報告:第201回(12‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  大島光芳
2012年11月14日

 演題:「活力~どうやって生み出すかを考えてみませんか~」 
 講師:大島光芳 (上越市)
  日時:平成24年11月14日(水)16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 【講演要旨】
  2009年6月視神経萎縮で道路の白線が見えなくなり歩行が限界ギリギリの頃に、妻のすすめもあり新潟大学眼科のロービジョン外来で張替涼子先生の診察を受け、よし!この先生について行こうと決意しました。7月に休職と障害者手続を開始。直ぐに福祉制度による移動支援を受け、やがて家事援助も追加しました。家人は働きに出て、昼間は私一人だからです。

  12月に購入したパソコンを持って張替先生から紹介された新潟市の「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」(以後、オアシスと略)(注1)を訪問し、音声パソコンをフルキーで操作する練習ソフトを入れて頂いたのですが、その頃は全然できませんでした。ところが、翌月になると出来ちゃいました。
 (注1)「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」
 http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/

 2010年1月に福祉関係者5人が来宅して支援会議を開催してくれました。これはサポートする側と私との行き違いの是正のためなのですが、見えない私が家に一人だけなのが不安になり、先手を打つために年間活動計画を作成しました。何度も言い直しながらICレコーダー(パソコン購入時に妻が購入)に録音し、相談員に聞いてもらい、プリントして当日持参して頂きました。これで思い通りに事は順調に進みました。ところが、最後に「次回はいつにしますか?」との発言があり、来月と決まってしまいました。来月に再びと言われた時点でパソコンができるようにならねばと思いました。

  出来ないのは「できないと思っていたから出来なかった」事に気づきました。  1月にオアシスを訪問すると、操作はできるようになりましたと宣言し、必要そうなソフトは全て入れて下さいと申し出ました。使っているのはマイワードとマイニュースとマイメールだけですが、マイニュースが役立ちました。この中にNHKの「みんなのラジオ 聞いて聞かせて」が遡って聞けるようになっていました。石川充英さん(東京都視覚障害者生活支援センター)や工藤正一さん(タートル)の話を何度も聞いた。何せ時間は無限にありました。

  2月はこれを貪って3年前まで聞きました。中でも「完全マニュアル中途視覚障害者からの再出発」は私そのものであり、自分は全国的にみて普通なんだ、何とかなると少し自信がもどりました。「検証ガイドヘルプ事業」と「代読・代筆」は録音してマイワードに打ち込む事で本当にフルキーでの入力もできるようになりましたし、知識も深まりました。

  番組に登場した人物にも会いたい希望が湧き、直ぐに県内の視覚障害者の市会議員の青木学さん(注2)とのメール交信が可能になり、翌年2011年には長野放送で「里枝子の窓」のラジオ番組(注3)を持ちパーソナリティーをされている広沢里枝子さんにも会い、今年2012年は大阪府を訪問して岩井和彦さん(注4)にも会いました。彼は1949年の生まれですが、15歳の時の全国盲学校弁論大会優勝の「理解されない盲人」を前出のNHKラジオで聞いた時に、同じ思いをした先人がいると心が震えました。今もこの言葉に勇気をもらっています。初めから計画的だったわけではないですが、方向が掴めると次々と達成はできました。一歩踏み出すことで、多くの方々との出会いが可能になったのです。
 (注2)「青木 学」 (新潟市市会議員)
 http://www.aokimanabu.com/
(注3)「里枝子の窓」 信越放送(SBC)ラジオの長寿番組
  広沢 里枝子 (番組パーソナリティ)
 http://r-mado.com/index.html
(注4)「岩井 和彦」
 http://www.bunrikaku.com/book1/book1-608.html

 4月は障害を理由に断る事もできた半年任期の検察審査会のメンバーを受諾していました。翌月から裁判所で準公務員をつとめるのですからプレッシャーもあり、対応する為に集中して精神力を高めつつありました。

  メール交信はオアシスの小島紀代子さんが相手をして下さった事で可能になりました。5月1日受信したメールに「日本地図を作った男、伊能忠敬は人生後半の56歳から17年間、2歩で一間をかたくなにまもり、2歩目に踏みたくないものがあっても歩き続けた事で完成させた」とありました。そこへ、上越市から応募者が不足なの で1年任期の市政モニターをして欲しいとの封書が届きました。可能ならアンケートにはメールで回答とあります。既に一つ大役を受けていますから駄目だろうと思って読んでいる妻に、受諾の代筆を頼みました。オアシスからのメールに背中を押されたのです。「踏みたくない二歩目」とはこれだなと思い、お引受けする事にしました。

 いま思うと、裁判所へ1歩目を踏み出し、市役所へ2歩目を踏み出した、この2歩目を踏み出した事で体と同じように思考回路のパターンにも完全な体重移動が起こり、前へ前へと歩みだせたのだと思います。思えば、一歩目を踏み出す時は恐々でも出来ますが、二歩目を踏み出すには、前がかりにならないと出来ないのです。

  6月新潟大学眼科ロービジョン外来受診では翌月に済生会新潟第二病院で開催の「新潟ロービジョン研究会2010」を紹介され参加。フロアから「私はロービジョンを受診し、既に見えなくなっていた目が見えるようになったわけではありませんが、見通しが立つようになりました。見通しが立つ事は本当に有り難いです。ありがとうございました。」と発言しました。思いのほか反響がありました(注5)。
 (注5)済生会新潟第二病院眼科 研究会
  「ロービジョン研究会2010」の項を参照ください
 http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 2011年6月のロービジョン外来受診では本を読みだすきっかけを頂きました。 知識的に必要で読む本と会話の話題に必要で本を選んでいます。「怒りの正体」、「甘えの構造」、「怒るヒント」、「しつこさの精神病理」、「国家の品格」、「感動する脳」、「脳にわるい七つの習慣」。「サービスの達人たち」、「人は見た目が9割」、「的を椅射る言葉」、そして最近は「細胞生物学」等々「回復力」には、「うつ」になる原因は3つあり、その1)最大の目標が達成されて次が見いだせない5月病のような時、その2)目標設定が高すぎて障壁となり自分を過小評価して動きがとれないとき、その3)先の見通しが立たない時とありました。新潟ロービジョン研究会での私のコメントは、この3つ目に対して「見通しが立つようになりました」と言ったのだということを、今になって理解できました。

 少し戻りますが、2010年11月に初めて済生会病院の勉強会に参加しました。 講師の栗原隆先生(新潟大学人文学部教授)が私の手に分厚い本を乗せ、本を書きなさいと話して下さいました。これがきっかけで翌年1月からメーリングリストへ書き込みました。この勉強会に参加した事で、もう一つおまけが付きました。この時のガイドヘルパーさんが新潟駅で別れるときに、他にして欲しい事はないですかと言われたのがきっかけで翌月に新潟県ふれあいプラザを訪問しました。ここで私が探していた硬式野球部の1年後輩にも会えましたし、1学年上で全国選抜高校野球大会の優勝校を招待試合で破った強打者(肥田野)とも会うことが出来ました。少し動いた事で次々と偶然が奇跡のように起こりました。

  「まず一歩、そして二歩目を」。動くことで活力の源泉が生まれたように思います。私のスタートは確かにロービジョン外来受診にありました。その裏には同伴していた妻がロービジョンの文字を見つけ、眼科医に質問してくれました。いま私を精神的にを支えてくれているのは、妻と家族、そして周囲の多くの人たちからの「無償の愛」のように感じ、毎日を暮しております。


 【略 歴】
  1950年 直江津駅から7キロ新潟寄りの海岸沿いの新潟県上越市で生まれ育ち生活。硬式野球と地元消防団を経験。
  1971年4月 化学会社へ入社、2010年7月定年退職。
  2009年7月 アスファルト舗装の歩道の白線が見えなくなり休職開始。
    同年8月 視覚障碍者2級、年末には全く見えなくなり
   2010年5月1級。
視神経萎縮(原因不明)


 【後 記】
 3年前に視力障害のために会社を休職(翌年に定年退職)した大島さんが、如何に活力を取り戻したかについて熱演してくれた。 バリバリの会社員だったが、視神経委縮にて両眼の視力を失う。パソコンは購入したが、さっぱり手につかない。しかし市の社会福祉サービスの方の家庭訪問を機に、ICレコーダーを駆使し、パソコンも使いこなせるようになった。
 様々な人との出会いを紹介して感謝した後、何が行動の原点だったかについて「無償の愛」ではなかったかと振り返った。いつも人のことを思い遣り、何か自分に出来ることがないかと想う。60を少し過ぎた素敵な男のロマンを拝聴した勉強会だった。大島光芳さんに幸あれ!!