報告 第189回(11‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 田中正四
2011年11月11日

演題: 「視覚障害五年生、只今奮闘中 学んだ事、得た事、今思う事」
講師: 田中 正四 (新潟県胎内市)
  日時:2011年11月9日 (水) 16:30 ~ 18:00  
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 2003年 6月 腎不全により透析開始
 2004年 4月 右眼緑内障により失明
 2005年11月 休職
 2007年 7月 退職
 2007年 8月 左眼視力障害にて障害一級

 私のほぼ六十年の人生において2003年6月からの環境は、長い会社員生活からはまったく想像すらできなかった病との闘いの日々となった。

 「会社は人を育て、人作りにより発展する」この会社の基本理念に全力投球した37年間の会社員生活から、私の環境は一転した。休職を開始した私には、それまで築き上げてきた人のつながりや、多くの技術、誇りさえ無くしてしまう事となった。休職の段階からは、リハビリ外来を受診して、アドバイスを受けていたが、自身の将来に向けたスタートを切ることができず、人のつながりを失った絶望感と視力障害を受け止められない自分がそこに存在していた。

 一方、家族の前では、障害を覚悟したかの様に振る舞い、勤めて明るく前向きな自分を演じていた。しかし、家族の薦めや協力により、多くの病院に診察を受け、視力回復への望みは無くさずにいた。そんな家族の献身的な協力を感じた時、私には、ここに一番大切な人のつながりが残っていたことに気がついた。

 大切な家族のために何が出きるのだろうかと真剣に考え、私が取った行動は、家のリフォームと妻の将来生活の確保であった。結婚し、子供を育て、住まいを築いてきた今までの人生。今私に残された宿題のように思っていた。

 リフォームと生活設計をなしとげたが、心は晴れず目標を見つけられない自分にやり場のないむなしささえ覚えた。そんな時、リハビリ外来で女神様と出会うことができた。その女神様は、とても明るく暖かい雰囲気をかもし出していた。女神様の魅力に心ひかれた私は、「どうしてそんなに明るくしていられるのですか」と訪ねた。女神様は「あんた、悲しいんでしょう、辛いのでしょう、悔しいのでしょう。泣きなさい、泣いていいのよ。」と素直に自分を表す事の大切さを教えてくれ、私を抱きしめてくれた。その女神様の言葉に我慢し耐えてきた自分の封印が解かれ人目もはばからず号泣してしまった。

 さらに、身内にも女神様が存在していた。孫娘である。3歳の孫は、結婚式でベールガール役を務めたあとのインタビューで、「大きくなったら、ジジの目目治すの。」と答えてくれた。こんなに近くにいた女神様に、大きな夢をあたえていただいた。素直になること、夢を持ち続けることの大切さを教わった。もっとも女神様には、こわい女神様もいるのでした。そのこわい女神様は、家の中の私に最も近い所にいて、いつも私を叱咤激励してくれた。

 私には、多くの仲間がいる。毎週通っているパソコン教室の仲間達である。それぞれの人生を歩み、同じ障害者仲間と接している仲で、私に無い生き方や考え方を学び聞くことができた。そんな仲間の勧めもあり、盲導犬の魅力にひかれた私は、盲導犬の貸与に向け舵を切った。体験会に参加し、さらに盲導犬のすばらしさに感激した私にその夢は現実のものとなった。昨年の夏。待望の盲導犬が貸与されたのである。グティ号である。風を切り歩く快適さを数年ぶりに取り戻し、日々相棒と胸を張って歩行している。

 現在私は、多くの仲間達と盲導犬グティ、それに、多くのボランティアの皆さんの理解に囲まれて前向きな日常を送っている。今、こうしてすばらしい人生の門を開けることが出来た私であるが、今後の夢がある。それは、障害の理解と盲導犬の普及と啓蒙活動に取り組み、より多くの視覚障害者の掘り起こしである。さいわい、地域の小学校等への訪問機会に恵まれ、その夢は実現しつつある。今回の私の経験や、挫折と立ち直りのエピソードを参考に、一人でもおおくの障害を持った仲間がつどえることを願ってやむない。

 ここで、今後の行政に望むことを書き添えたい。それは、障害が現実となった人に、県内や、地域の教育、訓練、仲間達と過ごせる場所の情報の提供である。情報弱者の私達である。より多くの人たちが明るく前向きな生活を送ってもらえるように、なっていただきたいと切に願っています。

 最後に孫娘の成長を紹介したい。一昨年5歳になった彼女は、お医者様からプリキュアに夢を変更したが、今年一年生の彼女は、「やっぱりお医者さんになるよ。でも少なくても20年かかるんだって。だから、じいちゃんそれまで生きていなくちゃいけないよ」ですって。頑張らなくてはいけない五年生の私です。

【略 歴】
 1953年 新潟県長岡市生まれ(旧越路町)
 1968年 日立製作所入所
 1974年 移転により胎内市に転居
 2003年 腎不全により透析開始
 2007年 視覚障害1級  退職
 2010年 盲導犬貸与される

 

【追 記】
 勉強会当日、会場には5頭の盲導犬も含め、参加者が溢れていました。田中さんは、張りのある声で低音ながらはっきりとした口調で話し始めました。

 「絆」が東日本大震災復興のテーマですが、田中さんのお話にも、「絆」は満載でした。「会社は人を育て、人により発展する」という会社のモットーで、多くの仲間を得て、頑張ることが出
来た勤務時代前半。人事担当になり、それが一変してしまいました。「同志」「仲間」に退社を勧める仕事になり、かなりのストレスだった勤務時代後半。眼の病と闘うなかで、家族の協力。リハビリ外来での女神との出会い等々。
 女神様:「思いっきり泣いてごらん」、 孫娘:「将来はジジの目を治して上げる」、 お孫さん:「おじいちゃん、目が見えないのなら心の目で見ればいいよ」、、、、 涙あり笑いありの、あっという間の50分でした。

 田中さんとは不思議な縁です。医者と患者は「病気を治してなんぼの関係」ですが、結局私は田中さんの目の病気を治すことが出来なかった眼科医です。2007年に他院からの紹介で私の前に現れた田中さんは、右眼は緑内障にて失明、左眼は胞状網膜剥離。各地の医者を転々としており、医者不信の固まり状態でした。左眼の続発性網膜剥離(uveal effusion)の手術目的で入院したものの、入院時には網膜は復位(網膜萎縮・視神経萎縮)しており手術適応はありませんでした。結局、手術せずに退院となりました。手術に一縷の望みを掛けていた田中さんには申し訳ない結果でした。

 そんな田中さんにお話して頂ける事、感謝しています。田中さんは現在、いろいろな小学校での総合学習で講演する機会が多いとのことですが、私たちのところにもまた来て頂き、多くのことを教えて欲しいと思います。田中さんのますますの活躍、祈念しています。