報告:『新潟ロービジョン研究会2016』 佐渡一成
日時:平成28年10月23日(日)
場所:有壬記念館(新潟大学医学部同窓会館)
演題:「我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学) ー開設当時を振り返ってー」
講師:佐渡一成(さど眼科:仙台市)
【講演要約】
順天堂大学眼科リハビリテーションクリニックは、1964年 中島 章教授の指令で、紺山和一先生(伝説の医局長で1979年からはWHOジュネーブ本部で眼科専門官としてWHO失明予防プログラムを長年担当した)が開始し、2年後の1966年から赤松恒彦先生が引き継いだ。
当時は大学病院といっても今のように開業医との機能分化がされていない状態で、結膜炎から白内障、緑内障、来院した患者は全部かかえ込んで「目洗い」をしていた時代で、外来には患者が押し寄せていた。その中で、大学病院としての機能が発揮できるようにするためにはどうしたらよいかという検討が自然発生的に加えられた。
まず、開業医で間に合うような患者は開業医に紹介することにした。次に、医学的に手を加えようもない患者が多数たまっていたことを認識していたが、失明宣告をしてもその後どうしたらいいかわからないためと、自殺でもされたらという心配から放置していたことを自覚した。紺山先生が更生施設入所者の入所に至る経緯に関する調査を行った結果、「医療機関を転々としていた」「更生施設への入所までに長期間を有していた」「眼科医を含めた診療施設から更生施設への紹介がわずか」であったことが明らかになった。すなわち眼科医をはじめとする医療関係者たちは、リハビリテーションおよび回復の見込みがない者へ無関心であり、診療部門と更生部門の連携が不徹底であることが明らかになった。これらの状況に危機感を抱いた順天堂は、中島教授のもと、紺山医局長が主体となってクリニックを開設した(高林雅子:日本医史学雑誌49、2003)。
赤松先生によると、その頃未熟児網膜症のため両眼全く失明した3歳の患児が来院した。母親はその子の眼が治らないことはもうとっくに知っていたが、その子がまだ歩行もできない状態をなんとかならないかと相談に来たわけである。母親に、子供を突き放して「はいはい」させることからやってみてはと帰したが、1か月後にはとても私の手から離れないと言ってまた相談に来た。盲学校や児童相談所などに相談したが、盲学校は学童期に達しなければだめと断られ、児童相談所では視覚障害者の専門家がいないからと断られた。
当時は乳幼児の視覚障害児の盲児指導機関もなければ社会適応訓練をするところもなく、盲学校と国立視力障害センターのみであった。そこで視力障害センター相談室に相談した結果、室長の松井新二氏の協力を得て病院の一室でリハクリを開始した。当時は社会適応訓練施設がなかったためカナタイプ協会の協力を得て歩行訓練、点字、カナタイプの訓練、乳幼児の育児指導等を行っていた。1969年に東京都心身障害者福祉センターが開設されたため訓練はそちらにお願いすることになり、順天堂では相談紹介が主な業務となった。
失明してしまった者の視力を回復させることは不可能な場合が多いため、リハビリテーションの第一歩は失明宣告である。当然ながら失明宣告を受けた障害者は深い絶望状態に陥る。そこでリハクリでは、病状の説明、失明宣告、その直後から心理的カウンセリング、次に将来進むべき方向の相談に乗り、各機関への紹介をしている。スタッフは心理ワーカー、ソーシャルワーカー、眼科医がそれぞれ相談に当たる。
相談を受ける側はただ話を聞くだけではなく、的確なアドバイスをする必要がある。まず障害者の持っている心理的な問題と社会的背景をしっかり把握しなければならない。こちらが悩みのポイントをしっかり把握してから、その解決にはどうしたらよいかのアドバイスを与えるようにする。心理的な多くの問題を乗り越えた時に、一般的な生活をするために必要な基本的訓練を行う。その後、社会に復帰する者、職業訓練施設に入る者、教育機関に入る者などに分かれて行く。
これらのスタッフをそろえて相談する場所は更生相談所や身障福祉センターなどでも良いが、医療機関からの紹介で福祉施設の相談機関に行くまでには障害者の心理的な落差が大きく、その間の障害者の迷いには種々のむだや事故を起こす危険性をはらんである。したがって、当時の順天堂眼科は大学附属病院の中にスペシャル・クリニックの形で開設していた(赤松恒彦:病院35、1976)のである。
第3回日本ロービジョン学会(仙台,2002)に体調が万全ではないにも関わらず、学会全日程に参加された赤松先生が、教育分野のシンポジストとフロアの眼科医とのやり取りを聞いて「眼科医は 見えるということをわかっていない」「「眼科医と他の分野の専門家がうまく協力できるように・・・」と 話されていた。
1964年 順天堂大学がリハクリを開設してから現在までに52年が経過している。中島教授・紺山先生・赤松先生らが始めた眼科医による視覚障害者支援は進歩しているのだろうか?先人の思いを私たちは重く受け止める必要があると思う。
【略 歴】
1979年 岩手県立釜石南高校卒業
1986年 順天堂大学医学部卒業
1993年 厚生省主催眼鏡等適合判定医師研修会終了
1999年 順天堂大学眼科講師
2000年から さど眼科(仙台市)院長・順天堂大学眼科非常勤講師
2001年から 岩手県沢内村(現西和賀町)で眼科診療(月1回)
2002年 第3回日本ロービジョン学会事務局長
2005年から 視覚障害リハビリテーション協会理事
@佐渡一茂先生の紹介
我が国のロービジョンケアを語る時、必ず挙げられる歴史的事実は、1964年順天堂大学眼科で始まった「眼科臨床更生相談所」です。設立当時のことを佐渡先生に語って頂きました。
佐渡先生は順天堂大学出身の眼科医で、仙台で開業しています。数多くの分野(コンタクト・スポーツ医学・沢内村診療等)で活躍するスーパードクターで、現在でも毎月リハビリ外来を順天堂大学眼科で行っています。
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●新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
http://andonoburo.net/on/5171
2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
http://andonoburo.net/on/5182
3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子 久保 尚人
(新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
http://andonoburo.net/on/5210
2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
http://andonoburo.net/on/5189
2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
http://andonoburo.net/on/5217
3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
ー開設当時を振り返ってー
佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
http://andonoburo.net/on/5223
4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
香川 スミ子(元 浦和大学)
3. 【第3部 熊本地震を考える】
「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
出田 隆一 (出田眼科院長;熊本)
4. おわりに
仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)