報告:第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「視覚障害によって希望を失わないために」
講師:竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
日時:平成26年8月6日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
主催:済生会新潟第二病院 眼科
【講演要旨】
はじめに
失明や視力低下が日常生活や社会参加にとって大きな困難をもたらすことは明白である。そして、苦しくて悲しいことである。しかし、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である。少なくとも、失明しても不幸にならなかった人はたくさんいる。その分かれ道はどこにあるのだろうか。
1.小学校~中学校
63年前、石川県輪島市に生まれる。生来強度近視で矯正視力0.2くらいだった。
小学校の頃は、複式授業。1~2年生の頃の担任の先生は視力の悪い私を可愛がってくれた。そのおかげで、将来共に頑張れたのだと今も感謝している。小学校でも中学校でも、眼が見えないために、いじめに遭った。
輪島は、相撲が盛んなところで、中学3年のころ163cm80kgだったので相撲部に勧誘された。中学3年の頃(昭和40年ごろ)、相撲が影響してか、両眼外傷性網膜剥離になり、父が山ひとつ売って金沢大学・順天堂大学・京都大学等々で診察してもらったが、手遅れと言われた。
最後に京都府立医大で診てもらった時、どこまで治るかわからないが、やるだけやってみようと手術を勧められ、網膜復位術を2度受けた。何とかサインペンで書いたものは見える程度の視力を得ることが出来た。いずれは全盲となったがこれは大きかった。今でもその時の主治医の先生と教授には感謝している。
2.盲学校時代
盲学校に入学、針・灸・按摩に励んだ。
いろいろな経験をさせてもらった。それまでは漫画しか読まなかったが、次第に本を読むようになった。「車輪の下」「夜間飛行」、、、
人前で話すことが苦手だったが弁論大会に出るように言われた。そうした中で、普通高校の生徒と交わりを持つことが出来た。彼らがいろいろな夢を語るのが眩しかった。初めての弁論大会は失敗だったが、いい刺激をもらった。負けるとナニクソとやる気が出て、何度も挑戦した。色々なテーマで挑んでいるうちに、自分の夢を語れるようになった。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語った。その他、①ボランティア、②一流の大学に進学するだけが人生ではない、針灸按摩も大事な仕事だ、③受験勉強は要らないというのは間違っていた。自分の目標に向かい努力することは素晴らしい、、、などのテーマで弁論した。
3.大学時代から司法試験合格まで
TVで宇津井健主演の弁護士物語があり、単純に弁護士を格好良く思っていた。2浪して龍谷大学法学部に入学した。入学して、抱負を語る機会があり、全盲ではあるが弁護士になりたいと語った。当時の龍谷大学は法学部が出来て3年目であり、まだ司法試験に合格した者はいなかった。周囲の人は、何を言っているんだと取り合ってくれなかった。今思えば、このころから目標を言葉に出して自分をしばる(有言実行)タイプであった。
そこでまた負けず嫌いの反骨芯が芽生えた。大学で自分の人生にレッテルを張ることはない。当時は、司法試験は点字での受験は認めてもらえなかった。法務省に問い合わせると、盲人の受験は不可能ですとの回答。そこで上京して法務省で訴えた。何度も訴えているうちに、朝日新聞の記者が一人で訴えてもダメ、仲間を集いなさいとアドバイスをくれた。そこで京都を中心に20名位の「「竹下義樹を弁護士にする会」を形成した。すると朝日新聞で取り上げてくれて、国会も動き出した。
昭和48年点字での受験が可能となった。大学3年で受験した。問題は試験官が読み上げる、地方での受験は認められず上京する、時間延長なし等々のハンデがあった。点字六法は全51巻、12万円もした。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれた。そのうちに、地方での受験も認められ、時間も延長するように制度が改革された。
学生結婚。二人の子供を授かった。収入もなく、マッサージをやりながら生活した。1981年、9回目の受験で合格した(30歳)。当時は年間の合格者数が300~400名の時代で、今よりは大分厳しかった。その時には、点字図書は200冊、録音テープは1000本になっていた。
一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっていることと痛感した。司法試験の準備は目いっぱいやった。多くのボランティアの方々に協力して頂いたことを今も忘れない。
4.弁護士になって31年
弁護士は情報が勝負。事実はひとつだが、真実はいくらでもある。法廷にどのような証拠を提出できるかで判決は決定する。司法試験合格後の進路は、裁判官と弁護士があるが、弱者と共に闘う弁護士を選んだ。先輩の一言が後押ししてくれた。「どれだけ見通せるかが大事だ」。
弁護士としての看板を持とうと思った。障害者問題、医療過誤、過労死、貧困、、、。
見えないことは、情報を得ることは苦手だが、他人の協力で補うことが出来る、見えないからこそ頑張れる自分がいることに気付いた。様々な情報に対して常にアンテナを張っておくことが大事だと学んだ。
5.日本盲人会連合 (日盲連)会長
2012年日盲連の第7代会長に就任した。これまでの会長はボスであり、視覚障害者が困らないような世の中を作ることが主な活動であった。
今後は理念を掲げることにした。同行援護の推進、視覚リハビリの推進等々。日盲連にもさまざまな人間がいる。組織改革が今後の課題である。
おわりに
私は14歳で失明した。失明によって失ったものはたくさんある。遊び、趣味、そして文字。でも、私は不幸にならなかった。友達は失うどころか新たに貴重な友人が増えたし、失明によって気づいたこともたくさんある。とりわけそれまで見えていなかったもの、気づいていなかったものが見えるようになった。そして、夢を見つけた。しかもでかい夢を。それは将来の職業だったのである。私は、貧困問題と取り組む弁護士として、そして視覚障害者が生きがいを持ち豊かな人生を送ることができる社会を築くため日盲連の会長として活動し、充実した毎日を過ごしている。
私が不幸にならなかったのは、友人や指導者に恵まれ、夢を見つけ、それに向かって邁進することができたからである。失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている。視覚障害者であっても、リハビリや補助機器などの支援によってできることがたくさんあるという情報を伝えることが視覚障害者に関わった者の責任なのである。視覚障害を不幸にしないためには、視覚障害者に関わる全ての者がそうしたことに気づいて視覚障害者に接するならば、視覚障害者は不幸になることはないのである。
【略歴】
1951年 石川県輪島市生まれ
65年 (中学3 年)外傷性網膜剥離で失明
69年 石川県立盲学校理療科本科卒業(指圧士修得過程)
71年 京都府立盲学校高等部普通科専攻科卒業
75年 龍谷大学法学部卒業
81年 司法試験合格
84年4 月京都弁護士会に所属
2012年~現在 社会福祉法人日本盲人会連合会長
【質疑応答から】
行政に訴えるには如何したらいいのですか?
~本当に困っている現実を突きつけること。理念・方向を示すこと
病院内での介護について
~医療保険と介護保険の狭間の問題。
最近は、ALSの院内での介護等、少しずつ認められるようになってきた
視覚に障害があると質の情報を得ることは困難ではないですか?
~雑学も役に立つ、得られた情報を自分で吟味する。
【追記】
素晴らしい講演でした。感動しました。全盲となってから弁護士をめざし、視覚障害者が試験を受ける環境作りから自らの手で始め、司法試験に合格してからは弱者のために活動を続ける素晴らしい人生を、思う存分に語って頂きました。
どんな講演にもキーとなるセリフがひとつかふたつはあります。今回は、それが次から次と出てきました。曰く、「失明や視力低下は苦しくて悲しいことであるが、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である」「夢を語ることのできる素晴らしさ」「目標を言葉に出して自分をしばる」「負けず嫌いの反骨芯」「大学で自分の人生にレッテルを張ることはない」「一人が皆を、皆が一人を」「一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっている」「どれだけ先が見通せるかが大事」「事実はひとつだが、真実はいくらでもある」「様々な情報に対して常にアンテナを張っておく」「見えないからこそ頑張れる自分がいる」「理念を掲げる」「見えなくなって、見えてきたものがある」「失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている」、、、、、。 さあ、これからやるぞ!の気概に溢れた講演に敬服しました。
弱者のために奮闘する弁護士、竹下義樹先生のますますの活躍を祈念致します。
【追加1:司法試験と地方公務員の点字受験について】
1961年の文月会発足後、5年目の大会で決議し、行動しています。48年に先輩の故・勝川武氏が法務省に点字受験を申し入れていましたが、当時は葬り去られるのが当たり前でした。竹下さんらの強い要求もあって25年後に日の目を見ました。
73~75年は1人ずつ、76年2人、77年と78年4人ずつ、79年5人が点字受験しています。また、地方公務員は東京都一般福祉職で74年に現・全視協会長の田中章治さんと大窪謙一さんが合格して運動は勢いづき広がりました。その後の働きかけで、都は福祉職Cという点字枠を設け、毎年1人は採るとなっていましたが、2000年にチャレンジから受けた1人がパスした以後は採用無しです。都は2007年に2人が受験した以外、応募は0に等しいと言っています。法務省も都も受験者数などは「記録」を探しかねますの一点張りです。
http://www.siencenter.or.jp/sikaku/kouki289.html
【追加2:日本盲人会連合 (日盲連)】
1948年(昭和23年)に設立された社会福祉団体
http://nichimou.org/
【参考:全盲の弁護士 竹下義樹】
著者:小林照幸、出版社:岩波書店
http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/12/post_935.html
【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
http://andonoburo.net/on/2682
主催:済生会新潟第二病院眼科
要:事前登録制です
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
1)特別講演 (各講演40分)
1.座長 山田幸男(新潟オアシス;内科医)
日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前
田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
http://andonoburo.net/on/2714
2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
-平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
高橋 広(北九州市立総合療育センター)
http://andonoburo.net/on/2780
3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
加藤 聡(東京大学眼科准教授)
http://andonoburo.net/on/2799
16:20~16:40
コーヒーブレイク
16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
シンポジスト (各講演20分)
1.吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
「ロービジョン当事者として相談支援専門家として我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
http://andonoburo.net/on/2875
2.八子恵子 (北福島医療センター)
「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
http://andonoburo.net/on/2889
3.山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
「私たちの視覚障害リハビリテーション」
http://andonoburo.net/on/2917
コメンテーター
田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)
18:20~18:40 adjourn アジャーン
(参加者全員で)会場整理 参加者同志の意見交換
18:40 閉会の挨拶 仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
解散
平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30
【目の愛護デー記念講演会 2014】
(兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
@開始時間が17時です
平成26年11月5日(水)16:30~18:00
第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
@第1水曜日です
平成26年12月10日(水)16:30~18:00
第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長)
平成27年1月14日(水)16:30~18:00
第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
青木 学(新潟市市会議員)
平成27年2月4日(水)16:30~18:00
第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~
大石華法(日本ケアメイク協会)
平成27年3月11日(水)16:30~18:00
第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)