報告:『新潟ロービジョン研究会2016』  小西 明
2016年12月9日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』 小西 明
 日時:平成28年10月23日(日)
 場所:有壬記念館(ゆうじんきねんかん;新潟大学医学部)
演題:「新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医」
講師:小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長) 

【講演要約】
1 はじめに
 日本の障害のある子どもの教育(以下:障害児教育)は、明治11年の京都盲啞院がはじまりである。明治13年には、東京に楽善会訓盲院が開校し、国の東西で障害児教育が出発した。しかし、すでに明治5年に制定された学制では「廃人学校」が規定されたものの、障害児に関する規定は明示されなかった。明治時代においては、障害児教育は国の政策課題としてほとんど見当たらず、社会的にも少数の小さな存在として扱われていたといえる。障害のある子どもにとっては、教育する学校も制度も整っていない時代であった。そこで障害児教育は、一般の学校制度から外れた学校として、視覚・聴覚障害者を対象にほとんどが私立の盲唖学校として展開されるようになった。 

 こうした社会からの支援のない時代と環境であったために、視覚・聴覚障害者のための学校設立は篤志家によるものだった。設立主体は、個人・グループ・団体などあり、社会的属性は教育者、医師、鍼按業の盲人、政治家、実業家、宗教家等である。とりわけ新潟県内の訓矇・盲唖学校開設で目立つことは、眼科医等の医師の主導または関与である。 

2 眼科医関与の新潟県訓矇・盲唖学校3校の創設経緯等
(1)高田訓矇学校1889(明治22)
 眼科医・大森隆碩(キリスト教徒)が、自身が眼病となり視覚障害者となったことから、盲人教育を提唱し、朋友の杉本直形、真保利雄ら医師の協力によって創設される。訓盲談話会から盲人矯風研技会、その後訓矇学校へと展開した。地域の支持基盤は医師会や教育会であったが経営困難が続く。教育内容・教授法をはじめ学校組織としてシステム化されず、資金面でも窮乏が続く。盲人のみを教育対象とし、普通教育と自活技術の習得を目指す。 

 訓矇の意味=蒙(モウ)は、おおうの意味。目がおおわれている。盲目を意味するが、隆碩は、心の啓蒙「目が覆われている状態で道理の暗いことを、教育により明らかにする」ことの必要性を説いた。また、大森隆碩、杉本直形らは訓曚学校創設とともに、女子教育や地域医療を担い多くの社会事業に尽力した。 

(2)中越盲唖学校 1906(明治39)
 眼科医・地方議員 宮川文平(キリスト教徒)刈羽郡鍼灸冶組合による、柏崎鍼按講習所の共同経営から、中越盲唖学校へと展開。盲唖学校は宮川の単独経営。支持基盤弱く経営は困窮していた。盲・聾者の自立を目指し、普通科・技芸科を設置するも、盲人教育中心の学校運営であった。
 宮川文平
  明治38年(1905) キリスト教徒内村鑑三と、文通や宿泊など交流がはじまる。
  明治39年(1906) 刈羽郡鍼灸組合が盲人の教育を開始する。
  明治41年(1908) 「私立中越盲唖学校」設立認可される。
   校長は、宮川文平  教員は、姉崎惣十郎、平野藤太郎 

(3)新潟盲唖学校 1907(明治40)
 鍼按業盲人に対する医師(眼科医・竹山屯など含)の協力による。設立運動委員は下記のとおりである。支持基盤は新旧の名望家、実業家、行政官、医師、教育者、民権活動家など幅広い。そのため経営は比較的安定していた。
 新潟盲唖学校設立運動委員 明治38(1905)
 ①設立(開校)責任者
  長谷川一詮(医師・鍼灸冶組合会長:代表)
  鏡淵九六郎(医師・私立第二代校長)
  荒川  柳軒(医師)
  前田 恵隆(元小学校長・私立第三代校長)
 ②鍼灸治組合関係者(盲人9人)
 ③眼科医 竹山屯の支援
  明治40年(1907) 「私立新潟盲唖学校」の設立が認可される。(7月17日)
  竹山屯が新潟市医学町通一番町69番地に所有していた土地民家を「私立新潟盲唖学校」に貸与されたことで、開校される。
  内訳:借館坪数33坪、教室数2(13坪)、屋内運動場1(坪) 

3 眼科医の功績
(1) 眼科医(医師)の主導または関与による学校創設
 ・新潟県には眼病患者が多く、明治11(1878)天皇巡幸による御下賜金千円により、眼科講習所設置や「眼科提要」4巻が発刊されるなど、眼科や視覚障害者への関心が高まった。 (眼科医:竹山屯らの功績)
 ・明治18(1885)関口寿昌と協力者:医師・鏡淵意伯により「盲人教育会」が新潟神宮教会の一部を借りて教育を始める。明治27(1894)関口の死去により閉校する。
  (類型:盲人と協力医師のさきがけ)
 ・明治20(1887)高田訓曚学校創設において、上記前例は、大森+杉本に生かされている。
 ・眼科医は医療に加え、社会事業に力を注いだ。女子教育や保健・衛生教育、障害者教育など、社会の関心が届かなかった分野に尽力した。
 ・眼科医の中には県議会議員、市議会議員となるなど、政界でも活躍し、盲聾教育の社会的認知に寄与した。
 ・盲唖学校設立に関して、視覚障害鍼按業者の要望に理解を示し、これを支えた。
  (明治37「鍼灸術取締規則」による基礎医学の習得など)
 ・社会保障制度が未整備であったため、視覚障害生活困窮者の医療費を無料低額診療とするなどして支えた。また、医師をはじめ実業家からの寄付により、生徒から授業料の徴収はしていない。
 ・高田訓曚学校は、資金源に恵まれなかっただけでなく医師界と教育界に広範な支持層をもちながら、学校運営をシステム化できなかった。学校経営と教務の体制(指導者、指導内容の確保)が確立していないかったため、教育上の重要な情報の入手に遅れ、教育界の助言も実行できなかった。
 ・長岡盲唖学校、新潟盲唖学校は、名望家、実業家、行政官、教育者、民権活動家など幅広い層に理解を求め、これらを支援者として経営安定を図った。教育の理念と成果によって、地域社会の期待に応えることができた。
 ・高田訓曚学校、中越盲唖学校、新発田訓盲院の設立者はキリスト教徒(救済の志)であったが、仏教界も寺院の一角を校舎として貸与するなど施設面等で支援した。 

(2)医療・保健・福祉・教育・労働の一体化を推進
 ・学校創設の目的は、学校規則の第1条に明記されおり、社会自立、職業自立を謳い教育の重要性を啓発した。
 ・学校運営の安定を目的に、私立から県立への移管が他県に比べ早期に実施された。また、これとともに、盲聾分離がなされ教育の専門性向上が図られた。大正12年「盲学校及び聾唖学校令」交付の前年に移管を果たしている。(宮川の英断。県議会へ請願書提出)
 ・学校創設は、その後の社会事業の魁となった。地域の社会事業家として使命感をもって当たる。社会事業は、恩光会(富山)や実業家(高助、中野財団)へ引き継がれる。
 ・眼科領域の研究が、北越眼科研究会を中心に盛んに開催され、盲唖学校生徒の保健衛生の向上にも大いに寄与した。
 ・眼科医師らがコアとなって社会事業の活動が盛んになった。視覚・聴覚障害者への理解が深まり篤志家からの寄付が増加、学校経営が安定した。その結果、長岡校、新潟校では、しだいに就学率が向上した。
 ・眼科医の産婆学校創設により、眼病予防が効果を上げ、失明者が減少した。
 ・大正15(1926)旧中越盲唖学校跡に新潟県盲人協会が日本初の「点字図書館」、日本初の点字図書配送システム「姉崎文庫」の設立は画期的な企画であった。
 ・盲人福祉団体の結成を支援した。 

4 おわりに
 ・新潟県の訓曚・盲唖学校を創設した眼科医は、日頃の診療をとおして、教育からも職業からも見放され、社会から放棄され、除外された盲人に、障害の良き理解者として、いち早く救いの手を差し伸べ、学習の基盤を培った。
 ・現在では、視覚補助具の目覚ましい進展により視覚障害者の生活や学習方法は変容したが、学習基盤習得の重要性は一世紀前と何ら変わらない。
 ・彼らは普通教育、職業教育の重要性を説き、支持者・協力者を集め、社会的認知、財政基盤を確立し、社会の光の当たらない、手の届かない生活困窮者に温もりの手を差し伸べた。眼科医が盲人とともに、向上を目指す姿勢に心を打たれる。
 ・当時の記録から、病、障害、老い、境遇・・・・ 悩める者すべての虹となり、いのちに寄り添う崇高な人間愛の精神がうかがえる。 

 

表  【学校教育制度と盲唖学校】
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 明治 4年(1871)  明治新政府による「当道座」の解体と「鍼冶講習所」廃止
 明治 5年(1872)  学制制定
 明治 7年(1874) 「医制」わが国初の医療と医学教育の規制法 西洋医学の導入
 明治12年(1879) 教育令
 明治13年(1880) 京都盲唖院開設
 明治14年(1881) 楽善会訓盲院(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)
          11月より按摩、鍼冶の教授開始
 明治18年(1885) 「鍼灸営業差許方」布告
 明治19年(1886)   小学校令(第一次)
 明治20年(1887)     官立東京盲唖学校(訓盲唖院が改称)  盲唖学校鍼按科設
 明治22年(1889) 高田訓矇学校創設
 明治23年(1890) 小学校令(第二次) 盲唖学校の設置・廃止事項制定。
          学義務の免除・猶予規定の制定。
 明治32年(1889) 私立学校令 私立盲唖学校の設置・廃止制定
 明治33年(1900) 小学校令(第三次) 義務教育無償の原則
 明治36年(1903)    東京盲唖学校に教員練習科が設置される(全国盲学校数20校)
 明治38年(1905) 長岡盲唖学校創設
 明治39年(1906) 中越盲唖学校創設
 明治40年(1907) 新潟盲唖学校創設
 明治43年(1910) 新発田訓盲院創設
 明治40年代     —–   小学校就学率93%、盲唖学校就学率10%
 明治43年(1910) 朝鮮総督府済生院盲唖部で鍼按指導 (統治1910~1945)
 明治44年(1911) 「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」(1912)により、試験合格か 指定学校卒業後に限り免許鑑札の義務
 明治45年(1912) 鍼灸按摩指定学校全国15校中 新潟盲唖学校、高田訓矇学校、長岡盲唖学校、中越盲唖学校の4校認可
 大正11年(1922) 新潟盲唖学校、長岡盲唖学校の県立移管。
          中越盲唖学校・新発田訓盲院閉校
 大正12年(1923) 公立私立盲学校及聾唖学校令・規程交付
          「盲学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部四年ヲ常例トス盲学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、音楽科 及鍼按科トシ」
 昭和16年(1941)  国民学校令公布
 昭和22年(1947)  教育基本法、学校教育法公布される。
 昭和23年(1948)  盲学校・聾学校教育義務制施行される。
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【略 歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立新潟養護学校はまぐみ分校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長
  2015年 済生会新潟第二病院・医療福祉相談室 

 

@小西明先生の紹介
 小西先生は、新潟県の視覚障害教育、特別支援教育に長い間ご尽力され、現在は済生会病院の医療福祉相談室にお勤めです。新潟県の視覚障害教育のことに精通し、多くの引き出しをお持ちですが、今回は新潟県で盲教育で活躍した眼科医についてお話して頂きました。新潟県そして我が国の視覚リハビリテーションの基盤を培った眼科医の功績は大事な事柄です。多くの史実を基にしたお話は重厚で、示唆に富んでいます。  

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●新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
   
 http://andonoburo.net/on/5217

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医) 

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川 スミ子(元 浦和大学) 

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本) 

4. おわりに 
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)