勉強会報告

2011年12月3日

  もう4年も前のことですが、第17回日本糖尿病眼学会総会を主催しました(会長~安藤伸朗;2011年12月2日~4日:東京国際フォーラム)。
 本来、糖尿病の眼の合併症に対して、眼科医・内科医・医療スタッフが討論するという学術的な学会でありますが、あえて下記シンポジウムを行いました。ここで改めてその内容を紹介致します。

シンポジウム「患者さん・家族が語る、病の重さ」
12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
        
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)

 S-1  1型糖尿病とともに歩んだ34年
     南 昌江 (南昌江内科クリニック)
 S-2  母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
     小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
 S-3  ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
     西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
 S-4  夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
     立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)

報告(その1)オーガナイザーの言葉、南先生講演要約
------------------------------------
【オーガナイザーの言葉】
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
        
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)

 私たち医師は、データに基づいたEBM中心の医療を実践していますが、患者の心のうちをどこまで理解して診療しているのか、疑問に思うことがしばしばあります。
 医者と患者の接点は病気であり、病院(医院)では医者も患者も病を治そうと思っています。しかし患者にとって病気は、幾つもある気掛かりなことの一部であり、他に沢山の悩みも抱えています。時に経済的なこと、時に対人関係、時に会社や学校のことであったりします。 

 病気を治す主役は患者で、医師はサポーターであると言われます。その意味では患者と医者は対等ですが、本当にそうでしょうか?英語で患者は「patient」ですが、「patient」という単語には「耐える」、「辛抱する」という意味がありま、「be patient」とは、「耐えなさい」、「辛抱しなさい」ということです。患者patientとは、洋の東西を問わず、耐えることを強いられた存在なのかもしれません。

 病院hospitalが、患者にとって安らぐことのできる場、ホスピタリティーを感ずることのできる場となるためには、何よりも医療従事者が、患者の気持ちを理解する(理解しようとする)ことが大切ではないかと考えます。 

 本シンポジウムでは、患者さん・ご家族に、病との闘い方・付き合い方、そして本音をご自身の言葉で語って頂きました。登場するシンポジストは、ご自身あるいは家族が病と闘っている3名の現役医師と1名の大学教員(教授)です。ご自身の物語を客観的に述べることができる方々でした。
 患者・家族の声に耳を傾け、想いを共有し、現場の医療を見つめ直す機会に出来ればと思います。 

------------------------------------
S-1. 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南 昌江内科クリニック)

【講演要旨】
 私は34年前の夏に1型糖尿病を発症しました。当初は親子とも落胆し将来を悲観しましたが、その後尊敬する医師との出会いによって人生が変わってきました。 

 16歳で小児糖尿病サマーキャンプに参加しました。本心は参加したくなかったのですが、主治医から半ば強制的に参加させられました。そこで、病気に甘えていた私たちに、ボランティアのヘルパーから、「糖尿病があるからといって社会では決して甘く見てくれない。これから糖尿病を抱えて生きていくなかで沢山の壁にぶつかるだろう。その壁を乗り越えられる強さを持ちなさい。」と話をされました。これまで病気を理由にいろいろなことから逃げていた自分に気がつき、その頃から病気とともに生きていく覚悟が出来、将来は「医師になって糖尿病をもつ人の役に立ちたい」と思うようになりました。 

 医師になって念願の東京女子医大糖尿病センター、平田幸正教授の下で医師の第1歩を踏み出しました。医師になったばかりの私に、平田先生は「あなたは貴重な経験をしている。同じ病気の子供たちのためにも、是非自分の経験を本に綴ってみてはどうかね?」というお話をいただきました。しかし研修医時代は不規則な生活が続き、糖尿病のコントロールも良くない状態で、こんな自分が糖尿病の患者さんを見る資格はないのではないかと内科医をあきらめかけた時もありました。医師になって3年目、今度は肝炎を患いました。糖尿病になって、一生懸命に頑張ってきたのにどうしてまたこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろうと、本当に辛い時期でした。3か月の休養をいただきましたが、その時に、ふと、以前平田先生からいただいたお話を思い出し、「こんな状態の自分でも、少しずつ自分の体験を綴ってみることはできるのではないだろうか」と思い、その後福岡に帰って勤務医を続けながら、私の経験が糖尿病の子供たちに勇気と希望を与えることができればと思い、「わたし糖尿病なの」を出版しました。 

 1998年に糖尿病専門クリニックを開業し、多くの糖尿病患者さんと接しています。診療の傍ら、講演や糖尿病の啓発活動を行っています。2002年に初めてホノルルマラソン(フルマラソン)を完走することができました。その時の感動は、今でも忘れられません。30kmを過ぎると本当に辛かったですが、最後のゴールを前にした時には、これまで生きて来て、辛かったことが走馬灯のように思い出され、一気に消えていきました。出会ったすべての方々への感謝と、本当に生きてきて良かった、という思いを天国の父に伝えたくて、涙を流しながらのゴールでした。 

 それまでは、合併症の危険性など自分の10年先の将来に自信がなかったのです。「将来、目が見えなくなるかもしれない、透析になるかもしれない。」という糖尿病の合併症の心配がどこかで自分を臆病にしていました。フルマラソンを完走できたことで、自分の体力・精神力に自信がつきました。この体験をきっかけに、(大きな借金をして)新たにクリニックを新築し、自分が長年理想としてきた糖尿病の診療をしています。 

 そして、“No Limit”をモットーに、“糖尿病があっても何でもできる”ことを一人でも多くの患者さんに理解して体験して頂きたいと思い、“TEAM DIABETES JAPAN”を結成し、毎年患者さんや医療関係者と一緒に参加しています。今年も無事に10回目のホノルルマラソン(2011年12月11日)を完走することができました。 

 自分の人生を振り返った時に、生き方や考え方を教えてくれたのは両親です。 父からは、高校生の頃に  「お前はハンディを持っているのだからその分、人の2倍も3倍も努力しなさい。」  「嫁には行けないだろうから、一人で生きていくために資格を取りなさい。」  「病気があると金がかかる。自分の医療費は自分で払えるように経済力を持ちなさい。」 と病気がある私にあえて厳しく育てられました。 

 私が大学受験で国立大学医学部に失敗して、浪人させてほしいと父にお願いした時には、「人より人生が短いのだから、1年でも無駄にするな。私立大学に合格したのだからそこで勉強して少しでも早く良い医者になりなさい。」と言われました。小さな電気屋を営んでいた我が家の家計では私立の医学部は到底難しかったと思いますが、両親は私のために必死で働いて卒業させてもらいました。それまで父には反抗していましたが、その時に父の愛情を深く感じました。そんな父が、2001年に癌で亡くなる前に、「もうお前は一人で生きていけるな。お母さんのことは頼んだよ。」と逝ってしまいました。 

 病気を持つ私に、強く生きていきなさいと育ててくれた父、いつでも「ありがたい、幸せ。」と感謝の言葉が口癖の母、そしてこれまで私が出会った方々や医学から受けた恩恵に感謝し、一日一日を大切に「糖尿病を持つ人生」を明るく楽しく自然に、いつまでも夢を持って走り続けていきたいと思っています。
 最後に、私にとって1型糖尿病とは? “素敵な試練”でしょうか? 

【略 歴】
 1988年 福岡大学医学部 卒業
      東京女子医科大学付属病院内科 入局
      同 糖尿病センターにて研修
 1991年 九州大学第2内科糖尿病研究室 所属
 1992年 九州厚生年金病院内科 勤務
 1993年 福岡赤十字病院内科 勤務
 1998年 「南昌江内科クリニック」開業(福岡市中央区平尾)
 2004年 福岡市南区平和に移転
     現在に至る

 第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
 シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
 (東京国際フォーラム ホールB7-1)
------------------------------------
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター病院 眼科)    

【講演要旨】
 誰に頼まれた訳でもないが、私の生い立ちが私を眼科医にしたように思う。私の父は、25歳でベーチェット病を発病し、30歳で完全失明した。父は、私たち家族の顔を全く知らないし、私も父の見えている時代を知らない。幼少時、父は盲学校で勤務しており、母が父の送り迎えをしていた。幼い私はよく同行し、盲学校の生徒さんや教職員の方々に大変可愛がってもらった。そんな頃、父は見えていないのかな?と思うことが増えてきた。父は、幼い私にも、ものの色や向きを尋ねたし、母といつも一緒に歩いているし、他の家のお父さんと違うことが多かったからだ。就学前、今でも鮮明に覚えているが、母に父はどうして見えないのか?と聞いたことがある。母は、「ベーチェット病という病気のせいよ。」と答えた。幼いながらも、「どんな病気なの?」と聞くと、母は、「原因が分からない病気よ。」と教えてくれた。その時の母との会話が大きなきっかけとなり、私は医師になろうと思うようになった。短絡的で幼い発想だが、眼科医になれば、父の病気が治せると考えていた。 

 その後、私は本当に医学部へ進学し、医師になった。しかも、大学卒業後、ベーチェット病を専門にしている大野重昭教授率いる横浜市立大学の大学院へ進学することができた。当時の私は、これでベーチェット病について取り組めると意気揚々としていた。しかし、その反面、疑問に思うこともあった。それは、大学時代や医師となった後の研修でも、種別を問わず、障害や福祉などに関して学ぶ機会がほぼ皆無だったことだ。父や周囲の方々の話を聞いていると、医療と福祉はとても近接しているように思えていたが、実際に医療の中に自分の身を置いてみると、意外なほどに福祉との接点がほとんど見えてこなかった。そのような疑問を感じながらも、当時の私にとっては、ベーチェット病に取り組めるということで、やっと長年の敵と向かい合えるような心境でもあった。 

 大学院修了後には、米国留学の機会も与えられ、研究を手がける医師として恵まれた環境にいたと思うが、やはり私にとっては、医師になった当初の疑問が逆に大きくなってきた。臨床経験を積むにつれ、「見えにくくなる」というテーマについて、患者と医師のやり取りに接する機会も増えた。ほぼ全ての患者は、見えないということは、恐ろしいことで、何もできないという、ネガティブな言葉で終始していた。それに対する医師側のコメントも「見えなくなったら、大変でエライことですからね」という程度の言葉で会話が終了しているのが大半だった。 

 私にとっては、何か違うと思うことが増える一方だった。身近で、幼少時から多くの視覚障害者が明るく、前向きに頑張っているのを知っている私にとっては、たとえ全盲になっても、こんなこともあんなこともできるという、前向きなコメントを患者にしてあげたいと思うようにもなってきた。つまり、私はたまたま身近に知る機会があったが、多くの患者や眼科医は、視覚障害者の日常を知る機会がないのだろうとも考えた。そして、医師こそ、障害や福祉について目を向けないと、包括的な本当の医療はできないのではないか?とも思えた。 

 振り返って考えてみれば、少なくとも私の時代には、各種診断書の書き方ひとつ大学時代や研修でも習ったことはないし、患者が見えにくくなったら、どういうところに行って、どのようなリハビリテーションを受ければいいのかなど、全く眼科の中でも学んだことはない。私も、父がいなければ、このような領域について、全く想像もできないし、わからないことばかりだっただろう。 

  「失明を 幸に変えよと 言いし母 臨終の日にも 我に念押す」 

 これは、父が詠んだ短歌である。父がいよいよ失明するのか!?という絶望の淵に立たされていた頃、祖母が入院中の父のところにお見舞いに来た。病状を聞いた祖母は、「失明はだれでも経験することのできるものではないよ。これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね」という言葉をかけた。すぐには父も言葉を受け入れることはできなったようだが、徐々に祖母の言葉を理解することができ、それが視覚障害者として再出発を果たした父の大きな原動力になった。父は、盲学校勤務の後、自分と同様に中途視覚障害で再出発を目指す人のための施設で、定年まで長きに渡って勤めた。自分が担当する利用者の皆さんにも、折に触れて、祖母の言葉を紹介してきたようだ。今、私も縁が重なり、同系列の病院眼科で勤務をし、ロービジョンケアを必要とする患者と接している。 

 祖母の言葉は、そのまま私にも当てはまる。中途視覚障害の親を持つ私は、眼科医として何物にも変えがたい貴重な経験をさせてもらっていると思う。今、私は、患者がロービジョンだからと構えることなく、その方が以降の人生をどれだけ満喫できるか、患者に夢を与える眼科医としてサポートしていきたいと考えている。今は、この仕事を選ぶ礎を築いてくれた父と、これまで出会った多くの視覚障害者の方々に深く感謝している。 
 

 参考:第9回オンキヨー世界点字作文コンクール 国内部門 成人の部 入選佳作
  横浜市 西田 稔 「忘れることのできない母の言葉」
  http://www.jp.onkyo.com/tenji/2011/jp03.htm

【略 歴】
  1991年 愛媛大学医学部 卒業
  1995年 横浜市立大学大学院医学研究科 修了
  1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所 留学
  2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座 助手
  2005年 聖隷横浜病院眼科 主任医長
  2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院眼科 医長
      現在に至る 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
      東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南昌江内科クリニック)
  S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
   小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
  S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
  S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~.

 第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
 シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
 (東京国際フォーラム ホールB7-1)
------------------------------------
S-4.「夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト」
   立神 粧子 (フェリス女学院大学・大学院 音楽芸術学科 教授)

【講演要約】
 命が助かった喜びの後に訪れたものは脳損傷という難解な障害であった。2001年秋に倒れた夫の病名は解離性右椎骨動脈瘤破裂による重篤なくも膜下出血。コイル塞栓術、脳室ドレナージ術、V-Pシャント術を経て命は助かったものの、高次脳機能障害が残存した。長年ヨーロッパで世界最高峰の音楽家たちと楽器開発の仕事をしてきた夫が、自分から話すことも動くことも感じることもできず、1分前の記憶が留まらず、今いる場所の感覚がなくなり、簡単なことも混乱してできない。私たちの日常は一変した。喪失感に打ちのめされていた時、New York 大学付属Rusk 脳損傷通院プログラムを知った。 

 Rusk通院プログラムは、脳損傷に対する神経心理学リハビリテーションで世界一と言われる。主に前頭葉の認知機能不全に対して、対人コミュニケーションを中心とした全人的なアプローチによる機能回復訓練が行われる。この障害を、英語ではBrain Injury(脳損傷)、日本の行政用語では高次脳機能障害と呼んでいる。創設者で所長のBen-Yishay博士(2011年に退官)は、脳損傷はエベレストに匹敵する手ごわい障害と語った。2004年春から夫と私が訓練を受けた時、Ben-Yishay博士は、「私たちスタッフはエベレスト登山のためのツールや登り方を授けることができるが、登るのは君たちだ。訓練して自分の力で登りなさい。」と説明した。 

 当時日本でお手上げだった夫の症状は、1サイクルを経ただけでも日本の先生方が驚くほどの回復を見せた。Rusk通院プログラムの見事に構造化された訓練は神経心理ピラミッドを核として、各症状への戦略を身につけるために工夫・統合されている。神経心理ピラミッドは前頭葉機能の中でも主に認知の神経心理機能の働きを9つの階層に分けて表している。下から順番に以下のとおりである:1.訓練に参加する主体的意欲、2.神経疲労(覚醒・厳戒態勢・心的エネルギーの問題)、3.抑制困難症と無気力症(制御と発動性の問題)、4.注意と集中、5.情報処理(情報を処理するスピードと正確性の問題)、6.記憶、7.論理的思考力と遂行機能、8.受容、9.自己同一性。 

 ピラミッド型であることは、上位の機能はそれより下位の機能が働いていないとうまく機能しないことを示している。実際は諸機能が連動したり組み合わされて様々に複雑に絡み合うことになる。グループや個人での訓練、カウンセリングなどあらゆる角度から当事者は家族と共に症状と戦略を学ぶ。 

 Kurt  Goldstein は、「患者が適正かつ主体的に参加して初めて、脳損傷のリハビリテーションは成功する」ため、「自分の問題をできるだけ詳細に理解させる」必要性を説いている。Goldsteinの療法哲学を受け継ぐBen-Yishay博士は次のように説明した。脳損傷を得て、「誰でもはじめは深い絶望を感じるだろう。しかしそこから自分で立ち上がってこなくてはいけない。自分の欠損に気づき、訓練の環境に順応しながら、訓練の必要性を理解する。そして欠損の補填戦略を学び、日常生活の中で様々な調整を行いながら、習慣化するまで練習する。そのあたりまで進むと、脳損傷を得た自分を受容できるようになる。」受容ができるようになったら、「脳損傷を得た自分」を新しい自分として認め、そこから再び自己を構築する必要がある。そこまで目指さないと、社会の中や家族の間において、自己の存在価値を自分で認めることは難しい。家族も同様である。脳損傷を得た患者とのかかわり方を学んで、この事実を受け入れ、家族の立場から自己を再構築することで、自分自身も幸せになるように考える必要がある。 

 「高次脳機能障害はエベレスト登山のように難しい」という話から始めた。Rusk 通院プログラムから伝授されたツールをまとめると次のようなことだった。
  1.症状をよく知り、真に理解すること。
  2.戦略の使い方を学び練習し、マスターして習慣化すること。
  3.失敗から学ぶこと。
  4.成功体験は、本人のみならず家族にとっても明日への活力だ。
  5.感謝の言葉や気持ちを表すことによって、患者は相手への共感をもつことができるようになり、家族は苦労が報われる気持ちになる。 

 Ruskで夫が何かができるようになったとき、大喜びでBen-Yishay博士に報告に行くたびに博士からこう言われた。「Shoko, patience!(粧子、決して焦ってはいけない!)これは先の長い問題だ。いちいち一喜一憂せずにどっしり構えなさい。そして困難に耐える力を身につけなさい。」 夫も私もRuskでの訓練から、受動的ではない、能動的な生き方を教わったと感じている。 そしてRuskでの訓練を徹底的に学んだ私に、Ben-Yishay博士は門外不出だった資料の公開の許可を与えてくださり、その結果、2010年11月に医学書院から『前頭葉機能不全 その先の戦略』という本を出版することができた。 

 高次脳機能障害を持つことになった夫との生活から、症状を真に理解しなければ、相手を支援することはできないことを学んだ。また、夫を助けるばかりでなく、夫にも私を助けてもらうような関係にならなければ、これからの人生を共に幸せに過ごすことはできないだろう。真の自己同一性は、自分のためではなく、隣にいる人、それが家族であろうと社会の中の他人であろうと、自分の隣にいる人を幸せにすることではないか。現在も、夫との生活で毎日のように困難に直面する。しかし、Ruskから授かった戦略とツールによって、何とか一歩ずつ、二人でこのエベレストを前に進んでいきたいと思っている。 

【略 歴】
  1981年 東京芸術大学音楽学部卒業 音楽学士号取得
  1984年~86年 国際ロータリー財団奨学生として米国シカゴ大学大学院に留学
  1988年 シカゴ大学大学院人文学科修了 音楽学修士号取得
  1991年 南カリフォルニア大学大学院演奏研究修了 音楽芸術博士号取得
  1993年 フェリス女学院大学 専任講師
  1998年 フェリス女学院大学 助教授
  2006年 フェリス女学院大学 教授
       現在に至る

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
      東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南昌江内科クリニック)
  S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
   小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
  S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
  S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~.

 第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
 シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
 (東京国際フォーラム ホールB7-1)
------------------------------------
S-2.「母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに」
   小川 弓子 (福岡市立あゆみ学園 園長 小児科医) 

【講演要旨】
 平成18年5月に1冊の本が出版されました。「視力3cm~それでも僕は東大に~」という本です。視力および色覚に障害をもつ私の長男 明浩が成人を機に出版した本です。抜粋を紹介します。「弱視であるがゆえに、これから進んでいく道のりを見失ったり、道幅がよく見えずにはみ出てしまったりすることも多々あるでしょう。それでも、みんなのおかげで、きっと私は頑張れます。今の私を作ってくれた、すべての人たち、これまで私を育ててくれてありがとう。私を誇りに思ってくれてありがとう。私を支えてくれてありがとう。私のそばにいてくれてありがとう。私は元気です。これからも頑張って生きていきます。そのための力をくれたこと、ほんとうにありがとう」 

 私は書店でこの本を手に取った時、涙でほとんど読み進めることができませんでした。私はけっしていい親でも、りっぱな親でもなかった。仕事を最優先にして、早産。その後の子育てでも、障害のある子どもと向き合えず、子どもに対する期待、見栄、そして現実を受け入れる勇気、忍耐等々自分自身の気持ちと闘うのに必死だった未熟な弱い親でした。ただただ目が悪くとも「見せてあげたい」「経験させてあげたい」「いきいきと生きて欲しい」「人生の楽しみを知って欲しい」という必死の思いだけで療育を開始していきました。単眼鏡、ルーペなどの補装具訓練、そして知識を補うための膨大な本と拡大作業、ピアノ、折り紙、切り絵、字の練習。いいと思うものを息子に与えようとする私の気持ちは、もしかすると空回りもし、子どもにとって負担だったかもしれない。きっと辛いこと、悔しいこともいっぱいだったに違いない。そんな私の手探りの子育てだったのに、息子が自分を卑下せず感謝の気持ちを持って成人となったことは、有り難く、また多くの支えてくれた人たちのお陰と感謝の気持ちで一杯です。 

 「身体が悪くとも立派に生きている人間はおる、そのように育てればいい」といった祖父。「私が代わってでも育てちゃる」といった祖母。「障害があることと幸せ、不幸せは全く別のことです」と諭してくれたカウンセラー。「あなたの必死さが通じないはずはない」と励ましてくれた友人。「変えられるものを変えていく勇気と、変えられないものを受け入れていく冷静さと、そしてそれを見分けられる知恵を私にください」「親はこどもと代われないが最高の応援団にはなれる」「生きるとは運命を引き受けること」「笑顔があればきっと大丈夫」といった本や歌の中の言葉達。そして「明浩の人生は明浩のものだが、明浩だけのものではない、家族みんなで支えていく」といった主人。障害に遭遇したけれど、これらの多くの人の励ましや人生を生きるメッセージに私たちは出会い、力をもらいました。人は弱い、けれど支えがあれば強く大きく変わっていくこともできると、心から思います。 

 今、息子は1人の社会人として大都会東京で、将来の夢をかけてITベンチャー企業を起こしています。就職に際して「僕は目が悪いから、どんなに立派な会社のビルか、どれほど会社のロゴマークが社会にあふれているか見えない。僕にとって大事なのは、握手してくれる温かい手、肩をたたき一緒にやろうと言ってくれる誠実な言葉、気持ち。この価値観を作ってくれたのは生まれたときからつきあってきたこの視力だよ。」といってこの選択をしました。なまじ目が見える私は立派な物、大きな物、きれいな物に心惹かれますが、視覚障害の息子は本質をのみ見つめて生きて行こうとしているようです。そこには視覚障害があるからこその豊かな価値観があるのかもしれません。 

 「辛い」という言葉があります。この言葉は驚くほど「幸せ」という言葉に似ているとある本に書いてありました。もしかすると辛いことのすぐ傍に幸せはあるのかもしれません。辛いからこそほんの小さなことに喜びを感じたり、感謝の気持ちが生まれたりもするでしょう。辛いからこそ寄り添ってくれる人、励ましてくれる人、心配してくれる人の優しさが身に染みることもあるでしょう。そして、その人々の支え合い、生まれた絆こそが幸せに導くのかもしれません。 

 この文章を目にされた方々の中の一人でも、障害や病気など困難を抱える人の「辛い」状況にも小さな「幸せ」を感じられるように支えとなってくださることを祈りながら、筆を置きます。 

【略 歴】
 1983年 島根医科大学(現島根大学医学部)卒業
      九州大学医学部付属病院 小児科勤務
 1984年 福岡市立こども病院勤務
 1985年 東国東地域広域国保総合病院 小児科勤務
 1986年 福岡市立子ども病院勤務
 1987年 長男(視覚障害児)出産を機に育児・療育に専念
 1994年 福岡市立心身障害福祉センター 小児科に復職
 2002年 福岡市立肢体不自由児通園施設あゆみ学園 園長就任
     現在に至る

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
      東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南昌江内科クリニック)
  S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
   小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
  S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
  S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2011年11月11日

演題: 「視覚障害五年生、只今奮闘中 学んだ事、得た事、今思う事」
講師: 田中 正四 (新潟県胎内市)
  日時:2011年11月9日 (水) 16:30 ~ 18:00  
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 2003年 6月 腎不全により透析開始
 2004年 4月 右眼緑内障により失明
 2005年11月 休職
 2007年 7月 退職
 2007年 8月 左眼視力障害にて障害一級

 私のほぼ六十年の人生において2003年6月からの環境は、長い会社員生活からはまったく想像すらできなかった病との闘いの日々となった。

 「会社は人を育て、人作りにより発展する」この会社の基本理念に全力投球した37年間の会社員生活から、私の環境は一転した。休職を開始した私には、それまで築き上げてきた人のつながりや、多くの技術、誇りさえ無くしてしまう事となった。休職の段階からは、リハビリ外来を受診して、アドバイスを受けていたが、自身の将来に向けたスタートを切ることができず、人のつながりを失った絶望感と視力障害を受け止められない自分がそこに存在していた。

 一方、家族の前では、障害を覚悟したかの様に振る舞い、勤めて明るく前向きな自分を演じていた。しかし、家族の薦めや協力により、多くの病院に診察を受け、視力回復への望みは無くさずにいた。そんな家族の献身的な協力を感じた時、私には、ここに一番大切な人のつながりが残っていたことに気がついた。

 大切な家族のために何が出きるのだろうかと真剣に考え、私が取った行動は、家のリフォームと妻の将来生活の確保であった。結婚し、子供を育て、住まいを築いてきた今までの人生。今私に残された宿題のように思っていた。

 リフォームと生活設計をなしとげたが、心は晴れず目標を見つけられない自分にやり場のないむなしささえ覚えた。そんな時、リハビリ外来で女神様と出会うことができた。その女神様は、とても明るく暖かい雰囲気をかもし出していた。女神様の魅力に心ひかれた私は、「どうしてそんなに明るくしていられるのですか」と訪ねた。女神様は「あんた、悲しいんでしょう、辛いのでしょう、悔しいのでしょう。泣きなさい、泣いていいのよ。」と素直に自分を表す事の大切さを教えてくれ、私を抱きしめてくれた。その女神様の言葉に我慢し耐えてきた自分の封印が解かれ人目もはばからず号泣してしまった。

 さらに、身内にも女神様が存在していた。孫娘である。3歳の孫は、結婚式でベールガール役を務めたあとのインタビューで、「大きくなったら、ジジの目目治すの。」と答えてくれた。こんなに近くにいた女神様に、大きな夢をあたえていただいた。素直になること、夢を持ち続けることの大切さを教わった。もっとも女神様には、こわい女神様もいるのでした。そのこわい女神様は、家の中の私に最も近い所にいて、いつも私を叱咤激励してくれた。

 私には、多くの仲間がいる。毎週通っているパソコン教室の仲間達である。それぞれの人生を歩み、同じ障害者仲間と接している仲で、私に無い生き方や考え方を学び聞くことができた。そんな仲間の勧めもあり、盲導犬の魅力にひかれた私は、盲導犬の貸与に向け舵を切った。体験会に参加し、さらに盲導犬のすばらしさに感激した私にその夢は現実のものとなった。昨年の夏。待望の盲導犬が貸与されたのである。グティ号である。風を切り歩く快適さを数年ぶりに取り戻し、日々相棒と胸を張って歩行している。

 現在私は、多くの仲間達と盲導犬グティ、それに、多くのボランティアの皆さんの理解に囲まれて前向きな日常を送っている。今、こうしてすばらしい人生の門を開けることが出来た私であるが、今後の夢がある。それは、障害の理解と盲導犬の普及と啓蒙活動に取り組み、より多くの視覚障害者の掘り起こしである。さいわい、地域の小学校等への訪問機会に恵まれ、その夢は実現しつつある。今回の私の経験や、挫折と立ち直りのエピソードを参考に、一人でもおおくの障害を持った仲間がつどえることを願ってやむない。

 ここで、今後の行政に望むことを書き添えたい。それは、障害が現実となった人に、県内や、地域の教育、訓練、仲間達と過ごせる場所の情報の提供である。情報弱者の私達である。より多くの人たちが明るく前向きな生活を送ってもらえるように、なっていただきたいと切に願っています。

 最後に孫娘の成長を紹介したい。一昨年5歳になった彼女は、お医者様からプリキュアに夢を変更したが、今年一年生の彼女は、「やっぱりお医者さんになるよ。でも少なくても20年かかるんだって。だから、じいちゃんそれまで生きていなくちゃいけないよ」ですって。頑張らなくてはいけない五年生の私です。

【略 歴】
 1953年 新潟県長岡市生まれ(旧越路町)
 1968年 日立製作所入所
 1974年 移転により胎内市に転居
 2003年 腎不全により透析開始
 2007年 視覚障害1級  退職
 2010年 盲導犬貸与される

 

【追 記】
 勉強会当日、会場には5頭の盲導犬も含め、参加者が溢れていました。田中さんは、張りのある声で低音ながらはっきりとした口調で話し始めました。

 「絆」が東日本大震災復興のテーマですが、田中さんのお話にも、「絆」は満載でした。「会社は人を育て、人により発展する」という会社のモットーで、多くの仲間を得て、頑張ることが出
来た勤務時代前半。人事担当になり、それが一変してしまいました。「同志」「仲間」に退社を勧める仕事になり、かなりのストレスだった勤務時代後半。眼の病と闘うなかで、家族の協力。リハビリ外来での女神との出会い等々。
 女神様:「思いっきり泣いてごらん」、 孫娘:「将来はジジの目を治して上げる」、 お孫さん:「おじいちゃん、目が見えないのなら心の目で見ればいいよ」、、、、 涙あり笑いありの、あっという間の50分でした。

 田中さんとは不思議な縁です。医者と患者は「病気を治してなんぼの関係」ですが、結局私は田中さんの目の病気を治すことが出来なかった眼科医です。2007年に他院からの紹介で私の前に現れた田中さんは、右眼は緑内障にて失明、左眼は胞状網膜剥離。各地の医者を転々としており、医者不信の固まり状態でした。左眼の続発性網膜剥離(uveal effusion)の手術目的で入院したものの、入院時には網膜は復位(網膜萎縮・視神経萎縮)しており手術適応はありませんでした。結局、手術せずに退院となりました。手術に一縷の望みを掛けていた田中さんには申し訳ない結果でした。

 そんな田中さんにお話して頂ける事、感謝しています。田中さんは現在、いろいろな小学校での総合学習で講演する機会が多いとのことですが、私たちのところにもまた来て頂き、多くのことを教えて欲しいと思います。田中さんのますますの活躍、祈念しています。