報告:『新潟ロービジョン研究会2016』  香川スミ子
2016年12月12日

報告:『新潟ロービジョン研究会2016』  香川スミ子
  日時:平成28年10月23日(日)
  場所:有壬記念館(新潟大学医学部同窓会館)
 新潟ロービジョン研究会2016は、10月23日(日)有壬記念館(新潟大学医学部)で行いました。研究会での講演を順次報告しています。今回は香川スミ子先生に、「我が国の視覚リハビリテーション育ての親」である原田政美先生について語って頂きました。 

演題:「眼科医、原田政美の障害者福祉理念と功績」
講師:香川スミ子 (元東京都心身障害者福祉センター) 

【講演要約】
1.原田政美の経歴の概略
 原田政美は1950(28歳)年に東大医学部を卒業し、3年後に東京大学医学部眼科に入局したが、1964年までの12年間はわが国の弱視・斜視研究を牽引した一人であった。それは眼科研究誌等に掲載された少なくとも64本の論文によって示される。また、1960年以降には、リハビリテーションの必要性を説く論文が散見され、弱視学級開設、日本弱視教育研究会発足に尽力した。1965年には医師の職を辞し、東北大学教育学部教授「視覚欠陥学講座」初代教授に就任し1967年までの3年間を、学生に指導の傍ら研究及び論文発表(15本)、図書等を発表した。1968年には、東京都心身障害者福祉センター(以下センターとする)初代所長として、20年間(1968-1987:非常勤5年含む)、東京都における障害者福祉を発展させた。 

2.センター所長としての仕事
(1)開設当初から、障害者のニーズに応じる方途として、既存にないセンター独自の指導を開始した。視覚関連では盲幼児の親子指導、中途失明者の歩行訓練、点字指導、中途失明女子の日常生活動作訓練である。職員の実力不足や、医学以外のサービスの画期的な向上のために、センター内職員専門研修等(障害科研究発表会→研修開発セミナー(外国論文抄録含む)、研究会、研修会、派遣研修、図書室の整備、委託研究を実施した。
(2)新たな事業として視覚関連では、盲幼児のインテグレーション支援開始(1972)、CCTVの開発(1973)、オプタコン指導に着手(1976)した。
(3)「専門的技術を伴わない指導訓練は人権を尊重しない行為である。センター最大の使命は、専門的技術の確立と専門職員の養成であった」の考えのもとに、技術書を刊行した。視覚関連では、「盲人の家庭生活動作」、「盲乳幼児の養育指導→育児ノート盲乳幼児編」である。
(4)障害者福祉に関する新しい理念に基づく相談・指導体制への変換を実施した。1980年に就学前障害幼児への通所・集団指導体制を廃止し、家庭を中心とした親主導型育児プログラムへの支援を開始した。また、脳性まひに代表される乳幼児期からの全身障害者を対象とした「自立生活プログラム」を開始した。 

3.原田政美の障害者福祉の理念の変遷
・1966年:「視覚障害リハビリテーションの重要な問題は、失われた視覚を代償する方策を考えること」と考え、その理念のもとに、レーズライターの試作、盲人用、弱視者用カナタイプライター、超音波盲人歩行誘導装置の開発(委託)等、盲人用電話交換機の開発(委託)、CCTVの開発、指導技術の研究(7):失明女子の日常生活動作技術、オプタコン指導、視覚障害乳幼児の発達指導を実施した。
・1974年:「盲児を特別な存在として育てるのではなく、普通の子どものひとりとして、近所の子どもたちと一緒に遊ばせ一緒に幼稚園へ通わせること、これが福祉国家を施行しているわが国の正しい姿である。
・1977年:「障害者が社会にそぐうことができないのは、社会に問題がある。社会が体質をかえれば問題の大半は消える」
 理念を変更するきっかけは、一つには東大眼科医時から変わらぬ諸外国の先進的な知見のレビューであり、さらにセンターにおける実践から得られた障害児者の生活の実態から学んだと考えられる。本人や家族が障害、およびその程度および予後をできるだけ早く知り、家族がそれを受容したうえで、どのように生活するかを選択することが重要であること、専門家は客観的な情報を提供することが責務である。1981年、原田がリハビリテーションについて、その知見を体系的に示した論文がある。そして、センターにはその理念を補完する多くの研究と発表がある。 

4.まとめ
 原田政美は、いずれの職場においても多くの論文を発表している。批判を受けることを恐れていない。そのことを通して互いがより高次な視点に到達すべきとする考えがあると思われる。その一つとして眼科医、他医療保健分野、福祉分野、教育分野への啓もう的情報提供も積極的に行った。

 原田は、社会的役割を果たすために、常に自分がそのときどこで何をどのようになすべきかを熟慮し行動をしてきた。私達センター職員は、専門職として障害当事者及び児の養育者のニーズを知り、それを解決するために、内外の文献を検索すること、必要な器具の開発、指導技術を高めること、有用な指導技術を開発すること、科学的に整理して一般に発表すること、評価を受けること、指導技術の改善等の努力を怠らず、各人が世界や日本で一番のサービスを提供することを目指せとする指導を受けた。1998(76歳)の「弱視治療の反省」には、次の文意の記述がある。眼科医は自分の個々の患者に対して、「治療の期間や方法、予後に関する情報を提供し、もし治療を行わない場合はどうなるかについても言及する必要がある」と。 

 本報告は、眼科関連研究雑誌、「弱視教育」、東京都心身障害者福祉センター刊行「あゆみ」「研究紀要」「BULLETIN」等をもとに考察した。
 

【略 歴】 香川 スミ子 (元東京都心身障害者福祉センター)
 1968年3月 東京教育大学教育学部特設教員養成部盲教育部普通科修了
 1969年4月 東京教育大学教育学部付属盲学校小学部教員
 1970年4月 東京都心身障害者福祉センター(視覚障害科、幼児科、在宅援助科)
 1999年3月 日本大学大学院理工学研究科医療福祉工学専攻、博士後期課程修了、博士(工学)
 1999年4月 聖カタリナ女子大学社会福祉学部助教授(平成12年4月教授)
 2003年4月 浦和大学総合福祉学部教授
 2015年3月 浦和大学総合福祉学部退職 

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@原田政美先生と香川スミ子先生の紹介
 我が国のロービジョンケアを語る時、忘れてならないのは1965年(昭和40年)東北大学教育学部視覚欠陥学教室を開設した初代教授原田政美の功績です。原田先生は、東大眼科萩原教授の門下で、斜視弱視を主に研究した眼科医ですが、萩原教授退官と同時に東北大学教育学部の教授に就任しています。そこで行ったことは「視覚に欠陥のあるものが現代社会によく適応し、各個人の最大限の可能性をもって、社会生活を営めるような知見を提供すべく、医学的、心理学的、教育学的な研究を行う」という、まさ視覚リハビリテーションの科学的追求だったのです。その後美濃部都知事に請われ、東京都心身障害者福祉センターの初代所長として、今度は障害全般のリハビリテーションで活躍します。
 現在、原田先生をご存じの方が少なくなりました。香川先生は東京都心身障害者福祉センターで原田先生と共に乳幼児の支援に携わった方です。原田先生の功績を語るにふさわしい方です。 
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新潟ロービジョン研究会 2016
0.はじめに
   安藤 伸朗(済生会新潟第二病院;眼科医)
1.【第1部 連携を求めて】
 1)看護師が関わると、こんなに変わるロービジョンケア
   橋本 伸子(しらお眼科;石川県白山市、看護師)
   http://andonoburo.net/on/5171 

 2)情報障害に情報保障の光を、患者に学ぶビジョンケア
   三宅 琢(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員;眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5182 

 3)視覚障害者のための転倒予防・体力増進教室
   ○山田 幸男 田村 瑞穂 嶋田 美恵子  久保 尚人
   (新潟県視覚障害者のリハビリテーションを推進する会;NPOオアシス)
   http://andonoburo.net/on/5210 

2.【第2部 眼科医療と視覚リハビリ】
 1)最大のロービジョン対策は予防と治療:私の緑内障との闘い
   岩瀬 愛子(たじみ岩瀬眼科;岐阜県多治見市、眼科医)
   http://andonoburo.net/on/5189 

 2)新潟県の訓矇・盲唖学校設立に尽力した眼科医
   小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室、前新潟盲学校長)
    http://andonoburo.net/on/5217 

 3)我が国初の眼科リハビリテーションクリニック(順天堂大学)
   ー開設当時を振り返ってー
   佐渡 一成(さど眼科;仙台市、眼科医)
    http://andonoburo.net/on/5223 

 4)眼科医・原田政美の障害者福祉理念と功績
   香川 スミ子(元東京都心身障害者福祉センター)
   
 http://andonoburo.net/on/5233

3. 【第3部 熊本地震を考える】
  「熊本地震と災害時視覚障害者支援」
   出田 隆一 (出田眼科院長;熊本) 

4. おわりに 
   仲泊 聡(神戸理化学研究所;眼科医)
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