勉強会報告

2014年10月2日

「地域連携って何?-済生会新潟第二病院の連携室を通じて-」
  斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
   期日:平成26年9月10日(水)16:30~18:00
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 



【講演要約】
はじめに
 当院は、新潟市西部にある425床の地域医療支援病院です。当院がある新潟市内は、高度急性期や専門性の高い医療を担う医療機関が集中している地区です。その中にあり、当院の医療連携に対する姿勢は、保健医療福祉をトータルに合わせ持つ済生会病院の使命として、自院のみならず地域の連携体制構築に力を注いできました。その取り組みは、医師会との登録医制度を基盤として、病院機能を開放するオープンシステム稼働、開放型病院の認可、そして新潟県内初となる地域医療支援病院の承認など、医療連携の重要性が認識されるかなり早い段階から「連携」を強みとしてきた歴史があります(注1)。

診療報酬改定とこれからの地域連携とは
 4月の診療報酬改定(注2)での重点課題は、まさに一点「医療機関の機能分化・強化と連携、在宅医療の充実」、連携が主役であるという色が大きく出されたものとなりました。いわゆる地域包括ケア概念のもと、入院、外来共に医療機関の役割分担の推進が今まで以上に大きく謳われました。今回の改定は、2年に一度の通常の改定の意味合いだけではなく、今秋と謂われる病床機能報告制度へつながる重要な位置づけとなる改定であることを認識すべきだと思います。これも全ては超高齢社会を迎える2025年に向けたロードマップの一連の施策です(注3)。先の「社会保障・税一体改革」で示された2025年の姿までもう間近、連携実務担当者はどう業務を行っていくべきなのか真摯に受け止めたいところです。連携室が設置されてから約10年、その業務は複雑、多岐に及び大きな変化と変遷を辿ってきました。

 連携室自体この10年を振り返ると、事務職員が中心となり予約システムを構築し、地域から紹介患者を獲得することに力を注いできたフェーズから、MSWや看護師が職種間の連携により入退院調整を深化させてきたフェーズへ移行、そして現在の地域包括ケアの時代に入りました。これからは、もう一段階ステップアップし、院内外での地域連携の役割の重要性を経営層に的確に伝えていくことが病院運営に必要な時代に突入しました。地域連携、地域包括ケアシステムの推進が謳われている状況においては、地域における自院の立ち位置の理解と、実際に地域のかかりつけ医や病院との医療連携をいかに上手く展開できるかが経営に直結することとなります。

地域の連携が強まるように
 他の医療機関から、いかにスムーズに紹介患者を受け、またその後に地域に帰すか、そこには地域からの強い信頼関係を基盤とした連携の仕組みがあればこそであり、院内だけの取り組みだけでは不十分です。自院だけでなく「地域力」をいかに高めることができるか、地域の全体最適を考える必要があります。地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます(注4)。

 数年前から新潟市では、市内8区に在宅における多職種間の地域連携ネットワークを構築することに力を入れてきました。当院も新潟市と連携しながら、市内に「多職種連携の会」を立ち上げています。そこでは、かかりつけ医間の連携強化、顔を合わせお互いを知る場と学ぶ場作り、情報共有と相談の場(メーリングリスト)の提供などを行っています。また、当院は2014年度から新潟県在宅医療連携モデル事業の一つとして承認を受け、当院のある西区を中心に在宅医療での連携ツールとしてIT活用や、当院がこれまで培ってきた連携を推進・強化するための企画や運営を展開していく予定です。当院は、かねてから新潟市保健所や新潟市医師会と日常の業務において連携を密に活動してきました(注5)。 

 地域医療支援病院として、地域の連携システム構築は使命です。国の示す地域包括ケアシステムには、市町村が積極的に関係機関との調整を行い整備していくべきと謳われています。連携実務担当者として、今こそ現場の連携の声・実態を行政・医師会に伝え、共に問題解決に向かい地域力を高める活動につなげていくことが重要です。 

まとめ
 先にも述べてきたように、今回の診療報酬の改定は、高度急性期・急性期・亜急性期をより明確に区分していく意思表示がはっきり見えており、自院のこれから先を見据えた重要なタイミングとなっています。その地域の患者動態、急性期病床数と亜急性期病床数などの的確なデータ把握と分析が連携室から出され、それらを基に院内で活発に議論がなされ、これからの病院の方向性を定める。そうしたストーリーが、病院一丸となった自院の総合力の強化につながります。我々は、そうした場作りをするためにも、常日頃から連携実務担当者としての「ブレない」姿勢を持ち業務に望み、自院のみならず地域の実態を含めた情報提供と問題提起をすること、また院内にその議論の土壌を作ることが使命となります。
 

(注1)済生会の歴史
 明治44年2月11日、明治天皇は時の内閣総理大臣桂太郎を召されて「医療を受けることができないで困っている人たちに施薬救療の途を講ずるように」というご趣旨の『済生勅語』に添えてその基金として御手元金150万円を下賜されました。これをもとに伏見宮貞愛親王を総裁とし、桂総理が会長となって同年5月30日、恩賜財団済生会を創立。それ以来、社会経済情勢の変化に伴い紆余曲折を経ながらも創立の精神を引き継ぎ、保健・医療・福祉の増進・向上に必要な諸事業を行ってきました。
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/gaiyou.html#05


(注2)平成26年度診療報酬改定の概要 – 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12400000-Hokenkyoku/0000039891.pdf#search=’%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%A0%B1%E9%85%AC%E6%94%B9%E5%AE%9A+2014


(注3)2025年の超高齢社会
 平成27(2015)年には「ベビーブーム世代」が前期高齢者(65~74歳)に到達し、その10年後(平成37(2025)年)には高齢者人口は(約3,500万人)に達すると推計される
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/09/dl/s0927-8e.pdf#search=’2025%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C


(注4)済生会新潟第二病院の取り組んでいる地域医療連携
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/chiikirenkei.html


(注5)新潟県在宅医療連携モデル事業
http://smc-kanwa.jp/images/download/model_gaiyo.pdf#search=’%E5%A4%9A%E8%81%B7%E7%A8%AE%E9%80%A3%E6%90%BA%E3%81%AE%E4%BC%9A++%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82

 

【略 歴】 斎川 克之(さいかわ かつゆき)
  社会福祉法人恩賜財団済生会 済生会新潟第二病院
  地域医療連携室長 兼 医事課長
  職種:ソーシャルワーカー、社会福祉士
 昭和46年/新潟県新潟市に生まれる
 平成 7年/東北福祉大学・社会福祉学部・社会福祉学科卒業
 平成 7年/新潟県厚生連・在宅介護支援センター栃尾郷病院SWとして就職
 平成 9年/済生会新潟第二病院に医療社会事業課MSWとして就職
 平成22年/地域医療連携室 室長
 平成25年/地域医療連携室長 兼 医事課長
 新潟医療連携実務者ネットワーク代表世話人
 新潟市医療計画新潟市地域医療推進会議在宅医療部会委員 
 新潟市在宅医療連携拠点整備運営委員会委員 

【後記】
 
斎川さんとは何度もお会いしていますが、恥ずかしながら今回のようなお話をお聞きしたのは初めてでした。高齢化社会の実情と今後の経緯、国の政策、それに準じた地域・病院での対策と連係の構築、、、素晴らしい講演でした。現場の医療者は眼の前のことで手が、そして頭がいっぱいになってしまいますが、こうして全体像を把握し、やるべきこと、進むべきことを示して頂きスッキリしました。
 「地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます」、、、そうだったんですね。院内での多職種との連携の必要性も感じました。
 斎川さんはじめ、地域医療連携室の皆様の仕事を理解する機会を持てたことを嬉しく思います。斎川さん・連係室の皆様、今後とも宜しくお願い致します。
 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
(兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です 

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長) 

平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み ~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら~」
 青木 学(新潟市市会議員) 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

2014年9月28日

歴代の日本ロービジョン学会理事長3名、および各地でロービジョンケアを実践している3名に講演して頂きました。各講師の講演が素晴らしく、充実した時を過ごすことが出来ました。
研究会には、新潟県内は言うに及ばず、全国(香川県・東京都・埼玉県・愛媛県・兵庫県・宮城県・茨城県・福島県・大阪府・滋賀県・奈良県・山形県・京都府・千葉県・岐阜県・神奈川県・和歌山県・福岡県・岡山県;参加申し込み順)から、約80名(医師・視能訓練士・教員・学生・心理カウンセラー・社会福祉士・ガイドヘルパー・市民の方々・当事者・家族等々)が参加し、「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
テーマに大いに盛り上がりました。
後日、講演要約を報告する予定ですが、速報版として安藤のメモを基に報告します。
 

速報版『 新潟ロービジョン研究会2014】
 日時:平成26年年9月27日(土) 14:00~18:40
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 
  主催:済生会新潟第二病院眼科  

1)特別講演
1.「日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前」
  田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
 ロービジョンケア(LVケア)に眼科医が関与した歴史は、1929年に小柳美三東北大眼科教授がLV児の特殊教育の必要性を訴え、1933年に南山尋常小学校(東京麻布)に全国初の弱視学級が開設されたことに始まる。その後、原田政美・大山信郎、湖崎克らの眼科医が活躍したが、眼科医の関与が多いとは言えない。今後、ロービジョン学会を通して眼科医はもっと積極的に関わらなければならない。 

2.「日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ-平成24年度診療報酬改定の意味するところ-」
  高橋 広(北九州市立総合療育センター)
 LVケアの必要性を始めて感じた患者との出会い。平成24年度診療報酬改定でLVケア検査判断料の成立までの獅子奮迅の活躍を披露。眼科医への期待は、「見える質の向上(QOV)」。眼科医は治すことが仕事で、福祉がケアを行うのか?LVケアは生活支援を目指す。当時、参考となる図書は少なく患者に学びばがらやってきた。支える仲間が重要。福祉と教育に繋げるのが眼科医の仕事。「眼科医が行うLVケアには、寄り添うLVケアと、背中を押すLVケア(=LVリハビリテーション)がある。 

3.「本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望」
  加藤 聡(東京大学眼科准教授)
 現理事長として、1)LV学会とは、2)LVケアを取り巻く課題、3)将来の展望を語る。ケアができなければ専門家でない。最新医療の研究と並行して行われていかなければ、最新治療により受けられる患者の恩恵は最小限のものになってしまう危険性がある。

2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
1.「ロービジョン当事者として相談支援専門家として我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
  吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
 生い立ち・病気のこと・眼科医の言葉に対する感情(気持ち)を披露。「治ることは期待しないが、治療して欲しい」、「治る見込みのない障害者であっても治療の対象として診て欲しい」「視機能が向上しないと治療の意味がないのか?そんなことはない」「少なくても眼の状態について説明して欲しい」「最善の治療を受けているという確信がないとLVケアは受けられない」「主治医と専門家の連携を。よく話を聞いて欲しい」 

2.「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
  八子恵子 (北福島医療センター)
 眼科医として診療に携わる中で、必要と感じた(効果のあった)症例を提示し、「治療が必要がなくなった患者でもやるべきことはある」。「気が付くこと 何かを提案する 自分にもできることがあることを知る 出来ないことは他人に頼る」、、 

3.「私たちの視覚障害リハビリテーション」
  山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
 これまで築いてこられたNPOオアシスの成り立ちを振り返り、多くの示唆に富む講演。内科医であるながらロービジョンケアに取り組んだと評価する方もいるが、内科医であればこその発想(体内時計/骨代謝等)は、かなり独創的でかつ先駆的な仕事。
 
糖尿病透析患者Oさんの失明したことによる自殺という事件を、このような形で乗り越えてた山田先生、新潟の誇り。 

 コメンテーター
   田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
   高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
   加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)
 

3)結びの言葉
  仲泊聡 (国立障害者リハビリテーションセンター病院)
 1964年(昭和39年)世界盲人福祉協議会ニューヨーク大会「盲人の人間宣言」、2008年(平成20年)国際連合総会「障害者の権利に関する条約」、わが国でも、2014年(平成26年)1月、障害者権利条約を批准等々歴史的な背景から、現在改革が行われている。

2014年9月20日

報告:第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 
演題:「視覚障害によって希望を失わないために」
 講師:竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  日時:平成26年8月6日(水)16:30 ~ 18:00  
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 主催:済生会新潟第二病院 眼科  

【講演要旨】
はじめに
 失明や視力低下が日常生活や社会参加にとって大きな困難をもたらすことは明白である。そして、苦しくて悲しいことである。しかし、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である。少なくとも、失明しても不幸にならなかった人はたくさんいる。その分かれ道はどこにあるのだろうか。 

1.小学校~中学校
 63年前、石川県輪島市に生まれる。生来強度近視で矯正視力0.2くらいだった。
 小学校の頃は、複式授業。1~2年生の頃の担任の先生は視力の悪い私を可愛がってくれた。そのおかげで、将来共に頑張れたのだと今も感謝している。小学校でも中学校でも、眼が見えないために、いじめに遭った。
 輪島は、相撲が盛んなところで、中学3年のころ163cm80kgだったので相撲部に勧誘された。中学3年の頃(昭和40年ごろ)、相撲が影響してか、両眼外傷性網膜剥離になり、父が山ひとつ売って金沢大学・順天堂大学・京都大学等々で診察してもらったが、手遅れと言われた。
 最後に京都府立医大で診てもらった時、どこまで治るかわからないが、やるだけやってみようと手術を勧められ、網膜復位術を2度受けた。何とかサインペンで書いたものは見える程度の視力を得ることが出来た。いずれは全盲となったがこれは大きかった。今でもその時の主治医の先生と教授には感謝している。 

2.盲学校時代
 盲学校に入学、針・灸・按摩に励んだ。
 いろいろな経験をさせてもらった。それまでは漫画しか読まなかったが、次第に本を読むようになった。「車輪の下」「夜間飛行」、、、
 人前で話すことが苦手だったが弁論大会に出るように言われた。そうした中で、普通高校の生徒と交わりを持つことが出来た。彼らがいろいろな夢を語るのが眩しかった。初めての弁論大会は失敗だったが、いい刺激をもらった。負けるとナニクソとやる気が出て、何度も挑戦した。色々なテーマで挑んでいるうちに、自分の夢を語れるようになった。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語った。その他、①ボランティア、②一流の大学に進学するだけが人生ではない、針灸按摩も大事な仕事だ、③受験勉強は要らないというのは間違っていた。自分の目標に向かい努力することは素晴らしい、、、などのテーマで弁論した。 

3.大学時代から司法試験合格まで
 TVで宇津井健主演の弁護士物語があり、単純に弁護士を格好良く思っていた。2浪して龍谷大学法学部に入学した。入学して、抱負を語る機会があり、全盲ではあるが弁護士になりたいと語った。当時の龍谷大学は法学部が出来て3年目であり、まだ司法試験に合格した者はいなかった。周囲の人は、何を言っているんだと取り合ってくれなかった。今思えば、このころから目標を言葉に出して自分をしばる(有言実行)タイプであった。
 そこでまた負けず嫌いの反骨芯が芽生えた。大学で自分の人生にレッテルを張ることはない。当時は、司法試験は点字での受験は認めてもらえなかった。法務省に問い合わせると、盲人の受験は不可能ですとの回答。そこで上京して法務省で訴えた。何度も訴えているうちに、朝日新聞の記者が一人で訴えてもダメ、仲間を集いなさいとアドバイスをくれた。そこで京都を中心に20名位の「「竹下義樹を弁護士にする会」を形成した。すると朝日新聞で取り上げてくれて、国会も動き出した。
 昭和48年点字での受験が可能となった。大学3年で受験した。問題は試験官が読み上げる、地方での受験は認められず上京する、時間延長なし等々のハンデがあった。点字六法は全51巻、12万円もした。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれた。そのうちに、地方での受験も認められ、時間も延長するように制度が改革された。
 学生結婚。二人の子供を授かった。収入もなく、マッサージをやりながら生活した。1981年、9回目の受験で合格した(30歳)。当時は年間の合格者数が300~400名の時代で、今よりは大分厳しかった。その時には、点字図書は200冊、録音テープは1000本になっていた。
 一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっていることと痛感した。司法試験の準備は目いっぱいやった。多くのボランティアの方々に協力して頂いたことを今も忘れない。 

4.弁護士になって31年
 弁護士は情報が勝負。事実はひとつだが、真実はいくらでもある。法廷にどのような証拠を提出できるかで判決は決定する。司法試験合格後の進路は、裁判官と弁護士があるが、弱者と共に闘う弁護士を選んだ。先輩の一言が後押ししてくれた。「どれだけ見通せるかが大事だ」。
 弁護士としての看板を持とうと思った。障害者問題、医療過誤、過労死、貧困、、、。
 見えないことは、情報を得ることは苦手だが、他人の協力で補うことが出来る、見えないからこそ頑張れる自分がいることに気付いた。様々な情報に対して常にアンテナを張っておくことが大事だと学んだ。 

5.日本盲人会連合 (日盲連)会長
 2012年日盲連の第7代会長に就任した。これまでの会長はボスであり、視覚障害者が困らないような世の中を作ることが主な活動であった。
 今後は理念を掲げることにした。同行援護の推進、視覚リハビリの推進等々。日盲連にもさまざまな人間がいる。組織改革が今後の課題である。 

おわりに
 私は14歳で失明した。失明によって失ったものはたくさんある。遊び、趣味、そして文字。でも、私は不幸にならなかった。友達は失うどころか新たに貴重な友人が増えたし、失明によって気づいたこともたくさんある。とりわけそれまで見えていなかったもの、気づいていなかったものが見えるようになった。そして、夢を見つけた。しかもでかい夢を。それは将来の職業だったのである。私は、貧困問題と取り組む弁護士として、そして視覚障害者が生きがいを持ち豊かな人生を送ることができる社会を築くため日盲連の会長として活動し、充実した毎日を過ごしている。
 私が不幸にならなかったのは、友人や指導者に恵まれ、夢を見つけ、それに向かって邁進することができたからである。失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている。視覚障害者であっても、リハビリや補助機器などの支援によってできることがたくさんあるという情報を伝えることが視覚障害者に関わった者の責任なのである。視覚障害を不幸にしないためには、視覚障害者に関わる全ての者がそうしたことに気づいて視覚障害者に接するならば、視覚障害者は不幸になることはないのである。
 

【略歴】
 1951年 石川県輪島市生まれ
   65年 (中学3 年)外傷性網膜剥離で失明
   69年 石川県立盲学校理療科本科卒業(指圧士修得過程)
   71年 京都府立盲学校高等部普通科専攻科卒業
   75年 龍谷大学法学部卒業
   81年 司法試験合格
   84年4 月京都弁護士会に所属
  2012年~現在 社会福祉法人日本盲人会連合会長
 

【質疑応答から】
 行政に訴えるには如何したらいいのですか?
  
~本当に困っている現実を突きつけること。理念・方向を示すこと
 病院内での介護について
  ~医療保険と介護保険の狭間の問題。
   最近は、ALSの院内での介護等、少しずつ認められるようになってきた
 視覚に障害があると質の情報を得ることは困難ではないですか?
  ~雑学も役に立つ、得られた情報を自分で吟味する。
 


【追記】
 素晴らしい講演でした。感動しました。全盲となってから弁護士をめざし、視覚障害者が試験を受ける環境作りから自らの手で始め、司法試験に合格してからは弱者のために活動を続ける素晴らしい人生を、思う存分に語って頂きました。
 どんな講演にもキーとなるセリフがひとつかふたつはあります。今回は、それが次から次と出てきました。曰く、「失明や視力低下は苦しくて悲しいことであるが、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である」「夢を語ることのできる素晴らしさ」「目標を言葉に出して自分をしばる」「負けず嫌いの反骨芯」「大学で自分の人生にレッテルを張ることはない」「一人が皆を、皆が一人を」「一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっている」「どれだけ先が見通せるかが大事」「事実はひとつだが、真実はいくらでもある」「様々な情報に対して常にアンテナを張っておく」「見えないからこそ頑張れる自分がいる」「理念を掲げる」「見えなくなって、見えてきたものがある」「失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている」、、、、、。 さあ、これからやるぞ!の気概に溢れた講演に敬服しました。
 弱者のために奮闘する弁護士、竹下義樹先生のますますの活躍を祈念致します。

 

【追加1:司法試験と地方公務員の点字受験について】
 1961年の文月会発足後、5年目の大会で決議し、行動しています。48年に先輩の故・勝川武氏が法務省に点字受験を申し入れていましたが、当時は葬り去られるのが当たり前でした。竹下さんらの強い要求もあって25年後に日の目を見ました。
 73~75年は1人ずつ、76年2人、77年と78年4人ずつ、79年5人が点字受験しています。また、地方公務員は東京都一般福祉職で74年に現・全視協会長の田中章治さんと大窪謙一さんが合格して運動は勢いづき広がりました。その後の働きかけで、都は福祉職Cという点字枠を設け、毎年1人は採るとなっていましたが、2000年にチャレンジから受けた1人がパスした以後は採用無しです。都は2007年に2人が受験した以外、応募は0に等しいと言っています。法務省も都も受験者数などは「記録」を探しかねますの一点張りです。
http://www.siencenter.or.jp/sikaku/kouki289.html 

【追加2:日本盲人会連合 (日盲連)】
1948年(昭和23年)に設立された社会福祉団体
http://nichimou.org/ 

【参考:全盲の弁護士 竹下義樹】
 著者:小林照幸、出版社:岩波書店
 http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/12/post_935.html

 

 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
 http://andonoburo.net/on/2682
 主催:済生会新潟第二病院眼科 
  要:事前登録制です
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
1)特別講演 (各講演40分)
 1.座長  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
   日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前
    田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
    http://andonoburo.net/on/2714
 2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
    -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
    高橋 広(北九州市立総合療育センター)
    http://andonoburo.net/on/2780
 3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
   本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
    加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2799
16:20~16:40
  コーヒーブレイク
16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
 シンポジスト (各講演20分)
 1.吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
  「ロービジョン当事者として相談支援専門家として我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
  http://andonoburo.net/on/2875
 2.八子恵子 (北福島医療センター)
  「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
  http://andonoburo.net/on/2889
 3.山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
  「私たちの視覚障害リハビリテーション」
  http://andonoburo.net/on/2917
 コメンテーター
   田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
   高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
   加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)
18:20~18:40 adjourn アジャーン
  (参加者全員で)会場整理  参加者同志の意見交換
18:40 閉会の挨拶 仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    解散   
 

平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
(兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です
 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です
 

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長)
 

平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)
 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「視覚障害者の求めた豊かな自己実現”―その基盤となった教育

講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

 

 

 

2014年7月24日

報告:第221回(14‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
   日時:平成26年6月11日(水)16:30 ~ 17:30
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 (1)「歌」高等部 普通科 3年
 (2)「
中学部に入学して」部 1年

 新潟盲学校の生徒の弁論大会を当院で行うようになって10数年経ちます。毎年、生徒の弁論に感動を頂いています。今回も視覚に障がいを持つ中学生と高校生が、精一杯に弁論を行いました。 

 

歌』 新潟盲学校 高等部普通科3年 
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【講演要旨】
 私は歌が大好きです。聴くことも好きですが、歌うことはもっと好きです。

 私は、生まれた時から歌が好きだという訳ではありませんでした。それどころか、小さい頃は、歌に関心がありませんでした。

 幼稚園の卒園式では、歌い終わった後にしゃべったりふざけたりしていたため、何度も何度も歌の練習をさせられました。そのため、同じことを繰り返すのに飽きてしまいました。嫌いというより嫌になっていました。 

 ある時先生が、「あなたは歌が上手いんだから、ふざけないで練習しましょう。」と、私に言いました。その時初めて気づきました。私は歌が上手いらしいと。卒園式当日は、真剣に歌い、沢山の人からほめていただきました。その時、歌が好きになったような気がします。私は、努力すること、頑張ることが嫌いです。しかし歌は、練習をしなくてもほめてもらうことができました。 

 中学生の時、友達とカラオケに行きました。当時の私は、自分は天才だ、自分より歌が上手い人はいない、と思っていました。ですから、友人の歌声を聴いた時、とても驚きました。透き通った声は安定していて、力強く心に響く、そんな歌声でした。私には、友人の歌は完璧に聴こえました。しかし友人は、「全然上手くないよ。音外してるし、高い声でないし。」と言いました。私よりも上手いと思った友人のその歌を、友人は自ら下手だと言ったのです。友人が下手なのであれば、私はド下手ということになってしまいます。その時、私は何の才能も持っていないのだと、自覚しました。けれども、私は何の取り柄もない人間にはなりたくありません。努力することが嫌いな私でしたが、歌の猛特訓を始めました。自分の好きな女性歌手と、同じような声で同じように歌えば、完璧に歌えると考えました。練習の成果もあり、好きな女性歌手の歌なら、真似して歌うことができるようになりました。

 これで、私と友人は同等になれただろうと思いながら、再び、友人とカラオケに行きました。自分で言うのも何ですが、前回より断然上手くなったように思えました。友人も、前回と同じく素敵な歌声でした。『それでも友人は、自分の歌を下手だと言うんだろうな。私もド下手から下手へランクアップできてよかった。』そんなことを思っていると、友人は男性歌手の歌を歌い始めました。私は、好きな女性歌手一本で攻めていましたが、友人は様々な歌手の歌を歌いこなしたのです。私は歌の上手い下手を比べる意味が見いだせなくなりました。そして、歌は競うものではなく、楽しむもの、真似て歌うのではなく、自分のものにするものだと、改めて知りました。

 歌が大好きな私ですが、音楽の授業で、歌う人を上手い下手で評価するところがあまり好きではありません。そこはやはり、授業なので仕方がないとは思いますし、一生懸命取り組んでいます。たとえ音痴な人でも人一倍心を込めて歌えば素晴らしいと思います。また、歌が上手いのに、全く心を込めていないのなら、私はあまり感動できません。私も時々、何も考えなかったり、全く違うことを考えながら歌っていたりすることがあります。そんなときに、「上手だね」と言われても、全然嬉しくないし、『こんなんでいいの?』と思ったりします。私はやっぱり自由に歌うのが好きなのです.

 私は、楽しい時でも、寂しいときでも、泣きながらでも、風邪を引いて喉が痛くても歌を歌います。歩いている時も、歯を磨いている時も、食事をとる時も、行儀が悪いと分かっていながら、歌ってしまいます。授業中でさえも歌いたくて仕方がありません。

 いつでもどこでも歌ってしまう私ですが、私にも歌えない時があります。ひどく落ち込んでいる時や悩み事がある時です。そんな時は、歌を歌おうとも聴こうとも思いません。それでもやはり、私を救ってくれるのは歌です。お店や駅前で流れている音色に、救われます。落ち込んでいる時でも、前向きな気持ちにさせてくれます。

 私の隣には、いつも歌がいます。歌がない世界なんて考えられません。「歌うな!」と言われたら、「死ね!」と言われているのと同じです。私にとって、歌は体の一部です。うるさいと言われても、下手だと言われても、私は歌い続けます。

 これで終わります。ご清聴ありがとうございました。

 

 

「中学部に入学して」 新潟盲学校 中学部1年
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【講演要旨】
 私はこの春中学部に入学しました。小学部の頃から私は中学部のことを、「先生も厳しそうだし、やることもとてもたくさんありそうで大変なところなのかな」と、不安に思っていました。

 入学式当日、私は入学式という言葉を聞いてもピンときませんでした。制服に着替え車に乗っても、まだ小学生の頃のままの自分がいました。式が始まり、新入生入場になりました。会場にいる人達の拍手を聞きながら、「私は、本当に中学部に入るのかな。中学部を楽しめるかな」と、いろいろなことを考えて席に着きました。そんなことを思っていると、教頭先生に呼名されました。それで「私はもう中学生なんだ」と初めて思いました。と同時に、なんだか少し大人になったような気がしました。

 中学部は小学部と違うので、戸惑うことがたくさんあります。教科ごとに先生が変わったり、時間割も、表を見ないと時々忘れてしまったりしてしまいます。また、初めての第1回生徒総会の時に渡された生徒会規約も、何ページもあってとても難しかったです。これからもこんなことがたくさんあるんだと思うと心配になりました。

 中学部に入学して1ヶ月たった時、先生から3年間は36ヶ月ということを聞き、36という数字の大きさに、そして中学校生活のその長さにとても驚きました。まだ、1ヶ月しかたってないのに、これからの長い三年間を、どうすごしていけばいいのだろうかと思っていました。

 そんな私も、入学式から4ヶ月がたとうとしています。少しずつ中学部のことが分かってきたような気がします。そして私は、中学部のことを知り始めています。先輩達のやさしさ、後輩を思いやる気持ちなど、今の私にとって学ぶことがたくさんあります。来年は2年生になり、後輩ができます。その時、「頼りない2年生だなあ」と思われないように、この1年間でいろいろなことを学び、先輩たちのようにしっかりとした中学生になりたいです。それはきっと3年生になっても同じだと思います。この3年間の学校生活を充実したものにするために、今日からの一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。そして中学部を卒業する時、「いろいろ教えくれて、ありがとうございました。」と、後輩に言われるよう頑張ります。

  ご清聴ありがとうございました。
 

【後記】
 最初の弁論「歌」では、歌が好きで好きでたまらないという高等部の弁論でした。やる気にさせる上手いほめ方にも興味を覚えました。歌の本質は、うまい下手ではなく、心を込めて歌うことと彼女なりの考えが伝わってきました。何よりも弁論の声が澄んでいて美しかったのが印象に残ります。弁論の後で歌ってもらえばよかったと、今になって悔やまれます。 

 次の弁論は、実は当日体調を崩して盲学校の先生が原稿を代読しました。確かに小学校から中学校への進級は、私にとってもひとつ大人への階段を上がったような気がしました。私の頃(50年近く前ですが)、中学生になるとき、男子は髪を丸刈りにし、黒の制服を着たものです。小学生から見ると大人の世界にジャンプするような感覚だったことを思い出しながら拝聴しました。盲学校の小学部から中学部は、同級生もほとんど変わらないということもお聞きしました。それでも生徒会活動などを経験し、いろいろ社会と関わり合いを持つことを学ぶ時期であるとお聞きしました。中学進級が人生の中で大きな節目であることを実感した次第です。 

 今年も爽やかな感動をもらいました。

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【全国盲学校弁論大会】
 大会への参加資格は、盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、はり、きゅう、あんま、マッサージの資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学する中高年の中途視覚障害者も多い。7分という制限時間内で日ごろ胸に秘めた思いや夢が語られる。今年で83回を迎えた。

【全国盲学校弁論大会:関東・甲信越大会】
 第83回全国盲学校弁論大会の関東・甲信越地区大会(同地区盲学校長会主催、毎日新聞社点字毎日など後援)が6月27日、東京都文京区の筑波大付属視覚特別支援学校で開かれ、9都県の代表ら15人が参加した。県立平塚盲学校高等部普通科3年の八木亮太さん(17)が優勝し、10月3日に水戸市で開かれる全国大会に出場する。
 
http://10picweb.csdsol.com/detail.html?id=m_100000_0_10788722
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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。 
   日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
   場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している  音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/
 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年8月6日(水)16:30 ~ 18:00   @第1水曜日です
 第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 「視覚障害によって希望を失わないために」
  竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @事前登録制
 http://andonoburo.net/on/2860 


平成26年9月10日(水)16:30~18:00
 第223回(14‐09月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「地域連携って何?-済生会新潟第二病院の連携室を通じて-」
  斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 

平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
  http://andonoburo.net/on/2682
 主催:済生会新潟第二病院眼科 
  要:事前登録制です
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
 1)特別講演 (各講演40分)
  1.座長  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
   日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前
     田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
    http://andonoburo.net/on/2714

 2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
    -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
     高橋 広(北九州市立総合療育センター)
    http://andonoburo.net/on/2780

 3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
   本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
     加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2799

16:20~16:40
  コーヒーブレイク

16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
 シンポジスト (各講演20分)
  1.吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
   「ロービジョン当事者として相談支援専門家として
      我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
   http://andonoburo.net/on/2875

 2.八子恵子 (北福島医療センター)
   「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
  http://andonoburo.net/on/2889

  3.山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
   「私たちの視覚障害リハビリテーション」
  http://andonoburo.net/on/2917

  コメンテーター
   田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
   高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
   加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)

18:20~18:40 adjourn アジャーン
  (参加者全員で)会場整理
    参加者同志の意見交換

18:40 閉会の挨拶 仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
     解散   

 

平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
 (兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です

 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献
    ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校)

 

2014年7月21日

「学問のすすめ」第9回講演会 済生会新潟第二病院 眼科
1.「学問はしたくはないけれど・・」
    加藤 聡 (東京大学眼科准教授)
2.「摩訶まか緑内障」
    木内 良明 (広島大学眼科教授)
 日時:2014年7月6日(日)  10時~13時 各講演1時間・質疑応答30分
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 参加無料

  

 リサーチマインドを持った臨床家は、新しい医療を創造することができます。難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。 本講演会は、若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもいたいと、2010年2月より済生会新潟第二病院眼科が主催して細々と続けている企画です。 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
  人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。(「学問のすすめ」福沢諭吉)

 

演題:学問はしたくはないけれど
講師:加藤 聡 (東京大学眼科)
講演要旨
 現在、医学研究を取り巻く問題が多く、毎日マスコミをにぎわしている。STAP細胞に関する問題が有名であるが、私が所属する東大病院でも降圧薬バルサルタンの臨床研究、白血病治療薬の臨床研究、アルツハイマー病に関する臨床研究、分子生物学教室からの論文の大量撤回などがある。これらの研究では何を目標にして学問をしているのだろうかと考えさせられる。このような問題を見るにつけ、学問の目標が、研究費集めや論文業績をあげるためと思えてしまうが、本来は少しでも良い医療を大勢の人に提供してもらいたいことが、医学における学問の原点のはずである。その為には、学問の順番として①不自由なことが存在し、②不自由なことの原因を追究し、③不自由なことを解決する方法をみつけ、④その方法を広めるのが、筋道であると考える。 

 私は新潟大学を卒業して、東京大学眼科に入局し、研修医2年目の頃、おぼつかない白内障手術(水晶体嚢外摘出術)を行うも、糖尿病眼では術後に炎症が強く出てしまい、眼底管理の上で妨げとなる虹彩後癒着を作ることがしばしばあった。その原因を知りたく、ちょうどその頃開発されたフレアメータにて炎症を定量化し、また電子顕微鏡による研究でその原因を探ることができた。 

 それがきっかけで糖尿病の眼の合併症、通常の人ならば網膜症に興味を持つところだが、私はもっぱら前眼部の病変に取り組むことになった。女子医大の糖尿病センターに勤務先が異動になり、朝から晩まで網膜光凝固に明けくれる日々のなか、糖尿病眼の白内障術後眼では前嚢収縮や後発白内障が網膜光凝固の妨げとなることを多く経験した。白内障術者にそのことを話してもYAGレーザーで解決されることなので、臨床的に問題ないと相手にしてもらえなかった。そこで、そのことを訴えるために後発白内障を定量化する方法を学んだが、その頃の日本ではSheimpflugカメラを用いた方法が主流で、周辺部の後発白内障の定量が行えなかった。そこで、それを学びに世界で初めて眼内レンズ移植が行われたロンドンのSt Thomas Hospitalに行き、その後の後発白内障を少なくなるための眼内レンズ、手術法の研究を行うことができた。

 その後、日本に戻り、東大病院に勤務するようになり、多くの増殖糖尿病網膜症症例の手術を見る機会があったが、中には充分な結果が得られない症例があった。その症例をさかのぼってみてみると、中には充分な光凝固の効果が得られていない例に遭遇することもあった。どんな上手な術者よりも適切な網膜光凝固が失明から救うことが明かであったため、そこからは、研究というよりも網膜光凝固教育に力を入れるようになった。今後は本邦での網膜光凝固の教育と同様に、より低侵襲の網膜光凝固方法の開発に力を入れたいと考えている。 

 その他に現在はロービジョンケアの普及にも力を入れている。ただし、ロービジョンケアを取り巻く問題は多く、その中でもロービジョンケアに対する眼科医の関心が少ないことが最も悩ましい。その理由として、ロービジョンケアの研究がサイエンスになりにくく、手術の習得に比べると技量が地味、保険点数の問題、ロービジョン者が眼科にかかる環境を作り上げていないなどがある。今後はロービジョンケアに関する研究・臨床を特殊化しないことが重要と考えている。 

 以上、今まで自分が関与してきたことを述べてきたが、最終的に学問の結果を世に知らしめることは重要なことの一つであり、私自身の論文投稿に対する考えを以下に示す。すなわち、どんなに低いインパクトファクターの雑誌でも掲載されれば、投稿しないことと格段の差があること。それというのも、現在はPubMedなどで検索するために必ずしも有名な雑誌でなくても調べたい項目さえ入力すれば、どんなに無名な雑誌からの論文も読むことができるからである。最終的に、自分の分野の研究を一生懸命見てくれる雑誌と出会うことも重要である。私の場合、最近ではインパクトファクターは2.345とそれほど高くはないが、糖尿病眼合併症領域のことを熱心に読んでくれるEinar Stefánsseonが編集長をしているActa Ophthalmologicaに好んで投稿している。すなわち、毎晩楽しむ晩酌のお酒でも必ずしも値段が高いものだけがおいしいのではなく、値段的にも自分に適したお酒を見つけるのと同じ楽しみとなる。 

 初めにも述べたが、現在医学研究をとりまく問題は多いが、少なくとも私は無理やり結果を出す学問をしたくはないと考えている。そのためには、学問と業績を混同させることなく、論文化しにくいnegative dataを大切にし、医療をしていく上で自分が知りたいことを調べ、それを世界に発信し続けられたらと考えている 

【略歴】  加藤 聡 (カトウ サトシ)
 1987年 新潟大学医学部医学科卒業
     東京大学医学部附属病院眼科入局
 1990年 東京逓信病院眼科
 1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
 1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
 2000年 King’s College London, St.Thomas’Hospital研究員
 2001年 東京大学医学部眼科講師 
 2007年 東京大学医学部眼科准教授 
 2013年 日本ロービジョン学会理事長 
 2014年 東大病院眼科科長兼任 
  現在に至る 

 

演題:「摩訶まか緑内障」
講師:木内 良明 (広島大学眼科教授)
講演要旨
  「摩訶」は古代インド語であるサンスクリットの「まはー」に漢字をあてたもので大きいとか、偉大なという意味です。般若心教は摩訶般波羅蜜多経とも呼ばれます。浄土に至るコツを示した経であると説明されています。緑内障患者にたいして一生懸命治療をしても失明上位疾患にあげられるのは不本意です。また、疾患や失明を恐れるだけでは患者さんを救うことができないわけですから、我々はその原因をさぐり、より良い治療方法を見つけ出さなくてはいけません。緑内障診療の浄土に至る道は遠く険しく感じます。 

 最近、五木寛之「親鸞」の連載が完結しました。親鸞は浄土真宗の宗祖です。「本願を信じ念仏申さば仏になる」と示されています。浄土真宗は「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する教えを持っています。法然の浄土宗と並んでこの他力本願の教えは多くの日本人に受け入れられました。今回の公演を行うに当たり、自分が緑内障に関する研究に携わった歴史を振り返えるという作業を行いました。その結果「他力本願」の人生であると改めて感じた次第です。この道一筋といった研究もなく、自分から進んで行った研究もありません。ただ、周りの環境に合わせながら「南無阿弥陀仏」の名号ではなく、ひたすら「なんでや、ほんまかいな」と唱えているだけです。 

 1983年に広島大学の眼科学教室に入局して、その後数年は自分の頭で考えて何かをするというよりも、命じられた仕事をひたすらこなすという毎日でした。それでも入局4年目ごろに学位は解剖学教室で、眼の発生の研究を行いたいと考えるようになりました。ニワトリの杯にウズラの杯の一部を移植することでニワトリとウズラのキメラを作る研究です。しかし、指導教官が米国留学し、さらに京都府立医大の教授になられました。仕方がないので眼科学教室の緑内障グループに参加することにしました。 

【細胞内情報伝達系の研究】
 広島大学の緑内障グループは毛様体の細胞内情報伝達系、特にcyclic AMP系の研究を行っていました。当時の三嶋助教授がYALE大学に留学していた時から始めた研究です。cyclic AMP分解酵素を阻害する薬剤を使って、眼圧、房水循環動態、毛様体の形態変化を研究して学位をもらいました。1980年代は細胞内情報伝達系の研究が注目を浴びておりました。特に神戸大学の西塚泰美先生はプロテインキナーゼCを発見し、新しい細胞内情報伝達系を明らかにしました。西塚泰美先生はノーベル賞候補と言われておりました。私のすぐ下の学年の医師も毛様体におけるプロテインキナーゼCの研究で学位をもらっています。三嶋助教授のご縁もあって学位をもらった直後にYALE大学の眼科学教室に留学させていただきました。 

【眼圧日内変動の研究】
 YALE大学の眼科学教室では眼圧日内変動をコントロールするメカニズムを解明する研究が行われていました。その一つの手段として細胞内情報伝達系の研究が使われていました。研究に専念できる環境は楽しく、有意義なものでした。家兎の眼圧日内変動には交感神経のうちα1受容体を介するシグナルが関与すること、メラトニンが関係しないことなどを明らかにすることができました。 

【ラタノプロストの開発】
 1993年に帰国するとキサラタンの開発が行われている最中で、キサラタンの開発研究にPhase 1から参加することができました。ラタノプロストの眼圧下降機序、ラタノプロストの眼圧日内変動に関する研究を行いました。やはり自分からの意志で何かを研究しようとしていません。自分の目の前にある餌、あるいは教授や助教授が用意してくれた餌を順番に食べていただけです。臨床は緑内障外来を担当しており、緑内障の手術を主に行っていました。教授が病院長になられて眼瞼下垂、眼瞼や眼窩の腫瘍の治療が回ってきたのは後で役に立ちました。 

【難治緑内障の治療】
 ちょうどこのころ超音波白内障手術が日本で広まり始めたころでした。小切開白内障手術は患者に大きな福音をもたらします。しかし、広島大学病院という環境ではその手技を習得することは不可能でした。志願して1996年の1年間は広島赤十字・原爆病院に出向して、前眼部から網膜まで幅広い疾患の診療を行いました。大学病院では緑内障馬鹿になっていたことに気づきました。眼科医として良いリハビリになったようです。翌年の1997年4月からは国立大阪病院で勤務させていただきました。実家の眼科が近いという理由もあってよい病診連携をとることができました。大阪というところは眼科の専門分化が進んだところでしたので、再び緑内障を専門としました。 

 国立大阪病院はそれまでの部長が硝子体手術やぶどう膜炎をご専門にされていた関係から血管新生緑内障やぶどう膜炎に続発した緑内障の患者がたくさんいました。難治性の緑内障に対する手術症例に恵まれ、より良い成績を得る方法を研修医の先生たちと考えました。ウサギ小屋もありましたのでラタノプロストが炎症眼に及ぼす影響を調べることができ、薬剤部の方たちとブナゾシンやドルゾラミドがメラニン色素に吸着する様子も観察しました。2003年から大手前病院に転勤となりました。ここの眼科は前眼部疾患の治療を専門とするところで、角膜移植も年間100件以上行われていました。レーシック用のエキシマレーザーもありました。角膜移植の3大合併症は、感染、拒絶反応、緑内障です。多くの移植後の緑内障の患者さんを診させていただきました。血管新生緑内障であれ、前眼部の病気に続発した緑内障であれ、チューブ手術を行っても眼圧を落ち着かせることができない症例がたまってきました。緑内障診療の地の果てを見た思いです。ここから先は基礎的な研究を絡ませないと臨床の進歩はないと感じていたところに、2006年に広島大学に戻る話が出てきたわけです。 

【眼に見えない現象を見る研究】
 広島大学に戻ったら手術治療の成績を向上させる研究をするぞ、と思っていました。しかし、待っていたのは原爆被爆者の緑内障調査と眼圧測定の様子を高速カメラで撮影するという研究でした。通常の状態では放射線は眼に見ることができません。非接触型の眼圧計で眼圧を測定する様子も眼に見えません。肉眼で見えないものを調べるいずれの研究も重要、かつ面白い研究です。幸い両者とも論文化することができ、第1段階をまとめることができました。放射線の影響を調べる研究の最大の危険因子は政治であることがわかりました。 

【この後】
 バルベルトインプラントが出てきて小児緑内障を含めて難治緑内障患者を救うことができるエリアが広がってまいりました。しかし、緑内障手術治療の成績改善の研究はまだまだ手につきません。「眼に見えない現象を見る研究」もまだ第1段階が終了しただけで完結していません。
 自分一人が面白がって研究を進めても仕方ありません。大学の永遠のテーマですが若い先生の教育が大切です。このテーマも眼の前に転がっている、仕方なしのテーマです。しかも「なんで研究しないのや」と仮説を立てての実験がしにくいのです。南無阿弥陀仏。 

【略歴】
 1983年 広島大学医学部医学科卒業
 1999年 広島大学医学部助手
 1990年 Yale大学 Yale Eye Center, Post doctoral associate
 1997年 国立大阪病院(眼科)医師
 2003年 国家公務員共済組合連合会 大手前病院眼科部長
 2006年 広島大学大学院医歯薬学総合研究科視覚病態学 教授 現在に至る