勉強会報告

2017年1月9日

報告:第249回(16-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (青木 学)
 演題:「視覚障がい者議員としての歩み
           ~社会の変化に手ごたえを感じながら~」
 講師:青木 学(新潟市市議会議員)
  日時:平成28年11月09日(水)16:30 ~ 18:00
  会場:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要約】
Ⅰ.議会での活動
 私は1995年4月に行われた新潟市議会議員選挙に「バリアフリー社会実現」を掲げ立候補し、初当選を果たした。以来6期20年余、多くの市民の皆さんのご支援をいただき、また協働して様々な課題に取り組んでくることができた。当選後、まず最初に私が行ったことは、議会での活動がスムーズにできるよう、議会内の環境整備についての要望書の提出であった。 主な要望項目は①議案や資料など、点字や音声録音による提供、②議会内の各室への点字標記の設置、③課長以上の職員の点字名簿の提供であった。 

 これらの要望に対しては、執行部側も議会事務局も前向きに対応してくれた。ただ、議案などの点訳については、私にとって最も重要なことであったが、当然市の職員には点字に詳しいものがおらず、点字返還ソフトを駆使しながら、変換ミスも多かったが最低限の資料を用意するという状況だった。その後、職員も点字変換に慣れてきて、審査に関わるものは、図や表以外は相当程度点字で用意されるようになった。またパソコンの活用が進む中で、審査に関わるもの以外のものを含め、様々な資料を電子データとして提供してもらうことが日常的になり、瞬時に情報を得ることができるようになった。行政側からの情報提供だけでなく、私自身、インターネットを通じて、新聞記事や、その他の多くの情報を得ることができるようになり、IT技術の進歩によって、他の議員との情報格差も格段に縮小されてきたと感じている。 

 周囲の議員との関係については、私が所属した会派のメンバーは、私の立場をよく理解してくれ、環境整備に関する要望書も私個人ではなく、会派として提出してくれた。また他の会派の議員からは、最初のころは、私が一人で廊下を歩いているのを見て、「青木君、一人で歩けるんだね」と感心したように声をかけてくれる先輩議員もいたが、時間が経つにつれ、ごく自然に接してくれるようになった。 

 2000年に常任委員会の委員長に就任することになったが、前の年に候補として名前が挙がった時、「他の会派の議員から「青木さん、委員会の運営は大丈夫か」との声があり、一度見送ったという経緯がある。この年については、同じ会派の議員がしっかりと支え、事務局ともしっかり打ち合わせをし準備して臨むということを私からも表明し、委員長就任が承認された。実際の委員会運営では、各委員が発言にあたって挙手をする際、自分の名前を名乗り、執行部側の課長なども同じように対応してくれ、関係者の様々な協力を得て、1年間の任務を終えることができた。 

 2011年から13年にかけては、副議長を務めさせていただいた。議長、副議長の選任にあたっては、それぞれ初心表明をし、選挙によって選ばれる。これまで議会改革などに一緒に取り組んできた仲間の議員たちから、選挙への立候補を勧められた。そのことはありがたく感じたが、議会全体の運営や対外的な場への参加など、私に十分熟すことができるだろうかという不安が正直頭を過った。私に話を勧めてくれた議員たちから、「自分たちもサポートするから」という言葉をもらい決心した。本会議は、全議員そして市長はじめ、各部長が揃って質疑などを行う場である。ここでも各出席者が発言をする時は、名前を名乗って発言するというルールが確立された。このように、周囲の議員そして執行部の職員などから様々な形で協力してもらいながら、これまで議会活動を続けてくることができている。 

Ⅱ.市民との協力によって進めることができた事業について
 ここからは、視覚障がい議員として、多くの関係者と協議、協力しながら取り組んできた主なものを紹介する。
1)情報提供の充実
 20年前は「市報にいがた」が週2回ダイジェスト版として発行されていたが、一般のものと同様、毎週の発行となった。現在は点字版、音声版、デイジー版の3種が発行されている。この他にも議会だよりや市の事業に関する資料などが点字などで市民に提供されるようになった。 

2)まちづくりにおけるハード、ソフトの整備の推進
 点字ブロックの整備はもちろん、超低床ノンステップバスの導入、街中に補助犬用トイレの設置、中央図書館に視覚障がい者のための対面朗読室や音声読み取り装置の設置、そして公共施設の整備にあたっては、その過程で障がい者の意見を聞くことが当たり前のこととして取り組まれるようになった。 

3)同行援護と移動支援について
 同行援護については、全国的に利用時間や利用目的について一定の制限を課しているところが多いようだが、新潟市においては、ギャンブルなどは目的から除外されているが、基本的に本人の活動の状況に応じて利用時間を設定しており、一律な基準は設けていない。また通所、通学についても、移動支援で週3回まで対応することとしており、これも全国的には希な取り組みである。 

4)障がい者ITサポートセンター事業について
 政令市としてこのセンターを設置しているところは、新潟市のみであり、新潟大学の林先生のご協力によって、ITの利活用の支援が進んでいる。 

5)市職員採用試験における点字受験の実施
 これについては2007年度から実施されることになったが、その後、受験者は現れなかった。しかし2013年度に初めて全盲の女性が点字による受験をし、合格した。現在はパソコンなどを駆使しながら、業務に当たっている。 

6)「障がいのある人もない人も共に生きるまちづくり条例」の制定
 国連で障害者の権利条約が採択されたことを受け、市としてもその理念を生かした独自の条例をつくるべきとの議論が始まり、丁寧な検討を経て、昨年10月に成立、本年4月より施行となった。同月に施行となった「障害者差別解消法」と一体となって効果を表すことが期待される面と同時に、法律の弱点を補完するものになっている。 

Ⅲ.終わりに
 国際社会としても、国としても、そして市としても、条約や法律、条例が整備されてきたように、着実に社会も、市民も、障がい者の存在を認識し、当事者の声を大切にしようとする空気が大きく広がってきたと思う。
 これからも、障がいのある人もない人も、一人ひとりが大切にされ、共に生きる社会を目指して、多くの皆さんと協力し行動していきたい。 

【略 歴】
 小学6年の時、網膜色素変性症のため視力を失う
  新潟盲学校中学・高等部、京都府立盲学校を経て、京都外国語大学英米語学科進学
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす
  現在に至る 

 議員活動の他、現在社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、新潟県立大学非常勤講師を務める
「青木まなぶとあゆむ虹の会」
 http://www.aokimanabu.com/index.html 

【後記】
 前回は小学6年生の頃に網膜色素変性と診断され、盲学校、京都外国語大学、米国セントラルワシントン大学大学院留学から、新潟市会議員に当選するまでのお話でした。
 今回は、新潟市市会議員として21年間の経験と成果についてのお話でした。大変興味深く拝聴しました。色々とご苦労があったと思いますが、サラッと何でもなかったかのようにお話される様に心動かされました。
  青木先生には、今後も障がい者を代表して議会で活躍して頂きたいと思います。応援します。
 

@参考
 青木さんには、昨年は市会議員になるまでのお話して頂きました。
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報告:第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  青木学
「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)
  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/3401
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【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成29年01月11日(水)16:30 ~ 18:00
 第251回(17-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「ブラインドメイク」は、世界へー視覚障害者である前に一人の女性としてー
  大石 華法(日本ケアメイク協会)
  http://andonoburo.net/on/5276 

平成29年02月08日(水)16:30 ~ 18:00
  第252回(17-02)済生会新潟第二病院眼科勉強会
     「物語としての病い」
      宮坂 道夫(新潟大学医学部教授) 

平成29年02月25日(土)15時~18時
 
済生会新潟第二病院眼科-市民公開講座2017
   会場:新潟大学医学部有壬記念館(ゆうじんきねんかん)2階会議室
      テーマ:「眼科及び視覚リハビリの現状と将来を語る」
     オーガナイザー 
      安藤 伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
     パネリスト
     ・平形 明人(杏林アイセンター 主任教授)
      「杏林アイセンターのロービジョン外来を振り返って」
    http://andonoburo.net/on/5303
     ・高橋 政代(理化学研究所 プロジェクトリーダー)
      「演題:「網膜再生医療とアイセンター」
    http://andonoburo.net/on/5331
     ・清水美知子(フリーランスの歩行訓練士)
      「視覚障害リハビリテーションのこれまでとこれから」
    http://andonoburo.net/on/5336 

平成29年03月08日(水)16:30 ~ 18:00
   第253回(17-03)済生会新潟第二病院眼科勉強会
    「私たちは生まれてくる子に何を望むのか」
     栗原 隆(新潟大学人文学部教授)  

平成29年04月12日(水)16:30 ~ 18:00
  第254回(17-04)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  
  演題未定
      小島紀代子、小菅茂、入山豊次、吉井美恵子、三留五百枝
      (NPO法人障害者自立支援センターオアシス) 
成29年05月10日(水)16:30 ~ 18:00
   第255回(17-05)済生会新潟第二病院眼科勉強会
     演題未定
    斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長) 

平成29年06月07日(水)16:30 ~ 18:00
 第256(17-06)済生会新潟第二病院眼科勉強会
    「視覚障害者とスマホ・タブレット 2017」
      渡辺哲也(新潟大学 准教授:工学部 福祉人間工学科)
    4月から(新潟大学 准教授:工学部 工学科 人間支援感性科学プログラム) 

平成29年07月
  第257(17-07)済生会新潟第二病院眼科勉強会
    新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)

 

平成29年09月02日(土)午後
   新潟ロービジョン研究会2017 予定
     会場:新潟大学医学部有壬記念館(ゆうじんきねんかん)2階会議室
      詳細未定

 

平成29年11月18日(土)午後
 済生会新潟第二病院眼科-市民公開講座
  細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス長)

2016年12月21日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』 参加者から
  日時:平成28年10月23日(日)
  場所:有壬記念館(新潟大学医学部)
 新潟ロービジョン研究会2016を、10月23日(日)有壬記念館(新潟大学医学部)で行いました。今回報告の最終回で、参加された方々からの感想の一部を紹介します。 

・過去から、現在進行形の話題、さらには将来をどうしてくのか、という「ロービジョン近代史」的な授業のようでとても楽しめました。患者から学ぶという姿勢は医療技術やIT技術が進んでも変わらないものですね。山田先生のお話、「体力増進」をこれからも提唱していきたいです。眼科医の視野を広げないとロービジョンケアの将来も狭窄してしまいそうです。後継者の育ちにくい分野なのでしょうか。もともと外科系だから興味を惹かないのかもしれません。眼科という科の特性が邪魔している気もします。出田先生の日頃の備え重要!印象に残りました。実体験が聞けてありがたかったです。今回は感情的な内容でなくてとても聞きやすく、また当時の状況が時系列でわかりやすく、聞けてよかったぁと思っています。ロービジョンケアは「機器選定」と思っておられる眼科医が大半です。「機器選定外来ではなないし、繋げることの良さ」を知ってもらいたいと改めて感じた週末でした。(埼玉県 眼科医) 

・今年に入り 日没後の外出には時に視力に不安を感じることもあり、貴重な機会を見送ることも多くなっておりました そんなときに昼の時間に、その上自宅のすぐ近くでのご案内で喜び勇んで出かけた次第です。前回までの研究会内容も、出席できなかった時には「報告」を読ませていただいております。今回の研究会での講演内容は、聞き手の身に「ひたひた」と感じられ、帰宅してからも身体に感触が残っているようです。厚く御礼申し上げます。(新潟市) 

内容が、iPadから盲学校設立の歴史、熊本震災まで多岐にわたり、面白かったです。iPadなど、医療者が考える利用法と、実際、ロービジョン患者が考えて便利だと考える利用法が異なるなど、目から鱗が落ちました。また、4つの盲学校の設立を聞いて、確か明治時代か、新潟県が全国屈指(1位だったかもしれません)の人口が多い県、それだけ豊かだったことを思い出しました。熊本震災は水の大切さ、バックルのような、最新の医療機器を使用しない手術の重要性が再認識されることも参考になりました。とても大変楽しかったです。(長野県 眼科医) 

・今回の新潟ロービジョン研究会2016では、何故か!最初の演題から涙が溢れました。年取ったのでしょう。視覚障害ではなくとも、いつか自身も色々な方々のお世話にならなければ!成るであろうと・・・実感しています。講演された方々については色々な書籍でお顔と実績だけは存じ上げておりましたが、生での講演は、ヤッパ一味・二味も違いました。残念なことは県内の眼科医療関係者の方々の参加が少なすぎでしょうか。(新潟市 医療関係者) 

1週間たってもなお、まだときどきメモを見直しながらその深い内容を見直している最中です。そのくらい内容も多彩でそれぞれが重厚な講演会でした。多治見スタディーにとどまらずますます広がる岩瀬先生のご活動のスケールの大きさに圧倒されたのをはじめ、すべての演者の方々と、講演の中で語られた眼科医達に共通して感じたのは、並々ならぬ熱い思いと使命感、実行力です。その熱い思いをそれぞれの強みをいかして実行してゆくこと、その積み重ねが違いを生むことをひしひしを感じさせていただきました。オリンピックでの選手たちの素晴らしいパフォーマンスから活力を与えられたのと同じように、演者の方々から元気をいただきました。また、それぞれの素晴らしい演者の方たちは、ご自身の弱みを見せることを怖れない、それはご自身の核をしっかりお持ちになっている強さを表している、と感じました。そして、多くの人と弱みや反省を共有することでより良いロービジョンケアにつながることへの強い願いを感じました。(東京 眼科医) 

・この度は、大変貴重なご講演を聞くことが出来ましてとても刺激になりました。憧れの橋本様とも名刺交換が出来ました。実践している方のお話は説得力があり久々に温かい気持ちになりました。私も初心に返って、今一度自分の役割を真剣に考えてみようと思っております。(神奈川県 看護師) 

・今回は特に前半の講演を拝聴した時点で、これからのロービジョンケアを考えさせられる会だと思いました。デジタルビジョンケアを主張される三宅先生に対し、山田先生や橋本さんのやっているロービジョンケアはアナログビジョンケアともいえるような、ロービジョンケアの原点に必ず必要なものであると感じました。時代が進歩してゆく中で、その時代時代に合わせたものは必要だと思いますし、ロービジョンケアの場合その代表たるものがデジタルビジョンケアの考え方なのでしょう。ロービジョンケアに時代が求めているもの(業)が何かと考えた時、それは三宅先生が追及されているものであるということは大変良く分かるように思います。 一方、時代がどんなに進んでいっても最新の技術を駆使しても対応できないものは世の中にいくらでもある訳で、それを思うときこれをカバーできるのは原点に対する考え方だと思いました。医師である先生方は、原点には人を救う、という概念が必ずあると思います。最近ではそうでない目的で医師を目指す若者が多いという話も聞きますが、ロービジョンに関わる先生方や医療職に就いている方たちはすべからく「醫の心」のもとに日々ロービジョンケアという、人を救う行為に邁進されていることと改めて感じました。これからしばらくの時代は、デジタルビジョンケアとアナログビジョンケアの融合した形でロービジョンケアが推進されるものと思います。(東京 障害者サポーター) 

・新潟ロービジョン研究会に初めて参加させていただきました。発表された先生方、また参加者の方々、県内の方をはじめ県外の方も多く参加されており県内規模の研究会ではないんだなと驚きました。私にとっては、眼科の分野は初めての領域ですので、今年は色々と勉強させていただいておりますが、今回の研究会でも多方面の視点からの発表を聞かせていただきとても参考になりました。看護の分野からの発表もあり、短期間の入院生活の中で退院後の生活を見据えて支援していく看護師の役割について改めて考えさせられましたし、それを具体的にどのように提供していくか考えていかなければならないと感じました。(新潟市 看護師) 

 ・とても豪華な講師陣でたいへん勉強になりました。何人かのお話は、まったく初めて聞くお話で、啓発されました。しらお眼科の橋本さんの「◎◎が関わればこんなに変わるロービジョンケア」、これはまさにどんな職種、どんな人でもあてはまることで、目からウロコでした。緑内障と闘う先生のお話も、初めて知り、驚くとともに、考えさせられました。(東京 パーソナリティー) 

・企画者と講師の先生方の繋がりが感じられるのがとても印象的な、温かい会だと思いました。ロービジョンケアは、私には馴染みのない分野で、単に三宅先生の講演を聞きたいというのが参加動機でしたが、シンポジウムの中でも産業保健に関わる話題もあり、思いがけず自分ごととしていろいろと考えるきっかけとなりました。橋下先生の「◯◯が関わると変わる、ロービジョンケア」という投げかけも、研究会が終わった後でも何度も思い出されます。ロービジョンケアが眼科医でもまだご存知ないかたもいらっしゃるとか、情報がないためにロービジョンケアに繋がれない現状は衝撃的でした。だとすると、 私が今回少しでも情報に触れることができたことは、必要な方と会った時に情報提供をしてあげられるということにつながるのだろうと思いました。県内でのロービジョンの方の就業状況などはわかりませんが、産業保健に関わる人や人事の方にもロービジョンケアの話を聞いてもらいたいと思いました。(新潟市 保健師) 

・他業界の私には本当に勉強になるお話ばかりでした。全体的にバランスの取れたプラグラムで、休憩なしの講演にもかかわらず、興味深く聞かせていただきました。私は建築系の仕事をしておりますが、今から17~18年前にユニバーサルデザインに出会いいろいろ勉強している身です。そんな事で、医療はもちろん福祉のこともよくわからずに仙台でもロービジョン勉強会に参加させていただいております。第1部の連携を求めてというテーマでのお話は身に染みるものがありました。中でも、いろいろ目線が大切という考え方に同感です。私の知らない業界の集まりに出かけても、皆さんと違う立場や視点で発言してしまい、何か違和感を感じていました。しかし、今回の研究会で少し気持ちが晴れた気がしました。特にトイレについては、一番大切な空間として考えております。公共のトイレは操作位置など、決まりがあるようになってきていますが、細かいボタン操作を要する機器のデザインはまちまちです。(同一メーカーでさえも…)多種職種、多業界の方々が同じテーマで話せる場があれば…みんなで大きな輪を作り、大きな声にならないか…などと、ワクワク・ドキドキさせられた一日でした。(仙台市 建築関係) 

・ロービジョン研究会ではそれぞれの先生が聞きごたえのある講演をされましたが、私にとって心に一番響いたのは三宅さんの「I LOVE ME になりなさい」というメッセージでした。三宅さんのお話全体がストレートな表現で、集中して聞けたこともあります。ただ、今なぜこんなに響いたかと考えると、日ごろDISLIKE MEな自分が気になっていたからと分かりました。会場の有壬記念館も居心地のよい空間で、若い方々にお世話になりました。ありがとうございました。また、大学周辺や新潟市内の木々の美しさにも目を奪われました。再び訪れる機会を持ちたと思っています。(川崎市 公務員) 

・デジタル機器の活用がもたらす意味、近代以降の視覚障害児教育の黎明期のお話、はたまた大地震・大災害を眼科としてどう乗り切ったかというテーマなどなど、「4時間半休憩なし!!」の勢いに圧倒されつつも、今後考えて動いていく上で参考になるキーワードや視点を各講演で聞くことができ、とても有意義な研究会でした。多(他)職種連携も大事ですが、他(多)地域連携もとても役に立つし、歴史に学ぶことも必要です。そんなことがすべて含まれた研究会だったように思います。また、組織・団体・施設……といろいろありますが、基本はその人その人の課題意識と行動が出発点であり原動力になることを再認識しました(もちろん、個々人の課題意識を共有・賛同し、一緒に動いていく人が複数いることは大事ですが……)。そのためには、チャンスがあるなら行動する、可能であれば直接話を聞く、(適度に)よく考える、というようなことが「元気の薬」になるんでしょう。(仙台市 社会福祉士)

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「新潟ロービジョン研究会2016を終えて」
 加藤 聡 (東京大学眼科)
 今年も新潟ロービジョン研究会に参加して、心地よい充実感とともに会を終了することができました。毎年夏に開催されている新潟ロービジョン研究会ですが、今年は日本ロービジョン学会学術総会が8月に新潟で開催されたこともあり、新潟ロービジョン研究会の開催は秋となり、開催場所もいつも行われている済生会新潟第二病院の講堂と異なり、新潟大学医学部同窓会の有壬記念館で行われました。この会の特徴として、一つは国内一流の演者が安藤先生のご提案された話題に沿って話をしていただくということと、視覚障害者の支援者が当事者とともに一同に会するということかと思います。
今回の研究会は大きく分けて3つのパートからなり、それらは「連携を求めて」「眼科医療と視覚リハビリ」「熊本地震を考える」でありました。個々の講演に関し感想をすべて述べたいところですが、思いつくままに感想を述べたいと思います。

 初めに看護師の橋本さんの話は、今後ロービジョンケアに看護師の働きが重要であると考えている私にとって勇気づけられるものとなりました。三宅先生の話はデジタルビジョンケアという私にとって新しい言葉が頭に焼き付きました。山田先生の話は、内科医でありながら目の不自由な人にどのように寄り添っていったかの歴史がよく分かり、先生の人柄を感じられるお話でした。

 岩瀬先生と言えば、多治見スタディとして知らない眼科医はいないほどの方ですが、その方が検診をどのように熱意をもって推し進めたことに感動しました。小西さんの新潟での盲教育の歴史の話は、昔より新潟県の方々がいかに視覚障害者の方に尽力されたかがわかりました。その中で、大先輩の眼科医が大きな役割を占めたことに自分の努力のふがいなさも感じました。佐渡先生の話は、日本にロービジョンケアが立ち上がる黎明期の話が聞け、私のようにロービジョンケアに関して新参者の身としては、改めてロービジョンケアに関しさらに学ばなければいけないと思わざるを得ませんでした。香川先生の話は原田政美先生の活躍を年度ごとに紹介し、改めて東大眼科の偉大なる先輩であることを痛感しました。

 最後の出田先生の話は、術者として本邦で屈指の眼科医が大地震の際に身を粉にして、患者、職員、住民のために働き、震災が落ち着いた今も支援活動を続けているという内容に頭が下がらないわけにはいきませんでした。この話は多くの眼科医に是非とも聞いてもらいたいと思いました。

 以上のように、今回の新潟ロービジョン研究会も内容も濃く、その後の懇親会での会話もとどまるところを知らないほど盛り上がった後、後ろ髪を引かれる思いで新潟を後にしました。来年の開催を今からも待ち遠しく思っています。 

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「おわりに 自覚者が責任者である」
 仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
 研究会の締めくくりの言葉としてこれまではもっと歯の浮くような優等生のコメントをしてきたのですが、今回は、今マイブームになっている糸賀一雄氏の言葉を引用しました。糸賀氏は、社会福祉の父と呼ばれる偉人なのですが、視覚障害の業界ではあまり話題に登らないようで、恥ずかしながら私は最近になって認識した方です。私が引用した「自覚者が責任者である」と言う言葉は、彼が多く残した名言の一つです。彼は「この子らを世の光に」という言葉も残し、こちらの方がむしろ有名のようです。知的障害児福祉に生涯を捧げた彼の思想を凝縮した名言だと思います。「を」と「に」を置き換えると極めて俗っぽくなる言葉がこの順だと極めて深いメッセージになっていることがわかります。

 十分に彼の思想を理解できたわけでない状態で軽々しく引用してしまったことをとても反省しています。そして、その時の単なる思いつきでした。「自覚者が責任者」の例えとして道に落ちていたゴミをゴミ箱に捨てるという行為を昔は当たり前と教わったが、今日それが毒物や爆発物であるといけないと、しないように教える向きがあると。これを、私がこれまでどうして視覚障害者関連の仕事してきたかという文脈で話ししました。終わりの言葉でしたから質問も出ませんでしたが、自分の中では冷や汗が10リットルくらい出る感じでした。改めて自分の未熟さを思い知りました。もっと勉強していきたいと思いますので、どうかお許しください。この反省文をもって講演要旨に代えさせて頂きます。

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●新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
    http://andonoburo.net/on/5217 

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
    http://andonoburo.net/on/5223 

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川 スミ子(元東京都心身障害者福祉センター)
    http://andonoburo.net/on/5233 

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本)
    http://andonoburo.net/on/5248 

4. おわりに
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)

 

2016年12月13日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』 出田 隆一
  日時:平成28年10月23日(日)
  場所:有壬記念館(新潟大学医学部)

 新潟ロービジョン研究会2016は、10月23日(日)有壬記念館(新潟大学医学部)で行いました。研究会での講演を順次報告しています。今回は出田隆一先生による「熊本地震と災害時視覚障害者支援」の講演要約です。 

演題:「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
講師:出田 隆一 (出田眼科病院) 

【講演要約】
 2016年4月14日午後9時26分と4月16日午前1時25分に熊本地方において発生した大規模地震により社会全体に甚大な被害が発生し、私達は全く予期せぬ状況に突然遭遇した。本講演ではまず震災により「眼科医療」に生じた状況とその対応、問題点について述べ、次に「災害時視覚障害者支援」について今回の経験で学んだ多くのことと、熊本県において継続している支援ネットワークの現状について報告した。 

 「熊本地震」は震度7の強震が2回(前震と本震)発生し、余震として震度6以上の強い揺れを5回観測するという近年稀に見る大地震であった。そのため多くの家屋の倒壊、地盤沈下や隆起による道路のひび割れ、がけ崩れなどの大災害となり、2回目の本震後は水道管の破裂などによる断水とガスの遮断といったライフラインの途絶をもたらした。一般道、高速道路あるいは鉄道の被害により物流も滞り、空港施設の損壊により航空便も停止した。 

 そのような状況のもと、私達の施設では地震発生時多数の患者さんが病棟に入院していた。地震は2回とも夜間に発生しており、大きな揺れのあとの強い余震が断続的に続くなか、入院患者をどのようにどこまで避難誘導するのかという基本的な初期対応の難しさにいきなり直面した。眼科病棟に入院する患者の多くが眼科術後であり視機能に問題を抱えた高齢者で、ADLの低下した状態のため、そのまま屋内に待機する危険性と病棟から移動することにより生じるリスクの勘案が非常に困難であった。 

 結果的に前震後は3階の病棟内に留まり、本震後は余震が強く本院に隣接する関連施設の1階ロビーに移動して夜を明かした。関連施設の方が築年数が浅く、低層の建物であることから安全性が高いと考えそのように判断した。移動は深夜に自主的に集まった病院職員と夜勤看護師によって安全に行われた。停電のため階段を使用して一旦屋外に出た後道路を隔てた隣接地に移動するためには複数集まった男性を含む職員の協力が非常に役に立った。 

 本震のあとは外部からの水や食料の供給も断たれ40名超の入院患者に提供する食事の問題、排泄や入浴などについても対応は極めて困難であった。そのため本震後は入院患者には順次退院を促し、外来診療は救急疾患のみの対応、予定手術は中止を決断した。水不足への対応には節水など大変な苦労があった。 

 1日も早い診療体制の復旧を目指し院内に「災害対策会議」を設置し、毎日2回の会議を行いながら様々な議論を繰り返し対策を検討した。断水の続く4月21日木曜日に通常と同じ外来診療と緊急手術のみを試験的に実施し問題ないことを確認した。その後完全復旧までの4手術日で3件の硝子体手術と3件のバックル手術を行った。水道とガスの復旧をうけ、4月25日に通常外来、4月28日に通常の手術を再開できた。 

 このような被災後の復旧を成し得たのは全国から寄せられた公私に渡る多くのご支援によるものであり、私達自身もなにか地域に対して支援活動をすることが恩返しになると考えた。その中で避難所における眼科診療と災害時視覚障害者支援についてお伝えした。 

 被害の大きかった益城町の益城総合体育館に設置された日本赤十字社の医療テント内に診察ブースを貸していただき、簡単ではあるが希望者に対して眼科診療を行った。避難所生活を不安な気持ちで過ごす被災者にとっては軽い症状でも眼科医に話をして目を診てもらうことがある種の癒しとなっていることを感じた。 

 最後に災害時視覚障害者支援について報告した。地震直後の急性期には地元支援者も被災していることから当初は県外の支援者による一次支援が立ち上げられていた。初期には要支援者リストに基づいた電話支援が実施され、その結果自宅などに直接訪問して安否確認が必要と判断された方々に対して訪問支援が行われることになった。そこで当院から8回に渡ってのべ23名でボランティアとして参加した。 

 実際に支援活動に参加してみると支援者の訪問は必ずしも好意的に受け取られるとは限らないことが印象に残った。視覚障害者にとって地震後の混乱期に突然現れた訪問者に対する警戒感はむしろ当然とも思われ、そのような心理に配慮した行動も求められた。この様な支援活動には多くの団体、個人が関わっており、様々な困難にもかかわらず地道に忍耐強く行動しておられることを知り大変感銘を受けた。 

 支援者の中には視覚障害の当事者も多く関わっておられ健常者と何一つ変わらない貢献を果たされている姿も非常に勉強になった。地震から1ヶ月が経過し一次支援者から地元への引き継ぎが行われ、現在は熊本県視覚障害者支援ネットワークとして熊本点字図書館、熊本県立盲学校、熊本県および熊本市視覚障害者福祉協会、熊本市福祉課、歩行訓練士、視能訓練士、眼科医などが協力し合って支援活動を継続している。 

 以上、熊本地震によって私達が体験した被災状況とその対応、震災後の視覚障害者支援の実態について報告した。災害対策にしても障害者支援にしても日頃の準備が何より大切であることは論を待たない。せっかく整備した災害対策マニュアルも頻回に避難訓練などで使用して慣れ親しんでおくこともまた重要なポイントである。 

 最後に震災に際して全国から頂いた温かいご支援に対して心から御礼申し上げます。
 

【略 歴】
 1994年 久留米大学医学部卒業
 1994年 東京大学眼科医員
 1995年 東京厚生年金病院眼科医員
 1996年 東京女子医大附属糖尿病センター眼科助手
 1998年 東京大学眼科助手
 2004年 東京大学眼科病院講師
 2008年 出田眼科病院副院長
 2009年 出田眼科病院院長
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@出田隆一先生のご紹介
 出田先生は、網膜硝子体を専門とするサージャンで、百年近くの歴史を持つ日本屈指の出田眼科(熊本市)第4代目院長でもあります。4月の熊本地震では、視覚障害者支援に多大な貢献をされました。忘れてはならないのは、病院も職員も甚大な被害を受けたにもかかわらず、被災者のために尽くしたということです。心から出田先生の、そして出田眼科病院職員の行動に感謝し学びたいと思います。

 

新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
    http://andonoburo.net/on/5217 

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
    http://andonoburo.net/on/5223 

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川 スミ子(元東京都心身障害者福祉センター)
    http://andonoburo.net/on/5233 

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本)
   
 http://andonoburo.net/on/5248

4. おわりに
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
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2016年12月12日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』  香川スミ子
  日時:平成28年10月23日(日)
  場所:有壬記念館(新潟大学医学部同窓会館)
 新潟ロービジョン研究会2016は、10月23日(日)有壬記念館(新潟大学医学部)で行いました。研究会での講演を順次報告しています。今回は香川スミ子先生に、「我が国の視覚リハビリテーション育ての親」である原田政美先生について語って頂きました。 

演題:「眼科医、原田政美の障害者福祉理念と功績」
講師:香川スミ子 (元東京都心身障害者福祉センター) 

【講演要約】
1.原田政美の経歴の概略
 原田政美は1950(28歳)年に東大医学部を卒業し、3年後に東京大学医学部眼科に入局したが、1964年までの12年間はわが国の弱視・斜視研究を牽引した一人であった。それは眼科研究誌等に掲載された少なくとも64本の論文によって示される。また、1960年以降には、リハビリテーションの必要性を説く論文が散見され、弱視学級開設、日本弱視教育研究会発足に尽力した。1965年には医師の職を辞し、東北大学教育学部教授「視覚欠陥学講座」初代教授に就任し1967年までの3年間を、学生に指導の傍ら研究及び論文発表(15本)、図書等を発表した。1968年には、東京都心身障害者福祉センター(以下センターとする)初代所長として、20年間(1968-1987:非常勤5年含む)、東京都における障害者福祉を発展させた。 

2.センター所長としての仕事
(1)開設当初から、障害者のニーズに応じる方途として、既存にないセンター独自の指導を開始した。視覚関連では盲幼児の親子指導、中途失明者の歩行訓練、点字指導、中途失明女子の日常生活動作訓練である。職員の実力不足や、医学以外のサービスの画期的な向上のために、センター内職員専門研修等(障害科研究発表会→研修開発セミナー(外国論文抄録含む)、研究会、研修会、派遣研修、図書室の整備、委託研究を実施した。
(2)新たな事業として視覚関連では、盲幼児のインテグレーション支援開始(1972)、CCTVの開発(1973)、オプタコン指導に着手(1976)した。
(3)「専門的技術を伴わない指導訓練は人権を尊重しない行為である。センター最大の使命は、専門的技術の確立と専門職員の養成であった」の考えのもとに、技術書を刊行した。視覚関連では、「盲人の家庭生活動作」、「盲乳幼児の養育指導→育児ノート盲乳幼児編」である。
(4)障害者福祉に関する新しい理念に基づく相談・指導体制への変換を実施した。1980年に就学前障害幼児への通所・集団指導体制を廃止し、家庭を中心とした親主導型育児プログラムへの支援を開始した。また、脳性まひに代表される乳幼児期からの全身障害者を対象とした「自立生活プログラム」を開始した。 

3.原田政美の障害者福祉の理念の変遷
・1966年:「視覚障害リハビリテーションの重要な問題は、失われた視覚を代償する方策を考えること」と考え、その理念のもとに、レーズライターの試作、盲人用、弱視者用カナタイプライター、超音波盲人歩行誘導装置の開発(委託)等、盲人用電話交換機の開発(委託)、CCTVの開発、指導技術の研究(7):失明女子の日常生活動作技術、オプタコン指導、視覚障害乳幼児の発達指導を実施した。
・1974年:「盲児を特別な存在として育てるのではなく、普通の子どものひとりとして、近所の子どもたちと一緒に遊ばせ一緒に幼稚園へ通わせること、これが福祉国家を施行しているわが国の正しい姿である。
・1977年:「障害者が社会にそぐうことができないのは、社会に問題がある。社会が体質をかえれば問題の大半は消える」
 理念を変更するきっかけは、一つには東大眼科医時から変わらぬ諸外国の先進的な知見のレビューであり、さらにセンターにおける実践から得られた障害児者の生活の実態から学んだと考えられる。本人や家族が障害、およびその程度および予後をできるだけ早く知り、家族がそれを受容したうえで、どのように生活するかを選択することが重要であること、専門家は客観的な情報を提供することが責務である。1981年、原田がリハビリテーションについて、その知見を体系的に示した論文がある。そして、センターにはその理念を補完する多くの研究と発表がある。 

4.まとめ
 原田政美は、いずれの職場においても多くの論文を発表している。批判を受けることを恐れていない。そのことを通して互いがより高次な視点に到達すべきとする考えがあると思われる。その一つとして眼科医、他医療保健分野、福祉分野、教育分野への啓もう的情報提供も積極的に行った。

 原田は、社会的役割を果たすために、常に自分がそのときどこで何をどのようになすべきかを熟慮し行動をしてきた。私達センター職員は、専門職として障害当事者及び児の養育者のニーズを知り、それを解決するために、内外の文献を検索すること、必要な器具の開発、指導技術を高めること、有用な指導技術を開発すること、科学的に整理して一般に発表すること、評価を受けること、指導技術の改善等の努力を怠らず、各人が世界や日本で一番のサービスを提供することを目指せとする指導を受けた。1998(76歳)の「弱視治療の反省」には、次の文意の記述がある。眼科医は自分の個々の患者に対して、「治療の期間や方法、予後に関する情報を提供し、もし治療を行わない場合はどうなるかについても言及する必要がある」と。 

 本報告は、眼科関連研究雑誌、「弱視教育」、東京都心身障害者福祉センター刊行「あゆみ」「研究紀要」「BULLETIN」等をもとに考察した。
 

【略 歴】 香川 スミ子 (元東京都心身障害者福祉センター)
 1968年3月 東京教育大学教育学部特設教員養成部盲教育部普通科修了
 1969年4月 東京教育大学教育学部付属盲学校小学部教員
 1970年4月 東京都心身障害者福祉センター(視覚障害科、幼児科、在宅援助科)
 1999年3月 日本大学大学院理工学研究科医療福祉工学専攻、博士後期課程修了、博士(工学)
 1999年4月 聖カタリナ女子大学社会福祉学部助教授(平成12年4月教授)
 2003年4月 浦和大学総合福祉学部教授
 2015年3月 浦和大学総合福祉学部退職 

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@原田政美先生と香川スミ子先生の紹介
 我が国のロービジョンケアを語る時、忘れてならないのは1965年(昭和40年)東北大学教育学部視覚欠陥学教室を開設した初代教授原田政美の功績です。原田先生は、東大眼科萩原教授の門下で、斜視弱視を主に研究した眼科医ですが、萩原教授退官と同時に東北大学教育学部の教授に就任しています。そこで行ったことは「視覚に欠陥のあるものが現代社会によく適応し、各個人の最大限の可能性をもって、社会生活を営めるような知見を提供すべく、医学的、心理学的、教育学的な研究を行う」という、まさ視覚リハビリテーションの科学的追求だったのです。その後美濃部都知事に請われ、東京都心身障害者福祉センターの初代所長として、今度は障害全般のリハビリテーションで活躍します。
 現在、原田先生をご存じの方が少なくなりました。香川先生は東京都心身障害者福祉センターで原田先生と共に乳幼児の支援に携わった方です。原田先生の功績を語るにふさわしい方です。 
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新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
    http://andonoburo.net/on/5217 

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
    http://andonoburo.net/on/5223 

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川 スミ子(元東京都心身障害者福祉センター)
   
 http://andonoburo.net/on/5233

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本) 

4. おわりに 
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
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2016年12月11日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』  佐渡一成
  日時:平成28年10月23日(日)
  場所:有壬記念館(新潟大学医学部同窓会館)
 演題:「我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学) ー開設当時を振り返ってー」
 講師:佐渡一成(さど眼科:仙台市) 

【講演要約】
 順天堂大学眼科リハビリテーションクリニックは、1964年 中島 章教授の指令で、紺山和一先生(伝説の医局長で1979年からはWHOジュネーブ本部で眼科専門官としてWHO失明予防プログラムを長年担当した)が開始し、2年後の1966年から赤松恒彦先生が引き継いだ。 

 当時は大学病院といっても今のように開業医との機能分化がされていない状態で、結膜炎から白内障、緑内障、来院した患者は全部かかえ込んで「目洗い」をしていた時代で、外来には患者が押し寄せていた。その中で、大学病院としての機能が発揮できるようにするためにはどうしたらよいかという検討が自然発生的に加えられた。 

 まず、開業医で間に合うような患者は開業医に紹介することにした。次に、医学的に手を加えようもない患者が多数たまっていたことを認識していたが、失明宣告をしてもその後どうしたらいいかわからないためと、自殺でもされたらという心配から放置していたことを自覚した。紺山先生が更生施設入所者の入所に至る経緯に関する調査を行った結果、「医療機関を転々としていた」「更生施設への入所までに長期間を有していた」「眼科医を含めた診療施設から更生施設への紹介がわずか」であったことが明らかになった。すなわち眼科医をはじめとする医療関係者たちは、リハビリテーションおよび回復の見込みがない者へ無関心であり、診療部門と更生部門の連携が不徹底であることが明らかになった。これらの状況に危機感を抱いた順天堂は、中島教授のもと、紺山医局長が主体となってクリニックを開設した(高林雅子:日本医史学雑誌49、2003)。 

  赤松先生によると、その頃未熟児網膜症のため両眼全く失明した3歳の患児が来院した。母親はその子の眼が治らないことはもうとっくに知っていたが、その子がまだ歩行もできない状態をなんとかならないかと相談に来たわけである。母親に、子供を突き放して「はいはい」させることからやってみてはと帰したが、1か月後にはとても私の手から離れないと言ってまた相談に来た。盲学校や児童相談所などに相談したが、盲学校は学童期に達しなければだめと断られ、児童相談所では視覚障害者の専門家がいないからと断られた。 

 当時は乳幼児の視覚障害児の盲児指導機関もなければ社会適応訓練をするところもなく、盲学校と国立視力障害センターのみであった。そこで視力障害センター相談室に相談した結果、室長の松井新二氏の協力を得て病院の一室でリハクリを開始した。当時は社会適応訓練施設がなかったためカナタイプ協会の協力を得て歩行訓練、点字、カナタイプの訓練、乳幼児の育児指導等を行っていた。1969年に東京都心身障害者福祉センターが開設されたため訓練はそちらにお願いすることになり、順天堂では相談紹介が主な業務となった。 

 失明してしまった者の視力を回復させることは不可能な場合が多いため、リハビリテーションの第一歩は失明宣告である。当然ながら失明宣告を受けた障害者は深い絶望状態に陥る。そこでリハクリでは、病状の説明、失明宣告、その直後から心理的カウンセリング、次に将来進むべき方向の相談に乗り、各機関への紹介をしている。スタッフは心理ワーカー、ソーシャルワーカー、眼科医がそれぞれ相談に当たる。 

 相談を受ける側はただ話を聞くだけではなく、的確なアドバイスをする必要がある。まず障害者の持っている心理的な問題と社会的背景をしっかり把握しなければならない。こちらが悩みのポイントをしっかり把握してから、その解決にはどうしたらよいかのアドバイスを与えるようにする。心理的な多くの問題を乗り越えた時に、一般的な生活をするために必要な基本的訓練を行う。その後、社会に復帰する者、職業訓練施設に入る者、教育機関に入る者などに分かれて行く。 

 これらのスタッフをそろえて相談する場所は更生相談所や身障福祉センターなどでも良いが、医療機関からの紹介で福祉施設の相談機関に行くまでには障害者の心理的な落差が大きく、その間の障害者の迷いには種々のむだや事故を起こす危険性をはらんである。したがって、当時の順天堂眼科は大学附属病院の中にスペシャル・クリニックの形で開設していた(赤松恒彦:病院35、1976)のである。 

 第3回日本ロービジョン学会(仙台,2002)に体調が万全ではないにも関わらず、学会全日程に参加された赤松先生が、教育分野のシンポジストとフロアの眼科医とのやり取りを聞いて「眼科医は 見えるということをわかっていない」「「眼科医と他の分野の専門家がうまく協力できるように・・・」と 話されていた。 

 1964年 順天堂大学がリハクリを開設してから現在までに52年が経過している。中島教授・紺山先生・赤松先生らが始めた眼科医による視覚障害者支援は進歩しているのだろうか?先人の思いを私たちは重く受け止める必要があると思う。 

 

【略 歴】
 1979年      岩手県立釜石南高校卒業
 1986年      順天堂大学医学部卒業
 1993年      厚生省主催眼鏡等適合判定医師研修会終了
 1999年      順天堂大学眼科講師
 2000年から  さど眼科(仙台市)院長・順天堂大学眼科非常勤講師
 2001年から  岩手県沢内村(現西和賀町)で眼科診療(月1回)
 2002年      第3回日本ロービジョン学会事務局長
 2005年から  視覚障害リハビリテーション協会理事 

@佐渡一茂先生の紹介 
 我が国のロービジョンケアを語る時、必ず挙げられる歴史的事実は、1964年順天堂大学眼科で始まった「眼科臨床更生相談所」です。設立当時のことを佐渡先生に語って頂きました。
 佐渡先生は順天堂大学出身の眼科医で、仙台で開業しています。数多くの分野(コンタクト・スポーツ医学・沢内村診療等)で活躍するスーパードクターで、現在でも毎月リハビリ外来を順天堂大学眼科で行っています。

 

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●新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
    http://andonoburo.net/on/5217

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
   
 http://andonoburo.net/on/5223

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績

   香川 スミ子(元 浦和大学) 

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本) 

4. おわりに 
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)