2006年7月19日

報告 第124回(2006‐07月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
     日時:平成18年7月19(水)16:30 ~ 18:00 
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
    『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 2006』
1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明 

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1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
【講演要旨】
 私は小学校の頃は、消防士になりたいと思っていました。恰好がいいし、人の役に立ちたいと思っていたからです。今は盲学校の先生になりたいと思っています。夢を持てる仕事ですし、生徒の成長を感じることが出来るからです。そう思った理由は自分のことを真剣に考えてくれる先生に出会ったからです。割り算を根気よく教えてくれました。その優しさに応えたいと思いました。英語か、理科の先生になりたいです。
 私には理想の教師像があります。一つは、実際に触ったりして判り易く教える。二つ目は、優しく教えるです。盲学校の先生になるためには、高校・大学に進学し、教員採用試験を通らなければなれません。そのためには毎日しっかり勉強すること、点字を覚えることが必要です。夢の実現に向けて精一杯努力します。
【盲学校の先生から】
 指導者から聞くところによると昨年からテーマをしたためていたとのこと。また、あのまとまりのある長い文章もほとんど指導の手が入らずにまとめ上げたとのこと。それほどの強い思いがあって、聞き手に思いがよく伝わったのだなと感じました。周囲にとても気配りをし、何事にも熱心に取り組む人柄がよく表れていました。とても控えめでおとなしい性格ですが、堂々とした発表態度にとても感心しました。いい先生になることまちがいなしです。
【追 記】
 熱心に教えてくれる先生に憧れ、将来は学校の先生になりたい、、、、純真な気持ち、素直に表現出来ることに心打たれました。未熟児網膜症でかつて、私が大学で治療したということを、後でお母さんからお聞きしました。10数年ぶりの嬉しい再会でした。 

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2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
【講演要旨】 
 最近、道を歩いていると、地べたに座る人々、点字ブロックの上の駐輪・駐車などに出くわします。こうした状況を改善していくために自分自身ができることは「アピールすること」です。
 私達視覚障害者にとって「音声信号」は大事ですが、近隣の方々の安眠妨害になっているという苦情があるということを聞きました。問題の根本的解決のためには、社会全体が「互いに思いやる心」を持つことが大切だと思います。
【盲学校の先生から】
 実体験のなかで自分を見つめ、社会への投げ掛けをしていました。彼女は視野が狭いのですが、それ故知らない人からは一見よく見えていそうにも誤解されがちです。見えにくさと見えることが共存する視点から、社会と向き合っていることが感じられました。京さんもまた控えめでおとなしい性格ですが、とても周囲に気配りをする優しい心の持ち主です。そんな彼女の投げ掛けに、逆に響く力を感じました。
【追 記】
 とても素直で優しい方でした。自分の主張をするだけでなく、相手の事も気遣いながら、社会的な問題に、自分との係わり合いを模索しようとする姿勢を感じました。

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3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明
【講演要旨】
 この春からの2度目の高校生活を始めるに当たっての決意表明。20年前高校1年で中退しました。当時、柔道部に入っていましたが、タバコを吸っていました。顧問の先生と柔道の稽古で寝技をしていた時、タバコの臭いが判ったのでしょう、ゲンコツをもらいました。色々な事があり、高校を辞めて仕事をみつけて働きました。2年後、当時の同級が卒業の日、柔道部の同級生が「金メダル」を携えて仕事場に来てくれました。3年間柔道部を頑張ったものだけに、顧問自身が作成して与えてくれるメダルでした。その時初めて高校を辞めたことを後悔し、顧問の先生に感謝しました。
 顧問の思いに報いるために、懸命に勉学に励み、資格をとって社会に貢献したいと思います。
【盲学校の先生から】
 7月7日(金)の関東地区大会で杉山利明さんが13名中3位になりました。普段の姿が弁論そのものという感じで、とても前向きでさわやかで明るい人柄です。何やら複雑な経歴の持ち主のようですが、きっとそんな経験が今を豊かにしているのかなとも思いました。抱える病気としっかり向き合いつつ、明るくも芯のぶれない意志の強さが感じられる弁論でした。原稿も見ずにあれほどすらすら言えるものなのでしょうか。陰の努力を惜しまない方です。
【追記】
 高校中退、糖尿病網膜症で失明と幾度となく挫折を味わいながら、明るくいきいきとしている姿が眩しく見えまた。 
 3人とも、とても一生懸命に弁論してくれました。私たちが忘れかけていた純な気持ちを思い起こしてくれた熱いメッセージを聴き、活力を頂きました。

 

2006年5月10日

 演題:『カタカナ語で見る視覚障害者のリハビリテーション』 
 講師:清水美知子(歩行訓練士) 
  日時:平成18年5月10(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
   
【講演要旨】
 「『リハビリ』と『リハビリテーション』は同じですか?違いますか?」と清水さんは語り始めた.勉強会に参加した多くの人は、同じと答えたが、中に『リハビリ』は身体的な機能訓練をいい、『リハビリテーション』はもっと広く人間の尊厳まで意味すると答える人がいた.そこで「『リハビリテーション』の意味するところは?」と、清水さんは語り出した. 

 1965年当時は、リハビリテーションは運動障害の機能回復訓練を意味していた(注1:厚生白書《昭和40年・1965年》).1981年頃になると、運動障害の機能回復訓練のみでなく、人間らしく生きる事が出来るようにするための技術及び社会的・政策的対応の総合的体系と捉えるようになってきた(注2:厚生白書《昭和56年・1981年》).しかし、平成16年1月の「高齢者リハビリテーションのあるべき方向」の冒頭で「リハビリテーションは単なる機能回復訓練ではなく、..」と述べていることからも分かるように、わが国ではリハビリテーションといえばリハビリ=機能回復訓練との認識が一般的であったといえる(注3:高齢者リハビリテーション研究会《2004年》). 

 我が国の「目のリハビリテーション」は、独自の発展をしてきた.他の身体障害には、「リハビリ=機能回復訓練」という図式がある。この図式は「目のリハビリテーション」にはない.なぜなら、目を揉んでも引っ張っても治らない.「目のリハビリテーション」は、全人間的復権という広義のリハビリテーションが根付くに適した状況のはずであった.しかし、視覚障害者には、伝統的な職業として三療(鍼・灸・按摩)があった. 

 1960年代(ベトナム戦争の頃)米国で強調された「職業リハビリテーション」の考えと結びつけ、三療師の養成訓練を職業リハビリテーションの中核項目に位置づけ、歩行、ADL、コミュニケーションなどの社会適応訓練を、その前段階、すなわち「プレボケ」(prevocational rehabilitationの略)訓練として制度化した.国立三療師養成施設とそこへの予備校的生活訓練という図式ともいえる. 

 米国では、1970年代に入ると職業中心のリハビリテーション過程に乗れなかった障害者のニーズの見直し、消費者運動の台頭、自立生活運動の高まりとともに職業リハビリテーションから自立生活リハビリテーションへ向かうが、わが国の視覚障害者リハビリテーションは職業リハビリテーション(あるいは三療リハビリテーション)に留まった. 

 2000年代に入り、リハビリテーションの体制は措置費制度から支援費制度、自立支援法に変わった.そこでは職業モデルから自立生活あるいは地域生活モデルのリハビリテーションへの転換が、当事者運動の高まりの結果というよりは、行政主導により実施されつつある. 

 現在の視覚障害者の自立生活支援の問題点を考えてみると、以下の事が挙げられる.
 第1に、2000年から介護保険が施行され、介護サービスを利用しやすくなるとともに、地域での生活が自立度に関係なく営めるようになった.しかし、それはセルフケアへの介助を中心としていて、社会活動を営むための長期的支援サービスが少ない.
 第2に、自立実現への力量作りあるいは自立度の向上に協力する訓練サービスは少なく、結果として介護サービスへの依存度が増す状況があり、視覚障害者の退行が心配される.
 第3に、訓練を提供する専門職(視覚障害生活訓練専門職、視能訓練士など)に、「してあげる」という態度が垣間見えることである.当事者の意識が「医療モデル」あるいは「障害者モデル」から「生活モデル」へと移行する中で、専門職の意識や行動の転換が遅れていると感じる.養成のカリキュラム、指導者の意識にも原因があるだろう.
 第4に、介護保険の中で視覚障害による生活上の不自由の評価が過小になる傾向がある.視覚障害に対する理解が足りない.視覚障害生活訓練専門職の資質、資格制度の問題とも関連する. 

【略 歴】
 歩行訓練士として、
 1979年から2002年まで視覚障害者更生訓練施設に勤務、
  その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
 1988年から新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
  視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2003年から「耳原老松診療所」視覚障害外来を担当。 

【追 記】
 今回も期待通り、清水節は全開でした。
 リハビリテーションには身体機能回復の訓練ばかりでなく、人間としての復権も含めた意味合いもあること。言われるとそうだと合点しますが、そこを常に意識して臨んでいるのか否かで行動も変わってくると感じました。 我が国では、リハビリテーションが職業リハビリテーションに留まっているのではないかという視点、さすがです。障害を持つ方が職業に就くことの意義は多いにありますが、職業に就けなくても人間らしく生きていけること、もう一度考えてみたいと思いました。 

 リハビリテーションの歴史を、消費者運動、ノーマライゼーション、自立生活運動のうねりと併せて考える視点、勉強になりました。特に視覚障害者のリハビリを、他のリハビリと比較して語るのは新鮮です。 高齢者の介護と障害者のリハビリ、介護保険の中での視覚障害者のサービス、施設型リハビリと地域型リハビリ、生活している障害を持つひと(患者としてではなく、障害者としてではなく、「私」として)という視点、専門職の対応の問題、ケアをしてくれる人への支援、ソムリエ理論等々、1時間ではとても語り尽くせない内容でした。

2006年4月28日

 演題:『なぜ生まれる無年金障害者』 
 講師:遁所直樹 
          NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
          新潟学生無年金障害者の会 代表
    (「生活できる真の国民皆年金制度」の確立をめざしています)
  日時:平成18年3月8日(水) 15:00~16:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 



【講演要旨】
 「一番いいたいことは、ただの一点『国民年金を払いましょう』ということです」、と話し始めた。はじめに言葉の解説。「任意加入」「免除」「猶予制度」「裁定請求」「棄却」と「却下」「再審査請求」、、、、。正直、なかなか難しい。実際裁判では、日本語なのに判らない言葉でやり取りされるという。 

 年金制度は、複雑である。その詳細を国は国民に判り易く伝えてくれているだろうか? 学生無年金障害の訴えた当初、誹謗中傷があった。「金を支払ってないのだから、年金をもらえないのは当然。そんなに金が欲しいか!」 でも、、、障害者が障害年金をもらって何が悪い、我々は困っているんだから助けて欲しい、助けてもらえれば我々にだって出来ることがある。全国に12万人の「無年金障害者」がいるが、「学生無年金障害者」は4000人、そのうち裁判闘争をしているのは30人。当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない。理屈は弁護士さんが作ってくれる。

 「負けて勝つ」ということがある。国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負ける。でもその後に制度は変わる。ところが東京地裁で、原告が勝訴してしまった。年金を受け取れない人たちを放置してきたのは国の責任であることを認めた画期的な判決であった。裁判官が神様のように神々しく見えた。東京・新潟・広島は、地裁で勝訴、高裁で敗訴。現在は最高裁で争っている(*ただし勝訴というのは、原告の言い分が少しでも認められた判決のこと)。

 東京地方裁判所で勝訴判決を言い渡した藤山裁判官は、印象深い。原告や、弁護士だけが頑張っていても裁判官の心を動かさなければ判決は勝訴とならない。しかし、国相手の裁判の場合、なかなか裁判官の心を動かすことが難しい。原告の口述の機会を与えることはもちろん、今回の勝訴につながった要因は、藤山裁判官が感性が豊かであったことでった。困っている人に対して、真剣に耳を傾け、相手の心を思いやり一緒に考えることのできる方だった。新潟地方裁判所の犬飼裁判官、広島地方裁判所の裁判官もそのような方だった。どんな制度にも「間(はざま)」がある。全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しいというのが願いである。

 『国民年金を払いましょう』、そして『もらう権利』を主張しましょう!!

【追 記】
 「我々は困っているんだから助けて欲しい」「当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない」「理屈は弁護士さんが作ってくれる」「負けて勝つ」等々のフレーズは印象に残りました。 「全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しい」という遁所さんの主張は、正論だと思いました。 

 以下、年金について、少しネットで調べてみました。
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《社会保険庁ホームページ》
年金の基礎知識やQ&A、相談窓口の案内
http://www.sia.go.jp/ 

《無年金障害者の会》 
http://www7.plala.or.jp/munenkin/munenkin-f.html
 病気や事故などで心身に重い障害を負ったのに、年金制度の不備などで、障害基礎年金が受けられない。 こんな私たち無年金障害者の実情を知って欲しい、そして何らかの救済の手をさしのべて欲しいと、平成元年(1989年) 「無年金障害者の会」を結成しました。 本会は、年金制度の谷間で障害基礎年金が支給されない無年金障害者の救済を求めて運動を行っています。合わせて安心して暮らせる年金制度の確立を求めています。

[無年金障害者の発生する理由]
 学生無年金障害者~20歳を過ぎた学生で国民年金に任意加入していなかった
 主婦無年金障害者~サラリーマンの妻で国民年金に加入していなかった 
 
在日外国人無年金障害者~在日外国人で国籍条項により国民年金に加入できなかった
 滞納無年金障害者~経済的理由により国民年金保険料を滞納した
 無年金障害者~その他障害状態が軽いと評価されたために無年金になった 

 「皆年金」と言いながら全国で12万人の無年金障害者がいると言われています。何故こんなに無年金障害者が生まれたのでしょう…?それは国民年金制度に欠陥があったからです。しかも、その欠陥を判っていながらこの制度をスタートさせたとすれば、それは大きな問題ではないでしょうか?年金というと「老齢年金」を思い浮かべるでしょうが「遺族年金」「障害基礎年金」もあります。皆さまにとって決して人事ではないこの問題!この問題を1人でも多くの方に知って頂きたく思っています。 

[年金制度の欠陥]    
  外国人の場合~1982年(昭和57年)の法改正前は、国籍条項があり、在日外国人ついては国民年金に入ることができませんでした。     
 
主婦の場合~1985年(昭和60年)の法改正前は、厚生年金加入者の配偶者(サラリーマンの妻)は、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
  学生の場合~1989年(平成元年)の法改正前までは、学生や専門学校生については、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
 主婦や学生を国民年金制度から除外したのは、主婦や学生には収入が無いため保険料が納められないからということが理由の一つでした。実際にも、主婦は夫の収入で生活をし、老後も夫の年金で生活をするであろうから、主婦自身に独自の年金はいらないと考えられ、学生については何年かすれば卒業して就職したときに厚生年金等に加入するから問題ないと考えられていました。

 このように国民年金制度から除外されている間に、不幸にも病気や事故で障害を負った場合、その人は一生涯にわたって障害基礎年金を受けることができないのです。

2005年9月14日

報告:第114回(05‐9月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会     上林洋子
   日時~平成17年9月14日(水) 16:30~18:00
   場所~済生会新潟第二病院 眼科外来
 演題:『限りなく透明な世界』
 演者:上林洋子(視覚障害者福祉協会会員、盲導犬ユーザーの会会員;新潟市)
  視覚以外の残された感覚を精いっぱい動員して、私だけの世界を三十一文字に託して表現してみました。 

【講演内容】
 私は何も見えません。光も色も、明るいことも暗いことも・・・。でも真っ暗闇ではなく、色をいつも意識しています。木の葉のさやぐ音を聞けば深緑を、照りつける日差しに真っ青な空を、朝市できゅうりのいぼいぼに触れればその色を・・・。まさに私独自の色の世界は限りなく透明なのです。視覚以外の感覚で色や風景を31文字に表現してみました。
 15歳の時に緑内障と診断され、何度も何度も入院を繰り返しました。県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産。子育ての最中に、どんどん視力は低下していきました。そのころヘルパーさんに短歌を教わりました。
 『眠りたる吾子の口元ま探ればミルクに濡れてやわらかきかな』
 『かたくりの花に触れつつ色問えば「母さんのセーターとおんなじ色よ」』
 『登校の娘が戻り来て庭先の百合が咲きしと告げてかけ行く』 

 39歳のある晩、急に右眼が痛み、これまで経験したことのないような頭痛に襲われました。翌日大学病院を受診、即日入院。いろいろと治療しましたが、右眼は視力を失い、左眼も微かに見えるのみでした。夫の勧めもあり両眼の眼球摘出を決意しました。
 眼球摘出前日に
 『明日には除去される眼よ夜のうちに吾のなみだで流さんものを』
 眼球摘出した後、ガーゼ交換の時、もう目はないのですが、不思議と色々な色が見えました。
 『除去されし眼窩のガーゼ交換のたびに虚像の色迫りくる』
 当時の3ヶ月くらいは、毎日死にたいと思っていました。
 『吾のみの知れる哀しみ両の眼の義眼洗いて包みて眠る』 

 次第に子供は成長し、夫は外で活躍、一人家にいることが多くなりました。
 『青空を肌で確かむベランダにもたれて盲いし眼をしばたたく』
 『路地の一つ違いたるらし白杖の音の気配に佇みて』
 そのころ夫の勧めもあり、白杖歩行の訓練を受けました。高田盲学校の霜鳥先生が講師でした。

 平成7年5月、北海道盲導犬協会から電話があり、盲導犬ユーザーにならないかとのお誘いがありました。七月、新潟から一歩も離れたことのない私は不安でいっぱいな気持ちで初めて飛行機に乗り、協会に入所いたしました。でも、明るく家庭的な暖かい雰囲気に接し、犬嫌いの私も次第に打ち解けることが出来ました。
 『眼の澄みしシェル号なりと指導員にわたされしハーネスしかと握りぬ』
 盲導犬が来て最初に買い物は、夫の好物でした。
 『盲導犬持ちて初なる買い物は夫の好みしビーフステーキ』
 シェルが来たお陰で、外出する機会が増えました。盲導犬シェル号との出会いにより、私の生き方も前向きになりました。
 『夏帽子ふかくかむりて盲導犬シェル号とはずむ朝の散歩は』 

 平成9年の夏、すばらしい体験をしました。盲導犬使用者の先輩の発案により、弱視の夫とともに、富士登山に挑戦したのです。無事登頂できたときの感激は筆舌には尽くせません。
 『10名と2頭のパーティー遂に今 浅間神社の鳥居をくぐる』
 『ご来光拝みて佇む富士山頂の 大気微かにぬくもりてくる』
 毎日シェル号と歩くことにより、私も富士山を制覇できるほどの体力がつきました。 

 7年間一緒に過ごしたシェルと別れの日がきました。
 『盲導犬シェルリタイヤの朝七年を使いこし食器おろおろ洗う』
 『「ありがとう一緒にいっぱい歩いたね」頭撫でつつハーネスはずす』
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。最近は、ターシャを先頭に、私が続き、その後を夫が従って散歩をしています。
 『辻ごとに止まるをほめて新しき盲動犬ターシャと心かよわす』 

 2人の子ども達が巣立った今、仕事や家事の間をみて編みものや読書、草花を育てるなどの趣味を楽しんでおります。また、夫とウォーキングや山登りなどの会に積極的に参加し、これからの人生を有意義に過ごしたいと思っております。「失明」は決して「失命」ではありません。見えなくても、こうして楽しく生きているのだと、多くの人に判ってもらいたいと思います。 

【略 歴】
 15歳で緑内障と診断された後、県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産後、数回の手術を繰り返しましたが、40歳には完全に失明しました。このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚えました。
 平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬シェル号に出会いました。
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。 

【後 記】
 これまでのドラマチックな半生を、感激したりハラハラして拝聴しましたが、上林さんは淡々とした口調でお話されました。いつまでたっても思いを込めて話など出来ないのかもしれませんが、淡々とした口調に何か重いものを感じてしまいました。
 そして短歌の魅力!私は写真が好きで何処でも写真を撮りますが、上林さんはどの場面もその時に詠んだ短歌に思いを込め、記憶に仕舞い込んでいるようでした。子供との思いを詠んだ歌、両眼眼球摘出する前の日に詠んだ歌、盲導犬に思いを寄せる歌、だんな様との歌、どれも素敵でした。人生を豊かにする魔法の手段のような感じがしました。
 話の随所に登場する視覚障害を持つだんな様の一言。夫婦ならではの会話。こんな会話に上林さんはどんなにか励まされたことでしょう。
 勉強会の最後に、新潟ロービジョン研究会を8月初めに開催した際、ある盲導犬ユーザーの方から、「暑い時には熱したアスファルトで盲導犬がやけどするので」と参加を断られたエピソードを私が紹介しました。そして盲導犬に対する配慮がなくて申し訳なかったとお話した時、「そんなことを言う人がいたのですか。それは違います。ユーザーが暑い日でも盲導犬が歩けるように工夫すればよいことなんです」と、即座に上林さんは言われ、なるほどと合点しました。どんなハンディも乗越えてきた人の迫力を実感した瞬間でした。

 今年3月7日新潟日報「日報読者文芸」短歌コーナーのトップに上林さんの作品が紹介されました。
 『洗顔の義眼も洗い納むれば(おさむれば)眼に大寒の冷えなじみくる』
  選者の馬場あき子「評」 寒水に洗った義眼の冷えに未知のすごさがある。『なじみくる』と詠み納めているが鮮烈だ。

 

2005年7月13日

報告:第112回(05‐7月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
  期日:平成17年7月13日(水) 16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

『盲学校弁論大会 イン 済生会』
1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年)
2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)
3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年) 

【講演内容】
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1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年) 

 小学校の頃は、字を見ると目が疲れ、頭が痛くなるので、本が大嫌いだった。小学校6年の時に、眼科医に「網膜色素変性」と告知された。その時はまだ視力は残っていたが、自分で盲学校への進学を決意した。盲学校で必死に点字を覚え、読書の楽しさを知った。読書が出来るようになり、何事にも自信が持てるようになった。「やれば出切る!」もっと点訳本が早く出版して欲しい。これからは自分から社会に向けて様々な事を発信していきたい。

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2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)

 エンジニアになることが小さい頃からの夢だった。中学3年の時に「網膜色素変性」の診断。落ち込んだ。高校から盲学校へ進学。小さい頃からの夢「車・バイクのエンジニア」を諦めかけた頃、本田宗一郎展をみた。昭和20年ごろのマシンが今でも通用する。失敗にめげない開拓魂。プロジェクトXで、チューンの神様・ポップ吉村のことを知り、NHKに手紙をかいたら、本人から返事がきた。ポップ吉村の工場を訪ねることが出来た。私はバイクのエンジニアになる夢を諦めない。

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3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年)

 いわゆるマッサージ業は、国家試験を合格した免許所持者にしかできないが、無資格でマッサージ行為を行っている所には、整体・カイロプラクティック・リフレクソロジー(足裏健康法)、エステ等がある。それに対抗するためには、実力をつけること、そして将来はマッサージ研究機関を設立したい。無免許のマッサージ行為を取り締まることに行政は無力である。このマッサージ業界戦国時代を勝ち抜くには、実力で勝負するのが一番。不借身命。目標の達成のためには、私はどんな苦労もいとわない。

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【後 記】

 6月に北信越盲学校弁論大会に参加した3人の生徒に、済生会での弁論をお願いしました。片野さんは期末試験が終わったばかり、飛岡さんと斉藤さんは翌日も試験という状況で、一生懸命弁論を披露してくれました。爽やかな生き方、考え方に触れるからでしょうか、盲学校の生徒の弁論には毎回感動します。 

 片野さん 「将来の夢は?」との問いに、「これまでは多くの人に支えてもらった。これからは私が多くの人を支えたい」と語った一言が印象に残っています。

 飛岡さん 中学の頃の夢を未だに追い続けるという好青年。何度失敗しても決して諦めない。夢を追いかける少年は昔はよくいたものですが、現在のように偏差値で進路を決められてしまう進路指導では、ほとんどいない。爽やかさと凄さを感じました。

 斉藤さん 無免許が横行しているマッサージ業界に対して行政を批判するだけでなく、自らの技術を高め将来はマッサージ研究所を作り、マッサージの技術を追求したいという夢を語ってくれました。毎日夜遅くまで研鑚しているとのこと。大きなビジョンを緻密に実行に移している様を感じ、応援したくなりました。

 

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【全国盲学校弁論大会】

 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。当時はラジオ放送が始まったころであった。視覚障害者の存在を世の中にアピールし、社会との接点を持つうえで絶好の機会だった。時代や社会の流れに積極的にかかわっていこうという内容が多かった。

 大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更した。最近の弁論内容は、自らの障害の実態をより具体的に訴え、視覚障害者に対する社会的理解を一層促そうとする傾向がある。

 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。

http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200210/440.html

 

2004年11月10日

報告:第104回(04‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (林 豊彦)
 演題:『障害者の自立を支える生活支援工学‐視覚障害者のための支援技術を中心に‐』
 講師: 林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科福祉生体工学講座教授)
  日時:2004年(平成16年)11月10日(水)16時30分~18時
  場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来

【講演要約】 
 日本社会は人類がいまだ経験したことのないスピードで少子高齢化が進んでいます。21世紀は社会のあらゆるセクターで、その対応に迫られることになるでしょう。社会の技術的な基盤に係わる従来の「工学」も大きく方向転換を迫られています。「高齢社会」、「障害者の自立支援」に直接取り組む新しい工学も生まれつつあります。それが「生活支援工学」です。
 21世紀は高福祉社会;あらゆる人々が快適で心豊かに暮らせるためには、人に優しくインテリジェントで高機能な機器・システムが必要です。生活支援工学は、そんな人間中心のエンジニアリングを目指します。 

1)高齢社会における福祉機器産業
 福祉用具の市場は年々拡張しているが、特に共用品(下記)が伸びています。
  2000年度 
   福祉用具(障害者専用) 11,389億円(対前年度伸び率-0.3%)
   共用品         22,549億円(対前年度伸び率21.6%)
   合計(広義の福祉用具) 32,421億円(対前年度伸び率13.6%)
  *共用品の定義:1.身体的障害や機能低下のある人にもない人にも使いやすい。2.特定の障害・機能低下のある人むけの専用品でない。3.一般に入手や利用可能。4.一般の製品と比較して、著しく高くない。5.継続的に製造、販売、利用されている
 日本では人類史上前例のない「超高速高齢化」が進行しています。65歳以上の人口比(高齢化率)が7%から14%になるのに要した年数は、フランスで110年、米国で70年、旧西ドイツで40年であるのに対して、日本はわずか24年です。
 こうした状況は当然「モノ作り」の現場に影響してきます。我が国で福祉機器産業が盛んになってきた背景には、こんな事情があるのです。 

2)バリアフリーとユニバーサルデザイン
 バリアーフリー社会は、「心身に障害や機能低下がある人でもない人でも分け隔てなく、すべて平等な条件で生活できる社会」と定義されます。ユニバーサル・デザインは、ロナルド・メイス(米国、ノースカロライナ州立大学;1941-1998)により提唱されました。彼は、9歳の時にポリオ感染後、車椅子・酸素吸入を使用しました。
 【ユニバーサル・デザインの7大原則】1.誰にでも役立ち、購入可能 2.個人の嗜好や能力を許容 3.使い方が理解しやすい 4.必要とする情報を効果的に伝達 5.誤動作時の安全性 6.身体的努力が不要 7.適切なサイズとスペース
 高齢者・障害者への配慮の標準化は、ISO/IEC GUIDE 71 (2001)、JIS Z8071:2003等、世界規模でどんどん進んでいます。   

3)「支援工学」小史
 日本では福祉・リハビリに「愛情」と「根性」が大事とされていますが、米国では早くから技術の重要性が指摘されていました。米国で発達した背景として、ベトナム戦争があります。1970年代米国にはベトナム戦争での傷痍軍人が溢れていました。そうした人達への支援が米国内の5箇所のセンターで行なったのが「支援工学」の始まりでした。
 1971 Rehabilitation Engineering(RE)の誕生
 1973 福祉工学(科学技術庁)
        The Rehabilitation Engineering Society of North America(RESNA 北米リハビリテーション工学協会)
 1980  International Coference on Rehabilitation Engineering(ICRE)(RESNA主催)
 1986 日本リハビリテーション工学協会(RESJA)
 1990 Americans with Disability Act(ADA法)
 1998 日本福祉工学会
 2000 日本生活支援工学会 

4)高度情報技術(IT)によるバリアフリー化
 健康人が高度情報技術を使用するのは、軽自動車からベンツに乗り換えるようなものですが、障害者の方が高度情報技術を利用するというのは、歩き専門から自動車を運転するというくらいの変化です。視覚障害者の方にとって、今や高度情報技術は「目」の働きをしているのです。 

5)視覚障害者の生活支援機器
 我が国における視覚障害者の特徴は、年齢構成で60歳以上が67.2%で、特に70歳以上が多いことです。点字は18歳以上の視覚障害者の9.2%、一級障害者の17.5%でしか使われていません。すなわち点字を用意しただけでは、視覚障害者に配慮したことにはなりません。視覚障害者の情報源は、(テレビ)66.9%、(家族・友人)61.0%、(ラジオ)52.1%、(録音・点字図書)7.9%、(パソコン通信)0.3%、、、、、、、視覚障害者の情報は、マスコミや身近な人たちに依存し、支援技術への依存度は低いことが分かります。
 ⅰ:日常生活を支援する機器 
  点字、浮き出し文字、拡大レンズ、拡大読書器、白杖、時計(触読式、音声デジタル式)、計量機「さじかげん」、音声ガイド電磁調理器
 ⅱ:コンピュータ利用を支援する機器
  弱視者のための画面設定~windowsの「ユーザ補助」、ハイコントラスト機能、マウスポインタ設定、画面の拡大、音声合成エンジンの発達により、「話すコンピュータ」(スクリーンリーダーによるテキストの読み上げ)が出現し、全盲の人でも使えるようになりました。 

6)リハビリテーション法508の衝撃
 米国連邦政府が調達する全ての高度情報技術機器は、ハードもソフトも障害者がアクセスすることの出来るものに限ると定めました(2003年1月1日完全実施)。政府の予算を受けている州や大学にも適応され、今後障害者が使えない機器を購入した場合は、職員や市民から提訴の対象となるというものです。適応となる製品は、1)ソフトウェア・OS 2)Webサイト 3)電子通信機器 4)ビデオ・マルチメディア製品 5)コピー機、プリンタ、ファックス 6)パソコン
 1986 リハビリテーション法に第508条追加
   連邦政府職員が使用する、ハードの規定
 1992 第508条の改正
   ソフトに関する規定の追加
 1998 第508条の再改正 
   ガイドライン作成をアクセス委員会に委嘱
 2000 電子・情報技術アクセシビリティ基準の公示(12月21日)
 2001 第508条の試行実施(6月21日)
 2003 第508条の完全実施(1月1日)
 米国の電子機器企業は、会社を挙げて早くから対応。カナダ・EU諸国は国家レベルで対応。一方、日本は企業単位で対応していますが、米国政府調達品から日本製品の締め出しの可能性もあり、「新しい非関税障壁」となってきています。 

7)コンピュータ利用支援センターの必要性 
 いくら情報機器のユニバーサルデザインが発達しても、支援機器が発展しても、これだけでは単なるインフラ整備です。使用する人への直接的な支援を行なわなければ利用してもらえません。ここが強調したいところなんです!! 
 1989年、米国では子供や障害者の自立支援を目的に、技術を利用する、親・利用者・専門家による「コンピュータ・アクセス・センター」が開設されました。これは、物作りの人と利用者を結びつける組織です。活動の内容は、多彩です。1)技術相談 2)電話相談 3)技術支援 4)子供のコンピュータ・クラブ 5)高齢者のコンピュータ・クラブ 6)オープン・アクセス 7)ハード・ソフトの貸し出し 8)講演・ワークショップ 9)教育用支援技術の研修、、、。活動のための収益の殆どは、企業からの補助金(3兆8千億円;67%)であり、個人からの献金(2千億円;3.4%)もあります。文化や歴史の違いでしょうが、我が国の対応とは大分異なります。 

 新潟大学工学部福祉人間工学科では、視覚に障害を持つ人々に対して、自立的に情報を獲得・発信できるようにコンピュータの使い方を個別指導することを目的として、パソコン講習を開催しています。会場は新潟駅プラーカ3にある「クリック」(新潟大学新潟駅南キャンパス)です。どうぞ利用下さい。 

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【林豊彦先生 略歴】
 1973年3月新潟県立長岡高等学校卒業、
  77年3月新潟大学工学部電子工学科卒業、
  79年3月新潟大学大学院 工学研究科電子工学専攻修了、
  同年8月新潟大学歯学部助手(歯科補綴学第1講座)
  87年3月新潟大学歯学部附属病院講師(第1補綴科)、
  91年4月新潟大学工学部情報工学科助教授(生体情報講座)、
  95年4月新潟大学大学院自然科学研究科情報理工学専攻助教授
     (生体情報制御工学大講座)
  96年  米国Johns Hopkins大学;客員研究員、
  98年4月新潟大学工学部教授(福祉生体工学講座)
【URL】 http://atl.eng.niigata-u.ac.jp
【趣味】リコーダー演奏,パイプオルガンの組立・調律,英会話,登山など 
 

【後 記】
 「生活支援工学」、聞き慣れない分野のお話でしたが、とても魅力的でした。エネルギッシュな講演でした。56枚にも及ぶスライド&レジメをもとに、「生活支援工学」に関する広範でかつ最新の話題を、1時間でお話下さいました。内容にも感心しましたが、判りやすい、そして聴く者の興味をそらさない語りは見事でした。
 講演後の話し合いでは、新潟市や加茂市で視覚障害者のパソコン教室を主宰する方々や盲学校の先生から感想や意見が出ました。家電製品のバリアフリーの話題では、視覚障害のKさん、Sさんの活き活きした意見が印象的でした。「N社の洗濯機は駄目。細かい操作が判らない。大まかなことは困らないので、細かい操作にも配慮してくれないと困る」「携帯電話も会社により使い勝手は様々、いいものもあれば、そうでないものも、、、」 

 参加された方から、以下のメールを頂きました(到着順)。
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●林先生の博識でエネルギッシュなお人柄には驚くばかりです。勉強会の感想としては、良くも悪くもアメリカとの違いを感じました。大企業が納める税金の使い方が理にかなっているように思いました。特に大企業の収益に応じた社会への還元というのは、政策として是非日本でもできたらと思います。ボランティアという便利な言葉に甘んじて、ボランティアへのサポートを行政は怠っているようにも感じます。身近なパソコンのことから、人権問題、福祉政策といった大きなテーマにまで及んで、とても考えさせられた時間でした。(JU)
●日頃、健常人の立場でしが考えたことがなかったので非常にためになりました。(SH)
●勉強会での林先生のお話は、本当にすばらしいお話で、ただ単に目の前のボランティア活動だけで汲々としている小生にとっては、今回のお話のような大きく広い視野からの障害者に関する情報をお聞きする機会はめったにないものですから、大変良い勉強会に呼んで頂いたと喜んでおります。有難うございました。林先生のあの素晴らしい話術にも感激しました。(SK)
●先日は勉強会に参加させていただきましてありがとうございました。林先生にはパソコン講習会でお世話になりました。マンツーマンで2日教えていただきました。英語の発音が他の人と違うのはアメリカに行ったからのようですね。大学の工学部の先生が福祉の分野にどのようなお話をされるのか興味がありました。視覚障害者も含めた障害者全体と高齢者等も含めて福祉を考えておられることに感心をさせられました。私は残念ながらスクリーンの映像は見えませんので具体的に理解が難しい面もありましたが、勉強会の雰囲気は非常によいものであると感じました。これからも機会があれば参加させていただきたいと思います。(MI)

 

2004年9月8日

 演題:「視覚障害者の歩行を分析する」  
 講師: 清水美知子(歩行訓練士)
  日時: 平成16年9月8日(水) 16:30~18:00
  場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来 

 今回で当眼科勉強会に3回目の登場となった清水美知子先生の話には、外来が溢れる多くの皆さんが集まりました。過去2回の話(障害者自身の障害と向き合うことの意義や、障害者の家族と障害者の関係)とは些か趣が変わり、今回はプロの歩行訓練士としての『歩行』についての本格的な講演でした。やや難解な部分もありましたが、改めて皆で「歩く」ということのプロセスを考えた貴重な時間でした。以下は、清水先生に校閲して頂いた講演要旨です。

1)歩行とは
 歩行とは、自分の‘力’で、身体と一体化した自分を、環境の中のある地点へ動かすこと.そのためにはまず‘力’が必要.また、ある地点が認識できなければならないし、そこまでの方向(道順)が判らなければならない.わたしたちはこれらを、日々とくに意識することなく行って生活を送っている.しかし、視覚機能が低下すると、とたんに歩行の不自由さを実感する. 

2)移動するということ
 mobility(モビリティ;移動)とmovement(ムーブメント;運動)の違いは?ムーブメント(運動)は、例えばエアロビクスなどで脚を挙げる、腕を回すなどということ、必ずしも場所の移動は含まれない.それに対してモビリティ(移動)は、場所を移動することである.移動(モビリティ)は、以下の3つの基本成分から成る.1)境界線(壁、側溝等)に沿って移動する. 2)点に向かって直進する(横断歩道など).3)障害物を回避して元の進路を維持する. 

3)オリエンテーション
 ある地点に到達するには、モビリティに加えて、オリエンテーション、ナビゲーション、そして到達点を同定することが必要である.オリエンテーションとは、周囲の環境から手がかりを取り入れ、組み立て、自分の居場所を認知すること.これには過去の経験も大きく関与する.オリエンテーションには4つのタイプがある.1)いま居る場所を知る(答えの例:○○町○○番地、自宅の居間) 2)○○を出発して、△△に向かって移動中.または○○と△△間のどこか.(例:会社を出て,家に向かっている.居間からトイレへ行く途中) 3)自分は停止している、周囲(人、車など)が動いている(例:人の流れの中に立っている).4)自分も周囲も動いている(例:人の流れの中を歩く). 

4)ナビゲーション
 ナビゲーションには、○○へ行くという意志と、○○がどこにあるのか,どの方向にあるのか知っていなければならない.‘土地勘’がない場合は、教わったあるいは調べた道順(例:2つ目の交差点を右に曲がり、3軒目の建物です)を辿る(ルートトラベル)、またはランドマーク(例:東京タワー)を目指すという方法がある. 

5)同定
 やっと目的の場所に着いてもそこが目的のところと気が附かない場合もある.特に目の不自由な場合はそうである.辿り着いた場所が確かに目的の場所であることを知ること(同定)は重要である. 

6)改めて歩行訓練とは
 歩行訓練と云うと、白杖の使い方の訓練とイメージされがちだが、歩行という中には、実はこれだけの内容が含まれている.一人歩きには、歩こうとする地域のイメージを如何に育むかが重要である. 

7)今後の歩行訓練を見据えて
 歩行訓練プログラムが米国から紹介されて40年近く経過した.しかしまだまだ、そのプログラム自体、完璧なものではない.歩行訓練士と訓練をする場合、疑問なことは何でも話したほうがいい.例えば、適切な白杖の長さについての、定説はない.視覚障害のある方は、歩行に関して自分の五感を研ぎ澄まして、歩行の能力を高めることが重要である.今後は視覚障害者の自由な移動、楽しい移動,権利としての移動を目指して欲しい.
 

【清水美知子さん略歴】
 1976年~歩行訓練士
 1979年~23年間視覚障害者更生施設施設長
 1988年~信楽園病院(新潟)視覚障害リハビリ外来担当 
 2004年2月~Tokyo Lighthouse 理事  

【後 記】
 講演の後の話し合いで、視覚障害を持っている多くの方から自分の歩行に関しての反省や体験談を聞くことが出来ました。そして多くの方の歩行に関する工夫も聞くことが出来ました。同時に参加者の方々から歩行訓練の難しさ、楽しさを知ることが出来たという感想が話されました。 

 「点字ブロック」は視覚障害者には便利だけれど、車椅子には邪魔になるという話題が出た時、最近改装された新潟の萬代橋の歩道に、点字ブロックが敷かれていないことが話題になりました。視覚障害者の団体から新潟市に申し入れがあったとき、新潟市の答えは「視覚障害者の人が一人で萬代橋を歩くことはない。ヘルパーと歩くはずだ」という返答だったと言うことです。この問題には大事な点が2つ含まれています。一つには、行政は視覚障害者が一人での歩行を望んでいることを理解していないということです。視覚障害者自身が行政に対してアピールすることが必要でしょう。もう一つには、点字ブロックの有無が本質ではなく、視覚障害者の歩行をサポートするものの必要性が重要だと言う点です。「点字ブロック」が敷設されることが大事なのでなく、視覚障害者が萬代橋を歩行できる補助手段があればいいはずです。「視覚障害者の歩行」イコール「点字ブロック」という固定観念が問題という清水先生の発言に、ハッとしました。 

 今回も参加された方々から、様々な感想を頂きました。一部を紹介します。
 「、、、勝手ながら、困った時、つらい時清水先生が、後ろから応援してくださっているような気になれるんです。清水先生との回を重ねた勉強会のお陰で、歩行の意義、楽しさを教えていただいたような気がいたします」
 「、、、整備されていない環境だから、それが全て歩行を邪魔しているのかと言えばそうでは、ありません。その中から各々が、工夫と言う物が、知らず知らずのうちに身に付くのでは、ないのでしょうか?、、そのためには当事者が、より多く外出して体で憶えなければならないことは、あると思います。完全でないからこそ人間としての触れ合いも生まれるのではと、思います」 

 『歩行』ということ、視覚障害を持った人の歩行の困難さ、そうした方々の歩行を援助することの意義について、多いに考えさせられた1時間半でした。

2004年7月30日

報告 『第100回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会 パート2
 日時: 平成16年7月30日(金) 16:00~17:00
1)岩野ちはる 高等部本科保健理療科2年  「元気の素」
2)富樫又十郎 高等部専攻科理療科1年  「これから」 

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1)岩野ちはる 高等部本科保健理療科2年  「元気の素」
 私には、沢山の友人がいます。いわゆるストリート・ミュージシャンの友人も多いです。年齢も考え方も出身地も様々な彼らと話をしていると、「生きる指針」となる言葉をかけてもらうことが多々あります。「目が悪いと、耳がいいというから、音楽は得意なんだね。アッ差別しているんじゃないんだよ」。「どれくらい見えないの?全く見えないと思っていた。少しは見えるのなら、これからはガイドの仕方を変えなくては、、、」。
 最近進路のことについて悩んでいます。盲学校には幼稚部、小学部、中学部、高等部と過ごしてきました。毎日を何となく過ごしてきました。ここに来て将来何になろうかと考え始めると、悩みが大きくなりました。「実は進路について迷っている」とストリート・ミュージシャンの友人に話すと、「今、絶対にこれになりたいというものがないのであれば、このまま流れに乗って進めばいいんじゃないかな」「理療は気が進まないというけれど、結構やりがいのあることかもしれないよ」。経験や意見を押し付けるのでなく、親身に私のことを思っていってくれる彼らが、私の「元気の素」なのです。【プロフィール】見附市 ギター片手に歌うのが大好き  

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2)富樫又十郎 高等部専攻科理療科1年  「これから」
 平成4年に網膜色素変性と診断されました。当時は症状もそれほどでなく、無視していました。平成13年にはついに視覚障害のために身体障害者手帳を交付されました。平成14年秋には極端に視力が低下しまし、今春盲学校に入学しました。
 視覚障害になると、何かと歯がゆいことが多くなります。病気の進行から、読書や日常生活も困難になり、これまで歩んできた自分の人生が足元から崩れてくるように感じました。これまで得意の法律を活かして国家公務員として活躍し、余暇には空手をやってきました。でも今では日常の生活すら不便です。ただただ生きる、いや生かされていることが嫌になり、死にたいと思うようになりました。
 そんな自分を奮い立たせたのは若き日の思いでした。その頃を思い出し、朝4時に起きて裸足で走りました。雪の上でした。信濃川の堤防の上を、1時間も走ると全身から汗が出て、湯気が立ちました。その日を堺に生活を変えました。これからの余生を明るく生きていこう、熱烈な恋もしたい、、、。いや余生ではなく、還暦を過ぎた「これから」が私の新たな人生です。
【プロフィール】新潟市 文武両道、現在猛勉強中 

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《メールで》
●100回目なので、一人でも話が聞けるかと思って駆け付けたのですが、間に合わなくて残念でした。でも、100回目だからと大げさなことをしないで、淡々と普通に行ったのがかえってよかったですね。医師と患者との距離を縮め、患者側もここだと医療一般について言いたいことを言える雰囲気もありますね。テーマ、話してもらう人、参加する人も幅広いですね(NM)
●ハンデを持たれた方が、そのハンデを乗り越える勇気を持った時、いきいきと輝いいるはずです。そんな彼らの発表を是非お聞きしたかったです(HK)。
●第100回の眼科勉強会おめでとうございます。一口に100回と言ってもテーマや講師やいろいろの面でご苦労があったことと思います。申し訳ありませんが私は出席できませんがこれからもがんばって下さい(KY)。
●100回、おめでとうございます。何事も継続することは非常に難しいです。「継続は力なり」と言われますが、それに加えて恩師の先生から教えてもらった言葉―「本物は続く」、をお祝いの言葉として送らせて頂きます。これからも益々発展されますことをお祈り申し上げます(MK)。
●100回記念おめでとうございます。続けることは大変ですが、今後も目の不自由な方々のためにご活躍を祈念致します(MK)。
●第100回眼科勉強会、おめでとうございます。平成8年から続けられたこと、すばらしい財産ですね。こちらまでうれしくなります(YK)。
●一言で100回とおっしゃいますが、並大抵のエネルギーでは継続できないと、敬服いたしております。また、どこかでお目にかかりましょう(MN)。
●毎回大変興味深い話題を提供しておられる勉強会が100回を迎えられるとのこと,誠におめでとうございます。興味の幅の広さと人脈の広さにいつも驚嘆しております。ますますのご発展を祈念し,200回記念の報に接することを楽しみにしております(KT)。
●いつも勉強会のご連絡をいただき有り難うございます。今度は100回目の記念すべき会を開催されることに心よりお祝い申し上げます(MI)。
●いつも単なる勉強会のご案内ではなく、特に第99回、第100回は盲学校弁論大会の弁士のかたの紹介など、読ませていただくだけで身近にすばらしい考え方、生き方をしている方がいることを紹介して頂けるので、眼科勉強会をこのまま続けさせていただくことにいたしました。何よりも、講師を招いての勉強会を毎月欠かさず、100回続けられたことには敬服いたします(KT)。
●眼科勉強会100回おめでとうございます。弁論大会の内容だけ読ませてもらっても日頃、患者さんに伝えたいことが語られているように思い、たくさんの人に聞かせたいと思いました。感動的、刺激的な会になったことと思います(MT)。
●素敵ですね。是非眼が見えないことで悩んでおられる方々に聞かせてあげたいですね。先日、眼の見えないバイオリン演奏者のお話をテレビの声だけ聞きました。益々生きるって素晴らしいと感じました。また、五体満足な私が負けてなるものかと奮い立ちました。何人かの人たちが、お話を聞いて生きる勇気を得られると良いですね(FS)。
●恥ずかしながら、盲学校生徒の弁論大会があることさえ知りませんでした。しかも戦前昭和3年から開催されている歴史のある弁論会とは。もっとマスコミが大きく取り上げて、視覚障害者の活躍を晴眼者にアッピールして欲しいものです。彼らの励みにもなり、差別意識の解消にも繋がるでしょう(TY)。
●プロフィールを拝見し、富樫又十郎さんのように還暦を過ぎてから新たな人生をスタートされているだけでも素敵なのに、障害を抱えていながら、学校に入学されるその意志の強さも、大変興味深いです。岩野ちはるさんは、ストリート・ミュージシャンの友人がたくさんおられるということから、きっと行動的な女性であろうと思いました。輝いているお二人の講演をお聞きしたかったです(HK)。 

 勉強会が100回を迎えたこともあり、多くの皆さんにメールを頂きました。参加されなくてもこうした応援メッセージを頂くと『元気の源』になります。ありがとうございました。次回以降の勉強会も盛りだくさんです。参加可能な方、是非ご参加ください。参加できない方、時間がありましたらメールでご意見や感想などお寄せ下さい。 

2004年7月14日

報告 『第99回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会 パート1
 日時: 平成16年7月14日(水) 16:30~18:00
 場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来 
1)櫻井孝志 中学部3年 「へレンケラーをめざして」
2)大渕真理子 中学部3年 「ボランティアを通して」  

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1)櫻井孝志 中学部3年 「へレンケラーをめざして」
 生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。障害があって何が一番辛かったかと云うと、学校に行けずに家で過ごした日々もそうですが、50音の発音が出来ないことです。
 サウンドテーブルテニス(盲人卓球)の大会がありました。ボールの音を頼りにゲームを行ないます。その時補聴器の電池が切れていて、リーグ戦で9戦全敗でした。悔しかったのは負けたことでなく、補聴器の管理を出来なかったことでした。
 確かに、日々の会話やスポーツに不自由を感じることもあります。しかし、へレンケラーに比べれば、私なんかまだまだ努力が足りないです。一歩でも近づけるよう頑張っていきたいです。
【プロフィール】燕市 勉強では歴史、特に日本史が大好き。  

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2)大渕真理子 中学部3年 「ボランティアを通して」 
 視覚障害者がボランティアをするというと、多くの方はびっくりします。確かに拡大本、朗読など、いつもはボランティアをやってもらっています。では障害者が出来るボランティアはないのでしょうか?社会に役に立てることを出来ないのでしょうか?
 私の父は、特別養護老人ホームで働いています。小さい頃からホームで遊んでいました。そこでは洗濯物をたたむとか、肩や足を揉んであげることなど出来ることがあります。そうしたことで、おじいちゃんやおばあちゃんが喜んでくれます。入浴後のヘアドライヤー、髪だけでなく足にも当ててあげると、「気持ちがいい」と言ってくれます。私にも人に喜んでもらえることが出来るんです!
 外に出ると、時々嫌なことや傷つくこともあります。小学校の子供達から「ネーネー、その目どうしたの?」と聞かれると、傷つき外に出るのが嫌になります。でも私は、家に引きこもるより、社会に出て人に喜んでもらえることを多くしたいです。
 私の4歳年上の姉は、視能訓練士の学校に入学して勉強に励んでいます。お姉さんに感謝すると共に、私も早く社会に出て人の役に立つことをやりたいと思います。視覚障害を持つ私ですが、おじけることなく社会へ巣立っていきたいと思います。
【プロフィール】小千谷市 昨年に引き続いての登場、現在ボランティアで活躍中。

 

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《会場からの声》
●まっすぐな二人のお話、今回も感動しました。とても健全に成長していることが判ります。家庭の大切さも伝わりました(NA)。
●今日はどうもありがとうございました。中学生二人のとても素晴らしい弁論を聞くことができ、実に感動し、励まされました。非常によい体験ができたと思います。二人とも自分といった存在をしっかり持ち、それを言葉で表現し、心に響きました。自分も見習わないといけないと痛感いたしました。本当によい勉強になりました(SY)。
●弁論大会用なのだから短時間なのでしょうが、あのお2人はもっとたくさんの魅力を感じさせるのだから、もっと長いお話を聴きたかったなぁ(TA)。
●「弁論大会」。お二人の、爽やかで明るい態度。しっかり周りを見つめつつ、自分の考え素直に発表されたと思います。真理子さんの応援の為、そして、温かなご家族の方々にお会い出来るかと思いつつ、おじゃましたしだいですが、それが叶いました。「まりこちゃん」と肩をたたいて話し掛けましたら、あの頃を覚えていてくださり「うれしい」と言って、私の手を握ってくれました。あの頃を覚えていてくれたのですね。感動でした。お二人のすこやかな成長を願っています。この会で、心の栄養も沢山頂きますが、人と人との出会い再会の場もいただき感謝いたします(YO)。
●話すのが苦手な真理子にとって、その場で皆さんの感想が聞けたことは大変励みになります。またいろいろな場を与えて頂いたなかで沢山の方たちにお会いし、心が少しでも豊かになってくれたらと思っています。皆さんからいただいたご意見や感想を糧にこれからもすなおに成長してもらいたいと思います。これからもよろしくお願いします(O親)。

2003年12月28日

 演題:「期待せずあきらめず」
 演者:遁所直樹(新潟市障害者生活支援センター分室)
  日時~平成15年12月10日 16時半~18時
  場所~済生会新潟第二病院眼科外来 

 

 講演を私なりにまとめたものを、以下に紹介致します。
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 最初に、今回のタイトル「期待せずあきらめず」は大学時代の恩師である菅野 浩先生と、新潟大学医学部付属病院の整形外科主治医であった田島達也助教授(当時)に頂いた言葉という紹介があった。 

 

【1】 現在の社会参加の状況 
 障害も持ちながら学生生活を送っている人の割合は、日本では0.09%だが、米国では7.00%である。日米でこんなに違いがあることが再認識された。 

 

【2】 障害をもった頃の話
1987年 当時24歳。新潟大学の学生(博士課程)で水泳の選手だった。海にダイビングをした時に、頚椎損傷により四肢麻痺の重度障害者となった。当時は学生生活を続けることなど考えられず、いつも俯いて生活していた。
1990年 新潟大学自然科学研究科博士課程中退。
1993年 13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業に参加【渡米】。
1996年 行政書士資格取得。資格は得たが仕事はなかった。たまたま新聞の広告に国際福祉医療カレッジ社会福祉学科の案内があり、応募した。一度は諦めようかなと思ったが、カレッジの人に出来ることからやってみようと言われた。「出来ること」と言われたのは、障害を持って初めてだった。親・9名の同級生と友人の協力を得て何とか無事に学業を一年間続けた。以前は(健康な頃は)、講義が休みになるといいなと感じたこともあったが、この1年間の講義は本当にサボりたくないと思った。
1997年 国際福祉医療カレッジ社会福祉学科卒業。社会福祉士資格取得。国際医療カレッジ非常勤講師(現在に至る)。イギリス赤十字・日本赤十字ボランティア障害者交流事業に参加【渡英】。新潟県ふれあいプザラ事業ピアカウンセラー(現在に至る)。
1998年 介護老人保健施設ケアーポートすなやま支援相談員(現在に至る)。
2000年 自立生活支援センター新潟職員(現在に至る)。新潟県社会福祉審議会委員1年間
2003年 特定非営利活動法人自立生活センター新潟理事(現在に至る)。 

 

【3】 自分を好きになることの大切さ 
 米国での研修中(ダスキン障害者リーダー海外派遣事業)に、「あなたは、自分のことが好きですか?」と問われたことがある。当時は希望のない毎日を送っていただけに、その一言にハッとした。 

 

【4】 アメリカ・イギリスで得たこと(心のバリアフリー) 
 障害を持っていて一番悲しいことは「無視」されること、逆に一人でも支えてくれる人がいると生きていける。1993年13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業は、わずか2週間の米国滞在であったがショックを受けた。自分よりも重度の障害を持った人たちがどんどん社会参加していた。こんな障害に甘えていられない、負けていられないと思った。 

 

【5】 出会った人々の話
  佐藤豊先生(リハビリの主治医)~何でも言ってくれる、今でも慕っている先生。受傷当時、殆んどの医者が機能回復は困難と言った時に、「回復出来る」と言ってくれた。一番苦しい時には、医師の一言で絶望もするし、明るくなることも出来る。
 和田光弘弁護士(日本アムネスティ協会会長、新潟市在住)。日本アムネスティ協会主催の憲法制定50周年記念で、「耳を済ませて」という劇を行なった。最後、共演の子供に質問された。「障害は悲しいことですか?辛いものですか?」 考えてしまった。障害者自身が「私は幸せだ」というと社会のシステム化は遅れる。障害者は声を出さないと社会は変わらない。
 箕輪紀子(新潟日報論説委員) ~無年金障害者問題を一緒に考えてくれた。
 ALSボランティア ~ 何でも言ってくれた。当局との交渉の仕方など何でも教えてくれた。
 青木学氏(新潟市会議員、視覚障害者)~ 新潟市に低床バスを導入する活動を共にやり、実現させた。  

 

【6】 クリストファー・リ-ブズは本当にスーパーマンだ 
 クリストファー・リ-ブズは、映画「スーパーマン」の主人公を演じた人。今は事故による脊髄損傷でセントルイスのワシントン大学でリハビリ中。クリストファー・リ-ブズ基金を創設し、脊髄損傷の有益な研究に対して奨学金を提供している。めざましい神経再生研究の発展の一助になっている。これまで障害受容とは、失われたものをいつまでも嘆くのでなく、残された機能を最大限に活かすことと言われてきた。でも彼が登場したことで、不可能と言われていた神経の再生が、もしかすると可能になるのではないかという夢を与えてくれた。彼は今や頚椎損傷患者の間では、真のスーパーマン的存在である。 

 

【7】夢の話、マーチン・ルーサー・キング牧師の夢 I have a dream. 
 皮膚の色でなく、人格によって評価される国に住みたいという夢がある。 

 

【8】 平等とは 
 平等とは同じ価値観を持つこと。足が不自由な人が車椅子を使うことは、健常人と同様に行動するために必要なこと。 

 

【9】 環境を整えること 
 虐げられたものは声を出すことが必要だ。当事者は声を出すこと、そして理想を語ることが必要。障害者は声を出さないと社会は変わらない。今ある障害の責任の80%は社会の責任。でも環境さえ整えられると、障害があっても生活できる。

 

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【後 記】
 10枚以上の写真を用い、淡々と1時間にわたりお話してもらった後、参加者との話し合いになりました。
○自分も障害を持っているが、まだまだ上がいることがわかった。
○ここに至るまでの家族や周囲の方の協力も、並々ならぬものと思いました。
○印象的だったのは、一時は顔をあげて写真に写ることもできなかった遁所さんが、アメリカへ行き自分のできることから始め徐々に自信を取り戻していくという場面だった。
○重度の障害を持っているのに、案外表情が明るいのにびっくりした。
○本人の受容も大事だが、家族の受容も考えなければならないテーマでは、、、。
○障害というのは、その人自身にとっても周囲の方々にとっても、決して完全に受け入れることはない。奇麗事では済まされないことだと思うが、その上で今の障害者に厳しい現状を少しでも改善したり、お互いに支えあったりしなければいけないのだと思った、、、、、、。
 いつも世話をしてくれているお父さんのことをお聞きすると、「父のことを話さなかったのは、話すといつも涙が出るからです」と言った遁所さんの言葉が印象的でした。

 

 「障害の受容」について以前遁所さんにお尋ねた時、「障害者にとって、永遠に続くテーマだと思います。」というお答えでした。当初今回のタイトルを「社会受容」として、障害の受容を、社会受容と自己受容に分けて論理的に語る予定でした。でも出来るだけ自分の言葉で自分の体験を話す中で、これまで如何に自分が障害を受容してきたかを語りたいということで、タイトルを「期待せずあきらめず」に変更して今回のお話になった次第です。
 尚、「社会受容」は、遁所さんが施設に入っていた時に教わった、心理カウンセラー南雲直二氏による著書のタイトルです。
 http://www1.odn.ne.jp/~cbh92600/shakaijuyo.html

 

 後日、遁所さんから下記のメッセージを頂きました。〜 重度の障害を持って明るいのにびっくりされたというのはたぶん人前だからでしょう。結構人前では突っ張ているような気がします。このような機会をいただきありがとうございました。受容というのはなかなか大変なものです。今回のお話の機会で改めてまだまだ受容には至るまでには程遠いことを感じました。 ただ、ひとつ言えることは、患者の目線に立つことができる医療従事者に対しては患者は信頼関係を持つということです。あきらめないで付き合ってくれるとき、人々から無視されないでいるときに受け入れるきっかけが生まれると思います。 

 

 遁所さんのこれからのますますの活躍を、期待したいと思います。