報告:第91回済生会新潟第二病院眼科勉強会  遁所直樹
2003年12月28日

 演題:「期待せずあきらめず」
 演者:遁所直樹(新潟市障害者生活支援センター分室)
  日時~平成15年12月10日 16時半~18時
  場所~済生会新潟第二病院眼科外来 

 

 講演を私なりにまとめたものを、以下に紹介致します。
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 最初に、今回のタイトル「期待せずあきらめず」は大学時代の恩師である菅野 浩先生と、新潟大学医学部付属病院の整形外科主治医であった田島達也助教授(当時)に頂いた言葉という紹介があった。 

 

【1】 現在の社会参加の状況 
 障害も持ちながら学生生活を送っている人の割合は、日本では0.09%だが、米国では7.00%である。日米でこんなに違いがあることが再認識された。 

 

【2】 障害をもった頃の話
1987年 当時24歳。新潟大学の学生(博士課程)で水泳の選手だった。海にダイビングをした時に、頚椎損傷により四肢麻痺の重度障害者となった。当時は学生生活を続けることなど考えられず、いつも俯いて生活していた。
1990年 新潟大学自然科学研究科博士課程中退。
1993年 13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業に参加【渡米】。
1996年 行政書士資格取得。資格は得たが仕事はなかった。たまたま新聞の広告に国際福祉医療カレッジ社会福祉学科の案内があり、応募した。一度は諦めようかなと思ったが、カレッジの人に出来ることからやってみようと言われた。「出来ること」と言われたのは、障害を持って初めてだった。親・9名の同級生と友人の協力を得て何とか無事に学業を一年間続けた。以前は(健康な頃は)、講義が休みになるといいなと感じたこともあったが、この1年間の講義は本当にサボりたくないと思った。
1997年 国際福祉医療カレッジ社会福祉学科卒業。社会福祉士資格取得。国際医療カレッジ非常勤講師(現在に至る)。イギリス赤十字・日本赤十字ボランティア障害者交流事業に参加【渡英】。新潟県ふれあいプザラ事業ピアカウンセラー(現在に至る)。
1998年 介護老人保健施設ケアーポートすなやま支援相談員(現在に至る)。
2000年 自立生活支援センター新潟職員(現在に至る)。新潟県社会福祉審議会委員1年間
2003年 特定非営利活動法人自立生活センター新潟理事(現在に至る)。 

 

【3】 自分を好きになることの大切さ 
 米国での研修中(ダスキン障害者リーダー海外派遣事業)に、「あなたは、自分のことが好きですか?」と問われたことがある。当時は希望のない毎日を送っていただけに、その一言にハッとした。 

 

【4】 アメリカ・イギリスで得たこと(心のバリアフリー) 
 障害を持っていて一番悲しいことは「無視」されること、逆に一人でも支えてくれる人がいると生きていける。1993年13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業は、わずか2週間の米国滞在であったがショックを受けた。自分よりも重度の障害を持った人たちがどんどん社会参加していた。こんな障害に甘えていられない、負けていられないと思った。 

 

【5】 出会った人々の話
  佐藤豊先生(リハビリの主治医)~何でも言ってくれる、今でも慕っている先生。受傷当時、殆んどの医者が機能回復は困難と言った時に、「回復出来る」と言ってくれた。一番苦しい時には、医師の一言で絶望もするし、明るくなることも出来る。
 和田光弘弁護士(日本アムネスティ協会会長、新潟市在住)。日本アムネスティ協会主催の憲法制定50周年記念で、「耳を済ませて」という劇を行なった。最後、共演の子供に質問された。「障害は悲しいことですか?辛いものですか?」 考えてしまった。障害者自身が「私は幸せだ」というと社会のシステム化は遅れる。障害者は声を出さないと社会は変わらない。
 箕輪紀子(新潟日報論説委員) ~無年金障害者問題を一緒に考えてくれた。
 ALSボランティア ~ 何でも言ってくれた。当局との交渉の仕方など何でも教えてくれた。
 青木学氏(新潟市会議員、視覚障害者)~ 新潟市に低床バスを導入する活動を共にやり、実現させた。  

 

【6】 クリストファー・リ-ブズは本当にスーパーマンだ 
 クリストファー・リ-ブズは、映画「スーパーマン」の主人公を演じた人。今は事故による脊髄損傷でセントルイスのワシントン大学でリハビリ中。クリストファー・リ-ブズ基金を創設し、脊髄損傷の有益な研究に対して奨学金を提供している。めざましい神経再生研究の発展の一助になっている。これまで障害受容とは、失われたものをいつまでも嘆くのでなく、残された機能を最大限に活かすことと言われてきた。でも彼が登場したことで、不可能と言われていた神経の再生が、もしかすると可能になるのではないかという夢を与えてくれた。彼は今や頚椎損傷患者の間では、真のスーパーマン的存在である。 

 

【7】夢の話、マーチン・ルーサー・キング牧師の夢 I have a dream. 
 皮膚の色でなく、人格によって評価される国に住みたいという夢がある。 

 

【8】 平等とは 
 平等とは同じ価値観を持つこと。足が不自由な人が車椅子を使うことは、健常人と同様に行動するために必要なこと。 

 

【9】 環境を整えること 
 虐げられたものは声を出すことが必要だ。当事者は声を出すこと、そして理想を語ることが必要。障害者は声を出さないと社会は変わらない。今ある障害の責任の80%は社会の責任。でも環境さえ整えられると、障害があっても生活できる。

 

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【後 記】
 10枚以上の写真を用い、淡々と1時間にわたりお話してもらった後、参加者との話し合いになりました。
○自分も障害を持っているが、まだまだ上がいることがわかった。
○ここに至るまでの家族や周囲の方の協力も、並々ならぬものと思いました。
○印象的だったのは、一時は顔をあげて写真に写ることもできなかった遁所さんが、アメリカへ行き自分のできることから始め徐々に自信を取り戻していくという場面だった。
○重度の障害を持っているのに、案外表情が明るいのにびっくりした。
○本人の受容も大事だが、家族の受容も考えなければならないテーマでは、、、。
○障害というのは、その人自身にとっても周囲の方々にとっても、決して完全に受け入れることはない。奇麗事では済まされないことだと思うが、その上で今の障害者に厳しい現状を少しでも改善したり、お互いに支えあったりしなければいけないのだと思った、、、、、、。
 いつも世話をしてくれているお父さんのことをお聞きすると、「父のことを話さなかったのは、話すといつも涙が出るからです」と言った遁所さんの言葉が印象的でした。

 

 「障害の受容」について以前遁所さんにお尋ねた時、「障害者にとって、永遠に続くテーマだと思います。」というお答えでした。当初今回のタイトルを「社会受容」として、障害の受容を、社会受容と自己受容に分けて論理的に語る予定でした。でも出来るだけ自分の言葉で自分の体験を話す中で、これまで如何に自分が障害を受容してきたかを語りたいということで、タイトルを「期待せずあきらめず」に変更して今回のお話になった次第です。
 尚、「社会受容」は、遁所さんが施設に入っていた時に教わった、心理カウンセラー南雲直二氏による著書のタイトルです。
 http://www1.odn.ne.jp/~cbh92600/shakaijuyo.html

 

 後日、遁所さんから下記のメッセージを頂きました。〜 重度の障害を持って明るいのにびっくりされたというのはたぶん人前だからでしょう。結構人前では突っ張ているような気がします。このような機会をいただきありがとうございました。受容というのはなかなか大変なものです。今回のお話の機会で改めてまだまだ受容には至るまでには程遠いことを感じました。 ただ、ひとつ言えることは、患者の目線に立つことができる医療従事者に対しては患者は信頼関係を持つということです。あきらめないで付き合ってくれるとき、人々から無視されないでいるときに受け入れるきっかけが生まれると思います。 

 

 遁所さんのこれからのますますの活躍を、期待したいと思います。