勉強会報告

2006年5月10日

 演題:『カタカナ語で見る視覚障害者のリハビリテーション』 
 講師:清水美知子(歩行訓練士) 
  日時:平成18年5月10(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
   
【講演要旨】
 「『リハビリ』と『リハビリテーション』は同じですか?違いますか?」と清水さんは語り始めた.勉強会に参加した多くの人は、同じと答えたが、中に『リハビリ』は身体的な機能訓練をいい、『リハビリテーション』はもっと広く人間の尊厳まで意味すると答える人がいた.そこで「『リハビリテーション』の意味するところは?」と、清水さんは語り出した. 

 1965年当時は、リハビリテーションは運動障害の機能回復訓練を意味していた(注1:厚生白書《昭和40年・1965年》).1981年頃になると、運動障害の機能回復訓練のみでなく、人間らしく生きる事が出来るようにするための技術及び社会的・政策的対応の総合的体系と捉えるようになってきた(注2:厚生白書《昭和56年・1981年》).しかし、平成16年1月の「高齢者リハビリテーションのあるべき方向」の冒頭で「リハビリテーションは単なる機能回復訓練ではなく、..」と述べていることからも分かるように、わが国ではリハビリテーションといえばリハビリ=機能回復訓練との認識が一般的であったといえる(注3:高齢者リハビリテーション研究会《2004年》). 

 我が国の「目のリハビリテーション」は、独自の発展をしてきた.他の身体障害には、「リハビリ=機能回復訓練」という図式がある。この図式は「目のリハビリテーション」にはない.なぜなら、目を揉んでも引っ張っても治らない.「目のリハビリテーション」は、全人間的復権という広義のリハビリテーションが根付くに適した状況のはずであった.しかし、視覚障害者には、伝統的な職業として三療(鍼・灸・按摩)があった. 

 1960年代(ベトナム戦争の頃)米国で強調された「職業リハビリテーション」の考えと結びつけ、三療師の養成訓練を職業リハビリテーションの中核項目に位置づけ、歩行、ADL、コミュニケーションなどの社会適応訓練を、その前段階、すなわち「プレボケ」(prevocational rehabilitationの略)訓練として制度化した.国立三療師養成施設とそこへの予備校的生活訓練という図式ともいえる. 

 米国では、1970年代に入ると職業中心のリハビリテーション過程に乗れなかった障害者のニーズの見直し、消費者運動の台頭、自立生活運動の高まりとともに職業リハビリテーションから自立生活リハビリテーションへ向かうが、わが国の視覚障害者リハビリテーションは職業リハビリテーション(あるいは三療リハビリテーション)に留まった. 

 2000年代に入り、リハビリテーションの体制は措置費制度から支援費制度、自立支援法に変わった.そこでは職業モデルから自立生活あるいは地域生活モデルのリハビリテーションへの転換が、当事者運動の高まりの結果というよりは、行政主導により実施されつつある. 

 現在の視覚障害者の自立生活支援の問題点を考えてみると、以下の事が挙げられる.
 第1に、2000年から介護保険が施行され、介護サービスを利用しやすくなるとともに、地域での生活が自立度に関係なく営めるようになった.しかし、それはセルフケアへの介助を中心としていて、社会活動を営むための長期的支援サービスが少ない.
 第2に、自立実現への力量作りあるいは自立度の向上に協力する訓練サービスは少なく、結果として介護サービスへの依存度が増す状況があり、視覚障害者の退行が心配される.
 第3に、訓練を提供する専門職(視覚障害生活訓練専門職、視能訓練士など)に、「してあげる」という態度が垣間見えることである.当事者の意識が「医療モデル」あるいは「障害者モデル」から「生活モデル」へと移行する中で、専門職の意識や行動の転換が遅れていると感じる.養成のカリキュラム、指導者の意識にも原因があるだろう.
 第4に、介護保険の中で視覚障害による生活上の不自由の評価が過小になる傾向がある.視覚障害に対する理解が足りない.視覚障害生活訓練専門職の資質、資格制度の問題とも関連する. 

【略 歴】
 歩行訓練士として、
 1979年から2002年まで視覚障害者更生訓練施設に勤務、
  その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
 1988年から新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
  視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2003年から「耳原老松診療所」視覚障害外来を担当。 

【追 記】
 今回も期待通り、清水節は全開でした。
 リハビリテーションには身体機能回復の訓練ばかりでなく、人間としての復権も含めた意味合いもあること。言われるとそうだと合点しますが、そこを常に意識して臨んでいるのか否かで行動も変わってくると感じました。 我が国では、リハビリテーションが職業リハビリテーションに留まっているのではないかという視点、さすがです。障害を持つ方が職業に就くことの意義は多いにありますが、職業に就けなくても人間らしく生きていけること、もう一度考えてみたいと思いました。 

 リハビリテーションの歴史を、消費者運動、ノーマライゼーション、自立生活運動のうねりと併せて考える視点、勉強になりました。特に視覚障害者のリハビリを、他のリハビリと比較して語るのは新鮮です。 高齢者の介護と障害者のリハビリ、介護保険の中での視覚障害者のサービス、施設型リハビリと地域型リハビリ、生活している障害を持つひと(患者としてではなく、障害者としてではなく、「私」として)という視点、専門職の対応の問題、ケアをしてくれる人への支援、ソムリエ理論等々、1時間ではとても語り尽くせない内容でした。

2006年4月28日

 演題:『なぜ生まれる無年金障害者』 
 講師:遁所直樹 
          NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
          新潟学生無年金障害者の会 代表
    (「生活できる真の国民皆年金制度」の確立をめざしています)
  日時:平成18年3月8日(水) 15:00~16:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 



【講演要旨】
 「一番いいたいことは、ただの一点『国民年金を払いましょう』ということです」、と話し始めた。はじめに言葉の解説。「任意加入」「免除」「猶予制度」「裁定請求」「棄却」と「却下」「再審査請求」、、、、。正直、なかなか難しい。実際裁判では、日本語なのに判らない言葉でやり取りされるという。 

 年金制度は、複雑である。その詳細を国は国民に判り易く伝えてくれているだろうか? 学生無年金障害の訴えた当初、誹謗中傷があった。「金を支払ってないのだから、年金をもらえないのは当然。そんなに金が欲しいか!」 でも、、、障害者が障害年金をもらって何が悪い、我々は困っているんだから助けて欲しい、助けてもらえれば我々にだって出来ることがある。全国に12万人の「無年金障害者」がいるが、「学生無年金障害者」は4000人、そのうち裁判闘争をしているのは30人。当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない。理屈は弁護士さんが作ってくれる。

 「負けて勝つ」ということがある。国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負ける。でもその後に制度は変わる。ところが東京地裁で、原告が勝訴してしまった。年金を受け取れない人たちを放置してきたのは国の責任であることを認めた画期的な判決であった。裁判官が神様のように神々しく見えた。東京・新潟・広島は、地裁で勝訴、高裁で敗訴。現在は最高裁で争っている(*ただし勝訴というのは、原告の言い分が少しでも認められた判決のこと)。

 東京地方裁判所で勝訴判決を言い渡した藤山裁判官は、印象深い。原告や、弁護士だけが頑張っていても裁判官の心を動かさなければ判決は勝訴とならない。しかし、国相手の裁判の場合、なかなか裁判官の心を動かすことが難しい。原告の口述の機会を与えることはもちろん、今回の勝訴につながった要因は、藤山裁判官が感性が豊かであったことでった。困っている人に対して、真剣に耳を傾け、相手の心を思いやり一緒に考えることのできる方だった。新潟地方裁判所の犬飼裁判官、広島地方裁判所の裁判官もそのような方だった。どんな制度にも「間(はざま)」がある。全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しいというのが願いである。

 『国民年金を払いましょう』、そして『もらう権利』を主張しましょう!!

【追 記】
 「我々は困っているんだから助けて欲しい」「当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない」「理屈は弁護士さんが作ってくれる」「負けて勝つ」等々のフレーズは印象に残りました。 「全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しい」という遁所さんの主張は、正論だと思いました。 

 以下、年金について、少しネットで調べてみました。
****************************
《社会保険庁ホームページ》
年金の基礎知識やQ&A、相談窓口の案内
http://www.sia.go.jp/ 

《無年金障害者の会》 
http://www7.plala.or.jp/munenkin/munenkin-f.html
 病気や事故などで心身に重い障害を負ったのに、年金制度の不備などで、障害基礎年金が受けられない。 こんな私たち無年金障害者の実情を知って欲しい、そして何らかの救済の手をさしのべて欲しいと、平成元年(1989年) 「無年金障害者の会」を結成しました。 本会は、年金制度の谷間で障害基礎年金が支給されない無年金障害者の救済を求めて運動を行っています。合わせて安心して暮らせる年金制度の確立を求めています。

[無年金障害者の発生する理由]
 学生無年金障害者~20歳を過ぎた学生で国民年金に任意加入していなかった
 主婦無年金障害者~サラリーマンの妻で国民年金に加入していなかった 
 
在日外国人無年金障害者~在日外国人で国籍条項により国民年金に加入できなかった
 滞納無年金障害者~経済的理由により国民年金保険料を滞納した
 無年金障害者~その他障害状態が軽いと評価されたために無年金になった 

 「皆年金」と言いながら全国で12万人の無年金障害者がいると言われています。何故こんなに無年金障害者が生まれたのでしょう…?それは国民年金制度に欠陥があったからです。しかも、その欠陥を判っていながらこの制度をスタートさせたとすれば、それは大きな問題ではないでしょうか?年金というと「老齢年金」を思い浮かべるでしょうが「遺族年金」「障害基礎年金」もあります。皆さまにとって決して人事ではないこの問題!この問題を1人でも多くの方に知って頂きたく思っています。 

[年金制度の欠陥]    
  外国人の場合~1982年(昭和57年)の法改正前は、国籍条項があり、在日外国人ついては国民年金に入ることができませんでした。     
 
主婦の場合~1985年(昭和60年)の法改正前は、厚生年金加入者の配偶者(サラリーマンの妻)は、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
  学生の場合~1989年(平成元年)の法改正前までは、学生や専門学校生については、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
 主婦や学生を国民年金制度から除外したのは、主婦や学生には収入が無いため保険料が納められないからということが理由の一つでした。実際にも、主婦は夫の収入で生活をし、老後も夫の年金で生活をするであろうから、主婦自身に独自の年金はいらないと考えられ、学生については何年かすれば卒業して就職したときに厚生年金等に加入するから問題ないと考えられていました。

 このように国民年金制度から除外されている間に、不幸にも病気や事故で障害を負った場合、その人は一生涯にわたって障害基礎年金を受けることができないのです。

2005年11月20日

【済生会新潟第二病院眼科 公開講座 2005】 
 演題:「ホスピスで生きる人たち」 
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室 

 

【講演要旨】
 ホスピスとは死んでいくところと理解している人が殆どだと思うが、実際に中で働いてみるとホスピスとは生きるところだと感じる。そういう意味でタイトルは「ホスピスで生きる人たち」とした。 

 現代は「自分の死を創る時代」といわれている。がんが死因の第一位を占めるようになって四半世紀が過ぎ、2人に1人はがんの宣告を受け、3人に1人はがんで死ぬ時代である。私自身も昨年腎癌と診断され手術を受けた。病を知り、死を意識して生きる時間が長いのも、がんという病気の特徴の一つである。そのような時代の中で、ホスピスは「がんと診断され残り時間が半年以内と予測された人たちの、人生の残りをその人らしく悔いのないように過ごしてもらうために、多職種のスタッフがチームを組んで全人的なケアをするところ」として広く認識され、その重要性が高まってきている。自分の死を創ることの意義を考えさせられた一人の例を紹介する。 

 50才代男性。咳が続いた。開業医に行くと、胸のレントゲンを撮って、肺に影があるからと大学を紹介された。 大学の内科で精査すると肺癌であることが判り、外科に紹介され手術を受けた。外科で手術が終わると、放射線治療のために放射線科を紹介された。放射線治療が終わると、今度はホスピスを紹介された。ホスピスで余命一ヶ月言われた。このストーリーのどこが間違っているのだろうか?誰の責任だろうか?各担当の医師は誠実に自分の行なうことをしっかり行ない、次に担当すべき医師に託しているのだが、、、。自分の命に自分で責任を持つ、すなわち、死生観を持つことが求められている。 

 ホスピスとは何だろうか?ある人がこのように定義した。「患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」。自分で経験した3名のお話を紹介する。 

 50歳半ばのギャンブラー(相場師)。頸部の癌患者。ある日、点滴を眺めて点滴のカロリーが43Calであることを見つけた。患者(筆談):「これで充分なのか?」 細井:「これで充分ですよ」 患者は泣いた。何とかしようと考えた。聖書の言葉に「鳥の声・野の花」という一節がある。空を飛ぶ鳥は自分で種を蒔くわけでもなく、収穫物を刈るわけでもない。それでも日々空を飛んでいる。野の花も明日は摘まれて炉に投げ込まれるかもしれない。それでもその日一日は可憐な美しさを誇って咲いている。つめり何を食べようが、飲もうか、何を着ようかと思い煩わずとも、その日その日に生きる力を神から与えられているものなのだ。それを話すと患者はまた泣いた。今度は彼の心の琴線に触れたのだった。その後意識が朦朧とするまで3週間、彼と毎日筆談した。 

 50歳代女性。小売店経営。大腸癌で肝転移あり。患者:「先生にとって人間とは何ですか?」 細井「人間とは、誰かにあらしめられるもの」 翌日見舞い客に患者は「ホスピスではこんなことも教えてくれるのよ。お金以外に大切なものがあることがわかった」と嬉しそうに話していたという。翌日亡くなった。 

 80歳目前の元女医。患者:「私は嫁にここに追いやられた」 嫁:「おばあちゃんとどう接したらいいか判らない」 元女医は昔ミッションスクールに通っていた。そこで毎日聖書を一緒に読んだ。その効果かどうか分からないが、あまり他人の悪口を言わなくなった。ある日の夜「世界の平和を祈って、私は眠ります」と言って床に就いた。翌日亡くなった。 

 これらは、通常の医師・患者の関係では生まれない会話である。人間同志の関係において成り立つ会話である。上記の3名とも、それまで自分を支えてきた価値観から新たな価値観を見出すことが出来た。自分の死を創った人たちだ。 

 私は外科医として18年間がんと闘ってきた。しかし、父が胃がんのために淀川キリスト教病院ホスピスで亡くなったことをきっかけに、外科医を辞めホスピス医となった。それ以降多くの患者さんの最期に関わることが赦された。こうしてホスピスで学んだ5つの事がある。

1)死は予期しない時にやってくる。
 病気知らずに中高年となり、ある日がんを宣告され、怖れ戸惑うのが多くの現代人の姿である。何事も願うようにはならないものである。

2)病気で死ぬのではない。人間だから死ぬ。
 人間の仕事は子孫を残す事であり、死は生物学的にプログラムされたことである。病気にならなくても死は訪れる。

3)死ぬことは、生きている時の最後の大仕事。
 人間は生まれた時から、死に向かって歩んでいる。ある時から死に向かって歩みだしているわけではない。引越しに例えると判り易い。引越し前夜は徹夜になることもある。それくらい、死ぬ前にやっておくことは沢山ある。

4)生きれない時、死ねないときが来る。
 ホスピスで痛みの治療や、心のケアを受けると、生き返るように思い、大きな希望を抱く。しかし病状はがんの進行と共に悪化する。その時に、「早く死なせて欲しい」「生きていても仕方がない」と呟くようになる。生きたいけれど生きれない、死にたいけれど死ねない。そんな時にその人がこれまで生きてきた姿が出る。人は生きてきたように死んでゆく。

5)生きているのでない、生かされているのだ。
 死は平等にやってくる。頑張っている人にも、そうでない人にもやってくる。頑張っているから生きているとは思えない。何かしらの力で生かされているように思える。 

 医師として臨終の場面に立ち合う時、どこかに暖かみがあり、心が洗われるような時間を経験する。しかし、他方では切ない看取りの場面に遭遇することもある。ホスピスでは、人生最後の1ヶ月間を過ごして旅立って行く患者さんが多い。そのために、ホスピスの時間はその人の一生を凝縮した時間だといわれる。ホスピスでよい時間を過ごすためにはそれまでが肝心ということであろう。ホスピスができることは、患者さんの苦痛を軽減し、人生を振り返ってもらうことである。 

 私は外科医として18年、ホスピスで10年勤めた。外科医の経験とホスピス医のそれとを比べて、ホスピス医は外科医より患者さんを生かしていると、今思えるのである。人はホスピスで生きかえると思える。私達は「何か」を求めて、日々、あくせくと生活している。その「何か」がホスピスにはあるように思える。外科医は、例えるなら、患者さんに100kgの重しがかかっていると、切り刻んで50kgや30kgにしようとする。時には失敗して200kgにしてしまうこともある。ホスピス医は、100kgの重しを一緒に支えようとする。そんな違いを感じる。ホスピスには人間同士として向かい合う姿がある。 

 「患者の死」は、外科医にとっては「苦い経験」である。ホスピス医にとっては、「生きる力」になる。「いのち」は死ぬことでは終わらない。自分の死を創った人は、残された遺族、また連なるすべての人の心の中で生きている。その人たちが生きる力になる。 

 どうしたらそのような死を迎えることができるのか?「手放すことができる」人は、自分の死を創るように思える。何かを掴もう掴もうとする人は、何も得ることは出来ない。手のひらを天に向けて手放す人は、空から降ってくるものを得ることが出来る。外科医はある意味では、悪いところを切り取り現状を維持しようとする。現在に留まろうとする。これでは手放すことが出来ない。ホスピスでは、今の現状を引き受けて、悪いところも含めた新しい自分に気づくことが出来る。手放すことが出来るのだ。 

 養老孟司によると、人間の体は1年間で70%の細胞は替わってしまう。3年もすると殆んどの細胞は替わってしまう。変わること、拘らないことが自分の死を創ることにつながる。自分の死を創った人は遺された人の「いのち」を創る。これを実感出来た時に、人は安心して死ねるのであろう。その時、死は優しく我々を迎えてくれるに違いない。 

【細井順氏 略歴】
 1951年岩手県生まれ。
 
 78年大阪医科大学卒業。
   自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
  
 93年4月から淀川キリスト教病院外科医長。
  
 95年4月に、父親を胃がんのために、同病院ホスピスで看取った。その時に患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意
   同ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
  
 98年4月より、愛知国際病院で愛知県初のホスピス開設に携わる。
  
 02年4月から、財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長として、
             地域住民の生活に溶け込んだ新しいホスピスの建設を推進している。
   
 04年10月 第27回日本外科学会(盛岡)市民講座で講演
    
  「安心してがんの治療を受けるために~最新の治療法から終末期医療まで~」 

 現在、日本死の臨床研究会世話人
 著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、1997年)(共著)
     『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』(日本評論社、1998年)(共著)
    『死をみとる1週間』(医学書院、2002年)(共著)
    『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)

 

【後記】
 「竹馬の友」と呼べる友人がいる。彼は私の一歳年上、2歳上の兄と私の間の学年である。当時盛岡に住んでいた私達兄弟と彼は、毎日お互いの家を行き来して遊んだ。私が幼稚園から小学1年生時代の3年間である。3人兄弟のような関係であった。

 学生時代に3人で一緒に旅行した。彼の結婚披露宴に兄弟で招かれた。私の結婚式に参列してもらった。時を経て彼は外科医になり、新潟で学会があった時、一緒に飲んだ。大学の講師になりそれなりに活躍しているようであった。名古屋で眼科の学会があった時、一緒に飲んだ。その時には彼はホスピスで仕事をしていた。もとから彼はクリスチャンで、彼らしい選択と思った。その後彼は滋賀に移り、京都の学会の折に時々会った。

 彼に会うといつも不思議な感覚を味わう。タイムスリップして一気に盛岡時代に戻ってしまう。互いに50歳を過ぎ、バーのカウンターで互いに「順ちゃん」「伸ちゃん」と呼ぶ。それ以外の呼び方をお互いに知らない。中年男性がそんな呼び合いをしながら、仲良さそうに会話をしているのだから、さぞや周囲の人からは変に思われたかも知れない。

 そんな彼を新潟に呼んで講演会を開いた。「ホスピスに生きるひとたち」という演題で、約一時間の講演だった。最初は彼に講演など大丈夫かなと心配であったが、5分も経たないうちにそれは杞憂であることが判った。「ホスピスは、患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」「病気で死ぬのではない、人間だから死ぬ」「死ぬことは、生きている時の最後の大仕事」『患者の死』は外科医にとっては『苦い経験』だが、ホスピス医にとっては、『生きる力』」、、、、、。

 彼の講演は、間違いなく満員の聴衆を魅了した。嬉しかったが、正直チョッと不思議だった。なぜなら私にとって「順ちゃん」は、立派なホスピス医ではなく、今でも「やんちゃな遊び友達」であるからだ。

http://andonoburo.net/off/2209

2005年9月14日

報告:第114回(05‐9月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会     上林洋子
   日時~平成17年9月14日(水) 16:30~18:00
   場所~済生会新潟第二病院 眼科外来
 演題:『限りなく透明な世界』
 演者:上林洋子(視覚障害者福祉協会会員、盲導犬ユーザーの会会員;新潟市)
  視覚以外の残された感覚を精いっぱい動員して、私だけの世界を三十一文字に託して表現してみました。 

【講演内容】
 私は何も見えません。光も色も、明るいことも暗いことも・・・。でも真っ暗闇ではなく、色をいつも意識しています。木の葉のさやぐ音を聞けば深緑を、照りつける日差しに真っ青な空を、朝市できゅうりのいぼいぼに触れればその色を・・・。まさに私独自の色の世界は限りなく透明なのです。視覚以外の感覚で色や風景を31文字に表現してみました。
 15歳の時に緑内障と診断され、何度も何度も入院を繰り返しました。県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産。子育ての最中に、どんどん視力は低下していきました。そのころヘルパーさんに短歌を教わりました。
 『眠りたる吾子の口元ま探ればミルクに濡れてやわらかきかな』
 『かたくりの花に触れつつ色問えば「母さんのセーターとおんなじ色よ」』
 『登校の娘が戻り来て庭先の百合が咲きしと告げてかけ行く』 

 39歳のある晩、急に右眼が痛み、これまで経験したことのないような頭痛に襲われました。翌日大学病院を受診、即日入院。いろいろと治療しましたが、右眼は視力を失い、左眼も微かに見えるのみでした。夫の勧めもあり両眼の眼球摘出を決意しました。
 眼球摘出前日に
 『明日には除去される眼よ夜のうちに吾のなみだで流さんものを』
 眼球摘出した後、ガーゼ交換の時、もう目はないのですが、不思議と色々な色が見えました。
 『除去されし眼窩のガーゼ交換のたびに虚像の色迫りくる』
 当時の3ヶ月くらいは、毎日死にたいと思っていました。
 『吾のみの知れる哀しみ両の眼の義眼洗いて包みて眠る』 

 次第に子供は成長し、夫は外で活躍、一人家にいることが多くなりました。
 『青空を肌で確かむベランダにもたれて盲いし眼をしばたたく』
 『路地の一つ違いたるらし白杖の音の気配に佇みて』
 そのころ夫の勧めもあり、白杖歩行の訓練を受けました。高田盲学校の霜鳥先生が講師でした。

 平成7年5月、北海道盲導犬協会から電話があり、盲導犬ユーザーにならないかとのお誘いがありました。七月、新潟から一歩も離れたことのない私は不安でいっぱいな気持ちで初めて飛行機に乗り、協会に入所いたしました。でも、明るく家庭的な暖かい雰囲気に接し、犬嫌いの私も次第に打ち解けることが出来ました。
 『眼の澄みしシェル号なりと指導員にわたされしハーネスしかと握りぬ』
 盲導犬が来て最初に買い物は、夫の好物でした。
 『盲導犬持ちて初なる買い物は夫の好みしビーフステーキ』
 シェルが来たお陰で、外出する機会が増えました。盲導犬シェル号との出会いにより、私の生き方も前向きになりました。
 『夏帽子ふかくかむりて盲導犬シェル号とはずむ朝の散歩は』 

 平成9年の夏、すばらしい体験をしました。盲導犬使用者の先輩の発案により、弱視の夫とともに、富士登山に挑戦したのです。無事登頂できたときの感激は筆舌には尽くせません。
 『10名と2頭のパーティー遂に今 浅間神社の鳥居をくぐる』
 『ご来光拝みて佇む富士山頂の 大気微かにぬくもりてくる』
 毎日シェル号と歩くことにより、私も富士山を制覇できるほどの体力がつきました。 

 7年間一緒に過ごしたシェルと別れの日がきました。
 『盲導犬シェルリタイヤの朝七年を使いこし食器おろおろ洗う』
 『「ありがとう一緒にいっぱい歩いたね」頭撫でつつハーネスはずす』
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。最近は、ターシャを先頭に、私が続き、その後を夫が従って散歩をしています。
 『辻ごとに止まるをほめて新しき盲動犬ターシャと心かよわす』 

 2人の子ども達が巣立った今、仕事や家事の間をみて編みものや読書、草花を育てるなどの趣味を楽しんでおります。また、夫とウォーキングや山登りなどの会に積極的に参加し、これからの人生を有意義に過ごしたいと思っております。「失明」は決して「失命」ではありません。見えなくても、こうして楽しく生きているのだと、多くの人に判ってもらいたいと思います。 

【略 歴】
 15歳で緑内障と診断された後、県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産後、数回の手術を繰り返しましたが、40歳には完全に失明しました。このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚えました。
 平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬シェル号に出会いました。
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。 

【後 記】
 これまでのドラマチックな半生を、感激したりハラハラして拝聴しましたが、上林さんは淡々とした口調でお話されました。いつまでたっても思いを込めて話など出来ないのかもしれませんが、淡々とした口調に何か重いものを感じてしまいました。
 そして短歌の魅力!私は写真が好きで何処でも写真を撮りますが、上林さんはどの場面もその時に詠んだ短歌に思いを込め、記憶に仕舞い込んでいるようでした。子供との思いを詠んだ歌、両眼眼球摘出する前の日に詠んだ歌、盲導犬に思いを寄せる歌、だんな様との歌、どれも素敵でした。人生を豊かにする魔法の手段のような感じがしました。
 話の随所に登場する視覚障害を持つだんな様の一言。夫婦ならではの会話。こんな会話に上林さんはどんなにか励まされたことでしょう。
 勉強会の最後に、新潟ロービジョン研究会を8月初めに開催した際、ある盲導犬ユーザーの方から、「暑い時には熱したアスファルトで盲導犬がやけどするので」と参加を断られたエピソードを私が紹介しました。そして盲導犬に対する配慮がなくて申し訳なかったとお話した時、「そんなことを言う人がいたのですか。それは違います。ユーザーが暑い日でも盲導犬が歩けるように工夫すればよいことなんです」と、即座に上林さんは言われ、なるほどと合点しました。どんなハンディも乗越えてきた人の迫力を実感した瞬間でした。

 今年3月7日新潟日報「日報読者文芸」短歌コーナーのトップに上林さんの作品が紹介されました。
 『洗顔の義眼も洗い納むれば(おさむれば)眼に大寒の冷えなじみくる』
  選者の馬場あき子「評」 寒水に洗った義眼の冷えに未知のすごさがある。『なじみくる』と詠み納めているが鮮烈だ。

 

2005年7月13日

報告:第112回(05‐7月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
  期日:平成17年7月13日(水) 16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

『盲学校弁論大会 イン 済生会』
1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年)
2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)
3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年) 

【講演内容】
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1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年) 

 小学校の頃は、字を見ると目が疲れ、頭が痛くなるので、本が大嫌いだった。小学校6年の時に、眼科医に「網膜色素変性」と告知された。その時はまだ視力は残っていたが、自分で盲学校への進学を決意した。盲学校で必死に点字を覚え、読書の楽しさを知った。読書が出来るようになり、何事にも自信が持てるようになった。「やれば出切る!」もっと点訳本が早く出版して欲しい。これからは自分から社会に向けて様々な事を発信していきたい。

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2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)

 エンジニアになることが小さい頃からの夢だった。中学3年の時に「網膜色素変性」の診断。落ち込んだ。高校から盲学校へ進学。小さい頃からの夢「車・バイクのエンジニア」を諦めかけた頃、本田宗一郎展をみた。昭和20年ごろのマシンが今でも通用する。失敗にめげない開拓魂。プロジェクトXで、チューンの神様・ポップ吉村のことを知り、NHKに手紙をかいたら、本人から返事がきた。ポップ吉村の工場を訪ねることが出来た。私はバイクのエンジニアになる夢を諦めない。

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3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年)

 いわゆるマッサージ業は、国家試験を合格した免許所持者にしかできないが、無資格でマッサージ行為を行っている所には、整体・カイロプラクティック・リフレクソロジー(足裏健康法)、エステ等がある。それに対抗するためには、実力をつけること、そして将来はマッサージ研究機関を設立したい。無免許のマッサージ行為を取り締まることに行政は無力である。このマッサージ業界戦国時代を勝ち抜くには、実力で勝負するのが一番。不借身命。目標の達成のためには、私はどんな苦労もいとわない。

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【後 記】

 6月に北信越盲学校弁論大会に参加した3人の生徒に、済生会での弁論をお願いしました。片野さんは期末試験が終わったばかり、飛岡さんと斉藤さんは翌日も試験という状況で、一生懸命弁論を披露してくれました。爽やかな生き方、考え方に触れるからでしょうか、盲学校の生徒の弁論には毎回感動します。 

 片野さん 「将来の夢は?」との問いに、「これまでは多くの人に支えてもらった。これからは私が多くの人を支えたい」と語った一言が印象に残っています。

 飛岡さん 中学の頃の夢を未だに追い続けるという好青年。何度失敗しても決して諦めない。夢を追いかける少年は昔はよくいたものですが、現在のように偏差値で進路を決められてしまう進路指導では、ほとんどいない。爽やかさと凄さを感じました。

 斉藤さん 無免許が横行しているマッサージ業界に対して行政を批判するだけでなく、自らの技術を高め将来はマッサージ研究所を作り、マッサージの技術を追求したいという夢を語ってくれました。毎日夜遅くまで研鑚しているとのこと。大きなビジョンを緻密に実行に移している様を感じ、応援したくなりました。

 

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【全国盲学校弁論大会】

 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。当時はラジオ放送が始まったころであった。視覚障害者の存在を世の中にアピールし、社会との接点を持つうえで絶好の機会だった。時代や社会の流れに積極的にかかわっていこうという内容が多かった。

 大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更した。最近の弁論内容は、自らの障害の実態をより具体的に訴え、視覚障害者に対する社会的理解を一層促そうとする傾向がある。

 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。

http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200210/440.html