2008年11月12日

 演題:「”ふつう”ってなに?-見える見えないの狭間で思うこと-」
 講師:小川 良栄 (長岡市自営業)
  
日時:平成20年11月12日(水)16:30 ~ 18:00
  
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

【講演抄録】
 障害と社会のかかわりには、二つの考え方がある。ひとつは、健常者社会に障害者もできるだけ取り込んでいこうとする、「個人モデル」または「医療モデル」と呼ばれる考え方である。これは現在の大勢を占める考え方である。もうひとつは、障害者の差別や偏見につながる社会のルール、社会のしくみを変えていこうとする「社会モデル」と呼ばれるものである。 

 「医療モデル」は、視覚障害者が駅のホームから落ちてしまうのは目が見えないからであるとする、問題の原因を個人に求めるう考え方である。一方、視覚障害者が駅のホームから落ちてしまうのは、目が見えないからではなく、十分な転落防止策が講じられていないからと原因を社会に求めるのが「社会モデル」である。 

 世間では障害の重い人のほうが軽い人よりも、生活していく中で辛く困難であると理解されているが、この理解自体が間違っているのではないだろうか?そのことを「社会モデル」流に考えてみようというのが本日の話のテーマである。 

 軽度視覚障害者は全盲ではないけれども、どんな医学的手段を用いても十分に見えるようにならない。時に対人関係で、時に社会的配慮の遅れなどで、社会から背負わされる辛さというものがある。同時に社会の偏見から逃れるために自身の障害を隠すという心理的葛藤とも向き合わなくてはならない。つまり、軽度障害者には独自の辛さ、困難さがある。 

 障害の重い軽いというのは量ではなく、質である。同じ視覚障害者と呼ばれる中にも多様性がある。ところが、多くの人は障害者を安易なイメージでとらえてしまいがちである。視覚障害者とは白杖を使う人、点字を使う人と理解してしまう。でも、実際には生活していく中で障害者の感じる辛さや困難さは、個々にすべて違う。ひとくくりにはできない。 

 障害者が求める支援の幅は広い。事前の学習で得られる知識、例えば、視覚障害者の誘導の方法を学ぶことは無意味ではないが、それが視覚障害者そのものを理解することにはならない。事前にすべてのことを理解することは不可能であり、必要もない。大切なことは「自分は相手のことをわかっていない」ということを理解しておくことである。 

 相手のことがわからないから、想像する。そして聞いてみて、振る舞いを見てみて、わからなかったことが、わかることへ変化する。この繰り返しで人間関係は深まっていき、例えば友人関係になる。事前の知識は、相手が何が辛いのか、何に困っているのか想像するときに役に立つ。 

 しかしこれは相手が障害者だから特別なことではなく、健常者同士でも基本的には同じである。では、一対一という関係から、かかわる人の数が増えたらどうか、一対一の関係と比べてうまくやっていくのは難しくなる。それは、他者との関係を良好に保つために、時に自分を抑えなければならないことが増えるからである。 

 視覚障害者のために横断歩道にエスコートゾーン(*)をつけたい、といった見えない人のために作り変えていくためには、税金というコストがかかる。音声誘導付信号機の場合、誘導音声を騒音と感じる近隣の住民も存在し、時に自分を抑えて相手との間に妥協点を探らなければならない。困っている人を目の当たりにしない状況で、かつ、自分にとって大切な人のためだけでなく、会ったことのない誰かのために、想像力を働かせて積極的な負担ができるのかどうか、それが問題である。 

 人と人が暮らしていくためには、なにがしかのルール、言いかえれば社会のしくみが必要である。ルールを守るということは、そのまま、時に自分を抑えるということを意味する。自分の自由を守るためには、他者の自由も尊重しなければならない。自分が自由であることが他者の自由を侵害することがあってはならない。ルールのあるところには、それにかなうもの、つまり「ふつう」と、そこからはずれるもの「ふうつでないもの」が生まれてしまう。ジレンマである。だからこそ我々は誰にとってもフェアなルールづくりを目指していかなければならない。 

(*)エスコートゾーン
 道路横断帯(通称:エスコートゾーン)~横断歩道の真ん中に点字ブロック(触覚表示)敷かれていて、視覚障害者の道路横断を支援する設備 

 

【略歴】 小川良栄(おがわ よしえい)
 1984年 仙台医療専門学校卒業、国家試験合格後、盛岡リハビリテーション学院、小泉外科病院、更埴中央病院、老人保健施設サンプラザ長岡にて研修。
 1991年 長岡市に接骨院を開業、現在に至る。
 2005年 介護支援専門員ライセンス取得。
 2006年 (財)東京都老人総合研究所介護予防運動指導員ライセンス取得。
 2008年 長岡市介護認定審査会 審査委員に就任

 

【後記】
 小川さんは、これまで何度か勉強会に参加され、その度に的確なコメントをされる、お洒落で、頭脳明晰で、そして少しシャイな方です。8月の新潟ロービジョン研究会は、「視覚障がい者の就労」がテーマでした。「障がいを持つ者にとって、恋愛と就労は心底自らの障がいと向き合わなければならない場面を迎えるという点で、同じなんだ」と語った、小川さんのコメントは忘れられません。 

 前からこの勉強会でお話して頂こうと考えていましたので、やっと念願が叶いました。沢山のキーワードがありました。「ふつう」「自動車の免許」「個人と社会」「バリアフリー」「障害者と健常者」「社会のしくみ」「重度と軽度」「理解されない」「人間関係」「隠したい」「彼女とのデート」「予行練習」「「りんごとバナナ」「「思い込み」「ルール」「医療モデル」「社会モデル」「想像力」、、、、、、。 

 スライド(パワーポイント)を使っての講演でしたが、目の不自由な方のために音声(駅のプラットホームや音声信号機の音)を用意してくれた初めての演者でした。期待通り、いやそれ以上の立派な講演でした。 

 ご自身が軽度の視覚障がい者であることから、障がいの重い、軽いとは定量だけでなく定性で考えることも重要で、重い障がいはリンゴが10個、軽い障がいはリンゴが5個ではなく、バナナが1本という捉え方をしてほしい。そして、リンゴとバナナでは食べ方が違うように、支援のためのアプローチも違ったものになるという解説はとても理解しやすい例えです。 

 心理的側面の話題もありました。初めてデート。障がいを持つ者は、障がいのことをデート相手には隠してお付き合いをする。完璧に事前に予行練習をして臨むが、そこで生じる様々な失敗談の場面で、講演は一番盛り上がり、また印象にも残りました(小川さんには不本意だったかもしれませんが)。 

 そして社会ルールを守る(創る)ために、「想像力」を働かすことの大切さ。多くの教えを頂きました。

2008年7月27日

報告 第149回(08‐7月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』
   日時:平成20年7月4日(金)17:00 ~ 18:30 
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室A  

1)「共に生きる社会に向けて」
     石黒知頼(いしぐろ ともより)新潟盲学校中学部3年 
 【弁論抄録】
 視覚に障がいを抱えていても、他の人と同じことを同じようにできると嬉しい。今回特に、職業の選択、副音声、ATMについて考えたい。
 現在、大学も点字で受験できるようになったが、就職については現実的には厳しいようだ。視覚障がい者が就職できるとする職種は、鍼・灸・あんまということになるが、最近は音声パソコン等の普及により視覚に障がいを抱えていてもいろいろと活躍できる場が増えていることは心強い。しかし新潟で就職レベルまでパソコンを会得することは厳しい。大阪や筑波まで行かなくてはならない。
 テレビやドラマでの副音声解説があるとありがたい。見えなくてもテレビや映画を楽しみたい。周りの人が笑っていても笑えない。副音声があれば、どういう状況なのかがよくわかり、嬉しい。時には周りの人が状況を説明してくれるのだが・・・。 最近のATMは、タッチパネルなので僕達には使えない。全てのATMで音声案内が備わって欲しい。
 自分の力で何でもできるようになりたい。自立したい。職業の選択・副音声・ATMを糸口に訴えていきたい。 

 【弁士自己紹介】
 僕は野球部に所属しています。7月1日から3日まで新潟を会場にして北信越盲学校野球大会が開催されます。僕はレフトを守っています。音を頼りにボールをキャッチするのでとても難しいですが、うまくキャッチできたときはとても嬉しいです。学校では生徒会長をしています。ことしはいよいよ3年生で受験も控えているので、勉強も頑張りたいです。 

 【先生からの補足】
 知頼君は昨年度「関東甲信越地区盲学校弁論大会」に学校代表として出場しました。昨年も「暮らしやすい社会」の実現に向けて自分の感じていること、考えていることを発表しました。済生会の勉強会での発表は昨年に続き、2回目になります。とても張り切っています。昨年とは一味違う知頼君の発表にご期待ください。
 

2)「家族の絆」
     近山朱里(ちかやま あかり)新潟盲学校中学部3年 
 【弁論抄録】
 部活(卓球)のために一年間寄宿舎で暮らした。寄宿舎では身の回りのことはすべて自分でやらなければならない。掃除・洗濯物をたたむ、、大変だ。今まではこんな大変なことを全部やってもらっていたんだ。
 些細なことで家族とけんかをしてしまうが、翌日は「おはよう」と言って終わり。3世代同居をしている(母方の)祖母が入院した。「おばあちゃん、お願いだから早く良くなって」と祈った。
 寄宿舎で生活するようになってからいろいろと家族に支えられていたことを実感することができた。自分を陰で支えてくれていたこと、家族が健康でいることのありがたさ、強いつながり。
 家族と絆を実感し、家族に感謝している。 

 【弁士自己紹介】
 わたしは卓球部に所属しています。秋には石川県で北信越盲学校卓球大会が行われます。今年は選手として参加できるように練習を頑張っています。最初はなかなか難しかったですが、だんだんとボールを打ち返せるようになり、今はとても練習が楽しいです。学校での得意教科は英語です。理由はいろいろな単語や表現の方法を覚えることが楽しいからです。趣味は音楽鑑賞で特に最近のJ-POPをよく聴いています。 

 【先生からの補足】
 朱里さんは今年度新潟で開催された「関東甲信越地区盲学校弁論大会」に出場しました。昨年は「わたしの主張 新潟市地区大会」で最優秀賞を受賞し、県大会に進みました。大勢の前で発表することを何度も経験してきました。とても明るく、いつもにこにこしている朱里さんです。
 

3)新潟盲学校の紹介(ビデオ使用)  田中宏幸(新潟県立新潟盲学校:教諭)
   http://www.niigatamou.nein.ed.jp/
 当校は、昨年度創立百周年という大きな節目を迎えました。これまで当校が歩んできた歴史と伝統を振り返り、これからの特別支援教育の動向を踏まえ、新たな一歩を踏み出してまいります。
 また、当校は県内唯一の視覚障害教育専門機関として、その使命や役割を自覚し、特別支援教育推進に努めています。幼児児童生徒個々のニーズに応じた適切な教育支援を推進し、自立や社会参加につながる力の育成を目指し、県民の期待に応えます。
  (小西明校長あいさつ;HPより)

 

【後 記】
 毎年7月に、盲学校の生徒を招いて院内で弁論大会(盲学校弁論大会 イン 済生会)を行うようになって、8年目になりました。今年も2名の弁士を迎えて開催しました。
 限られた短い弁論時間で、これまでの挫折や苦労、そして小さな一歩の勇気から外に出て周りの人の温かさを知り、人のために何かしたいと感じ生きていく。そんな人間の強さ、無限の可能性に毎年感銘を受ける弁論大会です。毎回、生徒の明るさと、元気、純粋さに圧倒されています。
 

@全国盲学校弁論大会
 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
 社会に発信する機会の少ない視覚障害者が、自らの考えを確かなものにし、その思いを社会に届ける場として伝統を刻んできた。出場者からは視覚障害者の間で活躍するリーダーが育っている。 

 新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。
 第77回全国盲学校弁論大会関東甲信越地区大会(同地区盲学校長会主催、毎日新聞社点字毎日部など後援)が6月13日、新潟市内で行われた。7都県9校から盲学校の生徒11人が参加。出場者は7分の持ち時間で、障害を抱える中で体験したエピソードを熱く語った。
 審査の結果、東京都立八王子盲学校専攻科2年、北村浩太郎さん(36)が1位となり、県立新潟盲学校専攻科1年の佐藤成美さん(18)が2位に選ばれた。北村さんと佐藤さんは、10月に福島県で開かれる全国大会に出場する。 

@@新聞の投書欄から ~新潟日報「窓」 2008年6月26日朝刊
 元気もらった盲学校弁論大会
  新潟市 熊木克治(67) 新潟大学名誉教授
 先週、全国盲学校弁論大会の地区予選を聞く機会があった。
 盲学校理療科で解剖学を教えているが、目が不自由な人と聞くだけで、何となく腰が引けたり、遠慮していたりする自分に気付き、その未熟さを嘆いている。 さわやかな語り口から、勇気と元気をもらったのは、実は私のほうだった。
 障害を個人のマイナスとしてだけ捉えるのでなく、社会での広い相互理解の意識が大切と思う。いわゆる晴眼者といわれる私たちの方こそが、無知で認識不足であった。まさに「目からうろこが落ちる」貴重な体験であった。 

 

2008年5月14日

報告:第147回(08‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会  栗原 隆
 演題:『自らの身体への自己決定と身体の公共性』
 講師:栗原 隆(新潟大学人文学部教授)
  日時:平成20年5月14日(水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】 
1)臓器売買の自由はあるか?
 自由主義とは、以下のように定義される。a)判断能力のある大人なら、b)自分の生命、身体、財産に関して、c)他人に危害を及ぼさない限り、d)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、e)自己決定の権限を持つ(加藤尚武『現代倫理学入門』)。
 では、臓器売買について自己決定はできるのか? 

2)法律で決まっているからとはいえ、どうして臓器を売買することはいけないのか?
 臓器が少ない現状では、人助けとなる自発的な自己犠牲とも言える臓器売買は許されていいのではないか?とも考えられる。
 以下に資料を示す。 

 日本における臓器移植希望者数(2008年4月末現在)と2006年の移植数
         待機患者数      脳死移植数   生体移植数

  心臓          100            10           0

  心肺同時         4              0           0

  肺            115             3           4

  肝臓          201              5        505

  腎臓     11,802    16+死体181      939
 

 2006年に行なわれた実際の移植数(国際比較)
          心臓      腎臓     肝臓

  日本      10   1,136    510

  アメリカ 2,224  17,091  6,650

  イギリス   162   2,130    659

  フランス   380   2,731  1,037
 

3)どのように売買が禁止されているのか?(法的根拠)
 「何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条1項)。
 「何人も、移植術に使用されるための臓器の提供を受けること若しくは受けたことの対価として財産上の利益の供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条2項)。
 さらに、「前各項の規定のいずれかに違反する行為に係るものであることを知って」臓器の摘出、使用を行なうことが、5項で禁じられている。 

4)世界でも売買は禁止されている
 しかしながら、臓器売買の禁止は、個人の自己決定によって、自らの臓器を売買して利益を手にしたいと考える人の自己決定権を侵害しているとも言えるし、また臓器の提供数の増加を阻害しているとも考えることができる。 

5)なぜ臓器売買が禁止されているのか
 「富者による『搾取』から貧者を『守る』必要がある」という議論が前提になっている。 

―反論―
 ラドクリフ・リチャーズ:十分な情報が提供され、支払いも確実になされるようにするためには、政府による適切な規制のもとで臓器売買がなされるようにするほうが望ましい。
 安部圭介・米倉滋人:個々の病院が臓器売買を恐れて一方的にルールを定め、そのために移植の必要な患者の親族に心理的圧迫が加えられたり、逆に臓器提供者が見つかっているにもかかわらず、親族ではないために移植がなされず、患者の生命が救われなかったりする状況は、経済的弱者の『保護』を言いつつ、別の弱者を抑圧する結果を招いていると言わざるを得ない。
 結局、臓器売買は、コントロールされた条件下、状況において許される!!という主張である。 

6)これを聞いて釈然としない気持ちはどこから来るのか?
 人体は売り物ではないという思想がある。売春、援助交際は、違法であり、倫理に反する。それは身体を売ることだからいけない、とされている。
 人間の尊厳は、道具を使うところにあるのだ。道具とは自らの外部の自然物を対象化して自らの目的遂行のための手段とすることである。自らの身体そのものを道具・手段にするのでは、動物と同じで、それでは人間の尊厳は失われる。 

小括
(脳死からの)臓器移植は、
1)「技術をもってできることなら」という〈技術信奉〉の流れのなかで、
2)生命を維持するためには、他人の臓器を買ってでもなんだって治そう、いや治すことができるという〈生命至上主義〉を大前提として、
3)他人の臓器であろうと、病気の臓器であろうと、とりあえず役に立つものは何だって使って、とりあえず、病状の改善という結果が出るなら、それは良いことだと見る〈功利主義〉に、
4)自らの身体に関しては、各々が「自由な自己決定権」を持っているので、自分の身体を文字通り売ってでも金銭を得たいという、〈自己決定〉も尊重されるべきという自由主義が後ろ盾をしている思想基盤の上で、
5)現実に臓器が不足している、というストーリーが進行するところに正当化されることになる。

 加えてしかも、脳死からの臓器移植がご遺体の損壊に繋がりかねず、また他人の死を待つ医療であるという後ろめたさを斟酌するならなおのこと、自発的な臓器売買は〈倫理的に許される〉、ということになるかもしれない。
 この結論で皆さんは満足するだろうか? なにやらグロテスクな話しになりかねない。 

 医療行為は、健康を回復するためのものである。ところがその提供者にあっては、健康を回復するどころかリスクが残る。したがって、健康な提供者から、金銭授受を目的として臓器を摘出することは、医療の目的からして許されることではない。 

7)人間の尊厳
 仮に、〈技術信奉〉〈生命至上主義〉〈功利主義〉〈自己決定〉のいずれを強調するにしても、臓器売買は、健康な体から臓器を摘出するものである以上、医療の目的に反する。人間は自ら「目的」なのであって、〈手段〉に堕すなら、人間の尊厳に悖る。
 「君自身の人格ならびに他のすべての人格に例外なく存するところの人間性を、いつまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」(カント『道徳形而上学原論』)。 

8)しかし、これで落ち着くであろうか?
 〈したい〉ことの実現を目指すのが〈自己決定〉であって、「するべきこと」実現を目指す「自律」とはまったく違う。従って、自らの身体への自己決定権が持ち出される限り、倫理性に反することさえ追求されることになる。
 臓器移植は、そうした自己決定権が認められるべきだという虚構の倫理性の上に成り立っている。その極端な形が臓器売買ということになろう。 

9)身体の公共性
 身体は個人の持ちものではない。身体=私である以上、自由な処分対象にはならない。
 「他人の身になる」―「身を持ち崩す」―「身から出た錆び」―「医療に身を入れる」―「身の程を知らない」―「身を立てる」
 そもそも、身体は、誰の所有物でもない。だからこそ自由に処分されえない、人格の尊厳の証なのである。 

10)人権観念の違い
 アメリカ式の考え方:人権とは個人の自由と権利であって、それ以上でも以下でもない。自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由であるとして、広範な処分権をその人個人人認めるのが基本となる。
 人体要素の売買も一概には禁止されない。移植目的で提供された臓器や組織の売買は法で禁じられているが、提供された組織を保存・仮構して売買することは認められ、広くビジネスとして行なわれている(橳島次郎『先端医療のルール』)。
 フランスの民法では、「法は人身の至上性を保障し、その尊厳へのあらゆる侵害を禁じ、人をその生命の始まりから尊重することを保障する」 (民法典第16条)。
 「各人は自らの体を尊重される権利を持つ」として、「人体の尊重」を人権として認める(同16条の1)。
 そのうえで、「人身の尊厳」の具体的な中身として、「人の体は不可侵である。人の体、その要素およびその産物は、財産権の対象にできない」(第16の1条)。――不可侵の原則
 「治療が必要な場合に人体への侵襲を行なうには、それに先立って本人の同意を取らなければならない」(第16条の3)。――同意原則
 「人体とその要素および産物に財産上の価値を与える効果を持つ取り決めは、無効である」(第16の5条)、「自分自身に対する実験研究や、自分の体の要素の摘出もしくは産物の採取に同意した者には、いかなる報酬も与えてはならない」(第16の6条)――無償原則 

 フランス国務院の報告書 『同意はすべての場合に不可欠であるが、すべてをカバーすることはできない。人は、部分であろうと全体であろうと自らの体についていたいと思うことを絶対にする自由を持つものではない。人格はその人自身からも守られなければいけないというのが、公共の秩序による要請である(橳島次郎『先端医療のルール』)。 

 自己決定が有効な範囲と身体の公共性への認識を深めることが必要である。 

 

【栗原隆氏 略歴】
 1951年11月 新潟県生まれ 小学校三年まで新潟市
 1970年3月 新潟県立長岡高等学校 卒業
 1974年3月 新潟大学人文学部哲学科 卒業
 1976年4月 名古屋大学大学院文学研究科(修士課程) 入学
 1977年3月 同 中退
 1979年3月 東北大学大学院文学研究科(修士課程)終了
 1984年3月 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)修了 学術博士の学位取得
 1984年8月 神戸大学大学院文化学研究科 助手
 1987年4月 神戸女子薬科大学 非常勤講師
 1991年4月 新潟大学教養部 助教授
 1994年4月 新潟大学人文学部 助教授
 1995年2月 新潟大学人文学部 教授  
  専門は、生命倫理学、環境倫理学、近世哲学(ドイツ観念論)

 

 

【後 記】
 臓器売買の自由はあるか?という今回の話題、かなり刺激的でした。人は誰でも長く、そして健やかに生きたいと願います。時には人の臓器を提供して頂いてでも、万能細胞の力を借りてでも、、、、、。 諸外国に比べ、日本における臓器移植の少ないという事実。今や臓器移植を望むなら、インドやフィリピンにでも行かなければならない時代です。 

 現代は、核家族化が進み、おじいさん・おばあさんと一緒に住むことが少なくなりました。身近な人の「死」を経験することがなくなりました。そして「死」を受け入れること、「死」について考える機会が少なくなってきました。臓器移植ばかりでなく、万能細胞や再生医療の話題が毎日のように流れて来ます。そもそも医学とは人間を死なないようにする学問だったのでしょうか? 
 しかし、誰も死ななくなったらどうなるのでしょうか?限りある資源環境である地球に住む人類、人口が増え続ることは不可能です。「死」を受け入れる覚悟も必要かもしれません。 

 それにしても今回のお話は、臓器売買の危うさを論理的に解釈することの大事さを示してくれました。生命倫理において、論理的思考は重要です。そして人間の生きるべき道筋を深く洞察する哲学が深く関わることも理解できました。一方、これは変だなと直観的に感じることのできる皮膚感覚を磨くことも大切だと感じました。
 毎回、興味深い話題を提供して下さる栗原隆先生に感謝致します。

2008年1月9日

 演題:『歩行訓練士は何を教えるのかー
            自分の歩行訓練プログラムを考えるために』
 講師:清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)
  日時:平成20年1月9日(水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 はじめに今回は中途視覚障害者を対象とした話です、と前置きがあった.
 「見えない人が安全に街を歩けるのか?」という命題から話し始めた.現実には、車輛交通の増加、スピードや移動形態の異なる歩行者の混在、低い縁石など、街がますます歩きにくくなっている.加えて、歩行者(視覚障害者)の高齢化、実働する歩行訓練士の地域格差(都市部には多いが、地方は少ない)という状況がある.これらの問題の突破口をどこに求めるのか?何よりも視覚障害者自身が「歩行訓練」が何かを、理解して批判できるようにならなくてはならない. 

 「歩行訓練」は「街を歩く訓練」である.「街を歩く」ことは、 単純化すると以下のようになる.1)単路(街区の辺)を歩く、2)角を見つける、3)角を曲がる、4)道路を渡る、5)方向を定位する(単路と「平行」、横断する道路と「垂直」)、6)杖の技術(物と身体の接触、段の踏み外しを寸前で阻止しする) これらが歩行訓練で習得する基本技能である. 

 目的地へ行き着くためには、「ランドマーク」を辿る.ランドマークを知る方法としては、現地調査、人に聞く、地図などがある.よく視覚障害者は「メンタルマップ」を持つべきと言われるが、観念的すぎる場合がある.実際には、メンタルマップを意識するよりも、具体的なランドマークを記憶する方がわかりやすいのではないか?ランドマークは人により様々に異なる.自分に合ったランドマークの選別も歩行訓練の重要な課題である. 

 「歩行訓練士が少ない」「訓練施設が遠い」場合は、自分の生活圏で街歩きの基本技能を練習すると良い.しかし屋外の歩行の場合、転倒、物との衝突、車輛との接触の危険があるので、家族・友人・ガイドヘルパー・ホームヘルパーといった身近な人に練習の見守りを依頼する.練習を始めるにあたっては、歩行訓練士と、練習の課題・場所・頻度・想定される危険等を話し合い、その後定期的(週一回あるいは月一回程度)に観察評価を頼む.この形態であれば、歩行訓練士が少ない地域でも歩行訓練は可能である. 

 毎日の生活に、一人歩きの練習時間が組み込めないかを考える.例えば、家族やガイドヘルパーとの買い物あるいは散歩ルートの中に、10メートルでも一人で歩ける所がないかを検討する.一足飛びに都心の雑踏を歩くことを考えず、まず、自分の生活圏で「歩く場所」を作り、一人歩きの楽しさを感じ、自分の歩行能力を確認してほしい. 

【略 歴】
 歩行訓練士として、
  1979年~2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、
      その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
  1988年~新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
      視覚障害リハビリテーション外来担当。
  2003年~「耳原老松診療所」視覚障害外来担当。
  2004年~特定非営利活動法人 Tokyo Lighthouse  理事
      視覚障害リハビリテーション協会 理事
  http://www.ne.jp/asahi/michiko/visionrehab/profile.htm 

【後 記】 
 清水さんがお話される時は、いつも多くの方が参加されます。今回は、なんと遠く鹿児島、長崎、仙台からの参加者があり、最初から寒さも吹き飛ばすような熱気の中で始まりました。

 講演のあとの、参加者が皆で感想を語り合います。異口同音に「『歩く』ことを、こんなに深く洞察した話を聞くのは初めて」と述べていました。今回の清水さんのお話を聞いていると、「歩くこと」とは「生きること」と同じように聞こえてきました。いつも清水さんは「当事者の声が大事です。何か困ったことがあったら声を出して下さい」とよく言います。主体性を大事にします。

 歩行訓練士は、ただ歩く技術を教えるのではなく、如何にして思い通りに歩くことが出来るか、当事者自身に考えさせることが大切と説きます。結局「教える」ということは、「考えさせる」ことと思い知らされます。これは学校の先生も、医者も同じかなと感じました。 いつものように、いや、いつも以上に考えさせられた一時間半でした。

2007年9月12日

報告:第139回(2007‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   宮坂道夫
  演題:『かつてハンセン病患者であった人たちとともに』
  講師:宮坂道夫(新潟大学医学部准教授)
    日時:平成19年9月12日(水) 16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 ハンセン病は、病気というものが悲しい差別に結びつくことを、痛切に教えてくれる最たる例である。この病気が遺伝病ではなく感染症であることがわかったのが19世紀の末、日本国憲法に基本的人権がうたわれたのが1946年、ハンセン病の効果的な化学療法が開発されたのが1950年前後、世界ライ学会や世界保健機関(WHO)が隔離政策の廃止・通院診療が望ましいと公式な見解を出したのが1960年前後である。しかし、隔離政策を根拠づけた「らい予防法」が廃止されたのは、1996年のことであった。およそ一世紀にもわたる不合理な絶対隔離政策による患者の人権侵害が、かくも長く続いた原因はどこにあるのだろうか? 

第1章 無知から始まる旅
 2001年5月11日、何気なくテレビを見ていた。TV番組「ニュース・ステーション」で、熊本地裁判決(隔離政策に対する訴訟;原告側勝訴)のことを報じていた。谺(こだま)雄二さんが出演していた。1960年代生まれの私は、この時ハンセン病の「患者だった人」が語る姿をはじめて見た。谺さんは長い時間をかけて、カメラに向かって思いのたけを理路整然と訴えていた。彼は、病気が治って後遺症を抱える「患者だった人」である。病気が治っているのに、何故療養所で暮らさなければならないのか?そもそも感染力が強くもないハンセン病の患者が、何故故郷を捨てて人里離れた療養所に隔離されなければならなかったのか?このようなことが多くの国民に知らされていなかったのはマスコミにも責任があるのではないか? 

 新潟大学の全学講義(前年の全学講義は、ノーベル賞を受賞した白川英樹博士)に谺さんをお招きして、お話を伺うことにした。講義の打ち合わせで2002年3月25日、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所の栗生(くりゅう)楽泉園に谺さんを訪問した。そこで幾多のことを教わった。園内だけでしか通用しない紙幣の存在、かつては外部との手紙も検閲されていたこと、亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂、断種手術に使われた手術台、中絶した胎児のホルマリン漬けの標本、しかもそのような理不尽なことをかつて日本が台湾や韓国・中国でも行ってきたこと、園に入園した親を持つ子供は学校にも行けなかったこと、手でペンを持てないために口でペンをくわえて文字を書いていた人もいたこと、居住地のはずれに重監房と呼ばれる跡地。「孤独地獄、闇地獄」「日本のアウシュビッツ」、、、これは許されないことだと感じた。 

第2章 医学の物語
 2002年5月20日、新潟大学全学講義で谺さんに講演してもらった。演題は「人間として生きたい」であった。会場は満員となり、地元の新聞にも大きく取り上げられた。谺さんの「語り」は迫力があった。自分自身の体験を語るという当事者ならではの「小さな物語」と、日本国のハンセン病政策の歴史という「大きな物語」を同時に巧妙に織り交ぜて語って頂いた。 

 ハンセン病は「らい菌」が鼻粘膜や気道から侵入し感染すると考えられているが、感染の仕組みは今も解明されていない。「らい菌」を培養することが出来ていないため、細菌の生物学的性質が調べられていない。ただし確実に判っているのは、たとえ体内に感染したとしても防御免疫機能が働く場合は、感染が成立することは非常に少ないということである。 

 ハンセン病が進行すると「変形」と「身体障害」がもたらされる。らい菌が皮膚で増殖すると腫れ物や潰瘍を生じたり、皮膚を肥厚させる。末梢神経の障害により、手足の指が硬くなり屈曲したり、感覚がなくなり外傷や火傷を負っても気が付かないこともある。感染症対策で問題となるのは、感染を防ぐための隔離という手段の是非である。倫理学という視点からから考えると、二つの倫理原則について検討すれば、事足りる。すなわち、自律尊重原則(患者の自己決定権が尊重されるべきという原則)と、無危害原則(患者もしくは第三者にとって危害となるようなことはするべきでないという原則)である。この二つの原則から隔離を検討すると以下のようになる。病気そのものがもたらす危害が重篤で、他の手段で防げない時に限って、隔離という手段が検討される。次に隔離の医学的必要性を患者に十分に説明して、患者本人が自らの意思で隔離に応じるように促す。それが困難である場合に限って、強制隔離が検討される。 

第3章 烙印の物語
 ハンセン病は、古い時代から世界の多くの地域で強い差別の対象だった。特に顔貌の変化、手足の変形、潰瘍や膿、臭いなどに人々は反応した。このようなハンセン病を疎ましいと考える「烙印」、価値観は世代を超えて、そして地域を越えて世界中に存在した。仏教に、「天刑病」という言葉があり、よい行為をしなければハンセン病のようになってしまうという警告の役割をしていた。仏教に限らずキリスト教やユダヤ教をはじめ多くの宗教にこうした例を見ることが出来る。 

 19世紀にはヨーロッパの列強が植民地を拡大したが、そこにはまだハンセン病が蔓延していた。ノルウェーのハンセンが患者の組織から「らい菌」を発見し、感染症であることを1873年に報告し、次第に認められるようになってきた。ハンセン病がすでに過去の病気になった「文明国」は、まだ流行している「非文明国」からのハンセン病流入を防ぐため、植民地で強制隔離が行われるようになった。 

 オーストラリアでは、アポリジニーからのハンセン病感染を防ぐため、「らい線」と呼ばれる南緯20度に境界線(大陸に引かれた隔離の線)を引いた。南アフリカの療養所では、逃亡を防ぐため有刺鉄線がはりめぐされた。数ある収容所の中でもロベン島は最悪の場所だった。反体制の政治家、犯罪者、精神病者、そしてハンセン病患者がこの島に送られた。 

 わが国では、1900年当時の内務省は、(非文明国の病気であると考えられていた)ハンセン病患者の第一回全国調査を施行し、日本全国に3万人いることを報告した。このことは列強の仲間入りを目指していた日本にとって「国辱」であったと思われる。こうした事情からか、日本における強制隔離は、世界各国のものよりも群を抜いて強力なものであった。本人の意思に拠らない「強制隔離」であり、「生涯隔離」であり、たとえ完治しても隔離を解かない「絶対隔離」であった。 

第4章 世界最悪のパターナリズム
 光田健輔は、「救らいの父」と評価され、1951年文化勲章を受章した。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名。一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されてる。 

 「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」は、患者を弾圧する、人道に反するものである。何故このようなことを思いつき、実行したのだろうか?実際は、「善行」として、良かれと思って、行なわれたふしがある。ある意味での「パターナリズム」という解釈である。「パター」とは父親という意味であり、父親と子供という当事者同士に力の不均衡があり、「強者」が「弱者」に対して恩恵を施すという価値観である。 

 「医は仁術」と言われる。「仁」の概念は、日本の近代医学で流通しているものと、中国の倫理思想でだいぶ異なる。「仁」は孔子によって提唱された倫理観である。「孝」が子供が親を尊ぶべきものという原則であるのに対して、「仁」はもっと広い対象への思いやりを意味する。他人に対しても親と同じような思いやりを持ち、自分を抑制するべきであるという倫理原則である。「対等もしくは同等の者が、目の上の者に対する関係」を前提としている。 

 日本における「医は仁術」は、専門知識を持ち、社会的地位が高い医師が、患者にかける憐れみの情を含んでいるように思われる。「救らい」という言葉で語られたハンセン病政策は、それに関わる医師、看護師、宗教家、社会事業家、学者、文化人等々が、皆「恩恵」を患者に与えようとしている。本人が意識しているか否かに拘らず、「目の上の者から、目下の者へ」というパターナリズムに近い構図のもとで成り立つ倫理観である。 

 「救らいの父」と称せられた光田健輔は、日本のハンセン病政策をデザインした当事者であった。弱い立場にあったハンセン病患者を「庇護」しようと、時に手弁当で働き、政府に働きかけ、ユートピアというべき療養所の建設を目指す姿はまさに「父親」のイメージであった。こうした努力により、国立ハンセン病療養所長島愛生園が完成した。その園長に就任した光田は「大家族主義」という方針を打ち出した。「患者も職員も家族であり、私が家長となり、親兄弟のように暮らしていきたい」。そして家長は罰する権限を持つとも述べている。家族主義の中には、「罰する親」という側面も有している。 

第5章 重監房であった出来事
 「大家族主義」の美名の下で行われた、強力な隔離、強制労働、断種と堕胎に対して、患者が不満を持たないはずはなかった。こうした不満に対して当時の日本政府は力で抑え込もうとした。1907年に制定された「らい予防法」は、9年後1916年療養所の所長に対して懲戒検束権を付与するように改められた。さらに15年後の1931年罰則規定が定められた。罰則の内容は、謹慎、減食、監禁、謹慎と減食、監禁と減食等の段階である。期間は30日以内とされたが、最大2ヶ月まで延長を認めた。科刑の場所として、各療養所に監禁所が設けられた。監禁所で「獄死」する患者が相次いだ。 

 私は「生命倫理学」を専門にしているが、ハンセン病問題を知るほどに、複雑な思いを抱かされた。米国から「患者の権利」「インフォームド・コンセント」といった概念が日本に紹介されたのは1970年代だが、ハンセン病の患者さんたちが人権擁護の運動を起こしたのは、それよりずっと前の1950年前後のことである。しかし、生命倫理学のテーマとして、ハンセン病問題が取りあげられたことはほとんどなかった。日本の医学史に「患者の権利の確立」という項目があるとすれば、ハンセン病問題抜きに語ることはできないであろう。この巨大な「事件」を生命倫理学という観点から見つめ直すこと- それは研究者としての自分自身への問いでもあった。 

 昨年(2006年)刊行した『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)をベースに、お話をさせて頂いた。

 

【宮坂道夫先生:略歴】
 http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
 昭和63年 3月 早稲田大学教育学部理学科卒業
 平成 2年 3月 大阪大学大学院医学研究科修士課程修了(医科学修士)
 平成 6年 9月 東京大学大学院医学系研究科博士課程単位取得退学
 平成 7年 9月 東京大学医学部助手
 平成10年 9月  博士(医学)取得(東京大学)
 平成11年10月 新潟大学医学部講師
 平成15年 1月 新潟大学医学部助教授
 平成19年 4月 新潟大学医学部准教授

 主著『医療倫理学の方法』(医学書院)
   『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)
 http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
 

【後記】
 ハンセン病、こんなに苛酷な実態だったとは、、、。知ってしまった、今後見過ごすことは出来ないというのが実感でした。

 改めて、ウィキペディアで「光田健輔」、検索してみました。「救らいの父」と評価され、文化勲章を受章した光田健輔氏。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名です。一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されています。 

 お話している時の宮坂先生は、静かに怒っているように見えました。光田氏「個人」に対する批判を避け、生命倫理学者の立場から「世界最悪のパターナリズム」と結論されました。 

 お聞きしているうちに今回はかなり重いテーマの勉強会と感じていましたが、宮坂先生は最後に、「私は怒りに満ちて闘争している訳ではありません。谺(こだま)雄二さんや、国立ハンセン病療養所栗生(くりゅう)楽泉園の皆さんの人柄に触れて、交わりを楽しみ、今後もお付き合いしていきたいという思いがつよいのです。」と語ってくれました。それを聞いて何故か少しホッとしました。 

 亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂のお話を聞いてた時、新潟県の視覚障がい者で構成する男性合唱団「どんぐり」(*)が、「粟生楽泉園」で行ったコンサートのことを思い興していました。最後に歌った曲は「故郷」。「兎追いしかの山~こぶな釣りしかの川~~~」。帰りたくても帰れない故郷を思いながら、全員で涙して歌ったと聞いています。

 ハンセン病、もう少し勉強してみたいと思いました。

 

(*)男性合唱団「どんぐり」
 http://www.ginzado.ne.jp/~tetuya/donguri/ayumi.htm

 

 

2007年7月18日

報告:第137回(2007‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』 
 日時:平成19年7月18日(水) 16:30 ~ 18:00
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

1)「住みやすい社会」 
  石黒知頼(いしぐろ ともより)中学部2年生
【講演要旨】
 僕は困っています。そこで社会に対して二つのお願いがあります。「電化製品の音声化」と「歩きやすい社会」ということです。
 一つめの「電化製品の音声化」についてです。DVDを購入したのですが、画面が判りませんので、「メニュー」からの操作が出来ません。自分では何もできず、ボタンを押す回数で操作を覚えました。「音声があるといいのになあ」といつも思います。
 二つめは「歩きやすい社会」についてです。歩いていると電柱にぶつかったり、道ばたには蓋のついていない排水溝があったり、点字ブロック上には車がとめてあったりと、視覚障害者にとっては不便な状況がかなりあります。電柱をなくす(地下に設置する)、マンホールの蓋は閉める、点字ブロック上には物を置かないなど留意してもらうと私たちでも歩ける社会になります。
 こんな工夫をしてもらうだけで、人の手を借りなくても自分でやれるようになります。こうしたことをこれからも、声を出して訴えていきたいと思います。  

【自己紹介】
 将棋が大好きです。そんなに強くありませんが、将棋の番組も好きです。学校で好きな教科は英語です。今年の体育祭では実行委員として、「競技上の注意」を発表しました。緊張しましたが間違いなくしっかりと言えました。 

【先生から】
 6月22日に行われた関東甲信越地区盲学校弁論大会(*)に、学校代表として参加しました。英語、パソコンが得意です。学校では毎日英語を使って会話しています。 

【全国盲学校弁論大会】
 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
 新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。

*関東甲信越地区盲学校弁論大会
 平成19年6月22日(金)、「かながわ労働プラザ」、横浜訓盲学院主管 持ち時間7分間、原稿なし、マイクなしの条件の下、12校13名の弁士がそれぞれの体験や思いをこめて熱弁を繰り広げた。
 

2)「本当の便利さとは」
  近山朱里(ちかやま あかり) 中学部2年生
【講演要旨】
 視覚障害者にも使いやすい商品は確かに開発されてきています。シャンプー(ギザギザがついている)とリンスの区別、携帯電話のナビゲーション機能などはとても便利です。でも、まだまだ使いにくいものが多いです。画面でのタッチパネルや、ボタンが小さいことなど・・・。公共のトイレも場所によってボタン式だったり、レバーだったりです。
 3年前我が家で、新しい車を購入しました。でもこの車のラジオ等の操作は、タッチパネルなので使えませんでした。自分で出来なければ、誰かに頼まなければなりません。運転中に言われたら困るだろうなと思います。 修学旅行に行った時、トイレに入りましたが操作が出来ませんでした。
 どんどん便利になっているとはよく聞きますが、「本当の意味での便利さ」とはどういうことなのでしょう。今の商品はデザインが優先されています。もちろんお洒落なものは作って欲しいです。でも私たちにも使えるものを作って欲しいのです。
 これからも、こうすればよくなる、こうすれば使えるようになるということを、提案していきたいと思います。 

【自己紹介】
 6月23日に行われた県音楽コンクールピアノ部門に、2年ぶりに出場しました。 現在は毎日弥彦から通っています。よく見る番組は「どんど晴れ」です。 

【先生から】
 いつもにこにこしている子です。中学部では紅一点の存在ですが、がんばっています。昨年はヘレンケラー記念音楽コンクール(*)において大人も混じった中で、ピアノ部門1位を獲得しました。 

*ヘレン・ケラー記念音楽コンクール
 東日本及び西日本ヘレン・ケラー財団を統括する日本ヘレン・ケラー協会などの主催で1949年(昭和24年)12月13日、全国盲学生音楽コンクールとして、始まりました。盲学校音楽教育の実態を知ってもらい音楽家を志す盲学生の登竜門にするのが目的です。第6回(1954年)から東京ヘレン・ケラー協会のみの主催となって、「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、第51回(2001年)から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大し、現在の名称に改めました。
 この間、第6回に小学4年でデビューしたバイオリンの和波孝さん、第17回に同じ小学4年で絶賛されたチェンバロなど鍵盤楽器演奏家の武久源造(たけひさ・げんぞう)さんら、国際的に活躍する音楽家を輩出しています。また、このコンクールで得た自信を、その後の道に生かして音楽とは別な分野で優れた業績を挙げた人も少なくありません。

「第56回ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」
(主催;東京ヘレン・ケラー協会、共催:JT、後援;文部科学省、毎日新聞社など) 
 平成18年11月25日 JTホールアフィニス(東京都港区)
 【ピアノ中高大学の部】
  1位 近山朱里(新潟県立新潟盲・中1)
  2位 勝島佑太(武蔵野音大4年)
  3位 小島怜(筑波大付属盲・専2)
 

3)「障害者生活10年を考える」 
  櫻井孝志(さくらい たかし)高等部普通科3年生
【講演要旨】
 視覚障害者になってから、今年でちょうど10年となります。この間に感じたこと、考えたことなどをお話します。いろいろと感じてくださるとうれしいです。
 生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。5年生から毎日2時間だけ登校しました。「本当にこの授業を受けていいのだろうか」「私のために授業が遅れてしまわないだろうか」。周囲の人は、とても私に気を遣ってくれました。でもそれが苦痛でした。特別扱いをしないで欲しいと思いました。 会津若松への移動授業の時、私の手を繋いでくれていた同級生が「誰か櫻井君の手を引いてよ」と言った一言を、今でもよく覚えています。
 中学から盲学校に通っています。小学校時代に感じていたような罪悪感はなくなりましたが、井の中の蛙にならないか、盲学校にいることは社会への逃避にならないかという思いがあります。健常者の行っているイベントによく参加します。こうした交流は必要不可欠と思っています。
 自分と同じような障害を持つ環境にいることは住みやすいのですが、傷つくことを覚悟で健常者の世界に飛び出していきたいと思っています。 

【自己紹介】
 好きな教科は歴史と古典です。3年前にも済生会病院で「ヘレンケラーを目指して」というものを紹介させていただいたことがあります。
 今年の体育祭では、紅組の団長を務めました。例年になく緊張して本番を迎えました。今年の紅組のテーマは「風林火山」でした。その心意気のもと、団員全員の心を一つにして闘い、応援と競技でダブル優勝を果たすことが出来ました。 

【先生から】
 歴史に関する感心と知識はかなりのものです。高校3年生ということでさまざまな場面で活躍しています。今年度の体育祭では紅組の団長を務め、すばらしいリーダーシップを発揮して競技、応援とも優勝を勝ち取りました。  

 

【後 記】
 2001年から毎年、当院にて新潟盲学校の生徒による弁論大会を開催し、今回で7回目になります。人の役に立つことをしたい、人の手を借りずにやっていけるような社会に変えていきたいという真摯な訴えに、毎回感動しています。
 石黒知頼君は背筋をしっかり伸ばして、大きな声で発表してくれました。流暢な英語の発音にびっくりでした。近山朱里さんは、明るくチャーミングな性格が印象的でした。櫻井孝志君は、3年前に続いて2回目の登場でした。成長した姿を見せてくれました。
 今年は新潟盲学校創立100周年にあたります。これまでの道のりは決して平坦ではなかったと思いますが、まっすぐに成長している生徒の姿を拝見し、素晴らしい教育がなされていることを実感しています。ますますの発展を期待します。 

2007年6月13日

 演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 
                  黄斑症患者としての11年』
 講師:関 恒子(患者;松本市)
  日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

【講演要旨】
ⅰ)はじめに
 病歴:1996年1月左眼の視野の中心に小さな歪みが出現し、強度近視による血管新生黄斑症と診断された。同年11月には右眼にも同様な症状が出現し、左眼は強膜短縮黄斑移動術(1997年)、左眼は360度網膜切開黄斑転移術(1999年)を施行。結局両眼合わせて入院を5回、手術を9回経験した。その後香港で光線力学的療法(PDT)を受け、更にその後ステロイド治療も受けた。現在は、左眼矯正視力は現在0.5であるが、中心部にはドーナツ型の暗点があり、その中心は歪んで見える。有効視野は狭く生活には不自由である。右眼は矯正視力0.4で、暗順応、色覚が悪く,羞明等問題はあるが、生活には役立っている。現在右眼の視野狭窄の進行が不安である。
 発病からの11年を振り返ると、医療体験の中からそして家族から得てきたもの、あるいは視力障害を持ったために得た新たな感動等が思い起こされ、私には失ったものより得たものの方が多いように思われる。 

ⅱ)医療体験の中から
 私が気付いた最初の異変は左眼の小さな歪みだったが、黄斑変性症について何の知識もなかったため、歪みが大きくなり新聞の文字が読み難くなってから、コンタクトレンズのことでお世話になっていた開業医のN先生を訪れた。そこで視力が0.1以下に低下するかもしれないと聞いた時は信じられなかった。そして紹介された地元の大学病院で更に検査したが、確立した治療法がなく、視力低下を回復することができないと聞き、落胆した。 

 経過観察する中、いよいよ視力が0.3程に低下した時点で新生血管抜去の手術が提案されたが、その病院では当時まだ3例しか経験がなく、視力の改善も望めないという説明から私は手術を受けることを躊躇した。N先生は初診の日から行く度に「心配なことがあったらいつでも相談に来て下さい」と言ってくれていたので、私はN先生を訪れ、手術について相談した。N先生は私の話を聞いて、新たに大阪の大学病院で診てもらう手配を整えてくれ、私はそこで手術について相談することになった。 

 ところが、大阪の大学では新生血管抜去の手術ではなく、新しい手術を勧められた。視力改善が望める新しい手術と聞き、私はその手術に期待して即座に承諾して地元に帰った。早速N先生に報告すると、それはどんな手術かと尋ねられたが、その時になって私は「視力改善が望める新しい手術」としか聞いて来なかったことに気付いた。網膜の新しい手術についてはN 先生も情報がなく、とにかく情報を集めようということになり、間もなく米国の雑誌に網膜移動術の報告を見つけたのだが、その手術の結果は私の期待とはかけ離れたものだった。「受けようとしている手術がどんな手術か確かめてから受けるように」というN先生のアドバイスを受けて、私は大阪の病院に説明を求めた。 

 結局私は視力回復を願い、手術を受ける決心をした。私と同様に説明を受けたN先生は、私のために他の先生方の意見も集めてくれ、心配しながらも私の決心に同意してくれた。 

 新しい手術には危険が大きいけれど、視力改善の可能性に賭けることを私は決断した。それは何の治療も受けずにいることの方が私には遥かに辛かったからである。視機能の低下を自覚しながら、何の治療も受けられずに経過観察だけを行っていた1年間は、発症から現在までの11年間で私が最も辛かった時期であった。 

 手術を決意するまでの過程で、惜しみなくN先生が私を援助してくれたことから、私は精神的にも支えられ、現在に至ったことを私は大変感謝している。N先生からは「患者は、治療について説明を充分聞くこと、それを理解する努力をすること、そして最後の決定は自分自身ですべきであること」を学んだように思う。 

 医学にも限界がある。患者は自分の問題を全て医学に負わせるのではなく、自分の人生に係わる重大な問題の決定には、自ら参加しなくてはならないと思う。自分で決定したことには自分にも責任が生ずる。「決定に対する自己の責任」の認識が、例え結果が悪くてもそれを受け入れ、その後の人生を前向きに生きることができることに繋がり、又医療者側と患者が良好な関係を保つことにも繋がると思う。 

 私の手術の結果は全てが期待通りだったとは言えない。けれども、治療の存在が私に希望を与え、治療が受けられたことで当時の私が救われたことは確かであった。私は自分の決断を後悔したことはない。 

ⅲ)家族と共に
 両眼に発症したことが分かり、将来へ大きな不安を感じた頃のことである。「命がなくなるわけではないから、いいじゃないか」と言う夫の言葉はいかにも気軽で、「自分の眼は命より大切なものだ」と信じていた私には意外だった。しかし夫の書斎に目の病気に関する本が沢山積み重なっているのを見て夫の心の内が察せられた。 

 私には成人した子供、一男一女がいる。電話で私の窮状を訴えると、2人からも「目は悪くなっても死にはしないから大丈夫」と夫と同じような言葉が返ってきて驚いた。更に長男から「全盲の人でも立派に市民生活をしているよ」と言われた時、私はようやく気付いた。 

 それまでの私は「見えなくなるかもしれない」という不安に支配され、暗い将来ばかりに目を向けていたが、「自分はまだ見えている」という明るい側面に目を向けることができるようになったのは、その時からだった。これを契機にポジティブな考え方ができるようになり、眼が悪くなったために「できなくなったこと」を数えるより、「まだできること」を楽しみ、新たな喜びと感動を味わうことができるようになったのである。私の家族がしてくれた最大のサポートがこのように私にターニングポイントを与えてくれたことであったと思う。 

 私の眼の病気は、家族にとってもショッキングなことであったに違いないが、家族が動揺を見せず、常に私を支える側でいてくれたことは有り難いことだった。家族が病気を理解し、状態を敏感に察知して何気なくサポートしてくれたことにも感謝している。 

ⅳ)「見たいものが見えない」「見ようとしなければ見えない」
 私のように障害認定を受けるほどの障害を持たない者には、外からの援助は少ないので、患者自身が積極的に自分の問題を解決し、QOLの向上を図る必要がある。黄斑変性症になると、環境によって見え方が左右されるので、自分の見え方をよくするためにどんな環境が最適であるかを考え、可能な限り環境を整えることが大切である。 

 黄斑変性症患者にとって「見ようとする意識」と「見るための努力」が大切な要素となる。病気のために中心視野が見え難くなると、周辺のどうでもいい物は見えても見たい物が見え難くなる。今まで何の意識もなく見えていたのに、見ようと意識して視線をずらさないと見たい物が見えてこない。見たいという意識なしには物は見えてこないのである。そして、足りない視力を補うために面倒がらずに道具を使い、それを上手に使いこなすための工夫・努力も必要である。 こうした努力をして眼に見えてくる映像は、以前より鮮明に輝きを増し、多くの感動を与えてくれる。 

ⅴ)終わりに
 私の右眼は手術後近見視力がかなり改善した。しかし又悪くなるかもしれないという不安がある。今見えるうちにこの視力を最大限に活用しようと、5年前から地元の大学でドイツ文学を学んでいる。手術してくれた先生に感謝しながら、文字を読めることの喜びを噛み締めている。 これも、私が視力障害を持ったからこそ味わう喜びであり、新たに知った世界と新たな感動の一つである。 

 最後にドイツ文学の中からゲーテ(1749~1832)の詩劇『ファウスト』を簡単に紹介したい。
 学問を究め尽くした結果知り得たことは、「何も知ることができない」ということだけだったと、失望した老博士ファウストのところに、悪魔メフィストフェレスが現れ、魂を賭けた契約をする。それは、悪魔の助けによってこの世のあらゆる歓楽を味わわせてもらう代わり、満足の余り「時よ、とまれ。お前は実に美しい!」と言ったら、死んで魂を悪魔に渡すというもであった。 

 早速博士は若返らせてもらい、美しい若い娘と恋をする。しかし、その恋に安住できず娘を捨て、あらゆる享楽と冒険の遍歴を重ねる。そして人のために生きたいと願うようになた時、灰色の女「憂愁」に息を吹きかけられ、失明してしまう。だが失明した博士の心の中の火は燃え上がり、輝きを増して、理想の国家建設の意欲に燃える。 

 メフィストは博士の墓穴を掘らせていた。目が見えない博士はその工事の音を聞いて、理想の美しい国ができ上がることを想像して思わず、「時よ、とまれ。……!」と言いつつ倒れる。しかしその魂は悪魔に渡ることなく、天国へと導かれる。 

 失明後の博士は、人のために生きる意欲に燃え、それまでこの世のどんな歓楽にも満足することがなかったのに、見えないために墓穴工事の音を聞いて自分の希求の完結を心の中に見て、最高の時を味わうことができたのである。 

 私は、「心の目」が、きっと幸せをつかんでくれることを信じている。
 

【略 歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の新生血管黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』(監約:田野保雄、約:関恒子;文光堂)
 松本市在住。

 

【後 記】
 難治な疾患の治療に立ち向かった自らの経験を振り返り、医師との関係の持ち方、患者の自己責任、家族の支え、ゲーテのファウスト等々についてお話されました。静かなそして誠実な性格そのままの話し振りで、集った人々は皆、関さんの世界に引き込まれました。
 以下は、関さんからお聞きし印象に残っているので紹介致します。
 「『見たい物しか見えない』これが今の私の見え方を最も端的に表す言葉です。しかし、充分な視力があって、あらゆる物が見えていても、心に残る物はどれだけあるでしょうか?どんな人も見ようとする心と、心のあり方によって見えてくる物や、その姿形も違ってくると思います。人にとって大切なものは心であり、心のあり方だと思います。」

2007年1月14日

  演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
  講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
   日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要約】
1) 新潟県立高田盲学校(盲学校として日本で3番目に創立)の閉校
 盲学校は、全国に72校、在籍者は約3700名である。全国の盲学校の生徒は昭和45年から50年がピークで、毎年70名以上減少している。ここ2~3年の減少は著しく、特に大人の生徒数が減少している。 

 障害のある子どもの教育について、障害の種類や程度に応じ特別の場で指導を行う「特殊教育」から、通常の学級に在籍するLD・ADHD・高機能自閉症の児童生徒も含め、障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換が提言された(平成17年12月8日中央教育審議会)。障害のある子どもの教育にとって、戦後60年を節目とする大きな転換である。 

  盲学校として日本で3番目に創立された新潟県立高田盲学校は、生徒数の減少の影響もあり、平成18年3月に118年の歴史を閉じた。 高田盲学校を創始し、視覚障がい者教育に生涯を捧げた先覚者、眼科医・大森隆碩の偉業を紹介し、その功績を思い起こしてみたい。 

2) 明治時代の視覚障害者
 明治11年(1978年)明治天皇は巡幸で新潟県を訪れた際、新潟に盲人が多いと申され、御下賜金千円を賜った。さらに翌明治12年(1879年)、恩賜衛生資金として一万円を賜れた、新潟県では無料で眼科検診が行われた。明治18年(1885年)内務省通達11号による各府県の鍼灸取締規則など医療制度の近代化に対応して、明治23年(1890年)ごろ鍼按講習会・盲人教育界が出現した。 

 新潟県では、明治18年(1885年)新潟で関口寿昌が「盲人教育会」(後の新潟盲学校)、明治20年(1887年)高田で大森隆碩が「盲人矯風研技会」、明治38年(1905年)長岡で金子徳十郎は「長岡盲唖学校」を設立。 

3) 隆碩の生い立ちと略歴
 弘化3年(1846年)大森隆碩は、高田藩眼科医、大森隆庵の長男として生まれる。藩政立て直し策をめぐって藩主の怒りを買い、十代半ばで脱藩。明治維新前後の激動期、隆碩は江戸や横浜で時代の風を存分に浴びた。ヘボン式ローマ字つづりで知られる医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。元治元年(1864年)18歳で高田で眼科医開業。戊辰戦争で杉本直形(2代目校長)と治療に当たる。明治11年(1878年)医事会、明治16年(1883年)高田衛生会を設立する。明治18年(1885年) 39歳のとき視覚障害者となる。

 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)日本で3番目となる訓矇学校設立。当初、丸山謹静ら盲人の方々が設立しようとしていたのは、按摩などの技術を高めることで、いまで言えばテクノスクール。しかし、隆碩は技術習得だけではだめ、人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養をつんで教育しなければならないと主張。技術学校ではなく、本格的な学校設立を目指した。 

 「心事末ダ必ズシモ盲セズ」~「視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という隆碩の信条である。学校経営は厳しかった。私財を投じた盲学校の運営は綱渡りの連続。『炭を買う金がない』と学校から連絡があると、妻が着物を手に質屋に走る、、。

 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。病気の隆碩に代わり次女ミツ(当時18歳)が祝辞を述べた。ミツは後に東京盲学校の教師となる。隆碩は、社会事業(女子教育、地域医療)にも活躍した。

 明治36年(1903年)療養先の東京で没。 

4) 隆碩の盲学校創設と新潟県立高田盲学校
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
 *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。 組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。
 明治24年(1891年)校名変更 「私立訓矇学校」。
 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。
 大正4年(1915年)校名変更 「私立高田盲学校」
 大正11年(1922年) 県内4校の再編・県立移管。
 昭和24年(1949年) 「県立高田盲学校」
 平成18年(2006年)3月 「県立高田盲学校」閉校。 

 1887年に創設され、1949年県に移管された高田盲学校の歴史は、人間味にあふれている。118年受け継がれてきた建学の理念は、郷土の貴重な遺産である。

5) 隆碩の残したもの
【訓矇学校】
 当時の多くの盲亜学校が手に職を与える職業教育にとどまっていたが、一般教養を培うことの大切さを強調した。盲は肉体の盲、矇は心の盲。まず心の矇を啓いて後に教育するべきと考え、校名を訓矇学校とした。
【単独校】
 日本での初期の盲学校は盲亜学校として誕生した。しかし隆碩は心理学的に、人格形成の上で両者は同一でないと考え、聾唖者の入学を断り、盲人のみを対象とした学校とした。
【研究機関】
 鍼灸按摩以外の職業分野の研究を重ねた。また指導法についても熱心に取り組んだ。早期から点字教育を行った。

 

【小西明氏 略歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校
 1995年 新潟県立高田盲学校
 1997年 新潟県立教育センター
 2002年 新潟県立高田盲学校 校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校 校長 

【参考】
1)小西 明:上越教育大学障害児教育実践センター紀要.第12巻.57-59.平成18年3月
2)石田誠夫(眼科医、新潟県上越市)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/Isida.htm
 祖父も父も、この高田盲学校をこよなく愛しておりました。、、(途中略)、、、、(祖父は)眼科医である隆碩先生の「視覚障害者を社会に復帰させよう」という心意気を子供の頃より感じ取り、この地に戻ることにより、盲学校の校医として、その伝統を引き継ぐことになったのではないでしょうか。
3)市川信夫(高田盲学校、元教員)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/itikawa-kouen.htm
4)新潟日報:平成18年3月18日(土)日報抄
 全国で三番目に古い歴史を持つ上越市の高田盲学校が最後の卒業式を行った。寂しい。学校は新潟盲学校に統合される。明治憲法よりも早く、雪深い地方で先人が掲げた盲人教育への熱い思いは、しっかりと受け継いでいきたい(後略)。
****************************** 

【後記】
 雪深い新潟の高田に、どうして全国で三番目に古い盲学校が設立できたのか長い間疑問でした。今回のお話で大森隆碩の足跡を知るにつけ、郷土の先人の偉業に感嘆し、先見の明に心打たれます。
 偶然にも、神戸盲学校(現在の兵庫県立盲学校)創設者である「左近允孝之進(さこんじょう こうのしん)」の伝記を読む機会を得ました(注)。
 大森隆碩と左近允孝之進 同じ頃に自らも視覚障害者であった二人に交流が無かったようです。しかし視覚障がい者教育に理解の無い周囲の反対に遭いながらも、盲学校を職業訓練学校としてではなく人間教育の場と考え、貧乏しながらも設立まで成し遂げる姿はそっくりでした。第一回の卒業式に、健康の理由で参加出来ないところまで一緒でした。
 多くの盲学校がこのような歴史を持ちながら今日に至ったことを、改めて噛締めています。今日、私たちが忘れてならないのは、大森先生の残した「心事未ダ盲セズ」という障害者に対する深い思いやりの心、暖かい気持ちかもしれません。福祉制度の充実も大事ですが、この精神を考える機会を今後も持ち続けたいと思います。 

 注:「見はてぬ夢を」視覚障害者の新時代を築いた左近允孝之進の生涯 
    山本優子著(2005年6月20日発行 燦葉出版社)
 

【附:日本&世界の視覚障がい者関連年表】
 *1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院設立(世界最初の盲学校)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る。
 *1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767~1841)が12点式点字等を考案。
 *1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828~1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
  *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。
 *1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866~1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる。
 *明治34年(1901年)石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
 *1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
 *明治38年(1905年)左近允孝之進、神戸に六光社を設立、わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊。
 *明治43年(1910年)東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。
 *1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan’s)を設立、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始。
 *大正5年(1916年)石原忍(1879~1963年。東大医学部眼科学教授)、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発。
 *大正9年(1920年) 新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(現在の新潟県点字図書館の前身)。
 *同年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年~「点字毎日」)を創刊。
 大正12年(1923年) 「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離)
 *昭和10年(1935年)10月 岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。
 *1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889~1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告。
 *1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
 *1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
 *昭和33年(1958年) 「角膜移植に関する法律」公布、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる。
 *昭和38年(1963年)6月 厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示、同年10月に慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクの三か所がそれぞれ認可される。
 *
1968年、米国「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers ActABA)成立。
 *昭和45年(1970年)6月 市橋正晴(1946~1997.先天弱視;1996年株式会社大活字創立)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足。
 *昭和51年(1976年)9月 社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
 *昭和54年(1979年) 7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設。
 *昭和58年(1983年) 高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」発売。
 *平成4年(1992年)5月 「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)活動を開始(正式発足、1994年11月)
 *平成12年(2000年)4月 日本ロービジョン学会創設。

 

2006年11月11日

報告:第128回(2006‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田稔/西田朋美
  『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2006』
     「失明の体験と現在の私」 
       西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
     「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
       西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
  日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。 

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。 

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html 

【講師略歴:西田稔氏】
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力 

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「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。 

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。 

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】 
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。
 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。 

 

【後 記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。
 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。
 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」
 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・  
 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。
 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。
 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。

 

2006年9月13日

報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
    演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』
    講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
     日時:平成18年9月13(水)16:30 ~ 18:00
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
【講演要旨】
 私は新潟県中魚沼郡岩沢(現在は小千谷市)に、6人兄弟の末っ子として生まれました。生後5日目に役場に務めていた父が病死。村長が名付け親になってくれました。その年は電線をまたいで歩くほどの大雪で、「深雪」という名前を付けてもらいました。母一人で6人の子供を抱え、貧乏でした。私は生まれつき視力が不良(網膜色素変性)で、兄も同じ病気でした。村の小学校に入学。良くは見えませんでした。1・2年生の頃は、担任の先生がよく気を付けてくれて、明るい窓際の最前列に席があり、黒板の文字も見えましたので、何とか勉強についていく事が出来ました。3・4年生の頃は、廊下側の席で暗くてよく見えませんでした。 

 「あきめくら」と、よく虐められました。今でも忘れられない3つの事件があります。小学校2年の頃、「弁当事件」がありました。男の子2人と女の子2人が私の机を囲んで、「この弁当を食べろ」というのです。今まで食べたこともない美味しい焼き魚に卵焼き、、、絶対に家の弁当でないと判っていたので、食べないと言い張ったのですが、友達は許してくれませんでした。いやいや食べ終わると、職員室に呼ばれまし た。弁当を作ったおばさんは、担任の先生とおろおろしている私に、「オレは、お前のことは怒らない。お前に食べさせたあの子達を叱ってやる。先生もこのこのことは叱らないでくれ。」と言ってくれました。 

 「松ヤニ事件」もありました。当時松ヤニをガムの代わりによく噛んでいました。友達はおしっこをかけた松ヤニを「食べろ」と迫ってきました。必死に拒みました。耳を澄ますと人の気配がしました。わざと大きな声で泣いてみせました。すると村の人が現れて、「またお前達が虐めているな!」と怒ってくれました。村の人たちはいつも自分を守ってくれました。 

 どんなに虐められても、母には言いませんでした。でも靴を川に捨てられた時は、さすがに裸足で帰った私をみて、母は事情を問い質しました。友達に靴を川に捨てられたと告げると、母はその子の家に行き、その子とその子の両親と一緒に、川に行き靴を探しました。暗くて冷たい川でした。とうとう靴は見つかりませんでしたが、とっても母が強く、そして頼もしく感じました。 

 小学校4年の時、新潟盲学校への転校を勧められ福祉事務所の人と、母が見学に行きました。小学校五年の時に転校しました。そのころ村は小千谷市と合併し、転校に必要な物は全て市が揃えてくれました。盲学校では、一人で掃除や洗濯など身の回りのことは出来るようになりました。 

 あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、17歳で盲学校を卒業、長野県野沢温泉に就職しました。あんまり若かったので20歳といいなさいと言われたのを覚えています。20歳の時に新潟県の弥彦村に転居、22歳であんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡に渡りました。佐渡では、「かまど」を使っていましたが、私はガス釜と電気洗濯機を買って使いましたが、「洗い」は洗濯機、川で「すすぎ」、そして「干す」という毎日でした。23歳で長女を産み25歳の時、長男が生まれました。風呂は銭湯でした。なるだけ一番湯を心掛けていました。ある時混んでいる時に銭湯に行き、よその子の手を引いて出てきた事がありました。 

 子どもを一人生むたびに視力が下がり、長男を産んだ後に一気に下がったときのショックは今も忘れません。朝起きて曇っているものだとばかり思って外に出たら、お日様が照っていると聞かされました!!視力が下がったことを知ると同時に日中も白杖をつかなくてはならないのかな?と思うようになりました。夜は何の抵抗もなしに白杖をついていましたが、日中はどうしても白杖がつけませんでした。理由の一つに子どもたちへのいじめがあったら・・・ということが頭にこびりついていたからです。27歳の時、佐渡から新潟の岩室に引っ越しました。転居がきっかけで転居と同時に白杖をつきまた。案の定、岩室では私と子どもたちが土地の子どもにからかわれてずいぶん悔しい思いをしました。我が家の子どもたちが小さかったこともあり、からかわれている意味が分からず負けずに言い返していたことが私たち夫婦には救われました。 

 かつて弥彦に住んでいましたのでて土地カンはありました。岩室で仕事を探すため、夜子供が寝てから夫婦二人で探検に出かけ、旅館を一軒一軒回りながら場所を覚えました。28歳の時、長男が交通事故で入院し、40日間付添、以来専業主婦になりました。3人の子どもが就職するまで専業主婦。 

 40歳の頃、友人の上林洋子さんに、関良介さんのパソコン説明会に誘われていったのがきっかけで、パソコンというものと漢点字を知り、仲間と一緒に夢中で勉強しました。DOSからWINDOWSにと、どうにかこなせるようになりました。 

 50歳の時に、長男が結婚して同居するようになりました。その後夫が体調を崩して仕を辞めてしまい、それを期に夫の贔屓だったお客さんを中心に仕事を再開しました。仕事を始めるようになり、外出する機会が増えました。このころに私の視力もほとんどなくなりました。 

 上林さんが盲導犬を連れているのを知り、私も欲しくなりました。57歳の時に遂に夫を説得して、盲導犬を申し込みました。平成15年11月、4週間訓練所に泊まりこみして盲導犬 ファビーを手に入れることが出来ました。夫は仕事を辞めてから、家に引きこもりがちでしたが、ファビーが来てからは生活が一変しました。毎朝ファビーと一緒に夫婦で3キロ弱の部落を一回り30分くらいで、会話をしながら散歩します。外での活動も増えました。盲導犬ユーザーの会、ハーネスの会の行事への参加、お茶の間サロン、指編み、、、。一昨年に障害者週間記念イベント「みんな違って、みんないい~西蒲地域助け合い・支えあい・共生フォーラム」の実行委員として参加させていただき、500名が集いました。昨年も成功し、今年も続けてやろうということになり、現在はその準備で忙しくしています(下記*参照下さい)。 

 ファビーと歩きながら、いろんな人たちとのふれあいを楽しんだり、パソコン教室に通いながら情報交換をしたり、ウォーキングで汗を流したり、編み物やカラオケと思う存分楽しんでいます。
 

*『’06第3回たすけあい・ささえあい・共生フォーラムinにしかわ』
  目的&スローガン
   “しょうがい”の有無、“しょうがい”の種別、年齢の違いを乗り越えて、誰もが暮らしやすい“まち”を作る為に、みんなで話し合おう!
  日時:2006年12月9日(土)12:30~16:30
  場所:新潟市西川多目的ホール・西川学習館
  連絡先:障害者生活相談室「わぁ~らく」竹田一光 

【岩崎深雪さん略歴】
 生まれつきの弱視(網膜色素変性)。村の小学校に入学し、その後小学5年生で新潟盲学校に転校。昭和37年に、あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、長野県の野沢温泉に就職、その後弥彦に転職。昭和42年に、あんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡へ。昭和47年に現在地に移住。3人の子どもが就職するまで専業主婦。平成6年頃に主人が体調を崩し仕事を引退。その後、私が仕事に復帰して平成15年に盲導犬ファビーと出会い、私の不注意から右手首を骨折し、それを期に引退。
 新潟県視覚障害者福祉協会、新潟県盲導犬ユーザーの会、新潟・盲導犬ハーネスの会、新潟県視覚障害者友好協議会にそれぞれ所属。