2014年10月2日

「地域連携って何?-済生会新潟第二病院の連携室を通じて-」
  斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
   期日:平成26年9月10日(水)16:30~18:00
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 



【講演要約】
はじめに
 当院は、新潟市西部にある425床の地域医療支援病院です。当院がある新潟市内は、高度急性期や専門性の高い医療を担う医療機関が集中している地区です。その中にあり、当院の医療連携に対する姿勢は、保健医療福祉をトータルに合わせ持つ済生会病院の使命として、自院のみならず地域の連携体制構築に力を注いできました。その取り組みは、医師会との登録医制度を基盤として、病院機能を開放するオープンシステム稼働、開放型病院の認可、そして新潟県内初となる地域医療支援病院の承認など、医療連携の重要性が認識されるかなり早い段階から「連携」を強みとしてきた歴史があります(注1)。

診療報酬改定とこれからの地域連携とは
 4月の診療報酬改定(注2)での重点課題は、まさに一点「医療機関の機能分化・強化と連携、在宅医療の充実」、連携が主役であるという色が大きく出されたものとなりました。いわゆる地域包括ケア概念のもと、入院、外来共に医療機関の役割分担の推進が今まで以上に大きく謳われました。今回の改定は、2年に一度の通常の改定の意味合いだけではなく、今秋と謂われる病床機能報告制度へつながる重要な位置づけとなる改定であることを認識すべきだと思います。これも全ては超高齢社会を迎える2025年に向けたロードマップの一連の施策です(注3)。先の「社会保障・税一体改革」で示された2025年の姿までもう間近、連携実務担当者はどう業務を行っていくべきなのか真摯に受け止めたいところです。連携室が設置されてから約10年、その業務は複雑、多岐に及び大きな変化と変遷を辿ってきました。

 連携室自体この10年を振り返ると、事務職員が中心となり予約システムを構築し、地域から紹介患者を獲得することに力を注いできたフェーズから、MSWや看護師が職種間の連携により入退院調整を深化させてきたフェーズへ移行、そして現在の地域包括ケアの時代に入りました。これからは、もう一段階ステップアップし、院内外での地域連携の役割の重要性を経営層に的確に伝えていくことが病院運営に必要な時代に突入しました。地域連携、地域包括ケアシステムの推進が謳われている状況においては、地域における自院の立ち位置の理解と、実際に地域のかかりつけ医や病院との医療連携をいかに上手く展開できるかが経営に直結することとなります。

地域の連携が強まるように
 他の医療機関から、いかにスムーズに紹介患者を受け、またその後に地域に帰すか、そこには地域からの強い信頼関係を基盤とした連携の仕組みがあればこそであり、院内だけの取り組みだけでは不十分です。自院だけでなく「地域力」をいかに高めることができるか、地域の全体最適を考える必要があります。地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます(注4)。

 数年前から新潟市では、市内8区に在宅における多職種間の地域連携ネットワークを構築することに力を入れてきました。当院も新潟市と連携しながら、市内に「多職種連携の会」を立ち上げています。そこでは、かかりつけ医間の連携強化、顔を合わせお互いを知る場と学ぶ場作り、情報共有と相談の場(メーリングリスト)の提供などを行っています。また、当院は2014年度から新潟県在宅医療連携モデル事業の一つとして承認を受け、当院のある西区を中心に在宅医療での連携ツールとしてIT活用や、当院がこれまで培ってきた連携を推進・強化するための企画や運営を展開していく予定です。当院は、かねてから新潟市保健所や新潟市医師会と日常の業務において連携を密に活動してきました(注5)。 

 地域医療支援病院として、地域の連携システム構築は使命です。国の示す地域包括ケアシステムには、市町村が積極的に関係機関との調整を行い整備していくべきと謳われています。連携実務担当者として、今こそ現場の連携の声・実態を行政・医師会に伝え、共に問題解決に向かい地域力を高める活動につなげていくことが重要です。 

まとめ
 先にも述べてきたように、今回の診療報酬の改定は、高度急性期・急性期・亜急性期をより明確に区分していく意思表示がはっきり見えており、自院のこれから先を見据えた重要なタイミングとなっています。その地域の患者動態、急性期病床数と亜急性期病床数などの的確なデータ把握と分析が連携室から出され、それらを基に院内で活発に議論がなされ、これからの病院の方向性を定める。そうしたストーリーが、病院一丸となった自院の総合力の強化につながります。我々は、そうした場作りをするためにも、常日頃から連携実務担当者としての「ブレない」姿勢を持ち業務に望み、自院のみならず地域の実態を含めた情報提供と問題提起をすること、また院内にその議論の土壌を作ることが使命となります。
 

(注1)済生会の歴史
 明治44年2月11日、明治天皇は時の内閣総理大臣桂太郎を召されて「医療を受けることができないで困っている人たちに施薬救療の途を講ずるように」というご趣旨の『済生勅語』に添えてその基金として御手元金150万円を下賜されました。これをもとに伏見宮貞愛親王を総裁とし、桂総理が会長となって同年5月30日、恩賜財団済生会を創立。それ以来、社会経済情勢の変化に伴い紆余曲折を経ながらも創立の精神を引き継ぎ、保健・医療・福祉の増進・向上に必要な諸事業を行ってきました。
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/gaiyou.html#05


(注2)平成26年度診療報酬改定の概要 – 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12400000-Hokenkyoku/0000039891.pdf#search=’%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%A0%B1%E9%85%AC%E6%94%B9%E5%AE%9A+2014


(注3)2025年の超高齢社会
 平成27(2015)年には「ベビーブーム世代」が前期高齢者(65~74歳)に到達し、その10年後(平成37(2025)年)には高齢者人口は(約3,500万人)に達すると推計される
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/09/dl/s0927-8e.pdf#search=’2025%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C


(注4)済生会新潟第二病院の取り組んでいる地域医療連携
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/chiikirenkei.html


(注5)新潟県在宅医療連携モデル事業
http://smc-kanwa.jp/images/download/model_gaiyo.pdf#search=’%E5%A4%9A%E8%81%B7%E7%A8%AE%E9%80%A3%E6%90%BA%E3%81%AE%E4%BC%9A++%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82

 

【略 歴】 斎川 克之(さいかわ かつゆき)
  社会福祉法人恩賜財団済生会 済生会新潟第二病院
  地域医療連携室長 兼 医事課長
  職種:ソーシャルワーカー、社会福祉士
 昭和46年/新潟県新潟市に生まれる
 平成 7年/東北福祉大学・社会福祉学部・社会福祉学科卒業
 平成 7年/新潟県厚生連・在宅介護支援センター栃尾郷病院SWとして就職
 平成 9年/済生会新潟第二病院に医療社会事業課MSWとして就職
 平成22年/地域医療連携室 室長
 平成25年/地域医療連携室長 兼 医事課長
 新潟医療連携実務者ネットワーク代表世話人
 新潟市医療計画新潟市地域医療推進会議在宅医療部会委員 
 新潟市在宅医療連携拠点整備運営委員会委員 

【後記】
 
斎川さんとは何度もお会いしていますが、恥ずかしながら今回のようなお話をお聞きしたのは初めてでした。高齢化社会の実情と今後の経緯、国の政策、それに準じた地域・病院での対策と連係の構築、、、素晴らしい講演でした。現場の医療者は眼の前のことで手が、そして頭がいっぱいになってしまいますが、こうして全体像を把握し、やるべきこと、進むべきことを示して頂きスッキリしました。
 「地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます」、、、そうだったんですね。院内での多職種との連携の必要性も感じました。
 斎川さんはじめ、地域医療連携室の皆様の仕事を理解する機会を持てたことを嬉しく思います。斎川さん・連係室の皆様、今後とも宜しくお願い致します。
 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
(兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です 

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長) 

平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み ~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら~」
 青木 学(新潟市市会議員) 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

2014年9月20日

報告:第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 
演題:「視覚障害によって希望を失わないために」
 講師:竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  日時:平成26年8月6日(水)16:30 ~ 18:00  
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 主催:済生会新潟第二病院 眼科  

【講演要旨】
はじめに
 失明や視力低下が日常生活や社会参加にとって大きな困難をもたらすことは明白である。そして、苦しくて悲しいことである。しかし、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である。少なくとも、失明しても不幸にならなかった人はたくさんいる。その分かれ道はどこにあるのだろうか。 

1.小学校~中学校
 63年前、石川県輪島市に生まれる。生来強度近視で矯正視力0.2くらいだった。
 小学校の頃は、複式授業。1~2年生の頃の担任の先生は視力の悪い私を可愛がってくれた。そのおかげで、将来共に頑張れたのだと今も感謝している。小学校でも中学校でも、眼が見えないために、いじめに遭った。
 輪島は、相撲が盛んなところで、中学3年のころ163cm80kgだったので相撲部に勧誘された。中学3年の頃(昭和40年ごろ)、相撲が影響してか、両眼外傷性網膜剥離になり、父が山ひとつ売って金沢大学・順天堂大学・京都大学等々で診察してもらったが、手遅れと言われた。
 最後に京都府立医大で診てもらった時、どこまで治るかわからないが、やるだけやってみようと手術を勧められ、網膜復位術を2度受けた。何とかサインペンで書いたものは見える程度の視力を得ることが出来た。いずれは全盲となったがこれは大きかった。今でもその時の主治医の先生と教授には感謝している。 

2.盲学校時代
 盲学校に入学、針・灸・按摩に励んだ。
 いろいろな経験をさせてもらった。それまでは漫画しか読まなかったが、次第に本を読むようになった。「車輪の下」「夜間飛行」、、、
 人前で話すことが苦手だったが弁論大会に出るように言われた。そうした中で、普通高校の生徒と交わりを持つことが出来た。彼らがいろいろな夢を語るのが眩しかった。初めての弁論大会は失敗だったが、いい刺激をもらった。負けるとナニクソとやる気が出て、何度も挑戦した。色々なテーマで挑んでいるうちに、自分の夢を語れるようになった。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語った。その他、①ボランティア、②一流の大学に進学するだけが人生ではない、針灸按摩も大事な仕事だ、③受験勉強は要らないというのは間違っていた。自分の目標に向かい努力することは素晴らしい、、、などのテーマで弁論した。 

3.大学時代から司法試験合格まで
 TVで宇津井健主演の弁護士物語があり、単純に弁護士を格好良く思っていた。2浪して龍谷大学法学部に入学した。入学して、抱負を語る機会があり、全盲ではあるが弁護士になりたいと語った。当時の龍谷大学は法学部が出来て3年目であり、まだ司法試験に合格した者はいなかった。周囲の人は、何を言っているんだと取り合ってくれなかった。今思えば、このころから目標を言葉に出して自分をしばる(有言実行)タイプであった。
 そこでまた負けず嫌いの反骨芯が芽生えた。大学で自分の人生にレッテルを張ることはない。当時は、司法試験は点字での受験は認めてもらえなかった。法務省に問い合わせると、盲人の受験は不可能ですとの回答。そこで上京して法務省で訴えた。何度も訴えているうちに、朝日新聞の記者が一人で訴えてもダメ、仲間を集いなさいとアドバイスをくれた。そこで京都を中心に20名位の「「竹下義樹を弁護士にする会」を形成した。すると朝日新聞で取り上げてくれて、国会も動き出した。
 昭和48年点字での受験が可能となった。大学3年で受験した。問題は試験官が読み上げる、地方での受験は認められず上京する、時間延長なし等々のハンデがあった。点字六法は全51巻、12万円もした。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれた。そのうちに、地方での受験も認められ、時間も延長するように制度が改革された。
 学生結婚。二人の子供を授かった。収入もなく、マッサージをやりながら生活した。1981年、9回目の受験で合格した(30歳)。当時は年間の合格者数が300~400名の時代で、今よりは大分厳しかった。その時には、点字図書は200冊、録音テープは1000本になっていた。
 一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっていることと痛感した。司法試験の準備は目いっぱいやった。多くのボランティアの方々に協力して頂いたことを今も忘れない。 

4.弁護士になって31年
 弁護士は情報が勝負。事実はひとつだが、真実はいくらでもある。法廷にどのような証拠を提出できるかで判決は決定する。司法試験合格後の進路は、裁判官と弁護士があるが、弱者と共に闘う弁護士を選んだ。先輩の一言が後押ししてくれた。「どれだけ見通せるかが大事だ」。
 弁護士としての看板を持とうと思った。障害者問題、医療過誤、過労死、貧困、、、。
 見えないことは、情報を得ることは苦手だが、他人の協力で補うことが出来る、見えないからこそ頑張れる自分がいることに気付いた。様々な情報に対して常にアンテナを張っておくことが大事だと学んだ。 

5.日本盲人会連合 (日盲連)会長
 2012年日盲連の第7代会長に就任した。これまでの会長はボスであり、視覚障害者が困らないような世の中を作ることが主な活動であった。
 今後は理念を掲げることにした。同行援護の推進、視覚リハビリの推進等々。日盲連にもさまざまな人間がいる。組織改革が今後の課題である。 

おわりに
 私は14歳で失明した。失明によって失ったものはたくさんある。遊び、趣味、そして文字。でも、私は不幸にならなかった。友達は失うどころか新たに貴重な友人が増えたし、失明によって気づいたこともたくさんある。とりわけそれまで見えていなかったもの、気づいていなかったものが見えるようになった。そして、夢を見つけた。しかもでかい夢を。それは将来の職業だったのである。私は、貧困問題と取り組む弁護士として、そして視覚障害者が生きがいを持ち豊かな人生を送ることができる社会を築くため日盲連の会長として活動し、充実した毎日を過ごしている。
 私が不幸にならなかったのは、友人や指導者に恵まれ、夢を見つけ、それに向かって邁進することができたからである。失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている。視覚障害者であっても、リハビリや補助機器などの支援によってできることがたくさんあるという情報を伝えることが視覚障害者に関わった者の責任なのである。視覚障害を不幸にしないためには、視覚障害者に関わる全ての者がそうしたことに気づいて視覚障害者に接するならば、視覚障害者は不幸になることはないのである。
 

【略歴】
 1951年 石川県輪島市生まれ
   65年 (中学3 年)外傷性網膜剥離で失明
   69年 石川県立盲学校理療科本科卒業(指圧士修得過程)
   71年 京都府立盲学校高等部普通科専攻科卒業
   75年 龍谷大学法学部卒業
   81年 司法試験合格
   84年4 月京都弁護士会に所属
  2012年~現在 社会福祉法人日本盲人会連合会長
 

【質疑応答から】
 行政に訴えるには如何したらいいのですか?
  
~本当に困っている現実を突きつけること。理念・方向を示すこと
 病院内での介護について
  ~医療保険と介護保険の狭間の問題。
   最近は、ALSの院内での介護等、少しずつ認められるようになってきた
 視覚に障害があると質の情報を得ることは困難ではないですか?
  ~雑学も役に立つ、得られた情報を自分で吟味する。
 


【追記】
 素晴らしい講演でした。感動しました。全盲となってから弁護士をめざし、視覚障害者が試験を受ける環境作りから自らの手で始め、司法試験に合格してからは弱者のために活動を続ける素晴らしい人生を、思う存分に語って頂きました。
 どんな講演にもキーとなるセリフがひとつかふたつはあります。今回は、それが次から次と出てきました。曰く、「失明や視力低下は苦しくて悲しいことであるが、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である」「夢を語ることのできる素晴らしさ」「目標を言葉に出して自分をしばる」「負けず嫌いの反骨芯」「大学で自分の人生にレッテルを張ることはない」「一人が皆を、皆が一人を」「一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっている」「どれだけ先が見通せるかが大事」「事実はひとつだが、真実はいくらでもある」「様々な情報に対して常にアンテナを張っておく」「見えないからこそ頑張れる自分がいる」「理念を掲げる」「見えなくなって、見えてきたものがある」「失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている」、、、、、。 さあ、これからやるぞ!の気概に溢れた講演に敬服しました。
 弱者のために奮闘する弁護士、竹下義樹先生のますますの活躍を祈念致します。

 

【追加1:司法試験と地方公務員の点字受験について】
 1961年の文月会発足後、5年目の大会で決議し、行動しています。48年に先輩の故・勝川武氏が法務省に点字受験を申し入れていましたが、当時は葬り去られるのが当たり前でした。竹下さんらの強い要求もあって25年後に日の目を見ました。
 73~75年は1人ずつ、76年2人、77年と78年4人ずつ、79年5人が点字受験しています。また、地方公務員は東京都一般福祉職で74年に現・全視協会長の田中章治さんと大窪謙一さんが合格して運動は勢いづき広がりました。その後の働きかけで、都は福祉職Cという点字枠を設け、毎年1人は採るとなっていましたが、2000年にチャレンジから受けた1人がパスした以後は採用無しです。都は2007年に2人が受験した以外、応募は0に等しいと言っています。法務省も都も受験者数などは「記録」を探しかねますの一点張りです。
http://www.siencenter.or.jp/sikaku/kouki289.html 

【追加2:日本盲人会連合 (日盲連)】
1948年(昭和23年)に設立された社会福祉団体
http://nichimou.org/ 

【参考:全盲の弁護士 竹下義樹】
 著者:小林照幸、出版社:岩波書店
 http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/12/post_935.html

 

 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
 http://andonoburo.net/on/2682
 主催:済生会新潟第二病院眼科 
  要:事前登録制です
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
1)特別講演 (各講演40分)
 1.座長  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
   日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前
    田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
    http://andonoburo.net/on/2714
 2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
    -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
    高橋 広(北九州市立総合療育センター)
    http://andonoburo.net/on/2780
 3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
   本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
    加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2799
16:20~16:40
  コーヒーブレイク
16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
 シンポジスト (各講演20分)
 1.吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
  「ロービジョン当事者として相談支援専門家として我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
  http://andonoburo.net/on/2875
 2.八子恵子 (北福島医療センター)
  「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
  http://andonoburo.net/on/2889
 3.山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
  「私たちの視覚障害リハビリテーション」
  http://andonoburo.net/on/2917
 コメンテーター
   田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
   高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
   加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)
18:20~18:40 adjourn アジャーン
  (参加者全員で)会場整理  参加者同志の意見交換
18:40 閉会の挨拶 仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    解散   
 

平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
(兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です
 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です
 

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長)
 

平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)
 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
「視覚障害者の求めた豊かな自己実現”―その基盤となった教育

講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

 

 

 

2014年7月24日

報告:第221回(14‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
   日時:平成26年6月11日(水)16:30 ~ 17:30
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 (1)「歌」高等部 普通科 3年
 (2)「
中学部に入学して」部 1年

 新潟盲学校の生徒の弁論大会を当院で行うようになって10数年経ちます。毎年、生徒の弁論に感動を頂いています。今回も視覚に障がいを持つ中学生と高校生が、精一杯に弁論を行いました。 

 

歌』 新潟盲学校 高等部普通科3年 
=====================
【講演要旨】
 私は歌が大好きです。聴くことも好きですが、歌うことはもっと好きです。

 私は、生まれた時から歌が好きだという訳ではありませんでした。それどころか、小さい頃は、歌に関心がありませんでした。

 幼稚園の卒園式では、歌い終わった後にしゃべったりふざけたりしていたため、何度も何度も歌の練習をさせられました。そのため、同じことを繰り返すのに飽きてしまいました。嫌いというより嫌になっていました。 

 ある時先生が、「あなたは歌が上手いんだから、ふざけないで練習しましょう。」と、私に言いました。その時初めて気づきました。私は歌が上手いらしいと。卒園式当日は、真剣に歌い、沢山の人からほめていただきました。その時、歌が好きになったような気がします。私は、努力すること、頑張ることが嫌いです。しかし歌は、練習をしなくてもほめてもらうことができました。 

 中学生の時、友達とカラオケに行きました。当時の私は、自分は天才だ、自分より歌が上手い人はいない、と思っていました。ですから、友人の歌声を聴いた時、とても驚きました。透き通った声は安定していて、力強く心に響く、そんな歌声でした。私には、友人の歌は完璧に聴こえました。しかし友人は、「全然上手くないよ。音外してるし、高い声でないし。」と言いました。私よりも上手いと思った友人のその歌を、友人は自ら下手だと言ったのです。友人が下手なのであれば、私はド下手ということになってしまいます。その時、私は何の才能も持っていないのだと、自覚しました。けれども、私は何の取り柄もない人間にはなりたくありません。努力することが嫌いな私でしたが、歌の猛特訓を始めました。自分の好きな女性歌手と、同じような声で同じように歌えば、完璧に歌えると考えました。練習の成果もあり、好きな女性歌手の歌なら、真似して歌うことができるようになりました。

 これで、私と友人は同等になれただろうと思いながら、再び、友人とカラオケに行きました。自分で言うのも何ですが、前回より断然上手くなったように思えました。友人も、前回と同じく素敵な歌声でした。『それでも友人は、自分の歌を下手だと言うんだろうな。私もド下手から下手へランクアップできてよかった。』そんなことを思っていると、友人は男性歌手の歌を歌い始めました。私は、好きな女性歌手一本で攻めていましたが、友人は様々な歌手の歌を歌いこなしたのです。私は歌の上手い下手を比べる意味が見いだせなくなりました。そして、歌は競うものではなく、楽しむもの、真似て歌うのではなく、自分のものにするものだと、改めて知りました。

 歌が大好きな私ですが、音楽の授業で、歌う人を上手い下手で評価するところがあまり好きではありません。そこはやはり、授業なので仕方がないとは思いますし、一生懸命取り組んでいます。たとえ音痴な人でも人一倍心を込めて歌えば素晴らしいと思います。また、歌が上手いのに、全く心を込めていないのなら、私はあまり感動できません。私も時々、何も考えなかったり、全く違うことを考えながら歌っていたりすることがあります。そんなときに、「上手だね」と言われても、全然嬉しくないし、『こんなんでいいの?』と思ったりします。私はやっぱり自由に歌うのが好きなのです.

 私は、楽しい時でも、寂しいときでも、泣きながらでも、風邪を引いて喉が痛くても歌を歌います。歩いている時も、歯を磨いている時も、食事をとる時も、行儀が悪いと分かっていながら、歌ってしまいます。授業中でさえも歌いたくて仕方がありません。

 いつでもどこでも歌ってしまう私ですが、私にも歌えない時があります。ひどく落ち込んでいる時や悩み事がある時です。そんな時は、歌を歌おうとも聴こうとも思いません。それでもやはり、私を救ってくれるのは歌です。お店や駅前で流れている音色に、救われます。落ち込んでいる時でも、前向きな気持ちにさせてくれます。

 私の隣には、いつも歌がいます。歌がない世界なんて考えられません。「歌うな!」と言われたら、「死ね!」と言われているのと同じです。私にとって、歌は体の一部です。うるさいと言われても、下手だと言われても、私は歌い続けます。

 これで終わります。ご清聴ありがとうございました。

 

 

「中学部に入学して」 新潟盲学校 中学部1年
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【講演要旨】
 私はこの春中学部に入学しました。小学部の頃から私は中学部のことを、「先生も厳しそうだし、やることもとてもたくさんありそうで大変なところなのかな」と、不安に思っていました。

 入学式当日、私は入学式という言葉を聞いてもピンときませんでした。制服に着替え車に乗っても、まだ小学生の頃のままの自分がいました。式が始まり、新入生入場になりました。会場にいる人達の拍手を聞きながら、「私は、本当に中学部に入るのかな。中学部を楽しめるかな」と、いろいろなことを考えて席に着きました。そんなことを思っていると、教頭先生に呼名されました。それで「私はもう中学生なんだ」と初めて思いました。と同時に、なんだか少し大人になったような気がしました。

 中学部は小学部と違うので、戸惑うことがたくさんあります。教科ごとに先生が変わったり、時間割も、表を見ないと時々忘れてしまったりしてしまいます。また、初めての第1回生徒総会の時に渡された生徒会規約も、何ページもあってとても難しかったです。これからもこんなことがたくさんあるんだと思うと心配になりました。

 中学部に入学して1ヶ月たった時、先生から3年間は36ヶ月ということを聞き、36という数字の大きさに、そして中学校生活のその長さにとても驚きました。まだ、1ヶ月しかたってないのに、これからの長い三年間を、どうすごしていけばいいのだろうかと思っていました。

 そんな私も、入学式から4ヶ月がたとうとしています。少しずつ中学部のことが分かってきたような気がします。そして私は、中学部のことを知り始めています。先輩達のやさしさ、後輩を思いやる気持ちなど、今の私にとって学ぶことがたくさんあります。来年は2年生になり、後輩ができます。その時、「頼りない2年生だなあ」と思われないように、この1年間でいろいろなことを学び、先輩たちのようにしっかりとした中学生になりたいです。それはきっと3年生になっても同じだと思います。この3年間の学校生活を充実したものにするために、今日からの一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。そして中学部を卒業する時、「いろいろ教えくれて、ありがとうございました。」と、後輩に言われるよう頑張ります。

  ご清聴ありがとうございました。
 

【後記】
 最初の弁論「歌」では、歌が好きで好きでたまらないという高等部の弁論でした。やる気にさせる上手いほめ方にも興味を覚えました。歌の本質は、うまい下手ではなく、心を込めて歌うことと彼女なりの考えが伝わってきました。何よりも弁論の声が澄んでいて美しかったのが印象に残ります。弁論の後で歌ってもらえばよかったと、今になって悔やまれます。 

 次の弁論は、実は当日体調を崩して盲学校の先生が原稿を代読しました。確かに小学校から中学校への進級は、私にとってもひとつ大人への階段を上がったような気がしました。私の頃(50年近く前ですが)、中学生になるとき、男子は髪を丸刈りにし、黒の制服を着たものです。小学生から見ると大人の世界にジャンプするような感覚だったことを思い出しながら拝聴しました。盲学校の小学部から中学部は、同級生もほとんど変わらないということもお聞きしました。それでも生徒会活動などを経験し、いろいろ社会と関わり合いを持つことを学ぶ時期であるとお聞きしました。中学進級が人生の中で大きな節目であることを実感した次第です。 

 今年も爽やかな感動をもらいました。

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【全国盲学校弁論大会】
 大会への参加資格は、盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、はり、きゅう、あんま、マッサージの資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学する中高年の中途視覚障害者も多い。7分という制限時間内で日ごろ胸に秘めた思いや夢が語られる。今年で83回を迎えた。

【全国盲学校弁論大会:関東・甲信越大会】
 第83回全国盲学校弁論大会の関東・甲信越地区大会(同地区盲学校長会主催、毎日新聞社点字毎日など後援)が6月27日、東京都文京区の筑波大付属視覚特別支援学校で開かれ、9都県の代表ら15人が参加した。県立平塚盲学校高等部普通科3年の八木亮太さん(17)が優勝し、10月3日に水戸市で開かれる全国大会に出場する。
 
http://10picweb.csdsol.com/detail.html?id=m_100000_0_10788722
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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。 
   日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
   場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している  音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/
 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年8月6日(水)16:30 ~ 18:00   @第1水曜日です
 第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 「視覚障害によって希望を失わないために」
  竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @事前登録制
 http://andonoburo.net/on/2860 


平成26年9月10日(水)16:30~18:00
 第223回(14‐09月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「地域連携って何?-済生会新潟第二病院の連携室を通じて-」
  斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 

平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
  http://andonoburo.net/on/2682
 主催:済生会新潟第二病院眼科 
  要:事前登録制です
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
 1)特別講演 (各講演40分)
  1.座長  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
   日本におけるロービジョンケアの流れ1:日本ロービジョン学会の設立前
     田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
    http://andonoburo.net/on/2714

 2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   日本におけるロービジョンケアの流れ2:ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
    -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
     高橋 広(北九州市立総合療育センター)
    http://andonoburo.net/on/2780

 3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
   本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
     加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2799

16:20~16:40
  コーヒーブレイク

16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
 シンポジスト (各講演20分)
  1.吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
   「ロービジョン当事者として相談支援専門家として
      我が国のロービジョンケアの未来に対する夢を語る」
   http://andonoburo.net/on/2875

 2.八子恵子 (北福島医療センター)
   「一眼科医としてロービジョンケアを考える」
  http://andonoburo.net/on/2889

  3.山田 幸男 (新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
   「私たちの視覚障害リハビリテーション」
  http://andonoburo.net/on/2917

  コメンテーター
   田淵昭雄(初代日本ロービジョン学会理事長)
   高橋 広(第2代日本ロービジョン学会理事長)
   加藤 聡(第3代、現日本ロービジョン学会理事長)

18:20~18:40 adjourn アジャーン
  (参加者全員で)会場整理
    参加者同志の意見交換

18:40 閉会の挨拶 仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
     解散   

 

平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
 (兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です

 

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
 @第1水曜日です

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献
    ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校)

 

2014年7月7日

報告:第220回(14‐06月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「生きていてよかった!」
 講師:上林 洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)
  日時:平成26年6月11日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来



【講演要旨】
 「命を断とう」と思ったことがあるからこそ「生きていてよかった!」と思えるのです。
 体操が苦手、音楽も苦手、人の前で話すことなど全くダメ…幼いころの私でした。中学の科学の実験の時に、キラッと光ったビーカーの周りに虹が見えたので、「きれいな虹」と言ったら友達に笑われました。多分これが緑内障の初期だったと思います。

 中学卒業した年に、緑内障の手術を受け、看護婦の夢を断たれ、親に有無なく新潟盲学校に入学させられたのでした。ここでの5年間が、消極的だった私の生き方を、変えてくれたのだと思います。視力があるということで、買い物や、学校行事、生徒会でも役が与えられ、人のためになれる喜びを実感することにより、自分に対しても自信が持てるようになりました。

 社会人になって間もなく再発。手術を繰り返すたびに「手術は成功しました」と医師に言われるのですが、私としては「見えにくく」なる一方でした。こんな折、手術の前夜に夫から「見える眼と結婚するのではない」と言われ、共に歩むことを決意しました。出産後も手術を繰り返しながら視力は下がるばかりでした。

 39歳、激しい眼痛に耐えられず入院した私に、夫は眼球摘出を勧めたのです。眼科主治医・両家の家族が集まり、治療法について相談会を持ちましたが「健康が第一」と言う夫に従い両眼摘出の手術を受けました。この時「死ぬ」ということを決めていたのです。眼は心の窓、目は顔の中心、その目がなくなるなんて・・・そして、患者から一視覚障碍者になることのむなしさ…。

 2~3カ月後、この日こそ最後だと決め、台所の掃除をしていました。「飯はまだか?」と言った夫に力いっぱい雑巾を投げつけました。「いつまでばかやっているんだ」とかえってきた静かな声。この一言が私を新たなスタートに立たせてくれたのでした。「そうだ!命ある限り生き抜かねば」と。

 それからは夫の力を借りながらいろいろなことに挑戦しました。例えば、あきらめていた点字の読み書き、小、中学校で視覚障害についてのお話し会、点字ワープロの会得、喜怒哀楽を三十一文字に託す短歌…。そして、盲導犬との出会いにより広がった世界。山登りの楽しさ、などなど。どれをあげても苦労の後には「喜び」が待っています。この達成感を味わったときに、決まって「生きていてよかった!」と心の中で叫ばずにはいられないのです。

 
 かちゃかちゃと義眼の触れ合う音のして吾の眼(まなこ)の選ばれている
 「年相応な眼にしてくださいね、でも、ちょっぴりかわいく…」
 

 半世紀近くも営業してきた治療院をこの春に閉じ、これからは第3の人生を夫と盲導犬と楽しみながら、ゆったりと、そして「可能性」を忘れずに暮らして参りたいと思っております。


 子と嫁は一つのスマホを見詰めつつ生れくる男の子(おのこ)の名を語りいる
 「お母さん、ちょっと見て」そっとお腹に、確かに大きなお腹。新しい命をそっと撫でてあげました。


【略歴】
 京ヶ瀬小学校、京ヶ瀬中学校卒(阿賀野市)
 神奈川県内の准看護婦養成所を緑内障発病にて中退
 昭和42年、新潟盲学校専攻科卒
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚
 二児出産後、数回の手術の後、四十歳には完全に失明
 このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚える
 平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬ユーザーとなり現在に至っている

【後記】
 上林さんの優しい語り口調に吸い込まれ、心地良い感覚でお聞きしました。
 「生きていてよかった」ここに、上林さんの人生が集約されているのが、講演を拝聴してよく理解することが出来ました。幾多の苦難を乗り越えて、自らの精一杯の努力と、本気でぶつかり合いながらで築き上げた、多くの理解と愛情の中で、今を生き抜いている。。。。。
 今後は、上林さんの知識と経験、そして、エネルギーを多くの方々に伝え広めていただきたいと期待しています。
 益々の活躍を祈念しております。


【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年7月9日(水)16:30~17:30
 第221回(14‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
 1)「中学部に入学して」 中学部1年
 2)「歌」 高等部普通科3年 
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/2825
 @いつもより終了時間が30分早くなります。
 @ネットでの実況中継配信はありません。

平成26年8月6日(水)16:30~18:00
 第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害によって希望を失わないために」
  竹下 義樹(社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 @第1水曜日です
 @事前登録制です

平成26年9月10日(水)16:30~18:00
 第223回(14‐09月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「地域連携って何?-済生会新潟第二病院の連携室を通じて-」
  斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

平成26年年9月27日(土) 開場13:30 研究会14:00~18:40
【新潟ロービジョン研究会2014】
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
  http://andonoburo.net/on/2682
 主催:済生会新潟第二病院眼科  
  要:事前登録
14:00 開会の挨拶 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
14:05~16:20
 1)特別講演 (各講演40分)
  1.座長  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
   日本におけるロービジョンケアの流れ1:
    日本ロービジョン学会の設立前
     田淵昭雄 (川崎医療福祉大学感覚矯正学科)
    http://andonoburo.net/on/2714
 2.座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   日本におけるロービジョンケアの流れ2:
     ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
     -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
     高橋 広(北九州市立総合療育センター)
    http://andonoburo.net/on/2780
 3.座長 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
   本邦におけるロービジョンケアの課題と将来への展望
     加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2799
16:20~16:40
  コーヒーブレイク
16:40~18:20
2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
 座長 仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院)
    安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
 シンポジスト (各講演20分)
  吉野由美子(視覚障害リハビリテーション協会)
  八子恵子(ワーク福島県ロービジョンネットワーク)
  山田幸男(新潟オアシス;内科医)
 コメンテーター
  田淵昭雄(初代ロービジョン学会理事長)
  高橋 広(第2代ロービジョン学会理事長)
  加藤 聡(第3代ロービジョン学会理事長)
 18:20~18:40 adjourn アジャーン
  (参加者全員で)会場整理
  参加者同志の意見交換
18:40 解散 


平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
【目の愛護デー記念講演会 2014】 
 (兼 第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
  演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 @開始時間が17時です

平成26年11月5日(水)16:30~18:00
 第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 演題:「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
 岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程1年)
    @第1水曜日です

平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 演題未定
 小西 明(新潟県立新潟盲学校)

2014年6月2日

報告:第219回(14‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「視覚障がい者支援センター・ひかりの森 過去・現在・未来~地域生活支援の拠点として」
講師:松田 和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長)
 日時:平成26年5月14日(水)16:30~18:00
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 「ひかりの森」を振り返ると、それは希望に満ちた時であり、それよりずっと以前からの私の未来でもありました。 

 成人式を終えてまもなくの頃、私は気になっていた目について診てもらわなければと、F市立中央病院の眼科を受診しました。「網膜色素変性症で治る見込みはありません。5年で見えなくなるかもしれない。結婚はしない方がいいし、出産して見えなくなった人もいますよ」暗室の中での魔の告知でした。 

 その当時は、私には普通に生活できる昼間の視力がありましたし、希望に胸膨らむ青春でしたから、魔の告知にはひるまず、自分の意思こそを尊重することに決めました。証券会社に就職し、普通に日常の生活を送り結婚もしました。二人の子どもを出産したのですが、目に影響はありませんでした。あの時のドクターの言葉は一体なんだったのでしょうか…。この経験から、自分のことは自分で守るということを信条としています。

 子育てが一段落すると、病院めぐりを繰り返し、様々な検査や薬を試してみました。いよいよ色の識別ができなくなった40代半ば、国立リハビリテーション病院を受診しました。「どんなことに困っていますか?」この様な問いかけは初めてでした。(そうか、困っていることを人に話してもいいんだ!)このことが、ロービィジョンケアの始まりとなりました。魔の告知から50年近く経た現在でも、さまざまな心無い言葉に悩み続けている人達からの電話相談があります。

 1995年、JRPS埼玉支部の立ち上げに関わり、副会長として広報や相談支援に励みました。ところが、ホームから転落して大怪我、次いで工事現場に転落し、くも膜下出血を起こし、殆どの視力を失ってしまいました。50歳を迎えていましたし、失明するかもしれないという覚悟はしていたものの、ついにこの時が来てしまったという失望感と落ち込みは、たとえようのない物でした。絶望、孤立、自殺へと追い込んで行く自分自身に疲れ果ててゆくだけの日々でした。

 自分の全てを失いそうになった時、救って下さったのは、近所に住んでいる朗読ボランティアの女性でした。2001年、市内に「ロービジョン友の会アリス」を設立。ボランティアをする、される関係を超えた共生のスタイルでイベントの開催や、学校ボランティアにも出かけて行きました。色々な才能を持った方々の集い友の会は、成長し、遂に拠点を持つことへと動き出しました。

 2006年、「心身障害者デイケア施設 ひかりの森」を市内に開設。自分たちの拠点を自分たちの手で勝ち得た喜びをかみ締めました。当所は、10名の利用者でしたが、不安を抱きながらも希望に燃えていました。まず、自立訓練をと、移動訓練、音声パソコンそして調理実習から始めました。福祉経験の無いスタッフは、外部専門者から指導や研修を受け、丁寧に利用者に対応しながら、実績を重ねてきました。利用者のニーズに合わせたメニューを取り入れ、活発に活動を展開することで利用者も増員。見学や体験やボランティアで関わる人も増えてゆきました。一方、外部に向けての情報発信にも力を入れ、電話相談や来談者も増えました。

 2010年、「NPO法人 視覚障がい者支援協会」を設立。市民活動団体にも積極的に参入し連携しながら理解を求め、地域資源では、フェアや点字教室を開催して、広く市民の方々と交流を持っています。ひかりの森で社会性や自立力を付けて、一人ひとりの利用者が生活の基盤であるコミュニティに参加出来る様、支援の輪を広げています。体験者も多く受け入れ、更に他施設の生活リハを希望する人への中間施設としての役割も担っています。就労を希望する利用者には、必要な支援策を講じ、エクセルやワードの操作にも力を入れ支援しています。すでに2人の女性の就職が決まりました。

 送られてきた名刺に点字を打ち込む点字名刺の作業は7年目を迎えて、作業力もアップしています。越谷市の伝統文化「籠染めの浴衣地」でバラの花を作る「浴衣の花グループ」では、商品化を目指しています。この春、ひかりの森の利用者は、49名に膨らみました。

 今日と違う明日の現実とどう取り組んでゆくのか。ひかりの森の現場の課題です。ひかりの森の未来図は、決して夢や理想だけでは語る事が出来ません。

 

【略歴】
 松田和子(NPO法人視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長)
 1995年 JRPS埼玉支部の立ち上げに関り、副会長
 1996年 網膜色素変性症と事故により殆どの視力を失う
 2001年 ロービジョン友の会アリスの設立 会長
 2006年 身体障がい者デイケア施設・ひかりの森 施設長
     越谷市障がい者施策推進協議員
 2010年 越谷市委託事業の地域活動支援センター ひかりの森 施設長
 2010年~NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長 

NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森
http://npo-hikarinomori.com/

 

【後記】
 埼玉県越谷市から松田和子さんをお招きしての勉強会でした。松田さんは、とにかく前向きで、優しくて、思いやりがあり、思慮深く、品のある方でした。
 講演の中に、いくつも心に残るフレーズがありました。
●21歳の時に、網膜色素変性と診断された。その時の医師に、「5年で失明する。結婚はしない方がいい。子どもも作らない方がいい」と言われた。
●プロポーズされた時、「将来失明するかもしれない」とカミングアウトした。そしたら「お手伝いさんになってもらう積もりはない」と言われて結婚した。
●二人の子供を出産。それでも目には影響はなかった。あの時のドクターの言葉は何だったんだろうか?この経験から、「自分のことは自分で守る」ということを信条としている。
●40歳代半ばで色の識別が出来なくなって、国リハを受診。「どんなことに困っていますか?」と聞かれた。このような質問はこれまで受けたことがなかった。そうか困っていることを人に話していいんだ!このことがロービジョンケアの始まりだった。 

 講演後の討論も充実していた。「視覚障害者の松田和子ではありません。視覚障害というリュックを背負った松田です」「せっかく視覚障害になったのだから、楽しまねば、、、」「ボランティアとの関係 やってくれる人/やってもらう人ではなく、一緒に楽しむ」「苦労は多い。でも大変さの中にこそ、学ぶものがある」「明るいことは重要」
 今後も松田和子さん、そして「ひかりの会」を応援していきたいと思います。

 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
  第220回(14‐06月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  「生きていてよかった!」
   上林 洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)
 
 http://andonoburo.net/on/2757

 平成26年7月6日(日) 10:00~13:00
 「学問のすすめ」 第9回講演会
  http://andonoburo.net/on/2661
  「摩訶まか緑内障」
    木内良明(広島大学眼科教授)
    http://andonoburo.net/on/2724
  「学問はしたくはないけれど・・・」
    加藤 聡(東京大学眼科准教授)
    http://andonoburo.net/on/2747
   会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  主催:済生会新潟第二病院眼科
  @誰でも参加できます。要:事前登録

 

 平成26年7月9日(水)16:30~18:00
  第221回(14‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  新潟盲学校弁論大会 イン 済生会
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 平成26年8月6日(水)16:30~18:00
  第222回(14‐08月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  「視覚障害によって希望を失わないために」
   竹下 義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  @第1水曜日です。ご注意ください。 

 平成26年9月10日(水)16:30~18:00
  第223回(14‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  「地域における連携コーディネーターの役割」
   斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

 

 平成26年年9月27日(土)開場14:00 14:30~18:30
 【新潟ロービジョン研究会2014】
  テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  http://andonoburo.net/on/2682
  1)特別講演
   座長:仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター眼科)
      安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
   1.日本におけるロービジョンケアの流れ:
     日本ロービジョン学会の設立前
      田淵昭雄(川崎医療福祉大学)
     http://andonoburo.net/on/2714
   2.日本におけるロービジョンケアの流れ2:
     ロービジョンケアからロービジョンリハビリテーションへ
     -平成24年度診療報酬改定の意味するところ-
      高橋 広(北九州市総合療育センター)
   3.ロービジョンケアの展望(仮題)
      加藤 聡(東京大学眼科准教授)
  2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語る」
   座長:仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター眼科)
      安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
   シンポジスト
    田淵昭雄(初代ロービジョン学会理事長)
    高橋 広(第2代ロービジョン学会理事長)
    加藤 聡(第3代ロービジョン学会理事長)
  @誰でも参加できます。要:事前登録

 

 平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
 【目の愛護デー記念講演会 2014】 
  (兼・第224回(14‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   講師:若倉雅登 (井上眼科病院 名誉院長)
   演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  @開始時間が17時です。ご注意ください。  

 平成26年11月5日(水)16:30~18:00
  第225回(14‐11月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題未定
   岡田果純 (新潟大学大学院 自然科学研究科 専攻修士課程1年)
  @第1水曜日です。ご注意ください。

 

2014年4月16日

第218回(14‐04月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:「視覚障害とゲームとQOLと…」
  講師:前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
    日時:平成26年4月9日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 こんにちは,新潟大学のマエダです.こんな私を,第141回(2007年11月),第164回(2009年10月),第218回(2014年4月.今回)と,計3回も話題提供者として本勉強会にご招待下さりまして,安藤先生に深く感謝申し上げます.いつも話ばかりでは面白くないかと思いまして,新潟大学大学院生のマツバヒロシ君に協力してもらい,今回はゲームを持ってきました.皆さんで一緒に遊びましょう!どうでしたか?楽しかったですか?楽しかったけど,時折飛び出すマエダのボケとツッコミが邪魔でしたって?こりゃ失礼しました. 

 今回持ってきましたゲームは,私の共同研究者でもある大阪電気通信大学のニイカワ先生(漢字では新しい川,シンカワと書いて新川先生です)のところで開発したキキミミと呼ばれるゲームシステムです.このシステムの中に,トランプゲームのような体裁のゲームをプログラムすると,音声だけで楽しめるゲームが出来上がります.あまり褒めるとニイカワ先生から「褒め殺しか!」とツッコミ食らいそうですが,何を隠そう!いや,全く隠してませんけど,キキミミは本当に良く出来ています.あまりに完成度が高いので,新潟大学の私の研究室ではこのゲームシステムをオンライン化させてもらっています. 

 さて,キキミミもそうですし,私の研究室で作っているスゴロクとかザトウイチゲームとかもそうですが,これらは「視覚障害者が晴眼者と“対等”にプレイ可能なゲーム」であることを謳っています.「対等」という漢字は「タイトウ」と読みますが,これを「駘蕩」と表記しても全く構いません.今は春ですしね.春風駘蕩たる雰囲気の中,視覚障害者も晴眼者も老若男女も関係なく全員が楽しめたら,それが一番です. 

 閑話休題.失礼しました.“対等”の話でした.なぜ対等に拘泥したかと言えば,それはゲームなんかなくても日常生活では何も困らない,まぁ,ゲームというものは,あってもなくても,基本は困らない“役に立たない”ものだからです.逆に役に立つものであれば,例えば,白杖であれ,何らかの音声装置であれ,視覚障害者はそれらの使い方を教えて貰う際にどうしても晴眼者より立場的には下になってしまいます.なぜなら白杖は視覚障害者には必要でも晴眼者には必要ないからです.つまり対等ではないんですね. 

 これまでの私は「エンジニアとして役に立つものを作れないか」と微に入り細を穿って周囲を眺めまわしては「自分の作るものはまだまだ役に立たない!」と憤慨する若者でした.ですが“役に立つ”とは,一体全体,誰の役に立つのか.仮に視覚障害者の役に立つのだとすれば,それを壮語する私は何様だ?と,うっかり考えてしまったのでした. 

 誰かの役に立つ研究をすることは,工学の世界では大変重要なことですし,それを目指さないければ,エンジニアの存在価値は社会的にないのかもしれません.ですが,誰かの役に立つのだ,と,誰かさん側ではなくエンジニア側から発言した時点で,エンジニアである私はその誰かさんを「上から目線」で無意識に見ている構造になると気付きました.そして,そんな自分が,突然,嫌になったんですね. 

 教師と学生の関係も同じ構造ですね.教師が学生を「上から目線」で見ない限り「教育」は成立しない.たとえ人間的あるいは知識的に教師が学生と同じレベルかそれ以下であったとしても「教師が上から目線で学生を見る」構造が成立しない限り講義はできないし教育もできません.そうか!だから私は20年前に大学の先生になるときに悩んだんだなぁと今更ながら自分のことを理解しました.“理解する”の英語は“understand”ですが,理解するときは上ではなく下(under)の立場に立つ(stand)ことなのだと安藤先生から教わりました.なるほど恐れ入りました! 

 大学の先生は立派な仕事をしている.それに異論はない.そんな職業に憧れるのは当たり前の感情だ.なのに,どうして自分は大学の先生になることを20年前に躊躇し悩んだのか.そうか.やっと分かった.まさにアンダースタンド.教育の場では,教師と学生の間で“上から目線”の関係を無理にでも作らねばならない,それが自分には嫌だったのだ.だから悩んだのですね. 

 今ではすっかり「上から目線」に慣れてしまったマエダですが,少なくとも研究に関しては,初心に戻って,視覚障害者を“上から目線”で見るのではなく,同じレベルで“対等”に遊んでみようと思ったのであります.すると“役に立つか否か”という概念はどうでもよくなりました.そして,視覚障害者が誰の力も借りることなく楽しめるためには視覚を使ってはいけない.これが必要条件.そして,たとえ視覚を使わないゲームであっても晴眼者が楽しめないと意味がない.これが十分条件.必要十分なゲームとはどんなものかを考えることになりました.今回,持ってきましたキキミミはまさに上記の必要十分条件を満たしたゲームなんです. 

 よく「その研究にはニーズがあるのか?」ということを学会では問われたりしますが,たとえニーズをくみ取ったとしても,これも「上から目線」の構造であることに変わりはない.本当はニーズなんかあるのかないか誰にも分からない可能性もあるのに,そこから無理にニーズを引き出したとすれば,それも「上から目線」の構造のなせる技ですから.内田樹さんによれば(ちょっと難しいかもしれませんが)「ニーズは“ニーズを満たす制度”が出現した後に,事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する」ものだからですね. 

 だから,たとえ宮澤賢治のように「みんなからデクノボーと呼ばれて」も,一度“役に立つか否か”とか“ニーズがあるのか否か”いう概念から解放されたエンジニアに私はなってみよう,と思ったのでした.こんな発言をしたら,学会の偉い方々からしっかり怒られて“パコッ!”とデコピンされるかもしれませんが,そのときはデクノボーではなくデコノボーと呼んでくれましたら誠に幸いです.ああ,やっぱりダジャレで話を終えてしまった.
 

【略歴】
 昭和63年 大阪府立 大手前高等学校 卒業
 平成5年 大阪大学 基礎工学部 生物工学科 卒業
 平成7年 日本学術振興会 計測制御工学分野 特別研究員
 平成10年 大阪大学大学院 基礎工学研究科 修了(博士(工学))
      新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助手
 平成17年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助教授
 平成19年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授

【後記】
 講演の冒頭に、「上から目線」「役に立つこととは?」「対等ということ」等々のフレーズについての解釈の紹介がありました。
 何かしてあげるという姿勢は、上から目線ではないか?本当に対等にお付き合いするにはどうすればいいのか?という問い掛けは、いつも気にしていることです。
 こうした考えを背景に考案されたゲームを講演時間大半を費やして行うというこれまでの勉強会にない新鮮な勉強会でした。初めは参加者も戸惑いがちでしたが、そのうちに持ち札に文句を言うもの、「待った」を掛けるもの、ゲーム参加者もそれを見守る観客も、結構マジでエキサイトしていました。
 障碍者の機器開発は、生活に役立つものが優先されがちですが、このような視点でのゲームの開発は本当に必要なことだと、ゲームにのめり込みながら感じました。

 参加者から、「役に立つ」研究かどうかは気にしなくてもいい。ご自身が面白いと思ってやっている研究ならば、きっといつかは何かの「役に立つ」時が来るのではないかという感想も届きました。
 
 前田先生の、そして新川先生大阪電気通信大学)の今後の発展を祈念致します。
 

 

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
  「視覚障がい者支援センター「ひかりの森」過去・現在・未来
   ~地域生活支援の拠点として」
    松田 和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
  「生きていてよかった!」
    上林 洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)

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 平成26年7月6日(日)10時~13時
  「学問のすすめ」 第9回講演会
   会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
   講師 加藤 聡(東京大学眼科准教授)
      木内良明(広島大学眼科教授)
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 平成26年7月
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 

 平成26年8月6日(水)16:30~18:00
  「視覚障害によって希望を失わないために」
    竹下 義樹
     (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
  @第一水曜日となります 

 平成26年9月10日(水)16:30~18:00
   「地域における連携コーディネーターの役割」
    斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室)

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 平成26年9月27日(土)午後
   新潟ロービジョン研究会2014
   会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  テーマ:「我が国のロービジョンケア 過去・現在・未来」
 1)特別講演
   座長:仲泊 聡(国立障害者センター眼科)
      安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
  1.ロービジョンケアの歴史(仮題)
   田淵昭雄(初代ロービジョン学会理事長;川崎医療福祉大学)
  2.ロービジョンケアの現状(仮題)
   高橋 広(2代目ロービジョン学会理事長;北九州市立総合療育センター)
  3.ロービジョンケアの展望(仮題)
   加藤 聡(3代目ロービジョン学会理事長;東京大学眼科准教授)
 2)シンポジウム「我が国のロービジョンケアを語ろう」
   座長:仲泊 聡(国立障害者センター眼科)
      安藤伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
   シンポジスト
    田淵昭雄(初代ロービジョン学会理事長)
    高橋 広(2代目ロービジョン学会理事長)
    加藤 聡(3代目ロービジョン学会理事長)
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 平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
 【目の愛護デー記念講演会2014】 
 (兼 済生会新潟第二病院眼科勉強会)
  演題未定
    若倉雅登 (井上眼科病院)
  @開始時間が17時となります

 

2014年3月18日

報告:第217回(14‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:「私はなぜ健康ファイルを勧めるのか」
  講師:吉嶺 文俊
    (新潟大学大学院医歯学総合研究科総合地域医療学講座特任准教授)
 日時:平成26年3月12日(水)16:30 ~ 18:00 
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 


 

【講演要旨】
 「由らしむべし知らしむべからず」 昭和の良き時代における地域の医者ドンはこういうイメージではなかったでしょうか。「赤ひげ先生」というヒーローは、私が医師になって四半世紀の間に消えつつあります。それは、医療(特に治療医学)の進歩と、それを取り巻く社会と住民の意識の変容に大きく関係しています。日本人が世界最高峰の健康長寿社会を造り上げた背景には、国民皆保険制度、フリーアクセス、自由開業医制そして出来高払いを主体とした診療報酬制度などがありますが、グローバル化の流れで見直しを迫られています。 

 新潟県は高速道路も新幹線も国際空港も、そして国際貿易港もあるのに、県外からの転入率や県外への転出率が低い状況が続いています。住めば都ということですが、保守的で新しい変化を起こしにくい風土ということになるでしょうか。また新潟市は日本海側で初めての政令都市であり高齢化率25%と全国平均レベルですが、その他の県内地域は高齢化先進地となっています。すなわちNiigataの行く末は日本および世界の未来を占うといっても過言ではありません。 

 阿賀町は毎年5月3日に催される「つがわ狐の嫁入り行列」で有名ですが、県内で最も高齢化が進んでおり、そこに唯一存在する県立津川病院で私は11年間過ごさせていただきました。病床数67床で病棟は一つ、常勤医師は内科と外科のみという小規模地域病院ですが、いろいろなご支援により14科の外来診療を開設し、在宅療養支援病院として訪問診療に力を入れています。昔ファクシミリが世に出たころに、国のモデル事業として豪雪へき地と津川病院の電話回線を用いた遠隔診療システムが、現在の阿賀町巡回診療の始まりでした。しかしなんとそれ以前にもその地域を訪れた方がいました。 

 「急病人が出ると村落(ムラ)の人たちが何人も加勢に出て、病人を戸板に載せて二十キロの山道を歩いて街の医院まで運んだ。大雪の頃だと丸一日もかかることがあり、途中の集落の家で休ませてもらいながら、街の病院や医院にようやくの思いでたどり着いた。こうした状況の中では長い間病臥している人や老人の場合には、容態が悪化しても医師の診察を受けることを家族は諦めて、生命を見限ったという。」(命の文化人類学 波平恵美子著 新潮選書) 当時は車も通らない雪深いへき地で冬季中心に始まった診療でしたが、今では高齢者が増えて足が不自由なため通年の巡回診療に変わってきました。 

 高齢者の生活機能に注目してみますと、早期の適切な医療や介護等の介入により、急性増悪の回数を減らし重症化を抑制し、元気で長生きを目指すというような政策が推し進められています。具合がとっても悪くなってから病院に救急車で運ばれるのを待っている後手の医療ではなく、とても悪くなる前に早めに手当てを打つ早期介入の姿勢が重要だと思われます。それは高度専門病院に「集める」医療だけではなく、訪問診療、訪問看護、訪問薬剤指導など在宅へ「出向く」医療のバランスが重要ということになります。 

 20世紀は治療医学が優先された時代でしたが(「病院の世紀の理論」猪飼周平著 有斐閣)、これからはQOL(生活の質)を標的とする生活モデルに基づいた包括ケアの時代に入りました。それは医療や介護がサービス提供の場の中心地から支えるメンバーの一員として並び替えられることになります。「赤ひげ先生」時代の終焉から多職種連携協働によるチーム医療の推進は研修医育成や学生教育においても重要です。 

 超高齢社会における地域医療の経験で気づいたことは、住民と医療者(ケアスタッフも含む)の意識改革でした。保健師さんたちと悩みながら創り出した連携ノートや、成人小児にも応用した健康ファイル は、クリニカルパスなどの医療者側からの視点に相対応する、住民(患者)視点からのツールです。自分の健康や疾病に関する情報を自分で管理するという簡単な作業に、みんなが気付きそして実践していくことが、住民と共に医療提供者側の意識変革をもたらし、ひいては両者の良好な信頼関係構築に繋がるものと期待しています。 

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*健康ファイルとは
阿賀町で思いついた自己情報管理ツールです。
構造は極めて簡単、A4サイズの二つ穴で保存する紙製のファイルであり、廉価でどこでも手に入るため幅広い応用が可能です。自分の健康や疾病に関連する情報をはさみながら自分で管理するという単純な仕組みであり、使い方を裏表紙に貼りながら参考にしてもらっています。
ファスナー付クリアファイルも付属しており、そこに保険証やお薬手帳などを保管することにより災害緊急時等にも応用できます。さらに主治医が診療経過のサマリーを作成提供してもらうとさらに有用となります。ファイル管理者(患者・住民・場合により家族)を中心に情報共有を行い、医療や介護スタッフとの連携が十分確立されていれば、個人情報保護に関する問題は生じません。
みなさんもぜひ今日からお試しください。 

 

【略歴】吉嶺 文俊  (よしみね ふみとし)
 昭和35(1960)年3月28日生まれ。本籍鹿児島県大島郡喜界町。
 神奈川県小田原市生まれ⇒佐賀⇒広島⇒千葉を経て中学から新潟市に転入。
 新潟県立新潟高校、自治医科大学医学部を卒業し新潟大学第二内科に入局。
 県立新発田病院、六日町(現在南魚沼市)立国保城内病院、県立六日町病院、県立妙高病院等を経て、県立津川病院長を10年間務める。 
  2013年より新潟大学 総合地域医療学講座(特任准教授)。
 

 新潟医療福祉大学客員教授。
 自治体病院中小病院委員会委員(北陸信越ブロック)。新潟県病院局参事。
 住友生命社会福祉事業団第6回地域医療貢献奨励賞受賞。 

 専門は内科、呼吸器、アレルギー、リハビリテーション、プライマリ・ケア、地域医療。

 

【後記】
 冒頭に新潟県の様々なデータを示して頂きました。離婚率 全国46位、転入率 46位、転出率 46位、後期高齢者医療費 全国一安い、、、 ぐぐっと興味を増したところで、「新潟から世界を変えよう」とキャッチフレーズを唱え、高齢化先進地の阿賀町での活動を紹介して頂きました。吉嶺先生の手に掛ると、僻地医療が先進医療に変貌してしまいます。

 波平恵美子(お茶の水大学、「いのちの文化人類学」)の引用もあり、テーマは重かったのですが、何故か明るく楽しかったのです。曰く、昭和の「赤ひげ」たちの時代は消えつつある。時代と共に問題は、「克雪から高齢化へ」。病院に患者を集める「集約医療」も大事だが、医療者が「出向く医療」も大事。病歴や紹介状、投薬資料、入院時のクリニカルパス等をまとめた「健康ファイル」が重要となる。この普及には住民ばかりでなく医療者の意識改革が必要。。。。高齢化社会を先取りしている先進地・阿賀町での豊富な体験を伝えて頂きました。 

 迫力ある講演のみならず、寸劇も加えた見事なステージ?でした。拝聴しながら、重い話のはずなのに、何か楽しくお話している様を見て、この明るさが吉嶺先生の魅力と素直に納得しました。不可能を可能にするには。この明るさが大事なんだと、、、
 吉嶺先生のますますのご活躍を祈念致します。
 

 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年4月9日(水)16:30~18:00
 「視覚障害とゲームとQOLと…」 
   前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科) 

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
 「視覚障がい者支援センター「ひかりの森」
    過去・現在・未来 
~ 地域生活支援の拠点として」
   松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
 「生きていてよかった!」
   上林洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 女性部長) 

 平成26年7月
  新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 

 平成26年8月6日(水)16:30~18:00
  演題未定
   竹下義樹(日盲連会長)

2014年3月15日

報告:第216回(14‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
 講師:関 恒子 (松本市)
  日時:平成26年2月12日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

 

【講演要約】
 黄斑変性症の発症から18年が経過した今、診断から入院治療、そして日常に戻って現在に至るまでを振り返る。心のうちに感じてきた一人の患者の想いに共感と理解を戴けたら幸いである。 

私の病歴
 1996年1月、先ず左眼に、その10ヶ月後右眼にも近視性血管新生黄斑症を発症し、左眼は1997年に強膜短縮の黄斑移動術を受け、右眼は1999年に全周切開の黄斑移動術を受けた。手術後も6年間は合併症や再発のために数度の入院手術を行い、様々な治療を受けている。現在は左眼0.3~0.4、右眼0.1~0.2、網膜の委縮のために視野の欠落が進行中である。 

診断当時のこと ー 家族の支えと良き協力者の存在
 発端は起床時左眼に見つけた小さな歪みだった。目の病気に対する知識が皆無だったため、一時的なものかもしれないと様子を見ていたが、歪みは解消せず、拡大したため、1週間後開業医を受診した。直ちに大学病院を紹介され、検査の結果、近視性血管新生黄斑症と診断された。その際「視力は低下していくだろう」ということと、「確立した治療法はない」ということが告げられた。 

 視力が低下すると聞いた時、先ず私の脳裏に浮かんだのは失明した自分の姿だった。そして字も読めなくなったら、これから先どうやって生きていったらいいのだろうと、思ってもいなかった診断結果に呆然とした。失明への不安と自分の将来への失望はとても大きく、有効な治療法がないということが更に私に打撃を与えた。 

 私は強度近視を持っていたが、それまで眼で特に苦労したことはなく、眼に特別な注意を払ったこともなかった。視力が低下すると言われて初めて眼の大切さに気付いた程だったが、その思いは「視力を失うくらいなら命を失うほうがましだ。私の眼は命より大切だ」というようになっていた。その私に夫は「命がなくなるわけではないからいいではないか」と言ってくれたが、その時の私には何の慰めにもならなかった。しかし期せずして私の二人の子供がそれぞれ夫と同じ様なことを言い、更に「世の中には全盲の人たちもいて、みんな元気に生きているよ」と息子に言われた時、初めて死んだほうがましだと考えた自分を恥じる気持になった。 

 動揺している私に対して、家族が少しも動揺を見せず、「生きていればいいではないか」と言ってくれた家族には今でも感謝している。もし家族までが動揺したり、悲しんだりする様子を見せたら、私の心痛は増していたに違いない。 

 次回の来院の時、開業医の先生は私に近視について書かれた一冊の本をくださった。私はその本によって自分の病気を理解し、冷静に見ることができるようになったと思う。後に症状が進行して行く過程においても、その知識は非常に役立った。過剰な心配や不安を抑えるためにも正しい知識は必要だ。この開業医の先生は、後に手術を決意する際にも多大な協力を惜しまず、現在に至るまで身近な先生として相談にのってくれている。私が発症した当時は黄斑変性症の情報はほとんどなかったが、この先生のような良い協力者がいてくれたことはこの上ない幸せなことであり、大変感謝している。 

入院治療の日々 ― 自分が選択したことには責任を持たねばならない
 発症から10ヶ月経つ頃には左眼で見る景色は何もかもがひどく屈折し、視野の中心にリング状の霞ができ、視力も0.3~0.4に落ちていた。右眼にも発症したのはそんな時だった。右眼の発症についてはある程度の覚悟はあったが、やはり衝撃を受け、何らかの治療を受けたいと切に願った。有効な治療法がないとされる中、通院していた大学病院から提案されたのは左眼の新生血管抜去術だった。しかし呈示された手術成績に不安を持った私は、開業医の先生に相談して転院し、そこで選択したのは、まだ確立していない最先端の黄斑移動術を受けることだった。 

 網膜手術の危険性など思い及ばなかった私は、視力改善の可能性があるとだけを聞いて手術を承諾してしまったが、病院を紹介してくれた開業医の先生にそれを報告すると、手術の決断をするには情報が不十分であるとの指摘を受けた。私たちは参考となる論文を取り寄せ、手術医にも説明をお願いし、そして最後の決断は私に任されたが、結局私は手術を受けることを決意した。視力の低下を認識しながら何の治療も受けずにいることの不安と苛立ちは、予後のわからない新しい手術を受けることの不安よりも遥かに大きかったからである。 

 この手術の結果は期待通りにはならず、不測の事態も様々起きたが、私は手術を受けたことを後悔したことはない。何もせずにいることは私にはできなかっただろうし、手術は当時の私に大きな希望を与えてくれた。選択が正しかったかどうかは見方によって異なるであろう。だが当時の私にとって最善の選択であったと信じ、自分自身の選択には責任を持たなければならないと思っている。 

 手術後の左眼は合併症や繰り返す再発で入院も長引き、更に数度の入院手術を繰り返したが、2年後には0.1~0.2になった右眼にも黄斑移動術を勧められた。しかし左眼の術中に生じた耳側の視野の欠損や、見え方の質の大切さを考えると、両眼に移動術を受けることは大いにためらわれた。たとえ視力0.1であっても、中心窩の暗点以外は正常だったので、私は右眼に頼って生活していたからである。右眼に施されようとしている手術は左眼のものと手法が異なる事、早いほうが効果的である事など主治医の熱い説得によって、結局私は手術を承諾した。幸い術後の経過は良好で、合併症や再発は起こらず、視力は0.6に改善し、私は見えるということに感動した。 

日常に戻って ― 目は見えるうちに…だが目には見えない大切な物もある
 6年間に渡る治療が終わり、日常に戻ってみると、右眼には淡色系の色の判別や遠近感、暗順応、両眼視などの問題があったものの、生活の質は向上し、私は感謝の日々を送った。しかし再び視力が低下することが考えられたので、視力が保たれている間に視力を最大限に活用しようと、拡大鏡を使って読書に励み、大学に通ってドイツ文学を学び始めた。これは私の「見える喜び」を更に大きくしてくれた。病を得たことによって失ったものは確かにある。しかし失ったものの数を数えても仕方がないから私は今何ができるかを考えて生きたい。病という負の要素は私に奮起する力を与えてくれた。ドイツ文学も、このところ毎年行っている単身の海外旅行もこれによるものである。 

 現在私の両眼は網膜萎縮による視野狭窄が進行して術前より状態は悪く、かなり生活を脅かしている。本当の困難はむしろこれからだろうと思っている。 

 最後に、「見える」ということについて考えてみたい。人は情報の80%を目から得ているという。これを聞く度に低視力者はどうなるのだろうと心配になる。だが、たとえ見えていたとしても本当に見たと言える物はどれだけあるだろうか。人は見える物全てを記憶にとどめる訳ではなく、自分に有用な情報だけを選別している。これは聞こえる物についても同じで、意識の違いによって見える物も聞こえる物も変わってくるはずだ。サン=テグジュペリは『星の王子様』の中で、「物事は心でしか見えない。大切な物は目には見えない」と言っている。私は視覚障害を持って以来、見える世界をとても大切にしてきた。しかしこれからは目には見えない大切な物の世界を探しながら生きたいと思う。 


【略歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
 趣味は音楽と旅行。フルートの演奏を楽しんでいる。地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。 


【後記】
 壮絶な18年間のドラマを拝聴した。18年前までは、ごく普通に見える生活を送っていた関さんが、眼科で「近視性血管新生黄斑症」と診断されて以来、生活も人生も大きく変わった。その後の長い闘病生活、治療はまだ手探り状態、そうした中で地元の主治医と相談し、当時最先端の治療を受ける。手術を何度も繰り返した。
 そうした過程で、治療を受ける患者の哲学(充分な告知・インフォームドコンセントを受けて、治療法について他人任せにせず自己責任のもとで自己決定しする)を学んでいく。
最後に、物事は心でしか見えない。大切なものは目には見えないという境地に至る。今後は眼に見えない大切な世界を探して生きていくと結んだ。
 関さんが歩んでこられたこれまでの人生を尊敬し、この勉強会で語って頂いたことに感謝致します。今後、ますます有意義な日々を過ごされることを祈念致します。 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
 眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
  日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年4月9日(水)16:30~18:00
  「視覚障害とゲームとQOLと…」
     前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科) 

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
  「視覚障がい者支援センター「ひかりの森」の過去・現在・未来
                  ~地域生活支援の拠点として~」
     松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
   「生きていてよかった!」
   上林洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長) 

 平成26年7月
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会

2014年2月16日

報告 第215回(14‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 
 演題:「大震災でつかめない大多数の視覚障害者への強いこだわり~
          一人の中途失明者に何もできず落ちこんで50年」
 講師:加藤俊和(社福:日本盲人福祉委員会災害支援担当)
  日時:平成26年1月8日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 

【講演要旨】
*私は・・・
 1945年に京都・西陣で生まれ育ち、高一の1961年から点訳などのボランティア活動を始めました。立石電機(現オムロン)で12年間開発業務に従事した後、1980年から日本ライトハウスで情報やリハの所長など、2003年から京都ライトハウスの点字図書館長に従事して、2010年3月に退職しました。その後、ボランティアで、サピエ事務局長や日本盲人福祉委員会の東日本大震災対策本部事務局長などをしてきました。

*視覚障害者の避難と現状は?
 東日本大震災からまもなく3年になろうとしています。私は、避難するときに重要なのは、何よりも持病の薬の持ち出しであること、そして、視覚障害者にとって、避難所で最も大変なのは「トイレの中」であることを言い続けてきました。阪神淡路のときは3年後には復興住宅が完成して仮設住宅がほぼなくなっていましたが、東日本大震災においては復興住宅はまだ数%にすぎません。その中で、仮設住宅などに長期間居住を余儀なくされている障害者の多くは、これまで支えられてきた地域社会が崩壊して、行き先の見通しがまったく立っていないのが現状です。このように困窮とあきらめの中の多数の被災障害者のことはほとんど表面に出ず、深刻化しています。
 「早くどこか施設に入りたい・・・」などの切羽詰まった相談が、今も連絡先となっている私の携帯電話に入ってくるのです。

*なぜ私は震災支援に飛び込んだ?
 阪神淡路大震災のときにも私は支援に関わりましたが、都市部を中心とした大災害でしたので、東日本大震災のような広い農山漁村が主体の大災害においては、阪神淡路と同じ方法では、支援ができないと思われました。自分から声を出すことができる人たちへの支援もままならず、さらに、大多数となっている中高年から視覚障害となった方々が埋もれて取り残されてしまう、と思われたからです。 

*私の心を支えた、故・鳥居篤治郎氏
 1961年に私が「奉仕活動」を始めたちょうどそのときに、京都府立盲学校の副校長で日本盲人会連合(日盲連)の2代目会長でもあった鳥居篤治郎氏が、点字図書館など京都の活動の拠点となる京都ライトハウスを設立されました。高校でクラブ活動として日赤の奉仕活動と点訳を始めていた私は、こぢんまりした当時の京都ライトハウスに行き、鳥居先生にお会いして話すことができたのは幸運でした。そのような中で、目が悪くなった人の家に行ってみるか、と言われ、何も考えずに行きました。当時は、自立できる優秀な視覚障害者さえ強い偏見の中に置かれている時代であり、中途視覚障害になりたての人までは手が回ってはいなかったのです。何もできないだろうけれど、ということだったとはいえ、一高校生にとっては話しをすることもできない「苦い体験」でした。視覚障害者には、私たちが接している方々だけでなく、何も言えずに取り残されている中途視覚障害者が多数おられる、ということを半世紀も前に教わっていたことが私の活動の原点になりました。
 ところで、鳥居氏は、日盲連の会長に就任されてすぐに、当事者・施設・教育の3分野を統合されて「日本盲人福祉委員会(日盲委)」を1955年に設立され、強い交渉力で大きな成果を積み重ねられておられました。その後、障害者運動は当事者が中心になっていき、日盲委の活動の場は少なくなっていきました。 

*「視覚障害者対策」の拠点をどうするか?
 東日本大震災は、広範囲に広がる悲惨な状況の中にあり、現地にはすぐには行けなかったこともあって、視覚障害関係団体は支援方法から模索していました。阪神淡路のときは、大阪(被災地から約40km)の日本ライトハウスが拠点となり、「ハビー」というボランティア団体が支援の中心を担いました。しかし、東日本大震災では、被災地の広大さをはじめ状況はまったく異なり、きちんとした団体でないと視覚障害者リスト入手も支援もうんと限られてしまいます。そのため、私は、鳥居先生が作られた日盲委に対策本部を置くしかないと主張して押し進めるとともに、私が視覚障害者に関わってちょうど半世紀になっていたことも運命的に感じて視覚障害者の支援活動に飛び込み、東北と東京が生活の場になりました。

*東日本大震災を支援しての教訓
 まず第一は、障害者は誰が助けてくれるのか、です。今やどの障害も7割以上が高齢者となっており、災害時に命を左右したのは、消防団員や警察官などではなく、迅速に避難者を助けた人の多くが、周囲の「隣近所の方々」であったことです。
 二つ目は、東日本大震災の視覚障害者支援は、団体や点字図書館のリストにより、4月末の支援は236人で実質上終ろうとしていましたが、その後の「新たな取り組み」によって、支援から取り残されていた1455人もの方々がおられた、という事実です。「表面に出ない視覚障害者が大多数にのぼる」ことを、大きすぎる犠牲によって数字が示した教訓です。私はそれらの対策の必要性を、これからも強く訴え続けていきたいと思っています。

 

【略歴】
 1961年 高1から、視覚障害者支援ボランティア活動
 1968年から12年間立石電機(現オムロン)中央研究所
 1980年から日本ライトハウスで、情報関係やリハ所長など
 2003年から京都ライトハウス情報ステーション所長
 2010年3月退職。以降はボランティア活動
  東日本大震災の勃発で日本盲人福祉委員会で支援の事務局長
  現在、全視情協サピエ事務局長、日盲委災害支援担当
  講演など:専門点字・触図、視覚障害リハ・情報、災害等 

【後記】
 今年は新潟地震から50周年、中越地震から10周年に当たります。自然災害の時に障害者はどのようにしていたのか?どのような困難があり、今後どのような対策を講じたらいいのか?誰でもが思う疑問を見事に真正面から取り組まれた加藤俊和先生の、想いの籠った(魂の籠った)講演でした。
 個人情報のためなかなか情報がつかめない中、視覚障害者の状況を丁寧に集め、支援してきたことは大変感動的でした。何よりも視覚障害者の8割がどこの団体・組織にも属していないことも判明しました。災害時には情報の伝達・発信が重要。そして何よりも自らの手で自らを守ることが求められます。薬を服用する方は、一週間くらいの薬は常備する必要。また薬の名前を覚えておくことも大事なこと。災害に備えるということは、地域の方との接触等も含め、日常の生活が問われること等、教訓も多く含まれていました。
 阪神淡路の大震災の頃に比べると、ボランティア活動もだいぶ進歩してきました。ただボランティアに求められる大事なポイントはリーダーの存在。リーダーの重要な仕事は、ニーズの掘り起こしと明言していました。大多数の「言えない中途視覚障害者」をだれが代弁するのか? 視覚リハ関係者は「それを知っているはず」、「知ってないといけないはず」。初期の中途視覚障害者と最も接点のあるのは、眼科医と視能訓練士。その連携が「8割以上の中途視覚障害者」を助けるとの言葉は心に刻んでおきたいと思います。
 加藤先生、本当にありがとうございました。益々のご活躍を祈念しております。

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
 眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
  日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html 

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html 

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/ 

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年03月12(水)16:30 ~ 18:00 
  「私はなぜ“健康ファイル”を勧めるのか」
     吉嶺 文俊( 新潟大学大学院 医歯学総合研究科総合地域医療学講座 特任准教授)  

 平成26年4月9日(水)16:30~18:00
  「視覚障害とゲームとQOLと…」
     前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科) 

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
  視覚障がい者支援センター「ひかりの森」の過去・現在・未来~地域生活支援の拠点として~
     松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
   演題未定
     上林洋子(新潟市) 

 平成26年7月
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会

 

 

2014年1月14日

報告 第214回(13‐12月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  日時:平成25年12月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
 演題:「見えない・見えにくいという現実とのつきあい方」
 講師:稲垣吉彦(有限会社アットイーズ 取締役社長;東京)

 

【講演要旨】
 私は、ぶどう膜炎原田病および続発性緑内障を患った視覚障害者です。原田病の発症から21年、緑内障を併発し視覚障害者手帳を手にしてから今年で18年の歳月が過ぎ去ろうとしています。
 このような私ですが、視覚障害を持った一人の患者であると同時に、同じ障害を持つ患者さんとお話をさせていただく機会をいただいている、いわゆるピアカウンセラーでもあります。
 今回の講演では、見えないあるいは見えづらいという現実と、どのようにつきあったら少しでも快適に生活を送れるのかというテーマに対して、私自身の最近の出来事と、ピアカンでのエピソードをご紹介しつつ、私が今思う一つの方向性をご提示してみたいと考えました。

●30年ぶりの同窓会
 今年の9月の終わりに高校の同窓会が開催されました。見えなくなって20年近い歳月を過ごしてきた私でも、見えているときの自分しか知らない旧友たちに、あえて見えなくなった姿をさらすべきかどうか、参加に際してかなり悩みました。
 白杖を持っていたことで私が見えなくなったことを知った級友たちは、初めは見えなくなったことに関して質問していいものかどうか躊躇している感もありましたが、話が進むにつれ、ごく自然に話題は私の目の話題へ移り、見えなくなるきっかけとなった病気のこと、見えなくなってからの生活、現在の見え方など、聞かれるがままに話し続けました。
 たまたま私の場合は見えなくなったことがみんなの関心を呼んでしまいましたが、ある人は高校時代よりかなり太ったとか、髪の毛が薄くなったとか、女性陣はしわがどうのとか、子供がどうのとか、様々な話題で盛り上がりました。
 逆に言うと、見えなくなったことは必ずしも特別なことでなく、高校の同窓生と離れて生活していた30年間に起こった出来事のひとつでしかなかったのです。 

●ピアカウンセリングより
 私と同じぶどう膜炎の患者さんから、「風邪をひいたりすると、どうも目の炎症が強まる気がするのですが、稲垣さんはそんなことを感じたことはありませんか?」との質問を受けました。
 もう10年以上前に私も同じように感じたことがあったので、私はある眼科医に尋ねたことがあります。その先生は、風邪はのどの炎症だし、たとえば手や足をどこかにぶつけてけがをすれば、すり傷や切り傷を含めそれも炎症、身体のどこかに炎症が出れば、その炎症がもともと炎症のある目に影響を及ぼすことも少なくはないと教えてくれました。
 ところが、別の眼科医の診察時に、たまたま少し風邪気味だった私は、「風邪のせいで目にも炎症が出ちゃってますか?」と質問したことがあります。するとその先生は、「そんなことは関係ない、目の炎症と風邪に因果関係がある証拠は存在しない。」と、これまた医学的にはそうなのかもしれないと思える説明をされました。
 医学的な知識があるわけではない患者としては、ある意味正反対の見解ではあるものの、どちらの話もそれなりに納得がいく話でした。納得ができてしまうだけに正反対の話を聞いた患者としては悩む方もいらっしゃるかと思いますが、どちらも一理あると考えれば、患者としては自分の都合や気分に応じて、ある時は前者を、またあるときは後者の意見を信じればいいのだと思います。 

 いずれの出来事も、共通している点は自分の病気についてある程度分かっていなければ話にならないということです。
 眼科医の先生に違う見解を述べられたとしても、病気に関するある程度の知識があり、かつその病気とつきあってきた経験がある程度あれば、先生がどういおうと、医学的にどうであろうと、自分の経験上それが正しいと思えるかどうかの判断は可能です。
 健常者とともに働くにせよ、職業訓練や生活訓練を受けるにせよ、補償機器を選定する場合でも、自分の病気や見え方について、きちんとした知識があるのとないのとでは大きな違いが出てしまいます。
 とすると、「自分の病気をきちんと知る」ということが、見えない、見えづらい現実とつきあっていくうえで、一つのポイントになるのではないでしょうか。 

 それでは、自分の病気をきちんと知るためにどうしたらいいのでしょう? 私は今回の講演で、10年近く前からしたためている「慢性疾患恋愛論」の考え方の一部をご紹介しました。
 現代医学で治せない病気、当面一緒につきあって行かなければいけない慢性疾患を持った患者の場合、とことんその病気を好きになりましょうという考え方です。どんなに嫌でもつきあわざるを得ない病気だとしたら、嫌がっているよりも好きになった方が、理解が深まり、少しでも楽しく生活できるのではないでしょうか。
 現代医学の進歩により、その慢性疾患と発展的に別れられる日を夢見つつ、今はその病気といがみ合うのではなく、もっと理解が深まるように恋愛を楽しみましょう。

【略歴】
 1964年 千葉県出身
 1988年 明治大学政治経済学部経済学科卒業
  同年 株式会社京葉銀行入行
 1996年 ぶどう膜炎(原田氏病)および続発性緑内障により視覚障害2級となり同行を退職
  同年 筑波技術短期大学情報処理学科入学
 1999年 同学を卒業し、株式会社ラビット入社
 2005年 会社都合により、同社退職
 2006年 有限会社アットイーズ設立
  同年  9月 著書『見えなくなってはじめに読む本』を出版
 2010年 国立大学法人 筑波技術大学 保健科学部情報システム学科非常勤講師
  現在に至る

【後記】
 本音トーク全開でした。
「受容なんてできない。娘の顔がもう一度見たい!」
「当初は、治ることを信じていた。不安で不安で、どうしようもなかった」
「当時は病気のこと(原田病・続発性緑内障)を分からなかった」
「人に説明できなかった。分からないから怖かった」
「前の視力に戻ることが叶わないと悟った時から、苦しみが始まった」
「逃げ出したいと思った。逃げていても苦しみは増幅されるのみだった」
「ある時フッと、もう少し病のことを知りたいと思えるようになった」
「この病気と向き合おう。自分の中での納得が必要だ。この病を好きになろう」
「主治医といい関係を作ることは大事。人間関係、合う合わないはつきもの」
「せめて診察時間(3分でも)内に、一言二言会話をするように心がけた」
「治らなくても、病気を知ることで理解し好きになることはできる。これを『慢性疾患恋愛論』と命名したい」

 稲垣さんらしいトークでした。患者さんの目線で疾患との対処の仕方を語って頂きました。「慢性疾患恋愛論」良かったです。
 視覚障害者のためのサポートをお仕事にしている傍ら、患者さんのピアカウンセリング(電話相談)を行っている稲垣さんの益々の活躍を祈念しております。

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。
 眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
  日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html 

 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
  http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html 

 3)安藤 伸朗 ホームページ
  http://andonoburo.net/ 

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
 平成26年02月12日(水)16:30~18:00
  「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
     関 恒子 (松本市) 

 平成26年03月12(水)16:30 ~ 18:00 
  「私はなぜ“健康ファイル”を勧めるのか」
     吉嶺 文俊( 新潟大学大学院 医歯学総合研究科
            総合地域医療学講座 特任准教授)  

 平成26年4月9日(水)16:30~18:00
  「視覚障害とゲームとQOLと…」
     前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科) 

 平成26年5月14日(水)16:30~18:00
  視覚障がい者支援センター「ひかりの森」の過去・現在・未来
   ~地域生活支援の拠点として~
     松田和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長) 

 平成26年 6月11日(水)16:30~18:00
   演題未定
     上林洋子(新潟市)

 平成26年7月
   新潟盲学校弁論大会 イン 済生会