報告 第215回(14‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「大震災でつかめない大多数の視覚障害者への強いこだわり~
一人の中途失明者に何もできず落ちこんで50年」
講師:加藤俊和(社福:日本盲人福祉委員会災害支援担当)
日時:平成26年1月8日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
*私は・・・
1945年に京都・西陣で生まれ育ち、高一の1961年から点訳などのボランティア活動を始めました。立石電機(現オムロン)で12年間開発業務に従事した後、1980年から日本ライトハウスで情報やリハの所長など、2003年から京都ライトハウスの点字図書館長に従事して、2010年3月に退職しました。その後、ボランティアで、サピエ事務局長や日本盲人福祉委員会の東日本大震災対策本部事務局長などをしてきました。
*視覚障害者の避難と現状は?
東日本大震災からまもなく3年になろうとしています。私は、避難するときに重要なのは、何よりも持病の薬の持ち出しであること、そして、視覚障害者にとって、避難所で最も大変なのは「トイレの中」であることを言い続けてきました。阪神淡路のときは3年後には復興住宅が完成して仮設住宅がほぼなくなっていましたが、東日本大震災においては復興住宅はまだ数%にすぎません。その中で、仮設住宅などに長期間居住を余儀なくされている障害者の多くは、これまで支えられてきた地域社会が崩壊して、行き先の見通しがまったく立っていないのが現状です。このように困窮とあきらめの中の多数の被災障害者のことはほとんど表面に出ず、深刻化しています。
「早くどこか施設に入りたい・・・」などの切羽詰まった相談が、今も連絡先となっている私の携帯電話に入ってくるのです。
*なぜ私は震災支援に飛び込んだ?
阪神淡路大震災のときにも私は支援に関わりましたが、都市部を中心とした大災害でしたので、東日本大震災のような広い農山漁村が主体の大災害においては、阪神淡路と同じ方法では、支援ができないと思われました。自分から声を出すことができる人たちへの支援もままならず、さらに、大多数となっている中高年から視覚障害となった方々が埋もれて取り残されてしまう、と思われたからです。
*私の心を支えた、故・鳥居篤治郎氏
1961年に私が「奉仕活動」を始めたちょうどそのときに、京都府立盲学校の副校長で日本盲人会連合(日盲連)の2代目会長でもあった鳥居篤治郎氏が、点字図書館など京都の活動の拠点となる京都ライトハウスを設立されました。高校でクラブ活動として日赤の奉仕活動と点訳を始めていた私は、こぢんまりした当時の京都ライトハウスに行き、鳥居先生にお会いして話すことができたのは幸運でした。そのような中で、目が悪くなった人の家に行ってみるか、と言われ、何も考えずに行きました。当時は、自立できる優秀な視覚障害者さえ強い偏見の中に置かれている時代であり、中途視覚障害になりたての人までは手が回ってはいなかったのです。何もできないだろうけれど、ということだったとはいえ、一高校生にとっては話しをすることもできない「苦い体験」でした。視覚障害者には、私たちが接している方々だけでなく、何も言えずに取り残されている中途視覚障害者が多数おられる、ということを半世紀も前に教わっていたことが私の活動の原点になりました。
ところで、鳥居氏は、日盲連の会長に就任されてすぐに、当事者・施設・教育の3分野を統合されて「日本盲人福祉委員会(日盲委)」を1955年に設立され、強い交渉力で大きな成果を積み重ねられておられました。その後、障害者運動は当事者が中心になっていき、日盲委の活動の場は少なくなっていきました。
*「視覚障害者対策」の拠点をどうするか?
東日本大震災は、広範囲に広がる悲惨な状況の中にあり、現地にはすぐには行けなかったこともあって、視覚障害関係団体は支援方法から模索していました。阪神淡路のときは、大阪(被災地から約40km)の日本ライトハウスが拠点となり、「ハビー」というボランティア団体が支援の中心を担いました。しかし、東日本大震災では、被災地の広大さをはじめ状況はまったく異なり、きちんとした団体でないと視覚障害者リスト入手も支援もうんと限られてしまいます。そのため、私は、鳥居先生が作られた日盲委に対策本部を置くしかないと主張して押し進めるとともに、私が視覚障害者に関わってちょうど半世紀になっていたことも運命的に感じて視覚障害者の支援活動に飛び込み、東北と東京が生活の場になりました。
*東日本大震災を支援しての教訓
まず第一は、障害者は誰が助けてくれるのか、です。今やどの障害も7割以上が高齢者となっており、災害時に命を左右したのは、消防団員や警察官などではなく、迅速に避難者を助けた人の多くが、周囲の「隣近所の方々」であったことです。
二つ目は、東日本大震災の視覚障害者支援は、団体や点字図書館のリストにより、4月末の支援は236人で実質上終ろうとしていましたが、その後の「新たな取り組み」によって、支援から取り残されていた1455人もの方々がおられた、という事実です。「表面に出ない視覚障害者が大多数にのぼる」ことを、大きすぎる犠牲によって数字が示した教訓です。私はそれらの対策の必要性を、これからも強く訴え続けていきたいと思っています。
【略歴】
1961年 高1から、視覚障害者支援ボランティア活動
1968年から12年間立石電機(現オムロン)中央研究所
1980年から日本ライトハウスで、情報関係やリハ所長など
2003年から京都ライトハウス情報ステーション所長
2010年3月退職。以降はボランティア活動
東日本大震災の勃発で日本盲人福祉委員会で支援の事務局長
現在、全視情協サピエ事務局長、日盲委災害支援担当
講演など:専門点字・触図、視覚障害リハ・情報、災害等
【後記】
今年は新潟地震から50周年、中越地震から10周年に当たります。自然災害の時に障害者はどのようにしていたのか?どのような困難があり、今後どのような対策を講じたらいいのか?誰でもが思う疑問を見事に真正面から取り組まれた加藤俊和先生の、想いの籠った(魂の籠った)講演でした。
個人情報のためなかなか情報がつかめない中、視覚障害者の状況を丁寧に集め、支援してきたことは大変感動的でした。何よりも視覚障害者の8割がどこの団体・組織にも属していないことも判明しました。災害時には情報の伝達・発信が重要。そして何よりも自らの手で自らを守ることが求められます。薬を服用する方は、一週間くらいの薬は常備する必要。また薬の名前を覚えておくことも大事なこと。災害に備えるということは、地域の方との接触等も含め、日常の生活が問われること等、教訓も多く含まれていました。
阪神淡路の大震災の頃に比べると、ボランティア活動もだいぶ進歩してきました。ただボランティアに求められる大事なポイントはリーダーの存在。リーダーの重要な仕事は、ニーズの掘り起こしと明言していました。大多数の「言えない中途視覚障害者」をだれが代弁するのか? 視覚リハ関係者は「それを知っているはず」、「知ってないといけないはず」。初期の中途視覚障害者と最も接点のあるのは、眼科医と視能訓練士。その連携が「8割以上の中途視覚障害者」を助けるとの言葉は心に刻んでおきたいと思います。
加藤先生、本当にありがとうございました。益々のご活躍を祈念しております。
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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
場所:済生会新潟第二病院眼科外来
*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
1)ホームページ「すずらん」
新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html
2)済生会新潟第二病院 ホームページ
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html
3)安藤 伸朗 ホームページ
http://andonoburo.net/
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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年03月12(水)16:30 ~ 18:00
「私はなぜ“健康ファイル”を勧めるのか」
吉嶺 文俊( 新潟大学大学院 医歯学総合研究科総合地域医療学講座 特任准教授)
平成26年4月9日(水)16:30~18:00
「視覚障害とゲームとQOLと…」
前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
平成26年5月14日(水)16:30~18:00
視覚障がい者支援センター「ひかりの森」の過去・現在・未来~地域生活支援の拠点として~
松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長)
平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
演題未定
上林洋子(新潟市)
平成26年7月
新潟盲学校弁論大会 イン 済生会