勉強会報告

2006年11月21日

報告:『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2006』 西田親子
(第128回(06‐11)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  「失明の体験と現在の私」 
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
  「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」 
    西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
 場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。

 しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html

【講師略歴:西田稔氏】 
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力

 

「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。
 

【後記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。 

 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。 

 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間 看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」 

 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・   

 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。

 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。

 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。

2006年11月11日

報告:第128回(2006‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田稔/西田朋美
  『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2006』
     「失明の体験と現在の私」 
       西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
     「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
       西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
  日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。 

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。 

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html 

【講師略歴:西田稔氏】
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力 

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「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。 

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。 

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】 
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。
 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。 

 

【後 記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。
 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。
 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」
 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・  
 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。
 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。
 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。

 

2006年9月13日

報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
    演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』
    講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
     日時:平成18年9月13(水)16:30 ~ 18:00
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
【講演要旨】
 私は新潟県中魚沼郡岩沢(現在は小千谷市)に、6人兄弟の末っ子として生まれました。生後5日目に役場に務めていた父が病死。村長が名付け親になってくれました。その年は電線をまたいで歩くほどの大雪で、「深雪」という名前を付けてもらいました。母一人で6人の子供を抱え、貧乏でした。私は生まれつき視力が不良(網膜色素変性)で、兄も同じ病気でした。村の小学校に入学。良くは見えませんでした。1・2年生の頃は、担任の先生がよく気を付けてくれて、明るい窓際の最前列に席があり、黒板の文字も見えましたので、何とか勉強についていく事が出来ました。3・4年生の頃は、廊下側の席で暗くてよく見えませんでした。 

 「あきめくら」と、よく虐められました。今でも忘れられない3つの事件があります。小学校2年の頃、「弁当事件」がありました。男の子2人と女の子2人が私の机を囲んで、「この弁当を食べろ」というのです。今まで食べたこともない美味しい焼き魚に卵焼き、、、絶対に家の弁当でないと判っていたので、食べないと言い張ったのですが、友達は許してくれませんでした。いやいや食べ終わると、職員室に呼ばれまし た。弁当を作ったおばさんは、担任の先生とおろおろしている私に、「オレは、お前のことは怒らない。お前に食べさせたあの子達を叱ってやる。先生もこのこのことは叱らないでくれ。」と言ってくれました。 

 「松ヤニ事件」もありました。当時松ヤニをガムの代わりによく噛んでいました。友達はおしっこをかけた松ヤニを「食べろ」と迫ってきました。必死に拒みました。耳を澄ますと人の気配がしました。わざと大きな声で泣いてみせました。すると村の人が現れて、「またお前達が虐めているな!」と怒ってくれました。村の人たちはいつも自分を守ってくれました。 

 どんなに虐められても、母には言いませんでした。でも靴を川に捨てられた時は、さすがに裸足で帰った私をみて、母は事情を問い質しました。友達に靴を川に捨てられたと告げると、母はその子の家に行き、その子とその子の両親と一緒に、川に行き靴を探しました。暗くて冷たい川でした。とうとう靴は見つかりませんでしたが、とっても母が強く、そして頼もしく感じました。 

 小学校4年の時、新潟盲学校への転校を勧められ福祉事務所の人と、母が見学に行きました。小学校五年の時に転校しました。そのころ村は小千谷市と合併し、転校に必要な物は全て市が揃えてくれました。盲学校では、一人で掃除や洗濯など身の回りのことは出来るようになりました。 

 あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、17歳で盲学校を卒業、長野県野沢温泉に就職しました。あんまり若かったので20歳といいなさいと言われたのを覚えています。20歳の時に新潟県の弥彦村に転居、22歳であんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡に渡りました。佐渡では、「かまど」を使っていましたが、私はガス釜と電気洗濯機を買って使いましたが、「洗い」は洗濯機、川で「すすぎ」、そして「干す」という毎日でした。23歳で長女を産み25歳の時、長男が生まれました。風呂は銭湯でした。なるだけ一番湯を心掛けていました。ある時混んでいる時に銭湯に行き、よその子の手を引いて出てきた事がありました。 

 子どもを一人生むたびに視力が下がり、長男を産んだ後に一気に下がったときのショックは今も忘れません。朝起きて曇っているものだとばかり思って外に出たら、お日様が照っていると聞かされました!!視力が下がったことを知ると同時に日中も白杖をつかなくてはならないのかな?と思うようになりました。夜は何の抵抗もなしに白杖をついていましたが、日中はどうしても白杖がつけませんでした。理由の一つに子どもたちへのいじめがあったら・・・ということが頭にこびりついていたからです。27歳の時、佐渡から新潟の岩室に引っ越しました。転居がきっかけで転居と同時に白杖をつきまた。案の定、岩室では私と子どもたちが土地の子どもにからかわれてずいぶん悔しい思いをしました。我が家の子どもたちが小さかったこともあり、からかわれている意味が分からず負けずに言い返していたことが私たち夫婦には救われました。 

 かつて弥彦に住んでいましたのでて土地カンはありました。岩室で仕事を探すため、夜子供が寝てから夫婦二人で探検に出かけ、旅館を一軒一軒回りながら場所を覚えました。28歳の時、長男が交通事故で入院し、40日間付添、以来専業主婦になりました。3人の子どもが就職するまで専業主婦。 

 40歳の頃、友人の上林洋子さんに、関良介さんのパソコン説明会に誘われていったのがきっかけで、パソコンというものと漢点字を知り、仲間と一緒に夢中で勉強しました。DOSからWINDOWSにと、どうにかこなせるようになりました。 

 50歳の時に、長男が結婚して同居するようになりました。その後夫が体調を崩して仕を辞めてしまい、それを期に夫の贔屓だったお客さんを中心に仕事を再開しました。仕事を始めるようになり、外出する機会が増えました。このころに私の視力もほとんどなくなりました。 

 上林さんが盲導犬を連れているのを知り、私も欲しくなりました。57歳の時に遂に夫を説得して、盲導犬を申し込みました。平成15年11月、4週間訓練所に泊まりこみして盲導犬 ファビーを手に入れることが出来ました。夫は仕事を辞めてから、家に引きこもりがちでしたが、ファビーが来てからは生活が一変しました。毎朝ファビーと一緒に夫婦で3キロ弱の部落を一回り30分くらいで、会話をしながら散歩します。外での活動も増えました。盲導犬ユーザーの会、ハーネスの会の行事への参加、お茶の間サロン、指編み、、、。一昨年に障害者週間記念イベント「みんな違って、みんないい~西蒲地域助け合い・支えあい・共生フォーラム」の実行委員として参加させていただき、500名が集いました。昨年も成功し、今年も続けてやろうということになり、現在はその準備で忙しくしています(下記*参照下さい)。 

 ファビーと歩きながら、いろんな人たちとのふれあいを楽しんだり、パソコン教室に通いながら情報交換をしたり、ウォーキングで汗を流したり、編み物やカラオケと思う存分楽しんでいます。
 

*『’06第3回たすけあい・ささえあい・共生フォーラムinにしかわ』
  目的&スローガン
   “しょうがい”の有無、“しょうがい”の種別、年齢の違いを乗り越えて、誰もが暮らしやすい“まち”を作る為に、みんなで話し合おう!
  日時:2006年12月9日(土)12:30~16:30
  場所:新潟市西川多目的ホール・西川学習館
  連絡先:障害者生活相談室「わぁ~らく」竹田一光 

【岩崎深雪さん略歴】
 生まれつきの弱視(網膜色素変性)。村の小学校に入学し、その後小学5年生で新潟盲学校に転校。昭和37年に、あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、長野県の野沢温泉に就職、その後弥彦に転職。昭和42年に、あんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡へ。昭和47年に現在地に移住。3人の子どもが就職するまで専業主婦。平成6年頃に主人が体調を崩し仕事を引退。その後、私が仕事に復帰して平成15年に盲導犬ファビーと出会い、私の不注意から右手首を骨折し、それを期に引退。
 新潟県視覚障害者福祉協会、新潟県盲導犬ユーザーの会、新潟・盲導犬ハーネスの会、新潟県視覚障害者友好協議会にそれぞれ所属。

2006年7月19日

報告 第124回(2006‐07月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
     日時:平成18年7月19(水)16:30 ~ 18:00 
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
    『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 2006』
1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明 

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1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
【講演要旨】
 私は小学校の頃は、消防士になりたいと思っていました。恰好がいいし、人の役に立ちたいと思っていたからです。今は盲学校の先生になりたいと思っています。夢を持てる仕事ですし、生徒の成長を感じることが出来るからです。そう思った理由は自分のことを真剣に考えてくれる先生に出会ったからです。割り算を根気よく教えてくれました。その優しさに応えたいと思いました。英語か、理科の先生になりたいです。
 私には理想の教師像があります。一つは、実際に触ったりして判り易く教える。二つ目は、優しく教えるです。盲学校の先生になるためには、高校・大学に進学し、教員採用試験を通らなければなれません。そのためには毎日しっかり勉強すること、点字を覚えることが必要です。夢の実現に向けて精一杯努力します。
【盲学校の先生から】
 指導者から聞くところによると昨年からテーマをしたためていたとのこと。また、あのまとまりのある長い文章もほとんど指導の手が入らずにまとめ上げたとのこと。それほどの強い思いがあって、聞き手に思いがよく伝わったのだなと感じました。周囲にとても気配りをし、何事にも熱心に取り組む人柄がよく表れていました。とても控えめでおとなしい性格ですが、堂々とした発表態度にとても感心しました。いい先生になることまちがいなしです。
【追 記】
 熱心に教えてくれる先生に憧れ、将来は学校の先生になりたい、、、、純真な気持ち、素直に表現出来ることに心打たれました。未熟児網膜症でかつて、私が大学で治療したということを、後でお母さんからお聞きしました。10数年ぶりの嬉しい再会でした。 

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2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
【講演要旨】 
 最近、道を歩いていると、地べたに座る人々、点字ブロックの上の駐輪・駐車などに出くわします。こうした状況を改善していくために自分自身ができることは「アピールすること」です。
 私達視覚障害者にとって「音声信号」は大事ですが、近隣の方々の安眠妨害になっているという苦情があるということを聞きました。問題の根本的解決のためには、社会全体が「互いに思いやる心」を持つことが大切だと思います。
【盲学校の先生から】
 実体験のなかで自分を見つめ、社会への投げ掛けをしていました。彼女は視野が狭いのですが、それ故知らない人からは一見よく見えていそうにも誤解されがちです。見えにくさと見えることが共存する視点から、社会と向き合っていることが感じられました。京さんもまた控えめでおとなしい性格ですが、とても周囲に気配りをする優しい心の持ち主です。そんな彼女の投げ掛けに、逆に響く力を感じました。
【追 記】
 とても素直で優しい方でした。自分の主張をするだけでなく、相手の事も気遣いながら、社会的な問題に、自分との係わり合いを模索しようとする姿勢を感じました。

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3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明
【講演要旨】
 この春からの2度目の高校生活を始めるに当たっての決意表明。20年前高校1年で中退しました。当時、柔道部に入っていましたが、タバコを吸っていました。顧問の先生と柔道の稽古で寝技をしていた時、タバコの臭いが判ったのでしょう、ゲンコツをもらいました。色々な事があり、高校を辞めて仕事をみつけて働きました。2年後、当時の同級が卒業の日、柔道部の同級生が「金メダル」を携えて仕事場に来てくれました。3年間柔道部を頑張ったものだけに、顧問自身が作成して与えてくれるメダルでした。その時初めて高校を辞めたことを後悔し、顧問の先生に感謝しました。
 顧問の思いに報いるために、懸命に勉学に励み、資格をとって社会に貢献したいと思います。
【盲学校の先生から】
 7月7日(金)の関東地区大会で杉山利明さんが13名中3位になりました。普段の姿が弁論そのものという感じで、とても前向きでさわやかで明るい人柄です。何やら複雑な経歴の持ち主のようですが、きっとそんな経験が今を豊かにしているのかなとも思いました。抱える病気としっかり向き合いつつ、明るくも芯のぶれない意志の強さが感じられる弁論でした。原稿も見ずにあれほどすらすら言えるものなのでしょうか。陰の努力を惜しまない方です。
【追記】
 高校中退、糖尿病網膜症で失明と幾度となく挫折を味わいながら、明るくいきいきとしている姿が眩しく見えまた。 
 3人とも、とても一生懸命に弁論してくれました。私たちが忘れかけていた純な気持ちを思い起こしてくれた熱いメッセージを聴き、活力を頂きました。

 

2006年7月4日

 

【新潟ロービジョン研究会2006】
  2006(平成18)年7月29日(土)16時~19時10分
  済生会新潟第二病院 10階会議室
  講演
   「一般外来でのロービジョンケア-QOL向上のための初めの一歩」
     佐藤美恵子 (視能訓練士 新潟県立新発田病院)
   「視覚障害者の就労継続と連携」
     工藤正一 (中途視覚障害者の復職を考える会『タートルの会』)
   「中途視覚障害者の家族としての支援、家族への支援」
     工藤良子 (千葉県医療技術大学校看護学科)
   「失明してしまった手術のこと」 
     荻野誠周 (眼科医 新城眼科)
  便利グッズ紹介 県内の皆さんからの紹介コーナー
  シンポジウム「皆で考えるロービジョンケア」
    座長 張替涼子(新潟大学) 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
    佐藤美恵子 (視能訓練士 新潟県立新発田病院)
    工藤正一 (中途視覚障害者の復職を考える会『タートルの会』)
    工藤良子 (千葉県医療技術大学校看護学科)
    荻野誠周 (眼科医 新城眼科)  

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「失明してしまった手術のこと」
     荻野誠周 (眼科医 新城眼科)     

 私の眼科手術者としての基本認識は以下の二つである。一つは、医療は病気の自然経過に介入して、より良い結果を得ようとする行為であるということ。したがって失明してしまったという表現は間違いで、失明させた、あるいは潰したと表現するべきである。治したという表現も間違いで、治った、良くなったのであって、医者が治したのではない。二つ目は、「医者」は「患者」を食い物にして生きている卑賤な職業である。卑下することはないが、このことは厳然たる事実である。

 基本姿勢が二つある。一つ、技能を含めた「知識」が絶対に必要である。最良の結果を得るには知識こそが全てであるといっていい。二つ、ヒポクラテスの誓いにあるとり、患者に不利益をもたらすことは行わない。しかし、いわゆる医師の倫理として要求される、高潔、誠意、熱意、謙虚などは実は無意味である。治らなければ無意味であり、治ることに必須なのは知識だけである。実際、私が失明させた症例はすべて憶えているが、そのすべてが知識のなさに原因している。

 たとえ手術を含めた治療が適切で、いい結果だと考えられても、視力が不良のままであることは多くある。私はロービジョン患者を多数生み出している。私が専門とする網膜硝子体手術では術後視力は術前視力に強く相関する。手術がノーミスで終了することはありえない。また、なにが起きるかわからないので、良い視力を悪くする可能性はある。しかし、視力の最低線を失明の防止に置くのでは、どうにもならない。基本方針として最低線を運転免許が取得できる視力に置いている。 

【略歴】
 1971(昭和46)京都大学医学部医学科卒業
 1978(昭和53)京都大学大学院医学研究科修了
 1978(昭和53)京都大学医学部眼科助手
 1981(昭和56)天理よろず相談所病院眼科副部長
 1984(昭和59)京都大学医学部眼科講師
 1987(昭和62)愛知医科大学眼科助教授
 1994(平成6)フリー眼科医
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 新潟ロービジョン研究会2006(第7回に相当)は、7月29日(土)午後、済生会新潟第二病院10階会議室にて行われ、当日参加も含め133名(眼科医20名・視能訓練士60名・その他、患者さんと家族・看護師・医療関係者・眼鏡店関係者・盲学校教師・工学部関係者・学生等; 新潟県内から111名県外から22名)の参加者があり、これまでになく活発な意見が交わされまた。研究会の翌日(30日)に、新潟の梅雨明け宣言が発せられ、我々の熱気で一気に夏に突入した感があります。

 今回は、研究会前半は医師、視能訓練士の講演、就労・家族についての講演があり、研究会後半のシンポジウムでは、4人の講師を中心に様々なテーマで論議が交わされました。ロービジョンケアはだれがやるべきことなのか?看護師はもっと優しい声掛けが必要では、視能訓練士など若手の医療関係者はお年寄りとのコミニケーションをとることが不得手ではないか?等々、、、の意見のほか、医師に対する注文もありました。今回の研究会では結論は出ませんでしたが、医者も患者も視能訓練士・看護師も、何でも言える環境でのディスカッションは、明日に繋がると思います。