2013年3月13日

報告:第205回(13‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  渡辺 哲也
 演題:「視覚障害者とスマートフォン」
 講師:渡辺 哲也 (新潟大学 工学部 福祉人間工学科)
  日時:平成25年3月13日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
1.はじめに
昨今、タッチパネル操作が主体のスマートフォンとタブレットPCの広まりが目覚ましい。ロービジョンの人たちにとってこれらの機器は、画面拡大操作がしやすい、拡大読書器の代わりに使える、持ち運びに便利、そして格好いい、など利点が多い。他方で、全盲の人たちにとっては、たとえ音声出力があっても、触覚的手がかりのないタッチパネル操作は難しいのではないかと思われる。そこで、全盲の人たちがスマートフォンやタブレットPCを利用する利点と問題点について各種調査を始めた。Webを使った文献調査、利用者への聞き取り調査、音声によるタッチパネル操作実験などを通してわかってきたことを報告する。 

2.GUIショックとの相似
文字中心であった二つ折り型携帯からタッチパネル操作のスマートフォンへの移行は、1990年代にコンピュータの基本ソフトが文字操作中心のMS-DOSから画像操作中心のWindowsへ移行したときに匹敵する衝撃的な変化である。両者の相似点は、(1) 取り扱う情報がテキスト情報からグラフィカル情報へ移行したことと、(2) 矢印キーを使ったテキスト情報選択からポインタを使ったアイコンの直接選択へ移行したことの2点である。 

他方で異なる点は、(1) スクリーンリーダの存在と、(2) ポインタの操作方法である。1990年代前半にWindowsが普及し始めた頃、日本ではWindows用スクリーンリーダはまだ研究開発の途上にあった。他方で、iPhone、iPad、Androidが普及し始めた現在、これらのOS向けのスクリーンリーダは開発済みであるばかりか、機械に標準で装備されている。操作方法に関しては、従来のパソコンではマウスやタッチパッドを使ってポインタを動かす相対操作であるのに対して、タッチパネル操作では指先位置がポインタ位置となる直接操作である。このため、画面を見ないでも音声フィードバックさえあればユーザはアイコンを指示できる。これら二つの特徴により、全盲の人たちはスマートフォンやタブレットPCを利用できる。 

3.利用方法
1)スクリーンリーダ
iPhoneやiPadには、スクリーンリーダVoiceOverが標準装備されている。AndroidにもスクリーンリーダTalkBackが標準装備されているが、日本語出力のために音声合成ソフト(ドキュメントトーカ)をインストールする必要がある。 

2)アイコン等の選択
2通りの操作方式がある。直接指示方式では、触れた位置にあるアイコンなどが選択され、読み上げが行われる。続けてダブルタップすると選択決定となる。画面構成を覚えておけば操作は容易だが、画面構成が分からないと目標項目を探すのは困難である。
順次選択方式では、画面上でスワイプ(フリックともいう)することで、前後の項目へ移動し、これを読み上げる。項目間を確実に移動できるが、目標項目に到達するまで時間がかかることが多い。 

3)文字入力
テンキー画面によるフリック入力やマルチタップ入力(同じキーを押すたびに、あ、い、う、と変化)、50音キーボード画面やQWERTYキーボード画面が音声読み上げされる。漢字の詳細読み機能もある。いずれの方式も、個々のキーが小さいため、入力が不正確になりがちである。この問題を解決するため、iPhoneには自動修正機能が装備されている(英語版のみ)。ジョージア工科大学で開発されたBrailleTouchというアプリでは、タッチ画面を点字タイプライタの入力部に見立てて6点入力をする。 

4.様々な便利アプリ
光認識、色認識、紙幣認識、拡大機能、読み上げなど、単体の機械や従来型の携帯電話で実現されてきた機能が、スマートフォンへのアプリのインストールだけで利用可能になった。インターネットとの常時接続やGPSによる位置の推定など、スマートフォンの特徴的な機能を応用した新しいアプリとしては、物体認識、屋外のナビゲーションなどがある。以下にアプリ名とその内容を紹介する。
・Fleksy:打ち間違えても、「正しい」候補を賢く表示
・Light Detector:光量を音の高低で表示
・マネーリーダー:紙幣の額面金額を読み上げ
・明るく大きく, VividCam:コントラスト改善、拡大
・TapTapSee, CamFind:視覚障害者向け画像認識
・Ariadne GPS, ドキュメントトーカボイスナビ:現在地・周囲情報・経路案内 

5.まとめ
音声支援により全盲の人もタッチパネルを操作できる。しかし、アイコン等の選択や文字入力が効率的に行えるとは言いがたい。お札や色の判別などのアプリは従来の携帯電話でも利用できたが、これらを簡単にインストールできる点は利点であろう。スマートフォンで新たに実用可能になった物体認識やナビゲーション機能の実用性の検証とその発展が今後期待される。 

【略 歴】
 平成 3年 3月 北海道大学 工学部 電気工学科 卒業
 平成 5年 3月 北海道大学 工学研究科 生体工学専攻 修了
 平成 5年 4月 農林水産省 水産庁 水産工学研究所 研究員
 平成 6年 5月 日本障害者雇用促進協会 障害者職業総合センター 研究員
 平成13年4月 国立特殊教育総合研究所 研究員
 平成21年4月 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授
 情報通信技術(ICT)を用いた視覚障害者支援に従事。これまでの開発成果は、スクリーンリーダ”95Reader”、電子レーズライタ”Mimizu”、漢字の詳細読み”田町読み”(iPad・iPhoneに搭載)、触地図作成システム”tmacs”など。 

【後 記】
 現在、IT関係の発達は目覚ましいものがあります。iPadやスマートフォンに代表される携帯端末もその一つです。こうしたものが発達することは、情報をいち早く得るためや、情報を発信するために欠かせないものになってきました。一方では、こうした機器に不慣れであると、情報に取り残された、いわゆる情報難民を生み出すことになります。
 視覚障害者がこうした情報難民にならないようにするために取り組んでおられる、渡辺研究室の活躍を期待したいと思います。 

 *参考までに
  新潟大学 工学部 福祉人間工学科 渡辺研究室のWebサイト
  http://vips.eng.niigata-u.ac.jp/

 

2013年2月3日

   日時:平成25年01月09日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 演題:「視覚障害者のリハビリテーションから学んだこと」
 講師:石川 充英 (東京都視覚障害者生活支援センター 就労支援課)

【講演要旨】

1 はじめに

 視覚障害者のリハビリテーションの仕事を始めて25年が過ぎた。私が東京都視覚障害者生活支援センター(以下、センター)に入職した当時は、施設利用を希望する人は行政に申し出て、行政が利用の可否と決定するという措置制度の時代であった。現在は、2006年から施行された障害者自立支援法により、視覚障害者自身が福祉サービスを選択できるようになった。障害者自立支援法により、歩行訓練や点字、日常生活動作訓練などの日常生活訓練は、自立訓練(機能訓練)として位置づけられ、就労移行支援事業が創設された。パソコンを利用して一般事務職を目指す視覚障害者は、職業訓練校だけではなく、就労移行支援事業所でも訓練を受けられるようになった。センターは、2009年から通所による自立訓練(機能訓練)と就労移行支援の2つの訓練サービスを提供している。
 このように視覚障害者の福祉制度が大きく変わる中、Aさんの出会いを振り返ることにより、改めて視覚障害者のリハビリテーションに対する考え方の礎を学ばせていただくことができた。

2 Aさんとの出会い

 Aさんと出会ったのは今から20年ほど前。ご主人を亡くし、ご自身も視力低下の中での出会いであった。この頃のご自身の状態を自らの著書で『生きる屍のようであった』と記されている。(以下、『』内の記述は著書からの引用)
 このような状況の中、歩行訓練の担当となった。当初は、『植え込みに入り込んでしまったり、曲がるところが分からずに、隣の塀にぶつかってしまったり、とても疲れた。』『何かわからないところを杖を左右にふりまわして、こんなことをしなければならないなんてと情けない思いであった。』この状況を改善させたのは、訓練を受けていた仲間であったようだ。『4、5か月も経つうちに、真っ暗闇の霧の中で、ただ一人ぼっちと思っていたのだが、「違うぞ、私以外にもそういう人がいるんだ」これは私にとって大きな教訓であった。次第に訓練にも熱が入るようになった。その年の秋になると、順調に進むようになっていった。少しはまじめでやる気になってきた。』 ここに施設や事業所で当事者同士が出会い、互いに刺激を受け、訓練を受ける意義がある。しかし、近年では当事者同士の関係性が少し薄れてきているような気がしている。

 話をAさんに戻す。当時の歩行訓練は、例えていえば自動車の教習所のような進め方であった。決められた訓練カリキュラムを施設周辺の訓練場所で実施し、そのカリキュラムを習得すれば自宅の周辺を含め、訓練していないところも歩くことができるという考え方が主流であった(以下、教習所型)。そのカリキュラムの最終段階として、周囲の人に援助を積極的に依頼しながら、事前に情報収集した目的地に単独で移動するという「卒業試験」があった。

 Aさんの卒業試験の目的地は「銀座三越ライオン像の前」であった。Aさんは事前に乗換駅や乗車号車などを調べ、当日は適切なタイミングで援助を依頼しながら無事にライオン像についた。『私はしみじみとして思いで、ライオン像を丁寧に手で触ってみた。「やった、やったぞ! 一人でここへ来たんだ!」感慨深かった。』

 Aさんは、卒業試験で自信をつけ、センターまで一人で通えるような歩行力をつけた。その状況を知ったAさんの友人から、Aさんとセンターに、自分の会社の手伝いをしてほしいという提案があった。このとき、友人の会社への通勤経路については歩行訓練を実施した。教習所型では十分に対応できなかったのである。Aさんは短期間で通勤が可能となった。このように、実際に視覚障害者が歩くところで歩行訓練を実施することが、最近の歩行訓練の主流となっている。

 Aさんは、卒業試験、通所、通勤により単独歩行に自信を持った。その後は、アメリカへのホームステイ、視覚障害者を支援するNPO法人の設立など、昔の輝きを取り戻した。

3 視覚障害者の移動(歩行)を支援するとは

 Aさんとの出会いを通して、視覚障害者の移動(歩行)が、リハビリテーションの根幹をなすものだと改めて学んだ。単独歩行するためには、周囲の支援と理解、訓練体制、歩行環境(歩道の整備、横断支援等の歩行支援設備)、公共交通機関の利便性などの条件が必要である。それと、最も重要な条件は、一人で歩きたいという強い意志である。意志と条件が整ってこそ、単独歩行は可能となる。単独歩行するにあたっては、移動する距離や時間が問題ではない。自ら置かれている状況や条件の中で、利用者本人が歩こうという意志を持ち、いかに歩くということを主体的に考えるかである。また、支援者はいかに主体的に考えることができるよう支援するかが重要である。この主体的な移動は、必ずしも単独歩行だけを意味するのではない。同行援護などの制度を利用してのガイドヘルパーによる誘導歩行も含まれる。主体的に移動することは、利用者自身が、それまでの世界観を大きく変化させることであり、その結果、次なる活動の意欲にも繋がっていくことから、その支援体制が重要である。

4 支援体制を構築するための「Renkei」

 視覚障害者のリハビリテーションを進めるためには、当事者の力と周囲の支援が必要である。支援が必要なときに、必要な支援者が「Renkei」をすることが重要だと考える。

 Aさんの場合、友人と支援センターが連携をとり支援を行った。Aさんを中心に、友人、センター、行政が「Renkei」をとりながら支援を実施した。「Renkei」には「連携(cooperation)」と「連係(connection)」がある。「連携」とは、経過・決定に利用者が存在、利用者と複数の支援者の目標が同じであり、一方の「連係」は経過・決定に利用者が不在で、利用者と複数支援者の目標が異なっている。視覚障害者のリハビリテーションを行うには、支援者一人、1施設での支援には限界があり、利用者の強みを引き出す支援を行うためには、複数の支援者と「連携」を組むことが重要である。他の機関につなげるだけの「連係」では不十分であり、スムーズな「連携」には、構築されたネットワークの利用が重要である。ネットワークはすぐに構築することができない。よりよい「連携」とネットワーク構築のためには、互いの支援者の顔が見えることがとても重要だと考える。

 

【略歴】
 1986年3月 駒澤大学文学部社会学科卒業
 1986年4月 日本盲人社会福祉施設協議会 
       東京都視覚障害者生活支援センター入職
 1992年10月 視覚障害者歩行訓練指導員(歩行訓練士)養成課程修了
 1996年3月  日本大学大学院理工学研究科医療・福祉工学専攻 前期博士課程修了
 1996年4月  東京都視覚障害者生活支援センター 指導訓練課主任指導専門職
 1986年6月 信楽園病院 中途視覚障害者リハビリテーション 外来担当
 2001年11月 NPO法人視覚障がい者支援しろがめ理事
 2011年11月 視覚障害リハビリテーション協会監事
 2012年4月 東京都視覚障害者生活支援センター就労支援課長

 現在に至る

 

【後記】

 今回は、視覚障害者が「自ら歩く」ということから多くのことを学んだ。
 曰く、「自分で歩く」ことは視覚リハの基本。歩いた距離の問題ではなく、「自分で歩こう」という意識が大事。そのためには、単独歩行とガイドヘルパーのバランスが大事。
 曰く、「れんけい」が必要。他機関につなげるだけの「連係」では不十分。支援者一人、一施設での支援には限界があり、利用者の強みを引き出す支援を行うためには、複数の支援者と「連携」を組むことが大事。「連携」に基づく「ネットワーク」が重要。「連携」とは、経過・決定に利用者が存在、利用者と複数の支援者の目標が同じであることが必要。。。。
 現場の人ならではのご意見でした。石川先生が話すということで、雪が吹きすさぶ中、多くの方が参加されたことに、先生への評価が表れていると感じました。
 視覚障害リハビリで活躍する石川先生の、益々の発展を祈念しております。

 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。
 参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
 眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。

   日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
   場所:済生会新潟第二病院眼科外来

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。

 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している
  音声パソコン教室ホームページ 
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成25年2月13日(水)16:30~18:00
   「歩行訓練40余年を振り返る」
      清水 美知子 (フリーランスの歩行訓練士;埼玉県)

 平成25年3月13日(水)16:30~18:00
   「視覚障害者とスマートフォン」
      渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)

 平成25年4月10日(水)16:30 ~ 18:00
   「私の目指す視覚リハビリテーションとは」
      吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会会長)

 平成25年5月8日(水)16:30~18:00
   「インクルーシブ教育システム構築と視覚障害教育
                ~盲学校に求められるもの~」
      小西 明 (新潟県立新潟盲学校:校長)

 平成25年6月12日(水)16:30~18:00
   「視覚障害グループセラピーの考察」
      小島 紀代子 (NPOオアシス)

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 平成25年6月21(金) プレカンファレンス
         22日(土)23日(日)

  第22回視覚リハビリテーション研究発表大会
             (兼 新潟ロービジョン研究会2013)

    会場:「チサン ホテル & コンファレンスセンター 新潟」
        「新潟大学駅南キャンパスときめいと」
    メインテーマ:「見えない」を「見える」にする「心・技・体」
    大会長:安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)

  特別講演

   「心」(心のケア)  山田 幸男(新潟信楽園病院;内科医)

                           6月22日(土)午後

   「技」(IT視覚支援)林 豊彦(新潟大学工学部 教授)

                           6月22日(土)午前

   「体」(医学)一般開放(共催:新潟ロービジョン研究会2013)

             高橋 政代(理化学研究所) 6月23日(日)午後

             山本 修一(千葉大学眼科教授)

  シンポジウム
     「視覚障がい者の就労支援」         6月23日(日)午前
       司会:星野 恵美子(新潟医療福祉大学)
           小島 紀代子(NPOオアシス)

  特別企画
   1.「歩行訓練の将来」              6月21日(金)午後
        司会:山田 幸男(信楽園病院/NPOオアシス)
   2.「視覚障害者とスマートフォン」        6月22日(土)午前
        企画:渡辺 哲也(新潟大学工学部福祉人間工学科)
   3.「盲学校で行う成人への視覚支援」       6月23日(日)午前
        司会:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)

  関連企画                      6月23日(日)午前
   「機器展示ワークショップ」「視能訓練士講習会」

  一般講演・特集講演
    一般講演(5題)               6月22日(土)午前
    特集演題(3~4題) 「スマートサイト」   6月22日(土)午前
    ポスター講演            (30題) 6月22日(土)午後
                       (30題)6月23日(日)午前

  ランチョンセミナー  昼食付
    22日 「最新の眼科医療」長谷部 日(新潟大学眼科)
        「ロービジョンケア」新井 千賀子(杏林大学アイセンター)
    23日 「アイパッドを用いた視覚支援」
             三宅 琢(Gift Hands)、氏間 和仁(広島大学)

  事前登録・演題募集
   演題募集 2013年1月15日から2月28日
   参加登録 2013年1月15日から5月15日

  機器展示

  ホームページ  http://www.jarvi2013.net/

 

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 平成25年7月10日(水)16:30 ~ 18:00
  演題未定 
     奥村 京子 (新潟市社会福祉協議会)

 

2013年1月13日

     日時:平成24年12月12日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 演題:「障がい者が、働くことを成功するために大切なこととは?」
 講師:星野 恵美子 (新潟医療福祉大学 社会福祉学科) 

【講演要旨】
1 なぜ、就労支援なのか=働くことの意味とは
 一定の年齢になれば障害の有無にかかわらず「自分の力で働く」ことが大切です。障がい者にとっては働くことは、リハビリテーションの最終目的であると同時に経済的な自立を助けます。また、自分自身が価値があり必要な存在だと認められ、自尊心の向上や社会的な孤立感を防ぐ基礎ともなります。

2 障害者就労の現状(全国、新潟県)
 日本では、事業主に一定の割合で障害者を雇用することが義務づけられています(障害者の法定雇用率)。障害者就労の現状を現すこの雇用率は、法定雇用率1.8%のところ、全国平均1.69%で、新潟県1.59%で全国41位であり、不十分な状況であり、障害者就労の改善が必要です。企業規模別の雇用率では従業員数が1000人以上の大企業は1.9%と雇用率を満たしています。企業規模が大きいほど障害者雇用率は高い傾向にあります。それは大企業では仕事が多様で、障がい者の働くための仕事を算出しやすいことと、障害者雇用納付金(1人当たり5万円/月)の負担が大きいため、障害者雇用に積極的になると考えられます。

3 働く現状、どんな仕事に、従業員の姿
 仕事のマッチングが障害者雇用では、重要です。障害別の仕事の実際としては以下の通りです。
・身体障害=事務的な作業。移動が多い営業職や大工、庭師等の外作業は負担が大。
・精神障害=特に制限なし、通院時間を確保する。負荷が高まらないように配慮する
・発達障害=手順や業務内容を視覚化する等の環境設定が重要。
・知的障害=清掃、管理業務補助、継続する作業等、いったん覚えるときちんと正確にこなせて信頼度が高い。

 仕事とのマッチングは大切ですが、これが障害者用の仕事というものはありません。業務と環境の改善と適切な配慮と人間関係を良くしていくことが必要です。星野ゼミでは、新潟市とともに、障害者雇用企業を訪問しインタビューを行いました。訪問企業~パワーズフジミ、大谷印章、コジマ電気、間食品、DeNA等 事業主側の理解と障害特性への配慮や工夫がなされており、障害を持つ従業員の方々が生き生きと働いておられたことが印象的でした。

4 視覚障がい者の就労状況(実際の就職事例から)
 ハローワーク新潟の今野統括指導官のとりまとめた平成19年ごろの3年間の鍼・灸・マッサージは除く就職事例です。21例の状況からは、三療職以外でも非常にバラエティーが多くの職種で就労されている。中でも事務職が電話交換も含めると10名と5割近い。そのほか調理や看護等の補助業務や、製造業務等幅広い就労状況です。また、障害程度も幅広く2級の方もおられます。このあたりは、支援機関としてのハローワークの努力も大きいと思われます。

5 働くために大切なことは何でしょう? 社会生活力です。
 社会性活力とは? 人間関係力(挨拶、言葉使い、報告)や生活をコントロールする力=朝起床し、3食を食べて、健康に配慮して、元気よく毎日通える体力、勤務時間5時まで毎日働けることや金銭管理をする力等です。これは、自分の生活の基礎をつくり、日々社会参加しながら自分らしく生きるためにとても大切です。買い物、掃除や安全な生活や男女交際、コミュニケーション、人間関係などは、誰でも生きていくために必要な当たり前のことですが、社会参加や仕事をするうえでの基本的なことで、生活しながら体験的に身に付けていくことです。就職がすぐできなくて何回もチャレンジすることは、障害の有無にかかわらず、大変なことです。大きな心の試練にもなります。
 このような時、懸命に努力する力は、小さい時の親子関係やしっかりと愛された実感が土台となって育まれてまいります。人への信頼感や安心感が大切なベースとなります。

6 就労支援の法制度 「障害者の雇用の促進等に関する法律」
 障害者雇用促進と職業の安定を図るため、①障害者雇用率制度、②障害者雇用納付金制度、③職業リハビリテーションの推進等が定められています。 障害者の雇用の推進機関としては、以下の3機関があります。
 1)ハローワーク:公共職業安定所:求職登録の上、職業紹介や職業相談等。
  事業主へ障害者求人の相談や指導、各種助成金の紹介等を行います
 2)地域障害者職業センター:職業評価、職業指導、職業準備訓練及び職場適応援助等、雇用管理上の専門的な助言を行います
 3)障害者就業・生活支援センター:障害者の職業的自立のため、地域で就職面と生活面の支援を一体的に行います。
 このような専門機関を活用すると、良いでしょう。

【略歴】
 新潟医療福祉大学  社会福祉学科 
 新潟県の福祉専門職として児童相談所等の各種の相談機関や障がい者の支援施設病院等に勤める。 
 2005年から現職で社会福祉士の育成にあたる。
 現在、社会福祉を学ぶ星野ゼミの学生たちと、新潟市の方とともに、障がい者雇用企業に訪問して、働く人たちの声や社長達の思いをインタビューを行い、学びを深めている。

【後記】
 今回は、障がいを持つ方の就労について勉強しました。
 ある視覚障がいの方は、リハビリの目標の一つに働いて税金を納めることといったのを覚えています。その時、税金が高いと文句を言っていた自分を恥じました。「働くこと、税金を納めることは国民の義務」 ともすると権利ばかり主張していて、義務を顧みない自分に気づかされました。
 でも障害を持つ方が就職するのは現実的には如何なんでしょうか?障がい者の方から、「障がいを持つ者にとって、結婚と就職は同じくらい大事で難しいことなんです」といことをお聞きしたことがあります。今回のお話を拝聴しても、そんなに簡単でないこと判りました。
 でもこのような実態を知ることから解決の第一歩が始まるのだと思います。福祉の根本を例えて、以下の様なエピソードがあります。高いところにあるものを取れない人がいた時、取ってあげるのではなく、足の踏み台を出してあげること。。やってあげるのではなく、やることをお手伝いする。人の尊厳を尊重しつつ、如何にその人らしく暮らせるようにするかを考える。そんなことを考えながら、今回のお話を拝聴しました。
 星野先生の益々の活躍を期待したいと思います。

 

2012年11月14日

 演題:「活力~どうやって生み出すかを考えてみませんか~」 
 講師:大島光芳 (上越市)
  日時:平成24年11月14日(水)16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 【講演要旨】
  2009年6月視神経萎縮で道路の白線が見えなくなり歩行が限界ギリギリの頃に、妻のすすめもあり新潟大学眼科のロービジョン外来で張替涼子先生の診察を受け、よし!この先生について行こうと決意しました。7月に休職と障害者手続を開始。直ぐに福祉制度による移動支援を受け、やがて家事援助も追加しました。家人は働きに出て、昼間は私一人だからです。

  12月に購入したパソコンを持って張替先生から紹介された新潟市の「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」(以後、オアシスと略)(注1)を訪問し、音声パソコンをフルキーで操作する練習ソフトを入れて頂いたのですが、その頃は全然できませんでした。ところが、翌月になると出来ちゃいました。
 (注1)「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」
 http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/

 2010年1月に福祉関係者5人が来宅して支援会議を開催してくれました。これはサポートする側と私との行き違いの是正のためなのですが、見えない私が家に一人だけなのが不安になり、先手を打つために年間活動計画を作成しました。何度も言い直しながらICレコーダー(パソコン購入時に妻が購入)に録音し、相談員に聞いてもらい、プリントして当日持参して頂きました。これで思い通りに事は順調に進みました。ところが、最後に「次回はいつにしますか?」との発言があり、来月と決まってしまいました。来月に再びと言われた時点でパソコンができるようにならねばと思いました。

  出来ないのは「できないと思っていたから出来なかった」事に気づきました。  1月にオアシスを訪問すると、操作はできるようになりましたと宣言し、必要そうなソフトは全て入れて下さいと申し出ました。使っているのはマイワードとマイニュースとマイメールだけですが、マイニュースが役立ちました。この中にNHKの「みんなのラジオ 聞いて聞かせて」が遡って聞けるようになっていました。石川充英さん(東京都視覚障害者生活支援センター)や工藤正一さん(タートル)の話を何度も聞いた。何せ時間は無限にありました。

  2月はこれを貪って3年前まで聞きました。中でも「完全マニュアル中途視覚障害者からの再出発」は私そのものであり、自分は全国的にみて普通なんだ、何とかなると少し自信がもどりました。「検証ガイドヘルプ事業」と「代読・代筆」は録音してマイワードに打ち込む事で本当にフルキーでの入力もできるようになりましたし、知識も深まりました。

  番組に登場した人物にも会いたい希望が湧き、直ぐに県内の視覚障害者の市会議員の青木学さん(注2)とのメール交信が可能になり、翌年2011年には長野放送で「里枝子の窓」のラジオ番組(注3)を持ちパーソナリティーをされている広沢里枝子さんにも会い、今年2012年は大阪府を訪問して岩井和彦さん(注4)にも会いました。彼は1949年の生まれですが、15歳の時の全国盲学校弁論大会優勝の「理解されない盲人」を前出のNHKラジオで聞いた時に、同じ思いをした先人がいると心が震えました。今もこの言葉に勇気をもらっています。初めから計画的だったわけではないですが、方向が掴めると次々と達成はできました。一歩踏み出すことで、多くの方々との出会いが可能になったのです。
 (注2)「青木 学」 (新潟市市会議員)
 http://www.aokimanabu.com/
(注3)「里枝子の窓」 信越放送(SBC)ラジオの長寿番組
  広沢 里枝子 (番組パーソナリティ)
 http://r-mado.com/index.html
(注4)「岩井 和彦」
 http://www.bunrikaku.com/book1/book1-608.html

 4月は障害を理由に断る事もできた半年任期の検察審査会のメンバーを受諾していました。翌月から裁判所で準公務員をつとめるのですからプレッシャーもあり、対応する為に集中して精神力を高めつつありました。

  メール交信はオアシスの小島紀代子さんが相手をして下さった事で可能になりました。5月1日受信したメールに「日本地図を作った男、伊能忠敬は人生後半の56歳から17年間、2歩で一間をかたくなにまもり、2歩目に踏みたくないものがあっても歩き続けた事で完成させた」とありました。そこへ、上越市から応募者が不足なの で1年任期の市政モニターをして欲しいとの封書が届きました。可能ならアンケートにはメールで回答とあります。既に一つ大役を受けていますから駄目だろうと思って読んでいる妻に、受諾の代筆を頼みました。オアシスからのメールに背中を押されたのです。「踏みたくない二歩目」とはこれだなと思い、お引受けする事にしました。

 いま思うと、裁判所へ1歩目を踏み出し、市役所へ2歩目を踏み出した、この2歩目を踏み出した事で体と同じように思考回路のパターンにも完全な体重移動が起こり、前へ前へと歩みだせたのだと思います。思えば、一歩目を踏み出す時は恐々でも出来ますが、二歩目を踏み出すには、前がかりにならないと出来ないのです。

  6月新潟大学眼科ロービジョン外来受診では翌月に済生会新潟第二病院で開催の「新潟ロービジョン研究会2010」を紹介され参加。フロアから「私はロービジョンを受診し、既に見えなくなっていた目が見えるようになったわけではありませんが、見通しが立つようになりました。見通しが立つ事は本当に有り難いです。ありがとうございました。」と発言しました。思いのほか反響がありました(注5)。
 (注5)済生会新潟第二病院眼科 研究会
  「ロービジョン研究会2010」の項を参照ください
 http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 2011年6月のロービジョン外来受診では本を読みだすきっかけを頂きました。 知識的に必要で読む本と会話の話題に必要で本を選んでいます。「怒りの正体」、「甘えの構造」、「怒るヒント」、「しつこさの精神病理」、「国家の品格」、「感動する脳」、「脳にわるい七つの習慣」。「サービスの達人たち」、「人は見た目が9割」、「的を椅射る言葉」、そして最近は「細胞生物学」等々「回復力」には、「うつ」になる原因は3つあり、その1)最大の目標が達成されて次が見いだせない5月病のような時、その2)目標設定が高すぎて障壁となり自分を過小評価して動きがとれないとき、その3)先の見通しが立たない時とありました。新潟ロービジョン研究会での私のコメントは、この3つ目に対して「見通しが立つようになりました」と言ったのだということを、今になって理解できました。

 少し戻りますが、2010年11月に初めて済生会病院の勉強会に参加しました。 講師の栗原隆先生(新潟大学人文学部教授)が私の手に分厚い本を乗せ、本を書きなさいと話して下さいました。これがきっかけで翌年1月からメーリングリストへ書き込みました。この勉強会に参加した事で、もう一つおまけが付きました。この時のガイドヘルパーさんが新潟駅で別れるときに、他にして欲しい事はないですかと言われたのがきっかけで翌月に新潟県ふれあいプラザを訪問しました。ここで私が探していた硬式野球部の1年後輩にも会えましたし、1学年上で全国選抜高校野球大会の優勝校を招待試合で破った強打者(肥田野)とも会うことが出来ました。少し動いた事で次々と偶然が奇跡のように起こりました。

  「まず一歩、そして二歩目を」。動くことで活力の源泉が生まれたように思います。私のスタートは確かにロービジョン外来受診にありました。その裏には同伴していた妻がロービジョンの文字を見つけ、眼科医に質問してくれました。いま私を精神的にを支えてくれているのは、妻と家族、そして周囲の多くの人たちからの「無償の愛」のように感じ、毎日を暮しております。


 【略 歴】
  1950年 直江津駅から7キロ新潟寄りの海岸沿いの新潟県上越市で生まれ育ち生活。硬式野球と地元消防団を経験。
  1971年4月 化学会社へ入社、2010年7月定年退職。
  2009年7月 アスファルト舗装の歩道の白線が見えなくなり休職開始。
    同年8月 視覚障碍者2級、年末には全く見えなくなり
   2010年5月1級。
視神経萎縮(原因不明)


 【後 記】
 3年前に視力障害のために会社を休職(翌年に定年退職)した大島さんが、如何に活力を取り戻したかについて熱演してくれた。 バリバリの会社員だったが、視神経委縮にて両眼の視力を失う。パソコンは購入したが、さっぱり手につかない。しかし市の社会福祉サービスの方の家庭訪問を機に、ICレコーダーを駆使し、パソコンも使いこなせるようになった。
 様々な人との出会いを紹介して感謝した後、何が行動の原点だったかについて「無償の愛」ではなかったかと振り返った。いつも人のことを思い遣り、何か自分に出来ることがないかと想う。60を少し過ぎた素敵な男のロマンを拝聴した勉強会だった。大島光芳さんに幸あれ!!

2012年7月25日

報告:第197回(12‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会
    日時:平成24年7月25日(水)16:30 ~ 18:00 *第4水曜日です
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 毎年7月に企画している新潟県立新潟盲学校の皆さんによる弁論大会です。今年も3名の弁士が想いを語ってくれました。 

1.「僕の将来の夢」 
   加藤 健太郎 (新潟県立新潟盲学校 中学部1年)
 NHKテレビの落語が大好きで、小学校1年生の夏休みに落語を始めた。3年生の頃から老人ホームなどで慰問活動をするようになった。一人でも僕の落語を聞いて元気になってくれると嬉しい。4年生のときに水都家艶笑(みなとやえんしょう)師匠に弟子入りして、一番弟子になり右左の使い分けなどを教わり、師匠の定期寄席にも出させてもらうようになった。僕は「笑点」を毎週見ている。特にいつも明るい、林家たい平師匠が大好きだ。
 将来は、たい平師匠について全国を元気にする落語家になりたい。日本中を笑顔にできる落語家になりたい。そして、10年後に真打ちに昇進し、15年後には「笑点」のメンバーになりたい。 

2.「将来に向けての目標」 
   古川 和未 (新潟県立新潟盲学校 本科保健理療科1年)
 ストレスが溜まっていた。昨年の10月のある日、一人で衝動的に上越まで行ってしまった。先生方や両親、そして様々な方にも迷惑を掛けた。そのことが、自分を見つめ直すきっかけになった。専攻科理療科で勉強していたが、自分は保健理療科に行きたい。将来は、あん摩・マッサージをしたいという自分の気持ちに気が付いた。盲学校では、6つの部活動(万代太鼓など)を行い、体育祭では白組の応援団長を務めた。
 人とのコミュニケーションをとるのが得意ではない。治療院ではお客さんとのお付き合いが大切だ。ストレスに対する対処策を学び、任されたことをやり抜き、何事にも挑戦する人生を送りたい。
 注:理療科は、高卒後3年で、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験と、はり師・きゅう師国家試験の受験資格を得る専攻課理療科と、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験だけの受験資格を得る本科保健理療科がある。 

3.「心との約束」  
  左近 啓奈 (新潟県立新潟盲学校 中学部2年)
 盲学校に入学する前は、普通小学校に通っていた。6年生のとき、学校の先生から「点字を学習しないか」と突然言われた。驚きと葛藤、そして不安。「見えるのに、どうして点字をやらなければいけないのか?」と、自問し悩んだ。中学1年生の夏休みに点字の宿題をもらった。しかし、先生に言われて仕方なくやっていただけ。「どうして目が見えるのに・・・?」という、不安は消えない。でも、学習では、特に理科の授業が普通の文字では見え難くなってきていた。点字の方がわかりやすかった。 迷いながらも点字と取り組んでいたときに、母が携帯の「dear・・・」という曲を聴かせてくれた。この曲のサビに出てくる「ぼくならできる」という歌詞を聴いて、「自分はやればできるんだ」と思い、点字に前向きに取り組めるようになった。
 今では点字で授業を受け、学習に余裕もできてきた。 私は趣味で小説を書いているが、今後は点字を使い小説を書き、多くの小説を読み、さらに成長していきたい。
 注:「dear・・・」は、韓国人アーティスト「K]の曲。 

4.落語 「代書屋」「二人旅」
   たら福亭美豚 (加藤 健太郎) 

【後 記】
 済生会眼科の勉強会では、毎年7月に新潟盲学校の生徒さんによる弁論大会を行っています。とても好評で今回もたくさんの人が参加されました。 今年の3名の弁士は皆さん、将来への希望と夢を語ってくれました。大きな声で正々堂々と自分の考えを主張する姿には、毎回ながら元気をもらいました。

 

 

2012年5月9日

報告:第195回(12‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田 稔 
   演題: 「失明50年を支えた母の言葉」
   講師: 西田 稔 (横浜市)
    日時:平成24年5月9日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  http://andonoburo.net/on/6022
 

【講演要約】
 昭和32年5月、私は左眼の眼底出血を起こし、眼病との闘いが始まった。当初、原因は結核性といわれていたが、最終的に大学病院の診察でベーチェット病であることが判明した。この時、私は病名がはっきりしたので、病気も良くなるのではないかと思った。しかし、実際は原因もまだはっきりしておらず、対症療法に頼る以外に方法もないことがわかった。しかし、ステロイド剤を使用することによって、かなりの症状を抑えることが出来た。入退院を繰り返しながら、ステロイド剤で病状を整えることが主たる治療法だった。 

 昭和34年9月、かかりつけの眼科医との相談の結果、職場復帰をすることにした。仕事も順調にすることが出来たが、その年の11月に入って、気温も下がり、寒さが体調を崩す引き金となり、身体の節々やそれまで何ともなかった右眼まで発作を起こすようになってきた。それでも、ステロイド剤の投与により数日間で炎症も治まった。 

 昭和35年1月17日、両眼同時に眼痛を伴った激しい発作に見舞われた。もちろん、一人での外出は不可能で、仕事も休みを取り、母の介添えで通院した。その時の発作は、ステロイド剤もよく効かなかった。その年の4月、再び休職となり、職場の勧めで大学病院に入院した。大学病院でも検査、診察、治療を受けたが、一向に症状の改善はみられなかった。その年の7月には、左眼の続発緑内障を起こし、激しい眼痛に耐え切れず、医師の勧めもあり、左眼球摘出を受けた。 

 この頃から、「もしかすると、失明するかもしれない」と思うようになってきた。定例回診の時には、必ず、主治医に、「私の目は、よくなるのですか?それとも、だめなのですか?」と尋ねた。しかし、主治医の返事は、「やるだけやってみないとわかりません。」というのが決まり文句だった。その年の10月、私の質問に対して、主治医が同じ返事をした場合、診察室に座り込んで、動くまいと考えた。私の順番が来て、一通りの診察が終わったところで、私は、主治医にいつものように質問した。やはり、同じ答えが返ってきた。私は、予定通り座り込んだ。「先生、今日ははっきりしたお答えをいただかない限り、私はここから動きません。」と言った。主治医は、黙って立っているだけだった。看護師さんたちが私を宥める言葉をかけてきたが、私は、頑として動かなかった。どれくらい時間が経過しただろうか?私の後ろに別の患者さんたちが並んで診察を待っていることに気がついた。あの患者さんたちには責任はない。少し、悪いなぁと思って、私は口を開いた。「先生、私は、どんなことを言われましても驚きません。ダメな時は、盲学校に行って新しい人生を歩む覚悟は出来ております。」と一気に言った。すると、主治医は、「西田さんが、そこまで考えているなら、盲学校に行かれた方がよいと思います。」と言ったのである。この主治医の言葉は、事実上の失明宣告であると受け止めた。「はい、わかりました。」と言って、私は立ち上がり、自分のベッドに戻って横になった。私の頭の中は、真っ白だった。「何を言われましても、驚きません。」と大見栄を切ったにも関わらず、このザマである。何とも情けなかった。 

 考えることは否定的なことばかりだった。目が見えないと、本が読めない、テレビや映画を見ることも出来ない、一人でどこへでも歩いて行くことが難しい、などと思うばかりだった。こんな考え方を続けていくと、絶望的になり、生きていく意味がないのではないかと考えた。このような時、母が病院にやって来た。「その後、目はどうかね?」と言うのがいつもの母の言葉であった。私は、「どうもダメらしいよ。」と言って、主治医との話のやりとりを母に説明した。母は少しがっかりしたような感じを見せながら、「私は毎日、あんたの目が良くなるように、神様や仏様に祈っているのだけどね。」と言った。さらに、続けて、「私は、目は二つも要らない。あんたに一つあげても良いけどね。」と言った。「今の医学では眼球の移植は難しいよ。」と私が言うと、母はさらに、がっかりしたような雰囲気を見せた。このとき、私は、私の失明を私以上に、母の方が悲しんでいるのではないかと思った。 

 少し時間をおいて、母は話し出した。「失明は誰でも経験することが出来るものではないよ。これを、貴重な体験と受け止めてはどうかね?そして、それを生かした仕事をしてはどうかね?そして、それがたとえ小さくても、社会貢献に繋がれば、大きな生きがいになるのと違うかね?」と言った。そして、母は、「また、来るからね。」と言って帰って行った。私は、母の言った、「貴重な体験」という言葉の意味を寝ても起きても考え込んだ。私は、失明を残酷な体験としか思っていなかったので、貴重な体験という母の言葉にいささか驚いた。いろいろと考えているうちに、失明という失ったことを通して何かを得て、それが社会貢献に繋がれば、生きがいになるかも知れないと思うようになってきた。 

 日本の目の不自由な人たちはどんな教育を受けて、どんな職業を身につけて、自立しているのか調べるために最寄りの盲学校を訪ねてみた。まず、点字を覚えることの大切さと必要性を教えていただいた。職業については、あん摩、鍼、灸の三療で、生活の自立を図っている人が多いこともわかった。昭和36年4月、社会復帰を目指し、母に伴われて上京した。三療の資格習得後、恩師や先輩の支援を得て、盲学校の教師になることが出来た。 

 平成12年10月、NPO法人を立ち上げて、主として中近東やアジア地域の視覚障害者への補助具の支援を行う活動を行っているが、おそらく、天国の母も私たちの活動を見て喜んでくれていると思っている。 

 

【略 歴】
 1932年 福岡県生まれ。
 1956年   大分大学経済学部卒。
  同年 福岡県小倉市役所(現北九州市)事務官。
 1957年5月 ベーチェット病発症。その後入退院を繰り返す
 1961年4月 国立東京光明寮2部3年課程入寮。
 1962年3月 失明
 1963年4月 日本社会事業大学専修科入学(夜間部)。
 1964年3月 国立東京光明寮と日本社会事業大学同時卒。
 1964年4月 大分県立盲学校教諭。
 1972年4月 国立福岡視力障害センター教官。
 1980年7月 同センター主任教官。
 1984年4月 同センター教務課長。
 1992年3月 同センター定年退職。 
    同年 埼玉県に移り住む。
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハビリテーションセンター 
       理療教育部非常勤講師 
 2000年5月 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い 
       組織委員会副会長。
 2001年10月 NPO法人「眼炎症スタディーグループ」理事長。
  (2010年7月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」名称変更)
 2011年3月  NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」理事長退任
   現在、横浜市在住。

【後 記】
 いくつも心に残るフレーズ・事柄がありました。曰く、「安静を保つように言われ、半年も風呂に入らなかった」「患者さんの毎日の出来事を書いてもらって診断に利用した」「真剣に対応し、よく調べてくれた医師の言葉は重い」「失明宣告には、患者さんへの対応(どのようにすべきか)が伴うべき、患者の対応は、どんどんネガティブになってしまう」「点字は必要」

 障害を持った場合、本人の苦痛はよく語られますが、家族も同様にストレスを感じています。家族は世間の荒波から守ってくれる防波堤になってくれますが、裏返しの意味で、社会に出ていく時のハードルにもなってしまいます。庇うわけでもない、突き放すわけでもない西田さんのお母様の対応に感心しました。

 今後の夢として、NPOを通して海外へ同胞(ベ-チェット患者)の支援を続けたいという志に乾杯です。

 

 

2012年1月13日

報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
 講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
  日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
1 はじめに
 新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、開校から4年後の1911年(明治44)に最初の卒業生を世に送り出しました。この年に同窓会が創設され、平成23年をもって百年を迎えることができました。同窓生はじめ、御支援いただいた多くの皆様のおかげと感謝しております。
 新潟盲学校百年の歴史は、県内視覚障害児者の教育・医療・福祉・労働等の変容を、かなりの部分映し出す鏡でもあります。ここでは、当校の学校要覧をもとに、沿革にはじまり、在籍者数と教職員数、眼疾患、教育等について概観し、今後の視覚障害教育の在り方について考てみたいとおもいます。 

 2  沿革略史
  1903(明治37) 長谷川一詮らが、(1)新潟市東堀前通り8番町の私立蛍雪校の一部を借り「盲唖学校」を開設
  1907(明治40) (2)新潟市医学町通1番町に借館し「私立新潟盲唖学校」として、盲生19名、唖生8名をもって開校する。
  1910(明治43) 校舎を(3)新潟市西堀通3番町に新築移転する。
  1922(大正11) 新潟県立新潟盲学校となり、ろう唖部は昭和2年まで存置する。校地校舎基本金一切を新潟県に寄付、財団法人新潟盲唖学校を解散登記。
 1930(昭和 5) 校舎・寄宿舎が(4)新潟市関屋金鉢山町53に新築移転する。
 1937(昭和12) ヘレンケラー女史が来校される。
 1948(昭和23) 盲学校教育義務制が施行される。
 1953(昭和28) 新校舎8教室(2,505㎡)が増築竣工する。
 1957(昭和32) 創立50周年記念式を挙行する。
 1963(昭和38)  現所在地の(5)新潟市山ニツ1117(現地27,044㎡)に校舎(3,667㎡)寄宿舎(1,750㎡)が竣工し移転する。
  1977(昭和52)  創立者、前田恵隆殿と久保田清蔵殿の慰霊祭を創立70周年記念行事の一環として挙行する。
  1980(昭和55)  校舎第4棟(1,448㎡)が竣工する。
  2006(平成18)  新潟県立新潟盲学校高田分校が県立上越養護学校内に設置される。
  2007(平成19)  新潟県立新潟盲学校創立百周年記念式典を挙行する。
  2011(平成23)  新潟県立新潟盲学校同窓会創立百周年記念式典を挙行する。
  * (1)~(5)は校舎等所在地 

 3 在籍者数と教職員数
  「私立新潟盲唖学校」は、1907年(明治40)、盲生19名、唖生8名にて開校しました。開校後生徒数は徐々に増え、10年後の1916年(大正5)には68名となりました。唖生の教育を分離した1927年(昭和 2)には盲生132名を数えるほどになり、校舎が手狭となったため関屋金鉢山への新築移転となりました。その後、戦争の時代を迎え深刻な食糧難もあり、生徒数は横ばいでした。 

  戦後の教育改革により、盲学校は義務制となり就学奨励法による児童生徒への支援が始まると生徒数は飛躍的に伸び、1964年(昭和39)には189名を数えるほどになりました。 当校の在籍者はこれがピークであり、現在まで減少を続けています。医療・衛生の飛躍的な進展、出生数の減少がその背景にあるといわれ、当校に限らずほぼ全国的な傾向です。 

  教職員については、開校当初校長を含め僅か4人でした。4人で盲生と唖生を教育していたことになります。当時は、先生が盲聾教育について特別な指導を受けたり、資格があったわけではありませんでした。開校10年後には、生徒数増に伴い教職員は10人となりますが、唖部が分離し生徒数が132名にもなった1927年(昭和 2)になっても教職員は2人増えただけでした。大正時代に県立移管となった後も、学校経営は経済的に厳しく、職員を確保する財源がなかったことが原因としてあげられます。そこで、生徒同志で教え合ったり、高学年の生徒が年少児童の世話をしたりして、学校や寄宿舎で過ごしていたことが同窓会誌等に綴られています。 

  1948年(昭和23)の義務制以後、義務教育標準法により教職員が確保され、定数改善が継続され、在籍者1名当たりの教職員数は増えています。 

 4  眼疾患の推移
  眼疾患に関する記録では、1936年(昭和11)の新潟県立新潟盲学校一覧に掲載されている「失明原因調」が現存する資料で最も古いものです。栄養不良、その他、角膜炎、麻疹、先天性等が上位を占めています。残念なことに、1941年(昭16)から1951年(昭和26)までの記録が残されていません。戦中戦後の混乱期に紛失したのか、そもそも診察や調査が実施されなかったのかについては不明です。 

  戦後は、1952年(昭和27)の学校要覧から「眼疾」として記載されています。眼球癆、角膜疾患、牛眼、白内障、網膜色素変性症等が疾患の上位を占めています。 

  その後、1970年(昭和45)からは、筑波大学心身障害学系による「全国盲学校児童生徒の視覚障害原因等調査」が開始されました。調査は5年ごとに実施され、当校の学校要覧眼疾患の項目は、70年以後当該調査の形式に則っています。 

 5  盲学校教育百年に学ぶ
  (1)学校運営
  1872年(明治5)学制発布により「小学校、人民の一般必ス学ハスンハ・・・」とありますが、障害児(ここでは盲聾児)の就学については触れておらず、「廃人学校アルヘシ」とあるのみでした。盲聾学校義務制が施行されたのは、戦後の1948年(昭和23)であり、明治初期に学校教育が始まって75年を経過した時でした。 

 この間、先達たちは崇高な志を掲げ、盲聾者への教育の必要性や可能性を説き、心血を注ぎ学校開設や運営に尽力しました。この活動を財政面で協力した支援者として、髙橋助七氏(高助)や中野貫一氏(中野財団)の名が上げられます。少額ではありますが、資金援助をされた市民の方々もありました。盲学校教育が公教育として、公的負担がなされるまで、学校の経済的困窮は開校からの最も大きな課題でした。 

  (2)教育制度
  2011年(平成23)7月29日、障害者基本法の一部改正により、可能な限り障害児が障害のない児童生徒と共に学ぶという考え方、いわゆるインクルーシブ教育が法令上明記されました。「廃人学校アルヘシ」との一文から140年の時を経て、ようやく学ぶ場が共有されたことになります。二元論から一元論へ、ノーマライゼーションの進展です。今後は、ますますユニバーサルデザインの教育推進が求められると共に、盲学校においてはその専門性の確保が求められることになります。 

  (3)これからの盲学校に期待されること
  ○視覚障害は最も少ない障害であるからこそ、教育ニーズに的確に対応できる核となる場(盲学校)が必要ある。
  ○盲学校には、地方自治体で唯一の視覚障害教育の資源・支援センターであることの自覚や使命感が求められる。
  ○盲学校は「指先を目としながら学ぶ」子どもから大人に、高い専門性と特別に工夫された教材・教具を提供し、教授する指導者を育成する。

  ○盲学校は、医療・福祉・労働など、教育以外の分野との連携により、視覚障害児者の多様なニーズに対応しQOL向上に寄与する。 

【略歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長

 

【追記】
 新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、明治40年(1907年)の開校です。4年後の明治44年(1911)に最初の卒業生を世に送り出しこの年に同窓会が創設されました。平成23年(2011年)は開校104年、同窓会創立百年となるということです。同窓会創立100周年は、あまり聞くことはありません。しかし小西先生のお話を伺い、同窓会の存在の大きさを改めて感じました。 

 新潟盲学校設立は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた時代と重なります。「全ての人が共に学び、自立に繋がる力を育てる」という創立者長谷川一詮、鏡渕九六郎、荒川柳軒、前田恵隆の四氏の願い、、、盲学校100年を振り返る時、先人たちの献身的な活動に感動です。財産を蓄えることが大事という今日、盲学校のために財産を差し出すという志の深さに圧倒されます。日本人にはこういう気概があったのだと誇らしく、懐かしく思います。 

 同窓会が学校に大きな力となったということにも感慨が深いものがあります。予算が少ない、教員数も足りないという状況下、同窓生が生徒の面倒を見て、就職先まで世話していた、、、、ということです。何よりも100年前の学校要覧が残っていたこと、貴重なことです。決算が毎回大きなスペースを占めています。借金のために必要だったのでしょうか?ヘレンケラー女史が来校した時の写真も感激でした。 

 失明原因疾患もとても興味深いものでした。小児の失明原因を調べたことがありますが、こうした盲学校のデータは戦前からのデータも揃っており大変貴重なものです。興味深い話題満載の講演でした。小西先生、ありがとうございました。

2011年12月15日

報告:第190回(11‐12月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (山口 俊光
 演題:「新潟市障がい者ITサポートセンター4年間の活動報告」
 講師:山口 俊光 (新潟市障がい者ITサポートセンター)
  日時:平成23年12月14日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【抄 録】
 新潟市障がい者ITサポートセンター4年間の活動を紹介します.
 障がいのある人々の学習や生活に役立つ支援技術の導入・活用を支援する新潟市障がい者ITサポートセンターは2011年度で開設から4年目を迎えました. 

 開設初年度に行った調査で,新潟市内では支援技術が障がい者に「使われていない」のではなく「知られていない」という状況が明らかになりました.その後,大きな方針転換を迫られた我々は障がい者の多くが通過していく病院と学校に照準を定め積極的な「営業活動」を行いました.つまり,病院や学校に直接出向きリハビリテーションや特別支援教育の現場にいる人々に支援機器を紹介して歩くわけです. 

 この「営業活動」は功を奏し,初年度には月に十数件電話がある程度だった当センターは,常時20件ほどの支援課題を抱え,電話やメールなどによる問い合せは月50件を越えています.2011年6月には開設以来初めて訪問サポートの依頼が月20件を越えました. 

 我々が行っている活動には,重度の肢体不自由の方が使う意志伝達装置の導入支援,視覚障害者のためのPC教室,リハビリテーションにおける作業療法士等への支援,特別支援教育現場における個別の指導計画の立案と機器選定の支援,病院・特別支援学校における研修の講師などがあります.支援技術だけを取り扱っているのではなく,周辺環境の整備にも関わって活動しているのが特徴です.支援対象は就学前のお子さんから70代の高齢者までと幅広く,障害種別も視覚障害,肢体不自由,知的障害と多様です. 

 大学教授と兼任のセンター長,非常勤事務員,そして常勤の私.3名で運営されている小さなITサポートセンターとしてはまずまずのサポート実績ではないか,と思えるほどに成長したわけです.ITサポートセンターは2010年度末で第一期を終え,2011年度から第二期に入りました.増え続ける支援依頼を効率よく処理するための仕組みづくりが第二期の大きな課題です.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
*新潟市障がい者ITサポートセンター
 http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/
 新潟市障がい者ITサポートセンターは,新潟市から業務委託を受け新潟大学内に設置された組織です.市内在住の障がい者の方や病院,特別支援教育からの求めに応じて,支援機器の利用・活用を円滑に行うための支援活動を行っています.新潟大学工学部福祉人間工学科教授をセンター長に,支援員と事務員からなる組織です.また外部から当センターのあり方について評価する評価委員会と内部でセンター運営を支援する運営委員会を設置しています. 

 

【後 記】
 参加した人は皆、大満足でした。「障がい者ITサポートセンター」、福祉関係の方がやっているのは多いと思いますが、工学部の方、すなわち物作りの方が行うことに特色があると思いました。
 工学部と、福祉人間工学部の違いを感じる場面もありました~スイッチひとつを変えようとする提案も、患者さんは病気のステージが上がったのではないかと心配してしまうという、ためらうことがあるとのことでした。
 ニーズを知ることは難しいことです。インタビューだけでは知ることはできません。しかし、ひとつできると、次から次へとニーズもより深くなり、変容してきます。
 技術的な正解が、利用者の求めているものとは限らないことを知ることも必要です。そして何より支援は、組織的対応が大事であrことを学びました。
 この活動は、多くの人が知るべきものと思いました。 

2011年11月11日

演題: 「視覚障害五年生、只今奮闘中 学んだ事、得た事、今思う事」
講師: 田中 正四 (新潟県胎内市)
  日時:2011年11月9日 (水) 16:30 ~ 18:00  
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 2003年 6月 腎不全により透析開始
 2004年 4月 右眼緑内障により失明
 2005年11月 休職
 2007年 7月 退職
 2007年 8月 左眼視力障害にて障害一級

 私のほぼ六十年の人生において2003年6月からの環境は、長い会社員生活からはまったく想像すらできなかった病との闘いの日々となった。

 「会社は人を育て、人作りにより発展する」この会社の基本理念に全力投球した37年間の会社員生活から、私の環境は一転した。休職を開始した私には、それまで築き上げてきた人のつながりや、多くの技術、誇りさえ無くしてしまう事となった。休職の段階からは、リハビリ外来を受診して、アドバイスを受けていたが、自身の将来に向けたスタートを切ることができず、人のつながりを失った絶望感と視力障害を受け止められない自分がそこに存在していた。

 一方、家族の前では、障害を覚悟したかの様に振る舞い、勤めて明るく前向きな自分を演じていた。しかし、家族の薦めや協力により、多くの病院に診察を受け、視力回復への望みは無くさずにいた。そんな家族の献身的な協力を感じた時、私には、ここに一番大切な人のつながりが残っていたことに気がついた。

 大切な家族のために何が出きるのだろうかと真剣に考え、私が取った行動は、家のリフォームと妻の将来生活の確保であった。結婚し、子供を育て、住まいを築いてきた今までの人生。今私に残された宿題のように思っていた。

 リフォームと生活設計をなしとげたが、心は晴れず目標を見つけられない自分にやり場のないむなしささえ覚えた。そんな時、リハビリ外来で女神様と出会うことができた。その女神様は、とても明るく暖かい雰囲気をかもし出していた。女神様の魅力に心ひかれた私は、「どうしてそんなに明るくしていられるのですか」と訪ねた。女神様は「あんた、悲しいんでしょう、辛いのでしょう、悔しいのでしょう。泣きなさい、泣いていいのよ。」と素直に自分を表す事の大切さを教えてくれ、私を抱きしめてくれた。その女神様の言葉に我慢し耐えてきた自分の封印が解かれ人目もはばからず号泣してしまった。

 さらに、身内にも女神様が存在していた。孫娘である。3歳の孫は、結婚式でベールガール役を務めたあとのインタビューで、「大きくなったら、ジジの目目治すの。」と答えてくれた。こんなに近くにいた女神様に、大きな夢をあたえていただいた。素直になること、夢を持ち続けることの大切さを教わった。もっとも女神様には、こわい女神様もいるのでした。そのこわい女神様は、家の中の私に最も近い所にいて、いつも私を叱咤激励してくれた。

 私には、多くの仲間がいる。毎週通っているパソコン教室の仲間達である。それぞれの人生を歩み、同じ障害者仲間と接している仲で、私に無い生き方や考え方を学び聞くことができた。そんな仲間の勧めもあり、盲導犬の魅力にひかれた私は、盲導犬の貸与に向け舵を切った。体験会に参加し、さらに盲導犬のすばらしさに感激した私にその夢は現実のものとなった。昨年の夏。待望の盲導犬が貸与されたのである。グティ号である。風を切り歩く快適さを数年ぶりに取り戻し、日々相棒と胸を張って歩行している。

 現在私は、多くの仲間達と盲導犬グティ、それに、多くのボランティアの皆さんの理解に囲まれて前向きな日常を送っている。今、こうしてすばらしい人生の門を開けることが出来た私であるが、今後の夢がある。それは、障害の理解と盲導犬の普及と啓蒙活動に取り組み、より多くの視覚障害者の掘り起こしである。さいわい、地域の小学校等への訪問機会に恵まれ、その夢は実現しつつある。今回の私の経験や、挫折と立ち直りのエピソードを参考に、一人でもおおくの障害を持った仲間がつどえることを願ってやむない。

 ここで、今後の行政に望むことを書き添えたい。それは、障害が現実となった人に、県内や、地域の教育、訓練、仲間達と過ごせる場所の情報の提供である。情報弱者の私達である。より多くの人たちが明るく前向きな生活を送ってもらえるように、なっていただきたいと切に願っています。

 最後に孫娘の成長を紹介したい。一昨年5歳になった彼女は、お医者様からプリキュアに夢を変更したが、今年一年生の彼女は、「やっぱりお医者さんになるよ。でも少なくても20年かかるんだって。だから、じいちゃんそれまで生きていなくちゃいけないよ」ですって。頑張らなくてはいけない五年生の私です。

【略 歴】
 1953年 新潟県長岡市生まれ(旧越路町)
 1968年 日立製作所入所
 1974年 移転により胎内市に転居
 2003年 腎不全により透析開始
 2007年 視覚障害1級  退職
 2010年 盲導犬貸与される

 

【追 記】
 勉強会当日、会場には5頭の盲導犬も含め、参加者が溢れていました。田中さんは、張りのある声で低音ながらはっきりとした口調で話し始めました。

 「絆」が東日本大震災復興のテーマですが、田中さんのお話にも、「絆」は満載でした。「会社は人を育て、人により発展する」という会社のモットーで、多くの仲間を得て、頑張ることが出
来た勤務時代前半。人事担当になり、それが一変してしまいました。「同志」「仲間」に退社を勧める仕事になり、かなりのストレスだった勤務時代後半。眼の病と闘うなかで、家族の協力。リハビリ外来での女神との出会い等々。
 女神様:「思いっきり泣いてごらん」、 孫娘:「将来はジジの目を治して上げる」、 お孫さん:「おじいちゃん、目が見えないのなら心の目で見ればいいよ」、、、、 涙あり笑いありの、あっという間の50分でした。

 田中さんとは不思議な縁です。医者と患者は「病気を治してなんぼの関係」ですが、結局私は田中さんの目の病気を治すことが出来なかった眼科医です。2007年に他院からの紹介で私の前に現れた田中さんは、右眼は緑内障にて失明、左眼は胞状網膜剥離。各地の医者を転々としており、医者不信の固まり状態でした。左眼の続発性網膜剥離(uveal effusion)の手術目的で入院したものの、入院時には網膜は復位(網膜萎縮・視神経萎縮)しており手術適応はありませんでした。結局、手術せずに退院となりました。手術に一縷の望みを掛けていた田中さんには申し訳ない結果でした。

 そんな田中さんにお話して頂ける事、感謝しています。田中さんは現在、いろいろな小学校での総合学習で講演する機会が多いとのことですが、私たちのところにもまた来て頂き、多くのことを教えて欲しいと思います。田中さんのますますの活躍、祈念しています。

2011年10月28日

 演題:「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
 講師:遁所 直樹(とんどころ なおき)
     社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長)
   日時:平成23年10月12日 (水) 16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要旨】
1)初めに
 昭和62年6月25日に五十嵐浜に飛び込んで首の骨を折り、重度の障がい者となりました。社会復帰をしたいと思っても、どうやったら社会人になれるのか、病院に2年半、施設に3年半おりました。社会的な入院と施設入所待ちのための6年にしてはならないと思い悩んでいました。 

 平成5年9月にダスキン障がい者リーダー海外派遣事業13期生としてアメリカの障がい者の生活を研修することができました。そこでは資格を取得して自立生活センターという障がい者が障がい者のための介護サービスや権利擁護活動を行っていました。特に私よりも重度の障がいをもって生き生きと勉強している姿を見て、日本では否定されていたこと(それはすごい理不尽なことと思っていましたが)アメリカでそうではなく合理的な配慮を求めて主張してよいことを確認したのです。日本では入学を認めてもらえなかった男性の障がい者(日本人)がカリフォルニアの大学で勉強していることからも納得しました。 

 ちなみに当時は私のような障がいがいちばん不幸であると思っていましたが、今は不本意な理由でレッテルを貼られ差別を受けている障がいの方がいらっしゃることを強く感じます。(平成23年11月13日新潟大学南キャンパスときめいとにおいて黒岩弁護士さんと障害者差別禁止法についてディスカッションします) 

2)資格取得
 目標は定まったのですが、現実的にどのように動いて良いか解らず、新潟に帰ってきてから、しばらく自宅での生活が続きましたが、行政書士・社会福祉士の資格を取得し、介護老人保健施設に就職しました。今までお客様であるという立場から社会人として厳しい現実を経験した2年半でした。結局体をこわして辞めることになりましたが、人間関係の難しさ、社会人として責任を学びました。 

3)自立生活支援センター新潟発足
 平成7年10月に篠田さんという脳性麻痺の障がいを持った方が中心として自立生活支援センター新潟を新潟市西区で立ち上げたのです。いつかは何らかの形で関わりたいと思いながら、接点がなく、高齢者福祉の援助者として活動をしておりました。彼らは月1回の入浴介助の生活保障しかなかったときから権利を主張し制度拡大のため活動されてこられました。私自身としては新潟県医療費助成が訪問看護で利用できるように要望書を提出し実現したこと、行政書士のワープロ受験を認めてもらったことなど啓発され実行してきました。 

4)NPO法人自立生活センター新潟
 平成12年市町村障がい者相談事業を自立生活支援センター新潟が新潟市から委託され、その相談員として自立生活支援センター新潟に就職したのです。そこから、平成15年支援費制度、平成18年障害者自立支援法と障がい者の制度がめまぐるしく動き始め、措置から契約に障がい者サービスも変わる時期に、NPO法人の申請を手探りでしたことを思い出します。介助サービスを受ける立場から介助サービスを提供する事業所となり、素人集団が経営に着手しても、なかなか軌道に乗ることができません。 

 さらに三条市水害、中越震災、中越沖地震など新潟で大きな災害が起こり、全国の障害者団体から問い合わせ先、および被災地支援の窓口としてその責任を果たすべくできることを少しずつ行いました。そのさなか、前事務局長が心不全で倒れ、運営は滞ることが多くなり、同時に職員も疲弊してこの時期は組織の立て直しに力を入れ途方に暮れたこともありました。 

5)そして社会福祉法人へ
 試行錯誤しながら10年たった平成22年、土地と建物をNPO法人所有にしたことを機会に、社会福祉法人の申請を行ったのです。NPO法人は創始者が抜けたらその理念を継続することは難しいといわれております。社会福祉法人にすることで、高齢者になっても、障がいをもっても最後まで地域で暮らすこと、さらには一般市民の視線に立った当たり前の暮らしができるように支援するという方針を継続していきたいと願い、社会福祉法人設立に至りました。 

 法人は障がい者が主体となって活動することを特徴としています。自立生活プログラムとピアカウンセリングを継続的に行うため、この10月1日地域活動支援センターぴあポートを開設しました。トイレットペーパーの販売、自立生活プログラムとして毎日の食事作りから始めています。 

 この10月から同行援護、グループホーム、ケアホームの住宅補助が開始されております、さらに来年からは障害者相談支援事業として指定特定相談事業(ケアプラン作成)および指定一般相談事業が開始されます。この大きな社会保障の制度の変遷に対応することができる懐の大きな法人として成長できるように努めていきたいと思います。
 

【追記】
 遁所さんが勉強会でお話するのは、今回が3回目です。そして登場する度に、進化した姿を披露してくれます。 

 第91回 2003年12月10日
 「期待せずあきらめず」遁所 直樹 
  新潟市障害者生活支援センター分室 
 頚椎損傷による四肢麻痺という障がいから、精神的にも立ち直り資格を得て、相談員として自立生活支援センター新潟に就職したころでした。「期待せず、諦めず」、記憶に残る言葉でした。家族をはじめ、多くの支援する人に巡り合うことができました。      
 
http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/chapter6-4.html 

 第121回 2006年4月12日
 「なぜ生まれる無年金障害者」遁所 直樹 
   NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
   兼 新潟学生無年金障害者の会 代表 
 当時の所属はNPO法人となっていました。全国の無年金障害者と手を取り合い、新潟での学生無年金障害の訴訟を起こしている最中でした。この訴訟を通してさまざまな弁護士さんと知り合いになれたといいます。「負けて勝つ」 国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負けるが、その後に制度は変わることがあるという話、新鮮でした。
 http://www.tcct.zaq.ne.jp/munenkin/niigata-kousaikiji.html 

 そして今回、第188回 2011年10月12日 
 「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
   遁所 直樹 
   社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長
 障がい者が主体となって活動することを旨とし、障がいを持っても最後まで地域で暮らし、当たり前の暮らしができるように支援する社会福祉法人を設立したということです。

 社会福祉法人自立生活福祉会ホームページ
 http://blog.canpan.info/jiritsu/

 学生時代の頚椎損傷による四肢麻痺という重い障がいは、遁所さんに大変な苦痛と努力を強いたのみでなく、社会的弱者のために頑張るという大きな目標を与えてくれたのだと思います、いや信じます。そんな彼をリスペクトし応援したいと思います。遁所さん、ますますの活躍を祈念しています。