報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
1 はじめに
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、開校から4年後の1911年(明治44)に最初の卒業生を世に送り出しました。この年に同窓会が創設され、平成23年をもって百年を迎えることができました。同窓生はじめ、御支援いただいた多くの皆様のおかげと感謝しております。
新潟盲学校百年の歴史は、県内視覚障害児者の教育・医療・福祉・労働等の変容を、かなりの部分映し出す鏡でもあります。ここでは、当校の学校要覧をもとに、沿革にはじまり、在籍者数と教職員数、眼疾患、教育等について概観し、今後の視覚障害教育の在り方について考てみたいとおもいます。
2 沿革略史
1903(明治37) 長谷川一詮らが、(1)新潟市東堀前通り8番町の私立蛍雪校の一部を借り「盲唖学校」を開設
1907(明治40) (2)新潟市医学町通1番町に借館し「私立新潟盲唖学校」として、盲生19名、唖生8名をもって開校する。
1910(明治43) 校舎を(3)新潟市西堀通3番町に新築移転する。
1922(大正11) 新潟県立新潟盲学校となり、ろう唖部は昭和2年まで存置する。校地校舎基本金一切を新潟県に寄付、財団法人新潟盲唖学校を解散登記。
1930(昭和 5) 校舎・寄宿舎が(4)新潟市関屋金鉢山町53に新築移転する。
1937(昭和12) ヘレンケラー女史が来校される。
1948(昭和23) 盲学校教育義務制が施行される。
1953(昭和28) 新校舎8教室(2,505㎡)が増築竣工する。
1957(昭和32) 創立50周年記念式を挙行する。
1963(昭和38) 現所在地の(5)新潟市山ニツ1117(現地27,044㎡)に校舎(3,667㎡)寄宿舎(1,750㎡)が竣工し移転する。
1977(昭和52) 創立者、前田恵隆殿と久保田清蔵殿の慰霊祭を創立70周年記念行事の一環として挙行する。
1980(昭和55) 校舎第4棟(1,448㎡)が竣工する。
2006(平成18) 新潟県立新潟盲学校高田分校が県立上越養護学校内に設置される。
2007(平成19) 新潟県立新潟盲学校創立百周年記念式典を挙行する。
2011(平成23) 新潟県立新潟盲学校同窓会創立百周年記念式典を挙行する。
* (1)~(5)は校舎等所在地
3 在籍者数と教職員数
「私立新潟盲唖学校」は、1907年(明治40)、盲生19名、唖生8名にて開校しました。開校後生徒数は徐々に増え、10年後の1916年(大正5)には68名となりました。唖生の教育を分離した1927年(昭和 2)には盲生132名を数えるほどになり、校舎が手狭となったため関屋金鉢山への新築移転となりました。その後、戦争の時代を迎え深刻な食糧難もあり、生徒数は横ばいでした。
戦後の教育改革により、盲学校は義務制となり就学奨励法による児童生徒への支援が始まると生徒数は飛躍的に伸び、1964年(昭和39)には189名を数えるほどになりました。 当校の在籍者はこれがピークであり、現在まで減少を続けています。医療・衛生の飛躍的な進展、出生数の減少がその背景にあるといわれ、当校に限らずほぼ全国的な傾向です。
教職員については、開校当初校長を含め僅か4人でした。4人で盲生と唖生を教育していたことになります。当時は、先生が盲聾教育について特別な指導を受けたり、資格があったわけではありませんでした。開校10年後には、生徒数増に伴い教職員は10人となりますが、唖部が分離し生徒数が132名にもなった1927年(昭和 2)になっても教職員は2人増えただけでした。大正時代に県立移管となった後も、学校経営は経済的に厳しく、職員を確保する財源がなかったことが原因としてあげられます。そこで、生徒同志で教え合ったり、高学年の生徒が年少児童の世話をしたりして、学校や寄宿舎で過ごしていたことが同窓会誌等に綴られています。
1948年(昭和23)の義務制以後、義務教育標準法により教職員が確保され、定数改善が継続され、在籍者1名当たりの教職員数は増えています。
4 眼疾患の推移
眼疾患に関する記録では、1936年(昭和11)の新潟県立新潟盲学校一覧に掲載されている「失明原因調」が現存する資料で最も古いものです。栄養不良、その他、角膜炎、麻疹、先天性等が上位を占めています。残念なことに、1941年(昭16)から1951年(昭和26)までの記録が残されていません。戦中戦後の混乱期に紛失したのか、そもそも診察や調査が実施されなかったのかについては不明です。
戦後は、1952年(昭和27)の学校要覧から「眼疾」として記載されています。眼球癆、角膜疾患、牛眼、白内障、網膜色素変性症等が疾患の上位を占めています。
その後、1970年(昭和45)からは、筑波大学心身障害学系による「全国盲学校児童生徒の視覚障害原因等調査」が開始されました。調査は5年ごとに実施され、当校の学校要覧眼疾患の項目は、70年以後当該調査の形式に則っています。
5 盲学校教育百年に学ぶ
(1)学校運営
1872年(明治5)学制発布により「小学校、人民の一般必ス学ハスンハ・・・」とありますが、障害児(ここでは盲聾児)の就学については触れておらず、「廃人学校アルヘシ」とあるのみでした。盲聾学校義務制が施行されたのは、戦後の1948年(昭和23)であり、明治初期に学校教育が始まって75年を経過した時でした。
この間、先達たちは崇高な志を掲げ、盲聾者への教育の必要性や可能性を説き、心血を注ぎ学校開設や運営に尽力しました。この活動を財政面で協力した支援者として、髙橋助七氏(高助)や中野貫一氏(中野財団)の名が上げられます。少額ではありますが、資金援助をされた市民の方々もありました。盲学校教育が公教育として、公的負担がなされるまで、学校の経済的困窮は開校からの最も大きな課題でした。
(2)教育制度
2011年(平成23)7月29日、障害者基本法の一部改正により、可能な限り障害児が障害のない児童生徒と共に学ぶという考え方、いわゆるインクルーシブ教育が法令上明記されました。「廃人学校アルヘシ」との一文から140年の時を経て、ようやく学ぶ場が共有されたことになります。二元論から一元論へ、ノーマライゼーションの進展です。今後は、ますますユニバーサルデザインの教育推進が求められると共に、盲学校においてはその専門性の確保が求められることになります。
(3)これからの盲学校に期待されること
○視覚障害は最も少ない障害であるからこそ、教育ニーズに的確に対応できる核となる場(盲学校)が必要ある。
○盲学校には、地方自治体で唯一の視覚障害教育の資源・支援センターであることの自覚や使命感が求められる。
○盲学校は「指先を目としながら学ぶ」子どもから大人に、高い専門性と特別に工夫された教材・教具を提供し、教授する指導者を育成する。
○盲学校は、医療・福祉・労働など、教育以外の分野との連携により、視覚障害児者の多様なニーズに対応しQOL向上に寄与する。
【略歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
【追記】
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、明治40年(1907年)の開校です。4年後の明治44年(1911)に最初の卒業生を世に送り出しこの年に同窓会が創設されました。平成23年(2011年)は開校104年、同窓会創立百年となるということです。同窓会創立100周年は、あまり聞くことはありません。しかし小西先生のお話を伺い、同窓会の存在の大きさを改めて感じました。
新潟盲学校設立は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた時代と重なります。「全ての人が共に学び、自立に繋がる力を育てる」という創立者長谷川一詮、鏡渕九六郎、荒川柳軒、前田恵隆の四氏の願い、、、盲学校100年を振り返る時、先人たちの献身的な活動に感動です。財産を蓄えることが大事という今日、盲学校のために財産を差し出すという志の深さに圧倒されます。日本人にはこういう気概があったのだと誇らしく、懐かしく思います。
同窓会が学校に大きな力となったということにも感慨が深いものがあります。予算が少ない、教員数も足りないという状況下、同窓生が生徒の面倒を見て、就職先まで世話していた、、、、ということです。何よりも100年前の学校要覧が残っていたこと、貴重なことです。決算が毎回大きなスペースを占めています。借金のために必要だったのでしょうか?ヘレンケラー女史が来校した時の写真も感激でした。
失明原因疾患もとても興味深いものでした。小児の失明原因を調べたことがありますが、こうした盲学校のデータは戦前からのデータも揃っており大変貴重なものです。興味深い話題満載の講演でした。小西先生、ありがとうございました。