勉強会報告

2007年9月5日

特別講演 2 
 「ロービジョンケアを考える」
    山田信也(生活支援員、歩行訓練士;国立函館視力障害センター)

【講演要旨】
《はじめに》
 新潟は思い出のある所です。かつて第一回盲聾疑似体験セミナーを当時、国立特殊教育研究所におられた中野泰志先生(現、慶応大学)方が企画され、高橋広先生(現、柳川リハ)、安藤伸朗先生(現、済生会新潟第二病院)らが参加され、高橋先生はそこでロービジョンケア、特に盲聾の方々のケアに目覚められたことを思い出します。 

1)「みる」ということ
 私たちがものを「みる」ということはどういうことなのでしょうか? ヒトが、花を見てから「それは花です」と答えるまで、以下のプロセスがあります。
 眼で、つまり網膜の視細胞で感じた刺激を、視神経、視交叉を介して脳の視覚中枢にて認識され、それを脳の運動野に伝えて声帯を動かして「それは花です」と言葉を発することになります。つまり、見るという当たり前のような行為の中に、様々なレベルで、障害がないということが前提になります。
 私たちが、「みる」と一言で言っても、様々な見方がありますし、当然見るレベルの差というものも考える必要があります。生理的な機能を十分に活用してみるのが、「見る」です。細かく見ていくのが「視る」というようにです。ロービジョン者自体がものを「みる」と言った場合、生理的な機能として見ることは能わないとしても、例えば分析したり、統合したり、認知したりといった点では、「みる」工夫をすることが大切であると思います。

2)ロービジョンサービスとロービジョンケア
 「ロービジョンサービス」と「ロービジョンケア」について、私見を述べたいと思います。言葉の意味の整理をしておきたいと思います(このことは今後、議論されていく課題だと思いますが)。
 「ロービジョンサービス」とは、保有している視機能を活用し、QOL(生活の質)の向上を目指す、どちらかと言えば、技術的にある一定のレベルのサービスを行うことだと考えます。従って、どの地方に行っても、ロービジョンサービスの質は一定であることを前提にしています。
 一方、「ロービジョンケア」とは、保有している視機能を最大限に活用し、その人の本心を大切にし、QOL(生活の質)の向上を目指すサービスであると言えます。そこには、ケアの側に重心があると思うのです。技術的な支援はもちろんですが、本人のその人らしさに着目して、問題解決をしていくと言うことが、大切になると思うのです。 

3)ロービジョンケアの基本姿勢
 ロービジョンケアを行う際の「基本姿勢」として、何が大切なのでしょうか。以下の点を心構えとして持つことが大事であると考えます。
 視覚障害はひとつの条件であって、総てではありません。ロービジョンケアを行ううえでは、その人らしさを大切にすることが大事なのです。つまり、目の前に現れたロービジョン児・者の生活者としての顔は様々です。だからこそ、その人の思いに寄り添い支援する。そして、目標が達せられた時の「人としての輝き」を共有する。ネガティブシンキング、ポジティブシンキングでもなく、背景を理解し、その人の想いを大切に受けとめ、同伴する。自己選択、自己決定を大切にすることが肝要です。 

4)障害を受けたときの本心
 「このままいったらどうなるんだろう・・・」、「仕事は大丈夫だろうか?・・・」。不安が不安を助長し、現実に取り組まず逡巡、諦めそうになったり、失望したり、落胆したりします。「自分の置かれている現状を見るのはちょっと・・・」、「あるがままに見たい、でも・・・」、「足りないものを認めたくない・・・」などなど。 

5)アクションプログラムーNOをYESにするアイテムー
 過去は過去、現在は現在です。できれば、NOと言われる現実をYESに転換したいわけです。
 そのためには、「アクションプログラム」を考える。その時の要点は今までの経験則から言えば以下の四点に集約されると考えています。
  ⅰ)協力者はいるのか?
  ⅱ)原則はあるのか?
  ⅲ)具体的な行動指針はあるのか? 
  ⅳ)行動期間を決めているか? 

6)自分の眼を諦めないー保有視覚活用を意識
 主体的に対処する(主人公になる)ためには何が必要か?まず、「自分の眼」を諦めてはいけない。「これだけしか見えない」と思うよりも「こんなにも見えているのか」ということに気づく。再び「見る」ことの楽しさを感じる。小さな一歩を大切にする。諦めないことで工夫が生まれるのです。
 自分の眼を諦めない上で大切なのが、保有視覚活用を意識することで、ロービジョンケアを進めていく上で大事な点です。
 「視力」とは何か?「視野」とは何だろう?視野の意味を本当に知っているのだろうか?生活視力や視野を考えたことがあるのか?コントラストのつけかたも・・・・。
 つまり、見えないことを気にするよりも、どのように見えているのかを知ることが大切で、見えにくさをどのように人に伝えているか?具体的に表現できるか?ができると、様々な工夫を生み出す余地が出てきます。 

《おわりに》
 『QOL(Quality of Life)』という言葉があります。「生命の質」と考えるのが、医学。「生活の質」と考えるのは、ロービジョンケア。「人生の質」と考えるのが、包括的リハビリテーションとしてのロービジョンケアであると思います。 医療のみでは、視覚障害者の悩みは問題解決はできません。包括的なリハビリテーションとしてのロービジョンケアを大切に育んでいく、そのためには多くの職種がその人らしさを大切に専門知識をもってサービスすることが大事です。NOをYESに転換するには、意識化が重要です。そして具体的なアクションプログラムを作成することが、ケアの根幹だと感じています。

 

【山田信也氏:略 歴】
    1961年10月31日 京都市生まれ
 (学歴)
    1987年 3月 日本社会事業大学社会福祉学部社会事業学科Ⅲ類卒業
    1996年 3月 九州芸術工科大学芸術工学研究科生活環境専攻中退
 (職歴)
    1987年 4月 国立福岡視力障害センター採用
    1999年 4月 国立函館視力障害センター配置転換
          福岡市地下鉄デザイン検討委員会委員(~2006年)
    2000年 4月 弘前大学医学部講師(~2005年 ロービジョン外来)
          日本ロービジョン学会理事就任 
    2002年 4月 福岡大学医学部公衆衛生学講座講師(実習担当)
    2004年 4月 東北大学医学部講師(~2006年 ロービジョン外来) 

【後記】
 6年前(2001年7月27日)、弘前大学に山田信也先生のロービジョン外来を見学に行ったことがあります。衝撃でした。机は丸机。同伴者も一緒に座る。一人に30分から60分掛けて一生懸命、患者さんの悩みを聞き出す。一緒に悩み、考える。解決出来ないことは次回までの宿題にする。遮光眼鏡の処方では、一緒にTVを観る。一緒に外を見る。一緒に廊下を歩く。。。。患者さんに「今日来て良かった」と思えることを、ひとつは感じてもらえるよう努力する。それまでの自分の外来が恥ずかしくなりました。
 そんな山田信也先生を一度、当院にお招きしたいと思っていました。この度初めて実現しました。講演は期待以上のものでした。単にロービジョンケアの技術論ではなく、心のケアなどというものでもなく、、、如何に患者さんに寄り添うかということの大切さを教わりました。医者になった時に意識していたことを、改めて教わりました。 

 

『山田信也先生の言葉から』(ネットで検索)
【医の原点】
 障害を持った人が病院にたどり着くまでに,どんな思いをするか。ひとりで来られる人もいますが,誰かにお願いしなければいけないこともある。そうした人を前にして「わあ,どうしよう?」ではなく,「いろんな思いをして来ているんだろうな」と,全部受け止めて癒していく。それが医の原点みたいな部分だと感じます。 

【コミュニケーションスキル】
 短い診療時間の中でも,本音を引き出す言葉というのがあります。そういうものをつかめたら,医療を志す人にとって大きなプラスになるし,患者さんも幸せです。 

【ロービジョンケアの可能性】
 黄斑変性や視神経萎縮の方で,中心暗点があっても周辺の視野が残っているような場合,本を読んだり,細かいものを見るのは苦手です。でも日常生活の中での歩行移動や作業はほとんど可能です。ところが,本人が「きちんと見てみよう」と思った時には中心に暗点がきて,そこだけ視野からスポンと抜けてしまい戸惑うわけです。そうした場合,訓練をすれば少し暗点をずらすような目の使い方ができるようになり,さほど不自由なくものを見ることができるようになってきます。
 光の明暗もわからないという方は,視覚的な情報よりも音の情報を使って,「交差点では自分と同じ方向の車の音がしたら横断しましょう」とか,「自分の進む側の音響信号が鳴ったと同時に出ましょう」という訓練をします。触覚を使ってものを判断したり,伝い歩きが可能なことを知ってもらい,杖を使って前の不安を取り除いて歩く訓練もします。
 タイプに応じた多様な訓練が可能です。仕事をしたいという人のために,技術訓練も可能です。コンピュータの画面を少し大きくすれば見えることがあり,拡大することで対応できます。それでも作業効率が落ちるということであれば音声を利用する方法もあります。パソコンの基本的な操作ができさえすれば,仕事を続けることも可能です。

 

*「自分でできるロービジョンケアWORKBOOK」
 自分の見え方や目の使い方を知ることで、ロービジョンの人の生活はもっと豊かになる! 自分でも簡単にできる眼球運動訓練の方法や、見やすい文房具、拡大鏡・単眼鏡、拡大 読書器の活用法なども解説。
 著者・発行元:山田信也(国立函館視力障害センター)
 大活字文庫 定価2940円

 

 

 

【新潟ロービジョン研究会2007】その1
  2007(平成19)年9月1日(土) 15時00分~18時45分
  済生会新潟第二病院 10階会議室    会費:1000円 

  特別講演~ 座長:張替涼子(新潟大学) 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
  「視覚障害リハビリテーション
         -ボランティア・パワーを集結した医療をめざしてー」 
     山田幸男(内科医 信楽園病院 視覚障害リハビリテーション外来)
  「ロービジョンケアを考える」
     山田信也(生活支援員、歩行訓練士;国立函館視力障害センター)

   討論会「眼科に期待すること、眼科が出来ること」
    司会 小野沢裕子(フリーアナウンサー) 安藤伸朗(眼科医)
    討論参加者  山田幸男(内科医) 山田信也(歩行訓練士)
          張替涼子(眼科医) 佐藤美恵子(視能訓練士)
          患者さん 会場全員

  機器展示 東海光学、ナイツ、タイムズコーポレーション、大活字、
       
おんでこ、新潟眼鏡院 

 2001年から毎年『新潟ロービジョン研究会』を開催しています。今年も9月に素晴らしい講演者に恵まれ、患者さん・家族・ボランティア・眼科医・視能訓練士・看護師・大学教員・盲学校教師・等、新潟県内外から100名を超える参加者で、8回目の研究会を盛大に行いました。報告『新潟ロービジョン研究会2007』(その1)山田幸男先生(信楽園病院)の特別講演の講演要約を紹介致します。
 

特別講演 1
「視覚障害リハビリテーション
       -ボランティア・パワーを集結した医療をめざしてー」 
   山田幸男(内科医 信楽園病院 視覚障害リハビリテーション外来)

【講演要約】
1.視覚障害者の自立のために、視覚障害リハビリテーション外来を開設
 内科医である私が、視覚障害者のリハビリに関わりを持つようになったのは、糖尿病で失明した35歳の患者さんの自殺を経験したことがきっかけだった。
 糖尿病で失明した患者さんは、眼科での治療は終了しても、内科の治療は終わらないことが少なくない。失明した患者さんへの対応は内科側でも必要となる。脳卒中の患者のように、視覚障害者にもリハビリテーションが行われなければならないと思ったが、糖尿病学会で埼玉の清水先生の講演を聞くまでリハビリテーションのあることを知らなかった。すぐに熊谷を訪ね、一週間泊めていただいた。その後、さらに全国の視覚障害リハビリを行っている施設を訪ね、一冊の本にまとめた。
 患者さんにアンケート調査してみると、家を離れることの不安、家族とともに暮らしたい等々、障害をもつ人こそ地域で暮らしながらリハビリテーションを受けたいと願っていることが判った。
 そこで、信楽園病院にリハビリテーション外来を開設することを検討した。開設には、リハビリテーションの必要性が知られていないことや、何からやるべきか見当がつかないこと、スタッフやリハビリの専門家が少ないこと、医療報酬がもらえないこと、事故を起こしたときの責任など様々な壁があった。しかし当時信楽園病院の院長だった平沢先生の「これは必要です」という応援もあり、1994年5月にようやく 視覚障害リハビリテーション外来が誕生した。
 外来日は毎月2回(12:30~17:00)、担当は、眼科医 2名、歩行・生活訓練士 1名、糖尿病内科医 1名、視能訓練士 1名。指導内容は、歩行訓練、ロービジョンケア、点字や音声パソコン指導、 こころのケア(グループセラピーも含む)、日常生活用具や 更生施設・援助制度の紹介、転倒予防教室、調理教室、化粧教室、拡大読書器・携帯電話の使用法の指導など。主な受診目的は、視覚的補助具の紹介・処方、白杖による歩行訓練、日常生活訓練、職業相談、音声パソコンなどであった。 

2.ボランティア・パワーを集結して、より良い診療に
 診療報酬がもらえない現在の医療体制の中で、視覚障害リハビリテーションをさらに発展させることは困難であった。そこで「ボランティア・パワー」に期待することにした。
 「ボランティア」について勉強した。そこで得られた結論は、「魅力のある、やりがいのあることを、まね事ではなく、オリジナルを含めて企画し、実行する。できないことは、全国にネットワークを広げ、全国の先生方のお力を借りる」こととした。 
 ボランティア・パワーのとくに関与の大きなものを次に紹介する。
 1)音声パソコン教室
 信楽園病院内に、「音声パソコン教室」を開設して12年が経った。当初は10名のコアメンバーを中心に始めた。週2回(水・土曜日)行い、毎回30~40人の参加者がある。楽しく、友達作りや心のケア、情報交換、ボランティア活動の場として利用してもらっている。昼食会も楽しいと好評。
 新たな発見があった。はじめは晴眼のボランティアが視覚障害者に教えていた。やがて視覚障害者同士で教えあい、そして視覚障害者が晴眼の肢体不自由者や高齢者に教えるようになった。先生も、生徒も、障害者。教わった人は、教える。障害を持たない人にはなかなか出来ないような忍耐強い教え方が障害を持つ人には出来る。何よりも「人の役に立つ」ということが、障害を持つ人のモチベーションとなった。これは、視覚障害を理解してもらう絶好の機会となった。
 視覚障害者のパソコン教室参加の目的は、パソコンを習うだけでなく、友達作り、情報交換、心のケアなど様々であった。特にパソコン教室が心のケアに役立っているか、アンケートしてみたところ、98%のひとが役立っていると回答してくれた。 
 「音声パソコン教室」の変遷 
  第1期(1995年6月~)ボランティアが視覚障害者に指導し、視覚障害者も視覚障害患者に指導。
  第2期(2000年10月~)視覚障害者が晴眼の肢体不自由者や高齢者に指導。
  第3期(2001年8月~)パソコン指導のほかに、「こころを病んでいる人」のこころを和らげ、癒す教室に。
  第4期(2006年1月~)エクセルも指導内容に含める。
  第5期(2007年6月~)調理・化粧教室、転倒予防教室も併設。 

 2)白杖・誘導歩行講習会
 白杖を使用している人のなかで、杖の使い方を教わった人は、わずかに42%しかいなかったため、講習会を始めた。
 講習会は、初めにお茶タイム、次いで講師によるレクチャー、そして歩行訓練、最後に意見交換という構成である。白杖歩行では一人の先生が一度に10人ほどの指導に当たるので、アシスタントが一つ一つの指示を伝達し、確認する。歩行訓練は、その後も、くり返し、指導し訓練しなければならないため、パソコン教室でも復習している。 

 3)立ち直りのきっかけ
 こころのケアは、何回も何回も相談にのり、勇気づけが必要。人手や時間のかかることなので、ボランティア・パワーに依存している。
 立ち直りのきっかけについて、アンケート調査した。様々な信楽園病院の関連行事(パソコン教室・視覚障害リハ外来・歩行講習会・グループセラピー・メーリングリスト・目の電話相談など)よりも「病院職員の一女性の対応」が一番大きな立ち直りのきっかけになった。彼女(小島さん)は当院の職員(売店)で、いつでも障害者と顔を合わすことができる立場にあることや、いつでも電話を受け取ることができる立場にあり、またすべての行事に参加しているので全員を把握しているうえ、「いのちの電話」でトレーニングを受けたことがあるため、親身になって相談にのり、すべての人から信頼されている。
 目のことで自殺を考えたことのある人は、失明した人で60%、ロービジョンの人で45%。ロービジョンの人で失明の不安を感じている人は、87%である。これまで自殺した人は3名であるが、視覚障害リハビリを開始してからは、皆無になった。  

3.さらに、新しい分野の開拓を
 眼が不自由になって運動量の減った人が70%であった。身長と体重から体型を評価するボディマス指数《BMI[体重(kg)/身長(m)二乗]》から算出すると、視覚障害者全体では、3割が肥満・3割が痩せであったが、男女で違いがあり、男性の場合は肥満が4割・痩せが1割弱、女性では肥満が2割・痩せが5割強であった。 視覚障害者は、運動不足・外出少ない(光に当たる機会少ない)・痩せ(女性)という点で、骨粗鬆症になる危険性が指摘される。さらに転倒しやすい、栄養の片寄りという因子が加わると、容易に骨折を来たすことが懸念される。こうしたことを背景に骨折の予防策として、運動療法・バランス体操(棒体操)→「骨粗しょう症・転倒予防教室」、栄養の片寄り→「栄養教室」を開始した。「メーキャップ教室」も大盛況である。

 最後に:ここまでやってこれたのは、県内外の先生方や全国の更生施設・障害者支援グループ(タートルの会など)の先生方のお力によるものです。あらためて感謝申し上げます。

【山田幸男氏:略 歴】
  1967年 新潟大学医学部卒業
  1968年 新潟大学医学部第一内科 内分泌・代謝班に所属
  1979年  信楽園病院に赴任 糖尿病の診療に従事
  2005年  新潟県保健衛生センター
         現在に至る

 

《山田先生「視覚障害リハビリテーション」の歩み》 (ネットから検索)
・1989年 7月 視覚障害者のリハビリテーション用テキスト出版「視覚障害者のリハビリテーション、特に中途視覚障害者の日常生活のために」
・1993年12月 新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会結成
・1994年 5月 中途視覚障害者のリハビリテーション外来開設
・1994年 9月 第1回中途視覚障害者のリハビリテーション講演会開催(年1回)
・1995年 3月 音声パソコン教室を信楽園病院に開設
・1995年11月 西川町に音声パソコン教室開設
・1996年 3月 小千谷市(点とう虫の会)、6月柏崎市、10月新発田市(フィンゲルの会)に音声パソコン教室開設
・1996年 5月 誘導歩行の講習会開始(月1回)
・1996年 9月 視覚障害者にたずさわるボランティアのための講習会開催(年4回)
・1997年 6月 誘導歩行学習用ビデオ作成「目の不自由な人の“目”となってください」
・1997年 8月 第1回学生のためのサマースクール開催“もっと目の不自由な人を知ってもらうために”(第1回)
・1997年12月 県内全小・中・高校に誘導歩行学習用ビデオ配布完了
・1998年 4月 上越市に音声パソコン教室開設
・1998年 5月 視覚障害者パソコンワークセンターの指定を受ける。(県身体障害者団体連合会)
・1998年 7月 誘導歩行の訪問指導開始
・1998年 9月 長岡市にパソコン教室開設(現在アットホームの会)
         誘導歩行学習用冊子「目の不自由な人の“目”となってください」作成
・1998年10月 第1回音声パソコンとコミュニケーション講習会開催(年1回)
         誘導歩行のポスターとしおり作成
・1999年 9月 白杖歩行の講習会開始(月1回)
・2000年 2月 目の電話相談室開設
・2000年 3月 電子メール(メーリングリスト)による交流開始
・2000年 4月 第1回視覚障害「こころのケア」セミナー(年1回)
         情報ダイアルサービス開始
         グループセラピー開始(月1回)
・2000年10月 視覚障害リハビリテーション外来にカウンセリング・コーナーを併設
         視覚障害者による脳卒中患者および高齢者のパソコン教室開設
         ホームページ開設
・2001年 9月 巻町に音声パソコン教室開設(現在すずらんの会)
・2001年10月 十日町市に音声パソコン教室開設(現在にこにこアットマークの会)
・2002年 6月 加茂市に音声パソコン教室開設(現在パソコンらくらく)
・2002年10月 第1回拡大読書器などの光学的補助具と音声パソコンの進歩開催
・2002年11月 拡大読書器教室開設
・2004年 2月 長野県安曇野三郷村に音声パソコン教室開設(現在にこにこ)
・2004年 5月 携帯電話講習会開催 携帯電話教室開設
・2005年 2月 誘導歩行講習会プログラムを作成、規定技術の習得者に【修了証書】を発行
・2005年 9月「視覚障害者の初めてのパソコン教室」出版
・2006年 5月「視覚障害リハビリテーション外来」「パソコン教室」を、信楽園病院から有明児童センター2Fに移転
・2006年 9月「特定非営利活動法人障害者自立支援センターオアシス」を設立
・2006年11月「白杖・誘導歩行講習会」にコミュニケーションの場「喫茶オアシス」を提供 

 もっと知りたい方は、下記を参照下さい。
 1)夢かける…目の不自由な人のための情報局
 http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/index.html
 「新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会」
 「障害者自立支援センターオアシス」 

 2)リハビリテーション – 自立は心のケアから
 ユニバーサルネット・コミュニティー(ゆうゆうゆう)2005年7月26日掲載
 http://www.u-x3.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=43 

 

【後記】
 

 尊敬している山田幸男先生に講演して頂きました。期待通りの、いや期待以上の素晴らしい講演でした。
 20年前、受け持ちの失明した糖尿病患者さんの自殺から、目のリハビリテーションを目指します。しかし当時は目のリハビリは一般的でなく、手探りでの模索から創めます。そこで全国のいろいろな所に見学に行かれたとのことでした。「新潟でやらなくても、こちらへ患者さんを紹介してくれればいいんですよ」という施設も多かったそうです。でも患者さんは地元でリハビリを受けたいんだということ(そして悔しさ)を胸に、必死で自分の病院に内科医の山田先生が「目のリハビリ外来」を創設されましたと伺ったことがあります。
 それだけでも素晴らしい業績ですが、先生はそれに止まらず新潟県内そして県外にも「視覚障害者のためのパソコン教室」を各地に作り、長年に渡り「白杖&誘導歩行訓練教室」を開催し、一般の子供と視覚障害者の触れ合いを目的とした「サマースクール」を毎年夏に開催等々、事業を拡大してきました。その功績の一部は、山田先生「視覚障害リハビリテーション」の歩みにまとめました(上記)。
 講演の最中に「新潟は遅れている、新潟はまだまだなので、」と何度も繰り返されました。「まだ遅れていると思う」ことが先生のエネルギー源です。確かに患者さんからすれば、まだまだ満足できない状況ではあります。でも今の新潟の「目のリハビリテーション」のレベルは(山田先生のお陰で)、全国でも有数な先進県ではないかと私は思います(この点が山田先生の凄さと、私の至らないところの差だと思います)。あくまでも「患者さんの視点に立つ」ことを学びました。
 現実には報酬の対象となりにくいロービジョン外来を創設・維持することは大変な困難を伴います。それをボランティアの方々の協力を得ることで解決してきた道のりに感服です。常々、どうして山田先生の周りには人が集まるのか不思議でしたが、その秘訣を初めて伺うことが出来ました。「魅力のある、やりがいのあることを、まね事ではなく、オリジナルを含めて企画し、実行する」。なるほどと合点がいきました。やはり山田先生は「ただもの」ではありませんでした。
 内科医であることから、以前から独特の視点で取り組みを展開されていました。本来体内時計は25時間にセットされているといいます。起床時に視覚的に明るい光が入ることにより、体内時計が24時間に調整されます。でも視覚障害者はこれがうまくいかないことが多く、夜更かし勝ちになり不眠を訴える方が多いことを専門の内分泌の知識から松果体との関連で研究されました。今回は骨折との関係を運動量とBMIを用いて研究され、運動療法・バランス体操(棒体操)→「骨粗しょう症・転倒予防教室」、栄養の片寄り→「栄養教室」を開始し、さらに「メーキャップ教室」まで手を伸ばしておられます。凄いです。次はどんな展開になるのでしょう。
 山田幸男先生のパワーと迫力に圧倒された50分でした。

2007年7月18日

報告:第137回(2007‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』 
 日時:平成19年7月18日(水) 16:30 ~ 18:00
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

1)「住みやすい社会」 
  石黒知頼(いしぐろ ともより)中学部2年生
【講演要旨】
 僕は困っています。そこで社会に対して二つのお願いがあります。「電化製品の音声化」と「歩きやすい社会」ということです。
 一つめの「電化製品の音声化」についてです。DVDを購入したのですが、画面が判りませんので、「メニュー」からの操作が出来ません。自分では何もできず、ボタンを押す回数で操作を覚えました。「音声があるといいのになあ」といつも思います。
 二つめは「歩きやすい社会」についてです。歩いていると電柱にぶつかったり、道ばたには蓋のついていない排水溝があったり、点字ブロック上には車がとめてあったりと、視覚障害者にとっては不便な状況がかなりあります。電柱をなくす(地下に設置する)、マンホールの蓋は閉める、点字ブロック上には物を置かないなど留意してもらうと私たちでも歩ける社会になります。
 こんな工夫をしてもらうだけで、人の手を借りなくても自分でやれるようになります。こうしたことをこれからも、声を出して訴えていきたいと思います。  

【自己紹介】
 将棋が大好きです。そんなに強くありませんが、将棋の番組も好きです。学校で好きな教科は英語です。今年の体育祭では実行委員として、「競技上の注意」を発表しました。緊張しましたが間違いなくしっかりと言えました。 

【先生から】
 6月22日に行われた関東甲信越地区盲学校弁論大会(*)に、学校代表として参加しました。英語、パソコンが得意です。学校では毎日英語を使って会話しています。 

【全国盲学校弁論大会】
 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
 新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。

*関東甲信越地区盲学校弁論大会
 平成19年6月22日(金)、「かながわ労働プラザ」、横浜訓盲学院主管 持ち時間7分間、原稿なし、マイクなしの条件の下、12校13名の弁士がそれぞれの体験や思いをこめて熱弁を繰り広げた。
 

2)「本当の便利さとは」
  近山朱里(ちかやま あかり) 中学部2年生
【講演要旨】
 視覚障害者にも使いやすい商品は確かに開発されてきています。シャンプー(ギザギザがついている)とリンスの区別、携帯電話のナビゲーション機能などはとても便利です。でも、まだまだ使いにくいものが多いです。画面でのタッチパネルや、ボタンが小さいことなど・・・。公共のトイレも場所によってボタン式だったり、レバーだったりです。
 3年前我が家で、新しい車を購入しました。でもこの車のラジオ等の操作は、タッチパネルなので使えませんでした。自分で出来なければ、誰かに頼まなければなりません。運転中に言われたら困るだろうなと思います。 修学旅行に行った時、トイレに入りましたが操作が出来ませんでした。
 どんどん便利になっているとはよく聞きますが、「本当の意味での便利さ」とはどういうことなのでしょう。今の商品はデザインが優先されています。もちろんお洒落なものは作って欲しいです。でも私たちにも使えるものを作って欲しいのです。
 これからも、こうすればよくなる、こうすれば使えるようになるということを、提案していきたいと思います。 

【自己紹介】
 6月23日に行われた県音楽コンクールピアノ部門に、2年ぶりに出場しました。 現在は毎日弥彦から通っています。よく見る番組は「どんど晴れ」です。 

【先生から】
 いつもにこにこしている子です。中学部では紅一点の存在ですが、がんばっています。昨年はヘレンケラー記念音楽コンクール(*)において大人も混じった中で、ピアノ部門1位を獲得しました。 

*ヘレン・ケラー記念音楽コンクール
 東日本及び西日本ヘレン・ケラー財団を統括する日本ヘレン・ケラー協会などの主催で1949年(昭和24年)12月13日、全国盲学生音楽コンクールとして、始まりました。盲学校音楽教育の実態を知ってもらい音楽家を志す盲学生の登竜門にするのが目的です。第6回(1954年)から東京ヘレン・ケラー協会のみの主催となって、「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、第51回(2001年)から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大し、現在の名称に改めました。
 この間、第6回に小学4年でデビューしたバイオリンの和波孝さん、第17回に同じ小学4年で絶賛されたチェンバロなど鍵盤楽器演奏家の武久源造(たけひさ・げんぞう)さんら、国際的に活躍する音楽家を輩出しています。また、このコンクールで得た自信を、その後の道に生かして音楽とは別な分野で優れた業績を挙げた人も少なくありません。

「第56回ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」
(主催;東京ヘレン・ケラー協会、共催:JT、後援;文部科学省、毎日新聞社など) 
 平成18年11月25日 JTホールアフィニス(東京都港区)
 【ピアノ中高大学の部】
  1位 近山朱里(新潟県立新潟盲・中1)
  2位 勝島佑太(武蔵野音大4年)
  3位 小島怜(筑波大付属盲・専2)
 

3)「障害者生活10年を考える」 
  櫻井孝志(さくらい たかし)高等部普通科3年生
【講演要旨】
 視覚障害者になってから、今年でちょうど10年となります。この間に感じたこと、考えたことなどをお話します。いろいろと感じてくださるとうれしいです。
 生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。5年生から毎日2時間だけ登校しました。「本当にこの授業を受けていいのだろうか」「私のために授業が遅れてしまわないだろうか」。周囲の人は、とても私に気を遣ってくれました。でもそれが苦痛でした。特別扱いをしないで欲しいと思いました。 会津若松への移動授業の時、私の手を繋いでくれていた同級生が「誰か櫻井君の手を引いてよ」と言った一言を、今でもよく覚えています。
 中学から盲学校に通っています。小学校時代に感じていたような罪悪感はなくなりましたが、井の中の蛙にならないか、盲学校にいることは社会への逃避にならないかという思いがあります。健常者の行っているイベントによく参加します。こうした交流は必要不可欠と思っています。
 自分と同じような障害を持つ環境にいることは住みやすいのですが、傷つくことを覚悟で健常者の世界に飛び出していきたいと思っています。 

【自己紹介】
 好きな教科は歴史と古典です。3年前にも済生会病院で「ヘレンケラーを目指して」というものを紹介させていただいたことがあります。
 今年の体育祭では、紅組の団長を務めました。例年になく緊張して本番を迎えました。今年の紅組のテーマは「風林火山」でした。その心意気のもと、団員全員の心を一つにして闘い、応援と競技でダブル優勝を果たすことが出来ました。 

【先生から】
 歴史に関する感心と知識はかなりのものです。高校3年生ということでさまざまな場面で活躍しています。今年度の体育祭では紅組の団長を務め、すばらしいリーダーシップを発揮して競技、応援とも優勝を勝ち取りました。  

 

【後 記】
 2001年から毎年、当院にて新潟盲学校の生徒による弁論大会を開催し、今回で7回目になります。人の役に立つことをしたい、人の手を借りずにやっていけるような社会に変えていきたいという真摯な訴えに、毎回感動しています。
 石黒知頼君は背筋をしっかり伸ばして、大きな声で発表してくれました。流暢な英語の発音にびっくりでした。近山朱里さんは、明るくチャーミングな性格が印象的でした。櫻井孝志君は、3年前に続いて2回目の登場でした。成長した姿を見せてくれました。
 今年は新潟盲学校創立100周年にあたります。これまでの道のりは決して平坦ではなかったと思いますが、まっすぐに成長している生徒の姿を拝見し、素晴らしい教育がなされていることを実感しています。ますますの発展を期待します。 

2007年6月13日

 演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 
                  黄斑症患者としての11年』
 講師:関 恒子(患者;松本市)
  日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

【講演要旨】
ⅰ)はじめに
 病歴:1996年1月左眼の視野の中心に小さな歪みが出現し、強度近視による血管新生黄斑症と診断された。同年11月には右眼にも同様な症状が出現し、左眼は強膜短縮黄斑移動術(1997年)、左眼は360度網膜切開黄斑転移術(1999年)を施行。結局両眼合わせて入院を5回、手術を9回経験した。その後香港で光線力学的療法(PDT)を受け、更にその後ステロイド治療も受けた。現在は、左眼矯正視力は現在0.5であるが、中心部にはドーナツ型の暗点があり、その中心は歪んで見える。有効視野は狭く生活には不自由である。右眼は矯正視力0.4で、暗順応、色覚が悪く,羞明等問題はあるが、生活には役立っている。現在右眼の視野狭窄の進行が不安である。
 発病からの11年を振り返ると、医療体験の中からそして家族から得てきたもの、あるいは視力障害を持ったために得た新たな感動等が思い起こされ、私には失ったものより得たものの方が多いように思われる。 

ⅱ)医療体験の中から
 私が気付いた最初の異変は左眼の小さな歪みだったが、黄斑変性症について何の知識もなかったため、歪みが大きくなり新聞の文字が読み難くなってから、コンタクトレンズのことでお世話になっていた開業医のN先生を訪れた。そこで視力が0.1以下に低下するかもしれないと聞いた時は信じられなかった。そして紹介された地元の大学病院で更に検査したが、確立した治療法がなく、視力低下を回復することができないと聞き、落胆した。 

 経過観察する中、いよいよ視力が0.3程に低下した時点で新生血管抜去の手術が提案されたが、その病院では当時まだ3例しか経験がなく、視力の改善も望めないという説明から私は手術を受けることを躊躇した。N先生は初診の日から行く度に「心配なことがあったらいつでも相談に来て下さい」と言ってくれていたので、私はN先生を訪れ、手術について相談した。N先生は私の話を聞いて、新たに大阪の大学病院で診てもらう手配を整えてくれ、私はそこで手術について相談することになった。 

 ところが、大阪の大学では新生血管抜去の手術ではなく、新しい手術を勧められた。視力改善が望める新しい手術と聞き、私はその手術に期待して即座に承諾して地元に帰った。早速N先生に報告すると、それはどんな手術かと尋ねられたが、その時になって私は「視力改善が望める新しい手術」としか聞いて来なかったことに気付いた。網膜の新しい手術についてはN 先生も情報がなく、とにかく情報を集めようということになり、間もなく米国の雑誌に網膜移動術の報告を見つけたのだが、その手術の結果は私の期待とはかけ離れたものだった。「受けようとしている手術がどんな手術か確かめてから受けるように」というN先生のアドバイスを受けて、私は大阪の病院に説明を求めた。 

 結局私は視力回復を願い、手術を受ける決心をした。私と同様に説明を受けたN先生は、私のために他の先生方の意見も集めてくれ、心配しながらも私の決心に同意してくれた。 

 新しい手術には危険が大きいけれど、視力改善の可能性に賭けることを私は決断した。それは何の治療も受けずにいることの方が私には遥かに辛かったからである。視機能の低下を自覚しながら、何の治療も受けられずに経過観察だけを行っていた1年間は、発症から現在までの11年間で私が最も辛かった時期であった。 

 手術を決意するまでの過程で、惜しみなくN先生が私を援助してくれたことから、私は精神的にも支えられ、現在に至ったことを私は大変感謝している。N先生からは「患者は、治療について説明を充分聞くこと、それを理解する努力をすること、そして最後の決定は自分自身ですべきであること」を学んだように思う。 

 医学にも限界がある。患者は自分の問題を全て医学に負わせるのではなく、自分の人生に係わる重大な問題の決定には、自ら参加しなくてはならないと思う。自分で決定したことには自分にも責任が生ずる。「決定に対する自己の責任」の認識が、例え結果が悪くてもそれを受け入れ、その後の人生を前向きに生きることができることに繋がり、又医療者側と患者が良好な関係を保つことにも繋がると思う。 

 私の手術の結果は全てが期待通りだったとは言えない。けれども、治療の存在が私に希望を与え、治療が受けられたことで当時の私が救われたことは確かであった。私は自分の決断を後悔したことはない。 

ⅲ)家族と共に
 両眼に発症したことが分かり、将来へ大きな不安を感じた頃のことである。「命がなくなるわけではないから、いいじゃないか」と言う夫の言葉はいかにも気軽で、「自分の眼は命より大切なものだ」と信じていた私には意外だった。しかし夫の書斎に目の病気に関する本が沢山積み重なっているのを見て夫の心の内が察せられた。 

 私には成人した子供、一男一女がいる。電話で私の窮状を訴えると、2人からも「目は悪くなっても死にはしないから大丈夫」と夫と同じような言葉が返ってきて驚いた。更に長男から「全盲の人でも立派に市民生活をしているよ」と言われた時、私はようやく気付いた。 

 それまでの私は「見えなくなるかもしれない」という不安に支配され、暗い将来ばかりに目を向けていたが、「自分はまだ見えている」という明るい側面に目を向けることができるようになったのは、その時からだった。これを契機にポジティブな考え方ができるようになり、眼が悪くなったために「できなくなったこと」を数えるより、「まだできること」を楽しみ、新たな喜びと感動を味わうことができるようになったのである。私の家族がしてくれた最大のサポートがこのように私にターニングポイントを与えてくれたことであったと思う。 

 私の眼の病気は、家族にとってもショッキングなことであったに違いないが、家族が動揺を見せず、常に私を支える側でいてくれたことは有り難いことだった。家族が病気を理解し、状態を敏感に察知して何気なくサポートしてくれたことにも感謝している。 

ⅳ)「見たいものが見えない」「見ようとしなければ見えない」
 私のように障害認定を受けるほどの障害を持たない者には、外からの援助は少ないので、患者自身が積極的に自分の問題を解決し、QOLの向上を図る必要がある。黄斑変性症になると、環境によって見え方が左右されるので、自分の見え方をよくするためにどんな環境が最適であるかを考え、可能な限り環境を整えることが大切である。 

 黄斑変性症患者にとって「見ようとする意識」と「見るための努力」が大切な要素となる。病気のために中心視野が見え難くなると、周辺のどうでもいい物は見えても見たい物が見え難くなる。今まで何の意識もなく見えていたのに、見ようと意識して視線をずらさないと見たい物が見えてこない。見たいという意識なしには物は見えてこないのである。そして、足りない視力を補うために面倒がらずに道具を使い、それを上手に使いこなすための工夫・努力も必要である。 こうした努力をして眼に見えてくる映像は、以前より鮮明に輝きを増し、多くの感動を与えてくれる。 

ⅴ)終わりに
 私の右眼は手術後近見視力がかなり改善した。しかし又悪くなるかもしれないという不安がある。今見えるうちにこの視力を最大限に活用しようと、5年前から地元の大学でドイツ文学を学んでいる。手術してくれた先生に感謝しながら、文字を読めることの喜びを噛み締めている。 これも、私が視力障害を持ったからこそ味わう喜びであり、新たに知った世界と新たな感動の一つである。 

 最後にドイツ文学の中からゲーテ(1749~1832)の詩劇『ファウスト』を簡単に紹介したい。
 学問を究め尽くした結果知り得たことは、「何も知ることができない」ということだけだったと、失望した老博士ファウストのところに、悪魔メフィストフェレスが現れ、魂を賭けた契約をする。それは、悪魔の助けによってこの世のあらゆる歓楽を味わわせてもらう代わり、満足の余り「時よ、とまれ。お前は実に美しい!」と言ったら、死んで魂を悪魔に渡すというもであった。 

 早速博士は若返らせてもらい、美しい若い娘と恋をする。しかし、その恋に安住できず娘を捨て、あらゆる享楽と冒険の遍歴を重ねる。そして人のために生きたいと願うようになた時、灰色の女「憂愁」に息を吹きかけられ、失明してしまう。だが失明した博士の心の中の火は燃え上がり、輝きを増して、理想の国家建設の意欲に燃える。 

 メフィストは博士の墓穴を掘らせていた。目が見えない博士はその工事の音を聞いて、理想の美しい国ができ上がることを想像して思わず、「時よ、とまれ。……!」と言いつつ倒れる。しかしその魂は悪魔に渡ることなく、天国へと導かれる。 

 失明後の博士は、人のために生きる意欲に燃え、それまでこの世のどんな歓楽にも満足することがなかったのに、見えないために墓穴工事の音を聞いて自分の希求の完結を心の中に見て、最高の時を味わうことができたのである。 

 私は、「心の目」が、きっと幸せをつかんでくれることを信じている。
 

【略 歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の新生血管黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』(監約:田野保雄、約:関恒子;文光堂)
 松本市在住。

 

【後 記】
 難治な疾患の治療に立ち向かった自らの経験を振り返り、医師との関係の持ち方、患者の自己責任、家族の支え、ゲーテのファウスト等々についてお話されました。静かなそして誠実な性格そのままの話し振りで、集った人々は皆、関さんの世界に引き込まれました。
 以下は、関さんからお聞きし印象に残っているので紹介致します。
 「『見たい物しか見えない』これが今の私の見え方を最も端的に表す言葉です。しかし、充分な視力があって、あらゆる物が見えていても、心に残る物はどれだけあるでしょうか?どんな人も見ようとする心と、心のあり方によって見えてくる物や、その姿形も違ってくると思います。人にとって大切なものは心であり、心のあり方だと思います。」

2007年1月14日

  演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
  講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
   日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要約】
1) 新潟県立高田盲学校(盲学校として日本で3番目に創立)の閉校
 盲学校は、全国に72校、在籍者は約3700名である。全国の盲学校の生徒は昭和45年から50年がピークで、毎年70名以上減少している。ここ2~3年の減少は著しく、特に大人の生徒数が減少している。 

 障害のある子どもの教育について、障害の種類や程度に応じ特別の場で指導を行う「特殊教育」から、通常の学級に在籍するLD・ADHD・高機能自閉症の児童生徒も含め、障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換が提言された(平成17年12月8日中央教育審議会)。障害のある子どもの教育にとって、戦後60年を節目とする大きな転換である。 

  盲学校として日本で3番目に創立された新潟県立高田盲学校は、生徒数の減少の影響もあり、平成18年3月に118年の歴史を閉じた。 高田盲学校を創始し、視覚障がい者教育に生涯を捧げた先覚者、眼科医・大森隆碩の偉業を紹介し、その功績を思い起こしてみたい。 

2) 明治時代の視覚障害者
 明治11年(1978年)明治天皇は巡幸で新潟県を訪れた際、新潟に盲人が多いと申され、御下賜金千円を賜った。さらに翌明治12年(1879年)、恩賜衛生資金として一万円を賜れた、新潟県では無料で眼科検診が行われた。明治18年(1885年)内務省通達11号による各府県の鍼灸取締規則など医療制度の近代化に対応して、明治23年(1890年)ごろ鍼按講習会・盲人教育界が出現した。 

 新潟県では、明治18年(1885年)新潟で関口寿昌が「盲人教育会」(後の新潟盲学校)、明治20年(1887年)高田で大森隆碩が「盲人矯風研技会」、明治38年(1905年)長岡で金子徳十郎は「長岡盲唖学校」を設立。 

3) 隆碩の生い立ちと略歴
 弘化3年(1846年)大森隆碩は、高田藩眼科医、大森隆庵の長男として生まれる。藩政立て直し策をめぐって藩主の怒りを買い、十代半ばで脱藩。明治維新前後の激動期、隆碩は江戸や横浜で時代の風を存分に浴びた。ヘボン式ローマ字つづりで知られる医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。元治元年(1864年)18歳で高田で眼科医開業。戊辰戦争で杉本直形(2代目校長)と治療に当たる。明治11年(1878年)医事会、明治16年(1883年)高田衛生会を設立する。明治18年(1885年) 39歳のとき視覚障害者となる。

 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)日本で3番目となる訓矇学校設立。当初、丸山謹静ら盲人の方々が設立しようとしていたのは、按摩などの技術を高めることで、いまで言えばテクノスクール。しかし、隆碩は技術習得だけではだめ、人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養をつんで教育しなければならないと主張。技術学校ではなく、本格的な学校設立を目指した。 

 「心事末ダ必ズシモ盲セズ」~「視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という隆碩の信条である。学校経営は厳しかった。私財を投じた盲学校の運営は綱渡りの連続。『炭を買う金がない』と学校から連絡があると、妻が着物を手に質屋に走る、、。

 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。病気の隆碩に代わり次女ミツ(当時18歳)が祝辞を述べた。ミツは後に東京盲学校の教師となる。隆碩は、社会事業(女子教育、地域医療)にも活躍した。

 明治36年(1903年)療養先の東京で没。 

4) 隆碩の盲学校創設と新潟県立高田盲学校
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
 *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。 組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。
 明治24年(1891年)校名変更 「私立訓矇学校」。
 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。
 大正4年(1915年)校名変更 「私立高田盲学校」
 大正11年(1922年) 県内4校の再編・県立移管。
 昭和24年(1949年) 「県立高田盲学校」
 平成18年(2006年)3月 「県立高田盲学校」閉校。 

 1887年に創設され、1949年県に移管された高田盲学校の歴史は、人間味にあふれている。118年受け継がれてきた建学の理念は、郷土の貴重な遺産である。

5) 隆碩の残したもの
【訓矇学校】
 当時の多くの盲亜学校が手に職を与える職業教育にとどまっていたが、一般教養を培うことの大切さを強調した。盲は肉体の盲、矇は心の盲。まず心の矇を啓いて後に教育するべきと考え、校名を訓矇学校とした。
【単独校】
 日本での初期の盲学校は盲亜学校として誕生した。しかし隆碩は心理学的に、人格形成の上で両者は同一でないと考え、聾唖者の入学を断り、盲人のみを対象とした学校とした。
【研究機関】
 鍼灸按摩以外の職業分野の研究を重ねた。また指導法についても熱心に取り組んだ。早期から点字教育を行った。

 

【小西明氏 略歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校
 1995年 新潟県立高田盲学校
 1997年 新潟県立教育センター
 2002年 新潟県立高田盲学校 校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校 校長 

【参考】
1)小西 明:上越教育大学障害児教育実践センター紀要.第12巻.57-59.平成18年3月
2)石田誠夫(眼科医、新潟県上越市)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/Isida.htm
 祖父も父も、この高田盲学校をこよなく愛しておりました。、、(途中略)、、、、(祖父は)眼科医である隆碩先生の「視覚障害者を社会に復帰させよう」という心意気を子供の頃より感じ取り、この地に戻ることにより、盲学校の校医として、その伝統を引き継ぐことになったのではないでしょうか。
3)市川信夫(高田盲学校、元教員)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/itikawa-kouen.htm
4)新潟日報:平成18年3月18日(土)日報抄
 全国で三番目に古い歴史を持つ上越市の高田盲学校が最後の卒業式を行った。寂しい。学校は新潟盲学校に統合される。明治憲法よりも早く、雪深い地方で先人が掲げた盲人教育への熱い思いは、しっかりと受け継いでいきたい(後略)。
****************************** 

【後記】
 雪深い新潟の高田に、どうして全国で三番目に古い盲学校が設立できたのか長い間疑問でした。今回のお話で大森隆碩の足跡を知るにつけ、郷土の先人の偉業に感嘆し、先見の明に心打たれます。
 偶然にも、神戸盲学校(現在の兵庫県立盲学校)創設者である「左近允孝之進(さこんじょう こうのしん)」の伝記を読む機会を得ました(注)。
 大森隆碩と左近允孝之進 同じ頃に自らも視覚障害者であった二人に交流が無かったようです。しかし視覚障がい者教育に理解の無い周囲の反対に遭いながらも、盲学校を職業訓練学校としてではなく人間教育の場と考え、貧乏しながらも設立まで成し遂げる姿はそっくりでした。第一回の卒業式に、健康の理由で参加出来ないところまで一緒でした。
 多くの盲学校がこのような歴史を持ちながら今日に至ったことを、改めて噛締めています。今日、私たちが忘れてならないのは、大森先生の残した「心事未ダ盲セズ」という障害者に対する深い思いやりの心、暖かい気持ちかもしれません。福祉制度の充実も大事ですが、この精神を考える機会を今後も持ち続けたいと思います。 

 注:「見はてぬ夢を」視覚障害者の新時代を築いた左近允孝之進の生涯 
    山本優子著(2005年6月20日発行 燦葉出版社)
 

【附:日本&世界の視覚障がい者関連年表】
 *1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院設立(世界最初の盲学校)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る。
 *1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767~1841)が12点式点字等を考案。
 *1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828~1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
  *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。
 *1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866~1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる。
 *明治34年(1901年)石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
 *1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
 *明治38年(1905年)左近允孝之進、神戸に六光社を設立、わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊。
 *明治43年(1910年)東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。
 *1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan’s)を設立、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始。
 *大正5年(1916年)石原忍(1879~1963年。東大医学部眼科学教授)、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発。
 *大正9年(1920年) 新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(現在の新潟県点字図書館の前身)。
 *同年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年~「点字毎日」)を創刊。
 大正12年(1923年) 「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離)
 *昭和10年(1935年)10月 岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。
 *1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889~1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告。
 *1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
 *1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
 *昭和33年(1958年) 「角膜移植に関する法律」公布、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる。
 *昭和38年(1963年)6月 厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示、同年10月に慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクの三か所がそれぞれ認可される。
 *
1968年、米国「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers ActABA)成立。
 *昭和45年(1970年)6月 市橋正晴(1946~1997.先天弱視;1996年株式会社大活字創立)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足。
 *昭和51年(1976年)9月 社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
 *昭和54年(1979年) 7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設。
 *昭和58年(1983年) 高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」発売。
 *平成4年(1992年)5月 「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)活動を開始(正式発足、1994年11月)
 *平成12年(2000年)4月 日本ロービジョン学会創設。