勉強会報告

2015年3月22日

 講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;近江八幡市)
 演題:生きるとは…「いのち」にであうこと ~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

【講演要約】
 ホスピスという場で患者さんと共に時間を過ごしていると、患者さんの死から、私は生きていく力をもらっているのではないかと思うようになった。ホスピスケアは、人に生きていく力を与えることができる。ホスピスケアを通して、人類に通底する「いのち」に気づく。人はひとりぽっちではなくて、他者とのつながりの中で生きていることを知る。「いのち」は死を貫いて遺る者に受け継がれていく。 

 ホスピスケアは、その人がその人らしく尊厳をもって人生を全うすることを援助することである。痛みなどの症状を除くことがゴールではなく、死の孤独に寄りそうことが真のホスピスケアと考えているが、そのためにヴォーリズ記念病院ホスピスで心がけていることを述べてみたい。

(1)患者さんと話す時間を多くとる
 現代医療は、高度に専門化、細分化が進んでいる。狭い領域で専門的治療を受け、医療システムの流れに乗って効率良く連携されていく。がんのように高度の先進的医療が求められる分野では、なおさらこの傾向が強い。病人は多くの医療機関を転々として、数多くの医療者の関わりの中で、診断から治療、あるいは終末期ケアまで流れていく。いくつもの診療科で診てもらうので、かかわる医師の数も増えてくる。がんの進行度に応じて何人もの医師に治療が引き継がれていくことになる。

 ここで問題になるのは、各々の医師は、それぞれの専門領域を診るにとどまり、病気の治療全体の責任の所在が明確でなくなっている。つまり、主治医が誰なのかわからないということである。患者さんは、病気が治るか否かという大きな不安を抱えている。また、治療のためにどれだけ仕事を休まなければならないのか、治療終了後に仕事に復帰できるのかなど、これから先の生活のことがとても気がかりになっている。ホスピスではまず、患者さんの言葉に耳を傾けることが基本である。 

(2)かなしみへの気遣い
 ホスピスで過ごす患者さんが感じることは、人生の悲哀ではなかろうか。死の影が忍び寄る胸の内を分かちあいたいということだろう。患者さんの持つ陰性感情は隠れやすいとされる。「かなしい」「つらい」「苦しい」「むなしい」「切ない」などの思いに気づくことが大切である。そして、医師と患者の立場を超えて、同じ死にゆく運命を共有する弱い人間同士という気持ちで、その場と時間を共に過ごすことである。医療者として「何とかしてあげねばならない」と気負うことなく、いずれ死にゆく仲間同士という意識で、「とことんつきあおう」ということではないかと考えている。 

(3)患者さんの心の旅路につきあう
 ホスピスで過ごしている患者さんたちは、誰もがこれからどのような苦しみが待っているのか、死ぬときは苦しまないだろうか、などと日々起こってくる身体の変化のひとつひとつに不安を覚える。全人的ケアという意味合いを考えると、身体症状の原因には、精神的な要素、社会的な要素、スピリチュアルな要素が含まれているということである。たとえば、「食事ができなくなった」という患者さんの訴えの場合、その言葉の背後に思いを巡らせることが大切である。決して胃腸の問題だけではない。薬が効かないというイライラが募っているかもしれないし、家族の見舞いが減っていることが気になっているのかもしれない。また、これから自分にどんなことがおこるのか不安でいっぱいになれば、食事もできないであろう。患者さんが何を思って「食事ができなくなった」と口に出したのか、この言葉をきっかけに、患者さんの心の旅路につきあうことがホスピスケアである。 

(4)人生の流れの中で現在を見つめ直す
 人生は物語にたとえられる。ひとりひとりの人生は、生まれてから死を迎えるまでの一巻のオリジナルな物語である。ホスピスでの時間は、その物語の大団円を迎えるときである。患者さんには、自分の人生を振り返ってもらうことがとても大切だ。今日この時まで生きてきたこと、人生で輝いていたときのこと、苦しかったときのことなどを思い返してもらい、人生が一連のつながりの中にあることを感じられたら死にゆく状況も納得しやすい。

 現代日本は、団塊の世代が平均寿命を迎える10年後に多死時代を迎えるといわれている。その時を憂える声があり、死の準備を怠らないことが現代人に突きつけられた喫緊の課題である。死から学ぶことは大きい。 

【プロフィール】
 1951年、岩手県盛岡市の生まれ。小学二年生のとき、医師だった父の異動で京都に引っ越し、以来、大学卒業まで京都で育つ。クリスチャンホームで、物心つく前から教会に通い、中学一年生で受洗した。父親は法医学の大家、四人の叔父は外科医。
  1978年大阪医科大学卒業。自治医科大学消化器一般外科講師を経て、淀川キリスト教病院外科医長となった。その時父親を胃がんのために同病院ホスピスで看取っ た。このことをきっかけに96年ホスピス医に転向。2年間研修後、愛知国際病院ホスピス長を経て、2002年よりヴォーリズ記念病院にてホスピスケアを行っている。
 2004年、自身も腎がんで右腎摘出術を受けた。その後、自らの体験を顧みつつ、「死の前では誰もが平等、お互いさま」をモットーにしてケアを実践している。その様子がドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日~」として2013年春から全国公開され、ホスピスからのメッセージを多くの人たちに届けている。

@淀川キリスト教病院 http://www.ych.or.jp/
 1973年に日本で最初にホスピスケアを行い、1984年には日本のホスピスの生みの親、柏木哲夫氏(現・同病院理事長、名誉ホスピス長、金城学院長)により国内二番目のホスピスが開設された。細井氏はホスピス医としての指導を受けた。
@ヴォーリズ記念病院ホスピス http://www.vories.or.jp/medical_dep/kanwacare.php
@ドキュメンタリー映画『いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日』 http://www.inochi-hospice.com
「著 書」
 『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
 『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
 『希望という名のホスピスで見つけたこと~がんになったホスピス医の生き方論』(いのちのことば社、2014年)

【後 記】
 ホスピス医の細井順氏をお招きしての講演会。当院で3回目となりますが毎回多くの参加者があります。今回も新潟市、新潟県は勿論、神奈川県・宮城県・長野県・山形県からも参加頂き、80名を超える参加者で盛況でした。
 細井節は快調でした~「いろいろな方々との最後の時を一緒に過ごし学んだことは多い。死にゆく人は遺される人に生きていく力を与える。この力が『いのち』と呼ばれるものではないのだろうか。ホスピスでは生死を超えた『いのち』にであうことができる。。。。。」

 講演の後で会場から沢山の質問も頂きました。最後までみてくれるホスピスを探すにはどうしたらいいのか?認知症の方とのコミュニケーションをとることは可能か?ターミナルケアと緩和ケアというのはどう違うのか?音楽療法は行うのか?最期を看取るのは長い間診てくれている開業医の先生ではダメなのか?ホスピス医と家庭医の違いは何?医者の勧める治療法を受け入れたいが、自分の生き方とぶつかることもある。如何にしたらよいか?多くの悩みを抱え、余命いくばくと宣告された方と如何に向き合えばいいのか?ホスピスには宗教的なバックボーンは欠かせないのか?医師は患者と向き合いエビデンスに基づいた治療を行うが、同時に患者に寄り添うホスピス的なケアを同時に並行して行うことは可能なのか?、、細井先生はこれら多くの質問に丁寧に答えてくれました。
 今回初めて講演会終了後、細井氏著書の販売/サイン会も行いました。多くの方が事前に購入し読了してから参加しており参加者の意識の高さを知ることができました。書籍販売の本屋さんはがっかりでしたが、、、

 死は誰にでも訪れるものですが、準備ができているかと問われて大丈夫と答えることの出来る人は少ないのではないでしょうか?細井氏は死について、そして死を迎えた人との向き合い方について淡々と語りました。その普通の語り方に凄さを感じました。ホスピス医は、時に「死神が来た」と揶揄されることもあるそうです。でも、「あなたのことを私は最後までみます」と言われたら、その人はどんなに安心するでしょう。現在の医療は、多くの部分を専門家が担っています。自分の専門のところが終了すると次のところを紹介という医療が最前線と考えられがちです。こうした医療の在り方、そして己を見つめ直す機会となりました。病を治すことが医療者の仕事です。しかし、メスや薬では治らない場合、「やすらぎ」を感じてもらうような医療を提供することも大事なことだと思い至りました。

 講師の細井氏、最後まで熱心に講演会に参加された方々、会場の準備・整理をして頂いた方々、講演会の模様を中継して頂いた方々、会場を提供してくれた病院関係者等々、すべての方々に感謝致します。

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【さらに細井順を知りたい方へ】 「いのち」について
(1)木村敏に学ぶ
 私のホスピス観を表すと、「生死を超えたいのちの在りかを共に探し求め永遠を想い、現在を生きる」となる。ここで平仮名の「いのち」について考えてみたい。「いのち」についての考察を深めるために、臨床哲学者木村敏の生命論的差異という考え方を援用したい。木村は、生命を個別的生命である「生」と、普遍的生命である「生それ自身」との二つに分けて考えた。個別的生命「生」は、死で終わる有限なものであり、普遍的生命「生それ自身」は、すべての生きものに通底し、死で区切られない無限性を持つ。「生」と「生それ自身」とのあいだを「生命論的差異(=主観性)」と言う。この誰にでも通底している普遍的生命が「いのち」の素になっている。 

(2)「いのち」の誕生
 今、ある二人の人物が出会っているとしよう。A氏とB氏である。A氏とB氏はそれぞれに「生」と「生それ自身」を持ち、そのあいだを「主観的」に生きている。そのふたりが出会ったときには、A氏の主観とB氏の主観とのあいだに「間主観的」といわれるあいだができる。そのあいだを「いのちが生まれる空間」といい、人と人はこの「いのちが生まれる空間」で出会う。人と人との出会いは様々である。A氏、B氏ともに健康で、死を特別に意識せずに日常性のなかで出会うなら、この間主観的というのはそれぞれの個と個とが出会い、各々の「生」が中心となり、「生それ自身」は背後に隠れる。「生それ自身」は通常の関係性の中では特に意識されることなく、両者が健康で、競い合っているような場合には問題にならない。しかし、A氏、B氏の両者、あるいは片方に死が迫っているような、非日常的な場面では、ふたりに通底する「生それ自身」が表に出てくる。そして、日常的・個別的な「生」は後退し、ふだんは深奥で隠れている「生それ自身」が呼び覚まされてくる。このようなときには、ふたりの個別性が強調される方向ではなく、ふたりの共通性が優位になってくる。ふたりに通底する「生それ自身」が前面に現れたときに、A氏とB氏のあいだに生ずるのが「いのち」と呼ばれるものだと考える。生命の危機に臨んで、普遍的生命がふたりを結んだときに「いのち」が生まれる。

 そう考えると、死を通路にして「いのち」が生まれるということになる。「いのち」は生まれるものなのだ。最初から備わっているものでなくて、出会いの中で生まれるものを指す。死という有限性を持つ人間が、無限に開けた存在となるために、「いのち」があると考えている。人間とは、ひとりの人間存在としてあるのではなく、誰かとの関係、木村の言葉では「あいだ」の中にある。そうだとしたら、私がいのちの臨床で感じる、「ひとはひとりでは生きられない、死ねない」ということも説明できるように思われる。 

(3)「いのち」は受け継がれていく
 ホスピスで死にゆく人たちとのあいだに生まれた「いのち」は、「普遍的生命」に根ざしたものである限り、私ひとりが生きていく力となるばかりではなくて、遺された家族、かかわってきたホスピスのスタッフにも、あるいはその患者さんと深いかかわりのあった全ての人たちの生きていく力になっていくものだと考えたい。愛する人を亡くするかなしみは個人的なものである。だが、誰もが持っている普遍的生命(「生それ自身」)が「いのち」の素となって、そこで「いのち」が生み出されるならば、それは、死の通底性から多くの人とのあいだにも「いのち」が生まれていくのである。そして、その広がりはついにひとつの「いのち」に還元されていくように思える。「いのち」とは、このように普遍的なものである。「いのち」は死を超えて次の世代に受け継がれていき、無限に続くものである。

 人間はつながりの中でしか生きられず、そのつながりこそ、平仮名の「いのち」であると考える。「いのち」は、各々の生活の中にあって、他者との出会いを生き生きとしたものに換え、喜怒哀楽を演出して、人から人へと代々受け継がれていくのである。人生は物語にたとえられると前述した。ここでもうひとつの物語を考えたい。前述したものを横の物語とするなら、ここでは縦の物語と名づけよう。親から受け継ぎ、幾世代にもわたって綴られ、同時代の人々と和してひとつの章節を書き込み、次の世代に引き継がれる「いのち」の物語である。この物語は一人ひとりに生きる意味を与えてくれる。こうして、ホスピスでの死にゆく人たちとの出会いは私に生きる力を与えてくれるのである。

2015年3月20日

 演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長:注1)
  日時:平成27年03月11日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
Ⅰ 琵琶法師・按摩師~「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で
 古来日本の盲人は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作し、琵琶法師や按摩師などの業を獲得して来ました。江戸時代、当道座(注2)が自治権を認められ、幕府に重用される盲人も現れました。1682年(天和2)、盲人に鍼を教える学校「杉山流鍼治導引稽古所」(注3)も開設しました。バランタン・アユイが、世界最初の盲学校であるパリ青年訓盲院を設立した1784年よりも100年以上早かったのです。 

Ⅱ 明治政府の施策
 明治政府は長年続いた当道座を廃止します。状況を打開する第一着手は教育でした。1878年(明治11)京都盲唖院発足、2年後、東京楽善会訓盲院も授業開始。京都の古河太四郎は「自己食力」を構想し、楽善会はその基調に自助論を据えていました。いずれも古い徒弟教育を否定し、普通教育の上に職業教育を築きました。中村正直(注4)の「天は自ら助くる者を助く」論は自我形成と生存競争、二つの課題を盲人に課しました。 

Ⅲ 初期の日本盲教育
 京都も東京も、点字がない現実から始まりました。木に刻んだ文字、紙を用いた凸字、紙にカナカナをプレスしたイソップ物語、鍼理論を漢字・仮名交じりに成形した凸文字教科書などが作られました。墨字の書き方の練習もしました。しかし、明治10年代の盲生にとって学習は著しく困難でした。退学が相次ぎました。 

Ⅳ 点字の登場
 事態を根本から変えていくのが点字です。人類の文字は凹字から始まりましたが、紙の発明によって平らな字に変わり盲人が読み書きし難くなりました。盲字用凸字から12点点字に飛躍し、ルイ・ブライユが6点方式に改革したことを通じて、世界の盲人にとって自由に読み書きできる文字が獲得されました(注5)。私は、アーミテージの「盲人に対する最善なるものの唯一の審判者は盲人」という提言も重要であったと考えています。
 わが国では、英国の盲人アーミテージによる『盲人の教育と職業』という書籍がそれを持ち帰った手島精一から小西信八東京盲唖学校長の手に渡り、石川倉次の点字研究が始まります。その出発点で、高田出身の小林新吉少年がアルファベット点字の読み書きを円滑に行ったことが決定的な駆動力となりました。 

Ⅴ 小西信八の功績
 明治期後半からの盲教育においては、東京盲唖学校長・小西信八の認識がもたらした影響が重要です。彼は1896年(明治29)から1898年(明治31)にかけて、欧米の障害児教育を視察しました。国家による教育を受ける権利が、盲児、聾唖児にもある(「天賦人権論」に立った認識であったかどうかは吟味を要しますが)と、はっきり主張しました。
 1906年(明治39)聾唖教育全国大会 3校長(小西信八・古河太四郎・鳥居嘉三郎)の「文部大臣建言」『上申書』・・・盲ト聾トハ全ク性情ヲ異ニシ盲者ノ為ニ考慮ヲ尽シタル成案モ之ヲ聾者ニ適用スベカラズ聾者ノ為ニ工夫ヲ凝ラシタル良案モ之ヲ盲者ニ利用ス可カラズ・・・・ 

Ⅵ 盲・聾 教育の義務化と分離
 明治から戦時中にかけて続けられた帝国盲教育会などによる運動の結果、盲・聾教育の義務化と分離は、1947年(昭和22)教育基本法、学校教育法によって果たされました。最後に盲・唖分離が行われたのは石川県で、それは1965年(昭和40)でした。特別支援教育制度の下、今後の視覚障害教育はどのような方向に向かうのか、気にかかっています。 

Ⅶ 日本盲人会
 1906年(明治39)には日本盲人会も結成されました。東京と京都の教員とその教え子たちが呼びかけ人に名を連ねました。メンバーの一人、左近允孝之進は点字新聞「あけぼの」を創刊し、『盲人点字独習書』という書物も発行しています。文部省が『日本訓盲点字説明』を出すより6年も早く当事者である左近允がこの仕事をしたのです。 

Ⅷ 同窓会
 それらに先立って、同窓会作りが1902・3年(明治35、6)に東京でも京都でも始まり、全国の盲唖学校へと広がって行きます。自らの団体を結成して歴史を一歩前に進めようという動きの基盤になったことは間違いないと考えられます。京都府立盲学校の同窓会は、昭和の初めに国産第1号として点字タイプライターを製造・販売しました。点字盤も「京盲同製」と彫り込んで販売しました。状況に対応して生きるだけでなく、状況を変える主体者として、当事者集団が立ち現れてきたことの意義は大きかったと思われます。木下和三郎の盲人歩行論にももっと注目すべきでしょう。
 自己実現を求め続ける「主体」が形成・確立されてきた過程を掘り起し、公助の範囲を縮小していくかのような今日の流れを超える力はどこから生まれてくるのかを考察したいと思っております。 

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注1)「日本盲教育史研究会」
 2012年10月13日発足。全国各地方・学校などに埋もれている史料の発掘、保存、活用を追求し、調査・研究の成果を交流・共有。日本の明治期以降の歴史を研究することにより、今後の盲教育の方向を示唆することを企図して有志により作られた。
@「日本盲教育史研究会公式サイト」
http://moshiken.org/index.html 

注2)「当道座」
 江戸時代に幕府から承認された視覚障害者の組織(西洋諸国のギルドにあたる)。自治権が与えられ、検校・別当、勾当、座頭の位があり、さらに細かく全部で73階級に分かれていた。当時3000人くらいがこの組織に属していた。 

注3)「杉山流鍼治導引稽古所」
 小川町邸の後、本所一つ目弁財天社内に開設(江戸時代後期より本社二の鳥居の手前、南側に四間余り五間の教育施設)。 この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した。現在江島杉山神社(東京都墨田区)。1682年(天和2)9月18日、家塾を改め杉山流鍼治導引稽古所を設立。アユイによる視覚障害者教育(パリ・1784年)より100年以上前のこと、世界の教育史上特筆すべき初の盲人教育である。
@「杉山流鍼治講習所」
http://www13.plala.or.jp/sugiyamakengyou/kousyuujyo.html 

注4)「中村正直」  1832年〈天保3年〉- 1891年〈明治24 年〉
 西国立志編(自助論)~1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなる。自助論の序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳した。
@「中村正直 | 近代日本人の肖像 – 国立国会図書館」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
@
「中村正直 – Wikipedia – ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4 

注5)「ルイ・ブライユ Louis Braille」 1809年~1852年
@アルファベット6点式点字の開発者
「ルイ・ブライユ – Wikipedia – ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A6


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追補 「新潟の先達たち」
1.小西信八 (こにし のぶはち)1854年(嘉永7)―1938年(昭和13)
 長岡藩医小西善硯の次男として越後国古志郡高山村(現・長岡市高島町)に生まれ、1876年(明治9)東京師範学校中学師範科に入学し、1877年(明治10)、東京高等師範学校教諭(付属幼稚園主任を兼務)、1878年(明治11)には文部省四等属に任ぜられて訓盲啞院掛事務となります。そして1879年(明治12)に東京盲啞学校教諭兼幹事となり、さらに1882年(明治15)の同校校長心得を経て、1885年(明治18)に39歳で同校校長となっています。そして、1902年(明治35)に東京盲啞学校が東京盲学校と東京聾啞学校に分離した際、後者の校長として1925年(大正14)まで務めました。
 盲唖学校・聾唖学校校長、初期聾唖教育・盲教育の充実に努め、欧米歴訪で国家の教育を受ける「権利」・義務制の主張を明確化する。石川倉次と共に6点点字の開発。盲・唖分離論を唱えました。明治・大正という、障害者教育の黎明期に大きな足跡を残しました。
@「点字教育と新潟 – 博物館学を読む – Yahoo!ブログ」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekitomo2000/64943722.html

2.大森隆碩(おおもり りゅうせき)1846 年(弘化3)―1903 年(明治36)
「医学と英語の英才」
 1846 年(弘化3)高田藩医の長男として誕生。15 歳からは江戸で眼科の勉強をし、1864 年(元治1)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンにも師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しました。

「訓盲談話会」の設立
 再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。1886年(明治19)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。

「高田盲学校」
 1891 年(明治24)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を受けて、私立高田訓矇(くんもう)学校を設立し、校長に就任します。日本で三番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の設立にも貢献し、その所長も務めています。1903 年(明治36)、療養中だった東京で亡くなりました。享年57 歳
@「日本3番目の盲学校を開校 大森隆碩」 
https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/92476.pdf#search=’%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E9%9A%86%E7%A2%A9′
@「開学の精神」後世に
http://www6.ocn.ne.jp/~oasisu/igyouden.htm
@「高田盲学校の設立に尽力した眼科医・大森隆碩』
http://andonoburo.net/on/3488

3.大森ミツ(大森隆碩の次女 東京盲唖学校訓導。高岡清次と結婚し、高岡光子)
 1904年(明治37)国定教科書「地理書」に挿入する『内国地図』を亜鉛版に打ち出し発行(初の触地図)。翌 1905年(明治38)8月には『外国地図』を発行。1914年(大正3)には辞書『言海』の点字訳を成し遂げました。夫・高岡清次は東京帝大を卒業後に中途失明した法学徒であり、光子はその学問をも支えました。なお、1909(明治42)年2月国に対して「点字公認ニ関スル請願」が提出され、あと一歩で採択されるところまで進展しましたが、内閣法制局の「点字は文字にあらず」という判断によって葬り去られました。この請願に高岡清次も加わっています。 

4.市川信夫  1933年(昭和8)-2014年(平成26) 
 新潟県上越市出身。高田瞽女の文化を保存・発信する会代表。児童文学者。新潟大学教育学部に学び、各地の小学校に勤めた後、盲学校・養護学校などで障害児教育に当たりました。高田瞽女研究の第一人者と言われた父、市川信次の指導で瞽女研究をはじめました。退職後は知的障害者通所作業所所長、上越市文化財審議委員などを歴任。坪田譲治氏に師事して学んだ児童文学の分野では、代表作に「雪と雲の歌」や映画化された『ふみ子の海』(理論社)があります。その映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」でした。
「児童文学者・高田瞽女研究家、市川信夫さん死去 功績たたえ、急逝を悼む」
http://www.j-times.jp/news.php?seq=9555
「瞽女文化」
http://goze.holy.jp/goze/hennaka2/itikawa.html
「ふみ子の海」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%BF%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%B5%B7

5.高田訓矇学校は「日本最初の盲学校」
(点字毎日連載『歴史の手ざわり・もっと!第10回』より)
 明治10年代、東西二校の他に、大阪や石川などで盲啞教育が試みられました。しかし、条件が熟していなかったため、いずれも挫折してしまいました。従って、1891年(明治24)創立の高田盲学校が「3番目の盲学校」と言い習わされてきました。現在(執筆・掲載時点)は、県立上越養護学校内に同新潟盲学校高田分校となっています。
 高田盲学校の歴史は幾つかの際立った特色を持ちます。まず、2006年(平成18)まで、一度も「盲唖学校」に変容することなく、徹頭徹尾「盲学校」として存在し続けた点です。京都も東京も、「盲唖」校であった時期に、高田は視覚障害に特化した学校づくりを初心としました。地元には、聾唖生の受け入れを望む動きもありましたが、それをあえて退けました。この経緯をふまえると、高田は「3番目」でなく、「日本で最初の盲学校」と称えるのが相応しいとさえ言えます。
「点字毎日 2011年10月27日 歴史の手ざわり・もっと」 京都府立盲学校 岸博実
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-b1-f4%2Fkishi_1_99%2Ffolder%2F557467%2F59%2F38786859%2Fimg_0%3F1321074146&i=1

 これらの方々の足跡・業績をいっそう体系的に掘り起し、顕彰していきたいと念じます。高田盲学校の史料、市川信夫氏の仕事をどう継いでいくか、関係者のご尽力に期待しています。

PS:ささやかなお土産として、「高田盲学校30周年記念」(点字)を墨字に起こして持参いたしました。 

 

【略 歴】
 1972年(昭和47年)   広島大学教育学部卒業
 1974年(昭和49年)~  京都府立盲学校教諭
 2011年(平成23年)~  点字毎日・点字ジャーナルに盲教育史連載 
 2012年(平成24年)~  日本盲教育史研究会事務局長
 2013年(平成25年)~  滋賀大学教育学部非常勤講師
           6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演を担当
 2014年(平成26年)7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で
              教育講座を担当 

【後 記】
 とにかく視覚障害者への教育の歴史に対する岸先生の真摯さ優しさを感じる講演でした。
 一つ一つは知っている積りでしたが、歴史の流れの中で語られた視覚障害者(児)の教育の話は新鮮でした。衝撃でした。最初に述べられた、琵琶法師・按摩師は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作した人たちという認識も新鮮でした。わが国には古くから視覚障害者に対する施策や教育があったこと、明治を機に大きく制度改革が行われたこと、視覚障害者のために点字の開発が大きかったこと、盲・聾 教育の義務化と分離に長い年月を要したこと(最近は逆に統合が進められている)。自己実現を求め続ける『主体』が形成・確立されてきた過程を知るにつれ、公助の範囲を縮小するかのような今日の流れに危惧を覚えます。
 新潟の先達の働きも再認識しました。同時に、貴重な資料の保存も気になりました。
 岸先生には、あいにくの天候の中、京都から新潟(そして上越・高田)までお出で頂いきました。感謝です。岸博美先生の今後益々のご活躍を祈念致します。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされ
     
     いかされる新潟市づくり条例検討会に参加して」
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会事務局長)
 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)
 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「人生いろいろ、コーチングもいろいろ
   ー高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えることー」
  立神粧子 (フェリス女学院大学教授)
-----------------------
 参考:新潟ロービジョン研究会2011~2011年2月5日(土)
  『前頭葉機能不全 その先の戦略』立神粧子
   http://andonoburo.net/on/3495
 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)
 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題未定
  藤井 青 (ふじい眼科)

2015年2月8日

 演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
  日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
1.現在化粧の動向と視覚障害者
 化粧は,顔の容姿を美しく装うだけのものではなく,社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている.現在では1人の成人した女性として社会に参加するには,「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている.
 女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず,綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている.昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により,マスカラ,付け睫毛,アイライン,カラーコンタクトレンズなどを着用し,華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった.
 今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり,「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている.また化粧の本格的な習慣化は,成人としての社会参入条件であるとの指摘もある.これらの報告から現在社会における化粧は,女性にとって,自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる. 

2.化粧と視覚障害者の現状
 化粧社会と言われるなかで,視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は,化粧をしなくなる傾向がある.その背景には,視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが,他者からの低い評価を受けたことで自信を失い,自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い.低い評価の例として,「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている.
 このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある.また,化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い.これらから,視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは,化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり,女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた. 

3.視覚障害者に向けた化粧支援
 演者は化粧活動の中で,化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った.この出会いがきっかけとなり,視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった.
 化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで,視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し,外出支援に繋がると期待された.
 しかし,この活動には限界があった.それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが,「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため,1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった. 

4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
 そこで演者は,視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した.視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく,自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた.この考えから,2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した.
 そして,化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから,化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた.化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した.この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」.(映像視聴:12分30秒)を完成させた 

5.障害者ではなく,ひとりの女性として
 ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は,「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性),「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性),「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている.これらから,社会的視点では,視覚障害の女性を“障害者”ではなくひとりの”女性”として認識し,尊重した接し方をしていると考えることができる.また,視覚障害者からの視点では,ひとりの女性として社会的配慮ができるということ,そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた.このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり,彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている.

 

追伸 「理美容ニュース」で,昨年,日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて,記事になりました.ご一読いただけましたら幸いです.この発表がきっかけで,今年の秋から,美容専門学校のメイク科で,ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として,ブラインドメイクを通して,広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています.
 http://ribiyo-news.jp/?p=13994

 

【略 歴】
 1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
 2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
 2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
 2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
  日本ケアメイク協会 会長(2010年~2014)
 http://caremake.on.omisenomikata.jp/

【後記】
 大石さんは、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学大学院で学びながら、目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めている方です。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
 曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
 実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
 大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
 
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3412 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
                   
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会) 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00   注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会) 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定) 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学) 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県) 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年2月6日

「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)

  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
1. 視力を失って
 小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。 

2. 盲学校入学
 中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
 ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。 

 3. 盲学校の外の世界へのあこがれ
 楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
 そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。 

4. 大学進学への挑戦
 1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
 そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。 

4. アメリカ留学
 卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
 アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
 こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。 

5.日本に帰国し市議会へ
 社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
 私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。 

6.進む法整備
 国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
 私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
 こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。 

【略 歴】
 1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、
     京都外国語大学英米語学科。
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
 2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、
    新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中

  http://www.aokimanabu.com/

 

【後記】
 青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
 目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
 幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。

 青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3348

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士))

 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会)

 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00  注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)

 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)

 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学)

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)

 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年1月10日

 演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
 講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00 

【講演要旨】
Ⅰ 最近の障害児者をめぐる法整備
 平成26年(2014)2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効しました。我が国において障害者等が積極的に社会参加できることや、相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型社会の形成への取り組みが、今後一層進展するものと期待されています。教育においては、こうした共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための様々な施策が推進されています。

 このことは平成18年(2006)国連総会において「障害者の権利に関する条約」が採択されたことにはじまります。我が国は、平成19年(2007)9月に同条約に署名し、6年半後に発効にこぎ着けました。この間、下記のとおり批准に向けて必要な国内法の整備が進められ、障害児者に関わる法制度改革がなされてきました。今後も整備の充実や一層の改善が求められています。
    平成23年(2011) 8月 障害者基本法の改正
   平成24年(2012)10月 障害者虐待防止法
   平成25年(2013) 4月 障害者総合支援法
   平成25年(2013) 4月 障害者雇用促進法の改正
   平成25年(2013) 4月 障害者優先調達推進法
   平成25年(2013) 6月 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律
   平成25年(2013) 9月 学校教育法施行令の一部改正 

Ⅱ トータルサポートセンター
 障害児者に関する教育や福祉等に係る法整備は、この四半世紀に大きく前進しました。遡って盲聾学校の義務制が布かれた戦後間もなくの頃は、まだまだ未整備であったことは周知のことです。今から140年ほど前、明治11年(1878)日本ではじめての盲学校、京都盲唖院の開校から現行法制度に至までの過程で、全国盲学校は教育に留まらず、視覚障害者にとってトータルサポートセンターとしての役割を担ってきました。例えば、三療や音曲などの職業教育、公立点字図書館設置運動、三療以外の職業開拓、視覚障害者のスポーツ振興など、ニーズに応じ積極的に支えてきた歴史があります。法整備が整うまでの長い間、盲学校は教育のみならず福祉・労働・文化・スポーツなど、様々な分野で先導的な役割を果たし、時代の先駆けを担ってきたのです。 

Ⅲ 視覚障害者を支えた組織
 1 御大典記念新潟県立新潟盲学校奨学会
 盲聾学校の義務制が、昭和23年(1948)4月より小学部1年生から学年進行ではじまりました。制度は整ったのですが、実際には家庭の経済的な問題、いわゆる貧困により、盲学校や聾学校に就学したくてもできない未就学が大きな課題でした。そこで、昭和26年6月に「盲学校、聾学校、養護学校への就学奨励に関する法律」が施行されました。教科書などの教材費、給食費、舎食費など就学に関わる費用の一部が国庫や県費から支出されるようになりました。これより以前、このような公的支援がない時代、昭和3年(1928)8月当校では独自の奨学金制度を立ち上げていました。それが御大典(ごたいてん)奨学会です。昭和天皇の皇位継承を記念して、篤志家から寄付を募りこれを基本金として、その利子を貸し与えるというものでした。当校には、奨学会設立趣旨書や定款が残されています。

 2 新潟県盲人協会
 現在の社会福祉法人「新潟県視覚障害者福祉協会」の前身である、「新潟県盲人協会」は、大正9年(1920) 6月19日に、刈羽郡柏崎町の中越盲唖学校で開催された県下盲唖学校出身者による連合有志会で設立されています。 設立時の会長は、新潟盲唖学校教員の高橋幸三郎、副会長は、中越盲唖学校教員の姉崎惣十郎の2人、理事8人の体制でした。事務所を、西堀通3番町にあった新潟盲唖学校内に置き、昭和5年(1930)に新潟盲学校が関屋金鉢山に移転すると、そこに移動しています。会長が新潟盲学校教員であり、事務局を所属学校としていたので、実質は盲学校で運営していたといえます。 事業として、設立当初から、点字雑誌を年4回発行。当時貴重だった点字図書を県内5カ所で巡回文庫として設置(大正15年より点字図書館に統合)。出張講演会の開催。点字の普及や三療など職業に関する座談会の開催など多岐にわたっています。 戦中、戦後の混乱期を経て昭和25年4月、県立第7代校長塚本文雄先生が、初代新潟県盲人福祉協会長として就任されました。会員の福利厚生を図り、視覚障害者相互の共励と親睦、研修に敏腕を発揮されました。

 3 新潟盲学校同窓会
 当校同窓会は、開校5年後の明治45年(1912)3月23日の第1回卒業式で4名の卒業生を送り出した日から始まります。同窓生が少なかったことから発足から、昭和2年(1927)までの15年間は、在校生も含めた組織でした。事務局は母校内とし、母校教員が事務処理を担当しました。この体制は同窓会設立から102年を経過した現在も変わりません。
 昭和10年(1935)からは、同窓会長を校長が兼務することとなり、県立第5代校長樋口嘉雄先生が就任されました。学校は同窓会を支え、あるいは一体となって、同窓生の福利厚生や就労の支援をしていたのです。点字機関誌「舟江の六光」の発行や総会の開催から懇親会、あるいは被災同窓生の募金まで手がけました。また、日常生活に欠かせない白杖、点字盤、点字紙、ゲーム用品、糸通し、醤油差し等々を当校購買部が同窓生に小分けしていました。現在のように宅配便やネット販売など無かった時代ですから、当校が視覚障害者用具の卸や販売部の役割をしていました。 

Ⅳ 就 労
 1 明治維新以後の視覚障害者
 明治4年、それまでの当道座が廃止され、同7年の医制発布により、鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることになりました。更には、明治18年の「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには、試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになりました。江戸時代までの視覚障害者は、当道座により男性は琵琶、琴、三味線等の音楽、鍼灸、あん摩、貸金業等、女性は瞽女等なんらかの仕事に就くことが可能でしたが、それができなくなりました。

  2 盲学校(視覚障害教育)のはじまりは職業教育
  ①<鍼灸、あん摩>  明治18年10月、新潟の鍼按業関口寿昌(としまさ)は、盲人教育と鍼灸師養成は、それまでの徒弟制度ではなく、学校教育によらなければならないとして「盲人教育会」を設立しています。関口の死後、盲人教育会は消滅してしまいましたが、これが当校の前身、新潟盲唖学校設置の母体といえるようです。一方、上越では中頚城郡高田町(上越市)に、明治19年(1886)訓盲談話会が組織され、同21年には、「盲人矯風研技会」に改名し、盲児に鍼按、琴などの指導を始めています。このように、学校設置により教育を行い、手に職(鍼灸・あん摩)をつけさせ、視覚障害者の生活を安定させたいというのが関係者の切なる願いでした。

  ②<音楽> 音楽は、盲学校の職業教育として鍼按とともに早くから取り上げられ重視されてきました。音楽科教育のはじまりは、楽善会訓盲院で明治14年、箏曲をはじめとする邦楽を教授したのが始まりです。次いで、洋楽の指導も始まりました。音楽科の設置は、全国十校ほどありましたが、昭和三十年代、四十年代に閉科し現在では2校となっています。

  ③<理学療法> 昭和三十年代半ば頃から、障害者に対する医学的リハビリテーションの推進策が政府をはじめ重要課題として取り上げられるようになりました。そこで、理学療法士、作業療法士の養成することが急務となりました。昭和39年(1964)4月に、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校と大阪府立盲学校の二校に理学療法士養成課程が設置され、後に徳島県立盲学校にも設置されました。卒業生は国家資格を取得後、病院やリハビリテーション施設で活躍しています。

  ④<情報処理> 1990年代からIT機器の飛躍的な進展により、視覚障害者が使いこなせる情報機器やソフトの開発が活発になりました。これを受け平成3年(1991)4月筑波技術短期大学(現:筑波技術大学)に情報処理に関する学科が開設されるとまもなく、平成5年(1993)4月大阪府立盲学校高等部専攻科に情報処理科が設置されました。IT機器が各盲学校に導入され、自立活動の時間を中心に積極的に活用されるようになりました。この頃から情報処理技術の活用により、視覚障害者が一般企業へ就労するようになりました。

  ⑤<その他> 昭和36年度から、当時の文部省では視覚障害者にふさわしい新職業の開拓が始まりました。盲学校及び聾学校の特殊教育職業開拓費として、十学級(一学級十名)六百万円が計上され、盲学校では5校にそれぞれ一学級の新職業科が設置されました。 北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科―椎茸)岩手県立盲学校(養鶏科) 神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)  大阪府立盲学校(ピアノ調律科) 徳島県立盲学校(養鶏養豚科)

 これらの新職業科の中で、ピアノ調律科以外は短期間で閉鎖され、ピアノ調律科も、後に山形県立山形盲学校にも設置されましたが、大阪府立盲学校ともに、平成に入る頃までに閉鎖されました。

 3 三療(あはき)業団体と盲学校
 三療業者は、視覚障害者、晴眼者を問わず三療に就業している人々が団体を組織し種々の活動しています。代表的な団体は、いずれも公益社団法人である「全日本鍼灸マッサージ師会」「日本鍼灸師会」「日本あん摩マッサージ指圧師会」です。これら三団体の設立や運営に、盲学校理療科教員が深く関わっていた経緯があります。戦後の盲学校理療科教員は生徒の学習指導とともに、卒業後に三療で自立した職業人として仕事が進められるように、法整備から社会への理解啓発まで、多彩な活動を展開しました。現在では、各団体組織が独自に法人運営を行い、教職員が関与することはありません。

 4 三療研修と盲学校
 三療の組織的な研修は盲学校がはじまりです。現在では使用されていませんが、当校は長い間、卒業生の三療研修の場、実習室等が研修会場でした。 歴史を紐解くと、休日に「鍼研究会」とか「スポーツマッサージ研修」 「卒後研修」等が学校開放され開催されていたようです。講師は盲学校理療科教員が担っていました。盲人協会と同様に、盲学校が職業教育(三療)の先頭に立って牽引していたのです。

 5 福祉作業所と盲学校
 平成25年4月1日から「障害者自立支援法」が「障害者総合支援法」へと移行されるとともに、障害者の定義に難病等が追加され、平成26年4月1日から重度訪問介護の対象者の拡大、ケアホームのグループホームへの一元化などが実施されました。福祉サービスは、通所サービス(就労継続支援A・B型、生活介護等)居住サービス(グループホーム等)に再編整備されました。

 振り返って、昭和40~50年代(1970~80)は障害児者の福祉や労働に係る法制度が未整備な段階でした。当時、全国の盲学校では高等部重複障害生徒の進路先が一部の施設に限られ、卒業後の在家解消が大きな課題でした。当時は作業所等の福祉施設が少なく、視覚障害者が入所できる機会に恵まれないケースが多かったのです。そこで、盲学校の保護者・教職員・卒業生が施設建設に立ち上がったのです。地元、新潟市江南区の「のぎくの家」をはじめ、現在では社会福祉法人として大組織となった福井県鯖江市の「光道園」や同千葉県四街道市の「ルミエール」など、当初は盲学校関係者の小さな力の集まりでしたが、次第に地域の理解・支援を得て、現在では安定した施設運営がなされています。 

Ⅴ 文化・スポーツ
  <文化>
 1 点字図書館
 現在の新潟県点字図書館(ふれあいプラザ内)のはじまりは、中越盲唖学校教員であった姉崎氏によるところが大きく、研究者によれば、わが国最初の点字図書館の可能性が高いといわれています。その後、当校内に設置されたり、県立移管後は当校校長が館長を兼務したりするなど盲学校とともに歩んできた歴史があります。
 大正 9年12月 中越盲唖学校教員(現:柏崎市)の姉崎惣十郎氏が自宅で「姉崎文庫」を開設する。
 大正14年10月 「姉崎文庫」新潟県盲人協会に引き継がれる
 昭和20年 4月  点字図書館が新潟県立新潟盲学校盲学校内に移転される
 昭和33年 4月 任意団体盲人福祉協会立の点字図書館が新潟県に委譲され
   同時に、新潟県立新潟盲学校(新潟市金鉢山)隣接地に移転し、塚本校長が点字図書館長を兼務する
 昭和44年 4月   点字図書館が新潟市川岸町一丁目に新設・移転される
 平成 9年 3月   点字図書館、新潟ふれ愛プラザ(亀田町向陽)内に移転
                           ~ 以下略 ~ 

 2 点字にいがた
 点字にいがたは、新潟県施策の広報を目的に、昭和44年(1969)第1号が発行されて以後、本年夏号で第253号となりました。現在は、編集・印刷を新潟県視覚障害者福祉協会が担当していますが、点字印刷が普及していなかった昭和の時代は、当校で点字印刷され配付されていました。亜鉛板を二つ折りにし製版機で点字を打ちます。折られた亜鉛板の間に点字紙を挟み点字印刷機と呼ばれる2つのローラーの間を通すと点字が打ち出される仕組みです。 その後、広報は「県民だより」となり、平成4年(1992)には点字版とともに音声版の「ボイスにいがた」も発行されるようになりました。当校は毎号「教育の窓」欄に新潟盲学校の様子や児童生徒の作文などを掲載しています。

 3 全国盲学生短歌コンクール
 コンクールは、岐阜盲学校高等部生徒会の主催で実施され、平成26年度で第58回を迎えます。目的は、短歌を通じて豊かな感性を育て、同じ境遇におかれた盲学生相互の心の交流を図ることです。全国盲学校の児童生徒からたくさんの応募があります。新潟県視覚障害者福祉協会では、例年秋に視覚障害者文化祭が開催され、その場で俳句・短歌の表彰がおこなわれています。今年で64回を迎えますが、伝統を築いたのは全国盲学校の教育です。当校も例外ではなく、戦前から俳句・短歌の指導に力を入れ、盛んに詠まれました。昭和30年代の当校「PTAだより」にも生徒や職員の作品が掲載されています。

  <スポーツ>
 4 グランドソフトボール(盲人野球)
 盲学校でおこなわれる野球、現在のグランドソフトボールのルーツについては、よく分かっていません。伝えられているところによると、昭和の初め頃(1926頃)今から約90年前、すでに各地の盲学校の体育の時間や放課後に行われていたようです。ただし、当時野球は、今のようにしっかりルールがあるものでなく「投げて、転がす」単純な遊びに近い野球だったようです。その後、改良され現在のルールに近いものとなりましたが、第二次大戦で中断します。戦後、盲学校生の間にも野球熱が高まり、昭和26年(1951)7月点字毎日創刊30周年を記念して、第1回全国盲学校野球大会が大阪府立盲学校グランドで開催されました。昭和42年から平成8年まで中断されましたが平成9年から再開され、平成18年度第21回の新潟大会を数えるまでになり、ルールも整備されました。こうして盲学校を中心として行われていた盲人野球は、盲学校の生徒だけでなく、卒業生にも浸透し、国体後に開催される全国障害者スポーツ大会の正式種目となり、各地において社会人チームが結成され、地区大会が開催されるようになりました。このように盲学校が築き上げてきた伝統を、これからも継承してほしいものです。

 5 柔 道
 わが国発祥の柔道や相撲は、盲学校では大正時代から遊びとして取り入れられていました。競技としては、昭和30年代から盲学校で指導されてからです。戦後、中学校で武道が授業で取り上げられるようになり盛んになりました。当校でも昭和30年代から課外活動として「柔道部」が創部され、北信越盲学校柔道大会で幾度も優勝しています。現在は、中高等部の体育授業で柔道の指導がおこなわれていますが、残念なことに北信越盲学校柔道大会は出場者減少により平成17年度で中断しています。盲学校での柔道経験をもとに、日本視覚障害者柔道連盟が主催する全国大会が毎年開催され、国際大会ではパラリンピックの競技種目となっています。視覚障害者柔道の特色は、競技規則で試合開始時(再開時含)に、対戦者同士が向かい合い、片手を相手の柔道着の袖、もう片手を反対側の襟をつかんでいることと、主審の始めの合図があるまで動くことが許されないことです。

 6 盲学校から始まった競技
 盲学校で考案され、改良された運動競技はたくさんありますが、紙面の都合で一部を紹介します。
(1)フロアバレーボール(盲人バレーボール) 北信越地区盲学校大会有
(2)サウンドテーブルテニス(盲人卓球)      北信越地区盲学校大会有
(3)全国盲学校通信陸上競技大会(単独・音源走、幅跳び、投てき競技)
(4)マラソン  日本盲人マラソン協会による各地の開催
(5)その他 現在、一部の盲学校でおこなわれているスポーツ
   ゴールボール、ブラインドサッカー、ブラインドテニス、スキー

【略 歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長 

@新潟県立新潟盲学校
 http://www.niigatamou.nein.ed.jp/index.html

 

【後記】
 今回は、新潟県立新潟盲学校の小西明校長先生に、新潟盲学校が視覚障害児者の教育を担うと共に、福祉、労働、文化の牽引役として果たしてきた内容を時系列で紹介し、今後の盲学校(視覚特別支援学校)の在り方を展望して頂きました。膨大な資料を基に時間いっぱいの講演でした。長い歴史の中で盲学校の果たしてきたお仕事を拝聴し、まさに盲学校が我が国の視覚リハビリテーションの一翼を担ってきたのだということを理解しました。 

 小西先生は、前回平成24年1月は新潟盲学校の学校要覧をもとに、在籍者数、教職員数、眼疾患、教育内容、学校行事等について概観して下さいました。
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 参考 報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
 講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
  日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/3324