報告:第128回(2006‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会 西田稔/西田朋美
2006年11月11日

報告:第128回(2006‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田稔/西田朋美
  『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2006』
     「失明の体験と現在の私」 
       西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
     「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
       西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
  日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。 

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。 

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html 

【講師略歴:西田稔氏】
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力 

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「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。 

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。 

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】 
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。
 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。 

 

【後 記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。
 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。
 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」
 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・  
 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。
 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。
 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。