報告:第195回(12‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  西田 稔 
2012年5月9日

報告:第195回(12‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田 稔 
   演題: 「失明50年を支えた母の言葉」
   講師: 西田 稔 (横浜市)
    日時:平成24年5月9日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  http://andonoburo.net/on/6022
 

【講演要約】
 昭和32年5月、私は左眼の眼底出血を起こし、眼病との闘いが始まった。当初、原因は結核性といわれていたが、最終的に大学病院の診察でベーチェット病であることが判明した。この時、私は病名がはっきりしたので、病気も良くなるのではないかと思った。しかし、実際は原因もまだはっきりしておらず、対症療法に頼る以外に方法もないことがわかった。しかし、ステロイド剤を使用することによって、かなりの症状を抑えることが出来た。入退院を繰り返しながら、ステロイド剤で病状を整えることが主たる治療法だった。 

 昭和34年9月、かかりつけの眼科医との相談の結果、職場復帰をすることにした。仕事も順調にすることが出来たが、その年の11月に入って、気温も下がり、寒さが体調を崩す引き金となり、身体の節々やそれまで何ともなかった右眼まで発作を起こすようになってきた。それでも、ステロイド剤の投与により数日間で炎症も治まった。 

 昭和35年1月17日、両眼同時に眼痛を伴った激しい発作に見舞われた。もちろん、一人での外出は不可能で、仕事も休みを取り、母の介添えで通院した。その時の発作は、ステロイド剤もよく効かなかった。その年の4月、再び休職となり、職場の勧めで大学病院に入院した。大学病院でも検査、診察、治療を受けたが、一向に症状の改善はみられなかった。その年の7月には、左眼の続発緑内障を起こし、激しい眼痛に耐え切れず、医師の勧めもあり、左眼球摘出を受けた。 

 この頃から、「もしかすると、失明するかもしれない」と思うようになってきた。定例回診の時には、必ず、主治医に、「私の目は、よくなるのですか?それとも、だめなのですか?」と尋ねた。しかし、主治医の返事は、「やるだけやってみないとわかりません。」というのが決まり文句だった。その年の10月、私の質問に対して、主治医が同じ返事をした場合、診察室に座り込んで、動くまいと考えた。私の順番が来て、一通りの診察が終わったところで、私は、主治医にいつものように質問した。やはり、同じ答えが返ってきた。私は、予定通り座り込んだ。「先生、今日ははっきりしたお答えをいただかない限り、私はここから動きません。」と言った。主治医は、黙って立っているだけだった。看護師さんたちが私を宥める言葉をかけてきたが、私は、頑として動かなかった。どれくらい時間が経過しただろうか?私の後ろに別の患者さんたちが並んで診察を待っていることに気がついた。あの患者さんたちには責任はない。少し、悪いなぁと思って、私は口を開いた。「先生、私は、どんなことを言われましても驚きません。ダメな時は、盲学校に行って新しい人生を歩む覚悟は出来ております。」と一気に言った。すると、主治医は、「西田さんが、そこまで考えているなら、盲学校に行かれた方がよいと思います。」と言ったのである。この主治医の言葉は、事実上の失明宣告であると受け止めた。「はい、わかりました。」と言って、私は立ち上がり、自分のベッドに戻って横になった。私の頭の中は、真っ白だった。「何を言われましても、驚きません。」と大見栄を切ったにも関わらず、このザマである。何とも情けなかった。 

 考えることは否定的なことばかりだった。目が見えないと、本が読めない、テレビや映画を見ることも出来ない、一人でどこへでも歩いて行くことが難しい、などと思うばかりだった。こんな考え方を続けていくと、絶望的になり、生きていく意味がないのではないかと考えた。このような時、母が病院にやって来た。「その後、目はどうかね?」と言うのがいつもの母の言葉であった。私は、「どうもダメらしいよ。」と言って、主治医との話のやりとりを母に説明した。母は少しがっかりしたような感じを見せながら、「私は毎日、あんたの目が良くなるように、神様や仏様に祈っているのだけどね。」と言った。さらに、続けて、「私は、目は二つも要らない。あんたに一つあげても良いけどね。」と言った。「今の医学では眼球の移植は難しいよ。」と私が言うと、母はさらに、がっかりしたような雰囲気を見せた。このとき、私は、私の失明を私以上に、母の方が悲しんでいるのではないかと思った。 

 少し時間をおいて、母は話し出した。「失明は誰でも経験することが出来るものではないよ。これを、貴重な体験と受け止めてはどうかね?そして、それを生かした仕事をしてはどうかね?そして、それがたとえ小さくても、社会貢献に繋がれば、大きな生きがいになるのと違うかね?」と言った。そして、母は、「また、来るからね。」と言って帰って行った。私は、母の言った、「貴重な体験」という言葉の意味を寝ても起きても考え込んだ。私は、失明を残酷な体験としか思っていなかったので、貴重な体験という母の言葉にいささか驚いた。いろいろと考えているうちに、失明という失ったことを通して何かを得て、それが社会貢献に繋がれば、生きがいになるかも知れないと思うようになってきた。 

 日本の目の不自由な人たちはどんな教育を受けて、どんな職業を身につけて、自立しているのか調べるために最寄りの盲学校を訪ねてみた。まず、点字を覚えることの大切さと必要性を教えていただいた。職業については、あん摩、鍼、灸の三療で、生活の自立を図っている人が多いこともわかった。昭和36年4月、社会復帰を目指し、母に伴われて上京した。三療の資格習得後、恩師や先輩の支援を得て、盲学校の教師になることが出来た。 

 平成12年10月、NPO法人を立ち上げて、主として中近東やアジア地域の視覚障害者への補助具の支援を行う活動を行っているが、おそらく、天国の母も私たちの活動を見て喜んでくれていると思っている。 

 

【略 歴】
 1932年 福岡県生まれ。
 1956年   大分大学経済学部卒。
  同年 福岡県小倉市役所(現北九州市)事務官。
 1957年5月 ベーチェット病発症。その後入退院を繰り返す
 1961年4月 国立東京光明寮2部3年課程入寮。
 1962年3月 失明
 1963年4月 日本社会事業大学専修科入学(夜間部)。
 1964年3月 国立東京光明寮と日本社会事業大学同時卒。
 1964年4月 大分県立盲学校教諭。
 1972年4月 国立福岡視力障害センター教官。
 1980年7月 同センター主任教官。
 1984年4月 同センター教務課長。
 1992年3月 同センター定年退職。 
    同年 埼玉県に移り住む。
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハビリテーションセンター 
       理療教育部非常勤講師 
 2000年5月 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い 
       組織委員会副会長。
 2001年10月 NPO法人「眼炎症スタディーグループ」理事長。
  (2010年7月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」名称変更)
 2011年3月  NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」理事長退任
   現在、横浜市在住。

【後 記】
 いくつも心に残るフレーズ・事柄がありました。曰く、「安静を保つように言われ、半年も風呂に入らなかった」「患者さんの毎日の出来事を書いてもらって診断に利用した」「真剣に対応し、よく調べてくれた医師の言葉は重い」「失明宣告には、患者さんへの対応(どのようにすべきか)が伴うべき、患者の対応は、どんどんネガティブになってしまう」「点字は必要」

 障害を持った場合、本人の苦痛はよく語られますが、家族も同様にストレスを感じています。家族は世間の荒波から守ってくれる防波堤になってくれますが、裏返しの意味で、社会に出ていく時のハードルにもなってしまいます。庇うわけでもない、突き放すわけでもない西田さんのお母様の対応に感心しました。

 今後の夢として、NPOを通して海外へ同胞(ベ-チェット患者)の支援を続けたいという志に乾杯です。