報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その4(清水朋美)
2016年9月9日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その4(清水朋美)
  平成28年7月17日(於~有壬記念館;新潟大学医学部学士会)で開催したシンポジウムの報告。清水朋美先生(国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部眼科医長)の講演要約をお送りします。清水先生のお父様はベーチェット病で中途失明しました。清水先生は父の病気を治そうと、愛媛大学医学部卒業後ベーチェット病研究の第一人者である大野重昭教授(当時、横浜市立大学医学部)のもとでベーチェット病の研究をします。そのうちにほかにもまだまだやることが見えてきます。眼の治療だけでなく、「見えなくてもなんとかなる!」ということを眼科医として啓発し続けることが宿命的な個人目標となったと語ります。 

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シンポジウム「病とともに生きる」
 演題:「オンリーワンの眼科医を目指して」
 講師:清水 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部眼科医長) 

【講演要約】
 私の父は、ベーチェット病が原因で30歳の時に失明した。その後に私が生まれているので、私は父が見えていた時代を知らないし、父も私の顔を見たことはない。父が発病した昭和30年代前半は、ベーチェット病そのものが眼科で十分に知られていない時代だった。いよいよ自覚的にも失明を意識するようになった頃、なかなか先の見通しについて語らない眼科医に父は業を煮やし、盲学校に行く覚悟もできているので、治るか治らないか、はっきり言ってほしいと詰問した。これに対し眼科医は、そこまで考えているのなら、盲学校へ行った方がよいと父に告げた。父はこれを事実上の失明宣告と受け止め、見えなくなったら、何もできない、死んだ方がマシではないか?と自分を追い詰めていく。父の苦境を救ったのは、父の母、すなわち私の祖母だった。祖母は父の様子を見て、「失明は誰でも経験できることではないよ。これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね。」と語りかけた。その後、父は気持ちを切り替え、三療や社会福祉についても学び、視覚障害の方々のために長年に渡り勤務し続けた。祖母の言葉は父の失明以降を支えた大きな原動力となり、50年以上経った今も生き続けている。 

 そんな父を持つ私が眼科医になろうと思って40云年、実際に眼科医になって25年が過ぎた。幼少時から、明らかに友達のお父さんと違うことが多く、父が見えていないことは自然と理解することができた。ある時、どうして見えないのだろう?と不思議に思い、母に尋ねた。この時に母から教えられたベーチェット病という言葉は私の中にしっかりとインプットされ、さらに治らないと聞いて、眼科医になれば治せるに違いないと幼いながらも強く心に思ったのを覚えている。まだ就学前の出来事だが、このときの母とのやり取りはなぜかいつまでも色褪せない。父から視力を奪ったベーチェット病は歴史的な病気であるにも関わらず、いまだに決定的な原因は不明のままである。初志貫徹で医学部に進学した私は、更に運よくベーチェット病研究の第一人者である大野重昭教授(北海道大学眼科名誉教授)と出会うことができ、当時、先生が率いる横浜市立大学眼科の大学院生にまでなった。この頃の私は、これでようやく長年の敵と向かい合えるという心境で、「打倒ベーチェット病!」が個人目標だったが、臨床経験を積むにつれ、私には眼科医としてもっと他にやるべきことがあるのではないか?と思うことが増えてきた。 

 眼科を受診する患者はベーチェット病以外の病気が大半で、手帳相当の視覚障害となった患者の多くは医療から福祉への橋渡しがうまくいっていないように思えた。何より、眼科医の視覚障害についての知識が乏しく、学ぶ機会もほとんどない。かなり見えにくい状態になっても漫然と眼科通院を継続している患者が多いという事実に直面し、正直私にはショックだった。見えないと何もできないという一般論の中に患者も眼科医もいて、患者と眼科医の対話を聞くたびにこれでいいのだろうか?と思うことが年々増えてきた。幼少時から多くの視覚障害者と接してきた私には、自分が医療側に身を置くようになって、違和感は膨らむ一方だった。眼科医の役目は言うまでもなく、患者の目を治すことであるが、いくら病気が治って落ち着いていても患者の見え方が100%満足いくように改善しているわけではない。そんなときこそ、ロービジョンケアが必要になる。そして、眼科医には見えなくても何とかなるということを患者に理解してもらうという仕事が加わる。眼科医こそ、見えない=何もできないという一般論に疑問を感じるべきだと私は思う。 

 今の私は、見え方で困っている人だけでなく一般にも「見えなくてもなんとかなる!」ということを眼科医として啓発し続けることが私の宿命的な個人目標だと思っている。祖母が父に語った言葉は私にもそのまま当てはまると最近つくづく思う。つまり、「失明した親がいることはだれでも経験することのできるものではない、これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね。」となり、祖母から今も私自身へ語りかけられているような気持ちになることがある。後半の眼科医人生、祖母の言葉通り、父を通して有形無形で学んだ貴重なことをわずかでも世の中に還元していくことで眼科医としての私の最大のミッションを果たせれば本望である。そしてこれからもナンバーワンでなくオンリーワンの眼科医であり続けたいと願っている。 

【参考URL
 
第9回オンキョー点字作文コンクール 国内の部 成人の部 佳作
「忘れることのできない母の言葉」横浜市 西田 稔
http://www.jp.onkyo.com/tenji/2011/jp03.htm 

【略 歴】
 1991年 愛媛大学医学部 卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科 修了
 1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所 留学
 2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座 助手
 2005年 聖隷横浜病院眼科 主任医長
 2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院眼科医長
      現在に至る 

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シンポジウム『病とともに生きる』
 日時:平成28年7月17日(日)
    開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
         新潟市中央区旭町通1-757
コーディネーター
 曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長) 10時 開始

基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
 大森 安恵
   (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
   東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943

パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
  http://andonoburo.net/on/4979
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
  「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
  http://andonoburo.net/on/4990
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
    http://andonoburo.net/on/5014
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
    「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 

ディスカッション (20分)
  演者間、会場を含め討論 

12時30分 終了
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