2014年4月20日

『父への弔辞』
 平成22年2月に父の葬式で、旧制角館中学校の同級生である品川 信良先生(弘前大学名誉教授;産婦人科)から頂戴した弔辞。

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故 安藤郁夫君に捧げた弔辞
弘前大学名誉教授     品川  信良  

 去る1月29日の午後6時半ごろ、私は東京からの帰りに、JRで三沢駅を通過したばかりでした。 三沢の駅や街の明りを眺めながら、一年近くもお見舞いに参上していない貴方が、その後どうして居られることかなどと考えながら、そのまま弘前に帰ってしまいました。今にして思えば、何故あの晩、三沢に下車しなかったかと悔やまれてなりません。本当に残念です。申しわけありません。もう一度お目にかかって、一言でも二語でもいいからお話ししたかったというのが、私の今の心境です。 

 思い起こせば、貴方に初めてお会いしたのは今から約74年前の昭和11年4月、秋田県立角館中学校の講堂 兼 体育室での入学式のときにでした。私たち新入生約百名は、身長順に25名ぐらいずつ4列に並ばせられ、全教官及び2年生から5年生までの全上級生の前で、古村精一郎校長から訓辞を賜わったのち、更に、多くの教官や先輩の皆さんを紹介され、新入生としての誓いをさせられました。それは厳しい、旧軍隊式のものでした。何しろ登校、下校のときには脚にゲートルを巻き、上級生にはいちいち敬礼もさせられる時代でしたから。 

 入学の頃、貴方は非常に背が高く、後ろのほうから2番目か3番目だったと思います。当時私はまだ小さかったものですから、列の中程で、何かしら貴方には、圧倒されるようなものを感じたことを今でも覚えています。入学後間もなく、貴方が角館の中心街の、古い大きなある名家の御曹司であることが分かりました。私は大曲からの汽車通学だったため、余り今でいうクラブ活動などはしませんでしたが、貴方は間もなく水泳部に入られ、いつも水着持参で登校されたお姿を今でもなつかしく、よく覚えて居ります。 

 水泳もさることながら、貴方はまことに話題に富み、大変な話術の名人でもあることに、私たちは間もなく驚かされました。どこでどう仕入れられるのか。英語のH先生の奥様は一級上のSさんのお姉さんであること。数学の I 先生には近く二人目のお子さんがうまれる話。軍事教練のA教官の日本語は、文法的には全然成っていない、などと言っては、よく皆を笑わせていました。 

 何しろあの頃の角館中学には、軍事教官が二人、一人は陸士出の少佐か中佐の、歴とした陸軍将校、もう一人は軍曹か曹長の百戦錬磨の下士官という具合でした。それに入学早々、五箇条の御誓文ならぬ、五つの「校訓」なるものを私たちはたたきこまれる時代でした。その「校訓」というのは、何と、「国体強調」に始まり、「質実剛健」「敬愛和合」「士魂振作」「勤労尊重」などと続くのでした。あの融通のきかない堅苦しい、なかば神がかった時代に、いつも皆を笑わせ、堅苦しさを解きほぐすのが貴方でした。貴方の話術と存在は、クラス全員にとっては、まことに貴重なものでした。貴方のお人柄などもあって、私たちのクラスは、あの学校としては極めてリベラルなクラスだったと思います。休み時間にシューベルトのセレナーデを歌う者、「谷間の灯」を英語で歌う者、世界文学全集を片っぱしから読みこなそうとする者などが居りました。 

 そう言えば貴方には、中学2-3年の頃から一人の愛人がありました。そしてその写真を貴方は、いつも内ポケットにしのばせていました。もっと大きいのは、自宅の壁に貼ってあるとのことでもありました。その愛人とはだれあろう。アメリカの有名な映画女優、「オーケストラの少女」で主役を演じたディアナ・ダーヴィンでした。そして同時に、貴方は、「尊敬する憧れの男性は、西部劇に出るゲーリー・クーパーだ」などとも、よく語っていました。 

 戦前の貧しい秋田の田舎は勿論のこと、まだ日本全体が貧しく低学歴の時代だったせいもありましょうが、3-4年になると私たちの同級生は進学希望者と就職希望者に分けられました。貴方や、北大予科に進んだ高久真一君や旧制2高に進んだ小山田富彦君、新潟高校に進んだ鈴木省三君(有名な作家 西木正明氏の叔父さん)などは皆、進学希望組に入りまた。その頃から貴方や小山田君や伊藤康生君が、「将来は医者になるんだ」と励まし合っていたことを、私は今でも覚えています。家が豊かでない上に、弟妹が多いので、私はまだ進路を決めかねていた頃からでした。 

 そう言えば私たちのクラスには、医者になった者が6名居りましたが、そのトップは貴方でした。貴方は昭和16年、卒業と同時に岩手医専にお入りになり、20年3月には卒業され、海軍軍医学校に進まれ、そのまま海軍の軍医として軍務に終戦まで就かれました。その海軍に入隊される途路、当時まだ東北大学医学部の学生だった私と小山田富彦君の下宿に、貴方がひょっこり訪ねてこられたことがありました。確か昭和20年の3月末でした。きくと、「これから横須賀の海軍に入隊するのだ」というのです。そこで俄かに、貴方の送別会を私たちの下宿で、ありあわせのスルメか何かを噛りながら、燈火管制下の薄暗いところで行なったことを、私は今でもよく覚えています。あの頃、最近アメリカの映画などにもなっている有名な「硫黄島」は米軍の手中に落ち、「次は沖縄か九州か、それとも直接本土か」などと、私たちは語り合ったものでした。 

 その後、私たちはそれぞれに色々苦労はしましたが、幸いにも生き残り、医者となり、盛岡と仙台、三沢と弘前など、少し離れた違うところにおいてではありましたが、お互いにこうして、60年以上も生きてきたわけです。その間、私は終戦から昭和22年の3月まで1年半余、また貴方は昭和25年から3-4年間、東北大学の病理学教室に在籍しましたので、私たちはその病理学教室におけるもう一つの同窓生という関係にもなったのでした。 

 そればかりではありません。貴方の奥様のお父様 桜岡純一様は私の東北大学での大先輩でしたし、またお母様、幾代様は、私が弘前大学にきてから永らく、青森県内在住の先輩(小児科)医師として、色々御厚誼や御指導を賜わってきた間柄でもあります。更にまた、先年お亡くなりの、奥様のお兄様 瑛一博士は、東北大学医学部内の医局対抗野球大会では、その右に出る者の無い解剖学教室チームの不動の四番打者であられました。仙台二中及び 岩手医専時代には、そのエース投手として鳴らされたお方でした。戦後は永らく岩手医大及び盛岡市内で産婦人科医としても、活躍してこられた、私とは昵懇の間柄でもあります。 

 次に、今更私から申上げる必要もないことでしょうが、貴方は当三沢地区に在っては、真に貴重な存在の眼科医でした。その誠実な良心的な、然も細かいところにまで気配り の利いた診療ぶりは、凡ての方々の絶賛するところでした。また貴方の私生活は、まことに厳正な、立派なものでした。「三沢在住の日本人で、いち早く、早朝のジョギングや散歩を始められ、それを一日も欠かさなかった日本人のお一人」とも貴方は讃えられていました。 

 今から50年以上も前には、弘前や青森などから東京に行くのには通常、夜行寝台を使うのが普通でしたが、私はときどき三沢空港を利用もしました。その際、朝の第一便に乗るために、朝6時半か7時ごろに三沢のお宅にお寄りすると、貴方はジョギングのあとに、よくシャワーを浴びて居られたものでした。そして私は何度も、貴方の奥様から手厚い朝食のおもてなしを受けたことも、今はなつかしい思い出の一つです。 

 その不死身とも思えた貴方も、高齢と病魔には勝てず、数年来寝こんでしまわれ、年に1-2度お訪ねしても、殆んど会話も交わされることもなく、ただ、肯かれたり、笑みを浮かべたりされるだけの貴方でしたが、去る1月29日の夜、三沢駅を通過したときに、何故私は下車しなかったのかと、今でも悔やまれてなりません。 

 去る1月31日、御子息様から貴方が御逝去のことを伺ってから私は、貴方の郷里角館のほかに、秋田県の大仙市、北海道の札幌などに四散している同級生の数人に、貴方がお亡くなりのことを電話しました。皆さん、「貴方の死など信ぜられない」などと仰言っていましたが、札幌在住の高久真一(北大名誉教授)からは、次のようなメッセージが届きましたので、次にそれを拝読致します。彼は私と違って、貴方とは、角館小学校一年生以来、つまり昭和5年以来の同級生でした。そう言えば、彼と貴方が昭和60年ごろに、お二人で弘前の私のところにこられて一泊されたこともありました。 

 「安藤君、角館町生まれで、旧制中学を5年で卒業するまで一緒だった君とは人間形成の上で共通するものを持って育った、今や数少ない一人でしたね。私から見ると君は町の中では色々な意味で上の階級に生まれ育っていたが、学校ではそんなことは無関係で僕らは何の分けへだてなく一緒に遊び、受験勉強をすると称して夜遅くまで話し込んで将来の夢など語りあったね。

 貴君は学校時代だけではなく、今までずっと、回りの者たちを笑わせる役を演じてくれたサーヴィス精神の旺盛な友であった。君は、自分から進んで道化になりユーモアを振り撒いては他の人の気持ちを和らげるという才能の持ち主であった。ラジオで英会話を何年も勉強しながら、僕はさっぱりダメだとか、僕の英語は全然通じないとか、精一杯努力しながら、その効果がないかのように道化を演じていた。それは皆に好かれる中々真似の出来ない才能であった。惜しい友を亡くしてしまった。御冥福を祈る。」 

 これは高久君からのお言葉でしたが、安藤君、もう一人の貴方の小学校以来の同級生からも言伝てがありました。それは野球部でキャッチャーをやっていた柴田正蔵君からです。彼は戦後、母校の野球部のコーチなどもやっていましたが、盛岡に遠征に行った戦後間もないあるとき、大変貴方のお世話になったと感謝していました。貴方には、部員ともども御馳走にもなったそうです。昭和25年か6年には、それでも惜しいところで、甲子園出場はできなかったと電話で話していました。 

 それにしても貴方は、実に立派な奥様とお子様がたに恵まれ、立派な御家庭を築いてこられました。お子様方は皆、医師として貴方のあとを継がれ、社会の第一線で、世の為め、人々の為めにいま活躍して居られます。まことに羨ましい限りです。特に貴方が御病気で倒れられてからの奥様や御長男 幾朗様ご夫妻の御苦労はいかばかりであったことかと、推察に余りあるものがあります。

 どうぞ御遺族の皆様におかれては、お疲れなどの出ませぬよう、只管お祈りしながら、
 
友人、特に中学校での同級生を代表しての拙い弔辞を終わります。
 
(平成22年2月2日) 

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追記  
 以上の弔辞を、私は約25分かけてゆっくり読んだが、その後の会食の席などで、お孫さんやお子様がたは勿論のこと、奥様からまでも、「初めてきくことが非常に多かった」、「おじいちゃんがそんなにユーモラスな方だったとは全然知らなかった」、「かねがね面白い、気の優しい方とは思っていたが」などと前置きした上での、質問が山のように飛び出してきた。そこでそれらの御質問にお答えしたことを整理しながら、私たちの時代の角館中学と、私たちのクラスについて、若干のコメントを加えさせて頂く。
 

1.私たちの頃、秋田県には中学校は、秋田、大館、横手、能代、本庄、角館の6校しかなかった。その総定員は僅か1000名そこそこであった。

2.僅か6校のうち、入試が厳しいのは秋田中学だけで、他の5校は定員すれすれであった。私たちが入った年の5年生(昭和7年入学)などは、50名にも充たなかった。

3.お恥ずかしい話ではあるが、角館中学は、なかば「非進学校」にも近かった。旧制高校には、昭和10年に2-3人入ってから、その後4年間(北大予科に入った方は一人居られたが)一人も入って居なかった。

4.そのなかば沈滞した校風のようなものを、一蹴したのが、新任の古村精一郎校長先生であった。先生の持論は、「学校は生徒の資質もさることながら、教師、教官で決まる。列車のスピードは、機関車で決まる。座席をいくら良くしても、汽車は早くは走れない」というものであった。そして(旧)帝大出や(旧)高等師範出の先生がたを1-2年の間に7名も、あの角館の地に呼び寄せられた。東大出(数学、歴史、物理・化学)、京大出(生物、社会、国語)、東北大出(英語)、高等師範出(英語)がそれであった。

5.角館の町には、これら遠来の先生がたに対するスポンサーも居られたようだ。在京の名士、角館町内の医師などがそれであった。

6.これらの先生がたは、私たち秋田の片田舎の少年たちに夢や希望を与えて下さった。その効果はたちまち現われ、2年後には陸軍士官学校に3名合格した。その後私たちのクラスからは、京都大卒2名、東北大卒2名、北大卒1名の他、岩手医大卒2名、外国語大卒1名、東京医大卒1名、日本医大卒1名などが出た。但し、海軍の予科練に行って戦死した者も4名出た。元気な直情の、惜しい方々ばかりであった。

7.角館町の安藤家の直ぐ近くには、角館町立図書館があったが、ここは私たちのクラスの、なかば溜まり場 兼 課外勉強室でもあった。ここには、角館町出身の佐藤義亮新潮社社長寄贈の図書が沢山あった。この図書館と、東大出の渡辺先生(歴史、地理)、京大出の島津先生(社会、公民)、林先生(生物)、豊田先生(英語)などの講義とは無関係ではなかった。これらの先生が触れられ、私たち中学生の好奇心をそそって下さった大抵の本は、中学校の図書室には無くても、この町立図書館には在ったからである。町立図書館での読書は、大志とまではいかなくても、私たちにかなりの夢を与えてくれた。

8.あの頃、近くの横手中学の教諭が「若い人」を著わして、秋田県内は勿論のこと、全国的にも大きな話題になっていた。その著者が弘前出身の石坂洋次郎であった。勿論、私たちのクラスでも「若い人」は、大きな話題になった。「若い人」のヒロイン、江波恵子の名を、勿論安藤君はよく口にしていた。

9.他に、1936年のベルリンオリンピックに関するドキュメント映画「民族の祭典」(Fest der Voelker)や「美の祭典」(Fest der Schoenheit)の女性監督(元ダンサー)、レー二・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)の美貌にも、私たちは大いに魅かれたものである。

10.角館中学の校舎の直ぐ北には「古城山」という昔のお城の跡があり、その麓には昔のお殿様 佐竹男爵家があった。その佐竹家はなぜか男の子に恵まれず、お嬢様ばかり3-4人居られた。その御長女は弥生さんと仰言り、安藤君とは小学校でのクラスメートであり、そのお話もしばしば聴かせられたものである。その弥生様の御長男が実は現 秋田県知事である。弥生様の御尊父佐竹男爵は、私たちの頃の角館町長であり、入学式や卒業式など、行事がある度に中学校にもお見えになり、私たちを励まして下さった。
(平成22年2月5日記す)

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補足:
 秋田県仙北市角館は、私の父が生まれ育ったところです。東北の小京都と言われ、武家屋敷が残っていて、桜がきれいなところです。また秋田美人の産地として有名です。観光の街ですが、角館は「文教の地」とも言われています。藩政時代「 致道館」「弘道書院」などの武士の学校が開かれ、この地に学問の花が開花しました。「解体新書」の挿絵を描いた小田野直武や、新潮社の創始者の佐藤義亮の出身地であります。
 我が安藤家の本家は、味噌醤油の安藤醸造元。創業嘉永六年の老舗です。蔵座敷も残っており、観光スポットにもなっています。
 (安藤伸朗)

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2013年12月3日

『鳥居俊夫絵画展 ~明治・大正・昭和生まれの医家三代記~』  
  日時:12月8日(日)~24日(火) 営業時間 11:00~18:30     
  場所:ギャラリー蔵織        
   〒951-8062 新潟市中央区西堀前通1-700 tel & fax 025-211-8080      
   http://www.craole.jp/     

 その昔、画家にあこがれた鳥居俊夫(大正11年生まれ)の作品を中心に,ゆかりの人 や、父(鳥居恵二・明治24年生まれ)、息子(鳥居俊・昭和28年生まれ)の作品も添 えて展示します。

鳥居恵二 (とりい-えいじ) 1891-1971   
 大正-昭和時代の耳鼻咽喉科学者。 明治24年2月4日生まれ。大正9年母校京都帝大の助教授。ドイツ留学後,14年新潟医大 教授,昭和24年後身の新潟大教授。航空医学と耳の機能に関する研究で知られる。昭 和46年8月12日死去。80歳。徳島県出身。著作に「耳鼻咽喉科学」(共著)など。

鳥居耳鼻咽喉科医院 http://nttbj.itp.ne.jp/0252222015/index.html

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 故鳥居俊夫先生(俊先生のお父様)は、私の親父と戸塚の海軍軍医学校で同期です。私が18歳で、青森から新潟大学医学部に入学した時に、父のつてで副保証人になって頂き、私と鳥居家とのお付き合いが始まりました。鳥居家の皆様には大変よくして頂き、今でも感謝しております。
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2013年11月23日

11月30日の発売に先だって、著者からの贈呈本『絶望からはじまる患者力: 視覚障害を超えて』が郵送されてきました。若倉先生が世に出した一般書としては10冊目ということです。患者さんの視点で書かれているところが本書の特徴。人生の半ばで重篤な視覚障害を持った4名、それ以外の視覚の不都合を有する2名の患者さんに、見えた人生、障害を持ってからの生き方についてそれぞれ2時間半語っていただき、これを若倉先生が脚色し、6名の非常に濃度の濃い半生を再現し、本にまとめられたものとのことです。本書に添えられたお手紙に以下の記載がありました。「彼らは障害を持っても生き生きとして、その人生に豊穣な実りをもたらしており、ここには健常者も学ぶべき最強の患者学、本格的な深遠な人間学が存在します」
障害を持つ方も、持たない方も、全ての人に読んで欲しい本です。

加茂純子先生(甲府共立病院眼科)のレビュー(Amazon.co.jp)
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4393716280/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1
清澤源弘先生(清澤眼科医院)のブログ
http://blog.livedoor.jp/kiyosawaganka/archives/54054802.html http://blog.livedoor.jp/kiyosawaganka/archives/54056274.html
若倉雅登先生の著作
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC/s?ie=UTF8&field-author=%E8%8B%A5%E5%80%89%20%E9%9B%85%E7%99%BB&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E8%8B%A5%E5%80%89%20%E9%9B%85%E7%99%BB

若倉雅登先生の日本ロービジョン学会2,013(倉敷)講演要旨
http://andonoburo.net/on/2296  

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2013年10月6日

『禅僧・乙川弘文 故S・ジョブズの心の師』
 10月5日は、故スティーブ・ジョブズの命日。ジョブズの心の師で有名な乙川 弘文(おとがわ こうぶん、旧姓:知野)は、新潟県加茂市出身である。 

【乙川弘文 略歴】
  1938年(昭和13年)、新潟県加茂市の曹洞宗の寺に生まれた。駒沢大学を経て、1964年に京都大学で修士号(大乗仏教)を取得した。福井県の永平寺で3年に及ぶ修行を積み、1967年、僧侶・鈴木俊隆の招きでアメリカ合衆国に渡った。タサハラ禅マウンテンセンターにて、1970年まで補佐を務め、1971年に鈴木が死去した後には、ロスアルトスの禅センターにて、1978年まで活動、1979年にはロスガトスの慈光寺に転任した。 

  1986年にはスティーブ・ジョブズのNeXT社の宗教指導者に任命され、1991年にはスティーブ・ジョブズとローレン・パウエルの結婚式を司った。その後も各地にて活動していたが、2002年7月26日、スイスにおいて、5歳の娘を助けようとして溺死した。 

【10月5日新潟日報朝刊】
  スマートフォン「iPhone」など画期的な製品を世に送り出した米・アップル社の共同創業者、スティーブ・ジョブズの死去から、5日で2年になる。ジョブズは生前、禅の教えに傾倒。長年親交を結んだ禅僧は加茂市出身だった。ジョブズの伝記にも登場する乙川弘文(1938~2002)だ。弘文は米国などで多くの弟子に影響を与え、ジョブズら教えを請う人々と心を通わせた。 

  ジョブズは、唯一公認した伝記「スティーブ・ジョブズ」(11年)の中で「仏教、特に日本の禅宗はすばらしく美的だと思う」と語っている。iPhoneをはじめとするアップル製品のデザインは、余計なものをそぎ落とす禅の精神に影響されたともいわれる。 

  弘文についてジョブズは伝記で「弘文老師との出会いに深く感動し、気が付いたら、なるべく長い時間を彼と過ごすようになっていた」と語っている。出家を相談したところ「事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つことは可能なのだから、やめた方がよい」と諭されたという。 

  弘文の名は、ジョブズの死去で一躍知られるようになった。2人の出会いは約40年前とみられ、ジョブズは1986年に弘文の生家の定光寺(加茂市)を訪れた。ただ、弘文はジョブズとの交流について生前、多くを語らなかった。弘文の義姉、乙川美恵子さん(65)は「どちらかというと私的な関係で、会話の中で通じ合うものがあり、悩んだ時には話し合っていたのでは」と推測する。

  弘文は67年、米国で禅を指導する拠点「禅センター」を開く手伝いをするため海を渡った。その後も米国や欧州の各地に出向き、座禅の指導などに当たった。美恵子さんの息子で、定光寺で住職を務める乙川文英さん(46)は「叔父は『曹洞宗の顔』といった存在ではない。どちらかというと異端児で、米国に行ってからの叔父は風来坊だった」と笑う。

  文英さんは「叔父が米国で何を教えたかったのかは分からない。ただ、叔父の行動や生活スタイルを通し、弟子らは何かをつかんだのではないか」と穏やかに話す。現在、弘文が関わった寺や座禅会などは弟子らが受け継ぎ、米国やドイツ、スイス、オーストリアで16の寺や団体が活動する。弘文の遺骨は分骨され、米国の寺院や定光寺など4カ所で静かに眠っている。

 

◎風のような生き様
  弘文は2002年、弟子のいたスイスを訪れた際、プールで溺れた自身の娘を助けようと水に飛び込み、亡くなった。弟弟子で耕泰寺(加茂市)の住職、知野東悟さん(54)は「(亡くなり方も含め)風のような生き様だった」と振り返る。

  関係者が遺品を整理したところ、大学院時代のノートが見つかった。「根は真っすぐな、真面目な人だった」(義姉の美恵子さん)ことを示すように、学問や日常のさまざまなことが、びっしりとつづられていた。おいの文英さんは「人間的な魅力があったから、慕われたのではないか。一生懸命に勉強したことが土台になったんだと思う」と語る。

  弘文は数年に一度帰郷したが、予定通りに帰ってくることはまれで、何も言わず突然帰ってくることもあった。美恵子さんは「予定が立たないから怒るんですが、『えへへ』と笑う顔を見ると、怒る気持ちが消えてしまう。不思議な人でした」と振り返る。 

  弘文は請われるとどこへでも出掛けていき、指導した。「曹洞宗のお坊さんとして布教活動をしている、という意識はなかったと思う」と文英さん。知野さんも「あらゆるものにとらわれない人だった」と話した。

 

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2013年10月5日

『ニーバーの祈り』ラインホールド・ニーバー
  アメリカの神学者、倫理学者ラインホールド・ニーバー(1892-1971)がマサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年の夏に説教したときの祈り。

「ニーバーの祈り」  
   神よ、
  変えることのできるものについて、
    それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
  変えることのできないものについては、
       それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
       そして、変えることのできるものと、
     変えることのできないものとを、
  識別する知恵を与えたまえ。
 ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

THE SERENITY PRAYER
 O God, give us  
  serenity to accept what cannot be changed,
  courage to change what should be changed,  
  and wisdom to distinguish the one from the other.
 Reinhold Niebuhr    

 

 アメリカの神学者、倫理学者ラインホールド・ニーバー(1892-1971)がマサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年の夏に説教したときの祈り。礼拝の後、ハワード・チャンドラー・ロビンズという人がこの祈りの原稿をもらった。彼は、祈りを集めた小冊子を編集発行していた。ロビンズは翌年、彼が編集した祈りの本の中に加えて出版した。その時は、ニーバーの名は付されてはいなかった。

 第二次世界大戦の中、この祈りが書かれたカードが兵士たちに配られた。戦後になると、今度はアルコール依存症患者の断酒会のメンバーの目に留まり、その断酒会のモットーとして採用された。ニーバー自身がこの祈りを書物に著したのは1951年のことである。このころには、この祈りはすでに広く知れ渡っていた。そして、1961年、グリーティング・カードを出版しているホールマーク・カード社がこの祈りの版権をニーバーから取得している。

 この祈りの作者は、18世紀の神学者フリードリッヒ・クリストーフ・エーティンガーだという説もあれば、14世紀の一兵士の祈りであったという説、古代アラビアから伝わってきた祈りだという説もあった。しかし現在では、これらの説は誤りで、正しくはニーバーの作であるとされている。また、この祈りが最初に用いられたのは、当初は1934年とされていた。しかしそれは、ビンガムが著したニーバーの評伝の誤りであったことが判明している。

 日本では、ニーバーの弟子の大木英夫の著書で紹介されてから、この祈りが広く知れわたったようである。1967年に大木が『中央公論』に発表した論文の中で紹介され、後に、大木英夫、『終末論的考察』、中央公論社、1970年 に収録された。この23ページに、この詩と由来が紹介されている。上の英文はこの文献から引用した。その訳では、「勇気」に「カレイジ」、「冷静さ」に「セレニティ」、「知恵」に「ウイズダム」とルビが振られている。訳において順序が変えられているのは、そのときすでにそのような訳が慣習になっていたからだと、この本に記されている。

 http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm 

 

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2013年9月29日

  彼は私の一歳年上、2歳上の兄と私の間の学年である。当時盛岡に住んでいた私達兄弟と彼は、毎日お互いの家を行き来して遊んだ。私が幼稚園から小学1年生時代の3年間である。3人兄弟のような関係であった。

 学生時代に3人で一緒に旅行した。彼の結婚披露宴に兄弟で招かれた。私の結婚式に参列してもらった。時を経て彼は外科医になり、新潟で学会があった時、一緒に飲んだ。大学の講師になりそれなりに活躍しているようであった。名古屋で眼科の学会があった時、一緒に飲んだ。その時には彼はホスピスで仕事をしていた。もとから彼はクリスチャンで、彼らしい選択と思った。その後彼は滋賀に移り、京都の学会の折に時々会った。

 彼に会うといつも不思議な感覚を味わう。タイムスリップして一気に盛岡時代に戻ってしまう。互いに50歳を過ぎ、バーのカウンターで互いに「順ちゃん」「伸ちゃん」と呼ぶ。それ以外の呼び方をお互いに知らない。中年男性がそんな呼び合いをしながら、仲良さそうに会話をしているのだから、さぞや周囲の人からは変に思われたかも知れない。

 そんな彼を新潟に呼んで講演会を開いた。「ホスピスに生きるひとたち」という演題で、約一時間の講演だった。最初は彼に講演など大丈夫かなと心配であったが、5分も経たないうちにそれは杞憂であることが判った。「ホスピスは、患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」「病気で死ぬのではない、人間だから死ぬ」「死ぬことは、生きている時の最後の大仕事」『患者の死』は外科医にとっては『苦い経験』だが、ホスピス医にとっては、『生きる力』」、、、、、。

 彼の講演は、間違いなく満員の聴衆を魅了した。嬉しかったが、正直チョッと不思議だった。なぜなら私にとって「順ちゃん」は、立派なホスピス医ではなく、今でも「やんちゃな遊び友達」であるからだ。

(「日本の眼科」2005年12月号 編集便りから)

 

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2013年9月24日

海外の遭難を助けた美談としては、1890年、和歌山県串本町大島のトルコ軍艦エルトゥールル号事件が有名だが、新潟県の佐渡にも同じような実話があった。

太平洋戦争が終わった翌年の1946年1月14日、佐渡に英国機が不時着した。村民が英兵を温かくもてなし、海岸に人海戦術で手づくりの滑走路を完成させて、“ダコタ”を再び大空へ飛び立たせたという実話に基づいた映画「飛べダコタ」が完成した。

 事件は、終戦からわずか5ヶ月、貧しく混乱が尾を引く時代に起きた。村人たち敵国だった英国の軍人に対して複雑な思いを抱えながらも、古から佐渡への流人を助けてきた佐渡の精神に従い、英兵たちを温かく迎え入れようとする。

しかし日本は敗戦の直後、5か月前までは鬼畜米英の思想で戦ってきた。息子を英国との戦争で亡くした家族、負傷して心も傷ついて戻ってきている元軍人などが複雑に絡み、単純な人道物語にはならない。戦争が終わっても、そんなに簡単には以前の敵兵を受け入れることはできないのは当然であろう。様々な屈折を経ることになる。

 最初は、お涙頂戴ものかと疑心暗鬼で観ていたが、完全にいい意味で裏切られた。やはり実話は重い。当時を知る人は佐渡でも少なくなってきている。今でなければ、作ることができない映画である。

佐渡に滞在したのは40日間である。英兵と島民は紆余曲折を経ながらも、親睦を深めていく。「戦争とは?」「今後戦争をしないためには?」という重いテーマも抱えながら映画は進行していく。英兵と島民は次第に氷解して行く。

 島民総出で手作りの滑走路を造り上げ、ダコタは海に向かって滑走路を疾走し離陸するシーンは、ついこの前、成功を祈りながら見守った日本のロケット「イプシロン」の発射の時とシンクロした。

和歌山県串本では今でもトルコ大使が参加して追悼式が行われているが、佐渡では英国大使が参加する祈念式典はこれまで開催されていない。何とか後世に残したい史実だ。

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2013年5月26日

(新潟市)明治から昭和を代表する洋風建築によって構成された歴史文化ゾーン「みなとぴあ」内にある。 旧第四銀行住吉町支店の1階をリゾート感溢れるレストランに改装した。
水辺に近く、ウォーターフロントの景観が満喫でき、対岸には朱鷺メッセを臨み、巨大なフェリーも横付けされる。 夜はライトアップされた建物の中で、ゆっくりとお食事を楽しめる。
http://www.nchm.jp/contents18_bank/18index.html

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2013年5月6日

場所:青森県上北郡おいらせ町向山3331 (三沢市から車で15分)。
カワヨグリーン牧場は1959年に開設、その中のレストラン「カワヨグリーンロッヂ」は1978年オープン。 牧場の牛や羊を眺めながらの食事は楽しい。何よりもカワヨ牛ステーキ・自家製食材を利用した料理は安心感あり、そしてとにかく美味しい。
http://kawayo.net/

【沿 革】
カワヨグリーン牧場(川口彰五郎代表)の付帯施設、カワヨグリーンロッヂは1978年創業。この牧場は、元々は彰五郎さんの長兄源九郎さんの夢であった。が、志半ばにして死去。その長兄の夢を継いだのが三男の軍三郎さんである。軍三郎さんは、昭和32年(1957)にカワヨグリーン牧場を開牧した。しかしそれから2年後の冬、軍三郎さんは不慮の事故で死去した。その意志を継いだのが現当主で五男の彰五郎さんであった。カワヨグリーン牧場は川口家三兄弟の思い入れのある牧場である。

川口さんは、昭和45年(1970)にユースホステルを開業。53年(1978)にはグリーンロッヂを開業して現在に至っている。またこのグリーンロッヂホールではこれまで70回近くのコンサートが開催され、青森県南の文化の発信の場の一つともなっている。

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2013年5月2日

JazzFlash ジャズフラッシュ
http://flash.pagans.jp/
新潟に幾つかあるジャズ専門店の一つ。店内に入った途端に、ジャズの雰囲気を味わうことが出来るお店。いかにもジャズが好きという感じのマスターが優しく迎えてくれる。

「新潟はジャズの街」
以下、「新潟ジャズストリート」のホームページから少しばかり紹介します。
http://www.niigata-jazzstreet.com/about.php#niigata_jazz

1.新潟はジャズの故郷ニューオリンズと同様ミシシッピー川のような大河信濃川が悠然と流れている港町。
2.昔からジャズが盛んで、演奏者も愛好家もジャズ関係の店舗も多い土地柄。
3.ジャズの公演も地方都市としては多い。
4.「新潟ジャズストリート」2003年1月より毎年1月と7月の年2回開催。
5.ジャズの巨人であるデューク・エリントンは、新潟市の国際親善名誉市民
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*昭和39年6月16日に発生した新潟地震の直後に来日し、楽団を率いて日本公演中だったエリントンは、新潟の惨状を聞き、次に予定されていたハワイ公演をキャンセルし、同年7月8日に東京・厚生年金ホールで「新潟地震救済資金募集・特別コンサート」を開催、収益金をすべて新潟市に贈りました。
新潟市は感謝の意を込めて、2年後の昭和41年5月、エリントンが再来日した際に「国際親善名誉市民」の称号を贈りました。エリントンは「これまで音楽家として頂いた賞は随分ありますが、名誉市民というのは初めて」とうれしそうだったそうです。当時の渡辺市長が「3度目の来日の際は是非新潟にも来て下さい」と言うと「是非おじゃましたい」と約束したそうです。それから4年後、3度目の来日で念願の新潟でのコンサートが実現しました。

 

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