勉強会報告

2013年10月14日

報告:第212回(13‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「眼科医として私だからできること」
 講師:西田 朋美
             (国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部 眼科医長)

  日時:平成25年10月9日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 私が眼科医を目指した動機は、父の病である。父は、私が生まれる前にベーチェット病が原因で失明しており、私は見えている時代の父を知らない。父が見えないことに気付いたのは就学前で、どうして見えないのか?と母にたずねた。母がその時に教えてくれた「ベーチェット病」という言葉は強く心に残り、私にとっては父から視力を奪った憎むべき敵であった。この敵に立ち向かうには、眼科医になって戦うしかないと幼い私は真剣に考えていた。 

 その後、幼い頃からの願いが実現し、私は本当に眼科医になった。しかも、ベーチェット病研究の第一人者の先生が率いる教室で学ばせていただけるという、とても恵まれた環境に身を置くことができた。新しい門出に意気揚々する反面、どうして医療の現場では福祉のことを学ぶことがないのだろう?と思うことも増えてきた。幼い頃から、盲学校や視力障害センターで勤務していた父を通して、数多くの視覚障害者の方々と交流する機会があった私にとっては、医療と福祉はとても密接したものという印象があった。しかし、実際には決してそうではない。その疑問は自分の臨床経験が増えるにつれ、ますます大きくなってきた。そして、多くの眼科医が視覚障害の患者さんに対して声をかける内容は、「見えなくなったら、エライことですからね、大変ですからね・・・」であり、それに対する視覚障害の患者さんの発言は、「見えなくなったら、何もできないし、死んだほうがまし、他がどんなに悪くなっても、目だけは見えていたい・・・」といった種類の言葉が大半だった。毎度その言葉を臨床の場で耳にするたびに、私には何か違うのでは?と思うことばかりだった。いろいろと自分なりに考えてみたが、一般社会にも眼科医にも視覚障害者の日常が単に知られていないのだという結論に至った。 

 振り返れば、私は幼少時から明るく楽しい視覚障害者と触れる機会が多く、視覚障害だからという理由で打ちひしがれている印象がほとんどなかったこともあり、逆に少々ショックだった。今はカリキュラムが違っているかもしれないが、思えば、私の医学部時代には障害者や福祉、診断書の書き方ひとつまともに習ったことがない。少しは患者さんに対してポジティブな発言ができるように、これからは医学部の学生や研修医の期間に、障害者や福祉に関しての知識が得られるようになるとよいと思う。 

 私が医者になって、20年が過ぎた。一般の眼科業務に加えて、私がぜひ継続して活動したいと思うことがいくつかある。一つ目は、視覚障害に関して、一般に正しく知ってもらうこと、二つ目は、ロービジョンケアと視覚障害スポーツに関して啓発していくこと、三つ目は、私がこの道にいる原点ともいえるベーチェット病に関して学び続けること、つまり、ベーチェット病研究班の会議を傍聴していくことである。2000年に第一回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いを通して、諸外国のベーチェット病患者さんが治療薬を手に入れるためにいかにご苦労されているのかを思い知った。それを機に、父が2001年にNPO法人眼炎症スタディーグループを立ち上げ、いくつかの国にコルヒチンを寄贈してきた。しかし、度重なる世情不安の中で継続困難となり、その後に法人名を海外たすけあいロービジョンネットワークと変えて、ロービジョンエイドを必要な諸外国に寄贈する活動を行っている。今年はそのために9月にモンゴルへ出向き、モンゴル眼科医会に拡大読書器、拡大鏡などを実際に運び、現地のニーズや活用状況を視察してきた。この手の活動もぜひ継続していきたい。 

 「失明を 幸に変えよと言いし母 臨終の日にも 我に念押す」は父が詠んだ短歌である。父がいよいよ見えなくなってきた時、医師に事実上の失明宣告を受けた。その直後、父の母は父に対して、「失明は誰でも経験できることではない。これを貴重な経験と思い、これを生かした仕事をしてはどうか?それがたとえどんなに小さな仕事でも、ひとつの社会貢献になるのではないか?」と語った。父もその言葉をすぐには受け入れることはできなかったようだが、失明して50年以上経過した今でも、父の座右の銘となり、これまで父は自分と同じ中途視覚障害の教え子さんたちにもこの言葉を語り続けてきたそうだ。私が思うに、この言葉は私にそのままあてはまる。眼科医の私にとって、生まれた時から視覚障害の父がいるということは、これ以上ない貴重な経験である。私の勤務先には、多くの視覚障害の患者さんがいらっしゃる。その方々を拝見する中で、私がこの半生で父を通して経験したことが実に役立つ。 

 こんな私なので、一般的な眼科医の仕事だけをしていたのでは、眼科医になった意味がない。あと何年眼科医ができるかわからないが、自分のミッションだと思って、今後私だからやれる仕事を眼科医の立場からできる限りやっていきたいと願っている。 

【略歴】
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科修了
 1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所留学
 2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部 眼科医長 
  現在に至る 

【後記】
 『眼科医として私だからこそできること』西田先生の力強い言葉が会場に響きました、、、、「私が生まれた時には、父は目が見えなかった」「父を目を見えないようにしたベ-チェット病は敵だった」「医師になって、やっと念願のベ-チェット病の研究に専念することが出来た」「医者は、障害者や福祉のことを知らな過ぎる」、、、参加者は、皆、感銘を受けました。
 「私だからできる仕事」ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指すとも聞こえました。自分にとってオンリーワンの仕事は何だろうと、講演を聞きながら自問自答しました。

 

2013年10月4日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨
 特別企画  『盲学校での中途視覚障害者支援』
  司会:小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長)
  話題提供:中村 信弘(秋田県立盲学校 校長)
  情報提供:田邊 佳実
   (日本ライトハウス/視覚障害生活訓練指導者養成課程研修生)

 平成25年6月22日(土)
 チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間

【講演要旨】
1 中途視覚障害者のニーズ
 平成25年度の新潟県内の視覚障害1・2級の身体障害者手帳取得人数は、3,770人である。このうち、18歳以上が3,708人で全体の98.4%を占める。障害者手帳(視覚)を取得した方の支援組織として、県内では新潟盲学校、新潟大学ロービジョン外来、視覚障害者福祉協会、NPO法人等がある。しかし、地方には一人一人のニーズに応じ総合的に支援するライトハウスやリハビリテーションセンター、盲導犬協会等の生活訓練を行う専門機関はない。

  また、最近の新潟盲学校の教育相談における18歳以上の主訴を分析すると、理療による職業自立を希望する傾向から、視覚障害に起因する現状改善のための方法を身に付けたいと望んでいる傾向がある。具体的には視能訓練や歩行訓練、パソコン操作などの情報処理、点字の読み書き、補助機器の使い方等の希望である。成人の中途視覚障害者の多くが、高等部理療科の学習以前に、生活の不自由や不便さの解消を求めている。これらのことから、成人の中途視覚障害者のニーズは、日常生活の技能や趣味、理療による職業自立の基盤としての生活技能の習得であることがうかがえる。

 

2  秋田県立盲学校の取組
 秋田県には中途視覚障害者のための、視覚障害者更生施設や身体障害者更生施設等でサービスを提供している例はなく、最も近い施設として仙台に「日本盲導犬協会」があるだけである。こうした現状にあって、地方在住の中途視覚障害者のニーズに応えるモデルとして、秋田県立盲学校では高等部専攻科に生活情報科を設置し成果を上げている。

 秋田県立盲学校は「視覚に障害があったとしても、障害を乗り越えて、社会で積極的に生きる力をつける」を学校目標に、①早期教育 ②普通教育 ③重複障害教育  ④QOLを目指す教育(生活情報科) ⑤職業教育  に力を注いでいる。盲学校に生活情報科を設置する意義として、①視覚に障害のある方のために存在する特別支援学校で「自立」を目指している。②「就学奨励費」の対象となり、在学中の費用はほとんどかからず、負担が少ない。をあげている。

  生活情報科では、一人一人のニーズに合わせてカリキュラムを作成し、学習を進めている。主な学習内容は、①障害理解 ②白杖を使用した歩行指導 ③音声パソコンの活用 ④日常生活に必要な機器等の活用 ⑤学習活動に必要な拡大読書器やディジー等の活用 ⑥社会経験の拡充 ⑦福祉制度や関係機関の活用方法 ⑧余暇の活用  等である。

  担当教員は、日本ライトハウスで歩行指導員の研修を受けた教諭4人と視能訓練士(非常勤)1人が配置されている。更に、平成25年度には日本ライトハウス「生活訓練等指導者養成課程」へ教員1人が派遣され、指導内容・方法の一層の充実が期待されている。               

3  生活訓練等指導者養成課程
 盲学校(特別支援学校)には、特別に設けられた指導領域である「自立活動」がある。 
 自立活動は、個々の幼児児童生徒が自立を目指し、障害による学習上又は生活上の困難を主体的に改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養うことをねらいとしている。視覚障害者の自立活動の内容として、日常生活動作、コミュニーション、歩行などがあり、指導者には専門的な知識と技術が求められる。専門性を身に付けた盲学校教員を育成するため、日本ライトハウス「生活訓練等指導者養成課程」へ職員が派遣されている。高い専門性を身に付け、中途視覚障害者の自立活動の指導に当たることの意義は大きい。 

4  盲学校の資源を生かす
 盲学校に自立活動を指導の中核にした学科を設置することにより、0歳から高齢者まで、視覚に障害のある方々のトータルサポートセンターとしての機能を果たすことが可能となる。現状の高等部専攻科理療科は、理療科目の履修でほぼ授業日が埋まり、並行して自立活動を履修することは困難である。そのため、中途視覚障害者においては理療科をはじめとする職業リハビリテーション開始前に、日常の困り感を解消したり学習を効率的に行う方法を学ぶ必要がある。

 視覚障害リハビリテーション施設が設置されていない地域では、秋田県立盲学校のように学校体制を工夫することでこれを補うことができる。見えない、見えづらいといった困り感のある視覚障害者のために、どこがやるかでなく、「やれるところがやる」姿勢が求められている。

 

2013年10月2日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨
 特別企画『視覚障害者とスマートフォン』
  渡辺 哲也 (新潟大学工学部 福祉人間工学科)
   平成25年6月22日(土)
      チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間 

【講演要旨】
1.はじめに
 昨今、タッチパネル操作が主体のスマートフォンとタブレット端末の広まりが目覚ましい。ロービジョンの人たちにとってこれらの機器は、画面拡大操作がしやすい、拡大読書器の代わりに使える、持ち運びに便利、そして格好いい、など利点が多い。他方で、全盲の人たちにとっては、たとえ音声出力があっても、触覚的手がかりのないタッチパネル操作は難しいのではないかと思われる。そこで、全盲の人たちがスマートフォンやタブレットを利用する利点と問題点について調査を始めた。Webを使った文献調査、利用者への聞き取り調査、音声によるタッチパネル操作実験などを通してわかったことを報告する。

2.操作方法
2.1.スクリーンリーダ
 Apple社のスマートフォンiPhoneやタブレットiPadには、スクリーンリーダVoiceOverが標準装備されている。Apple社以外のスマートフォンやタブレットのほとんどにはGoogle社のAndroid OSが搭載されている。このAndroidにも、スクリーンリーダTalkBackが標準装備されている。ただし、日本語出力のために音声合成ソフトを別途インストールする必要がある。

2.2.アイコン等の選択
 アイコン等の選択操作には2通りの方式がある。直接指示方式では、触れた位置にあるアイコンなどが選択され、読み上げが行われる。続けてダブルタップすると選択決定となる。画面構成を覚えておけば操作は容易だが、画面構成が分からないと目標項目を探すのは困難である。

 順次選択方式では、画面上でスワイプ(フリックともいう)することで、前後の項目へ移動し、これを読み上げる。項目間を確実に移動できるが、目標項目に到達するまで時間がかかることが多い。

2.3.文字入力
 テンキー画面によるフリック入力やマルチタップ入力(同じキーを押すたびに、あ、い、う、と変化)、50音キーボード画面やQWERTYキーボード画面が音声読み上げされる。漢字の詳細読み機能もある(iPhone, iPadの詳細読みは渡辺らが開発したものである)。いずれの方式も、個々のキーが小さいため、入力が不正確になりがちである。この問題を解決するため、iPhoneには自動修正機能が装備されている(英語版のみ)。ジョージア工科大学で開発されたBrailleTouchというアプリでは、タッチ画面を点字タイプライタの入力部に見立てて6点入力をする。

3.様々な便利アプリ
 光認識、色認識、紙幣認識、拡大機能、読み上げなど、単体の機械や従来型の携帯電話で実現されてきた機能が、スマートフォンやタブレットへアプリをインストールだけで利用可能になった。インターネットとの常時接続やGPSによる位置の推定など、スマートフォンの特徴的な機能を応用した新しいアプリとしては、物体認識、屋外のナビゲーションなどがある。
 ・Fleksy:打ち間違えても、「正しい」候補を賢く表示
 ・Light Detector:光量を音の高低で表示
 ・マネーリーダー:紙幣の額面金額を読み上げ
  日本でも同種のソフトを財務省、日本銀行、国立印刷局が開発中。2013年のうちにiOS用アプリとして無償公開される予定
 ・明るく大きく, VividCam:コントラスト改善、拡大
 ・TapTapSee, CamFind:視覚障害者向け画像認識
 ・Ariadne GPS, ドキュメントトーカボイスナビ:現在地・周囲情報・経路案内 

4.まとめ
 音声支援により全盲の人もタッチパネルを操作できる。しかし、アイコン等の選択や文字入力が効率的に行えるとは言いがたい。お札や色の判別などのアプリは従来の携帯電話でも利用できたが、これらを簡単にインストールできる点は利点であろう。スマートフォンで新たに実用可能になった物体認識やナビゲーション機能の実用性の検証とその発展が今後期待される。

 

2013年9月30日

報告:第211回(13‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「言葉 ~伝える道具~」
 講師:多和田 悟 (公益財団法人日本盲導犬協会 訓練技術担当理事)
  日時:平成25年9月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 一つの言葉で救われたり、一つの言葉で奈落の底に落ちたり、言葉は時として人の人生を左右する。言葉の専門家に「言葉は感情を伝える道具である」と教えていただいたことがある。言葉に込められた感情が時として言葉より先により力強く相手に伝わる。 

 「そんなつもりじゃなかったんだ」「そんなことで傷つくとは思わなかった」言葉は口から出てしまったらそれを受け取った相手次第に料理される。判断するのは話し手ではなく聞き手なのである。当日の勉強会の参加者に「救われた言葉」「傷ついた言葉」をそれぞれに準備して最後に発表していただいた。傷ついた言葉に今も心が癒えていなくて思い出すのがつらい、と発表された方がおられた。その人にとってはその時に聞いた言葉が今も現在進行形でその人に「傷ついた言葉」として残っていることを知らされた。ある方は身内の言葉に救われた、と言われた。同じ言葉を同じときに聞いても人はそれぞれに感じ方が違う。「かわいそうに」という言葉で外に出られなくなったという人を何人か知っている。心を込めた同情の言葉もその当事者には「傷ついた言葉」になってしまった例である。

  私は盲導犬を通して目の見えない人、見えにくい人たちに安全に歩行する方法を教えることを仕事としている。言葉を選びNon Visual Communicationの成立を目指している。しかし振り返れば私自身が私が向き合った多くの目の見えない人見えにくい人たちに「傷ついた言葉」を発してしまい傷つけてしまったに違いないことを反省している。そんな私が、ただ相手の寛大な心によって赦されて今もこの仕事を続けられていることを感謝する。

 私が白杖の歩行指導員の養成講習を受けた時に紹介されたトーマス キャロルの“失明”から多くを学んだ。その後、友人の約一年をかけた死をすべて見る中で「視力ある人の失明は死を意味する」が実感を持って迫ってきた。私の友人は最善の医療を受けたにもかかわらずその死から逃れることは出来なかった。Cure(治療)には限界がある。しかしCare(ケア)には限界はないのではないだろうか?視覚障がいリハビリテーションはターミナルケアであると思った。自分の視覚機能を使って情報を集めて行動をしていた自分がそれ以外の方法を受け入れそれを使って行動する。方法は違うが同じ結果に向かって進むことに違いはないはずである。

 受容とあきらめは受容が希望をもって将来を向いているのに対してあきらめは希望を見つけられず過去を向いているのではないだろうか。その原因はどれだけ多くの「救われた言葉」に出会うか、だと思う。

 相手を傷つけるかもしれないから何も言わない、のではなく相手を傷つけないように伝えたい。それでも相手が傷ついてしまったら「ごめんなさい」と言い、ひたすら相手の赦しを乞うしかない。同じように逆の立場の場合私も相手を赦す努力をしなければならない。私が6年間を過ごした異文化であるオーストラリアでの生活で日本人である私に新たな異文化思考を教えてくれた言葉は 「私はあなたを許します。しかしこの出来事は忘れません」(I forgive you but never forget)である。つらい出来事から解放される方法は忘れることだと思っていた私の日本人思考が変えられた言葉であった。赦さないと赦せない自分がつらくなるのである。

 無言でいることでNon Visual Communicationは成立しない。Non Verbal communication はそれなりの関係の上に立って成立し言語より雄弁に相手に伝える。

  変わるものを変えようとする勇気
  変わらないものを受け入れる寛容さ
    そしてその二つを取り違えない叡智
 (「ニーバーの祈り」ラインホールド・ニーバーより引用) http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm 

 
 この言葉を受け入れるとき「健全なあきらめ」が導かれ新たな「希望」へと続くと思う。

 

【略歴】
 1974年 青山学院大学文学部神学科中退
     財団法人日本盲導犬協会の小金井訓練所に入る。
 1982年 財団法人関西盲導犬協会設立時に訓練部長として参加。
 1994年 国際盲導犬連盟のアセッサー(査察員)に任命
    (日本人では唯一人;現在に至る)
 1995年 クイーンズランド盲導犬協会(オーストラリア)
     シニア・コーディネーターとして招聘。後に繁殖・訓練部長に就任。
 2001年 帰国。財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーターに就任
 2004年2月 財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーター退職。
    3月 盲導犬訓練士学校、財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校
       教務長(日本初)
    4月 財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校開校
 2009年4月 財団法人日本盲導犬協会事業本部
      学校・訓練事業統括ゼネラルマネージャー
 2012年6月 公益財団法人日本盲導犬協会 訓練技術・訓練士学校 担当常勤理事 

*盲導犬クイールを育てた訓練士として有名
 著書:「犬と話をつけるには」(文藝春秋)、
    「クイールを育てた訓練士」(文藝春秋、共著)等

 

【後記】
  さすがに多和田さんの講演です。会場には盲導犬が7頭も勢揃いしました。
 多和田さんの口調は穏やかで、まるで讃美歌を聞いているような講演でした。そして幾つかの気づきがありました。
 言葉は怖い。「そんなことで傷つけとは思わなかった」 とよく言うが、判断するのは話した本人ではなく、聞いた側の人。どんなに気を付けても人を傷つけることはあるが、そのために言わないというのは如何なものか?
 トーマス・キャロルの「失明」に、視力のある人の失明は、死を意味すると記されている。その意味で、視覚リハはターミナルケアではないのだろうか?失明と同時に、新しい自分に乗り換えるということ。
 「受け入れる」と「諦める」は違う。諦めるは、過去を断ち切ること。受け入れるは、将来を見ることだ。cureには限界があるが、careには限界がない(で欲しい)。
 人間はそもそも充分なものではあり得ない。過ちを犯す存在だ。赦されて生きている。では、あなたは他人を許せるか?、、、、、、
 多くのことを感じ、今後自分はどうしたらいいのかを問われた講演でした。

 

2013年9月28日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨   
    ランチョンセミナー(共催:新潟ロービジョン研究会)
『医療のなかでのロービジョンケアの役割』   
  新井 千賀子(視能訓練士:杏林大学)    
    平成25年6月22日(土)     
    チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間

【講演要旨】
■ はじめに  
 病気が診断され治療されている医療機関は、ロービジョンになって視覚リハを必要とする人たちが最も多く存在する場所でもある。そういう場所ではロービジョンケアは視覚リハの最も近い入口であり、患者と視覚リハの関係の鍵を握る重要な存在である。その大事なポイントで視覚リハの関係者である我々はいったい何をしたらいいのか?を今回は考えてみた。

■ 診療報酬改定とロービジョンケア  
 昨年(2012年)、診療報酬の改訂でロービジョン検査判断料が導入された。そこには 『患者の保有視機能を評価し、それに応じた適切な視覚補助具の選定と生活訓練・職業訓練を行っている施設等との連携』と書かれている。”検査や治療をして検討した結果、ロービジョンと判断されたら、治療だけでなく生活を含めて包括的な視覚リハを紹介しましょう” ということである。従って、医療機関でロービジョンケアを提供する場合には、見やすさを改善する道具や眼鏡などの光学的な補助具を処方するだけでなく、包括的に視覚リハの入口として機能することが診療報酬に認められたことでよりいっそう求められることになったのである。

■ ロービジョンと診断された患者が抱える3つのリスク
 私は学生時代にとある人から、人は「仲間とお金と希望」を一度になくすと人は自らの命を顧みない危機的な状況になると言われたことがある。その後、リハビリテーションの講義のなかでも同じ様な話を聞いた。実際に仕事をしてみると、ロービジョンと診断された直後の患者さんが視覚リハやロービジョンケアの存在を知らない場合、この3つの要素を同時になくすリスクが高いことを実感した。

 視機能低下を自覚した場合にはどの人もまず最初に病院に治療を受けに行く。しかし、その病気は治療がかなり困難で現状を維持する治療や経過をみることを告げられ、以前のような視機能を再獲得するのが難しいと診断されたらどうだろうか?こんな治療が難しい病気にかかったのは自分だけで、今の心境や見え方を共有できる人たちがいるとは思えず孤立感を深めるだろう。また、視機能の低下によって仕事の能率が低下したり同じ作業をしても疲労感が強くなり、就労の継続が難しいと感じ将来の経済的な基盤がなくなる心配をし始める。そして、回復が難しい病気を考えると将来への希望を持てなくなる。こうして、仲間、経済、希望の3つを同時に喪失するというリスクが高くなる。

 このような状況が潜在的に存在することは、実は医療関係者にとっても患者に病状を伝えたり相談に乗るときに心理的な負担が生じる。従って、このような危機的な状況の回避は患者だけでなく医療関係者にも大切な事である。

■ リスクの回避方法として、ロービジョンケアの導入を提案
 医療機関でロービジョンケアを導入することは、結果的にこのような危機的な状況を可能な限り回避することを可能にする。ロービジョンケアで十分に視機能のアセスメントをして適切な光学的補助具が提供された場合、現在の視機能を活用して今の生活を継続してつづけられるかもしれないと希望を持つ事が可能になる。福祉制度(障害者手帳・年金、職業訓練等)などの支援を受けることで経済的な見通しを持つ事が可能になる。ロービジョンケアを通して、院外に様々な支援機関がありそこには多くの人たちが支援を提供していること、また、自分と同じように視機能が低下してリハビリテーションを受けている人が沢山いることを知って、新たに自分の思いを共有できる仲間を得る可能性がある。

 このように医療機関でロービジョンケアが提供されることは危機的な状況をできるだけ早期に回避して視覚リハに導入できるのである。そのためには光学的補助具や視機能を補うエイドの紹介だけでなく、その他の問題への対応も含めて3つの問題に対処する事が必要である。そのプロセスには視覚活用のゴールの設定とゴール達成のに必要な視機能と自分自身の視機能とのギャップを小さする作業が含まれる。具体的には屈折矯正などによって視機能を十分に引き出したり、適切な倍率の拡大を拡大鏡や拡大読書器などの補助具で提供する、作業内容によっては視機能の活用ではなく、他の感覚(聴覚、触覚など)を併用する、社会資源の活用をするなどこれらを複数組み合わせてギャップを埋めてゴールにできるだけ近づける努力をする。

 ゴールは人それぞれによって異なり、活用できる視機能も異なる。そのため十分なカスタマイズのプロセスが必要である。カスタマイズの作業が終わったところで、視機能を活用して活動し続けながらより充実させるためにどのような支援機関とつながることが有効かを検討する。

■ 連携は双方向に  
 ロービジョンケアの考え方が導入されるまでは、視機能低下が非常に重度になり日常生活に大きく影響するまで視覚リハの導入がされないことが多かった。しかし、視機能低下がごく軽度から重度まで幅広い範囲を含むロービジョンは視機能の状態に応じてニーズや解決のために必要な資源が変化する。また、慢性疾患が多いロービジョンは治療と平行してロービジョンケアやリハの提供を必要とする。従って、医療機関と院外の支援機関の関係はよりいっそう重要になり双方向であることが求められる。

■ 医療機関でのロービジョンケアの役割   
 医療機関で提供されるロービジョンケアは包括的な視覚リハの入り口として機能することである。そのためには1)リスクを抱えるまえにゴールを設定し、視覚活用の希望を提供するための包括的なニーズの把握と具体的な活用方法の提供、2)一緒に病気と向き合って生きていく支援者や仲間の提供のための治療と平行した包括的な視覚リハとの連携、3)経済的基盤を支える制度や資源の情報提供、この3点はロービジョンケが医療機関で行われるからこそ効果的であり求められるものである。

 こうした包括的なロービジョンケアの提供は、単一の専門職では困難である。視覚リハの入口としてロービジョンケアを医療機関で提供するには複数の専門職がかかわるチームでの取り組みが必要になり、よりいっそう異なる専門領域の協力と連携が必要になるだろう。

 

【略歴】  
 1992年 筑波大学大学院教育研究科修士課程障害児教育専攻 卒業 修士(教育)  
 1996年 国立小児病院付属視能訓練士学院 卒業  
 1997年 国立特殊教育総合研究所(現:国立特別支援教育総合研究所)研究員  
 2000年 Light House International Arlrene R.Gordon 研究所 文部科学省在外研究員  
 2001年 国立特殊教育総合研究所(現:国立特別支援教育総合研究所)研究員  
 2005年 杏林アイセンター ロービジョンルーム 
 現在に至る