報告:【目の愛護デー記念講演会 2012】 岩田和雄名誉教授
(第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
演題 「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」
講師 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
日時:平成24年10月10日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
私が医学生だった60数年前、眼科の有名な教科書の扉に「眼は心の窓、美貌の中心」と書いあった。現在では更に、脳の窓、全身病の窓、加齢の窓、情報受容の最大センターとなろう。若しも自分が失明したらと考えれば、眼の愛護デーの意義は自ずと明快であろう。
誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。
当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。
現在、山中教授のiPS細胞でノーベル賞受賞に湧いているが、一朝一夕に出来上がったものではないし、越えなければならないいくつかの頑強な壁が眼の前に立ちはだかっている。
私は、眼科医としての60年間、現在の大変な進歩にいたる艱難辛苦の過程をつぶさに体験してきた。例えば、白内障の手術と眼内レンズ移植は現在では日帰りでも可能な安全で信頼できる手術となり、日常大量の手術がなされているが、それはこの20-30年のことで、それまでは、牛の歩みよりまだ遅い幼稚きわまりない手術で、術者も患者さんも決死の覚悟に近い心情で手術に臨んだものである。絶対安静1週間以上で、ストレスで寿命を縮めた人も多く、しかも、術後は分厚い重い粗悪なメガネが必要であった。
現在、医学の急速な発展で、治療法の進歩も著しい。それにより難病も治癒できる部分が増えて、有難いことである。これにいたるまでの人類のたゆまぬ努力に感謝せねばなるまい。しかし、いまだ完璧なものはなく、失明にいたるリスクが津波の如くやってくる。果てることのない一層の研究と努力が要請される。
尚、 物が見えるために不可欠な、見えた途端に影像を消し去る不思議な機構や、病気との関連、光凝固療法の発展の苦心、角膜移植、iPS細胞から網膜移植の可能性が近いこと、宇宙飛行士に発生した珍しい眼症状、網膜疾患で失明した人にカメラの影像を網膜内に設置した電極に送り、電気信号を脳の中枢に送り、0.005 まで視力が可能となったこと等などについても解説した。
「眼の愛護デー」を契機に、日常気づかずにいる「見る」ことの大切さを改めて認識し、そのために大変な努力をしているヒトの視機能の生理と病態、失ったものを取り戻そうとする人類の努力に思いを致していただきたい。
【岩田和雄先生 ご略歴】
昭和28年新潟大学医学部眼科に入局
昭和36-38年 ドイツのボン大学眼科に留学(フンボルト奨学生)
昭和47年 新潟大学 眼科学 教授
平成 5年 定年退職、新潟大学 名誉教授
専門:緑内障学(病因、病態、診断、治療)
国際緑内障学会理事、日本緑内障学会名誉会員、日本眼科学会名誉会員、
日本感染症学会名誉会員、日本神経眼科学会名誉会員など
旧日本サルコイドーシス学会理事、旧新潟眼球銀行理事長
新潟日報文化賞、日本眼科学会特別貢献賞、日本眼科学会評議委員会賞
須田記念賞、日本神経眼科学会石川メダル、日本臨床眼科学会会長賞
環境保全功労賞(環境庁)
叙勲 瑞宝中綬章
【後記】
平成8年6月に開始した済生会新潟第二病院眼科勉強会も200回になりました。この日はたまたま10月10日「目の愛護デー」。当初からこの200回目の勉強会は恩師である岩田先生にお話して頂こうと決めておりました。
講演は図や写真がふんだんで、多くの方に判りやすいものでした。「目の愛護デー」が新潟に由来するものであること、そして「トラホーム」、「近視治療」、「老眼治療」、「白内障手術」、「見えることの不思議 固視微動」、「光凝固」、「角膜移植」、「加齢黄斑症」、「人工網膜」、「宇宙飛行士の眼」、、、幅広い話題に感動しました。
「見る」ために、眼球は絶えず動いて(固視微動)新しい刺激を脳に送ることにより、視覚を得ているとう途方もない努力を不断に行っています(誰も意識していませんが)。そして眼疾患の治療のため、何世紀にもわたり、多くの先達が大変な努力をして今日の眼科学を発展させてきたことに思いを馳せることのできる講演でした。
岩田先生は、私が眼科医を目指して新潟大学眼科に入局させて頂いた時の教授です。大学の医局では教授のことを「おやじ」と言います(現在では言わなくなりましたが)。「おやじ」には叶いません。私が生まれた年に眼科医としてスタートし、これまで60年毎日、現役で眼科学の研鑽と研究に邁進しておられます。
4年前に傘寿をお迎えになりましたが、これからもますます元気で、多くのことを教えて頂きたいものと思います。
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PS:『目の愛護デーの由来』
1)新潟大学眼科HPより
新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?
http://www.med.niigata-u.ac.jp/oph/about_us1.html
官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。
明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。
明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。
因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在は10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。
明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。
ところでこのエピソードの要所要所に登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。
*竹山病院(新潟市)HP
http://www.takeyama-hsp.com/about_outline.html
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2)京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html
10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。
それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。
これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422
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3)千葉県眼科医会 「目の愛護デー」の由来について
http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm
失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。
ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。
戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。