報告:第104回(04‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 (林 豊彦)
演題:『障害者の自立を支える生活支援工学‐視覚障害者のための支援技術を中心に‐』
講師: 林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科福祉生体工学講座教授)
日時:2004年(平成16年)11月10日(水)16時30分~18時
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要約】
日本社会は人類がいまだ経験したことのないスピードで少子高齢化が進んでいます。21世紀は社会のあらゆるセクターで、その対応に迫られることになるでしょう。社会の技術的な基盤に係わる従来の「工学」も大きく方向転換を迫られています。「高齢社会」、「障害者の自立支援」に直接取り組む新しい工学も生まれつつあります。それが「生活支援工学」です。
21世紀は高福祉社会;あらゆる人々が快適で心豊かに暮らせるためには、人に優しくインテリジェントで高機能な機器・システムが必要です。生活支援工学は、そんな人間中心のエンジニアリングを目指します。
1)高齢社会における福祉機器産業
福祉用具の市場は年々拡張しているが、特に共用品(下記)が伸びています。
2000年度
福祉用具(障害者専用) 11,389億円(対前年度伸び率-0.3%)
共用品 22,549億円(対前年度伸び率21.6%)
合計(広義の福祉用具) 32,421億円(対前年度伸び率13.6%)
*共用品の定義:1.身体的障害や機能低下のある人にもない人にも使いやすい。2.特定の障害・機能低下のある人むけの専用品でない。3.一般に入手や利用可能。4.一般の製品と比較して、著しく高くない。5.継続的に製造、販売、利用されている
日本では人類史上前例のない「超高速高齢化」が進行しています。65歳以上の人口比(高齢化率)が7%から14%になるのに要した年数は、フランスで110年、米国で70年、旧西ドイツで40年であるのに対して、日本はわずか24年です。
こうした状況は当然「モノ作り」の現場に影響してきます。我が国で福祉機器産業が盛んになってきた背景には、こんな事情があるのです。
2)バリアフリーとユニバーサルデザイン
バリアーフリー社会は、「心身に障害や機能低下がある人でもない人でも分け隔てなく、すべて平等な条件で生活できる社会」と定義されます。ユニバーサル・デザインは、ロナルド・メイス(米国、ノースカロライナ州立大学;1941-1998)により提唱されました。彼は、9歳の時にポリオ感染後、車椅子・酸素吸入を使用しました。
【ユニバーサル・デザインの7大原則】1.誰にでも役立ち、購入可能 2.個人の嗜好や能力を許容 3.使い方が理解しやすい 4.必要とする情報を効果的に伝達 5.誤動作時の安全性 6.身体的努力が不要 7.適切なサイズとスペース
高齢者・障害者への配慮の標準化は、ISO/IEC GUIDE 71 (2001)、JIS Z8071:2003等、世界規模でどんどん進んでいます。
3)「支援工学」小史
日本では福祉・リハビリに「愛情」と「根性」が大事とされていますが、米国では早くから技術の重要性が指摘されていました。米国で発達した背景として、ベトナム戦争があります。1970年代米国にはベトナム戦争での傷痍軍人が溢れていました。そうした人達への支援が米国内の5箇所のセンターで行なったのが「支援工学」の始まりでした。
1971 Rehabilitation Engineering(RE)の誕生
1973 福祉工学(科学技術庁)
The Rehabilitation Engineering Society of North America(RESNA 北米リハビリテーション工学協会)
1980 International Coference on Rehabilitation Engineering(ICRE)(RESNA主催)
1986 日本リハビリテーション工学協会(RESJA)
1990 Americans with Disability Act(ADA法)
1998 日本福祉工学会
2000 日本生活支援工学会
4)高度情報技術(IT)によるバリアフリー化
健康人が高度情報技術を使用するのは、軽自動車からベンツに乗り換えるようなものですが、障害者の方が高度情報技術を利用するというのは、歩き専門から自動車を運転するというくらいの変化です。視覚障害者の方にとって、今や高度情報技術は「目」の働きをしているのです。
5)視覚障害者の生活支援機器
我が国における視覚障害者の特徴は、年齢構成で60歳以上が67.2%で、特に70歳以上が多いことです。点字は18歳以上の視覚障害者の9.2%、一級障害者の17.5%でしか使われていません。すなわち点字を用意しただけでは、視覚障害者に配慮したことにはなりません。視覚障害者の情報源は、(テレビ)66.9%、(家族・友人)61.0%、(ラジオ)52.1%、(録音・点字図書)7.9%、(パソコン通信)0.3%、、、、、、、視覚障害者の情報は、マスコミや身近な人たちに依存し、支援技術への依存度は低いことが分かります。
ⅰ:日常生活を支援する機器
点字、浮き出し文字、拡大レンズ、拡大読書器、白杖、時計(触読式、音声デジタル式)、計量機「さじかげん」、音声ガイド電磁調理器
ⅱ:コンピュータ利用を支援する機器
弱視者のための画面設定~windowsの「ユーザ補助」、ハイコントラスト機能、マウスポインタ設定、画面の拡大、音声合成エンジンの発達により、「話すコンピュータ」(スクリーンリーダーによるテキストの読み上げ)が出現し、全盲の人でも使えるようになりました。
6)リハビリテーション法508の衝撃
米国連邦政府が調達する全ての高度情報技術機器は、ハードもソフトも障害者がアクセスすることの出来るものに限ると定めました(2003年1月1日完全実施)。政府の予算を受けている州や大学にも適応され、今後障害者が使えない機器を購入した場合は、職員や市民から提訴の対象となるというものです。適応となる製品は、1)ソフトウェア・OS 2)Webサイト 3)電子通信機器 4)ビデオ・マルチメディア製品 5)コピー機、プリンタ、ファックス 6)パソコン
1986 リハビリテーション法に第508条追加
連邦政府職員が使用する、ハードの規定
1992 第508条の改正
ソフトに関する規定の追加
1998 第508条の再改正
ガイドライン作成をアクセス委員会に委嘱
2000 電子・情報技術アクセシビリティ基準の公示(12月21日)
2001 第508条の試行実施(6月21日)
2003 第508条の完全実施(1月1日)
米国の電子機器企業は、会社を挙げて早くから対応。カナダ・EU諸国は国家レベルで対応。一方、日本は企業単位で対応していますが、米国政府調達品から日本製品の締め出しの可能性もあり、「新しい非関税障壁」となってきています。
7)コンピュータ利用支援センターの必要性
いくら情報機器のユニバーサルデザインが発達しても、支援機器が発展しても、これだけでは単なるインフラ整備です。使用する人への直接的な支援を行なわなければ利用してもらえません。ここが強調したいところなんです!!
1989年、米国では子供や障害者の自立支援を目的に、技術を利用する、親・利用者・専門家による「コンピュータ・アクセス・センター」が開設されました。これは、物作りの人と利用者を結びつける組織です。活動の内容は、多彩です。1)技術相談 2)電話相談 3)技術支援 4)子供のコンピュータ・クラブ 5)高齢者のコンピュータ・クラブ 6)オープン・アクセス 7)ハード・ソフトの貸し出し 8)講演・ワークショップ 9)教育用支援技術の研修、、、。活動のための収益の殆どは、企業からの補助金(3兆8千億円;67%)であり、個人からの献金(2千億円;3.4%)もあります。文化や歴史の違いでしょうが、我が国の対応とは大分異なります。
新潟大学工学部福祉人間工学科では、視覚に障害を持つ人々に対して、自立的に情報を獲得・発信できるようにコンピュータの使い方を個別指導することを目的として、パソコン講習を開催しています。会場は新潟駅プラーカ3にある「クリック」(新潟大学新潟駅南キャンパス)です。どうぞ利用下さい。
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【林豊彦先生 略歴】
1973年3月新潟県立長岡高等学校卒業、
77年3月新潟大学工学部電子工学科卒業、
79年3月新潟大学大学院 工学研究科電子工学専攻修了、
同年8月新潟大学歯学部助手(歯科補綴学第1講座)
87年3月新潟大学歯学部附属病院講師(第1補綴科)、
91年4月新潟大学工学部情報工学科助教授(生体情報講座)、
95年4月新潟大学大学院自然科学研究科情報理工学専攻助教授
(生体情報制御工学大講座)
96年 米国Johns Hopkins大学;客員研究員、
98年4月新潟大学工学部教授(福祉生体工学講座)
【URL】 http://atl.eng.niigata-u.ac.jp
【趣味】リコーダー演奏,パイプオルガンの組立・調律,英会話,登山など
【後 記】
「生活支援工学」、聞き慣れない分野のお話でしたが、とても魅力的でした。エネルギッシュな講演でした。56枚にも及ぶスライド&レジメをもとに、「生活支援工学」に関する広範でかつ最新の話題を、1時間でお話下さいました。内容にも感心しましたが、判りやすい、そして聴く者の興味をそらさない語りは見事でした。
講演後の話し合いでは、新潟市や加茂市で視覚障害者のパソコン教室を主宰する方々や盲学校の先生から感想や意見が出ました。家電製品のバリアフリーの話題では、視覚障害のKさん、Sさんの活き活きした意見が印象的でした。「N社の洗濯機は駄目。細かい操作が判らない。大まかなことは困らないので、細かい操作にも配慮してくれないと困る」「携帯電話も会社により使い勝手は様々、いいものもあれば、そうでないものも、、、」
参加された方から、以下のメールを頂きました(到着順)。
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●林先生の博識でエネルギッシュなお人柄には驚くばかりです。勉強会の感想としては、良くも悪くもアメリカとの違いを感じました。大企業が納める税金の使い方が理にかなっているように思いました。特に大企業の収益に応じた社会への還元というのは、政策として是非日本でもできたらと思います。ボランティアという便利な言葉に甘んじて、ボランティアへのサポートを行政は怠っているようにも感じます。身近なパソコンのことから、人権問題、福祉政策といった大きなテーマにまで及んで、とても考えさせられた時間でした。(JU)
●日頃、健常人の立場でしが考えたことがなかったので非常にためになりました。(SH)
●勉強会での林先生のお話は、本当にすばらしいお話で、ただ単に目の前のボランティア活動だけで汲々としている小生にとっては、今回のお話のような大きく広い視野からの障害者に関する情報をお聞きする機会はめったにないものですから、大変良い勉強会に呼んで頂いたと喜んでおります。有難うございました。林先生のあの素晴らしい話術にも感激しました。(SK)
●先日は勉強会に参加させていただきましてありがとうございました。林先生にはパソコン講習会でお世話になりました。マンツーマンで2日教えていただきました。英語の発音が他の人と違うのはアメリカに行ったからのようですね。大学の工学部の先生が福祉の分野にどのようなお話をされるのか興味がありました。視覚障害者も含めた障害者全体と高齢者等も含めて福祉を考えておられることに感心をさせられました。私は残念ながらスクリーンの映像は見えませんので具体的に理解が難しい面もありましたが、勉強会の雰囲気は非常によいものであると感じました。これからも機会があれば参加させていただきたいと思います。(MI)
【目の愛護デー記念講演会 2004】
(第103回(2004‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
演題:『眼の話』
講師:藤井 青 (新潟医療専門学校教授;前新潟市民病院眼科部長)
期日:2004年10月13日(水) 17時~18時
場所:済生会新潟第二病院 10階 会議室
主催:済生会新潟第二病院眼科
『人類にとって眼とはなにか?』。文献に裏打ちされた豊富なデータや知識、ご自身で撮られた美しい新潟の風景写真をふんだんに使用し、集まった80名の聴衆を魅了しました。以下、講演の内容を私なりに、感想を交えてまとめてみました。
【講演要旨】
第1章 「昔の人は眼をどう考えていたか?」
豊富なスライドを用いて、で古代から人間と「眼」についての係わり合いについて解説。博識に圧倒された。
第2章 「人間の眼は精密なカメラ眼」
イカやタコの球状レンズ、サソリなどの外部レンズ、カタツムリなどの内部レンズと脊椎動物のカメラ眼を対比させ、人間の眼は精巧で、カメラに例えられることを解説。ここまではふんふんと聞く。
第3章 「あやふやな視覚」
精密であるはずの人間の眼が、実は頼りない。錯視について様々な例えで具体的に話された。同じ長さの2本の平行な直線、この両端に「><」と「<>」をつけると、途端に前者の線は後者よりも短く見える(ミューラリーの錯視)。末広がりの斜線の中に平行な直線を入れた場合、斜線間が広い方の直線が短く見える(ポンゾの錯視)。同じ長さの直線を逆Tの字に直角に描いただけで縦線が15%も長く見える(フィック図形)、、、、、、等々。
アナモルフォーシス(正面から見ると無意味な模様に見えるが、ある特定な見方をすると絵が現れてくる)は、レオナルド・ダ・ヴィンチにより最初に描かれたものとされているという。さらにメタモルフォーシス(一見普通の絵が、視点を変えてみると男性の顔が女性の裸体に変化したり、昆虫が人間に変わったりする。すなわち変身する)も紹介。日本にもアナモルフォーシス画は存在した。「鞘絵」は刀の鞘に映して見る、、、、、、。もうこの辺りからは、興味津々、メモを取る手がが止まってしまう。
第4章 「もう一つほしい第三の目」
今見ているものは真実だろうか?というタイトルで始まった。「第三の眼」などというと漫画の世界かと思いきや、実に奥の深い内容だった。流石(さすが)!「第三の眼」を持つ三眼の神としては、インド神話のシヴァ神が代表格である。ネパールのある地域では、今も眉間に第三の眼をつけた少女神「クマリ」が生き神様として崇められている。
オタマジャクシやハヤなどの魚類、カエルなどは両眼を摘出した後も光を感じている。第三の眼の知覚である。未分化の光感覚器を包括して「光受容器」と総称しているが、このうち「松果体;しょうかたい」だけを特に「第三の眼」と呼ぶ。松果体は、トカゲでは頭頂眼としてレンズや網膜が残っていて、今でも眼として認識されている。カエルではレンズが消失して、単に袋のような形になったため前頭器官と称されている。人間はじめ哺乳類では光受容体としての機能は消失し、ホルモン分泌専用器官のように見える。わずかに残されている照度計としての作用が、体内時計として働いている、、、、、、、。
最終章
哺乳類である人類では、松果体は見る器官としての「第三の眼」は失ってしまった。しかし心や精神、知恵、洞察力などとして間違いなく「第三の眼」は残っているし、必要とされている。複雑で分かりにくい現代社会の様々な現象を間違いなく見極めるために、「第三の眼」をしっかりと見開くことが、今の我々に求められている。
【藤井 青 先生 略歴】
昭和40年3月新潟大学医学部卒業。
東京大学医学部付属病院にて医療実地修練
新潟大学大学院博士課程で眼科学を専攻、大学院
新潟大学眼科教室勤務。医局長。
昭和48年9月から、新潟市民病院(眼科部長)勤務。
平成16年3月末日で定年退職。
同年4月から、新潟医療専門学校教授(視能訓練士科学科長)
また新潟県眼科医会副会長として活躍中。
【講演後】
参加者からの質問が相次ぎました。「眼内レンズ」は、何年くらいもつのか?白内障の手術は、入院ですべきか?外来手術で充分なのか?37歳男性片眼の白内障手術、手術すべきか?これからの白内障手術の将来は?白内障にならないようにする生活習慣とは?目にいい食物は?「メガネ」を掛けていると子供に怖がられるのだが、どうしたらよいか?網膜剥離の手術を受けたが再発が不安だ、、、、、、、等々。どんな質問にもひとつひとつ懇切丁寧に噛んで含めるように説明されていた藤井先生の姿を拝見し、お人柄を垣間見たような気がしました。若い眼科医に、是非学んで欲しいと思いました。
【参加者からの感想】参加された方々から感想をメールで頂きました。
・藤井先生の眼に関する博識については、「眼玉の道草」で驚かされたところですが、今回もまた、わかりやすく、さりげなく、眼の人類史における扱いや錯視という眼の機能の特徴、第3の眼などを説明していただき、普段、「見る」ことにしか関心がない私たちをハッとさせる講演でとてもよかったと思います。 また、白内障の嘘と本当の話は、57歳の私にとって、とても切実な話ですので勉強になりました。講演のあと、白内障に関する質問が相次ぎ、ひとつひとつの質問に丁寧に応えていただいたこともあって、一層、白内障の理解を深めることができました。(HY)
・今回は白内障など患者様の身近な?話題で非常にわかりやすくお話されていたのが印象的でした。又、質疑応答では普段は外来で聞きたいのに聞けない質問が出ていました。それらを丁寧に説明され、藤井先生のお人柄が垣間見えたようでした。(KI)
・眼科医の講演でアイ・トリック、第3の目の話を聞くのは、初めてでした。これら話は、日常生活から抜け出し何か忘れたことを思い出すよう感じであり興味深く聞きました。質問も興味深かったです。巷にいわれている「目によくなる食べ物」に結構興味があるものなのだなあとか、保育所の方が、「めがねをかけた人は怖がられるのか」という質問には、きっと日常の現場で子供と接するときにいろいろとご苦労があるのでは・・・と考えたりもしました。(SH)
講演と質問の時間を合わせると2時間以上に渡り『目の話』を拝聴しました。忙しい外来診療をしながらでは、とてもこのような時間をもつことが出来ません。『目』について様々なことを教えて頂きました。私の目論見どおり、藤井青先生の話に、参加者は皆、大満足でした。
【著書】
「目玉の道草」藤井青 著
出版社:文芸社
発行日:2004年2月15日
定価:1500円+税
【書評:藤井青著「目玉の道草」を読みて】岩田和雄(新潟大学名誉教授)
(新潟市医師会報2004年5月号)
最初のお話「目薬の木」を読み出したとたん、これはもう藤井青君の文章にほかならない、と思えるほどに特徴的な文体が展開する。前著「目玉の散歩」に続くエッセイ集である。藤井青君は、本年3月末をもって、定年となり新潟市民病院開設以来の眼科部長を辞することになったので、記念出版ということになろう。併せてお慶び申し上げたい。
挿入された挨拶状によると、最後の1年は多忙で、1夜がけのような文章になったと記しているが、どうして、中々の出来栄えだ。「道草」と言えば漱石となるが、それは神経衰弱の夫とヒステリーの妻と取り巻きの人々のいざこざを、いつ果てるともなく書き綴ったもの。藤井君の道草は、ほんとうの道端に生えている草を食うが如き実体験が核になっているので、とりわけ味わいも深い。
(途中略)
新潟大学眼科大学院生で、のちに浜松医大の生理学教授となった故森田之大氏の研究テーマであった「第三の眼」が、この本では、歴史的、文化的にポリフォーニックに取り上げられて面白い。目と眼の違いをとことんまで追及されているのは流石だ。
詳細は読んでいただくことにして、最後に患者さんに信頼され、愛される「目医者さん」でありたいと心から思っていると結ばれている。立派である。いつまでもこの魅力ある語り口で、あらたなエッセイを「目医者さん」の目で綴り続けていただきたい。
書評といったものは、賞賛の言葉に加えて、何か一言、評する人の見識を暗示しないと済まされないようなところがある。「目玉の道草」は完璧で、見事で、これ以上何も申すことはない。もしも、何か足りないところがあるとすれば”お色気”かな。これは余計なこと。
(2004年3月末日)
演題:「視覚障害者の歩行を分析する」
講師: 清水美知子(歩行訓練士)
日時: 平成16年9月8日(水) 16:30~18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
今回で当眼科勉強会に3回目の登場となった清水美知子先生の話には、外来が溢れる多くの皆さんが集まりました。過去2回の話(障害者自身の障害と向き合うことの意義や、障害者の家族と障害者の関係)とは些か趣が変わり、今回はプロの歩行訓練士としての『歩行』についての本格的な講演でした。やや難解な部分もありましたが、改めて皆で「歩く」ということのプロセスを考えた貴重な時間でした。以下は、清水先生に校閲して頂いた講演要旨です。
1)歩行とは
歩行とは、自分の‘力’で、身体と一体化した自分を、環境の中のある地点へ動かすこと.そのためにはまず‘力’が必要.また、ある地点が認識できなければならないし、そこまでの方向(道順)が判らなければならない.わたしたちはこれらを、日々とくに意識することなく行って生活を送っている.しかし、視覚機能が低下すると、とたんに歩行の不自由さを実感する.
2)移動するということ
mobility(モビリティ;移動)とmovement(ムーブメント;運動)の違いは?ムーブメント(運動)は、例えばエアロビクスなどで脚を挙げる、腕を回すなどということ、必ずしも場所の移動は含まれない.それに対してモビリティ(移動)は、場所を移動することである.移動(モビリティ)は、以下の3つの基本成分から成る.1)境界線(壁、側溝等)に沿って移動する. 2)点に向かって直進する(横断歩道など).3)障害物を回避して元の進路を維持する.
3)オリエンテーション
ある地点に到達するには、モビリティに加えて、オリエンテーション、ナビゲーション、そして到達点を同定することが必要である.オリエンテーションとは、周囲の環境から手がかりを取り入れ、組み立て、自分の居場所を認知すること.これには過去の経験も大きく関与する.オリエンテーションには4つのタイプがある.1)いま居る場所を知る(答えの例:○○町○○番地、自宅の居間) 2)○○を出発して、△△に向かって移動中.または○○と△△間のどこか.(例:会社を出て,家に向かっている.居間からトイレへ行く途中) 3)自分は停止している、周囲(人、車など)が動いている(例:人の流れの中に立っている).4)自分も周囲も動いている(例:人の流れの中を歩く).
4)ナビゲーション
ナビゲーションには、○○へ行くという意志と、○○がどこにあるのか,どの方向にあるのか知っていなければならない.‘土地勘’がない場合は、教わったあるいは調べた道順(例:2つ目の交差点を右に曲がり、3軒目の建物です)を辿る(ルートトラベル)、またはランドマーク(例:東京タワー)を目指すという方法がある.
5)同定
やっと目的の場所に着いてもそこが目的のところと気が附かない場合もある.特に目の不自由な場合はそうである.辿り着いた場所が確かに目的の場所であることを知ること(同定)は重要である.
6)改めて歩行訓練とは
歩行訓練と云うと、白杖の使い方の訓練とイメージされがちだが、歩行という中には、実はこれだけの内容が含まれている.一人歩きには、歩こうとする地域のイメージを如何に育むかが重要である.
7)今後の歩行訓練を見据えて
歩行訓練プログラムが米国から紹介されて40年近く経過した.しかしまだまだ、そのプログラム自体、完璧なものではない.歩行訓練士と訓練をする場合、疑問なことは何でも話したほうがいい.例えば、適切な白杖の長さについての、定説はない.視覚障害のある方は、歩行に関して自分の五感を研ぎ澄まして、歩行の能力を高めることが重要である.今後は視覚障害者の自由な移動、楽しい移動,権利としての移動を目指して欲しい.
【清水美知子さん略歴】
1976年~歩行訓練士
1979年~23年間視覚障害者更生施設施設長
1988年~信楽園病院(新潟)視覚障害リハビリ外来担当
2004年2月~Tokyo Lighthouse 理事
【後 記】
講演の後の話し合いで、視覚障害を持っている多くの方から自分の歩行に関しての反省や体験談を聞くことが出来ました。そして多くの方の歩行に関する工夫も聞くことが出来ました。同時に参加者の方々から歩行訓練の難しさ、楽しさを知ることが出来たという感想が話されました。
「点字ブロック」は視覚障害者には便利だけれど、車椅子には邪魔になるという話題が出た時、最近改装された新潟の萬代橋の歩道に、点字ブロックが敷かれていないことが話題になりました。視覚障害者の団体から新潟市に申し入れがあったとき、新潟市の答えは「視覚障害者の人が一人で萬代橋を歩くことはない。ヘルパーと歩くはずだ」という返答だったと言うことです。この問題には大事な点が2つ含まれています。一つには、行政は視覚障害者が一人での歩行を望んでいることを理解していないということです。視覚障害者自身が行政に対してアピールすることが必要でしょう。もう一つには、点字ブロックの有無が本質ではなく、視覚障害者の歩行をサポートするものの必要性が重要だと言う点です。「点字ブロック」が敷設されることが大事なのでなく、視覚障害者が萬代橋を歩行できる補助手段があればいいはずです。「視覚障害者の歩行」イコール「点字ブロック」という固定観念が問題という清水先生の発言に、ハッとしました。
今回も参加された方々から、様々な感想を頂きました。一部を紹介します。
「、、、勝手ながら、困った時、つらい時清水先生が、後ろから応援してくださっているような気になれるんです。清水先生との回を重ねた勉強会のお陰で、歩行の意義、楽しさを教えていただいたような気がいたします」
「、、、整備されていない環境だから、それが全て歩行を邪魔しているのかと言えばそうでは、ありません。その中から各々が、工夫と言う物が、知らず知らずのうちに身に付くのでは、ないのでしょうか?、、そのためには当事者が、より多く外出して体で憶えなければならないことは、あると思います。完全でないからこそ人間としての触れ合いも生まれるのではと、思います」
『歩行』ということ、視覚障害を持った人の歩行の困難さ、そうした方々の歩行を援助することの意義について、多いに考えさせられた1時間半でした。
報告 『第100回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会 パート2
日時: 平成16年7月30日(金) 16:00~17:00
1)岩野ちはる 高等部本科保健理療科2年 「元気の素」
2)富樫又十郎 高等部専攻科理療科1年 「これから」
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1)岩野ちはる 高等部本科保健理療科2年 「元気の素」
私には、沢山の友人がいます。いわゆるストリート・ミュージシャンの友人も多いです。年齢も考え方も出身地も様々な彼らと話をしていると、「生きる指針」となる言葉をかけてもらうことが多々あります。「目が悪いと、耳がいいというから、音楽は得意なんだね。アッ差別しているんじゃないんだよ」。「どれくらい見えないの?全く見えないと思っていた。少しは見えるのなら、これからはガイドの仕方を変えなくては、、、」。
最近進路のことについて悩んでいます。盲学校には幼稚部、小学部、中学部、高等部と過ごしてきました。毎日を何となく過ごしてきました。ここに来て将来何になろうかと考え始めると、悩みが大きくなりました。「実は進路について迷っている」とストリート・ミュージシャンの友人に話すと、「今、絶対にこれになりたいというものがないのであれば、このまま流れに乗って進めばいいんじゃないかな」「理療は気が進まないというけれど、結構やりがいのあることかもしれないよ」。経験や意見を押し付けるのでなく、親身に私のことを思っていってくれる彼らが、私の「元気の素」なのです。【プロフィール】見附市 ギター片手に歌うのが大好き
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2)富樫又十郎 高等部専攻科理療科1年 「これから」
平成4年に網膜色素変性と診断されました。当時は症状もそれほどでなく、無視していました。平成13年にはついに視覚障害のために身体障害者手帳を交付されました。平成14年秋には極端に視力が低下しまし、今春盲学校に入学しました。
視覚障害になると、何かと歯がゆいことが多くなります。病気の進行から、読書や日常生活も困難になり、これまで歩んできた自分の人生が足元から崩れてくるように感じました。これまで得意の法律を活かして国家公務員として活躍し、余暇には空手をやってきました。でも今では日常の生活すら不便です。ただただ生きる、いや生かされていることが嫌になり、死にたいと思うようになりました。
そんな自分を奮い立たせたのは若き日の思いでした。その頃を思い出し、朝4時に起きて裸足で走りました。雪の上でした。信濃川の堤防の上を、1時間も走ると全身から汗が出て、湯気が立ちました。その日を堺に生活を変えました。これからの余生を明るく生きていこう、熱烈な恋もしたい、、、。いや余生ではなく、還暦を過ぎた「これから」が私の新たな人生です。
【プロフィール】新潟市 文武両道、現在猛勉強中
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《メールで》
●100回目なので、一人でも話が聞けるかと思って駆け付けたのですが、間に合わなくて残念でした。でも、100回目だからと大げさなことをしないで、淡々と普通に行ったのがかえってよかったですね。医師と患者との距離を縮め、患者側もここだと医療一般について言いたいことを言える雰囲気もありますね。テーマ、話してもらう人、参加する人も幅広いですね(NM)
●ハンデを持たれた方が、そのハンデを乗り越える勇気を持った時、いきいきと輝いいるはずです。そんな彼らの発表を是非お聞きしたかったです(HK)。
●第100回の眼科勉強会おめでとうございます。一口に100回と言ってもテーマや講師やいろいろの面でご苦労があったことと思います。申し訳ありませんが私は出席できませんがこれからもがんばって下さい(KY)。
●100回、おめでとうございます。何事も継続することは非常に難しいです。「継続は力なり」と言われますが、それに加えて恩師の先生から教えてもらった言葉―「本物は続く」、をお祝いの言葉として送らせて頂きます。これからも益々発展されますことをお祈り申し上げます(MK)。
●100回記念おめでとうございます。続けることは大変ですが、今後も目の不自由な方々のためにご活躍を祈念致します(MK)。
●第100回眼科勉強会、おめでとうございます。平成8年から続けられたこと、すばらしい財産ですね。こちらまでうれしくなります(YK)。
●一言で100回とおっしゃいますが、並大抵のエネルギーでは継続できないと、敬服いたしております。また、どこかでお目にかかりましょう(MN)。
●毎回大変興味深い話題を提供しておられる勉強会が100回を迎えられるとのこと,誠におめでとうございます。興味の幅の広さと人脈の広さにいつも驚嘆しております。ますますのご発展を祈念し,200回記念の報に接することを楽しみにしております(KT)。
●いつも勉強会のご連絡をいただき有り難うございます。今度は100回目の記念すべき会を開催されることに心よりお祝い申し上げます(MI)。
●いつも単なる勉強会のご案内ではなく、特に第99回、第100回は盲学校弁論大会の弁士のかたの紹介など、読ませていただくだけで身近にすばらしい考え方、生き方をしている方がいることを紹介して頂けるので、眼科勉強会をこのまま続けさせていただくことにいたしました。何よりも、講師を招いての勉強会を毎月欠かさず、100回続けられたことには敬服いたします(KT)。
●眼科勉強会100回おめでとうございます。弁論大会の内容だけ読ませてもらっても日頃、患者さんに伝えたいことが語られているように思い、たくさんの人に聞かせたいと思いました。感動的、刺激的な会になったことと思います(MT)。
●素敵ですね。是非眼が見えないことで悩んでおられる方々に聞かせてあげたいですね。先日、眼の見えないバイオリン演奏者のお話をテレビの声だけ聞きました。益々生きるって素晴らしいと感じました。また、五体満足な私が負けてなるものかと奮い立ちました。何人かの人たちが、お話を聞いて生きる勇気を得られると良いですね(FS)。
●恥ずかしながら、盲学校生徒の弁論大会があることさえ知りませんでした。しかも戦前昭和3年から開催されている歴史のある弁論会とは。もっとマスコミが大きく取り上げて、視覚障害者の活躍を晴眼者にアッピールして欲しいものです。彼らの励みにもなり、差別意識の解消にも繋がるでしょう(TY)。
●プロフィールを拝見し、富樫又十郎さんのように還暦を過ぎてから新たな人生をスタートされているだけでも素敵なのに、障害を抱えていながら、学校に入学されるその意志の強さも、大変興味深いです。岩野ちはるさんは、ストリート・ミュージシャンの友人がたくさんおられるということから、きっと行動的な女性であろうと思いました。輝いているお二人の講演をお聞きしたかったです(HK)。
勉強会が100回を迎えたこともあり、多くの皆さんにメールを頂きました。参加されなくてもこうした応援メッセージを頂くと『元気の源』になります。ありがとうございました。次回以降の勉強会も盛りだくさんです。参加可能な方、是非ご参加ください。参加できない方、時間がありましたらメールでご意見や感想などお寄せ下さい。
報告 『第99回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会 パート1
日時: 平成16年7月14日(水) 16:30~18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
1)櫻井孝志 中学部3年 「へレンケラーをめざして」
2)大渕真理子 中学部3年 「ボランティアを通して」
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1)櫻井孝志 中学部3年 「へレンケラーをめざして」
生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。障害があって何が一番辛かったかと云うと、学校に行けずに家で過ごした日々もそうですが、50音の発音が出来ないことです。
サウンドテーブルテニス(盲人卓球)の大会がありました。ボールの音を頼りにゲームを行ないます。その時補聴器の電池が切れていて、リーグ戦で9戦全敗でした。悔しかったのは負けたことでなく、補聴器の管理を出来なかったことでした。
確かに、日々の会話やスポーツに不自由を感じることもあります。しかし、へレンケラーに比べれば、私なんかまだまだ努力が足りないです。一歩でも近づけるよう頑張っていきたいです。
【プロフィール】燕市 勉強では歴史、特に日本史が大好き。
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2)大渕真理子 中学部3年 「ボランティアを通して」
視覚障害者がボランティアをするというと、多くの方はびっくりします。確かに拡大本、朗読など、いつもはボランティアをやってもらっています。では障害者が出来るボランティアはないのでしょうか?社会に役に立てることを出来ないのでしょうか?
私の父は、特別養護老人ホームで働いています。小さい頃からホームで遊んでいました。そこでは洗濯物をたたむとか、肩や足を揉んであげることなど出来ることがあります。そうしたことで、おじいちゃんやおばあちゃんが喜んでくれます。入浴後のヘアドライヤー、髪だけでなく足にも当ててあげると、「気持ちがいい」と言ってくれます。私にも人に喜んでもらえることが出来るんです!
外に出ると、時々嫌なことや傷つくこともあります。小学校の子供達から「ネーネー、その目どうしたの?」と聞かれると、傷つき外に出るのが嫌になります。でも私は、家に引きこもるより、社会に出て人に喜んでもらえることを多くしたいです。
私の4歳年上の姉は、視能訓練士の学校に入学して勉強に励んでいます。お姉さんに感謝すると共に、私も早く社会に出て人の役に立つことをやりたいと思います。視覚障害を持つ私ですが、おじけることなく社会へ巣立っていきたいと思います。
【プロフィール】小千谷市 昨年に引き続いての登場、現在ボランティアで活躍中。
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《会場からの声》
●まっすぐな二人のお話、今回も感動しました。とても健全に成長していることが判ります。家庭の大切さも伝わりました(NA)。
●今日はどうもありがとうございました。中学生二人のとても素晴らしい弁論を聞くことができ、実に感動し、励まされました。非常によい体験ができたと思います。二人とも自分といった存在をしっかり持ち、それを言葉で表現し、心に響きました。自分も見習わないといけないと痛感いたしました。本当によい勉強になりました(SY)。
●弁論大会用なのだから短時間なのでしょうが、あのお2人はもっとたくさんの魅力を感じさせるのだから、もっと長いお話を聴きたかったなぁ(TA)。
●「弁論大会」。お二人の、爽やかで明るい態度。しっかり周りを見つめつつ、自分の考え素直に発表されたと思います。真理子さんの応援の為、そして、温かなご家族の方々にお会い出来るかと思いつつ、おじゃましたしだいですが、それが叶いました。「まりこちゃん」と肩をたたいて話し掛けましたら、あの頃を覚えていてくださり「うれしい」と言って、私の手を握ってくれました。あの頃を覚えていてくれたのですね。感動でした。お二人のすこやかな成長を願っています。この会で、心の栄養も沢山頂きますが、人と人との出会い再会の場もいただき感謝いたします(YO)。
●話すのが苦手な真理子にとって、その場で皆さんの感想が聞けたことは大変励みになります。またいろいろな場を与えて頂いたなかで沢山の方たちにお会いし、心が少しでも豊かになってくれたらと思っています。皆さんからいただいたご意見や感想を糧にこれからもすなおに成長してもらいたいと思います。これからもよろしくお願いします(O親)。
演題:「期待せずあきらめず」
演者:遁所直樹(新潟市障害者生活支援センター分室)
日時~平成15年12月10日 16時半~18時
場所~済生会新潟第二病院眼科外来
講演を私なりにまとめたものを、以下に紹介致します。
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最初に、今回のタイトル「期待せずあきらめず」は大学時代の恩師である菅野 浩先生と、新潟大学医学部付属病院の整形外科主治医であった田島達也助教授(当時)に頂いた言葉という紹介があった。
【1】 現在の社会参加の状況
障害も持ちながら学生生活を送っている人の割合は、日本では0.09%だが、米国では7.00%である。日米でこんなに違いがあることが再認識された。
【2】 障害をもった頃の話
1987年 当時24歳。新潟大学の学生(博士課程)で水泳の選手だった。海にダイビングをした時に、頚椎損傷により四肢麻痺の重度障害者となった。当時は学生生活を続けることなど考えられず、いつも俯いて生活していた。
1990年 新潟大学自然科学研究科博士課程中退。
1993年 13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業に参加【渡米】。
1996年 行政書士資格取得。資格は得たが仕事はなかった。たまたま新聞の広告に国際福祉医療カレッジ社会福祉学科の案内があり、応募した。一度は諦めようかなと思ったが、カレッジの人に出来ることからやってみようと言われた。「出来ること」と言われたのは、障害を持って初めてだった。親・9名の同級生と友人の協力を得て何とか無事に学業を一年間続けた。以前は(健康な頃は)、講義が休みになるといいなと感じたこともあったが、この1年間の講義は本当にサボりたくないと思った。
1997年 国際福祉医療カレッジ社会福祉学科卒業。社会福祉士資格取得。国際医療カレッジ非常勤講師(現在に至る)。イギリス赤十字・日本赤十字ボランティア障害者交流事業に参加【渡英】。新潟県ふれあいプザラ事業ピアカウンセラー(現在に至る)。
1998年 介護老人保健施設ケアーポートすなやま支援相談員(現在に至る)。
2000年 自立生活支援センター新潟職員(現在に至る)。新潟県社会福祉審議会委員1年間
2003年 特定非営利活動法人自立生活センター新潟理事(現在に至る)。
【3】 自分を好きになることの大切さ
米国での研修中(ダスキン障害者リーダー海外派遣事業)に、「あなたは、自分のことが好きですか?」と問われたことがある。当時は希望のない毎日を送っていただけに、その一言にハッとした。
【4】 アメリカ・イギリスで得たこと(心のバリアフリー)
障害を持っていて一番悲しいことは「無視」されること、逆に一人でも支えてくれる人がいると生きていける。1993年13期ダスキン障害者リーダー海外派遣事業は、わずか2週間の米国滞在であったがショックを受けた。自分よりも重度の障害を持った人たちがどんどん社会参加していた。こんな障害に甘えていられない、負けていられないと思った。
【5】 出会った人々の話
佐藤豊先生(リハビリの主治医)~何でも言ってくれる、今でも慕っている先生。受傷当時、殆んどの医者が機能回復は困難と言った時に、「回復出来る」と言ってくれた。一番苦しい時には、医師の一言で絶望もするし、明るくなることも出来る。
和田光弘弁護士(日本アムネスティ協会会長、新潟市在住)。日本アムネスティ協会主催の憲法制定50周年記念で、「耳を済ませて」という劇を行なった。最後、共演の子供に質問された。「障害は悲しいことですか?辛いものですか?」 考えてしまった。障害者自身が「私は幸せだ」というと社会のシステム化は遅れる。障害者は声を出さないと社会は変わらない。
箕輪紀子(新潟日報論説委員) ~無年金障害者問題を一緒に考えてくれた。
ALSボランティア ~ 何でも言ってくれた。当局との交渉の仕方など何でも教えてくれた。
青木学氏(新潟市会議員、視覚障害者)~ 新潟市に低床バスを導入する活動を共にやり、実現させた。
【6】 クリストファー・リ-ブズは本当にスーパーマンだ
クリストファー・リ-ブズは、映画「スーパーマン」の主人公を演じた人。今は事故による脊髄損傷でセントルイスのワシントン大学でリハビリ中。クリストファー・リ-ブズ基金を創設し、脊髄損傷の有益な研究に対して奨学金を提供している。めざましい神経再生研究の発展の一助になっている。これまで障害受容とは、失われたものをいつまでも嘆くのでなく、残された機能を最大限に活かすことと言われてきた。でも彼が登場したことで、不可能と言われていた神経の再生が、もしかすると可能になるのではないかという夢を与えてくれた。彼は今や頚椎損傷患者の間では、真のスーパーマン的存在である。
【7】夢の話、マーチン・ルーサー・キング牧師の夢 I have a dream.
皮膚の色でなく、人格によって評価される国に住みたいという夢がある。
【8】 平等とは
平等とは同じ価値観を持つこと。足が不自由な人が車椅子を使うことは、健常人と同様に行動するために必要なこと。
【9】 環境を整えること
虐げられたものは声を出すことが必要だ。当事者は声を出すこと、そして理想を語ることが必要。障害者は声を出さないと社会は変わらない。今ある障害の責任の80%は社会の責任。でも環境さえ整えられると、障害があっても生活できる。
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【後 記】
10枚以上の写真を用い、淡々と1時間にわたりお話してもらった後、参加者との話し合いになりました。
○自分も障害を持っているが、まだまだ上がいることがわかった。
○ここに至るまでの家族や周囲の方の協力も、並々ならぬものと思いました。
○印象的だったのは、一時は顔をあげて写真に写ることもできなかった遁所さんが、アメリカへ行き自分のできることから始め徐々に自信を取り戻していくという場面だった。
○重度の障害を持っているのに、案外表情が明るいのにびっくりした。
○本人の受容も大事だが、家族の受容も考えなければならないテーマでは、、、。
○障害というのは、その人自身にとっても周囲の方々にとっても、決して完全に受け入れることはない。奇麗事では済まされないことだと思うが、その上で今の障害者に厳しい現状を少しでも改善したり、お互いに支えあったりしなければいけないのだと思った、、、、、、。
いつも世話をしてくれているお父さんのことをお聞きすると、「父のことを話さなかったのは、話すといつも涙が出るからです」と言った遁所さんの言葉が印象的でした。
「障害の受容」について以前遁所さんにお尋ねた時、「障害者にとって、永遠に続くテーマだと思います。」というお答えでした。当初今回のタイトルを「社会受容」として、障害の受容を、社会受容と自己受容に分けて論理的に語る予定でした。でも出来るだけ自分の言葉で自分の体験を話す中で、これまで如何に自分が障害を受容してきたかを語りたいということで、タイトルを「期待せずあきらめず」に変更して今回のお話になった次第です。
尚、「社会受容」は、遁所さんが施設に入っていた時に教わった、心理カウンセラー南雲直二氏による著書のタイトルです。
http://www1.odn.ne.jp/~cbh92600/shakaijuyo.html
後日、遁所さんから下記のメッセージを頂きました。〜 重度の障害を持って明るいのにびっくりされたというのはたぶん人前だからでしょう。結構人前では突っ張ているような気がします。このような機会をいただきありがとうございました。受容というのはなかなか大変なものです。今回のお話の機会で改めてまだまだ受容には至るまでには程遠いことを感じました。 ただ、ひとつ言えることは、患者の目線に立つことができる医療従事者に対しては患者は信頼関係を持つということです。あきらめないで付き合ってくれるとき、人々から無視されないでいるときに受け入れるきっかけが生まれると思います。
遁所さんのこれからのますますの活躍を、期待したいと思います。
報告:第87回済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
日時:2003年8月20日(水) 16:30~18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
演題 「Coming-out Part 2 家族、身近な無理解者」
演者 清水美知子(歩行訓練士)
【抄録】
今回は家族について考えます.家計を支えていた父、家事を仕切っていた母、あるいは夫、妻、娘、息子がある日障害を負うと、家計の状況や家族の役割分担など一変します.家族という運命共同体の中で、家族は当事者の自立の支援者にも、阻害者にもなりえます.どちらの場合も、関係が密であるだけに当事者の将来に多大な影響を及ぼします.それだからこそ家族が強力な支援者としてあり続けてもらうために、家族の悲しみ、悩み、苦労を理解し、支援することが大切なのです.つぎにあげたのは家族が抱える悩みの例です.
母が障害者であることを恋人に打ち明けられない娘. 娘が白杖を突いて隣近所を歩くのを許さない母. 依存的な夫と、”優しい妻” 被介護者、被扶養者となり、戸惑い、自信を喪失した夫 障害のせいなのか、怠惰なのかいつまで経っても動こうとしない夫にいらだつ妻 公的サービスを拒否して妻に介護を求める夫 妻のどう介助したらよいかわからず戸惑う夫 妻と夫の間に起きた地位の逆転 家計と介護を握ったものの専制
【肩書きと略歴】
歩行訓練士
信楽園病院視覚障害リハビリ外来担当
1979年から23年間視覚障害者更生施設施設長
【後 記】
今回講師の清水さんは、昨年9月のこの会で「Coming-out」という題で話してくれました。その趣旨は、障害を持った人は、社会に出て自分たちのことを他の人に知らしめなければ、社会を変えることは出来ないというものでした。今回はその続編です。「家族」には「温かさ」がある。とても強い繋がりがある。困った時にまっ先に支えてくれる第1候補である。まさに外海の荒波から護ってくれる「防波堤」である。でも、、、、一方では、外に社会に出て行こうとする障害者のプロセスを、阻んでしまうのではないかという話でした。
「家族」は、知らず知らずに「(柔らかな)檻」を作っている。例えば、、、、この子には一人で外出なんかとても無理だ。私が生きている間は、何でも私がやってあげる、、、、、。
「家族」は、同じ価値観を共有するが、障害に対しては、障害を持つ本人の受け入れと、家族の受け入れには「ズレ」がある。
「家族」との縁は、切り捨てられない。他人であれば嫌な思いをさせる人とは付き合わないようにする事も出来るのだが、、、、
「家族」は、時に自尊心を低下させる態度を取ることがある(誰も気付いてはいないが)。横柄な態度をとる、何かと指図をする、過保護になる、怒る、、、、、、。
例えば、こんなこともある。姑と上手くいかなかった嫁さんが障害を持つ事になり、何でも姑の言うことを受け入れなければならなくなった。好き放題なことをやっていたご主人が、障害を持ってからは奥さんの言いなりになる。大学を卒業し、家をでてアパートに暮らすといっていた息子が、家に暮らすようになった。母が障害者であることを恋人に打ち明けられない娘、娘が白杖を突いて隣近所を歩くのを許さない母、被介護者、被扶養者となり、戸惑い、自信を喪失した夫、、、、、、、。
でも実は「家族」も苦しんでいる。今後の家族関係はどうなるのだろうか?収入は、ローンはどうなるのだろうか?先の見通しが立たない。自分自身の時間が無くなってしまう、障害のせいなのか、怠惰なのかいつまで経っても動こうとしない夫にいらだつ妻、公的サービスを拒否して妻に介護を求める夫、妻をどう介助したらよいかわからず戸惑う夫、、、、、。
「家族」が感じる罪悪感もある。あの人さえいなければ、もっと自由な時間が持てるのにと感じてしまう自分が嫌だ。障害者を持つ家族が出来ることは、何か特別なことをするのでなく、いつも傍にいて耳を傾けて悩みを聴くこと。そのためには、時には休む、自分自身の時間を持つ、自分の事も相手の事も責めない。障害を持つ人の家族への接し方は、家族も苦しんでいる事を知る、何でもやってもらうのではなく(これは自分でやるという)ケジメを作る、助言を受け積極的に参加する、「こうしないで下さい」ではなく「こうして下さい」という発想を持つ。
講演終了後、参加者の方からも多くの意見や感想がありました。家族との関わり合いは、建前ではなく本音でないと話せない話題だけに、熱のこもった勉強会になりました。
報告 第86回(03-07) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
“新潟盲学校生徒による弁論大会in 済生会”
日時: 平成15年7月9日(水) 16:30~18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
1)『最初のひとこと』 大渕真理子 中学部2年生
2)『発想の転換で、いろいろとできる』 星野慎矢 高等部普通科2年生
3)『ざる頭』 小野塚厚司 高等部専攻科3年生
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1)『最初のひとこと』大渕真理子 中学部2年生
昨年の夏、「視覚障害者のためのアメリカ文化交流とホームステイ」に参加。空港に降り立ったとたん、周囲は英語ばかり。頭の中は真っ白になり、憂鬱だったが「Nice to meet you」の一言が言えた。あとは楽しい旅行となった。最初の一言を自分から言い出す勇気を持ちたい。
2)『発想の転換で、いろいろとできる』星野慎矢 高等部普通科2年生
自分は今まで物事に取り組む際、「一つの方法、人と同じ方法」というのにこだわって、他のやり方をしようとしなかった。つまずいてはあきらめ、そんな自分に嫌悪感を抱いていた。しかし、級友の一言、音声パソコンを知ったこと、料理等で、一つの方法にこだわるのではなくて、発想を転換することで道が拓けるということを体験し、前向きに取り組めるようになった。
3)『ざる頭』小野塚厚司 高等部専攻科3年生
登校途中にある園芸センターの垣根に咲こうとする「卯の花」を見て、専攻科入学当初へと思いが及ぶ。水を入れても貯まらない「ざる頭」を水に漬けっぱなしにするように、ひたすら勉強しようと決意した2年前を思い出し、今年最後となる「垣根の花」との再会を前に、一歩一歩目標に向かって進もうという思いを新たにする。
報告:第84回(2003‐5月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会 栗原隆
演題:「共感とケアの成り立ち」
講師:栗原隆 (新潟大学教授;生命倫理)
日時: 平成15年5月14日(水) 16:30~18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要約】
1 他人の痛みは分かるか? 心はどこに存在するのか
他人の痛みは分からない。私の歯が痛む時、隣の人は快適に過ごしているかもしれない。私の足が痛くて、歩くのさえ辛い時、ひょっとすると足を引きずっていることで、足が痛そうだということが察知されることもあるかもしれないが、それでさえ、私の足の痛みを他人は感じることはない。ひょっとすると、あなた自身は人間でも、他人はアンドロイドかもしれない、いやロボットかもしれないし、異星人かもしれない。私たちは他人については何一つ自分のことのように知ることができない。それでいて、おおむね経験上、周囲の人々が自分と同じ人間であると想定して、振舞っている。それはある種思い込みかもしれない。なぜかというと、私がワイシャツの胸ポケットに入れておいた小銭がポケットに開いた穴から落ちて、体を滑り落ちてゆくのを止めようとおなかを抱きかかえた時、人は、私が腹痛に苦しんでいると思うかもしれない。目でウインクしたのに、単にゴミが入ったと思われるかもしれないからである。
私たちは、他人の痛みを何ら体験することはできないが、ある程度は、その身振りや仕草、さらには言葉で訴えるものから、自分の体験を振り返って、それに基づいて類推する。主観的な根拠に照らし合わせての類推であるからして、相手に生じている事態を言い当てることもあるかもしれないが、外れることもある。私たちは、他人を類推することしかできないのかもしれない。痛みだけでなく、相手の気持ちだってそうである。たとえ、言葉でコミュニケーションを図る時でさえ、相手を理解したと思っていても、実は自分の理解でしかない。そのことは次の俳句の例から明らかである。
古寺に 斧こだまする 寒さかな
わが恋は 空の果てなる 白百合か
実は、この俳句はコンピュータで文字を配列しただけのものなのである。きわめて簡単なプログラムだというが、デモンストレーションしているところに来た客が、「ヒヤヤッコ」と入力したらたちどころに、
冷奴 我が影にさす 酒の酔いと答えたという。
それを見ていたご婦人が、それでは私もと「夏草や」と入力したら、コンピュータは今度は
夏草や 盛り過ぐらむ 身の嘆き
と応じたという嘘のような本当の話が報告されている(『理想』一九八三年一二月号水谷静夫「国語研究と計算機」)。
たとえば、この場合、文字列が俳句だと思われようと思われまいとに関わらず、作者というものが存在していると見なす立場もあろう。そうした立場では実際の作者はコンピュータ、あるいはプログラマーということになるかもしれない。こうした立場をさしあたり、作者についての「実体論的把握」と整理しておこう。
これに対して、作品というものは読まれることによって初めて成立するのであって、作者とは厳然と実体のように存在しているのではなくて、読まれ、作品と見なされてこそ作者というものが、俳句の背後に虚焦点のように想定されるのであるからして、文字列を読み取り、解釈して、理解して、思いや感慨を抱いて、作品を作品たらしめるのは、実は読み手自身の心情や思想や体験に他ならないとする立場も可能である。こうした立場によれば、作者は読み手になる。これをさしあたり、作者についての「関係論的把握」と呼んでおこう。
私たちは、自分なりにその言葉の羅列を、俳句だと解釈して、そのうえで、作者の気持ちを類推しているのである。普通なら、理解したと思う言葉によるコミュニケーションでさえ、これである。相手への思いやりというものがいかに不確かなものであるか、ということはもって瞑すべしである。
心というものは、ある存在者、人間なりコンピュータなりペットなり、相手そのものに内在している何らかのものだ、と心を想定する立場は実体論的な把握だと言えよう。これに対して、心とは他の存在者との関わりの場において成立する解釈の対象なのだ、とする立場は関係論的な把握ということになろう。
〈心〉だけではない。たとえば、〈情〉とか〈共感〉、〈思いやり〉などというものも、私たちは持ち合わせているわけでは決してない、ただ、その場の状況において、そのように受け取られることがある。〈心ある〉行為や〈情け深い〉応対、相手への〈共感〉の表明だと、相手に受け取られるところにおいて、〈心〉が現出する、というわけである。
2 共通感覚と体性感覚
近代に入って成立した市民社会では、不特定多数の人間の交流が生じることによって、これまでの倫理とは違う価値観が生まれることになった。「共感」や「同情」という観念も市民社会時代を迎えるに当たって、新たに生まれた感覚だった。確かに、古代ギリシア以来、コモン・センスの観念はあった。ところがそれは、決して社会の中で人々が共通に抱くセンス・感覚という意味ではなかった。むしろ、「もともとコモン・センスは、諸感覚にわたって共通で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に相わたりつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力「(中村雄二郎『共通感覚論』岩波書店七頁)のことだったと言われている。
こうした共通感覚、それぞれの感覚を統括する共通感覚として想定されていたのは何であったか。そもそも五感の間で優位な位置を占めているのは、今では視覚だと思われているが、中世までは聴覚であったとされている。聴覚→触覚→視覚、という順だったというのである。「一方で、キリスト教会がその権威をことばという基盤の上においており、進行とは聴くことであるとしていたからである。聴覚の優位は一六世紀においても、神学に保障されてまだ強かった。『神の言葉を聴くこと、それが信仰である』『耳、耳だけがキリスト教徒の器官である』とルターも言っている」(前掲書五四頁)。理性は、感性や気力さらに常識に比べて、人間の能力の中で最も高次なものと見なされているが、ドイツ語の理性はVernunftであって、つまり聴解する(vernehmen)に由来することばである。ところが、「近代文明は、触覚と結びついた形での視覚優位の方向では発展せずに、むしろ触覚と切り離されたかたちでの視覚優位の方向で展開された」(前掲書五五頁)。印刷術や遠近法、機械論的な自然観は、視覚優位の文化の産物であった。印刷術は「知」の組み換えをじつげんして、遠近法は「主体」の成立を促すことになった。機械論的な自然観は自然を対象化することを通して、人間による自然の解明、克服、征服を可能ならしめた。
しかし、視覚は本当に五感の中で優位にたつ認識能力なのであろうか。この問題は実に、近世哲学を貫いた枢軸の基本問題だったのである。すなわち、私たちの外側に広がる空間において外見として見えるものは、見るだけでそのように認識されるものかどうか、ロック、バークリ、ライプニッツ、ヴォルテール、コンディヤック、ディドロらがそれぞれに解釈を加え、さらにはルソーやヘルダーなどをも巻き込んだモリヌークス問題で検討された主題である。視覚だけで認識することができるのか、それとも外界の認識に触覚の働きを無視できないのか、という論争だと言い換えてよい。先天盲の開眼手術後の認識をめぐって、球と立方体を弁別できるかどうかを実験した結果、ロックやバークリーは視覚的認識に先立つ触覚の重要性を語ったのに対して、ライプニッツは視覚の優位性を肯定的に捉えた。ディドロは触覚の重要性を認めつつも、視覚だけで見えるとしたのに対して、ヘルダーによっては空間表象における触覚の根源性が語られもした。「遠近法」による視野の主体的な構成の問題と並んで、近世哲学の枢軸をなした問題であった。
本来、共通感覚というのは、一人の人間における互換に共通する感覚のことであったが、その中の一つ、触覚を媒介として私たちは、他者や自然との共感が可能になるならば、〈心〉なるものを持ち合わせていないわたしたちにとって、まさしく〈ふれあい〉は〈心〉を感じさせ、他者との共感を結ぶものだと言えよう。もちろん〈手当て〉はそうした〈触れ合う心〉を最大限に実現するものである。
3 市民社会における道徳様式の変貌
そもそも思想史を振り返ってみるに、触覚の重要性が見直されるようになったのは、不特定多数の人々が交流しあう市民社会の成立期で、「共感」概念が新たな意味合いを帯びるようになったのも、時代を同じくしているのである。一八世紀にエジンバラの医学校の教授であったジョン・グレゴリーは、その著『医師の義務と資質に関する講義』(一七七二)において、共感概念を用いて患者の利益を最大限に考えて行動するように、美徳と関連付けたのである。
ヒュームは『人性論』でこう述べている。「かりにもし私がかなりこわい外科手術に立ち会うとすれば、確かに手術の始まる前においてすら、手術具の準備・秩序よく並べられた包帯・熱せられた手術刀・患者及び付添い人の心配と憂慮のあらゆる表徴、それらは私の心に大きな効果を及ぼして、憐憫と恐怖とのもっとも強い心持を喚起しよう。いったい、他人のいかなる情緒も直接には我々の心に現出しない。我々はただ、他人の情緒の原因あるいは結果を感知するだけである。これらから我々は情緒を推論する。従って、これらが我々の共感を生起するのである」(ヒューム『人性論(四)』岩波文庫一八六頁)。すなわち他人の心情を類推する能力のことを「共感」と呼んでいるわけである。
ヒュームは「共感」に道徳的な心情の基礎を求めている。「この同じ{共感の}原理が美的心持〔ないしは情操〕を産むのみならず、多くの場合に道徳的心持〔ないし情操〕を産むのである。〔例えば正義の徳がそうである。いったい、〕正義ほど敬重される徳はなく、不正義ほど忌み嫌われる悪徳はない」(前掲書一八七頁)。市民社会での生活においては「正義」は必要不可欠な倫理である。それは個人個人によって違っていては、正義とは呼ばれない。自分と他人の壁を超え、身内・知人・友人の枠を超えて、普遍的な価値観であってこそ初めて、正義たり得るのであるから、そのために「共感」能力が求められることになる。「我々自身の利害や友人の利害に関わりない社会的善福は、ただ共感によってのみ快感を与える。従って、共感こそ、あらゆる人為的徳に対して我々の払う敬重の源泉である道理になる。こうして、共感は人性の甚だ強力な原理であること、共感は我々の美的鑑識に非常な影響を及ぼすこと、共感はすべての人為的徳における我々の道徳的心持〔ないし情操〕を産むこと、これらの点は明らかである」(前掲書一八八頁)。
こうした共感の成り立ちをヒュームは次のように説明している。「他人の現在の不幸が私に強く影響したとする。そのとき、想念の活気は単に直接の対象に局限されない。(……)該人物のあらゆる事情について、過去と現在と未来とを問わず、可能的と蓋然的と絶対確実とを問わず、生気ある観念を私に与える。この生気ある思念によって、私はそれらの事情に関心をもち、それに参与する。そして、私が該人物のうちに想像するすべてのものに適合した共感的な動きをわたしの胸のうちに感じるのである」(ヒューム『人性論(三)』岩波文庫一六六頁)。すなわち、他人に共感するためには、それも目の前に見えない事情にまで共感するためには、相手に対する「関心」、そして自らの側には「想像力」が必要だ、というわけである。
ヒュームに連なるアダム・スミスは、その著「道徳感情論」で、たとえ「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、彼に他の人びとの運不運に関心をもたせ、彼らの幸福を(……)彼にとって必要なものとする」(アダム・スミス『道徳感情論(上)』岩波文庫二三頁)として、そうした原理を「哀れみ(ピティ)」と「共感(シンパシー)」に見定めている。「われわれは、他の人びとが感じることについて、直接の経験をもたないのだから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、われわれ自身が同様な境遇においてなにを感じるはずであるかを心にえがくよりほかに、観念を形成することができない」(前掲書二四頁)として「想像力」の働きを重視している。「われわれの想像力が写しとるのは、かれのではなくわれわれ自身の、諸感覚の印象だけなのである。想像力によってわれわれは、われわれ自身をかれの境遇に置くのであり、われわれは、自分たちがかれとまったく同じ責苦をしのんでいるのを心にえがくのであり、われわれはいわばかれの身体にはいりこみ、ある程度かれになって、そこから、かれの諸感動についてのある観念を形成するのであり、(……)なにか感じさえするのである」(前掲書二五頁)。利己的でありながら、合理的な人間たちの集う市民社会にあって、個別実体たちを繋ぐ唯一の絆とも言うべきものが、この「想像力」だったと言えよう。
4 ケアの成り立ち
「共感」は、実体としての〈心〉を持ち合わせず、しかも、他者の痛みや心情を類推するしかできない私たちにとって、他者の〈心〉を想定し、かつ自分の〈心〉を表明する能力、つまり「関係論的な把握」を可能にする能力だ、と言えよう。
今日の医療の現場では、患部や病巣の治療に主眼を置く「キュア」に対して、患者を善人格的な存在として捉えて看護する「ケア」は、「キュア」が実施不可能な病状を迎えることもあるのに比して、たとえ患者がどのような状態に陥ったとしても、実行できることから、その重要性が指摘されている。
また、つぎのように、医療の実施体制の組み換えを迫るものとしても期待されている。すなわち、「ケアの倫理は、病の了解がその中心を得て、人間へと統合されることを不可欠とみなす。そうでなければ、患者中心の医療、全人的ケア、医療のうちへの人間性の回復といったことは不可能だからである。したがって、われわれは少なくとも心身統合の、そしてそこから出発すると言う意味では心身合一の医療を構想する必要がある」(松島哲久「現代医療における倫理性の復権」世界思想社刊『生命倫理学を学ぶ人のために』二一九頁)。
キャロル・ギリガンの『もう一つの声』(一九八二)は、今日の私たちの間での「ケア」を考える上で大きな一石を投じた書である。妊娠中絶と言う具体的な問題に即して女性達から聞き取り調査を実施した結果から、彼女は、男性と女性の性差に基づく「ケアの倫理」を明らかにした。つまり、道徳的な葛藤状況に陥った時に、女性は、具体的な人間関係の親密さ・疎遠さを軸に対処する傾向があるのに対して、男性は、平等・不平等を道徳の軸にすえる傾向が強いというのである。女性は人間関係を保持し、より強化する方向で道徳的な葛藤状況を解決しようとするのに対して、男性は、道徳的な葛藤を権利主張の対立と捉えて、「公正」や「自律」を重視するのだそうである。彼女はこうした女性の倫理を「ケアの倫理」と、そして男性の倫理を「正義の倫理」と呼ぶ。
正義は、人間一人ひとりを絶対的に自立した主体として捉え、「自律」に倫理の実体を求める。これに対して、ケアは、他者への共感のうえに成り立つ。その意味では、倫理性の実体論的な把握と、関係論的な把握と言い換えても良いかもしれない。正義では原理が大切で、ケアでは関係が大切だとも言えよう。正義では、相互の権利が重要視されるなかで、公正さが〈合法性―非合法性〉を尺度に測られようし、ケアでは、不均衡な関係において〈境遇の良否と慈愛の配分〉による全体としての調和がもたらされるのかもしれない。正義にあっては、普遍的な原理が支配するが、ケアにあっては、個別具体的な対処が重要視されよう。正義にあっては、利己性は合理性をまとわなければならないが、ケアにあっては、利己性は生きるという観点で許容される、など。
小括
痛みを、確かに私は感じている。そして、誰もこの痛みを共有することはできない。と言っても医療従事者は私の仕草を見て、私が痛がって、痛みに堪えかねていることを「想像」できる、ようである。どの程度の痛みであるか、まで。そのとき、痛みは私と医療従事者の関係を結ぶ形で表現されているのであろう。〈心〉も似た状況にある。私たちは実体としての〈心〉を持ち合わせてはいないようである。しかし、〈心無い〉振る舞いもあれば、〈心温まる〉言葉もある。大森荘蔵は次のように述べている。「私の『心』というものがあるとすれば、この『ここにいる私』と『そこに見える風景』が作るこの全状況が『心』であるいがいにはない。『私の内に』ある心などはどこをさがしてもないのである」(大森荘蔵『物と心』東京大学出版会七二―七三頁)。心が想定されるとすれば、それは、関係論的な観点からのみに他ならない、そして、共感やケアというものが成り立つとすれば、実態的にこれが共感だ、これがケアだ、というものはなく、むしろ、それも関係論的な観点からに他ならない。この「ここにいる私」と「そこに見える相手」が作るこの全状況にこそ、共感やケアの成り立ちが立ち現われていると言うことができよう。
【略 歴】
万代小学校三年まで新潟市、長岡高校、新潟大学人文学部哲学科を卒業、東北大学大学院文学研究科(修士課程)、神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)を修了した後、神戸大学大学院文化学研究科助手、神戸女子薬科大学非常勤講師を経て、1991年から新潟大学教養部助教授、1996年から人文学部教授。専門は、生命倫理学、環境倫理学、近世哲学(ドイツ観念論)。
【後 記】
参加者の方から感想が届いています。
・「心の話」とても楽しく不思議な栗原ワールドに、はまりました。「心」ってほんとにどこにあるのでしょう?目に見える物が全てで、「心なんて無い」と聞かされても、ナタラジャの美味しいカレーと、楽しいお話しで、無いはずの「私の心」は、確実に元気ななりました。タージマハールの写真も宝物です。ありがとうございました。
・栗原先生のお話は、日頃私たち教師が行っている「子どもの行動の見取り」について大きな警鐘を鳴らしていただいたように感じました。とかく教師は子どもの一面のみを見て評価しがちです。しかし、今回の栗原先生のお話を伺って、子どもを様々な角度から見取る力を身に付けたり、多くの教師で一人の子どもについてディスカッションしたりしなければならないと感じました。これからの勉強会がますます楽しみです。
・私の勉強不足ということもあり、難しかったような気がします。ただ痛感させられたのは、先生もメールに書かれていましたが、「こころ」は受け取り側の問題でもあるということが、すごい印象に残りました。今まで、『こちら側が「こころ」を開いているのに、相手が壁を作ってしまって、「こころ」通じ合わすことができない。』と思っていたのは、実は自分の中で、勝手に「こころ」開いていると思い込んでいただけで、実は、私の方が「こころ」開いていないと思っていたのかもと、改めて反省しております。
報告:第80回(2003-01)済生会新潟第二病院眼科勉強会 宮坂道夫
演題:『ファミリーハウス』
講師:宮坂道夫(新潟大学医学部准教授)
日時:平成15年01月08日(水) 16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【抄 録】
(1)ファミリーハウスの紹介
「にいがたファミリーハウスやすらぎ」は、新潟市内の病院に入院する患者さんの付き添いをされる家族のための滞在施設です。善意の方からお部屋を提供していただき、市民、企業、団体などの支援を受けて開設されました。各病院の理解、協力のもと、「にいがたファミリーハウスやすらぎ支援の会」が責任をもって管理、運営しています。入院したその日からすぐにご利用できます。これまでご利用いただいた方からは、「ゆっくり手足をのばせるその事が、とても有り難かったです」、「夜すべてを終えてこのハウスに帰り、ホッとした心のやすらぎは、何ものにもかえがたいものでした」などの声が寄せられています。(以上、当会のパンフレットより)
*詳細については、ホームページがありますので、そちらをご覧いただくのがよいかと思います。アドレスは以下の通りです。
http://www.ng-familyhouse.npo-jp.net/index2.html
(2)今回の話のあらまし
1)ファミリーハウスとは?
病院中心の医療制度のもとでは、効率よく治療が行われ一方で、「治療やケアの場」と「生活の場」が隔絶しがちになります。病院や医療施設という特別な場所へ、家という普段の生活の場を離れて、治療のために「移住」しなければならないわけです。特に慢性疾患中心の現代では、この隔絶は患者とその家族にとって深刻な問題を生んでいます。専門的な治療を受けられる病院に、家を遠く離れて入院しないといけないことも多い。しかも療養には長い時間がかかる。その間、患者と付添の家族は、生活の場から離れて過ごさねばならず、生活の上で非常に負担がかかってくることになります。例えば宿泊はどうするか、子供の教育はどうするか、お金はどうするのか ・・・。
残念ながら、日本の保健医療制度ではこうした面まではカバーしきれていません。そこで、ファミリーハウス活動が始まったわけです。「病院」の近くに、「家」に近いものを作り、そこで患者をささえる付添者のために「生活の場」を提供しようというアイデアです。ただし、一口に「ファミリーハウス活動」といっても、宿泊・滞在施設の提供だけのところもあれば、相談事業を展開しているところもあり、さらに幅広いサービスを提供しているところもあり、その実態はとても多様なものです。
2)新潟でのファミリーハウス活動
児玉義明・にいがたファミリーハウスやすらぎ支援の会・会長から、会の立ち上げ、実際の運営などについてお話させていただきます。これまで多くの方のご協力により、民間アパートの部屋を借りて、ハウスを運営しています。利用された方からはとても感謝されている活動ですが、マンパワー不足、一般市民の関心の低さなど、克服しないといけない問題もあります。
【後 記】
私が始めて「ファミリーハウス」を知ったのは、昨年(2002年)9月29日「にいがたファミリーハウスやすらぎ支援の会」主催の『第1回命(いのち)のシンポジウム』でした。
宮坂道夫先生(新潟大学医学部保健学科;当時講師、1月1日より助教授)がコーディネーターをされ、児玉義明氏(にいがたファミリーハウスやすらぎ支援の会会長、新潟大学での生体肝移植を受けた第一号)の講演がありました。遠方から入院されている患者家族のために宿泊施設を低料金で提供という、とても素敵なアイデアでした。世の中にこんなことに頑張っている方がいるのかと、感動しましたし、新鮮でした。
今回、当勉強会でもお話して頂くよう宮坂先生にお願いしたところ、快くお引き受け頂き、またにいがたファミリーハウスの会員の方にも参加を呼び掛けて頂きました。さらに私にとって嬉しかったのは、難病を抱えながらもほのぼのとした心癒される色鉛筆画を書き続けている羽田沙織さん(白根市在住)にも参加頂いたことでした。
宮坂先生の講演で「ファミリーハウス」について説明して頂きました。ヨーロッパでの状況、日本での状況(1988年に大阪で最初に開設)、そして新潟での現状と課題。必要なのは、施設、資金、労力、そして何よりも必要性の認識。白山駅近くに2001年7月に開設。以来利用料1500円という低料金で頑張っているとのことです。全国的には国や自治体の支援を受けているところ、病院と直結しているところ、企業から支援を受けているところなどあるそうですが、新潟の場合、運営は全てボランティア。
終了後会場からは、素晴らしい事業であるという賞賛と同時に、いくつも質問がありました。この料金でペイは大丈夫か?これは病院なり自治体で頑張ってもらうべきものではないのか?ボランティアだけでは大変なのでは?米国では病院の周りに安い宿泊施設がありその負担は患者がするが、、、。患者自身の利用や、外来通院への利用は可能か?宣伝が少ないような気がする、、、、、。ニーズの掘り起こしが必要では?インターネットでの申し込みは出来ないのか?全国的な連絡網はないのか?そもそも子供が長期間家族から離れて暮さなければならない入院治療に問題があるのでは、、、、等々。
宮坂先生はじめ、にいがたファミリーハウスやすらぎ支援の会の皆様、ありがとうございました。