『禅僧・乙川弘文 故S・ジョブズの心の師』
10月5日は、故スティーブ・ジョブズの命日。ジョブズの心の師で有名な乙川 弘文(おとがわ こうぶん、旧姓:知野)は、新潟県加茂市出身である。
【乙川弘文 略歴】
1938年(昭和13年)、新潟県加茂市の曹洞宗の寺に生まれた。駒沢大学を経て、1964年に京都大学で修士号(大乗仏教)を取得した。福井県の永平寺で3年に及ぶ修行を積み、1967年、僧侶・鈴木俊隆の招きでアメリカ合衆国に渡った。タサハラ禅マウンテンセンターにて、1970年まで補佐を務め、1971年に鈴木が死去した後には、ロスアルトスの禅センターにて、1978年まで活動、1979年にはロスガトスの慈光寺に転任した。
1986年にはスティーブ・ジョブズのNeXT社の宗教指導者に任命され、1991年にはスティーブ・ジョブズとローレン・パウエルの結婚式を司った。その後も各地にて活動していたが、2002年7月26日、スイスにおいて、5歳の娘を助けようとして溺死した。
【10月5日新潟日報朝刊】
スマートフォン「iPhone」など画期的な製品を世に送り出した米・アップル社の共同創業者、スティーブ・ジョブズの死去から、5日で2年になる。ジョブズは生前、禅の教えに傾倒。長年親交を結んだ禅僧は加茂市出身だった。ジョブズの伝記にも登場する乙川弘文(1938~2002)だ。弘文は米国などで多くの弟子に影響を与え、ジョブズら教えを請う人々と心を通わせた。
ジョブズは、唯一公認した伝記「スティーブ・ジョブズ」(11年)の中で「仏教、特に日本の禅宗はすばらしく美的だと思う」と語っている。iPhoneをはじめとするアップル製品のデザインは、余計なものをそぎ落とす禅の精神に影響されたともいわれる。
弘文についてジョブズは伝記で「弘文老師との出会いに深く感動し、気が付いたら、なるべく長い時間を彼と過ごすようになっていた」と語っている。出家を相談したところ「事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つことは可能なのだから、やめた方がよい」と諭されたという。
弘文の名は、ジョブズの死去で一躍知られるようになった。2人の出会いは約40年前とみられ、ジョブズは1986年に弘文の生家の定光寺(加茂市)を訪れた。ただ、弘文はジョブズとの交流について生前、多くを語らなかった。弘文の義姉、乙川美恵子さん(65)は「どちらかというと私的な関係で、会話の中で通じ合うものがあり、悩んだ時には話し合っていたのでは」と推測する。
弘文は67年、米国で禅を指導する拠点「禅センター」を開く手伝いをするため海を渡った。その後も米国や欧州の各地に出向き、座禅の指導などに当たった。美恵子さんの息子で、定光寺で住職を務める乙川文英さん(46)は「叔父は『曹洞宗の顔』といった存在ではない。どちらかというと異端児で、米国に行ってからの叔父は風来坊だった」と笑う。
文英さんは「叔父が米国で何を教えたかったのかは分からない。ただ、叔父の行動や生活スタイルを通し、弟子らは何かをつかんだのではないか」と穏やかに話す。現在、弘文が関わった寺や座禅会などは弟子らが受け継ぎ、米国やドイツ、スイス、オーストリアで16の寺や団体が活動する。弘文の遺骨は分骨され、米国の寺院や定光寺など4カ所で静かに眠っている。
◎風のような生き様
弘文は2002年、弟子のいたスイスを訪れた際、プールで溺れた自身の娘を助けようと水に飛び込み、亡くなった。弟弟子で耕泰寺(加茂市)の住職、知野東悟さん(54)は「(亡くなり方も含め)風のような生き様だった」と振り返る。
関係者が遺品を整理したところ、大学院時代のノートが見つかった。「根は真っすぐな、真面目な人だった」(義姉の美恵子さん)ことを示すように、学問や日常のさまざまなことが、びっしりとつづられていた。おいの文英さんは「人間的な魅力があったから、慕われたのではないか。一生懸命に勉強したことが土台になったんだと思う」と語る。
弘文は数年に一度帰郷したが、予定通りに帰ってくることはまれで、何も言わず突然帰ってくることもあった。美恵子さんは「予定が立たないから怒るんですが、『えへへ』と笑う顔を見ると、怒る気持ちが消えてしまう。不思議な人でした」と振り返る。
弘文は請われるとどこへでも出掛けていき、指導した。「曹洞宗のお坊さんとして布教活動をしている、という意識はなかったと思う」と文英さん。知野さんも「あらゆるものにとらわれない人だった」と話した。