勉強会報告

2016年9月10日

報告:第246回(16-08)済生会新潟第二病院眼科勉強会  岸 博実
 演題:京都ライトハウス創立者・鳥居篤治郎が抱いた絶望と希望とは
 講師:岸 博実(京都府宇治市)
  日時:平成28年08月10日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要約】
 「とりい とくじろう。なんだかお侍さんのような感じの、この名前、あなたは聞いたことがあるでしょうか」――これは、拙作「ぼっちゃんの夢-とりい・とくじろう物語-」の冒頭です。〈鳥居篤治郎〉がこの世を去ったのは1970年でした。すでに半世紀近く経ています。名前を知る人も少なくなりつつあります。私も、実際にお会いしたことはないのです。 

 しかし、京都では、京都府立盲学校の副校長の任を果たし、京都ライトハウスを創立した先達として今も思慕されています。京都市名誉市民として顕彰もされました。身体障害者福祉法の実現を求める運動に尽力したこと、日本ライトハウスの創設者・岩橋武夫を継いで日本盲人会連合の会長となったこと、ヘレン・ケラーの3回目の来日を準備してホスト役を担ったこと、これらが主な足跡です。 

 私は、鳥居篤治郎の著書『すてびやく』(京都北部の方言で「ボランティア」に相当する語)などに収録されていない彼の文章-福祉・教育・点字・理療に関する論考、随想・手紙・日記や挨拶文など-を探し出し、集める作業に取り組んでいます。これまでに「様々なメディアに掲載された後、そのまま埋もれてきた」文章がA4用紙で250枚分ほど見つかっています。発掘をさらに徹底して、鳥居全集を編むことを企図していますが、どこまで迫れるでしょうか。まだまだ道通しです。それはともあれ、文章を通して彼の人柄や業績に近づくにつれ、1秒でもいいから同じ職場でともに働きたかったという思いを募らせています。一人でも多くの方に彼の実像を伝えたいと思うようにもなりました。 

 そこで、まずは、小学生や中学生を対象にできるだけ等身大の鳥居を、易しい言葉で伝えたいと、自費出版してみたのが伝記『ぼっちゃんの夢-とりい・とくじろう物語-』でした。本文わずか12ページのこの冊子を縦糸に、いくつかの横糸を添えてお話しします。
1 ニックネーム<ぼっちゃん>は、幼少の頃からの愛称ではなく、青年期に親交を結んだエロシェンコが名付け親だったようです。 

2 京都の北部・大江山の麓で生まれた<ぼっちゃん>は、思いがけない眼病によって幼児期に失明しました。家族の愛情に包まれて育ちますが、特に父親の「目が悪いから、家の外にも出すまい、なんでも代わりにしてやろうというのではなく、まず、どこへでも連れ出す」という子育ての方針が、体験を通じた外界認識を豊かに養い、青年期以降の探究心や行動力の基礎を培いました。 

3 <ぼっちゃん>の就学は、一般の子よりも遅れましたが、京都盲唖院や東京盲学校で、普通教科や英語・点字、文学・理療を学びました。京都時代すでに<盲界の改革者たらん>と訴える鋭さを発揮し、東京時代にはロシアから来日した盲目のエロシェンコやハワイから訪れたアレキサンダー女史などとの出会いを通じてエスペラントを学び、世界を意識するようになりました。新宿・中村屋を舞台に、文人や画家との交友も重ねました。 

4 東京盲学校を終えた大正期には、幼稚部もある理想的な「日本盲学校」づくりを構想して募金に奔走したり、眼の見えない子のために点字の定期雑誌『ヒカリノ ソノ』を発行したりしました。そのエネルギーの根底には「新しき本を買い来てこの本がみな読めたらと匂いかぎおり」と歌わねばならなかった少年期の絶望感に似た悲哀がありました、 

5 昭和期の視覚障害教育・リハビリテーション・福祉・文化を「みじめ」と捉え、その<革新>を求め続ける人生でした。エスペラントを通じて、世界各国の最先端の情報を収集し、ヨーロッパやアジアには足も運んで知見を得ました。<ぼっちゃん>は、後輩たちに「世界に目を」と語り続けたと伝えられています。 

6 戦後、ヘレン・ケラーが3度目の来日を果たした折り、彼女は京都府立盲学校の講堂でスピーチを行いました。そのとき、歓迎の挨拶を述べたのが<ぼっちゃん>でした。熱をこめて発された一言一句に、日本の視覚障害者教育・福祉の抜本的な改革を目指す壮大な希望が描かれています。 

7 <ぼっちゃん・鳥居篤治郎>は、「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という有名な詞を遺しました。その先進性を味わい直すとともに、「それならもう一度盲人に生れてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんですと、言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だと答えます」と述べた「絶望」の淵源に思いを馳せるべきではないでしょうか。そして、それでも、チャレンジし続けた鳥居篤治郎の志と夢を継いでいこうではありませんか。
 

【略 歴】
 1974年~  京都府立盲学校教諭(2016年2月現在.非常勤講師)
 2011年~  点字毎日新聞に<盲教育史>に関する連載を執筆 
 2012年~  日本盲教育史研究会事務局長
 2013年6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演
 2014年7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で講座を担当
 2015年3月 済生会新潟第二病院眼科勉強会で発表
 2015年6月 「盲人と芸術」国際会議inロンドンで報告
 2015年11月 NHK視覚障害ナビ・ラジオに出演(古河太四郎論)

 

【参 考】 
 岸博実先生には、平成27年03月11日にも講演して頂きました。
講演要約を以下に記します。
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 報告:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岸 博実
 演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長
  日時:平成27年03月11日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 http://andonoburo.net/on/3508
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【後 記】
 「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という鳥居篤治郎の言葉は有名ですが、実際には続きがあります。・・・「それならもう一度盲人に生まれてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんだと言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だ」。彼が味わった困難や絶望に思いを馳せながらこの一文を読むと味わい深いものがあります。
 毎回、岸先生には素晴らしい講演を頂いております。益々のご活躍を祈念致します。

 

 

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成28年09月14日(水)16:30 ~ 18:00
 第247回(16-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の挑戦
   〜障がい者・高齢者の技術支援の社会資源化をめざして〜
  林 豊彦(新潟大学工学部教授/新潟市障がい者ITサポートセンター長)
    http://andonoburo.net/on/4967 

平成28年10月12日(水)16:30 ~ 18:00
 第248回(16-10)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 (目の愛護デー講演会)
  「2020年に向けて、視覚障がい者スポーツを応援しよう」
  大野 建治(上野原市立病院;山梨県、眼科医) 

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『新潟ロービジョン研究会2016』 プログラム
  日時:平成28年10月23日(日)
    開場:8時15分 研究会:8時45分~13時10分
  場所:有壬記念館(ゆうじんきねんかん)
      2階会議室(新潟大学医学部同窓会館)
      新潟市中央区旭町通1-757 TEL. 025-227-2037
     http://www.med.niigata-u.ac.jp/yujin/
  主催:済生会新潟第二病院眼科
  参加無料/要事前登録 
0.8:45~8:50
 はじめに  安藤伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.8:50~10:20
【第1部 連携を求めて】
 座長:仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1-1)  20分(講演17分+質疑3分)
 看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
  http://andonoburo.net/on/4915
1-2)  30分(講演25分+質疑5分)
 情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
  http://andonoburo.net/on/4907
1-3) 30分(講演25分+質疑5分)
 視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村瑞穂 嶋田美恵子 久保尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPO法人オアシス)
  http://andonoburo.net/on/4931
 質疑応答 10分
2.10:20~12:20
【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 座長:加藤 聡(ロービジョン学会理事長:東京大学、眼科医)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
2-1) 30分(講演25分+質疑5分)
 最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
  http://andonoburo.net/on/4866
2-2) 20分(講演17分+質疑3分)
 新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
  http://andonoburo.net/on/4922
2-3) 30分(講演25分+質疑5分)
 我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
 ー開設当時を振り返ってー
   佐渡一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
  http://andonoburo.net/on/4880
2-4) 30分(講演25分+質疑5分)
 眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川スミ子(元 浦和大学)
  http://andonoburo.net/on/4903
 質疑応答 10分
3.12:20~13;05
 【第3部 熊本地震を考える】
 座長:加藤 聡(ロービジョン学会理事長:東京大学、眼科医)
    仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
3-1)  30分(講演25分+質疑5分)
 熊本地震と災害時視覚障害者支援
   出田隆一 (出田眼科院長;熊本)
  http://andonoburo.net/on/4935
 討論 15分
4.13:05~13:10 
  おわりに  仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
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2016年9月9日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その4(清水朋美)
  平成28年7月17日(於~有壬記念館;新潟大学医学部学士会)で開催したシンポジウムの報告。清水朋美先生(国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部眼科医長)の講演要約をお送りします。清水先生のお父様はベーチェット病で中途失明しました。清水先生は父の病気を治そうと、愛媛大学医学部卒業後ベーチェット病研究の第一人者である大野重昭教授(当時、横浜市立大学医学部)のもとでベーチェット病の研究をします。そのうちにほかにもまだまだやることが見えてきます。眼の治療だけでなく、「見えなくてもなんとかなる!」ということを眼科医として啓発し続けることが宿命的な個人目標となったと語ります。 

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シンポジウム「病とともに生きる」
 演題:「オンリーワンの眼科医を目指して」
 講師:清水 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部眼科医長) 

【講演要約】
 私の父は、ベーチェット病が原因で30歳の時に失明した。その後に私が生まれているので、私は父が見えていた時代を知らないし、父も私の顔を見たことはない。父が発病した昭和30年代前半は、ベーチェット病そのものが眼科で十分に知られていない時代だった。いよいよ自覚的にも失明を意識するようになった頃、なかなか先の見通しについて語らない眼科医に父は業を煮やし、盲学校に行く覚悟もできているので、治るか治らないか、はっきり言ってほしいと詰問した。これに対し眼科医は、そこまで考えているのなら、盲学校へ行った方がよいと父に告げた。父はこれを事実上の失明宣告と受け止め、見えなくなったら、何もできない、死んだ方がマシではないか?と自分を追い詰めていく。父の苦境を救ったのは、父の母、すなわち私の祖母だった。祖母は父の様子を見て、「失明は誰でも経験できることではないよ。これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね。」と語りかけた。その後、父は気持ちを切り替え、三療や社会福祉についても学び、視覚障害の方々のために長年に渡り勤務し続けた。祖母の言葉は父の失明以降を支えた大きな原動力となり、50年以上経った今も生き続けている。 

 そんな父を持つ私が眼科医になろうと思って40云年、実際に眼科医になって25年が過ぎた。幼少時から、明らかに友達のお父さんと違うことが多く、父が見えていないことは自然と理解することができた。ある時、どうして見えないのだろう?と不思議に思い、母に尋ねた。この時に母から教えられたベーチェット病という言葉は私の中にしっかりとインプットされ、さらに治らないと聞いて、眼科医になれば治せるに違いないと幼いながらも強く心に思ったのを覚えている。まだ就学前の出来事だが、このときの母とのやり取りはなぜかいつまでも色褪せない。父から視力を奪ったベーチェット病は歴史的な病気であるにも関わらず、いまだに決定的な原因は不明のままである。初志貫徹で医学部に進学した私は、更に運よくベーチェット病研究の第一人者である大野重昭教授(北海道大学眼科名誉教授)と出会うことができ、当時、先生が率いる横浜市立大学眼科の大学院生にまでなった。この頃の私は、これでようやく長年の敵と向かい合えるという心境で、「打倒ベーチェット病!」が個人目標だったが、臨床経験を積むにつれ、私には眼科医としてもっと他にやるべきことがあるのではないか?と思うことが増えてきた。 

 眼科を受診する患者はベーチェット病以外の病気が大半で、手帳相当の視覚障害となった患者の多くは医療から福祉への橋渡しがうまくいっていないように思えた。何より、眼科医の視覚障害についての知識が乏しく、学ぶ機会もほとんどない。かなり見えにくい状態になっても漫然と眼科通院を継続している患者が多いという事実に直面し、正直私にはショックだった。見えないと何もできないという一般論の中に患者も眼科医もいて、患者と眼科医の対話を聞くたびにこれでいいのだろうか?と思うことが年々増えてきた。幼少時から多くの視覚障害者と接してきた私には、自分が医療側に身を置くようになって、違和感は膨らむ一方だった。眼科医の役目は言うまでもなく、患者の目を治すことであるが、いくら病気が治って落ち着いていても患者の見え方が100%満足いくように改善しているわけではない。そんなときこそ、ロービジョンケアが必要になる。そして、眼科医には見えなくても何とかなるということを患者に理解してもらうという仕事が加わる。眼科医こそ、見えない=何もできないという一般論に疑問を感じるべきだと私は思う。 

 今の私は、見え方で困っている人だけでなく一般にも「見えなくてもなんとかなる!」ということを眼科医として啓発し続けることが私の宿命的な個人目標だと思っている。祖母が父に語った言葉は私にもそのまま当てはまると最近つくづく思う。つまり、「失明した親がいることはだれでも経験することのできるものではない、これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね。」となり、祖母から今も私自身へ語りかけられているような気持ちになることがある。後半の眼科医人生、祖母の言葉通り、父を通して有形無形で学んだ貴重なことをわずかでも世の中に還元していくことで眼科医としての私の最大のミッションを果たせれば本望である。そしてこれからもナンバーワンでなくオンリーワンの眼科医であり続けたいと願っている。 

【参考URL
 
第9回オンキョー点字作文コンクール 国内の部 成人の部 佳作
「忘れることのできない母の言葉」横浜市 西田 稔
http://www.jp.onkyo.com/tenji/2011/jp03.htm 

【略 歴】
 1991年 愛媛大学医学部 卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科 修了
 1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所 留学
 2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座 助手
 2005年 聖隷横浜病院眼科 主任医長
 2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院眼科医長
      現在に至る 

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シンポジウム『病とともに生きる』
 日時:平成28年7月17日(日)
    開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
         新潟市中央区旭町通1-757
コーディネーター
 曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長) 10時 開始

基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
 大森 安恵
   (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
   東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943

パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
  http://andonoburo.net/on/4979
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
  「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
  http://andonoburo.net/on/4990
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
    http://andonoburo.net/on/5014
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
    「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 

ディスカッション (20分)
  演者間、会場を含め討論 

12時30分 終了
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2016年9月5日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その3(小川弓子)

  平成28年7月17日(於~有壬記念館;新潟大学医学部学士会)で開催したシンポジウムの報告。小川弓子先生(福岡市立西部療育センターセンター長)の講演要約をお送りします。小川先生のご長男は未熟児網膜症のため重篤な視力障害がありますが、大学を卒業し現在は起業して立派に活躍しています。障害と共にチャレンジして生きる息子さんを、母として医師として語ります。 

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シンポジウム「病とともに生きる」
 演題:「母として・医師として~視覚障害の息子とともに~」
 講師: 小川 弓子 (福岡市立西部療育センターセンター長) 

【講演要約】
1)視覚障害の長男~障害と共にできることにチャレンジして生きる~
  視力および色覚に障害をもつ私の長男が「視力3cm~それでも僕は東大に~」という本を出版して10年になろうとしています。その中の一文です。「弱視であるがゆえに、これから進んでいく道のりを見失ったり、道幅がよく見えずにはみ出てしまったりすることも多々あるでしょう。それでも、みんなのおかげで、きっと私は頑張れます。今の私を作ってくれた、すべての人たち、これまで私を育ててくれてありがとう。私を誇りに思ってくれてありがとう。私を支えてくれてありがとう。私のそばにいてくれてありがとう。私は元気です。これからも頑張って生きていきます。そのための力をくれたこと、ほんとうにありがとう。」 大学卒業に際し「視力が悪いからこそ、一緒にやろうと言ってくれる誠実な仲間を大切にしたい」といい、ベンチャー企業をおこし、それこそ大都会東京で泥だらけになりながらも、「障害と向き合って生きてきたからこその強さ」をバネに、その言葉通りにへこたれずに前を向いて生きています。 

 思えば、息子の子育てはただただ「みせてあげたい」「経験させてあげたい」「自信をもたせてあげたい」「人生の楽しみを知って欲しい」という医師と言うより、子育て若葉マークの一人の母親の切なる願いに支えられ、多くの本をみせ、音楽を教え、一緒に器用になるようにと折り紙、切り絵で遊んだ日々でした。でも、悪銭苦闘の日々の中からこそ、自分に対する愛情を感じ、自分を大切にすることを知り、そのことが障害もちながらも、自分の人生に感謝の気持ちをもち、踏ん張り抜いて、大きく成長していくことに繋がったと思います。 

2)小児科の医師として~息子から得たもの・提供したいもの~
 そして障害のある子どもと悪戦苦闘していた未熟な母親は熟年となりました。息子の生き方は、私の中にも小児科医として仕事をする上で、ある理念をつくりました。「たとえ障害があっても愛される、そして自分を愛する事ができれば人生を豊かにいきていける」この思いを胸に、一人の小児科医として、障害児や家族の支援に日々邁進しています。 

 現在私は福岡市立西部療育センターという子ども達に対する療育機関に勤務していますが、そこではたとえどんな重症の障害であろうと、「生命を輝かせる医療」に加え「子どもらしいふれあいや遊びのある活動」を提供する、まさに「生活」に根ざした療育を提供することを心がけています。そして自閉症の東田直樹くんが著書に「僕たちが一番辛いのは、自分のせいで悲しんでいる人がいることです。」と書いているように、障害児をとりまく家族も幸せにならなければ、当事者も幸せにはなれないと支援の幅を家族にも広げています。そのために、職員には「一つ一つの人生に寄り添う気持ちがあるか」「言葉を大切にしているか」ということを問いかけています。それは、私たち家族は障害に遭遇したけれど、様々な人々から励ましや人生を生きるメッセージに出会い、力をもらい、進んで行くことができた経験からです。 

3)力をもらったたくさんのメッセージ
 祖父からは「体が悪くたって、しっかり生きている人間はいる。そのように育てていけばいい」といわれ、毅然と育てていこうと思いました。祖母から「あんたが育てきらんなら、私が育てちゃる。こんなに可愛いやないね。」主人から「明浩の人生は明浩のものだが、明浩ひとりのものではない。みんなで支えていこう」といわれ、肩の荷がおりました。 

 本の中から「親は代わってプレーすることはできません。しかし、最高の応援団にはなれます。」「親が可愛そうと思えば、子どもも自分を可愛そうと思う。」など育児のヒントを貰いました。このような言葉は人生の岐路に立つ度に、支えてくれました。そして息子から「父さんは、いつも僕の前を歩いてくれた。母さんは、いつも僕の背中を押してくれた。」といった言葉で、また頑張っていく力をもらいました。このように、言葉は人の気持ちに訴えかける大きな力を持っていると思います。 

4)最後に
 今、私は診察室の窓から利用者の皆さんに「病気や障害を持ってはいても、大切な一人の人生」「今の一つ一つの積み重ねが次に繋がる」「困難のそれぞれに応じた成長がある」「決して一人ではない、一緒に考えてくれる人は必ずいる。」「自分たちの家族の物語を丁寧に紡いでいくことの大切さ」と伝えています。もちろん、障害には様々な困難、不安、社会の偏見など、まだまだ個性とはいいきれないたいへんな事が多々あります。でも「泣くという文字は、たくさんの涙を流しても立ち上がる」と書きます。いつかみなさんに悲しみに泣くことがあろうと、立ち上がり「辛いことの直ぐ横にある幸せ」に気が付いてもらえると信じて。
 

【略 歴】
 1983年(昭和58年)島根医科大学卒業
  同年       九州大学病院 小児科入局
           福岡市立子ども病院などで研修
 1986年(昭和61年)長男を早産にて出産
           以後、療育及び三人の子どもの子育てのため休職
 1994年(平成 6年) 福岡市立心身障がい福祉センターに小児科として勤務
 2002年(平成14年)福岡市立あゆみ学園に園長(小児科)として勤務
 2014年(平成26年)福岡市立西部療育センターにセンター長(小児科)として勤務
 

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シンポジウム『病とともに生きる』
 日時:平成28年7月17日(日)
    開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
         新潟市中央区旭町通1-757 
コーディネーター
 曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長) 
10時 開始
基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
 大森 安恵
   (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
   東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943 

パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
  http://andonoburo.net/on/4979
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
  「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
  http://andonoburo.net/on/4990
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
    「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 

ディスカッション (20分)
  演者間、会場を含め討論 

12時30分 終了
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2016年9月3日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』  その2(南昌江)
  平成28年7月17日(於~有壬記念館;新潟大学医学部学士会)で開催したシンポジウムの報告。
南昌江先生(南 昌江内科クリニック)の講演要約をお送りします。南先生は1型糖尿病を発症しましたが糖尿病専門の内科医になり、毎日多くの糖尿病患者を誠心誠意治療し、自らは毎年ホノルルマラソンを走り続けている素敵な先生です。

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演題:『糖尿病を通して開けた人生』
講師: 南昌江(南 昌江内科クリニック) 

【講演要約】
 私は39年前の夏に1型糖尿病を発症しました。当初は親子とも落胆し、将来を悲観しましたが、その後尊敬する医師との出会いによって人生が変わってきました。 

 16歳で小児糖尿病サマーキャンプに参加しました。本心は参加したくなかったのですが、主治医から半ば強制的に参加させられました。そこで、病気に甘えていた私たちに、ボランティアのヘルパーから、「糖尿病があるからといって社会では決して甘く見てくれない。これから糖尿病を抱えて生きていくなかで沢山の壁にぶつかるだろう。その壁を乗り越えられる強さを持ちなさい。」と話をされました。これまで病気を理由にいろいろなことから逃げていた自分に気がつき、その頃から病気とともに生きていく覚悟が出来、将来は「医師になって糖尿病をもつ人の役に立ちたい」と思うようになりました。 

 医師になって念願の東京女子医大糖尿病センター、平田幸正教授の下で医師の第1歩を踏み出しました。医師になったばかりの私に、平田先生から「あなたは貴重な経験をしている。同じ病気の子供たちのためにも、是非自分の経験を本に綴ってみてはどうかね?」というお話を頂きました。しかし研修医時代は不規則な生活が続き、糖尿病のコントロールにも自信がない状態で、こんな自分が糖尿病の患者さんを見る資格はないのではないかと内科医をあきらめかけた時もありました。医師になって3年目、今度は肝炎を患いました。糖尿病になって、一生懸命に頑張ってきたのにどうしてまたこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろうと、本当に辛い時期でした。3か月の休養をいただきましたが、その時に、ふと、以前平田先生からいただいたお話を思い出し、「こんな状態の自分でも、少しずつ自分の体験を綴ってみることはできるのではないだろうか」と思い、その後福岡に帰って勤務医を続けながら、私の経験が糖尿病の子供たちに勇気と希望を与えることができればと思い、1998年に「わたし糖尿病なの」を出版しました。 

 その年に糖尿病専門クリニックを開業し18年が経ちましたが、これまでに多くの糖尿病患者さんと接してきました。診療の傍ら、講演や糖尿病の啓発活動を行っています。2002年に初めてホノルルマラソン(フルマラソン)を完走することができました。その時の感動は、今でも忘れられません。最後のゴールを目の前にした時には、これまで生きて来て、辛かったことが走馬灯のように思い出されましたが、ゴールと同時に一気に消えていきました。同時に出会ったすべての方々への感謝と、本当に生きてきて良かった、という思いとそれを天国の父に伝えたくて、涙を流しながらのゴールでした。 

 それまでは、自分の10年先の将来が想像できなかったのです。「将来、目が見えなくなるかもしれない、透析になるかもしれない。」という糖尿病の合併症の心配がどこかで自分を臆病にしていました。フルマラソンを完走できたことで、自分の体力・精神力に自信がつきました。この体験をきっかけに、新たにクリニックを新築し、自分が長年理想としてきた糖尿病診療をしています。 

 そして、“No Limit”をモットーに、“糖尿病があっても何でもできる”ことを一人でも多くの患者さんに理解して体験して頂きたいと思い、“TEAM DIABETES JAPAN”を結成し、2007年には糖尿病協会に承認されました。毎年患者さんや医療関係者と一緒に国内、国外の大会に参加しています。これまでにフルマラソン19回完走し、今年も15回目のホノルルマラソンに挑戦します。 

 人生を振り返った時に、生き方や考え方を教えてくれたのは両親です。
 父からは、高校生の頃に「お前はハンディを持っているのだからその分、人の2倍も3倍も努力しなさい。」「嫁には行けないだろうから、一人で生きていくために資格を取りなさい。」 「病気があると金がかかる。自分の医療費は自分で払えるように経済力を持ちなさい。」 と病気がある私にあえて厳しく育てられました。 

 私が国立大学医学部受験に失敗して、浪人させてほしいと父にお願いした時には、「人より人生が短いのだから、1年でも無駄にするな。私立大学に合格したのだからそこで勉強して少しでも早く良い医者になりなさい。」と言われました。小さな電気屋を営んでいた我が家の家計では私立の医学部は到底難しかったと思いますが、両親は私のために必死で働いて卒業させてもらいました。それまで父には反抗していましたが、その時に父の愛情を深く感じました。 

 そんな父が、2001年に癌で亡くなる前に、「もうお前は一人で生きていけるな。お母さんのことは頼んだよ。」と逝ってしまいました。病気を持つ私に、強く生きていきなさいと育ててくれた父、いつでも「ありがたい、幸せ。」と感謝の言葉が口癖の母。そんな母も2013年に亡くなりましたが、「あなたはいい人に恵まれているから大丈夫よ。」と今でも天国から見守ってくれていると思います。 

 これまで私が出会った方々や医学から受けた恩恵に感謝し、一日一日を大切に「糖尿病を持つ人生」を明るく楽しく自然に、いつまでも夢を持って走り続けていきたいと思っています。
 

【略 歴】 
 1988年 福岡大学医学部卒業
         東京女子医科大学付属病院 内科入局
       同  糖尿病センターにて研修
 1991年 九州大学第2内科  糖尿病研究室所属
 1992年 九州厚生年金病院 内科勤務
 1993年  福岡赤十字病院 内科勤務
 1998年 南昌江内科クリニック開業 

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シンポジウム『病とともに生きる』
 日時:平成28年7月17日(日)
    開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
      
  新潟市中央区旭町通1-757 

コーディネーター
 曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長) 

10時 開始
基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
 大森 安恵
   (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
   東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943 

パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
  http://andonoburo.net/on/4979
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
  「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
    「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 

ディスカッション (20分)
  演者間、会場を含め討論 

12時30分 終了
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2016年8月25日

報告『シンポジウムー病とともに生きる』 その1(大森安恵) 

 平成28年7月17日、有壬記念館(新潟大学医学部学士会)にて開催したシンポジウムの報告です。
 大森安恵先生(海老名総合病院・糖尿病センター長、前東京女子医大糖尿病センター長)の基調講演要約をお送りします。大森先生は糖尿病治療のど真ん中で60年間活躍され、特に「糖尿病でも母子ともに健康な出産ができる」を日本の常識にした取組みは、特筆すべき業績です。

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基調講演:糖尿病と向き合うー私の歩いた一筋の道ー
演者:大森安恵 (海老名総合病院・糖尿病センター長
         東京女子医科大学名誉教授)  

【講演要約】
 新生児専門医の東京女子医科大学名誉教授仁志田博司先生は、生命倫理に関する御著の中で、倫理の倫は仲間という意味であると書いている。本日はご本人そのものや,ご家族の病気とともに感動的に生きておられるお話上手の私の特別の仲間である皆様とご一緒させて頂き、その基調講演を担当する。 

 私は1956年東京女子医大を卒業したので,丁度60年間糖尿病の患者さんと向き合い、ともに生きて来た事になる。1960年代前半までは「糖尿病があると危険だから妊娠させるべきでない」という不文律があり、またそう教え込まれていた。たまたま、私は「安産ですよ」と言われながら微弱陣痛で死産を経験した。慟哭を禁じ得ない程の新生児喪失の悲しみを秘めて診療している時、糖尿病の診断がつかず死産に終わって,泣き暮れている二人の患者さんの受持ちになった。この二人の患者さんとの悲しみの共有が動機になって、わが国にもコントロールが良ければ糖尿病があっても妊娠は可能であるという臨床と研究分野の開拓を始めた。

 欧米では1921年インスリンの発見と同時に「糖尿病と妊娠」の歴史が始まっている。糖尿病という病気を持っていても、糖尿病を持っていない人と変わる事無く、妊娠し子供を持ち、人としての人生の幸せを歩ませようと努力をする欧米の医師と、糖尿病があると危険だから妊娠すべきでないとする日本の医師との違いは、糖尿病が多い国と少ない国の違いか、文化的背景の違いであろうか。 

 「糖尿病と妊娠」の分野確立は欧米から約30年も遅れて開始されたが、中山光重教授のご支援の下に、必死に勉強出来た。既に日本でも出産例は僅か乍らあったが、当時の医学の現状としては、せっかく妊娠しても人工流産をさせられか、子宮内胎児死亡の悲しい経験を持つものが多かった。血糖コントロールが良ければ糖尿病があっても妊娠、出産は可能であるというキャンペーンを張ると,糖尿病妊婦分娩例は階段的に増加して行った。東京女子医大病院では1964年2月に初めて糖尿病患者さんの分娩例を経験、以後症例は全国から集まるようになった。この第一分娩例はリリーインスリン50年賞の初回受賞者となっており、今年は7名目が受賞する事になっている。 

 健康なお子さんを無事に出産したいと願う母親の気持ちは,血糖正常化の強い動機付けになり、分娩後も良いコントロールを守るので,妊娠、分娩例は,多くの人が合併症なくまた治療を中断する事無く経過している。また糖尿病合併症がなく、妊娠前から血糖コントロールが良ければ、非糖尿病者と同じ妊娠、分娩が出来るようになっているが、2型糖尿病が主流を占めるわが国では、妊娠して初めて糖尿病を診断される症例があり、この点が今でも残された大きな問題である。 

 女性が持つ難問題は女医が担当する事によって、解決がスムースな場合もあるので、糖尿病と妊娠の分野は自分に課せられたライフワークと心得て、患者さんと共に歩んで来た。医学に関して手厚くご指導を頂いた中山光重先生初め数々の恩師、同僚や友人、患者さん達もそれぞれ恩師であるが、糖尿病と妊娠の事を教えて頂ける恩師は日本にはいなかった。そのため、短期間ではあったが、カナダとスイスに研究の為留学をし、デンマークのペダセン教授、ベルギーのフート教授たちにはずっと師事してご指導を仰いだ。 

 1975年初めてヨーロッパ糖尿病学会の「糖尿病と妊娠研究会DPSG」で発表し、その後会員に推薦され、徹底的に今日まで学ばせて頂いている。1985年には池田義雄、松岡健平両先生とともに,日本にも「糖尿病と妊娠に関する研究会」を創設し、更にそれを2000年には日本糖尿病・妊娠学会に変革した。その前の1997年5月には、女性で初の第40回日本糖尿病学会会長になり、医師が勉強するのだから患者さんも一緒に学ぼうと、糖尿病学会歴史上初めての公開講座を作り東京国際フォーラムA会館の5000席は満場で共に学び合った。 

 2006年には国際糖尿病連合(IDF)と国連のうち立てたワーキンググループのメンバーに選ばれ国連で糖尿病と妊娠の講演を行った。2011年にはWHOの妊娠糖尿病ガイドライン作成委員の一人として世界の人々とともに作業を行い、世界の医療に貢献した。昼夜を分かたず、私は糖尿病と立ち向かう人生を歩んでいるが、糖尿病を持ち乍らもっと精力的に社会活動をした人々を紹介したい。それはロバート、ローレンス、トーマス、エジソン,ジャコモ、プッチーニ,アーネスト、ヘミングウエイ、夏目漱石、北原白秋、隆の里などである。 

 ジョスリンクリニックの壁に書かれているイシドール大司教(C570~630)言葉『永久に生きると思って学びなさい。明日死ぬと思って毎日を生きなさい』を捧げて結びの言葉とする。
 

【略 歴】
 1956 東京女子医科大学卒業。
 1957 東京女子医科大学第2内科入局(中山光重教授)、糖尿病の臨床と研究を開始。小坂樹徳、平田幸正教授にも師事。医局長、講師、助教授を経てスイス、カナダに留学。
 19814月同大学第三内科糖尿病センター教授。
 1985 「糖尿病と妊娠に関する研究会」設立。
 1991 同第三内科主任教授兼糖尿病センター長。
 19973月東京女子医科大学定年退職 名誉教授。
 19975月第40回日本糖尿病学会会長。
 2001 「日本糖尿病・妊娠学会」設立(「糖尿病と妊娠に関する研究会」を発展)。2005名誉理事長となる。
 2002 海老名総合病院・糖尿病センター長。現在にいたる。
 2007  Unite for Diabetes糖尿病と妊娠の代表者として国連でSpeech. 

【受 賞】
 吉岡弥生賞、米国Sansum科学賞、Distinguished Ambassador Award, ヘルシーソサエティ賞、糖尿病療養指導鈴木万平賞他 

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シンポジウム『病とともに生きる』 
 日時:平成28年7月17日(日)
     開場:午前9時30分 講演会:10時〜12時30分
 会場:「有壬記念館」(新潟大学医学部同窓会館)
     新潟市中央区旭町通1-757
シンポジウム「病とともに生きる」
 コーディネーター
  曽根 博仁(新潟大学医学部 血液・内分泌・代謝内科;教授)
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科部長) 

10時 開始
 基調講演(30分):「糖尿病と向き合う~私の歩いた一筋の道~」
  大森 安恵
    (内科医;海老名総合病院・糖尿病センター
    東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
  http://andonoburo.net/on/4943
 

パネリスト (各25分)
  南 昌江 (内科医;南昌江内科クリニック)
   「糖尿病を通して開けた人生」
 小川 弓子(小児科医;福岡市立西部療育センター センター長)
   「母として医師として~視覚障害の息子と共に~」
 清水 朋美(眼科医;国立障害者リハセンター病院第二診療部)
   「オンリーワンの眼科医を目指して」
 立神 粧子(音楽家;フェリス女学院大学・大学院 教授)
   「続・夫と登る高次脳機能障害というエベレスト ~作戦を立ててがんばる~」 

ディスカッション (20分)
   演者間、会場を含め討論

12時30分 終了
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