報告:シンポジウム「患者さん・家族が語る、病の重さ」 (その4)
2011年12月3日

 第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
 シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
 (東京国際フォーラム ホールB7-1)
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S-4.「夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト」
   立神 粧子 (フェリス女学院大学・大学院 音楽芸術学科 教授)

【講演要約】
 命が助かった喜びの後に訪れたものは脳損傷という難解な障害であった。2001年秋に倒れた夫の病名は解離性右椎骨動脈瘤破裂による重篤なくも膜下出血。コイル塞栓術、脳室ドレナージ術、V-Pシャント術を経て命は助かったものの、高次脳機能障害が残存した。長年ヨーロッパで世界最高峰の音楽家たちと楽器開発の仕事をしてきた夫が、自分から話すことも動くことも感じることもできず、1分前の記憶が留まらず、今いる場所の感覚がなくなり、簡単なことも混乱してできない。私たちの日常は一変した。喪失感に打ちのめされていた時、New York 大学付属Rusk 脳損傷通院プログラムを知った。 

 Rusk通院プログラムは、脳損傷に対する神経心理学リハビリテーションで世界一と言われる。主に前頭葉の認知機能不全に対して、対人コミュニケーションを中心とした全人的なアプローチによる機能回復訓練が行われる。この障害を、英語ではBrain Injury(脳損傷)、日本の行政用語では高次脳機能障害と呼んでいる。創設者で所長のBen-Yishay博士(2011年に退官)は、脳損傷はエベレストに匹敵する手ごわい障害と語った。2004年春から夫と私が訓練を受けた時、Ben-Yishay博士は、「私たちスタッフはエベレスト登山のためのツールや登り方を授けることができるが、登るのは君たちだ。訓練して自分の力で登りなさい。」と説明した。 

 当時日本でお手上げだった夫の症状は、1サイクルを経ただけでも日本の先生方が驚くほどの回復を見せた。Rusk通院プログラムの見事に構造化された訓練は神経心理ピラミッドを核として、各症状への戦略を身につけるために工夫・統合されている。神経心理ピラミッドは前頭葉機能の中でも主に認知の神経心理機能の働きを9つの階層に分けて表している。下から順番に以下のとおりである:1.訓練に参加する主体的意欲、2.神経疲労(覚醒・厳戒態勢・心的エネルギーの問題)、3.抑制困難症と無気力症(制御と発動性の問題)、4.注意と集中、5.情報処理(情報を処理するスピードと正確性の問題)、6.記憶、7.論理的思考力と遂行機能、8.受容、9.自己同一性。 

 ピラミッド型であることは、上位の機能はそれより下位の機能が働いていないとうまく機能しないことを示している。実際は諸機能が連動したり組み合わされて様々に複雑に絡み合うことになる。グループや個人での訓練、カウンセリングなどあらゆる角度から当事者は家族と共に症状と戦略を学ぶ。 

 Kurt  Goldstein は、「患者が適正かつ主体的に参加して初めて、脳損傷のリハビリテーションは成功する」ため、「自分の問題をできるだけ詳細に理解させる」必要性を説いている。Goldsteinの療法哲学を受け継ぐBen-Yishay博士は次のように説明した。脳損傷を得て、「誰でもはじめは深い絶望を感じるだろう。しかしそこから自分で立ち上がってこなくてはいけない。自分の欠損に気づき、訓練の環境に順応しながら、訓練の必要性を理解する。そして欠損の補填戦略を学び、日常生活の中で様々な調整を行いながら、習慣化するまで練習する。そのあたりまで進むと、脳損傷を得た自分を受容できるようになる。」受容ができるようになったら、「脳損傷を得た自分」を新しい自分として認め、そこから再び自己を構築する必要がある。そこまで目指さないと、社会の中や家族の間において、自己の存在価値を自分で認めることは難しい。家族も同様である。脳損傷を得た患者とのかかわり方を学んで、この事実を受け入れ、家族の立場から自己を再構築することで、自分自身も幸せになるように考える必要がある。 

 「高次脳機能障害はエベレスト登山のように難しい」という話から始めた。Rusk 通院プログラムから伝授されたツールをまとめると次のようなことだった。
  1.症状をよく知り、真に理解すること。
  2.戦略の使い方を学び練習し、マスターして習慣化すること。
  3.失敗から学ぶこと。
  4.成功体験は、本人のみならず家族にとっても明日への活力だ。
  5.感謝の言葉や気持ちを表すことによって、患者は相手への共感をもつことができるようになり、家族は苦労が報われる気持ちになる。 

 Ruskで夫が何かができるようになったとき、大喜びでBen-Yishay博士に報告に行くたびに博士からこう言われた。「Shoko, patience!(粧子、決して焦ってはいけない!)これは先の長い問題だ。いちいち一喜一憂せずにどっしり構えなさい。そして困難に耐える力を身につけなさい。」 夫も私もRuskでの訓練から、受動的ではない、能動的な生き方を教わったと感じている。 そしてRuskでの訓練を徹底的に学んだ私に、Ben-Yishay博士は門外不出だった資料の公開の許可を与えてくださり、その結果、2010年11月に医学書院から『前頭葉機能不全 その先の戦略』という本を出版することができた。 

 高次脳機能障害を持つことになった夫との生活から、症状を真に理解しなければ、相手を支援することはできないことを学んだ。また、夫を助けるばかりでなく、夫にも私を助けてもらうような関係にならなければ、これからの人生を共に幸せに過ごすことはできないだろう。真の自己同一性は、自分のためではなく、隣にいる人、それが家族であろうと社会の中の他人であろうと、自分の隣にいる人を幸せにすることではないか。現在も、夫との生活で毎日のように困難に直面する。しかし、Ruskから授かった戦略とツールによって、何とか一歩ずつ、二人でこのエベレストを前に進んでいきたいと思っている。 

【略 歴】
  1981年 東京芸術大学音楽学部卒業 音楽学士号取得
  1984年~86年 国際ロータリー財団奨学生として米国シカゴ大学大学院に留学
  1988年 シカゴ大学大学院人文学科修了 音楽学修士号取得
  1991年 南カリフォルニア大学大学院演奏研究修了 音楽芸術博士号取得
  1993年 フェリス女学院大学 専任講師
  1998年 フェリス女学院大学 助教授
  2006年 フェリス女学院大学 教授
       現在に至る

 

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「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
      東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南昌江内科クリニック)
  S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
   小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
  S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
  S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
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