演題:「賢い患者になるために
-視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、
及び医師との関係の中から探る」
講師: 関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)
日時:平成21年9月9日(水) 16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
1)始めに
私は両眼に黄斑変性症を持っている。左眼は1996年1月、右眼は同年11月に近視性血管新生黄斑症を発症している。この病気に対する有効な治療法が確立していない中で、当時最先端医療の黄斑移動術を選択し、左眼は1997年強膜短縮の黄斑移動術を、右眼は1999年に全周切開の黄斑移動術を受けた。その後も合併症や再発のために数度の手術を重ね、現在眼底出血はないが、網膜萎縮のために暗視野と視力低下が進行しつつあり、左眼0.4、右眼0.2の視力である。
私のように、視力低下をもたらす病気を突然宣告されたら、誰でもかなりのショックを受けるはずである。その時の患者の心理と問題点、治療を選択する際の問題点等を、私の経験を基に患者の立場から述べてみたい。
2)視力低下をもたらす病気を宣告された時、患者に起きる変化と問題点
◆ショックは理解力を低下させる
私は初診時、「視力が落ちていく」と医師に言われ、考えてもいなかったことだけに、そのショックは大きく、「視力が落ちていく」という医師の言葉を失明の宣告と捉えてしまった。白衣高血圧症というものがあるように、白衣の前にいるだけでも患者は緊張し、通常とは異なる精神状態に陥るのかもしれないが、ショックは冷静さを失わせ、患者の理解力を低下させるものである。
私は後になって、黄斑変性症=失明とは限らないことを理解できたのだが、このような患者の誤解や理解力のなさは、もともとその人に理解力がないのではなく、視力低下を起こす病気を突然告げられた時のショックによるところが大きい。
◆楽観主義者も悲観主義者に
黄斑変性症の知識が皆無であった私は、診断を受けた際、医師から「視力が落ちていく」と言われ、失明した時のことばかりを考えた。視力の障害は直ぐさま日常生活や仕事に大きな影響を与えるため、「視力低下」と聞いた途端、大きな不安に襲われ、将来に希望を失う。どんな楽観主義者も悲観主義者になり、もはや医師の説明のうち、最悪の状態になった時のことだけしか心にとどめず、不安をますます増強させるのである。
◆ 不安や不便さは視機能の程度に比例しない
歪み等のために、私が見え難さや不便を最も感じたのは初期の頃であった。その頃はまだ片眼は正常であったし、現在の視機能よりはるかに良かったにもかかわらず、精神的負担や訴えが多かった。初期の頃は、喪失感のほうが強く、残存する視機能をうまく使おうという意識などなかったからである。患者それぞれの不安の大きさや感じている不便さは、視機能の程度とは一致せず、患者への援助の必要性もまた障害の程度で決まるものではないように思う。
◆ 患者になったばかりの人は医師とのコミュニケーションが下手
医師との付き合いに慣れない、患者になったばかりの人は特に、忙しそうな医師の姿に質問を憚り勝ちなものである。私自身も適切な折に適切な質問ができていたなら、もっと不安は小さく、あれほど不安を増大させることもなかったに違いない。不安を緩解するために患者のほうもコミュニケーション技術を磨く必要があるのではないだろうか。
◆ 自分の病気を受け入れ、病気と闘うために正しい知識が必要
私が発症した当時は、黄斑変性症についての情報が現在ほど豊かでなかったこともあり、自分の病気について知識がないまま不安を募らせ、また不安のために心にゆとりがなく、知識を求めることさえしていなかった。その頃に、通院していた開業医から近視眼に関する一冊の本が私に与えられ、強度近視眼の危険性や、自分の病変がなぜ起こったのか、おおよそのことをその本から学ぶことができた。
私が自分の病気を冷静に受け止めることができるようになったのはその時からである。正しい知識を得ることは、自分の病気と正面から向き合うことになり、それが病気を受け入れ、病気と闘う力に繋がると思う。
◆ 病気について正しい知識を得るために
自分の病気に関する予備知識がないまま告知を受ける患者は多いと思う。その患者が医師から説明を受けても、その場で直ぐに病気を完全理解することは難しい。しかし正しく理解することは患者にとって必要なことなので、医療者の方々には、患者は理解できないものと決めたり、諦めたりしないで、情報を与え続けて欲しい。しばらくして冷静な心理状態になった時には理解力が増すはずである。家族に病気を理解してもらい、協力してもらうためにも先ず患者自身が正しい知識を持つことが必要である。患者も理解しようと努めて欲しい。
3)治療を受けるに際して
◆ インフォームド・コンセントはなぜ必要か
Informed consent (I C)とComplianceは、医療の基本であり、医療者側と患者の信頼関係を築くもとになるものと考えられる。私の場合は、最初「視力が改善するかもしれない」という情報しか持たないまま黄斑移動術を受けることを即座に承諾して帰ったのだが、手術病院を紹介してくれた開業医からの、どんな手術なのかをよく知った上で承諾すべきだというアドバイスに従い、自分の方から病院に情報を求めた。そして再考の後、結局手術を選択した。手術の結果は、手術によって新たな障害も生まれ、全てを満足させるものではなかったが、まだ確立していない、予後も不明の危険な手術を選択したのは私自身である。だから結果は自己の責任でもあると思っている。
充分な情報と熟慮の末の自己決定であったと信じているので、結果の如何に関わらず、手術を受けたことを後悔していない。しかし、もし私が不充分な情報のまま安易に手術を受けていたら、後悔も自責の念も生まれたと思う。これが私自身が経験した自己決定の大切さであり、ICの必要性である。
しかし、たとえ充分な情報が与えられても、患者の背景によって理解度も、受け止め方も様々で、ICなど無駄と思える場合もあるかもしれない。中には自己決定を放棄する患者もいることだろう。しかし、たとえ充分な理解が困難な場合でも、説明をする医師の姿勢を見て、患者は安心して医療を受けることができるかもしれないし、またICの機会が医師と患者の対話の機会となり、信頼関係が芽生えるきっかけとなるかもしれない。
◆ 患者に要求される理解力と判断力、そして人生目標
ICの機会を得て自己決定をする際に、問題となるのは患者の理解力と判断能力である。自分自身の価値観と人生目標がない者には判断基準がなく、自己決定は不可能である。信念を持って生きることが必要なのかもしれない。また日頃から健康情報に関心を持つことが理解に役立つこともあるだろう。
◆ 患者は情報を得ようとする姿勢を
私も経験したことであるが、情報は患者から求めなければ得られない場合もある。しかし求める姿勢があれば得られるものであると思う。医師から説明を省かれないためにも、患者は得ようとする姿勢を示して欲しい。
◆ 理解と共感
眼科患者に限らず、多くの患者は周囲の者に自分の病気の状態を理解してもらいたい気持ちを持っている。眼科の場合、検査によって視機能が客観的に評価され、医師も周囲の者もそれによって状態を把握することができる。だが、多くの患者は客観的評価を充分と思っておらず、診察時には見え難さや不自由さを訴え、主観的評価と客観的評価の溝を埋めようとする。これは私もついしてしまうことである。限られた診察時間を無駄にする無用な訴えかもしれないが、医師に理解され、共感が得られたと患者が感じた時、患者の苦痛は軽減し、信頼感を持つのではないだろうか。
4)終わりに
患者にとって医師との関係は重要で、どんな患者も診察室の中の時間を大切に思っているに違いない。病気が深刻であればあるほど患者は医療を頼りにし、医師は患者の人生に深い関わりを持つようになる。上記に述べた患者の心理や問題点を認識し、理解し合うことが、患者側と医療者側のより良い関係を築く一助となり、また患者の方々にはより賢い患者になるための参考になれば幸いである。
【略 歴】
名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
趣味は音楽。フルートとマンドリンの演奏を楽しんでいる。
地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。
眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。
【後 記】
いつも感じることですが、疾患を乗り越えてきた患者さんの言葉には迫力があります。
関さんによると、、、、、
「視力が低下していく」という医者の説明を、「失明宣告」と理解してしまった。
当時最新の手術(黄斑回転術)について、一度は理解しないまま承諾してしまった。
治療法を選択するのは、自己責任。
自己決定するには、知識が必要。
困難な病に立ち向かうには、医師との信頼関係が必要
多くの示唆に富んだお話でした。医師には説明責任がありますが、患者さんは自分で決定し、自分の責任で治療法を選択しなければなりません。 医者の患者さんへの病状説明は、急停車した電車での車内アナウンスと比喩した人がいます。原因は何なのか。これから復旧にどれくらい時間がかかるのか。こうしたことが早々にアナウンスされると乗客は安心して待っていられる。それがないと騒ぎ出す乗客が出てくると、、、、。
患者さんが自分で決めることができるためにも、知識と患者さんの状況を、正しく伝えなければならないことを肝に銘じました。