なくやっていただけ。「どうして目が見えるのに・・・?」という、不安は消えない。でも、学習では、特に理科の授業が普通の文字では見え難くなってきていた。点字の方がわかりやすかった。 迷いながらも点字と取り組んでいたときに、母が携帯の「dear・・・」という曲を聴かせてくれた。この曲のサビに出てくる「ぼくならできる」という歌詞を聴いて、「自分はやればできるんだ」と思い、点字に前向きに取り組めるようになった。
 今では点字で授業を受け、学習に余裕もできてきた。 私は趣味で小説を書いているが、今後は点字を使い小説を書き、多くの小説を読み、さらに成長していきたい。
 注:「dear・・・」は、韓国人アーティスト「K]の曲。 

4.落語 「代書屋」「二人旅」
   たら福亭美豚 (加藤 健太郎) 

【後 記】
 済生会眼科の勉強会では、毎年7月に新潟盲学校の生徒さんによる弁論大会を行っています。とても好評で今回もたくさんの人が参加されました。 今年の3名の弁士は皆さん、将来への希望と夢を語ってくれました。大きな声で正々堂々と自分の考えを主張する姿には、毎回ながら元気をもらいました。