報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
2006年9月13日

報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
    演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』
    講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
     日時:平成18年9月13(水)16:30 ~ 18:00
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
【講演要旨】
 私は新潟県中魚沼郡岩沢(現在は小千谷市)に、6人兄弟の末っ子として生まれました。生後5日目に役場に務めていた父が病死。村長が名付け親になってくれました。その年は電線をまたいで歩くほどの大雪で、「深雪」という名前を付けてもらいました。母一人で6人の子供を抱え、貧乏でした。私は生まれつき視力が不良(網膜色素変性)で、兄も同じ病気でした。村の小学校に入学。良くは見えませんでした。1・2年生の頃は、担任の先生がよく気を付けてくれて、明るい窓際の最前列に席があり、黒板の文字も見えましたので、何とか勉強についていく事が出来ました。3・4年生の頃は、廊下側の席で暗くてよく見えませんでした。 

 「あきめくら」と、よく虐められました。今でも忘れられない3つの事件があります。小学校2年の頃、「弁当事件」がありました。男の子2人と女の子2人が私の机を囲んで、「この弁当を食べろ」というのです。今まで食べたこともない美味しい焼き魚に卵焼き、、、絶対に家の弁当でないと判っていたので、食べないと言い張ったのですが、友達は許してくれませんでした。いやいや食べ終わると、職員室に呼ばれまし た。弁当を作ったおばさんは、担任の先生とおろおろしている私に、「オレは、お前のことは怒らない。お前に食べさせたあの子達を叱ってやる。先生もこのこのことは叱らないでくれ。」と言ってくれました。 

 「松ヤニ事件」もありました。当時松ヤニをガムの代わりによく噛んでいました。友達はおしっこをかけた松ヤニを「食べろ」と迫ってきました。必死に拒みました。耳を澄ますと人の気配がしました。わざと大きな声で泣いてみせました。すると村の人が現れて、「またお前達が虐めているな!」と怒ってくれました。村の人たちはいつも自分を守ってくれました。 

 どんなに虐められても、母には言いませんでした。でも靴を川に捨てられた時は、さすがに裸足で帰った私をみて、母は事情を問い質しました。友達に靴を川に捨てられたと告げると、母はその子の家に行き、その子とその子の両親と一緒に、川に行き靴を探しました。暗くて冷たい川でした。とうとう靴は見つかりませんでしたが、とっても母が強く、そして頼もしく感じました。 

 小学校4年の時、新潟盲学校への転校を勧められ福祉事務所の人と、母が見学に行きました。小学校五年の時に転校しました。そのころ村は小千谷市と合併し、転校に必要な物は全て市が揃えてくれました。盲学校では、一人で掃除や洗濯など身の回りのことは出来るようになりました。 

 あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、17歳で盲学校を卒業、長野県野沢温泉に就職しました。あんまり若かったので20歳といいなさいと言われたのを覚えています。20歳の時に新潟県の弥彦村に転居、22歳であんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡に渡りました。佐渡では、「かまど」を使っていましたが、私はガス釜と電気洗濯機を買って使いましたが、「洗い」は洗濯機、川で「すすぎ」、そして「干す」という毎日でした。23歳で長女を産み25歳の時、長男が生まれました。風呂は銭湯でした。なるだけ一番湯を心掛けていました。ある時混んでいる時に銭湯に行き、よその子の手を引いて出てきた事がありました。 

 子どもを一人生むたびに視力が下がり、長男を産んだ後に一気に下がったときのショックは今も忘れません。朝起きて曇っているものだとばかり思って外に出たら、お日様が照っていると聞かされました!!視力が下がったことを知ると同時に日中も白杖をつかなくてはならないのかな?と思うようになりました。夜は何の抵抗もなしに白杖をついていましたが、日中はどうしても白杖がつけませんでした。理由の一つに子どもたちへのいじめがあったら・・・ということが頭にこびりついていたからです。27歳の時、佐渡から新潟の岩室に引っ越しました。転居がきっかけで転居と同時に白杖をつきまた。案の定、岩室では私と子どもたちが土地の子どもにからかわれてずいぶん悔しい思いをしました。我が家の子どもたちが小さかったこともあり、からかわれている意味が分からず負けずに言い返していたことが私たち夫婦には救われました。 

 かつて弥彦に住んでいましたのでて土地カンはありました。岩室で仕事を探すため、夜子供が寝てから夫婦二人で探検に出かけ、旅館を一軒一軒回りながら場所を覚えました。28歳の時、長男が交通事故で入院し、40日間付添、以来専業主婦になりました。3人の子どもが就職するまで専業主婦。 

 40歳の頃、友人の上林洋子さんに、関良介さんのパソコン説明会に誘われていったのがきっかけで、パソコンというものと漢点字を知り、仲間と一緒に夢中で勉強しました。DOSからWINDOWSにと、どうにかこなせるようになりました。 

 50歳の時に、長男が結婚して同居するようになりました。その後夫が体調を崩して仕を辞めてしまい、それを期に夫の贔屓だったお客さんを中心に仕事を再開しました。仕事を始めるようになり、外出する機会が増えました。このころに私の視力もほとんどなくなりました。 

 上林さんが盲導犬を連れているのを知り、私も欲しくなりました。57歳の時に遂に夫を説得して、盲導犬を申し込みました。平成15年11月、4週間訓練所に泊まりこみして盲導犬 ファビーを手に入れることが出来ました。夫は仕事を辞めてから、家に引きこもりがちでしたが、ファビーが来てからは生活が一変しました。毎朝ファビーと一緒に夫婦で3キロ弱の部落を一回り30分くらいで、会話をしながら散歩します。外での活動も増えました。盲導犬ユーザーの会、ハーネスの会の行事への参加、お茶の間サロン、指編み、、、。一昨年に障害者週間記念イベント「みんな違って、みんないい~西蒲地域助け合い・支えあい・共生フォーラム」の実行委員として参加させていただき、500名が集いました。昨年も成功し、今年も続けてやろうということになり、現在はその準備で忙しくしています(下記*参照下さい)。 

 ファビーと歩きながら、いろんな人たちとのふれあいを楽しんだり、パソコン教室に通いながら情報交換をしたり、ウォーキングで汗を流したり、編み物やカラオケと思う存分楽しんでいます。
 

*『’06第3回たすけあい・ささえあい・共生フォーラムinにしかわ』
  目的&スローガン
   “しょうがい”の有無、“しょうがい”の種別、年齢の違いを乗り越えて、誰もが暮らしやすい“まち”を作る為に、みんなで話し合おう!
  日時:2006年12月9日(土)12:30~16:30
  場所:新潟市西川多目的ホール・西川学習館
  連絡先:障害者生活相談室「わぁ~らく」竹田一光 

【岩崎深雪さん略歴】
 生まれつきの弱視(網膜色素変性)。村の小学校に入学し、その後小学5年生で新潟盲学校に転校。昭和37年に、あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、長野県の野沢温泉に就職、その後弥彦に転職。昭和42年に、あんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡へ。昭和47年に現在地に移住。3人の子どもが就職するまで専業主婦。平成6年頃に主人が体調を崩し仕事を引退。その後、私が仕事に復帰して平成15年に盲導犬ファビーと出会い、私の不注意から右手首を骨折し、それを期に引退。
 新潟県視覚障害者福祉協会、新潟県盲導犬ユーザーの会、新潟・盲導犬ハーネスの会、新潟県視覚障害者友好協議会にそれぞれ所属。