報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その5(立神 粧子)
2016年9月12日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その5(立神 粧子)
  平成28年7月17日(於~有壬記念館;新潟大学医学部学士会)で開催したシンポジウムの報告。立神 粧子先生(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)の講演要約をお送りします。立神先生のご主人は重篤なくも膜下出血を発症し、命は助かったものの、高次脳機能障害が残存しました。当時わが国では、高次脳機能障害の回復プログラムが確立しておらず、夫婦して米国ニューヨークへ渡り一年間の訓練を行いました。高次脳機能障害の回復は簡単ではないが、治療プログラムを理解して、毎日一歩ずつの歩みを続けることが大事だと語ります。 

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シンポジウム「病とともに生きる」
 演題:「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト~作戦を立ててがんばる~」
 講師:立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)   

【講演要約】
 命が助かった喜びの後に訪れたものは脳損傷という難解な障害であった。2001年秋に倒れた夫の病名は解離性右椎骨動脈瘤破裂による重篤なくも膜下出血。コイル塞栓術、脳室ドレナージ術、V-Pシャント術を経て命は助かったものの、高次脳機能障害が残存した。長年ヨーロッパで世界最高峰の音楽家たちと楽器開発の仕事をしてきた夫が、自分から話すことも動くことも感じることもできず、1分前の記憶が留まらず、今いる場所の感覚がなくなり、簡単なことも混乱してできない。私たちの日常は一変した。喪失感に打ちのめされていた時、New York 大学付属Rusk 脳損傷通院プログラムを知った。 

 Rusk通院プログラムは、脳損傷に対する神経心理学リハビリテーションで世界有数。主に前頭葉の認知機能不全に対して、対人コミュニケーションを中心とした全人的なアプローチによる機能回復訓練が行われる。この障害を、英語ではBrain Injury(脳損傷)、日本の行政用語では高次脳機能障害と呼んでいる。創設者で初代所長のBen-Yishay博士(2011年に退官)は、脳損傷はエベレストに匹敵する手ごわい障害であり、「私たちスタッフはエベレスト登山のためのツールや登り方を授けることができるが、登るのは君たちだ。訓練して自分の力で作戦を立てて登りなさい」と説明した。 

 Rusk通院プログラムの見事に構造化された訓練は神経心理ピラミッドを核として、各症状への戦略を身につけるために工夫・統合されている。神経心理ピラミッドは前頭葉機能の中でも主に認知の神経心理機能の働きを9つの階層に分けて表している。下から順番に以下のとおりである:1.訓練に参加する主体的意欲、2.神経疲労(覚醒・厳戒態勢・心的エネルギーの問題)、3.抑制困難症と無気力症(制御と発動性の問題)、4.注意と集中、5.情報処理(情報を処理するスピードと正確性の問題)、6.記憶、7.論理的思考力と遂行機能、8.受容、9.自己同一性。 

 ピラミッド型であることは、上位の機能はそれより下位の機能が働いていないとうまく機能しないことを示している。実際は諸機能が連動したり組み合わされて様々に複雑に絡み合うことになる。グループや個人での訓練、カウンセリングなどあらゆる角度から当事者は家族と共に症状と戦略を学ぶ。 

 Kurt  Goldstein は、「患者が適正かつ主体的に参加して初めて、脳損傷のリハビリテーションは成功する」ため、「自分の問題をできるだけ詳細に理解させる」必要性を説いている。Goldsteinの療法哲学を受け継ぐBen-Yishay博士は次のように説明した。脳損傷を得て、「誰でもはじめは深い絶望を感じるだろう。しかしそこから自分で立ち上がってこなくてはいけない。自分の欠損に気づき、訓練の環境に順応しながら、訓練の必要性を理解する。そして欠損の補填戦略を学び、日常生活の中で様々な調整を行いながら、習慣化するまで練習する。そのあたりまで進むと、脳損傷を得た自分を受容できるようになる。」受容ができるようになったら、「脳損傷を得た自分」を新しい自分として認め、そこから再び自己を構築する必要がある。そこまで目指さないと、社会の中や家族の間において、自己の存在価値を自分で認めることは難しい。家族も同様である。脳損傷を得た患者とのかかわり方を学んで、この事実を受け入れ、家族の立場から自己を再構築することで、自分自身も幸せになるように考えたい。 

 「高次脳機能障害はエベレスト登山のように難しい」という話から始めた。Rusk通院プログラムから伝授されたツールをまとめると次のようなことだった。
  1.症状をよく知り、真に理解すること。
  2.戦略の使い方を学び練習し、マスターして習慣化すること。
  3.失敗から学び、作戦立てに役立てる。
  4.成功体験は、本人のみならず家族にとっても明日への活力になる。
  5.感謝の言葉や気持ちを表すことによって、患者は相手への共感をもつことができるようになり、家族は苦労が報われる気持ちになる。 

 Ruskで夫が何かができるようになったとき、大喜びでBen-Yishay博士に報告に行くたびに博士からこう言われた。「Shoko, patience!(粧子、決して焦ってはいけない!)これは先の長い問題だ。いちいち一喜一憂せずにどっしり構えなさい。そして困難に耐える力を身につけなさい。」 夫も私もRuskでの訓練から、受動的ではない、能動的な生き方を教わったと感じている。 そしてRuskでの訓練を徹底的に学んだ私に、Ben-Yishay博士は門外不出だった資料の公開の許可を与えてくださり、その結果、2010年11月に医学書院から『前頭葉機能不全 その先の戦略』という本を出版することができた。訓練の詳細はこの本を参照願いたい。現在も、夫との生活で毎日のように困難に直面する。しかし、Ruskから授かった戦略とツールによって、何とか一歩ずつ、二人でこのエベレストを前に進んでいきたいと思っている。
 

【略 歴】
 1981年  東京芸術大学音楽学部卒業
 1984年  国際ロータリー財団奨学生として渡米
 1988年  シカゴ大学大学院修了(芸術学修士号)
 1991年  南カリフォルニア大学大学院修了(音楽芸術博士号)
 2001年秋 夫・小澤富士夫が解離性右椎骨動脈瘤破裂による重篤なくも膜下出血発症し、高次脳機能障害が残存。
 2004-05年 夫の高次脳機能障害治療のため、NY大学医療センターRusk研究所にて脳損傷者の通院プログラムに参加。治療体験記を『総合リハビリテーション』に連載(2006)。
 2010年 『前頭葉機能不全その先の戦略』(医学書院)著。
 現在:フェリス女学院大学音楽学部音楽芸術学科教授、音楽学部長 

 

『前頭葉機能不全 その先の戦略』
 監修:Yehuda Ben-Yishay /大橋 正洋 著:立神 粧子
 医学書院  発行 2010年11月
 http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912 

 

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シンポジウム『病とともに生きる』
 日時:平成28年7月17日(日)
    開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
         新潟市中央区旭町通1-757
コーディネーター
 曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長)

10時 開始 
基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
 大森 安恵
   (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
   東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943
パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
  http://andonoburo.net/on/4979
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
  「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
  http://andonoburo.net/on/4990
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
    http://andonoburo.net/on/5014
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
    「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 
  http://andonoburo.net/on/5042
 ディスカッション (20分)
  演者間、会場を含め討論
12時30分 終了
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