『父への弔辞』
平成22年2月に父の葬式で、旧制角館中学校の同級生である品川 信良先生(弘前大学名誉教授;産婦人科)から頂戴した弔辞。
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故 安藤郁夫君に捧げた弔辞
弘前大学名誉教授 品川 信良
去る1月29日の午後6時半ごろ、私は東京からの帰りに、JRで三沢駅を通過したばかりでした。 三沢の駅や街の明りを眺めながら、一年近くもお見舞いに参上していない貴方が、その後どうして居られることかなどと考えながら、そのまま弘前に帰ってしまいました。今にして思えば、何故あの晩、三沢に下車しなかったかと悔やまれてなりません。本当に残念です。申しわけありません。もう一度お目にかかって、一言でも二語でもいいからお話ししたかったというのが、私の今の心境です。
思い起こせば、貴方に初めてお会いしたのは今から約74年前の昭和11年4月、秋田県立角館中学校の講堂 兼 体育室での入学式のときにでした。私たち新入生約百名は、身長順に25名ぐらいずつ4列に並ばせられ、全教官及び2年生から5年生までの全上級生の前で、古村精一郎校長から訓辞を賜わったのち、更に、多くの教官や先輩の皆さんを紹介され、新入生としての誓いをさせられました。それは厳しい、旧軍隊式のものでした。何しろ登校、下校のときには脚にゲートルを巻き、上級生にはいちいち敬礼もさせられる時代でしたから。
入学の頃、貴方は非常に背が高く、後ろのほうから2番目か3番目だったと思います。当時私はまだ小さかったものですから、列の中程で、何かしら貴方には、圧倒されるようなものを感じたことを今でも覚えています。入学後間もなく、貴方が角館の中心街の、古い大きなある名家の御曹司であることが分かりました。私は大曲からの汽車通学だったため、余り今でいうクラブ活動などはしませんでしたが、貴方は間もなく水泳部に入られ、いつも水着持参で登校されたお姿を今でもなつかしく、よく覚えて居ります。
水泳もさることながら、貴方はまことに話題に富み、大変な話術の名人でもあることに、私たちは間もなく驚かされました。どこでどう仕入れられるのか。英語のH先生の奥様は一級上のSさんのお姉さんであること。数学の I 先生には近く二人目のお子さんがうまれる話。軍事教練のA教官の日本語は、文法的には全然成っていない、などと言っては、よく皆を笑わせていました。
何しろあの頃の角館中学には、軍事教官が二人、一人は陸士出の少佐か中佐の、歴とした陸軍将校、もう一人は軍曹か曹長の百戦錬磨の下士官という具合でした。それに入学早々、五箇条の御誓文ならぬ、五つの「校訓」なるものを私たちはたたきこまれる時代でした。その「校訓」というのは、何と、「国体強調」に始まり、「質実剛健」「敬愛和合」「士魂振作」「勤労尊重」などと続くのでした。あの融通のきかない堅苦しい、なかば神がかった時代に、いつも皆を笑わせ、堅苦しさを解きほぐすのが貴方でした。貴方の話術と存在は、クラス全員にとっては、まことに貴重なものでした。貴方のお人柄などもあって、私たちのクラスは、あの学校としては極めてリベラルなクラスだったと思います。休み時間にシューベルトのセレナーデを歌う者、「谷間の灯」を英語で歌う者、世界文学全集を片っぱしから読みこなそうとする者などが居りました。
そう言えば貴方には、中学2-3年の頃から一人の愛人がありました。そしてその写真を貴方は、いつも内ポケットにしのばせていました。もっと大きいのは、自宅の壁に貼ってあるとのことでもありました。その愛人とはだれあろう。アメリカの有名な映画女優、「オーケストラの少女」で主役を演じたディアナ・ダーヴィンでした。そして同時に、貴方は、「尊敬する憧れの男性は、西部劇に出るゲーリー・クーパーだ」などとも、よく語っていました。
戦前の貧しい秋田の田舎は勿論のこと、まだ日本全体が貧しく低学歴の時代だったせいもありましょうが、3-4年になると私たちの同級生は進学希望者と就職希望者に分けられました。貴方や、北大予科に進んだ高久真一君や旧制2高に進んだ小山田富彦君、新潟高校に進んだ鈴木省三君(有名な作家 西木正明氏の叔父さん)などは皆、進学希望組に入りまた。その頃から貴方や小山田君や伊藤康生君が、「将来は医者になるんだ」と励まし合っていたことを、私は今でも覚えています。家が豊かでない上に、弟妹が多いので、私はまだ進路を決めかねていた頃からでした。
そう言えば私たちのクラスには、医者になった者が6名居りましたが、そのトップは貴方でした。貴方は昭和16年、卒業と同時に岩手医専にお入りになり、20年3月には卒業され、海軍軍医学校に進まれ、そのまま海軍の軍医として軍務に終戦まで就かれました。その海軍に入隊される途路、当時まだ東北大学医学部の学生だった私と小山田富彦君の下宿に、貴方がひょっこり訪ねてこられたことがありました。確か昭和20年の3月末でした。きくと、「これから横須賀の海軍に入隊するのだ」というのです。そこで俄かに、貴方の送別会を私たちの下宿で、ありあわせのスルメか何かを噛りながら、燈火管制下の薄暗いところで行なったことを、私は今でもよく覚えています。あの頃、最近アメリカの映画などにもなっている有名な「硫黄島」は米軍の手中に落ち、「次は沖縄か九州か、それとも直接本土か」などと、私たちは語り合ったものでした。
その後、私たちはそれぞれに色々苦労はしましたが、幸いにも生き残り、医者となり、盛岡と仙台、三沢と弘前など、少し離れた違うところにおいてではありましたが、お互いにこうして、60年以上も生きてきたわけです。その間、私は終戦から昭和22年の3月まで1年半余、また貴方は昭和25年から3-4年間、東北大学の病理学教室に在籍しましたので、私たちはその病理学教室におけるもう一つの同窓生という関係にもなったのでした。
そればかりではありません。貴方の奥様のお父様 桜岡純一様は私の東北大学での大先輩でしたし、またお母様、幾代様は、私が弘前大学にきてから永らく、青森県内在住の先輩(小児科)医師として、色々御厚誼や御指導を賜わってきた間柄でもあります。更にまた、先年お亡くなりの、奥様のお兄様 瑛一博士は、東北大学医学部内の医局対抗野球大会では、その右に出る者の無い解剖学教室チームの不動の四番打者であられました。仙台二中及び 岩手医専時代には、そのエース投手として鳴らされたお方でした。戦後は永らく岩手医大及び盛岡市内で産婦人科医としても、活躍してこられた、私とは昵懇の間柄でもあります。
次に、今更私から申上げる必要もないことでしょうが、貴方は当三沢地区に在っては、真に貴重な存在の眼科医でした。その誠実な良心的な、然も細かいところにまで気配り の利いた診療ぶりは、凡ての方々の絶賛するところでした。また貴方の私生活は、まことに厳正な、立派なものでした。「三沢在住の日本人で、いち早く、早朝のジョギングや散歩を始められ、それを一日も欠かさなかった日本人のお一人」とも貴方は讃えられていました。
今から50年以上も前には、弘前や青森などから東京に行くのには通常、夜行寝台を使うのが普通でしたが、私はときどき三沢空港を利用もしました。その際、朝の第一便に乗るために、朝6時半か7時ごろに三沢のお宅にお寄りすると、貴方はジョギングのあとに、よくシャワーを浴びて居られたものでした。そして私は何度も、貴方の奥様から手厚い朝食のおもてなしを受けたことも、今はなつかしい思い出の一つです。
その不死身とも思えた貴方も、高齢と病魔には勝てず、数年来寝こんでしまわれ、年に1-2度お訪ねしても、殆んど会話も交わされることもなく、ただ、肯かれたり、笑みを浮かべたりされるだけの貴方でしたが、去る1月29日の夜、三沢駅を通過したときに、何故私は下車しなかったのかと、今でも悔やまれてなりません。
去る1月31日、御子息様から貴方が御逝去のことを伺ってから私は、貴方の郷里角館のほかに、秋田県の大仙市、北海道の札幌などに四散している同級生の数人に、貴方がお亡くなりのことを電話しました。皆さん、「貴方の死など信ぜられない」などと仰言っていましたが、札幌在住の高久真一(北大名誉教授)からは、次のようなメッセージが届きましたので、次にそれを拝読致します。彼は私と違って、貴方とは、角館小学校一年生以来、つまり昭和5年以来の同級生でした。そう言えば、彼と貴方が昭和60年ごろに、お二人で弘前の私のところにこられて一泊されたこともありました。
「安藤君、角館町生まれで、旧制中学を5年で卒業するまで一緒だった君とは人間形成の上で共通するものを持って育った、今や数少ない一人でしたね。私から見ると君は町の中では色々な意味で上の階級に生まれ育っていたが、学校ではそんなことは無関係で僕らは何の分けへだてなく一緒に遊び、受験勉強をすると称して夜遅くまで話し込んで将来の夢など語りあったね。
貴君は学校時代だけではなく、今までずっと、回りの者たちを笑わせる役を演じてくれたサーヴィス精神の旺盛な友であった。君は、自分から進んで道化になりユーモアを振り撒いては他の人の気持ちを和らげるという才能の持ち主であった。ラジオで英会話を何年も勉強しながら、僕はさっぱりダメだとか、僕の英語は全然通じないとか、精一杯努力しながら、その効果がないかのように道化を演じていた。それは皆に好かれる中々真似の出来ない才能であった。惜しい友を亡くしてしまった。御冥福を祈る。」
これは高久君からのお言葉でしたが、安藤君、もう一人の貴方の小学校以来の同級生からも言伝てがありました。それは野球部でキャッチャーをやっていた柴田正蔵君からです。彼は戦後、母校の野球部のコーチなどもやっていましたが、盛岡に遠征に行った戦後間もないあるとき、大変貴方のお世話になったと感謝していました。貴方には、部員ともども御馳走にもなったそうです。昭和25年か6年には、それでも惜しいところで、甲子園出場はできなかったと電話で話していました。
それにしても貴方は、実に立派な奥様とお子様がたに恵まれ、立派な御家庭を築いてこられました。お子様方は皆、医師として貴方のあとを継がれ、社会の第一線で、世の為め、人々の為めにいま活躍して居られます。まことに羨ましい限りです。特に貴方が御病気で倒れられてからの奥様や御長男 幾朗様ご夫妻の御苦労はいかばかりであったことかと、推察に余りあるものがあります。
どうぞ御遺族の皆様におかれては、お疲れなどの出ませぬよう、只管お祈りしながら、
友人、特に中学校での同級生を代表しての拙い弔辞を終わります。
(平成22年2月2日)
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追記
以上の弔辞を、私は約25分かけてゆっくり読んだが、その後の会食の席などで、お孫さんやお子様がたは勿論のこと、奥様からまでも、「初めてきくことが非常に多かった」、「おじいちゃんがそんなにユーモラスな方だったとは全然知らなかった」、「かねがね面白い、気の優しい方とは思っていたが」などと前置きした上での、質問が山のように飛び出してきた。そこでそれらの御質問にお答えしたことを整理しながら、私たちの時代の角館中学と、私たちのクラスについて、若干のコメントを加えさせて頂く。
1.私たちの頃、秋田県には中学校は、秋田、大館、横手、能代、本庄、角館の6校しかなかった。その総定員は僅か1000名そこそこであった。
2.僅か6校のうち、入試が厳しいのは秋田中学だけで、他の5校は定員すれすれであった。私たちが入った年の5年生(昭和7年入学)などは、50名にも充たなかった。
3.お恥ずかしい話ではあるが、角館中学は、なかば「非進学校」にも近かった。旧制高校には、昭和10年に2-3人入ってから、その後4年間(北大予科に入った方は一人居られたが)一人も入って居なかった。
4.そのなかば沈滞した校風のようなものを、一蹴したのが、新任の古村精一郎校長先生であった。先生の持論は、「学校は生徒の資質もさることながら、教師、教官で決まる。列車のスピードは、機関車で決まる。座席をいくら良くしても、汽車は早くは走れない」というものであった。そして(旧)帝大出や(旧)高等師範出の先生がたを1-2年の間に7名も、あの角館の地に呼び寄せられた。東大出(数学、歴史、物理・化学)、京大出(生物、社会、国語)、東北大出(英語)、高等師範出(英語)がそれであった。
5.角館の町には、これら遠来の先生がたに対するスポンサーも居られたようだ。在京の名士、角館町内の医師などがそれであった。
6.これらの先生がたは、私たち秋田の片田舎の少年たちに夢や希望を与えて下さった。その効果はたちまち現われ、2年後には陸軍士官学校に3名合格した。その後私たちのクラスからは、京都大卒2名、東北大卒2名、北大卒1名の他、岩手医大卒2名、外国語大卒1名、東京医大卒1名、日本医大卒1名などが出た。但し、海軍の予科練に行って戦死した者も4名出た。元気な直情の、惜しい方々ばかりであった。
7.角館町の安藤家の直ぐ近くには、角館町立図書館があったが、ここは私たちのクラスの、なかば溜まり場 兼 課外勉強室でもあった。ここには、角館町出身の佐藤義亮新潮社社長寄贈の図書が沢山あった。この図書館と、東大出の渡辺先生(歴史、地理)、京大出の島津先生(社会、公民)、林先生(生物)、豊田先生(英語)などの講義とは無関係ではなかった。これらの先生が触れられ、私たち中学生の好奇心をそそって下さった大抵の本は、中学校の図書室には無くても、この町立図書館には在ったからである。町立図書館での読書は、大志とまではいかなくても、私たちにかなりの夢を与えてくれた。
8.あの頃、近くの横手中学の教諭が「若い人」を著わして、秋田県内は勿論のこと、全国的にも大きな話題になっていた。その著者が弘前出身の石坂洋次郎であった。勿論、私たちのクラスでも「若い人」は、大きな話題になった。「若い人」のヒロイン、江波恵子の名を、勿論安藤君はよく口にしていた。
9.他に、1936年のベルリンオリンピックに関するドキュメント映画「民族の祭典」(Fest der Voelker)や「美の祭典」(Fest der Schoenheit)の女性監督(元ダンサー)、レー二・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)の美貌にも、私たちは大いに魅かれたものである。
10.角館中学の校舎の直ぐ北には「古城山」という昔のお城の跡があり、その麓には昔のお殿様 佐竹男爵家があった。その佐竹家はなぜか男の子に恵まれず、お嬢様ばかり3-4人居られた。その御長女は弥生さんと仰言り、安藤君とは小学校でのクラスメートであり、そのお話もしばしば聴かせられたものである。その弥生様の御長男が実は現 秋田県知事である。弥生様の御尊父佐竹男爵は、私たちの頃の角館町長であり、入学式や卒業式など、行事がある度に中学校にもお見えになり、私たちを励まして下さった。
(平成22年2月5日記す)
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補足:
秋田県仙北市角館は、私の父が生まれ育ったところです。東北の小京都と言われ、武家屋敷が残っていて、桜がきれいなところです。また秋田美人の産地として有名です。観光の街ですが、角館は「文教の地」とも言われています。藩政時代「 致道館」「弘道書院」などの武士の学校が開かれ、この地に学問の花が開花しました。「解体新書」の挿絵を描いた小田野直武や、新潮社の創始者の佐藤義亮の出身地であります。
我が安藤家の本家は、味噌醤油の安藤醸造元。創業嘉永六年の老舗です。蔵座敷も残っており、観光スポットにもなっています。
(安藤伸朗)