「言葉 ~伝える道具~」 報告:第211回(13‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
2013年9月30日

報告:第211回(13‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「言葉 ~伝える道具~」
 講師:多和田 悟 (公益財団法人日本盲導犬協会 訓練技術担当理事)
  日時:平成25年9月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 一つの言葉で救われたり、一つの言葉で奈落の底に落ちたり、言葉は時として人の人生を左右する。言葉の専門家に「言葉は感情を伝える道具である」と教えていただいたことがある。言葉に込められた感情が時として言葉より先により力強く相手に伝わる。 

 「そんなつもりじゃなかったんだ」「そんなことで傷つくとは思わなかった」言葉は口から出てしまったらそれを受け取った相手次第に料理される。判断するのは話し手ではなく聞き手なのである。当日の勉強会の参加者に「救われた言葉」「傷ついた言葉」をそれぞれに準備して最後に発表していただいた。傷ついた言葉に今も心が癒えていなくて思い出すのがつらい、と発表された方がおられた。その人にとってはその時に聞いた言葉が今も現在進行形でその人に「傷ついた言葉」として残っていることを知らされた。ある方は身内の言葉に救われた、と言われた。同じ言葉を同じときに聞いても人はそれぞれに感じ方が違う。「かわいそうに」という言葉で外に出られなくなったという人を何人か知っている。心を込めた同情の言葉もその当事者には「傷ついた言葉」になってしまった例である。

  私は盲導犬を通して目の見えない人、見えにくい人たちに安全に歩行する方法を教えることを仕事としている。言葉を選びNon Visual Communicationの成立を目指している。しかし振り返れば私自身が私が向き合った多くの目の見えない人見えにくい人たちに「傷ついた言葉」を発してしまい傷つけてしまったに違いないことを反省している。そんな私が、ただ相手の寛大な心によって赦されて今もこの仕事を続けられていることを感謝する。

 私が白杖の歩行指導員の養成講習を受けた時に紹介されたトーマス キャロルの“失明”から多くを学んだ。その後、友人の約一年をかけた死をすべて見る中で「視力ある人の失明は死を意味する」が実感を持って迫ってきた。私の友人は最善の医療を受けたにもかかわらずその死から逃れることは出来なかった。Cure(治療)には限界がある。しかしCare(ケア)には限界はないのではないだろうか?視覚障がいリハビリテーションはターミナルケアであると思った。自分の視覚機能を使って情報を集めて行動をしていた自分がそれ以外の方法を受け入れそれを使って行動する。方法は違うが同じ結果に向かって進むことに違いはないはずである。

 受容とあきらめは受容が希望をもって将来を向いているのに対してあきらめは希望を見つけられず過去を向いているのではないだろうか。その原因はどれだけ多くの「救われた言葉」に出会うか、だと思う。

 相手を傷つけるかもしれないから何も言わない、のではなく相手を傷つけないように伝えたい。それでも相手が傷ついてしまったら「ごめんなさい」と言い、ひたすら相手の赦しを乞うしかない。同じように逆の立場の場合私も相手を赦す努力をしなければならない。私が6年間を過ごした異文化であるオーストラリアでの生活で日本人である私に新たな異文化思考を教えてくれた言葉は 「私はあなたを許します。しかしこの出来事は忘れません」(I forgive you but never forget)である。つらい出来事から解放される方法は忘れることだと思っていた私の日本人思考が変えられた言葉であった。赦さないと赦せない自分がつらくなるのである。

 無言でいることでNon Visual Communicationは成立しない。Non Verbal communication はそれなりの関係の上に立って成立し言語より雄弁に相手に伝える。

  変わるものを変えようとする勇気
  変わらないものを受け入れる寛容さ
    そしてその二つを取り違えない叡智
 (「ニーバーの祈り」ラインホールド・ニーバーより引用) http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm 

 
 この言葉を受け入れるとき「健全なあきらめ」が導かれ新たな「希望」へと続くと思う。

 

【略歴】
 1974年 青山学院大学文学部神学科中退
     財団法人日本盲導犬協会の小金井訓練所に入る。
 1982年 財団法人関西盲導犬協会設立時に訓練部長として参加。
 1994年 国際盲導犬連盟のアセッサー(査察員)に任命
    (日本人では唯一人;現在に至る)
 1995年 クイーンズランド盲導犬協会(オーストラリア)
     シニア・コーディネーターとして招聘。後に繁殖・訓練部長に就任。
 2001年 帰国。財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーターに就任
 2004年2月 財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーター退職。
    3月 盲導犬訓練士学校、財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校
       教務長(日本初)
    4月 財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校開校
 2009年4月 財団法人日本盲導犬協会事業本部
      学校・訓練事業統括ゼネラルマネージャー
 2012年6月 公益財団法人日本盲導犬協会 訓練技術・訓練士学校 担当常勤理事 

*盲導犬クイールを育てた訓練士として有名
 著書:「犬と話をつけるには」(文藝春秋)、
    「クイールを育てた訓練士」(文藝春秋、共著)等

 

【後記】
  さすがに多和田さんの講演です。会場には盲導犬が7頭も勢揃いしました。
 多和田さんの口調は穏やかで、まるで讃美歌を聞いているような講演でした。そして幾つかの気づきがありました。
 言葉は怖い。「そんなことで傷つけとは思わなかった」 とよく言うが、判断するのは話した本人ではなく、聞いた側の人。どんなに気を付けても人を傷つけることはあるが、そのために言わないというのは如何なものか?
 トーマス・キャロルの「失明」に、視力のある人の失明は、死を意味すると記されている。その意味で、視覚リハはターミナルケアではないのだろうか?失明と同時に、新しい自分に乗り換えるということ。
 「受け入れる」と「諦める」は違う。諦めるは、過去を断ち切ること。受け入れるは、将来を見ることだ。cureには限界があるが、careには限界がない(で欲しい)。
 人間はそもそも充分なものではあり得ない。過ちを犯す存在だ。赦されて生きている。では、あなたは他人を許せるか?、、、、、、
 多くのことを感じ、今後自分はどうしたらいいのかを問われた講演でした。