新潟県の高田盲学校は、京都・東京に次いで全国で3番目にできた盲学校。設立には眼科医・大森隆碩(おおもり・りゅうせき;1846-1903)の獅子奮迅の尽力がありました。
1846 年(弘化3)隆碩は、高田藩医の長男として誕生しています。15 歳からは江戸で眼科の勉強。1864 年(元治元)高田で眼科医を開業。さらに大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学。医師ヘボンに師事し、ヘボンの和英辞典編纂を手伝っています。医学と英語力に長けていたようです。
高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験し、目の不自由な人の教育を真剣に考えるようになりました。 1886年(明治19)医師や視覚障害者たちと協力して、「訓盲談話会」を設立。彼は幹事長に就任。1887年、高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めました。この学校が高田盲学校へと発展します。
1891 年(明治24)「私立高田訓矇学校」を設立、隆碩は校長に就任。盲学校の誕生です。しかし盲学校の運営は綱渡りの連続。私財の多くを訓矇学校の運営費に充てました。「炭を買う金がない」と学校から連絡があると、奥様が着物を手に質屋に走ったといいます。
『心事末ダ必ズシモ盲セズ』
当初、盲人の方々が設立しようとしていた盲学校は、按摩などの技術を高めるテクノスクールでした。しかし、隆碩は、「技術習得だけではだめだ。人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養を積んで教育しなければならない」と主張し、技術学校ではなく本格的な学校設立を目指しました。彼の建学の精神と伝えられている『心事末ダ必ズシモ盲セズ』。この意味するところは、以下の様です「眼の病で視覚を失ったものは、視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり、何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」。
1903 年(明治36)、療養中だった東京で逝去(57 歳)しました。こうした長い歴史を持つ新潟県立高田盲学校は、2006年3月31日をもって閉校しました。
https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/92476.pdf#search=’%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E9%9A%86%E7%A2%A9‘
2006年3月31日 上越タイムス 「開学の精神」後世に残す
http://www6.ocn.ne.jp/~oasisu/igyouden.htm