演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要約】
1) 新潟県立高田盲学校(盲学校として日本で3番目に創立)の閉校
盲学校は、全国に72校、在籍者は約3700名である。全国の盲学校の生徒は昭和45年から50年がピークで、毎年70名以上減少している。ここ2~3年の減少は著しく、特に大人の生徒数が減少している。
障害のある子どもの教育について、障害の種類や程度に応じ特別の場で指導を行う「特殊教育」から、通常の学級に在籍するLD・ADHD・高機能自閉症の児童生徒も含め、障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換が提言された(平成17年12月8日中央教育審議会)。障害のある子どもの教育にとって、戦後60年を節目とする大きな転換である。
盲学校として日本で3番目に創立された新潟県立高田盲学校は、生徒数の減少の影響もあり、平成18年3月に118年の歴史を閉じた。 高田盲学校を創始し、視覚障がい者教育に生涯を捧げた先覚者、眼科医・大森隆碩の偉業を紹介し、その功績を思い起こしてみたい。
2) 明治時代の視覚障害者
明治11年(1978年)明治天皇は巡幸で新潟県を訪れた際、新潟に盲人が多いと申され、御下賜金千円を賜った。さらに翌明治12年(1879年)、恩賜衛生資金として一万円を賜れた、新潟県では無料で眼科検診が行われた。明治18年(1885年)内務省通達11号による各府県の鍼灸取締規則など医療制度の近代化に対応して、明治23年(1890年)ごろ鍼按講習会・盲人教育界が出現した。
新潟県では、明治18年(1885年)新潟で関口寿昌が「盲人教育会」(後の新潟盲学校)、明治20年(1887年)高田で大森隆碩が「盲人矯風研技会」、明治38年(1905年)長岡で金子徳十郎は「長岡盲唖学校」を設立。
3) 隆碩の生い立ちと略歴
弘化3年(1846年)大森隆碩は、高田藩眼科医、大森隆庵の長男として生まれる。藩政立て直し策をめぐって藩主の怒りを買い、十代半ばで脱藩。明治維新前後の激動期、隆碩は江戸や横浜で時代の風を存分に浴びた。ヘボン式ローマ字つづりで知られる医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。元治元年(1864年)18歳で高田で眼科医開業。戊辰戦争で杉本直形(2代目校長)と治療に当たる。明治11年(1878年)医事会、明治16年(1883年)高田衛生会を設立する。明治18年(1885年) 39歳のとき視覚障害者となる。
明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)日本で3番目となる訓矇学校設立。当初、丸山謹静ら盲人の方々が設立しようとしていたのは、按摩などの技術を高めることで、いまで言えばテクノスクール。しかし、隆碩は技術習得だけではだめ、人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養をつんで教育しなければならないと主張。技術学校ではなく、本格的な学校設立を目指した。
「心事末ダ必ズシモ盲セズ」~「視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という隆碩の信条である。学校経営は厳しかった。私財を投じた盲学校の運営は綱渡りの連続。『炭を買う金がない』と学校から連絡があると、妻が着物を手に質屋に走る、、。
明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。病気の隆碩に代わり次女ミツ(当時18歳)が祝辞を述べた。ミツは後に東京盲学校の教師となる。隆碩は、社会事業(女子教育、地域医療)にも活躍した。
明治36年(1903年)療養先の東京で没。
4) 隆碩の盲学校創設と新潟県立高田盲学校
*明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
*明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
*明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。 組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。
明治24年(1891年)校名変更 「私立訓矇学校」。
明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。
大正4年(1915年)校名変更 「私立高田盲学校」
大正11年(1922年) 県内4校の再編・県立移管。
昭和24年(1949年) 「県立高田盲学校」
平成18年(2006年)3月 「県立高田盲学校」閉校。
1887年に創設され、1949年県に移管された高田盲学校の歴史は、人間味にあふれている。118年受け継がれてきた建学の理念は、郷土の貴重な遺産である。
5) 隆碩の残したもの
【訓矇学校】
当時の多くの盲亜学校が手に職を与える職業教育にとどまっていたが、一般教養を培うことの大切さを強調した。盲は肉体の盲、矇は心の盲。まず心の矇を啓いて後に教育するべきと考え、校名を訓矇学校とした。
【単独校】
日本での初期の盲学校は盲亜学校として誕生した。しかし隆碩は心理学的に、人格形成の上で両者は同一でないと考え、聾唖者の入学を断り、盲人のみを対象とした学校とした。
【研究機関】
鍼灸按摩以外の職業分野の研究を重ねた。また指導法についても熱心に取り組んだ。早期から点字教育を行った。
【小西明氏 略歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校
1995年 新潟県立高田盲学校
1997年 新潟県立教育センター
2002年 新潟県立高田盲学校 校長
2006年 新潟県立新潟盲学校 校長
【参考】
1)小西 明:上越教育大学障害児教育実践センター紀要.第12巻.57-59.平成18年3月
2)石田誠夫(眼科医、新潟県上越市)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/Isida.htm
祖父も父も、この高田盲学校をこよなく愛しておりました。、、(途中略)、、、、(祖父は)眼科医である隆碩先生の「視覚障害者を社会に復帰させよう」という心意気を子供の頃より感じ取り、この地に戻ることにより、盲学校の校医として、その伝統を引き継ぐことになったのではないでしょうか。
3)市川信夫(高田盲学校、元教員)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/itikawa-kouen.htm
4)新潟日報:平成18年3月18日(土)日報抄
全国で三番目に古い歴史を持つ上越市の高田盲学校が最後の卒業式を行った。寂しい。学校は新潟盲学校に統合される。明治憲法よりも早く、雪深い地方で先人が掲げた盲人教育への熱い思いは、しっかりと受け継いでいきたい(後略)。
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【後記】
雪深い新潟の高田に、どうして全国で三番目に古い盲学校が設立できたのか長い間疑問でした。今回のお話で大森隆碩の足跡を知るにつけ、郷土の先人の偉業に感嘆し、先見の明に心打たれます。
偶然にも、神戸盲学校(現在の兵庫県立盲学校)創設者である「左近允孝之進(さこんじょう こうのしん)」の伝記を読む機会を得ました(注)。
大森隆碩と左近允孝之進 同じ頃に自らも視覚障害者であった二人に交流が無かったようです。しかし視覚障がい者教育に理解の無い周囲の反対に遭いながらも、盲学校を職業訓練学校としてではなく人間教育の場と考え、貧乏しながらも設立まで成し遂げる姿はそっくりでした。第一回の卒業式に、健康の理由で参加出来ないところまで一緒でした。
多くの盲学校がこのような歴史を持ちながら今日に至ったことを、改めて噛締めています。今日、私たちが忘れてならないのは、大森先生の残した「心事未ダ盲セズ」という障害者に対する深い思いやりの心、暖かい気持ちかもしれません。福祉制度の充実も大事ですが、この精神を考える機会を今後も持ち続けたいと思います。
注:「見はてぬ夢を」視覚障害者の新時代を築いた左近允孝之進の生涯
山本優子著(2005年6月20日発行 燦葉出版社)
【附:日本&世界の視覚障がい者関連年表】
*1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院設立(世界最初の盲学校)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る。
*1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767~1841)が12点式点字等を考案。
*1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828~1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
*明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
*明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)
*明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。
*1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866~1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる。
*明治34年(1901年)石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
*1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
*明治38年(1905年)左近允孝之進、神戸に六光社を設立、わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊。
*明治43年(1910年)東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。
*1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan’s)を設立、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始。
*大正5年(1916年)石原忍(1879~1963年。東大医学部眼科学教授)、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発。
*大正9年(1920年) 新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(現在の新潟県点字図書館の前身)。
*同年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年~「点字毎日」)を創刊。
大正12年(1923年) 「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離)
*昭和10年(1935年)10月 岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。
*1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889~1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告。
*1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
*1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
*昭和33年(1958年) 「角膜移植に関する法律」公布、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる。
*昭和38年(1963年)6月 厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示、同年10月に慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクの三か所がそれぞれ認可される。
*1968年、米国「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers ActABA)成立。
*昭和45年(1970年)6月 市橋正晴(1946~1997.先天弱視;1996年株式会社大活字創立)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足。
*昭和51年(1976年)9月 社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
*昭和54年(1979年) 7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設。
*昭和58年(1983年) 高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」発売。
*平成4年(1992年)5月 「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)活動を開始(正式発足、1994年11月)
*平成12年(2000年)4月 日本ロービジョン学会創設。