2011年2月5日

報告3  公開講座2011 「高次脳機能と視覚の重複障害を考える~済生会新潟シンポジウム」
 日時:2011年2月5日(土) 開始15時~終了18:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

教育講演3   座長:安藤 伸朗 (眼科医;済生会新潟第二病院)
 演題:「前頭葉機能不全 その先の戦略
    ~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~」
 講師:立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授)
【講演要旨】
 2001年秋、夫が仕事中に突然解離性くも膜下出血で倒れ、後遺症として高次脳機能障害が残った。2年ほど大きな改善は見られず悶々としていたなか、2004年大学からのサバティカルの1年を利用して、New York大学リハビリテーション医学Rusk研究所の通院プログラムに参加した。Y.Ben-Yishay博士が率いるRusk研究所は脳損傷通院プログラムの世界最高峰と言われている。 
 Ruskの訓練は、神経心理ピラミッドを用いたホリスティックなアプローチである。Ruskでは器質性による前頭葉機能不全を前提としている。認知機能を9つの階層に分け、ピラミッドの下が症状の土台であり、その基本的な問題点が改善されていなければ、ピラミッドのそれより上の問題点の解決は効果的になされないとする考え方で、ピラミッドの下から訓練は行われる。9つの階層とその説明は下から以下のとおりである。 

Ⅰ.「訓練に参加する自主的な意欲」
 自分に前頭葉の機能不全があることに気づき、その問題に立ち向かうために自らの意思で参加するという強い思い。
Ⅱ.「神経疲労Neurofatigue」
 「覚醒」「警戒態勢」「心的エネルギー」に関する欠損。脳損傷による脳細胞の欠損のために、日常生活のすべてが以前より困難となり、脳損傷者は常に神経が疲労しやすくなっている。
(1)「無気力症Adynamia」
 心的エネルギーが過少であることによる問題。基本的に「自分から~をする」ことができない。
  1:自分から何かをする発動性の欠如、
  2:発想の欠如、思いの連鎖がない、
  3:自発性の欠如、無表情、無感動。
(2)「抑制困難症Disinhibition」
 心的エネルギーが過度であることによる欠損。自分で次の諸症状を意識し、抑制することができない。
  1:衝動症、2:感情の調整不良症、3:フラストレーション耐性低下症、4:イライラ症、5:激怒症、気性爆発症、6:多動症、7:感情と認知の洪水症。
Ⅳ.「注意力と集中力Attention & Concentration」
 選択的注意とその注意力を維持する集中力に関する問題。
Ⅴ.「コミュニケーション力と情報処理Communications & Information Processing」
 情報のスピードについてゆくことと情報を正確に受信し、人にわかるように発信することに関する問題。
Ⅵ.「記憶Memory」
 出来事を習得したり覚えておくことができなくなる記憶の問題と、自分に欠損があるということの気づきが途切れる問題。記憶断続症。
Ⅶ.
(1)「論理的思考力Reasoning」
  1:言われたことや書かれたことをまとめたり、同類に分類できる力である「収束的思考力、まとめ力」の問題と、
  2:異なる発想を思いついたり臨機応変に対応できる力である「拡散的思考力、多様な発想力」の問題。
(2)「遂行機能Executive Functions」
  日常生活における以下の能力に関する問題。
  1:ゴール設定、2:オーガナイズ(分類整理)する、3:優先順位をつける、4:計画を立てる、5:計画通りに実行する、6:自己モニターする、7:トラブルシュート(問題解決)する。
Ⅷ.「受容Acceptance」
 自分に機能不全があり人生に制限がついたという事実を認識して受容できること。真の受容には下位の階層のそれぞれの症状に対する戦略を自ら使い、自己を高める努力が伴う。そういうことの必要性を真に理解すること。
Ⅸ.「自己同一性Ego-identity」
 脳損傷を得ても、「自分が好きな自分」でいるために、以下の過去・現在・未来の自分を再統合し、障害を得た新しい自己を再構築すること。
 1:発症前に何かを達成できた自分、
 2:障害を得た自分に必要な訓練や努力に現在進行形で取り組んでいる自分、
 3:機能不全による限界を認識しつつ将来こうなりたいと思う自分。
 神経心理ピラミッドの働きの大まかな説明は以上である。Ruskではこれらすべての階層の問題のひとつひとつに戦略(対処法)がある。月曜日から木曜日までの朝10時から午後3時まで、対人コミュニケーションや個別の認知訓練、カウンセリングまでをも含む構造化された時間割の中でシステマティックな訓練が行われる。こうした訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。  

【略歴】
 1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
 1984年 国際ロータリー財団の奨学生として、シカゴ大学大学院に留学
 1988年 シカゴ大学大学院にて音楽学で修士号取得、博士課程のコースワーク修了
 1988年 南カリフォルニア大学大学院へ特待入学
 1991年 南カリフォルニア大学大学院にてピアノ演奏(共演ピアノ)で音楽芸術博士号取得
 1993年 帰国後、フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科の専任講師
 ~現在 フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授、音楽芸術博士
 http://www.ferris.ac.jp/music/bio/m-04.html
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 1985年 シカゴ・コンチェルト・コンペティション優勝
 1988~91年 コルドフスキー賞、最優秀演奏家賞受賞
 1992年~現在 ベルリン・フィル、ロンドン響、バイエルン放送響、フィレンツェ歌劇場、MET歌劇場などの欧米の主要オーケストラの首席奏者や歌手たちと国内外で共演。世界各地でリサイタル多数。
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 ご主人の小澤富士夫氏は、東京芸術大学のトランペット科を卒業後、プロの演奏家として活躍。その後ヤマハで新製品の研究開発業務に携わり、ヤマハ・フランクフルト・アトリエの室長として長年ヨーロッパに赴任。
 帰国後の2001年、仕事中にくも膜下出血を発症、後遺症として高次脳機能障害(記憶障害、無気力症、認知の諸問題)が残る。
 高次脳機能障害を治すためサバティカルを利用して、1年間ご主人とともに米国に滞在し、ニューヨーク大学Rusk研究所「脳損傷通院プログラム」に通う。ご主人は奇跡的に回復し、一人で大阪に出張できるほどになった。 

*「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」
 2006年 『総合リハビリテーション』(医学書院)4月、5月、10月、11月号に、「NY大学・Rusk研究所における脳損傷者通院プログラム」を治療体験記として発表。以来Rusk研究所の通院プログラム、神経心理ピラミッド、機能回復訓練などに関する講演を行う。

『前頭葉機能不全 その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』2010年11月医学書院より出版。
 医学書院のHPに以下のように紹介されている 〜 
「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」。
 http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912

 

報告2  公開講座2011 「高次脳機能と視覚の重複障害を考える~済生会新潟シンポジウム」
 日時:2011年2月5日(土) 開始15時~終了18:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

教育講演1   座長:安藤 伸朗 (眼科医;済生会新潟第二病院)
 演題:高次脳機能障害とは? 
 講師:仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院;眼科医)
【講演抄録】
 1. 高次脳機能障害の定義
 学術用語としての高次脳機能障害は、脳損傷で生じる認知・行動・情動障害全般を指し、記憶障害・社会的行動障害・遂行機能障害・注意障害という高頻度で生活へ影響が特に大きい主要症状の他に半側空間無視・失語症・失行症・失認症などがある。その特徴の一つとして病識の欠如があり、これがさらに社会生活復帰への支障を大きくしている。一方、行政用語としての高次脳機能障害は、学術用語で挙げた症状に以下の条件がつく。
 1) 実際に日常生活または社会生活に制約がある
 2) 脳損傷の原因となる事故による受傷や疾病の発症の事実が確認されている
 3) 先天疾患・周産期における脳損傷・発達障害・進行性疾患を原因とするものは除外
 4) 身体障害として認定可能な症状を有するが主要症状を欠く者は除外(たとえば、失語症だけでは、音声・言語・咀嚼機能障害に入るため除外される)
 高次脳機能障害者支援の手引き(改訂第2版)には診断基準が記されている。これは国リハのホームページから申込書ダウンロードが可能。
 (http://www.rehab.go.jp/ri/brain_fukyu/kunrenprogram.html 

 2. 主要症状
 1) 記憶障害
 ・物を置いた場所を忘れたり同じことを何回も質問するなど、新しいことを学 習し、覚えることがむずかしくなる
 ・社会生活へ復帰する際の大きなハードルとなってしまうことが少なくない
 2) 社会的行動障害
 ・すぐに他人を頼るような素振りをしたり子供っぽくなったりする
 ・我慢ができず、何でも無制限に欲しがる
 ・場違いの場面で怒ったり笑ったりする
 ・一つのものごとにこだわって、施行中の行為を容易に変えられず、いつまでも同じことを続ける
 3) 遂行機能障害
 ・行き当たりばったりの行動をする
 ・指示がないと動けない
  これは、目標決定、行動計画、実施という一連の作業が困難になることで、すなわち、見通しの欠如、アイデアの欠如、計画性・効率性の欠如ということができる。
 4) 注意障害
 ・気が散りやすい
 ・ 一つのことに集中することが難しい
  そもそも注意とは何か。これは「意識内容を鮮明にするはたらき」と説明されている。対象を選択する。選んだ対象に注意を持続する。対象以外へ注意を拡大する。対象を切り替える。複数の対象へ注意を配分するなどが注意のはたらきだ。注意障害の患者を眼科で診るときは、以下の配慮を要する。
 ・ほとんどの眼科検査で集中力が不足して十分な検査ができないことが多い
 ・視力検査は短時間で一回の検査を終え、日を替えて続きを行なうのがよい
 ・視野検査では眼疾患が存在しなくても全体的な沈下をきたすことがある 

 3. 他の高次脳機能障害の症状
 1) 半側空間無視
 ・自分が見ている空間の片側を見落としてしまう障害
 ・食事で片側のものを残したり片側にあるものにぶつかったりする
 ・線分二等分試験や模写課題などで検査される
 2) 失語症(行政用語としては高次脳機能障害に入らない)
 ・うまく会話することができない
 ・その中には、単に話すことができなくなることだけでなく、人の話が理解できない、字が読めない、書けないなどの障害も含まれている
 ・音声・言語・咀嚼機能障害の3級または4級に入る
 3) 失行症
 ・動作がぎこちなく、道具がうまく使えないなど、手足は動くのに、意図した 動作や指示された動作ができない
 ・マッチを擦って煙草に火をつけるといったような系列を有する行為を意図的 に行うことができなくなる
 4) 失認症
 ・視覚失認…物全般がわからない
 ・純粋失読…文字がわからない
 ・相貌失認…顔がわからない
  失認症は、症状が視覚に関わることが多いため、患者自らが眼科を受診する。いわば、視覚の高次脳機能障害ということもでき、ロービジョンの範疇に入るものと思われる。しかし、その対策は一筋縄ではいかない。まして、高次脳機能障害の主要症状に視覚障害が重なったら、その対応はさらに困難であるということは明らかである。今後の検討が望まれている。 

【略歴】
 
1989年3月 東京慈恵会医科大学医学部医学科卒業
 1991年4月 同大学眼科学講座助手
 1995年7月 神奈川リハビリテーション病院眼科診療医員
 2003年8月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座講師
 2004年1月 Stanford大学留学
 2007年1月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座准教授
 2008年2月 国立身体障害者リハビリテーションセンター病院第三機能回復訓練部長
 2010年4月 国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長

 

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教育講演2   座長:安藤 伸朗 (眼科医;済生会新潟第二病院) 
 演題:「高次脳機能障害と視覚障害を重複したB氏のリハビリテーション」
 講師:野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員)
【講演要旨】
 B氏の4年間に及ぶリハビリテーション期間の内、前期(2007年8月~2008年3月の9か月)の取り組みについて報告した。
 Ⅰ B氏のプロフィール
  1.基本情報
    40代男性、S市在住、妻・娘と同居。
  2.生活歴・職業歴
    教師として20数年間勤務。野球部の監督や同和教育・生徒指導の担当者として活躍していた。
  3.疾病・診断名
    脳梗塞(2006年10月)・全盲・軽度の高次脳機能障害。前頭葉・右側頭葉・両後頭葉・脳梁に広範囲の損傷。
  4.高次脳機能障害の症状
    易疲労性、集中力の低下、注意障害、記憶障害(前向健忘)、空間認知障害、遂行機能障害などがあった。
  5.訓練開始時点での強み
    孤立感、孤独感が強く精神的に混乱しているが、真面目で前向きな性格や、知性や判断力が健在であることを感じさせる言動も見られた。家族の支援もしっかりしていた。 

 Ⅱ B氏のリハビリテーションの経過
 『前期の課題』
 安心できる環境とゆっくりした時間の流れの中で、適度で適量な刺激を提供すること。全盲+記憶障害+空間認知障害は非常に厳しい条件だが、何とかして日常生活でのADL自立をめざす。
 『前期の状況』
 B氏も奥さんも、切羽詰まった状態でわらをもすがる思いで鳥居寮に来られた。本人の孤立感・孤独感は非常に強いと思われる。現状は世界も能力も縮小した状態にあるが、潜在的能力はあり、徐々に拡大していく可能性は大きい。この段階での行動上の困難は大きいが、指導員との関係が中心であり比較的環境調整が容易なため、歩行訓練士でも対応が可能だったと考えられる。
 『前期の支援方針』
 毎日朝夕に職員の打ち合わせをして、状況の確認と対応の統一を図る。初期には易疲労性に留意し休憩を多く取り、また注意障害を考慮して伝えることは一度にひとつかふたつに留める。感情と結びついた記憶は残りやすいため、出来れば楽しい記憶にするように務める。予定した訓練をこなすことより、B氏の語りをゆっくり聴き、受け止めることのほうが重要であるという視点をもつ。
 『B氏に対して実施した、主に認知にかかわる訓練技法』
 ・エラーレスラーニング:迷う前にタイミングよくB氏にとって分かりやすい話し方で正しい答えを提示する。
 ・構造化:日課や家具の配置、移動ルートなど、さまざまなことをわかりやすくシンプルにすること。
 ・環境調整:施設での人間関係や家族に対する支援などもふくめて、B氏が落ち着けるような環境を作ること。
 ・スモールステップ&シェイピング(段階的行動形成):行動をわかりやすい小さな単位に分けて考える、それをもとに、行動を作り上げていくこと。逆シェイピングという技法もある。
 ・過剰学習:確実に誤りがなくなり自信がつくまで繰り返し練習すること。
 ・手掛かりの活用:触覚的なわかりやすい手掛かりを設置することで、手続き記憶の強化を図る。
 ・記憶の強制は避ける:自然な形で記憶力を使うようにしていく。
 ・ポジティブ・フィードバック:良いところを見つけて伝える。少しずつでも自分で出来ることが増えると、自己効力感・自己肯定感を高めることにつながる。
 ・散歩の活用:季節の風を感じること。感覚入力の豊かさが脳に対する良い刺激になる。
 ・般化:鳥居寮で出来るようになったことが、自宅でも出来ることを目指す。 

 Ⅲ まとめ
 高次脳機能障害と視覚障害を重複した方のリハビリテーションを進めるために、また当事者や支援者を孤立させないために、多くの人たちが経験や意見を交流できるネットワーク作りが必要ではないだろうか。 

【略歴】
 1950年生まれ。岡山県津山市出身
    立命館大学文学部卒業。
 1979年京都ライトハウスに歩行訓練士として入職(日本ライトハウス養成9期)
    以来歩行訓練士として31年間同じ職場に勤務。
 (2011年3月末定年 その後は嘱託で仕事を続る予定)

 

 真冬の新潟に全国11都府県から120名が集い、外の寒さを吹き飛ばすような熱気に包まれ、公開講座「高次脳機能と視覚の重複障害を考える~済生会新潟シンポジウム」を、盛況のうちに終了することが出来ました。この度、講師の先生に講演要旨をしたためて頂きましたので、ここに報告させて頂きます。

特別講演   座長:永井 博子(神経内科医;押木内科神経内科医院)
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 演題:「重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる」
 講師:佐藤 正純 
    (もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院

     医療相談員:介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」)

【講演要旨】
 障害を負うまでの私は概ね順調な人生を送ってはいましたが、それでも秀才揃いの受験校に入学して自身の限界を見せ付けられた挫折、国立大学医学部に入学するまでの1年間の浪人生活、その在学中の父の早世など、若いうちに抗えない運命に立ち向かうための心の鍛錬をする機会があったのは幸せだったのかもしれません。

 横浜市大救命救急センターに医局長として勤務して、多くの患者さんの生死に立ち会ったことから、医療の限界と医のあずかり知らぬところで神に支配されている人の生死を実感したことは、私の死生感にも大きな影響を与えました。

 脳挫傷による1か月の昏睡から覚醒した時、友人はおろか家族の顔も確認できないほど視覚は失われ、太陽が東から昇ることも1年が365日であることも忘れているほど記憶は失われていたのに、ピアノの前では指が自然に動いてジャズのスタンダードナンバーが弾けたことは残存能力の証明となり、心の支えにもなりました。

 視覚と高次脳機能の重複障害への適切な対応がされないまま社会復帰は不可能と判断されてリハビリセンターを退院しましたが、「これ以上、何をお望みですか?」と言われて、それを挑戦状と感じて自らのリハビリプログラムを立て始めたことが自立に繋がったようです。

 私にとってのリハビリテーション、すなわち全人間的復権の根本は、働き盛りの37歳で障害を負った自分がこのままで社会復帰もできずに人生を終えたくはないという人生の哲学、そして、自身のそれまでの技術と人脈を生かすとすれば、医学知識と臨床経験を生かした教育職で社会復帰を目指すべきではないかという目的。最後にその目的を達成する手段として音声読み上げソフトと通勤のための独立歩行の技術が必要と気づいてその訓練の場所を探したことが社会復帰に繋がりました。特にパソコンに記憶された情報を読み直す反復訓練は脳の可塑性をもたらして記憶障害の克服に役立ちました。

 受傷6年後に教壇に上がって最初の講義を終えた時、生きていて本当によかったと思えた自分は、そこでリハビリテーション(人間的復権)の一段階を達成して初めて障害受容もできたのだと思っています。

 私が今まで精神的な支えとしてきたことは、諦めるのではなく明らめる(障害を負った今の自分の可能性を明らかにする)こと。リハビリの内容を音楽や鉄道マニアといった自分の趣味などの楽しみに結びつけ、小さな結果の達成を喜んでリハビリを楽しむように心がけたこと。過去の自分を捨てて新しい自分を構築するのではなく、過去の経験と現在の可能性を重ね着して豊かな人生(重ね着人生)を築けば良いと思ったこと。瀕死の重傷から神様の導きで生かされた自らを『Challenged』(挑戦するよう神から運命づけられた人)と信じて、自分に与えられた仕事は神様から選ばれて与えられた試練と考えて決して諦めないと誓ったこと、などです。

 これからも医師は一生勉強、障害者は一生リハビリと唱えて、常に楽しみと結びつけ、達成感も確認して心のリハビリを楽しみながら、より高い復権を目指した人生を進んで行きたいと思っています。

【佐藤正純先生の紹介】
 1996年2月、横浜市立大病院の脳神経外科医だった佐藤正純先生(当時;37歳)は、医者仲間と北海道へスキー旅行に行った。スノーボードで滑っていて転倒、頭部を強打し意識不明、ヘリで救急病院に運ばれた。頭部外傷事故で大手術の末、1ヶ月後に奇跡的に意識を取り戻した。しかし、待っていたのは、皮質盲(視覚障害)、記憶障害(高次脳機能障害)、歩行困難(マヒ)という三重苦であった。

 趣味の音楽を手始めに懸命なリハビリを続け、6年後の2002年、三重苦を乗り越え医師免許を活かして、医療専門学校の非常勤講師として再出発した。今でもリハビリを重ねながら講師以外に、重度障害を負った障害者のリハビリ体験について語る講演活動を行い、さらには横浜伊勢佐木町のジャズハウス「first」で健常者に交じってジャムセッションのピアニストとして参加している。

 「障害を負ったからといって人生観を変える必要はありません。昔の自分に新しい自分を重ね着すればいい。1粒で2度美味しい人生を送れて幸せです。」と佐藤先生は語る。 
 参考:http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d19.html

【略歴】
 佐藤正純 (さとう まさずみ)
 1958年 6月 神奈川県横浜市生まれ
 1984年 3月  群馬大学医学部医学科卒業、
    4月  横浜市立大学付属病院研修医
 1986年 6月 横浜市立大学医学部脳神経外科学教室に入局
       神奈川県立こども医療センター、横浜南共済病院、
       神奈川県立足柄上病院の脳神経外科勤務を経て
 1992年 6月 横浜市立大学救命救急センターに医局長として2年間勤務
 1996年 2月 横浜市立大学医学部付属病院脳神経外科在職中にスポーツ事故で重度障害
 1999年12月 横浜市立大学医学部退職
 2002年 4月 湘南医療福祉専門学校東洋療法科・介護福祉科非常勤講師として社会復帰
 2007年 4月 介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館医療相談員として復職
       湘南医療福祉専門学校救急救命科 専任講師
     筑波大学附属視覚特別支援学校 高等部専攻科理学療法科 非常勤講師
     神奈川県立保健福祉大学 保健福祉学部 リハビリ学科ゲスト講師
   などを兼任して現在に至る。
 ・視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)副代表
   http://www.yuimaal.org/
  杉並区障害者福祉会館障害者バンド「ハローミュージック」バンドマスター


公開講座「高次脳機能と視覚の重複障害を考える~済生会新潟シンポジウム」
 日時:2011年2月5日(土)15時~終了18:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室

【公開講座プログラム】
 14:30 開場  機器展示 
 15:00~特別講演  
           座長:永井 博子(神経内科医;押木内科神経内科医院)
  演題:「重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる」
  講師:佐藤 正純 
     (もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
      医療相談員:介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」)

 16:10~教育講演  
  座長:安藤 伸朗 (眼科医;眼科医済生会新潟第二病院)
  1)演題:高次脳機能障害とは? 
    講師:仲泊 聡(国立障害者リハビリセンター病院;眼科医)
  2)演題:「高次脳機能障害と視覚障害を重複した方へのリハビリテーション」
    講師:野崎正和(京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員)
  3)演題:「前頭葉機能不全 その先の戦略
        ~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~
    講師:立神粧子 (フェリス女学院大学)
 17:30 討論
 18:00 終了 参加者全員で会場の後片付け

 

 

2010年11月17日

報告:第177回(10‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   栗原 隆
 演題:「私たちは何と何の間を生きているのか」
 講師:栗原 隆 (新潟大学人文学部教授)
  日時:平成22年11月17日(水)16:30~18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 私たちが〈生〉を享ける時点はどの時点であろう か。この世に誕生した時が〈生を享けた時〉だと単純明快に言い切ることが出来ないのは、妊娠中絶や生殖補助医療によって、〈生〉の始まりに人の手が介入できるようになったことによる。脳死をもって人の死と判断するようになって以来、死も、運命ではなく、私たちの判断によって定められるようになった。そうすると、私たちは、人と人との間に生きているからこそ、人間であるとも言われるが、日常的な場面で、常に私たちは倫理的な葛藤状況に身を晒し、その都度、どうするべきか対処することを求められていることも考え合わせるなら、私たちは倫理的な判断を生きていると言えるかもしれない。 

1 胎児の数は誰が決めるのか
 赤ちゃんの65人に一人が、体外受精で生まれる時代に、多胎妊娠の処置は、諏訪マタニティー・クリニックの他、15の診療所施設だけでしか行なわれていない。減数手術は「堕胎罪」に問われかねないからである。日本産科婦人科学会は、1996年以来、子宮に戻す受精卵・胚の数を、原則三個と規定してきたものを、2008年4月12日に「生殖補助医療の胚移植において、移植する胚は原則として単一とした。ただし、35歳以上の女性、または二回以上続けて妊娠不成立であった女性などについては、二胚移植を許容する と、移植胚数を制限するに到った。 

 減数手術に対して、医師が生まれてくる子どもを決めることに異論が出されてきたにもかかわらず、今度は医師によって、初めから、生まれてくる子の数が決められることになった。減数手術には厳しい眼が向けられる他方で、妊娠中絶の件数は、赤ちゃんが4人生まれるのに対して、1人が母胎内で命を絶たれる計算で、主婦層中心から、低年齢化している。 

2 誰の迷惑にもならないことなら、何をしても許されるか
  ――出生前診断と着床前診断
 体外受精による受精卵が、4~8分割した段階で細胞一個を取り出して、核のDNAを検査することで、遺伝性疾患の有無や性別を確かめる着床前診断は、妊娠後に、羊水検査など、胎児の細胞を調べるいわゆる出生前診断によって異常が発見された場合 に、判断を迫られる妊娠中絶を避けることが出来て、母親の肉体的・精神的負担の軽減に繋がると言われる。確かに、出生前診断では、染色体異常の子どもである可能性が170分の1とか、50分の1などという確率の形でしか出てこないため、受け止め方に関して、人によっては混乱を来たしかねない。子宮に針をさして、羊水を20ミリリットルほど抜き取って、そこに含まれている胎児から剥がれた皮膚や粘膜の生きた細胞を培養して染色体を検査する羊水検査は、平均で300回に一回の割合で流産が引き起こされる。誰にも迷惑や危害を及ぼさない技術だからといって、出産に関する自己決定権の行使として守られるべきものであろうか。妊娠率が低くなると言われてもいるこの着床前診断にあっては、8分割した段階で細胞を1~2 個、検査のために取られるというのであるからして、胚の尊厳を冒していないと言い切れるであろうか。 

 倫理を云々する以前に、胚にとって安全な技術であるのか、疑問が残る。最も確実な男女産み分けは、精子に蛍光塗料を加え、レーザー光線を照射して、男女産み分けをするフロー・サイトメトリーという方法があるが、必要の前に倫理は無力であってはならない。 

3 胎児に生まれてくる権利はあるのか
 祝福と希望に満ちて生まれてくる赤ちゃんもいる一方で、その4分の1ほどの数の胎児が中絶されている。日本では妊娠22週未満という〈線引き〉がなされている。妊娠中絶をめぐる〈線引き〉についての、ジューディス・ジャーヴィス・トムソンによる「人工妊娠中絶の擁護」(1971年)は、妊娠に繋がるかもしれない行為だと知っていながら行為に及んで、妊娠に到った場合の中絶をも擁護する議論を呈示した。どの段階から、受精卵は、胚ではなく胎児として、自然的紐帯のなかに迎え入れられるのであろうか。筆者の実感では、妊娠が最初に確認されて、超音波で、ごくごく小さな心臓の、限りない拍動が目に見えるようになった時、8週目くらいだったろうか、その時から胎児は家族の一員になった。 

 生まれてくる権利とか、女性の権利という概念で割り切れない命の繋がりが、その時からエコーの画面で目に見えるようになった。重要なのは、「権利」や「正義」という文脈ではなく、また受精卵一個の、胎児一人の生命ではなく、もっと大きな生命の繋がりの中で命が育まれてゆくというような形で捉え直されなくてはならないということである。「権利」や「正義」は、相手に対する共感・思いやりがない場合には、自分勝手なものになりかねないからである。家族として、胎児に対して理解を深め、共に生を営んでいく、そうした「生の繋がり」を、ディルタイは、「体験」を軸に分析的に描き出した。ヴィルヘルム・ディルタイは、『歴史的理性批判のための草稿』で、普遍的な生の連関を拓く契機を「体験」に見定めて、他者を理解することの成り立ちを明らかにしようとした。 

 生きてゆくということは、「人生行路(Lebensverlauf)」という表現にもあるように、時間と場所を経てゆくことである。日々、私たちが生きてゆくさなかにあって、次々と時間を過ごし、さまざまな場所を得ながら、いろいろな体験をしている。体験(Erleben)とはまさに生きる(Leben)ことである。生きてゆく場所のそれぞれは、瞬間のそれぞれは、次々と流れ去ってゆくように思われる。にもかかわらず、そこを生きている私は、同じ私として、連続したアイデンティティを担っている。人生の意義と目的とが自覚されていてこそ、その都度の出来事が体験として、その人の糧になる。 

4 結び
 個人の人生自体、自分だけで営まれているのではないのは、私たちの〈自己〉が、家風や家柄、しつけや作法、生活習慣や生活スタイル、経済状態、倫理観、順法意識、国家、宗教、芸術への趣味、学問、思想によって 影響されていることからしても、明らかであろう。親になって初めて、子育ての限りない喜びと束の間の苦労と些かの心配とが理解できる。 

 私たちに理解できるものが用意されていないことについては、理解のよすがを持つことができない。他者を理解しようとすると、自らを相手の立場に置き換えてみる「自己移入」が必要である。そうであるならば、書かれたテクストを読む場合であろうと、人に接する場合であろうと、いや、さまざまな患者さんと接する医療者であればこそ、相手を理解するためには、それだけ解釈する人の体験を豊かにしておかなくてはならないことになる。

 

【略歴】 栗原 隆(くりはら たかし)
     新潟大学人文学部教授(近世哲学・応用倫理学)

 1951年 新潟県新発田市生まれ。新潟市立万代小学校~鹿瀬小学校~
       鹿瀬中学校~見附市立葛巻中学校~長岡高等学校
 1970年 新潟大学人文学部哲学科入学(1974年卒業)
 1974年 新潟大学人文学専攻科入学(1976年修了)
 1976年 名古屋大学大学院文学研究科(博士課程前期課程)入学(1977年中退)
 1977年 東北大学大学院文学研究科(博士課程前期課程)入学(1979年修了)
 1979年 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)入学(1984年修了・学術博士)
 1982年 大阪経済法科大学非常勤講師(1991年辞職)
 1984年 神戸大学大学院文化学研究科助手(1987年辞職)
 1987年 神戸女子薬科大学非常勤講師(1991年辞職)
 1991年 新潟大学教養部助教授
 1994年 人文学部に配置換え
 1996年 新潟大学人文学部教授 

【参考図書】
  「現代を生きてゆくための倫理学」 著者;栗原 隆 
  (京都)ナカニシヤ出版 (2010/11/15 出版) 価格:2,730円 (税込)
 現代世界において露呈する、個人の自己決定権の限界を見据え、再生医療、臓器売買、希少資源配分、将来世代への責任など、現代の諸問題を共に考えることで、未来への倫理感覚を磨き上げ、知恵の倫理の可能性を開く一冊。



 

【後 記】
 難しそうなテーマでしたので、あまり多くの方は参加されないかも、、、と危惧しておりましたが、遠くは名古屋からの参加者も含め多くの方に集まって頂きました。
 
今、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の、『ハーバード白熱教室』がTVや書籍で話題です。今回の栗原先生の講演は、同じような興奮を感じながらお聞きしました。 胎児の数は誰が決めるのか? 誰の迷惑にもならないことなら、何をしても許されるか? 胎児に生まれてくる権利はあるのか?
 出来ることはやるべきなのか?、、、様々なテーマを投げかけながら話が進みました。 「カント哲学」では、こう考える、、、、最後に医療従事者への提言と話は進みました。その展開にドキドキしながら引き込まれ、あっという間の50分でした。 

 お互いが相手のことを理解することは大事なプロセスです。医療の現場においては特に求められていることです。しかし理解できるものが用意されていないことについては、理解のよすがを持つことはできません。相手を理解できるのが追体験のみであるとするなら、障害のある人を理解することは、障害のない人にはできないということになってしまいます。自らを相手の立場に置き換えてみる「自己移入」が必要と栗原先生は喝破されました。 

 『眼聴耳視』(「げんちょうじし」あるいは「がんちょうじし」)という言葉を、何故か思い起こしました。眼で見るのではなく、眼で聴こう。耳で聴くのではなく、耳で見よう。大事なことは目に見えない。耳では聞こえない、という意味だそうです。
 眼で聴くというのは、明るく元気な人を見ると「幸せそうだ」と思いますが、心の叫びを聴けなければ本当の姿は分かりません。耳で視るということは、洗い物をしているお母さんは赤ちゃんの泣き声を聞いただけで、オッパイを欲しいのか、オムツを替えて欲しいのかが目に浮かんできます。何も語らない人の思いを聴いて、見えない姿に心を寄せて視るということです。 

 哲学者である栗原先生の語りは、圧倒的でした。哲学というものを、今まであまり身近に感じたことはありませんでした。今回いろいろなテーマを突き付けられ、幾つかの論点を、さまざまな角度から考えるいい機会を設けることができ、とても有意義な時間を過ごしました。
 サンデル教授ばりのお話を、またお聞きする機会を設けたいと思います。
 栗原隆先生の益々のご発展を祈念致します。

2010年10月17日

報告:「学問のすすめ」第2回講演会 済生会新潟第二病院眼科
1)強度近視の臨床研究を通してのメッセージ
  ~ clinical scientistを目指して
   大野 京子 (東京医科歯科大学眼科 准教授)

2)拡散強調MRIによる視神経軸索障害の定量的評価
   植木 智志 (新潟大学眼科)

 日時:2010年10月9日(土)15時30分~18時30分
 場所:済生会新潟第二病院 10階会議室 

 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、(チョッと大袈裟ですが)講演会「学問のすすめ」を開催しています。

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1)強度近視の臨床研究を通してのメッセージ
   ~ clinical scientistを目指して
   大野 京子 (東京医科歯科大学眼科 准教授)
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 「臨床医にとって研究は必要か?」 答えは、イエスと言いたい。臨床医が研究を行うことは、直接患者さんを診察しているからこそ、実際の病態に即した研究が可能であるという点が重要である。研究は決して学会発表をするためや論文を書くためにあるのではない。「常に探究心を持って診療にあたること」、それは漫然と日々診察するのではなく、患者さんから学び取り、臨床医として自分がさらにブラッシュアップするために必要である。

 私が入局した頃、すでに東京医科歯科大学には所敬教授(現名誉教授)が設立された世界唯一の強度近視外来があり、多数の患者が登録されていた。私が強度近視外来に参加させていただいたのは、全くの偶然だった。まずは与えられた流れに逆らわずに、自分のおかれた環境の中で頑張ってみることにした。緻密なデータが長年蓄積されていた強度近視外来のカルテは、私にとって宝の山に見えた。他の施設はどこもやっていない!これは頑張ればすぐ一番になれるのではないか!?

 最初にしたことは、数百名にのぼる登録患者のカルテを全部調べることであった。週末になると眼科外来に閉じこもり、一人で今週は「あ行」、その次の週は「か行」という風にカルテを五十音順に隅から隅まで見てみた。そこには、強度近視の眼底病変がどう始まって、どう進行するのか、教科書にも書かれていない歴然とした事実があった。教科書や論文に書かれていることと実際の経過が一致しないことがしばしばあることも見つけた。従来、単純型黄斑部出血は何の跡形もなく吸収されるとされてきたが、出血吸収後にBruch膜の断裂であるlacquer crackが形成されることが分かった。つまり単純型出血はBruch膜の断裂に伴って脈絡膜毛細血管が障害されるために生じることを見出すことができた。学生のころに教わった、「患者さんは生きる教科書である」という言葉を痛感し、強度近視の真実を解き明かし、この難病に真正面から取り組んでいきたいと思った。

 カルテを持ってすぐさま教授室に直行、所教授に思いつきを直訴したところ、何と教授が新人の意見に耳を傾け後押しをしてくれた。思い立ったらすぐ行動することも時に必要かもしれない。さらには当時、東北大学から清澤源弘先生(現;清澤眼科医院院長、東京医科歯科大学臨床教授)が本学の助教授で赴任された。清澤先生は多数の英文論文を書いたので、直ちに清澤先生のところにデータを持って訪れ「私に英文論文の書き方を教えて下さい!」と頼み、1年で3つの英語論文を出すことができた。

 転機が訪れた。所教授の退官、それと同時に私は文部省在外研究員でWilmer眼研究所に留学。留学中に望月教授が赴任され、当然のことだが多くの医局員が新しい教授の専門分野につき、強度近視外来の医師が数人という状態になっていた。「こんなことで絶対に負けるもんか!」。九州大学の石橋教授からの助言もあり、帰国前に森田育男先生(本学分子細胞機能学助教授;当時)に連日メールして共同研究を申し込み、帰国と同時に新しい研究に打ち込んだ。

 ヒト培養網膜色素上皮細胞を用いた in vitro の手法、さらには各種の遺伝子改変マウスを用いたin vivoの手法から、脈絡膜新生血管の発生に関する研究を行った。従来血管新生促進に関与する血管内皮細胞成長因子vascular endothelial growth factor VEGFが注目されているが、血管新生抑制因子である色素上皮由来因子 pigment epithelium-derived factor (PEDF) に注目し、脈絡膜新生血管における PEDFの重要性を明らかにした(*1)。さらに脈絡膜新生血管の病因として Alzheimer 病の原因物質アミロイドβが重要であることを初めて見出し報告した(2)。最近ではさらに実験近視モデルを用いて、近視進行のメカニズムを分子学的に解明し、新たな近視進行の予防治療の開発を研究している。

(参照、東京医科歯科大学眼科HP:http://www.tmd.ac.jp/med/oph/research.htm)
 *1)Ohno-Matsui K, Morita I, Tombran-Tink J,Mrazek D,Onodera M, Uetama T, Hayano M, Murota S-I, Mochizuki M. Novel mechanism for age-related macular degeneration: An equilibrium shift between the angiogenesis factors VEGF and PEDF. J Cell Physiol 189: 323-333, 2001
 *2)Yoshida T, Ohno-Matsui K, Ichinose S, Sato T, Iwata N, Saido TC, Hisatomi T, Mochizuki M, Morita I. The potential role of amyloid-beta in the pathogenesis of age-related macular degeneration. J Clin Invest;115:2793-2800,2005

 今日では、近視性CNVに対する抗VEGF療法やPDTが施行され、幸い、強度近視は「治らない変性疾患」から「少なくとも一部は改善できる疾患」に変わってきた。さらに強度近視診療を行う大学や施設も増えてきて、今では一種のブームのようにまでなってきた。我々はこれまでもそしてこれからも、強度近視患者によりよい診療をフィードバックすることを目標に頑張るつもりである。

 眼科医としてスタートしてしばらくは、ただ日々の仕事を漫然とこなすだけで精一杯であった。そんな私がここまで来れたのは、実に多くの方々の支援を受けている。東京医科歯科大学眼科の先輩・同僚・後輩の先生方、とりわけ強度近視外来の先生、帰国後絶えず叱咤激励して下さった森田育男先生(本学分子細胞機能学教授、本学副学長)と分子細胞機能学教室の皆様、PDT治療が始まった頃に高額の治療材料を提供することに尽力して頂いたQLT社の李明子さん、いつも英文論文を見て頂いているDuco Hamasaki先生、、、枚挙にいとまがない。

 とりわけ恩師の、所 敬 名誉教授には感謝、感謝、感謝である。所先生には、研究は勿論、身だしなみや、診療態度に至るまで様々なことを教わった。「たとえ小さな分野であったとしても、この分野なら自分は負けないというフィールドを持て」と教わったことは忘れない。そして今度は私が誰かを引き上げる役目を果たしたいと思っている。

 今日まで臨床研究を続けるにあたって仕事面、家庭面での紆余曲折もあったが、「強度近視が自分のライフワークである!」という意志を今後も貫いていくつもりである。最後に、三重県の片田舎から私を医学部に進学させてくれた両親に心から感謝したい。また常に私を応援し続けてくれている主人にこの場を借りて感謝の意を表明したい。自叙伝のような講演であったが、何か参考になることが少しでもあれば本望である。

 【大野京子先生 略歴】
   1987年 横浜市立大学医学部卒業
   1990年 東京医科歯科大学眼科医員
   1994年 東京医科歯科大学眼科助手
   1997年 東京医科歯科大学眼科講師
   1998年 文部省在外研究員(Johns Hopkins大学)
   1999年 東京医科歯科大学医歯学総合研究科講師
   2005年 東京医科歯科大学医歯学総合研究科助教授
   2007年 東京医科歯科大学医歯学総合研究科准教授
   2002年度日本眼科学会学術奨励賞、第2回Pfizer Ophthalmic Award受賞 

【後記】
 個人的はことではあるが、「強度近視」に思い出がある。2002年10月ダラスで行われた米国眼科アカデミー(AAO)の最大のイベントである「Jackson Memorial Lecture」の講演者に推挙された田野保雄先生(故人;当時大阪大学教授)が選んだテーマが、「強度近視に合併する網膜剥離の外科的治療法」であった。田野先生が「強度近視」というテーマを選んだことに、少し意外な感じがしたのでその理由を伺った。「強度近視は東洋人に多く、多くの欧米人には余り知られていないんですよ」と答えてくれたことを、印象的に覚えている。
 今春4月に行われた日本眼科学会総会(名古屋)でのシンポジウム「clinical scientistを目指して」は好評であった。今回はそのシンポジストの一人である大野先生を、新潟に招いて同様の演題で講演するようにお願いした。15分を60分に拡大しての講演で、内容もより詳細に、かつややオフレコの部分も取り入れての熱弁だった。素直な表現に、聞くものを感動させる力があった。
 大野京子先生のライフワーク「強度近視」、ますますの発展を祈念したい。

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2)拡散強調MRIによる視神経軸索障害の定量的評価
   植木 智志 (新潟大学眼科)
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 視覚情報路の解剖およびMRIの原理に触れながら、大学院時代に統合脳機能研究センター(*1)で行った研究についての論文(*2)を解説した。拡散強調MRIは、既に脳梗塞や脳腫瘍、多発性硬化症などの臨床で汎用されている。拡散強調MRIは水分子の生体内での「みかけの拡散」をコントラストとして扱う(「みかけ」と呼ぶのは生体内での拡散には純粋な物理運動であるブラウン運動だけでなく、微小循環や軸索原形質流、細胞膜による制限なども含まれるため)。「みかけの拡散」を2階テンソル量として評価し、「みかけの拡散」の総和や不等方性(異方性)などを指標として用いることで、神経軸索障害の定量的評価を行うことが可能である。

 *1)新潟大学 統合脳機能研究センター
 http://coe.bri.niigata-u.ac.jp/index.php 

 *2)Ueki S, Fujii Y, Matsuzawa H, Takagi M, Abe H, Kwee IL, Nakada T.
 Assessment of axonal degeneration along the human visual pathway using diffusion trace analysis. Am J Ophthalmol 2006;142:591-596.

 拡散強調MRIで視神経を撮像するには、磁化率アーチファクトと視神経のボリュームが小さいことによるシグナルノイズ比の低下を克服しなければならない。磁化率アーチファクトは局所の磁場の不均一によって生じ、特に眼窩は周囲の副鼻腔の含気に強く影響される。我々は、シグナルノイズ比の改善のために、3テスラMRI装置(*3)を用い、trace解析を行った。また、やっかいな磁化率アーチファクトを軽減するために、PROPELLERシーケンスを用いた。3テスラという高い磁場を用いることでシグナルノイズ比は改善する(しかし、磁化率アーチファクトは更に増強する)。trace解析は拡散強調MRIにおける「みかけの拡散」の評価方法のひとつだが、複雑な傾斜磁場の組み合わせを必要としないためシグナルノイズ比を改善することが可能である。traceは「みかけの拡散」の総和の指標で、trace高値は「みかけの拡散」の上昇、trace低値は「みかけの拡散」の低下を表す。PROPELLERシーケンスは磁化率アーチファクトの影響を受けにくい高速スピンエコーシーケンスを基にしたシーケンスである。

 *3)3テスラMRI装置
 http://coe.bri.niigata-u.ac.jp/content/HFMRI_ja 

  我々は片側慢性期視神経症10名および正常被験者16名の拡散強調画像を撮像し、得られた画像から三次元不等方性コントラスト(3DAC)画像を作成し、両側視神経・両側の視交叉の非交叉線維・視交叉の交叉線維・両側視索・両側視放線の計9部位に関心領域を設定しtrace値を計算した。

 3DAC(*4)もまた拡散強調MRIにおける「みかけの拡散」の評価方法のひとつで、みかけの拡散の不等方性が画像化される。神経軸索のような方向性を持った組織では、水分子はどの方向にも等しく拡散する等方性拡散を示さず、神経軸索の長軸方向に拡散が大きい不等方性拡散を示すことが知られている。3DACは、加法混色の原理を用いることで、みかけの拡散の等方性成分を消去し、神経軸索の不等方性成分を抽出する。3DAC画像を用いることで、正確に関心領域を設定することが可能となった。

 *4)3次元不等方性コントラスト(3DAC)画像
 http://coe.bri.niigata-u.ac.jp/content/HFMRI_DiffPerf_ja

 患者群の患側視神経・患側の視交叉の非交叉線維のtrace値は、正常被験者群の同部位に比べて有意な上昇がみられた。患者群の健側視神経・健側の視交叉の非交叉線維・両側視放線のtrace値は正常被験者群の同部位に比べて有意差はみられなかった。また、患者群の視交叉の交叉線維と両側視索のtrace値はその中間的値を示した。これらの結果は視覚情報路の解剖学的な視神経軸索の走行から考えられる軸索障害の程度と非常に良く一致した。慢性期視神経症におけるtrace値の上昇は軸索障害に伴う「みかけの拡散」の上昇を示していると考えられた。

 では、急性期視神経炎ではtrace値はどのように変化するのだろうか?同様の方法によるpreliminary studyでは患側視神経のtrace値は健側視神経に比べて有意な低下がみられた。trace解析によって病態の相違をtrace値で評価することが可能であると考えられる。

 今回の講演のおかげで研究内容を改めて見直すことが出来た。また、講演後の質疑応答から今後の展開についてのアイディアを得ることが出来た。本研究を今後も発展させたいと考えている。

 【植木智志先生 略歴】 
   1999年3月   新潟大学医学部 卒業
   1999年 4月  新潟大学医学部附属病院眼科 実地研修開始
   2000年10月  聖隷浜松病院眼科 勤務
   2001年4月   新潟大学大学院 入学
           新潟大学脳研究所脳機能解析学分野で研究
           (現新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター)
   2005年3月   同上 修了
   2005年 4月   新潟大学医歯学総合病院眼科 医員
   2005年10月   厚生連佐渡総合病院眼科 勤務
   2007年 4月   新潟県立十日町病院 勤務
   2008年 4月   新潟市民病院 勤務
   2009年10月  新潟大学医歯学総合病院眼科 医員 

【後記】
 視神経萎縮を定量的に知ることは、存外難しい。この難テーマに取り組んだ植木先生の挑戦物語は、拝聴していて迫力があった。視覚情報路の解剖およびMRIの原理に触れながら、時に数式を取り入れながらの講演は、正直その場で理解することは困難であった。しかし苦心して判り易いスライドを用意してもらい、60分講演30分の質疑応答という今回のような講演会は、私の頭でも少しでも理解できるものにしてくれた。将来的には、緑内障による視神経障害を他覚的に測定する方法にまで発展させて欲しい研究である。
 若武者、植木智志先生の今後の発展を期待したい。 

 

2010年8月24日

報告:【目の愛護デー記念講演会 2010】
 (第174回(10‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題:「今昔白内障治療物語」
  講師:藤井 青 (新潟県眼科医会会長、前新潟市民病院眼科部長)
   日時:平成22年8月11日(水)16:30~18:00    
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来


【講演要旨】
 白内障は眼球内の水晶体が混濁する病気です。主因は加齢ですが、赤外線の被爆、オゾン層の破壊など環境破壊による過度な紫外線被爆、職業現場における紫外線やレントゲン線の過度な被爆、恒常的な高温環境などの影響も注目されています。二次的な原因はある程度予防できるとしても、主因である加齢を完全に抑えることが出来ない以上、長寿高齢化に伴って、手術適応症例は増加します。更に、運転免許証がどうしても必要な職業や生活環境の増加が手術適応を拡大しています。

 一方、「白内障の手術をすると、眼鏡なしで遠くも近くもよく見えるようになる」「白内障手術は短時間で出来る簡単な手術」などという、誤った風評が眼科医療現場に様々な問題を起しています。白内障手術は本当にそんなに簡単で全く危険のない手術なのでしょうか? もう完成した手術で、今後の進歩は望めないので、少しでも見難くなったら急いで受けた方が良い手術なのでしょうか? 

 
 風評に惑わされ、誤った判断に陥る危険を回避するためには、白内障手術に対する先人達の大変な努力と苦労の跡を辿り、現在の高度な手術に至る道程を振り返ってみることも有意義ではないかと思います。昔のことは確実な文献が少なく、伝承や物語に近いところがあります。そのため、タイトルを「今昔白内障治療物語」とさせて頂きました。

 白内障に対する外科的治療は、これを手術といってよいかは甚だ疑問ですが、紀元前800年頃(約3000年前)から行われていたと言われます。尤も当時は、白内障を混濁した液が瞳孔の奥にたまったものと考えられていたようで、この濁った液が流れ出る道を針で作り、眼球の中の硝子体に流して瞳孔を透明にするという方法です。

 
 白内障が水晶体の混濁と判明したのは、ようやく1685年になってからのことです。フランスの眼科医・アントアーヌ・メートルー・ジャンが手術中、圧下させた物体(液でなく)が硝子体中でなく瞳孔から前房へ移動したことがきっかけです。いずれにしても、濁りを眼外でなく、眼球内に墜下する方法で、大変不確実で、危険なものでした。

 
 当時のインドにおける白内障手術についてはCelsus (チェルスース)の記載があります。「患者には手術などはしない。薬を塗るだけと言い聞かせる。頭を助手がしっかり抑える。左手で上眼瞼を抑えて、下方視させる。眼球に針を刺し虹彩または瞳孔を通して水晶体の周囲へ刺入する。瞳孔がきれいになった時点で、手の指などを見せ数えさせる。24時間眼帯し、その間に、隣村へ逃げる」という大変なものでした。

 日本の白内障手術はインドのベンガル地方からエジプト、更にヨーロッパ、中国を経て、10世紀頃に伝えられたとされています。疾病をテーマにした絵巻物『病草子』にも墜下法を行っている恐ろしい絵が描かれていますが、実際には、南北朝~江戸時代になって漸く医療としての形が出来てきたようです。それには、1774年『解体新書』や杉田玄白らの「眼目篇図」、1815年の杉田立卿(玄白の子)の『眼科新書』が白内障手術の進歩に大きく貢献したとされますが、江戸時代の手術記録(土生玄昌)『白内翳手術人名』によると、3年前失明したという60余歳の商人に1851年に施行した白内障手術は、手術回数7(8)回、入院期間85日とあり、確実に濁りをとるということの大変さが伺われます。

 濁りを確実にとるという意味では、1864年に開発された「水晶体全摘出術」が白内障手術一つの完成といえましょう。しかし、様々な術中、術後合併症が起こり、大変だったようです。そのため、実際には、その後の約100年間は「水晶体全摘出術」でなく、「水晶体嚢外摘出術(白内障線状摘出術)」が行われました。この手術の術中合併症を少なくするには、眼球壁(角膜縁)に短時間で十分に大きな、早期に前房の消失しない綺麗な手術創をつくることが必要でしたが、このための素晴らしいナイフが考案されたからです。このナイフのデザインはコモ湖で眼科医仲間と寛いでいたグレーフェが突然思いついたもので、グレーフェ刀と命名されました。この手術刀について、「どう思いますか?」と訊ねたグレーフェに、ホルネルは「誰にもまだわからない。でも、これはシャンペンで祝うべきだ」と答えたといいます。

 
 
 1922年に行われた、クロード・モネの白内障手術に係るフランスの眼科医ジェームス・G・ラヴィンの調査資料に、執刀した眼科医コーテアの記録があります。「白内障を手術するためメスを入れ、出来るだけ多くの水晶体を洗い出した。その晩、前房が改善され、大変安心した」とあり、手術は成功したのですが、縫合は全くしないか、行ったとしても一糸だけで術後10日間の絶対安静が要求されました。実際の術後安静の状態については、モネの義理の息子の記述があります。「1~2時間おきに外用薬を点眼する時以外は完全な闇の状態。枕は使用禁止。頭が動かないように両脇に砂袋が置かれた。ベッドで水平に寝かされ、手は体の脇に伸ばして身動きできない状態を保たねばならなかった。付き添いは患者が動かないように常に見守り、精神に異常を来たさないように話しかける必要があった」ということです。術後の屈折異常(強い遠視)を矯正する眼鏡も慣れるのが困難で、モネはいろいろ不満を述べています。そんなに昔ではない20世紀に入ってからの話です。

 
 その後、水晶体全摘出術は手術器具と術式の改善により、かなり安全な手術になりました。濁りが全くなくなるため、当時の嚢外摘出術に比べれば格段に視機能の改善が高く、しばらくは水晶体全摘出術が全盛となりました。また、分厚い眼鏡レンズに対する対策としてコンタクトレンズの開発が寄与しました。

 再び、水晶体全摘出術から「計画的嚢外摘出術(改善された嚢外摘出術)」へと、術式が変更され、現在は「超音波乳化吸引術」が主流です。これらの進歩は、手術器具に加え「手術機械」や「手術用顕微鏡」の開発に負うところが大きいのですが、術後視機能の飛躍的向上という点では「眼内レンズ」の開発・進歩を特筆しなければなりません。

 眼内レンズは画期的な開発です。もともとの場所に代用レンズを挿入するわけですから、見え方は自然で、術後屈折異常の矯正法として最も理想的であることは議論の余地がありません。このレンズの発想は1766年に遡ります。有名なイタリア人小説家カサノバの回想録にこんな記述があります。「ヨーロッパを巡回していた眼科医Tadiniから、箱の中のレンズを見せられた。「虹彩の後ろの水晶体のところへ埋め込むつもりだ」ということです。その話をドレスデンの眼科医Cassmataに伝えた。早速Cassmataガラスレンズを試作し眼内に入れたが、重いため眼底に沈んでしまったそうです。

 実際に使用できるようになったのは、20世紀も後半になってからのことです。その後も色々な問題があり、改善が試みられています。その経過を以下に列挙してみます。
 1949 英国のRidley:Ridleyレンズ:水晶体に類似した形状で作成したが、重く安定性がなかった。 → そこで、光学部と支持部に分ける形状にして軽量化をはかった。
 1952 前房レンズ(隅角部固定)が開発されたが、水泡性角膜症を多く発生し、眼内レンズは行ってはいけない手術とまで評価を下げた。
 1967 虹彩支持レンズ(Binkhorst)の開発:水泡性角膜症が減少しIOLは有用と再評価された。白内障嚢内(全)摘出術後の虹彩支持レンズは嚢胞様黄斑浮腫起こしやすい。
   →  白内障嚢外摘出術が再評価されるようになった。
   →  従来の白内障嚢外摘出術ではなく水晶体皮質の完全除去が要求されるようになった。
          Shearingはオープンループの前房レンズを後房レンズとして使用。
   → IOLによる合併症の軽減。


 現在主流の手術には、単焦点後房レンズ(後房foldableレンズ)が用いられていますが、付加価値IOLとして、表面処理レンズ(異物反応抑制)、色覚を自然にするための着色(黄色)レンズ、光障害対策のUVカット、明視域の拡大のために多焦点レンズも開発されています。手術手技の進歩と手術機械の進歩、眼内レンズの進歩、術後乱視の軽減・対策、術後屈折予測値の正確な測定などの進歩、などが相呼応して、白内障手術は目覚ましい進歩発展を遂げました。

 では、「白内障手術+眼内レンズ挿入術(水晶体再建術)」は本当に完成した手術で、今後の進歩は望めないのでしょうか。少しでも見難くなったら、早く手術を受けた方が良いのでしょうか?この答えはなかなか簡単ではありません。個々の患者さんによって異なる様々な要件を考慮し、総合的に検討する必要があります。

 少し前のことではありますが、1993(平成5年)の吉行淳之介著『目玉』の一節をご紹介したいと思います。「ある文学賞の授賞式で出席者名簿に署名していたらいきなり大きなものが被さってきて、私の頸を両側から絞めてきた。こいつめ、こいつめ、という声が耳もとでひびいた。ぼくはこんな眼鏡をかけているのに、なにもなしで、けしからん。埴谷雄高(はにや  ゆたか)氏だった。あらためて眺めると埴谷さんの眼鏡の左には度の強い凸型のレンズが入っていた」 昭和60年6月のことである。

 眼内レンズが認可されたのを待って白内障手術を受けた吉行淳之介氏と、その一寸前に白内障の手術を受け、眼内レンズ挿入術を受けることが出来なかった埴谷雄高氏の対話です。なんとも悩ましい問題ですが、これからも起きてくると思われる問題です。

【略歴】
  昭和40年  新潟大学医学部卒業。
  昭和41年  東京大学医学部付属病院にて医療実地修練
  昭和45年  新潟大学大学院医学専攻科(眼科学)終了。
  昭和48年  新潟市民病院眼科科長(現眼科部長)
        新潟大学講師(医学部非常勤、現在にいたる)
  平成8年   潟市民病院地域医療部長(眼科部長兼任)
  平成12年  新潟市民病院診療部長(眼科部長兼任)
  平成16年   新潟医療技術専門学校 教授(視能訓練士科 学科長)
  平成19年   新潟医療技術専門学校退職
   (現在)  新潟県眼科医会会長
        にいつ眼科名誉院長, ふじい眼科名誉院長

【後記】
 白内障手術の歴史について紀元前800年の頃から始まり、現代の白内障手術まで、どこで手に入れられたのか、図や写真を多く挿入され、見ごたえ聞きごたえのある講演でした。眼科医である私でも知らないことが多くあり、話に引き込まれました。そして3000年に及ぶ白内障手術の歴史を学び、今なおチャレンジの中にいることを知ることが出来ました。

 医療の現場では、「トライ&エラー」は許されないはずですが、医学や医療、特に手術が進歩する場面には、時に「トライ&エラー」が必要になります。第31回日本プライマリ・ケア学会学術会議の特別講演で永井友二郎氏が以下のように述べています。「われわれがよりどころとしている現代医学は、たいへん高いレベルに進歩しているといわれ、その事実もたしかにあるが、同時に、医学は完成したものでなく、開発途中にあり、どぎつい表現をすれば、医者はいつも病人に欠陥商品を売りつづけています。しかも、医者はこのことをやめるわけにゆかず、それを売り続ける義務さえあります、これが現実なのです。」

 今日行った最新の白内障手術は、明日には古いものとなるというリスクをいつもはらんでいます。患者の要求が高まれば高まるほど、以前であれば術後に分厚いメガネで矯正しても視力を回復できればOKだった時代から、乱視の少ない手術、そして眼内レンズの時代に代わり、眼内レンズも小切開・非球面・着色・紫外線カット、そして多焦点と変遷してきています。

 今回参加された皆様の中にも、実際に現在白内障と診断されている方、白内障の手術を勧められ迷っている方、白内障手術を施行した方などが含まれ、講演後の質疑応答も盛り上がりました。

 いつ白内障手術に踏み切ればいいのか?、、、こんな一見簡単な疑問に答えるにも、実は多くのことを考慮しなければならないとうことを、患者さんに理解して頂かなければなりません。とても短い診療時間では全てをお話しできません。今後もこうした機会を通じ、多くの方々に正しい医療情報を提供していきたいと思います。

 最後になりますが、どんな質問にも丁寧にお答え下さった藤井先生に、心より感謝致します。

2010年7月28日

報告:第173回(10‐07)済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会
    日時:平成22年月7月28日(水)16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」 

1)「点字を学習して」
  伊藤 奏(いとう かなで) 中学部1年
 今年の4月から全ての教科で点字を学習しています。小学校の5年生から少しずつ練習をしてきましたが、最初の頃はなかなか読めずに苦労しました。アイウエオから練習しましたが、タ行は点の数が多く苦労しました。毎日宿題を出してもらい3ヶ月で大分読めるようになりました。最近では少しずつ自信もつき、何とかやっていけるかなという気がしています。
 ずっと活字の拡大文字による教科書を使って学習していたので活字・点字ともどちらの良さもわかります。今年1年間で点字の読み書きのスピードを上げるためにがんばりたいと思っています。

 《弁士紹介》
 現在、万代太鼓・陸上部に所属しています。昆虫が好きで、昆虫に関してはいろいろと知っています。中学部に入学するまでは男子が一人となるので不安でしたが、入学してみると意外と慣れて今では楽しく学校生活を送っています。先日行われた体育祭では実行委員長を務めました。今は8月の新潟祭りに向けて万代太鼓の練習をがんばっています。
 

2)「人と関わるとは」 
  石黒知頼(いしぐろ ともより) 高等部普通科2年
 昨年、新潟市役所で「職業体験」をする機会がありました。そこで職員の方に点字について教えたのですが、人にものを教えることの難しさを実感しました。また、タクシー券を数える仕事をしました。その時にミスをしたのですが、そのことを伝えることができずに迷惑をかけてしまいました。自分の意思を人に伝えるということがとても大変でした。ついつい人にどう思われるかを考えてしまうからです。
 今後一人で暮らすことになると、ますます多くの人と関わることになります。自分でできることを増やす、できないことは人に伝える、助けてもらった時は感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。そのためにも「自分の意思をはっきり伝える」、「わかりやすく教える」力を身に付けていきたいと思います。

 《弁士紹介》
 私は昨年の春から寄宿舎に入舎しています。高等部を卒業したら、茨城県の筑波技術大学に進学したいと考えています。済生会での弁論は今回で2回目です。高等部に進学後の体験を通じて考えたことを率直にお伝えできたらと思います。現在、野球部に所属し、今年度は7月1日より石川県で開催される北信越盲学校グランドソフトボール大会に出場してきます。
 

3)「出逢い」  
  長谷川弘美(はせがわ ひろみ) 高等部専攻科理療科1年
 出逢いって不思議だと思いませんか?出逢いによってこれまでの人生観が大きく変わってしまうことがあります。私にとって一番の出会いは母です。3年前に亡くなりましたが、私が幼い時に苛められると、「苛めるほうが悪い。天に向かって唾を吐くと、自分にかかってしまう」。「人に親切にされた時は、感謝の気持ちを忘れてはならない」。社会人になってからは会社の先輩に言われた一言が心に残っています。「僕は誰とでも仲良くなれる。あなたとも仲良くなれる」。当時の私は人の悪いところばかりみて批判していたのですが、それとなく諭してくれたのです。美しい言葉は、ありがとう。美しい心は、思いやり。美しい人は、ひた向きに生きる人。4月から盲学校に入学して多くの人・仲間と出会うことができました。悩んだり迷ったりしたときには教えられたことを思い出しています。
 出逢いの数だけさまざまなことを学び、成長していく・・・。これからも皆といっしょに学んでいきたいと思います。

 《弁士紹介》
 盲学校に入学して今まで忘れていた感動や優しさに触れ、元気をもらっています。勉強の方は今までになく頑張ってはいるのですがなかなか頭に入ってくれません。こんな流れに乗ってしまった自分にビックリしています。今一番の楽しみはいろんな人に出逢うこと、家では植物や金魚、愛犬にいやされています。
 

4)「夢の続き」 
  山田 弘(やまだ ひろし) 高等部専攻科理療科3年
 あなたは夢を持っていますか?私には一度あきらめかけた夢があります。ランニングの楽しさがわかり、自信も高まり、ホノルルマラソンへ参加しようと考えていました。しかし、ある時走っている時に人と接触して転んでしまいました。視野が狭いために脇に人がいることが分からなかったのです。このアクシデントで自信も失い、夢もあきらめてしまいました。 しかし、昨年町内のマラソン大会に招待された千葉真子さんの何度も何度も挫折を乗り越えたという講演を聞き、もう一度挑戦しようと思い立ちました。
 みなさんも諦めてしまった夢がありましたら、再びチャレンジし追いかけてみませんか?

 《弁士紹介》
 昨年度に引き続いての参加です。7月1日より開催される北信越盲学校グランドソフトボール大会に参加してきます。今年度は最後の大会となるので悔いの残らないよう仲間と力を合わせ、精一杯がんばってきたいと思っています。弁論では自分の夢のことをお話しさせていただきますが、自分の考えていることをお伝えできたらと考えています。
 

【後 記】
 毎年新潟盲学校の方々に来てもらい当院で弁論大会を開いています。そして毎回「どうしてこんなに純粋なんだろう」、「どうしてこんなに真っ直ぐなんだろう」と、多くの感動をもらっています。今回参加された方から、以下の感想を頂きました。
 ・先日は、盲学校の生徒さんたちのお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
 ・みなさんがとてもしっかりとした考えを持っていて、前向きで、自分が今何をすべきかをきちんと理解し、それに向かって着実に進んでいられる事に、ただただ圧倒されてしまいました。
 ・私は何年か前に失明しましたが、さほど落ち込んでいるつもりはありませんでした。それでも皆さんのお話をお聞きして、まだまだ弱虫の自分がいることに気がつかされてしまいました。
 ・これからも、たくさん勉強させていただきたいと思います。 

 今回の弁論大会で、4名の方々から意欲や夢を聞き、「挑戦する勇気」、「感謝する心」、「夢を持ち続けるパワー」をもらいました。4名の弁士に心から感謝し、彼らにエールを送りたいと思います。

 

 

2010年7月8日

『新潟ロービジョン研究会2010』 2)シンポジウム 
シンポジウム 『見えない』を『見える』に
 シンポジスト:
  稲垣 吉彦 (有限会社アットイーズ 取締役社長)
    「見えないってどんなこと?」
  永井 和子 (視覚障害生活訓練等指導員;長崎障害者支援センター)
    「見えなくてもできる」
  田中 宏幸 (教諭;新潟県立新潟盲学校)
    「見える喜び・できる喜び~教育の立場から~」   
  柳澤 美衣子 (視能訓練士;東京大学医学部付属病院眼科)
    「視野評価とロービジョンケア」
  仲泊 聡 (眼科医;国立障害者リハビリセンター病院第二診療部長)
    「とっても眩しいんです」


 
司会:加藤 聡 (東京大学眼科)
    張替 涼子(新潟大学眼科)
    安藤 伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
 コメンテーター:
    山本 修一(千葉大学大学院医学研究院眼科学教授)
    林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科・教授)
    小田 浩一 (東京女子大学人間科学科教授)

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1.「見えないってどんなこと?」
   稲垣 吉彦
     有限会社アットイーズ 取締役社長

 私が以前のように見えるようにはならない現実を知ってから今年でちょうど15年が過ぎました。この間、仕事を失い、家庭を失い、再度大学生活を経験し、再婚、再就職、独立起業と周りの環境はめまぐるしく変化しました。そして現在はパソコンをはじめとする視覚障害補償機器の販売とサポートを業務とする会社を経営する傍ら、医療機関や福祉施設からのご紹介を受け、ボランティアでいわゆるピアカウンセリングを行っています。
 今回はその事例を2つほど挙げ、見えないってどんなことなのかを考えてみたいと思います。

(事例1) 30代前半女性(ぶどう膜炎患者)
 4年ほど前拙著「見えなくなってはじめに読む本」を読んだという、50代中盤のお母様から「自分の娘もぶどう膜炎で、完治する見込はないと医者に言われている。娘がかわいそう
なので、これから娘を殺して自分も死ぬ。」という内容の電話を受ける。約3時間の電話カウンセリングを行い、私自身がお世話になっていた眼科医を紹介し、最悪の事態は回避した。毎年この時期になると、近況報告のお手紙をいただき、母娘ともに良好な関係を保ちながら、人生を楽しんでいる様子がうかがえる。

(事例2)
 弊社の業務の一環として、就労継続支援を行う中で、様々な企業の人事担当者、役員など37名に対して「もし今あなたが見えなくなったら何ができると思います」という質問をした結果、28名については「書類を見ることができない。」「通勤自体ができない。」「コピーがとれない。」などできることではなく、できないことをその質問に対する回答とした。

 上記2つの事例に共通することは、見えなくてできないことは想像しやすいが、見えなくてもできることはなかなか思い浮かばず、考えれば考えるほど負のスパイラルに陥るということなのではないかと思います。ではなぜこのようにマイナスのイメージしか思い浮かばないのか?様々な要因が考えられると思いますが、私は見えないことに関する情報不足や知識不足に起因する部分が大きいのではないかと思います。

 見えないことは決して何もできないこととは違います。長い人生のある時期に、たまたま科せられた現実でしかありません。見えていても、見えなくても一度きりの人生です。見えない人生のひとときをただ単に悲観して過ごすのではなく、希望を失わず、自信と誇りを持って、ともに力強く生き抜きましょう。

 略歴 
  1988年 明治大学政治経済学部経済学科卒業、株式会社京葉銀行入行
  1994年 ぶどう膜炎(原田氏病)および続発性緑内障発症
  1996年 視覚障害のため同行退職、筑波技術短期大学情報処理学科入学
  1999年 株式会社ラビット入社
  2006年 有限会社アットイーズ設立
  2009年 視覚障害者情報総合ネットワーク「サピエ」ポータルサイトプロジェクト委員
  2010年 筑波技術大学 保健科学部情報システム学科 非常勤講師

 

2.「見えなくても出来る」
   永井 和子
     視覚障害生活訓練等指導員;長崎こども・女性・障害者支援センター

 「見えなくても出来る」ということを、相談に来られた方やそのご家族、その他より多くの方々に理解して頂くことが、私たちの仕事であると日頃から思っております。人生の途中で目が不自由になった方は、日常生活をスムーズにする為に、かなりの努力をされます。しかしご本人の努力だけでは難しいところがあります。周囲の方の理解が必要です。私はご本人に始めてお会いした時、いかに保有感覚を使うかというお話をします。でもただ話しただけではどなたも納得しません。実感して頂くことが一番良いようです。

 入院中の男性です。「何かご不自由はないですか?」と尋ねたら、「みなさん良くしてくれるので何もありません。でも入院してから10個の湯呑みを割りました。湯呑みは買い換えればよいのですが、忙しい看護師さんに申し訳なくて」とおっしゃいました。そこで机上探索方法をお知らせしました。一ヶ月後「あれから一個も湯呑みを割ってません。ありがとうございました」 そして、「玄関まで行きたいのですが・・・」とおっしゃいました。私は心の中で「ヤッター」と叫びました。玄関で目にしたパンジーの花に私は「うわー、きれい」と思わず声が出ました。その方の手を花に誘導すると、その指先はひとひらひとひら花びらを触れていきました。「この花の色は?」「黄色です」「この花は?」「紫です」「思い出しますねー、きれいですねー」と言われました。まさに「見えない」から「見える」への瞬間でした。その後は順調に進みました。

 次は盲ろうの方です。弱視難聴の方です。白杖はまだ必要ないと思っている方で、訓練の時間はお話をして過ごしていました。ある日その方から言われ、屋内の階段から自動ドアがある玄関まで歩きました。数回そのルートを歩いた後のことです。「空気で分かるんですね、外に出たことが」と言われました。そして、「嬉しい、自分で分かったことが嬉しい」と。これもまた「見えない」から「見える」への瞬間でした。この時私は思いました。「歩行訓練士は喋りすぎないこと」自ら感じることの尊さ。この喜びは彼女の大いなる次へのステップになることでしょう。

 また研修会の時は周囲の方の理解を深めて頂くために、紙幣弁別封筒をお渡しし体験して頂きました。「見えなくても出来る」ということを理解して頂けたと思います。

 略歴
  1951年 長崎市に生まれる。
  1971年 長崎県立保育短期大学校卒業
  1984年 長崎県立啓明寮勤務
        厚生省委託歩行指導者養成課程修了
  1998年 厚生省委託リハビリテーション指導者養成課程修了
  2004年 厚生省委託視覚障害生活訓練等指導者養成課程2年生修了
  2007年 長崎こども・女性・障害者支援センター勤務 現在に至る

 

3.「見える喜び・できる喜び~教育の立場から~」   
   田中 宏幸 
     新潟県立新潟盲学校教諭 

 「見る」という働きは視覚を通じてのものだけなのだろうか、視覚以外の感覚に頼る幼児児童生徒は、「見えない=できない」のだろうかという疑問があるとしたら、答えは間違いなく「No」です。新潟盲学校に勤務していて、実際、点字を使用している当校の幼児児童生徒は他の感覚を上手に使って、十分「見て」います。このようなことから、「見る」「見える」というのは「わかる」「できる」ということばに置き換えて考える必要があるのではないか考えています。

 実際、見えづらさから漢字の学習を苦手としていて、漢字学習に消極的な生徒がいました。「自信を持ってほしい」と願い、そのためには成功体験を積むことが必要だろうと考え、漢字検定の受検・合格を目指して、取り組みました。また、教科書の音読についても拡大読書器を継続的に使用して音読練習に取り組んだ結果、最初は1分間に40字程度の速度でしたが、1年間経つ頃には1分間に200字程度読むことができるようになりました。また、将来一人でいろいろなところに出かけ、自立した生活を送りたいという強い希望を持っている生徒にATMの活用・切符購入・身辺整理(掃除機・ほうき・ちりとり)・援助依頼(コンビニ・駅)・単独帰省など、家庭からのご協力をいただきながら意図的・系統的に進めていきました。

 当時を思い返しつつ、現在感じていることとして「いろいろなことに対して最初はうまくできるか不安だったが、回を重ねるごとになれてきた。何とかできるんじゃないかという気がしてきた。ATMの活用は今でも継続しているので自信がある。援助依頼についてはその必要性は十分理解しているが、自分の意志を伝えるのはまだ難しい。」と感想を述べています。

 「見える喜び・できる喜び」のためには、適切な支援(専門機関との連携)、本人の「できるようになりたい」「やってみたい」という意欲、そして保護者とのよりよい連携が必要なのではないかと考えています。

 経歴
  1991年  日本大学文理学部 教育学科 卒業
  1991年~ 県内中学校 勤務 
  2003年  上越教育大学大学院 臨床心理分野 修了
  2003年~ 新潟県立新潟盲学校 勤務

 

4.「視野評価とロービジョンケア」
   柳澤 美衣子 
    東京大学医学部付属病院眼科 視能訓練士

 視野は網膜全体の機能を反映するだけでなく、網膜の情報を脳に伝える視神経および脳の視覚中枢の機能にも関係している。そのため、視野障害の程度はどの部位が、どの程度障害されたかなどによって異なる。

 実際に視野障害といっても求心性視野狭窄、中心暗点、輪状暗点など様々な形、広さがあり、保有視野の位置も異なるので視野障害者における見え方や日常体験する困難な行動は一人一人異なる。視野障害のために、生活に不自由が生じているにもかかわらず、自分の眼は「どのように見えているのか」という「見え方」、「どのようにしたら見えるのか」という「見かた」をしっかりわかっている人は少ないように感じる。

 視野障害者が自分の「見え方」を理解する、つまり自分の視野の状態を正しく、自分の行動の困難の問題と関係づけて考えられるかが重要である。保有視野を効率的に利用するための「見かた」を習得することが今回のテーマである「見えない」を「見える」に変える一歩だと考えた。視野障害者に自分自身の見え方、見かたを理解して頂くためには日常生活空間での実際の見え方を具体的に説明し、実際の見え方を体験して頂き納得してもらう必要がある。そのためには、まず保有視野の活用に重要な「距離と見え方の関係」について理解しておく必要がある。

 今回は代表的な視野障害である求心性視野狭窄、中心暗点の距離と見え方について述べた。視野狭窄の場合、見える範囲の面積だけを考えると距離が遠くなるほど見える範囲は大きくなる。しかし、遠方では見る対象物自体が小さく網膜に投影されることになり、対象物を判断するには、「眼の高い解像度」が要求される。近くになるほど見える範囲が狭くなるので、近くのものは視界からはみだしてわかりにくく、そのため「近くのものにぶつかる」ことが多くなる。また中心暗点の方は、同じ対象物を見ている場合、見る距離が遠くなるほど暗点で隠れる範囲が大きくなるので、遠くにあるものは気づきにくくなる。同じ対象物を見る場合は、近づいて見た方が、対象物に対して暗点で隠れる割合が少なくなる、つまり暗点の影響が小さくなる。さらに中心暗点をもつ視野障害者の「見かた」である偏心視の簡単な評価法と訓練法について述べた。

 視野障害者が自分自身の見え方を理解することは、どこを見れば眼を最大限活用できるのかという「見かた」を習得することにもつながり、さらには自分自身の視野を理解した方は、周囲に自分の見え方を伝えることができるようになり、視野障害を理解してもらえることで、助けてもらえることも自然と増えるのではないかと思われる。

 略歴
  2004年  大阪医療福祉専門学校 視能訓練士学科 昼間部 卒業
  2004年~東京大学医学部付属病院 眼科 勤務 
  2007年  北里大学大学院医療系研究科臨床医科学群眼科学 博士課程入学
  2010年 博士課程修了 医学博士学位取得

 

5.「とっても眩しいんです」
   仲泊 聡 
     国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部部長 

 ロービジョンの患者さんには、普通の明るさであるにもかかわらず、とっても眩しがり、あまりに眩しくて目を開けていられないというほどの人もいる。ところが、この「まぶしい」という感覚のメカニズムは未だに解明されていない。そこで、最近出会ったとくに眩しがった患者さん3名の症例報告を行い、羞明のメカニズムについて考察する。

症例1:54歳女性、網膜色素変性症。視力は両眼手動弁。オレンジ系の遮光眼鏡を好む。
 視神経乳頭の色は悪くなく、OCT(光干渉断層像)でも神経線維層の厚みは保たれていた。
症例2:38歳男性、糖尿病網膜症。視力は右0.02(n.c.)、左光覚無し。レーザー治療・硝子体手術後。
 羞明に対し、現在、遮光眼鏡CCP400TR/TS(透過率20%-91%のグラデーション)を試用中。
 この症例の視神経乳頭も視力低下のわりに萎縮が目立っていなかった。
症例3:19歳女性、緑内障。視力は右0.01(0.2)、左0.01(0.02)。遮光眼鏡CCP400FR(22%)を常用。
 緑内障としては視神経乳頭の陥凹はほとんどなく、OCTでの神経線維層厚はむしろ健常者より厚いくらい。この患者は驚いたことにFRだけでなく、550nm以上をカットするブルーフィルタでも羞明が軽減するという。

 眼疾患がもとで視細胞の変性が生じると神経節細胞への入力が減る。この結果、もしかすると神経節細胞に脱神経過敏’※1)が起きているのかもしれない。S錐体や杆体が変性するとBistratified神経節細胞(※2)にそのような変化が生じるかもしれない。仮にそうなら、このメカニズムで生じる羞明には青い色をカットするフィルタが有効かもしれない。症例1では、網膜色素変性症の発生過程から充分その可能性が考えられる。症例2においても、レーザー治療後に羞明が生じているので同様だ。しかし、症例3では、むしろM, L-錐体の最大吸光度に当たる530-570nm付近の光(FRとブルーフィルタの共通部分)を充分に遮光するフィルタが有効で、前二者とは異なるメカニズムの存在が示唆された。症例3は、主症状に不眠や頭痛があり、ipRGC(※3)の障害(または過敏)ではないかと考え、精査中だが、その決定的証拠はまだ得られていない。

 羞明の発生にはおそらく複数の原因といくつかの発生メカニズムが関与していると考えられるが、その実態は全くつかめていない。今回のような強度の羞明をきたした症例の詳細をさらに検討することでその原因、発生メカニズムを突き止めることができるかもしれない。
 発表の最後に平成22年4月から変更になった視覚障害者用補装具としての遮光眼鏡の支給対象者要件について紹介した。

※1 脱神経過敏 ~ 入力がなくなった神経細胞は、時間とともに僅かな入力にも反応するようになるという神経細胞の一般的な特性のこと
※2 Bistratified神経節細胞 ~ S-錐体系の信号を運ぶ神経節細胞のこと。S-錐体と杆体から促進性のM, L-錐体から抑制性の信号を受ける。色の信号を処理する神経細胞としてはその守備範囲(受容野)は大きい。
※3 ipRGC ~ 概日リズムや明所視での縮瞳の持続に関連し、いわゆる「見る」ため以外の視覚情報を伝えていると考えられている、最近発見され注目されている神経節細胞である。S-錐体から抑制性の、M,L-錐体から促進性の信号を受け、自ら485nm付近をピークとする波長帯を感受するメラノプシンと言う視物質を有している。

 略歴
  1983年3月 学習院大学文学部心理学科卒業
  1989年3月 東京慈恵会医科大学医学部卒業
  1995年7月 神奈川リハビリテーション病院眼科
  2004年1月 Stanford大学留学
  2007年1月 東京慈恵会医科大学眼科学講座准教授
  2008年2月 国立身体障害者リハビリテーションセン ター病院 第三機能回復訓練部部長
  2010年4月 国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部部長

 

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【後記】
 全国21都府県から140名を超える方が参加し、会場は熱気に溢れました。
 地域別にみると、新潟県内から92名(うち新潟市80名)、新潟県外から50名(東京都14名、三重県4名、埼玉県4名、兵庫県3名、福島県3名、山形県3名、高知県2名、長野県2名、栃木県2名、長崎県、大阪府、京都府、岐阜県、愛知県、静岡県、石川県、富山県、千葉県、宮城県、青森県)。
 職種別では、医療関係者(医師・視能訓練士・看護師など):52名、当事者・家族・ボランティア:45名、その他(教育・福祉・医療関係・市民・学生):45名。

 今年のテーマは、「『見えない』を『見える』に」でした。眼の疾病を治療して視機能を改善するのは、眼科の仕事です。しかし、眼科でもはや治療できないと言われた多くの人が、社会で活躍しています。眼科だけではなく多くの分野の方々との関わりにより、視覚に障がいを持つ人が、自立し社会で活動することを可能としているのです。

 「『見えない』を『見える』に」は、字義通りの視機能の面からの意味と、もう一つの意味が含まれていたように思います。それは、フロアから発言された方の「見えなくなったけれど、先の見
通しが立った」という言葉に象徴されていると思います。私達の仕事は、その双方をサポートすることなのだと改めて感じました。

 「『見えない』を『見える』に」するために全国的に活躍している医療関係者と当事者、教育・福祉の方々に集まって頂き、可能性と現在での問題点について語って頂きました。「自分に何が出来るのだろうか」が、問われた研究会だったと思います。
 今回も多くの収穫と、出会いがありました。 

 

『新潟ロービジョン研究会2010』 1)特別講演
  テーマ:「『見えない』を『見える』に」
   日時:平成22年7月17日(土) 14時~18時20分
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室 
1)「前進する網膜変性の治療」
   山本 修一 (千葉大学大学院医学研究院眼科学教授/
          日本網膜色素変性症協会副会長)
2)「ロービジョンで見えるようになる」
       小田 浩一 (東京女子大学人間科学科教授)
3)「障がい者が支援機器を活用できる社会に」
    林 豊彦  (新潟大学工学部福祉人間工学科・教授)


【特別講演】 1
「前進する網膜変性の治療」
   山本 修一
     千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
     日本網膜色素変性症協会副会長

 網膜色素変性を代表とする網膜変性疾患は、長らく「不治の病」とされてきたが、最近の研究の急速な進歩により、臨床応用間近になりつつある。

1.網膜色素変性治療の方向性
 1)遺伝子治療:遺伝子異常によって生じる網膜色素変性では、本質的治療と考えられるが、既知の遺伝子異常が少ない。また発症初期に治療を開始する必要がある。
 2)神経保護:網膜色素変性の本質的治療ではないが、視機能の延命が目的。
 3)人工網膜:視細胞が消滅した場合には、人工網膜か網膜移植が適応となる。
 4)網膜再生・移植:網膜の再構築が最終目的であるが、まだ道は遠い。

2.レーベル先天盲における遺伝子治療
 1)レーベル先天盲はRPE65遺伝子の欠損が原因であり、幼少期から重度の視力障害、眼振を生じる。イヌの実験モデルを対象に、アデノウイルスに正常遺伝子を結合させ網膜下に注入したところ視機能の改善がみられた。
 2)初期の第1相臨床試験は米英の施設で、年齢の高い症例を対象に、安全性確認のために行われた。硝子体手術を行い、ウイルスベクターを網膜下に注入した。黄斑円孔などの手術関連合併症はあるが、ウイルス関連の合併症はみられなかった。視力、網膜感度、薄暮下での行動改善が得られ、この結果は米国の3大ネットワークや英国BBCのニュースで大々的に報じられた。
 3)現在は第2相臨床試験が米英の施設で31例に施行中で、最長2.5年の経過観察が行われている。全例で視機能の改善がみられ、視野の拡大、ウイルス注入部分の網膜感度の改善、補助具なしで字を読む、すたすた歩く、などの効果が得られている。
 4)遺伝子治療の展望:遺伝子治療を行うには、原因遺伝子の特定が必須である。また視機能の改善を得るには、比較的発症早期に治療に取りかかる必要がある。また優性遺伝では、異常遺伝子の働きを停止させる必要があり、干渉RNAによる臨床試験が計画されている。

3.毛様体神経栄養因子による神経保護
 1)毛様体神経栄養因子(CNTF)は13種類の網膜変性モデルマウスで網膜保護効果が得られており、原因となる遺伝子異常に無関係に保護効果を示す。CNTFを作るように遺伝子操作したヒトの網膜色素上皮細胞を特殊なカプセルに入れ、このカプセルを眼内に埋植する。カプセルからはCNFTだけが放出され、細胞に対する免疫反応も起こらない。
 2)安全性を確認するための第1相臨床試験は、10名の網膜色素変性を対象に6ヶ月間行われた。合併症はみられず、視機能が改善する症例もみられた。
 3)現在は第2相試験が133例の網膜色素変性を対象に米国と欧州で進行中。視力、視野、網膜電図(ERG)などの視機能の改善はみられていないが、OCTで視細胞核厚の増加や、AO-SLOで錐体密度の減少の抑制がみられている。萎縮型加齢黄斑変性に対する臨床試験も並行して行われており、視力の維持や網膜厚の増加が観察されている。

4.ウノプロストン点眼による神経保護
 1)0.12%ウノプロストンはすでに緑内障点眼薬として長い歴史があり、ヒトで点眼によりエンドセリン1の抑制を介して、脈絡膜血流を増やす。ラット光障害モデルでは、硝子体内投与で視細胞の変性が抑制される。
 2)千葉大で30名の網膜色素変性患者を対象に予備試験施行。半年間点眼により、平均視力は若干低下したが、中心部の網膜感度は有意に上昇した。
 3)千葉大でのパイロットスタディの結果を受けて、0.15%オキュセバ点眼の無作為二重盲検試験を全国6施設で109名が参加して施行された。プラセボ、一回1滴点眼、一回2滴点眼の3群に無作為に分割。網膜感度の悪化は、プラセボ群21.2%に対し、2滴群は2.6%で有意に抑制された。この他に、視覚関連QOLの有意な改善もみられた。今後は早期の承認を目指す。

 略歴
  1983年 千葉大学医学部卒業
  1989年 富山医科薬科大学眼科講師
  1990年 米国コロンビア大学眼研究所研究員
  1994年 富山医科薬科大学眼科助教授
  1997年 東邦大学佐倉病院眼科助教授
  2001年 東邦大学佐倉病院眼科教授
  2003年 千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
  2007年 千葉大学病院副病院長、日本網膜色素変性症協会副会長


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【特別講演】 2
「ロービジョンで見えるようになる」
    小田 浩一
      東京女子大学人間科学科教授

 昨年2009年の日本眼科医会では、ロービジョンの人口は144万人、視覚障害全体で164万人、その経済損失効果は年間約9兆円にもなり、ロービジョンが社会に与えるインパクトは小さくないという報告がなされた。ロービジョンが社会に与えるインパクトが小さくないわりには、ロービジョンという問題はあまり知られていない。一般の人がロービジョンという概念を受け入れるのに時間がかかっているのにはいろいろな理由があるだろうが、キラーアプリがないこと、これという核になる売りがないからではないのだろうか。

 ロービジョンという言葉は、見えないことの代名詞であり、障害者というレッテルを貼られることを意味し、持ちたくもない白杖をもたされることを意味している。一般の人から見れば、視覚障害福祉といえば点字の情報サービスや、点字ブロックなどの誘導サービスということになるだろうが、多くのロービジョンの人からすれば点字も点字ブロックもあまり有効なサービスとは言えない。ロービジョン外来に行ったところで、虫眼鏡や安い便利グッズを紹介されて、好きなものを貸出してくれるだけで、見えるようになるわけでもないということになっていないだろうか。虫眼鏡なら文房具屋でも売っているし、100円ショップで便利グッズを探す事ができる。高度な他の眼科医療サービスと比べて、ロービジョン(ケア)は非常に素人っぽい、専門性の低いサービスとして患者の目には映るはずである。こういう状態ではロービジョン(外来)にまた行こうとは思わないし、たいしたサービスも恩恵もないのに障害者のラベルを貼られるのは御免だと思うのはごく自然なことと思われる。

 では、これまで眼科の治療でも見えるようにはならなかったのが、眼科でロービジョン(ケア)というのをしてもらうと見えるようになるらしいよということになればどうだろうか?眼科に来る患者さんは、自分の目の視力がどのくらいだとか、視野がどれくらいだとかは知らないけれど、たいてい何か大事なものが読めなくて困難を経験している。それが患者にとっての「見えない」ということの意味である。眼科医療では、視力がいくつで治療できない病気の状態だという専門的な診断で終わってしまうような場合もあるだろう。言い換えれば、これまでの眼科の治療では「見えない」ままだということになる。一方、ロービジョンの専門家は、多くの場合、拡大鏡1つきっちり処方すれば患者さんは読めるようになることを知っている。きっちりした処方とは、多種多様な虫眼鏡を紹介することとは違う。読めるようになる適切な拡大鏡はこれだとフィッティングするのである。眼鏡処方と良く似ている(ロービジョンの眼鏡処方も通常の場合とは異なり専門性が必要になる。なぜなら、患者はもともと視力が低かったり使える視野が狭かったりして、自覚的に良く見える方を応えるのが困難だからである)。

 ロービジョン(ケア)で読めない困難が解消すれば、患者からすれば「見える」ようになったということになる。これまでの医療では視力が低いままで病気が治らなくても、ロービジョン(ケア)という新しい医療では患者が「見える」ようになって帰って行く。これは、一般人の言葉では治る、見えるようになるということだろう。屈折異常は治療しないで眼鏡で見えるようにするというのと基本的に同じ発想だ。実際には視力があがるわけでもないが、患者さんには眼鏡で0.01から1.0に見えるようになったという印象を与えている。もちろん、それだけですまない人もあり、さまざまなサービスや他の補助具への橋渡しも非常に重要だが、コアになるポジティヴな概念=「ロービジョンで見えるようになる」ことが重要であるように思える。

 略歴
  1984年 東京大学大学院人文科学研究科・博士課程(実験心理学)中退
  1984年 国立特殊教育総合研究所・視覚障害教育研究部・研究員
  1987年 NYU心理学部へ在外研究員
  1992年 東京女子大学・コミュニケーション学科・専任講師
  1994年         同助教授
  2001年         同教授

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【特別講演】 3
「障がい者が支援機器を活用できる社会に」
   林 豊彦 
     新潟大学 自然科学系 教授
     工学部福祉人間工学科/
     
大学院自然科学研究科・電気情報工学専攻
     新潟市障がい者ITサポートセンター長

 視覚障がい者であってもパソコンを使用し、テキストデータであれば文字を音声化ソフトで読むことができる。携帯電話を使用すれば、インターネット接続によって文字・画像を送ることができる。電子情報通信技術は、障がい者の「不可能」を「可能」に変えてしまった。機器・システムという環境要因の変化によって、障がい者の「参加」と「活動」を大きく拡大できるようになった。あとは、使うべき人が使えるようになることと、どう利用するかである。

1.支援技術とは何か?
 疾病や事故で心身の機能が損なわれると、社会への「参加」や「活動」に制限が加わる。しかし、それを補う機器・システムを利用すれば、その制限をなくしたり、軽減したりすることができる。義肢や車いすはその典型だ。障がい者のリハビリテーションを支援する技術分野を「リハビリテーション工学」という。高齢者は必ずしも障がい者ではないため、心身機能が単に低下した人の支援は含まない。そこでより広い意味をもつ「支援技術」(assistive technology)という用語が使われるようになった。機器からサービスまで含む広汎な概念である。支援機器の使用で大切な点は、「残存する身体機能をうまく利用して、機器・システム・環境にアクセスできるようにすること」であり、人との接点である「ヒューマンインタフェース」の選択と適合がポイントとなる。

2.支援機器に関するアンケート調査
 2008年10月に、障がい者支援を目的として「新潟市障がい者ITサポートセンター」を開設した。新潟市内の障がい者を対象として、現状とニーズの調査を実施し、約800票の有効回答を得た。驚いた。障がい者は、自立・生活・就労に有効な支援機器をほとんど知らない。視覚障がい者では、拡大読書機を80%が、スクリーンリーダーを92%が知らない。支援機器を知らないのだから、それを利用したいという社会的ニーズは存在しない。知られていなければサポート体制をいくら充実しても、利用してくれる人は限られる。一時期、障がい者ITサポートセンターは、国の支援によって全国各地に誕生したが、しだいに閉鎖された。理由がわかった。ニーズがない訳ではない、知られていないだけなのだ。「ニーズの顕在化、および顕在化後の広汎なサポート体制の確立」、これが障がい者ITサポートセンターの課題だ。

3.新潟市障がい者ITサポートセンター
 当センターは、新潟大学自然科学系附置・人間支援科学教育研究センターが新潟市から受託した。職員は、兼任のセンター長である私、専任の支援員、非常勤事務員の3人のみ。関連機関との連携が必要であるため、協力関係にあった新潟県障がい者リハビリテーションセンター、新潟県難病相談支援センター、新潟市視覚障がい者福祉協会の代表に、運営委員として参加頂いた。外部から活動を評価いただくために、新潟県立高等養護学校、日本ALS協会新潟県支部、新潟市ろうあ協会、自立生活センター新潟などの代表に、評価委員を委嘱した。
 事業は「支援環境整備事業」と「支援事業」だ。支援環境整備事業では、「支援機器が知られていない、使われていない」という事実から、障がい者が必ず通過する「病院」と「学校」にターゲットを絞り、積極的に介入した。教師、リハスタッフ(OT、PT、ST、医療SWなど)、保護者、地域のボランティアを対象として、月1回以上のペースで説明会・研修会・体験会を続けた。いわば合法的な「押し売り」だ。その甲斐あって、2007年4月には13件しかなかった相談件数は増加し、現在では、50件前後で推移している。さらに、16の組織・機関との協力体制も確立できた。
 関連機関との協力体制は、IT サポートセンターの課題のひとつ「ニーズ顕在化後における広汎なサポート体制の確立」に多くの示唆を与えてくれた。センター職員3人では、広汎なサポートなど不可能だ。解決策は、センター機能の分散化および支援の階層化だ。病院のリハスタッフや教員の一部に支援技術に関する基本的な知識・技能を身につけてもらえれば、簡単なケースは学校や病院の現場で解決することができる。難しいケースだけ、サポートセンターと恊働で対応すればよい。

 もうひとつは、専門家集団によるチームアプローチの有効性だ。病院では、リハスタッフ、医療SWとの連携が不可欠だ。単に医療リハビリの質向上だけでなく、退院後におけるQOL向上にもつながる。支援技術には、医療と社会福祉とのインタフェースとして機能があることがわかった。特別支援教育でも、教師、保護者、リハスタッフとの恊働が不可欠だった。多くのケースで、当センターはコーディネーター役も果たした。ITサポートセンターといえば、PCを中心とする情報通信機器や支援機器の選択・適合、それにPC教室を思い浮かべるかもしれない。しかし実際に始めてみると、学校でも病院でも、他の専門職と恊働しながら「利用者にとって最良の支援とは何か」という本質的な課題に取り組むことになる。
 これこそが、障がい者ITサポートセンターの本当の仕事であると信じる。

 略歴
  1979年 新潟大学大学院工学研究科修士課程修了,新潟大学歯学部・助手
  1986年 歯学博士(新大歯博第50号)(新潟大学)
  1987年 新潟大学歯学部附属病院・講師
  1989年 工学博士(工第1613号)(東京工業大学)
  1991年 新潟大学工学部情報工学科・助教授
  1996年 米国Johns Hopkins大学客員研究員
  1998年 新潟大学工学部福祉人間工学科・教授
  2008年 新潟市障がい者ITサポートセンター長(兼任)

 

2010年2月17日

難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、(チョッと大袈裟ですが)講演会「学問のすすめ」を開催致しました。

第1回目の講演会の講師は、緑内障研究で名誉ある須田賞を受賞した(ミューラー細胞での内因性BDNF発現誘導を介した網膜神経節細胞保護)関正明先生。そして人工網膜のMark Humayun教授で有名な南カルフォルニア大学 Doheny Eye Instituteへの2年間の留学から帰国した松岡尚気先生です。長文ですが、少しでも参考になれば幸いです。

 

報告:「学問のすすめ」第1回講演会 済生会新潟第二病院眼科  
    日時:2010年2月6日(土)14時30分~17時30分
    場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 網膜・視神経疾患における神経保護治療のあり方は? 
     -神経栄養因子とグルタミン酸毒性に注目して-
   関 正明 (当時;新潟大学 現在;せき眼科医院) 

 留学のススメ -留学を決めたワケと向こうでしてきたこと-
  (人工網膜、上脈絡膜腔刺激電極による網膜再構築、
   次世代の硝子体手術器機開発、マイクロバブルを使用した超音波治療などについて)
   松岡 尚気 (新潟大学) 

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演題1:網膜・視神経疾患における神経保護治療のあり方は? 
     -神経栄養因子とグルタミン酸毒性に注目して-
    関 正明 (当時;新潟大学 現在;せき眼科医院)
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 「見る」ためには、網膜・視神経、さらには大脳視覚野の機能が必要です。糖尿病網膜症や緑内障などの疾患においては、障害を受けて死んでしまった網膜・視神経の神経細胞は再生することができません。つまり、これらの神経細胞死の進行は不可逆的な視機能障害をもたらすことになってしまうのです。神経細胞死の原因は、生存因子と細胞死誘導機構の均衡破綻にあります。その均衡破綻に介入し、神経細胞死を抑制するという戦略が、「神経保護治療」です。それには、生存因子の増加、細胞死誘導機構の阻害、という2つのアプローチがあります。本講演では、生存因子としての「神経栄養因子」、細胞死誘導物質としての「グルタミン酸」について、自らの基礎研究結果を踏まえながら概説いたしました。 

1. 神経栄養因子について
 神経栄養因子は一群の液性タンパクですが、そのうちの一つ脳由来神経栄養因子(brain-derived neurotrophic factor; 以下BDNF)は網膜神経細胞の生存因子として特に強い作用を示します。私たちの研究グループでは、糖尿病網膜症の病態へのBDNFの関与・さらには治療応用の可能性について、世界で初めて報告いたしました(Seki et al. Diabetes, 2004)。従来、糖尿病網膜症は毛細血管障害と捉えられてきました。しかし近年、糖尿病網膜症は神経変性疾患でもあるとの見方が根付いてきています。我々が1型糖尿病モデルラットの網膜を調べてみたところ、アマクリン細胞という網膜神経細胞が病早期より減少、それと同時に網膜のBDNF量が低下していました。そこで、糖尿病モデルラットの眼内にBDNFを注入したところ、アマクリン細胞の減少を防ぐことができました。つまり、BDNFにより、糖尿病網膜症に対する神経保護治療が実験的には成功したわけです。 

 しかしながら、糖尿病網膜症のような慢性疾患に対する、長期間・頻回の眼内注射には、合併症の危険性が伴います。かといって、全身投与では、高分子タンパク質であるBDNFは網膜には到達しないでしょう。そこで、我々の研究グループでは、ドラッグデリバリーに優れた低分子化合物を介して内在性BDNFを誘導する試みを行い、少しずつ成果を得ています(Seki et al. Neurochem Res, 2005)。 

2. グルタミン酸毒性について
 グルタミン酸は神経伝達物質のひとつで、生理的な神経活動を担う物質です。その作用は、神経細胞表面にあるグルタミン酸受容体を介してもたらされます。しかし、過剰にグルタミン酸受容体が活性化されると、神経細胞は死んでしまうのです。これが「グルタミン酸毒性」と言われる現象で、今から約50年前に奇しくも網膜を対象として見いだされました。網膜・視神経疾患においても、グルタミン酸毒性が関与している可能性が示唆されていますが、今のところ確定的な証拠はありません。基礎研究分野では、グルタミン酸毒性の阻害が、網膜・視神経の神経細胞死を抑制することは明らかで、疾患治療への応用が期待されています。グルタミン酸毒性を阻害するためには、グルタミン酸受容体そのものあるいは下流シグナル伝達分子・細胞死実行分子が標的分子となりえます。 

 グルタミン酸受容体そのものを阻害する代表的な薬剤がメマンチンです。メマンチンはその薬理学的特徴の恩恵を受け、安全性が高いと考えられています。すなわち、病的なグルタミン酸受容体の活性化は阻害するものの、生理的な神経活動は阻害しにくいのです。このメマンチンですが、米国において近年実施された緑内障に対する治験で、有効性を示すことができませんでした。その理由として、研究デザイン(評価項目・期間・用量)が適切でなかったのでは、と反省されています。 

 さらに本講演では、細胞死実行分子「カスペース」を標的としたグルタミン酸毒性の阻害について、お話をさせていただきました。カスペース分子のアミノ酸配列の一部であるIQACRGペプチド(アルファベットにてアミノ酸を表記)は、偽のカスペースとして挙動することで細胞死実行機構を阻害します。私たちのグループでは、眼内投与されたIQACRGが、グルタミン酸毒性によるラット網膜神経節細胞死を防ぐことを報告しました(Seki et al. Invest Ophthalmol Vis Sci. 2010)。この神経保護効果は、さらに機能的評価(電気生理学的解析) によっても確かめられました。 

 本講演では、網膜・視神経疾患における神経保護治療についてお話をしました。しかしながら、上述の治験不成功により、また基礎研究レベルに戻ってしまったのが現状です。臨床応用のためには、ドラッグデリバリーの改善と優れた治験デザインが課題と考えています。 

【略歴】
 1997年  3月 新潟大学医学部卒業
 1997年  4月 新潟大学および関連病院眼科にて研修
 1999年  4月 新潟大学医学部大学院 (新潟大学脳研究所)
 2003年  3月 同上修了
 2003年  4月 長岡赤十字病院眼科
 2004年10月 済生会新潟第二病院眼科
 2005年  9月 米国バーナム研究所 (研究員)
 2007年  4月 同上 (日本学術振興会 海外特別研究員)
 2008年10月 新潟大学医学部眼科
 2009年  4月 新潟こばり病院眼科
 2009年10月 新潟医療センター病院眼科 (病院の名称変更)

 

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演題2:「留学のススメ -留学を決めたワケと向こうでしてきたこと-
    (人工網膜、上脈絡膜腔刺激電極による網膜再構築、
    次世代の硝子体手術器機開発、マイクロバブルを使用した超音波治療などについて)」
    松岡 尚気 (新潟大学)
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 2007年4月、ずっと臨床ばかりで研究とはほど遠いところにいた私が留学することになった。留学先は、人工網膜研究の最先端を担う南カリフォルニア大学(USC) Doheny Eye Institute。ただし何のバックグラウンドもない私には、留学当初は任せてもらえる仕事もなく、給料もなし。まずは異なる生活環境に慣れるのに精一杯だった。それでもアメリカ西海岸の温暖な気候と自由な気風、そして多くの人々との出会いに恵まれることで、日を追うごとに毎日が充実して、気がつけば本当にかけがえのない2年間の留学生活を過ごすことができた。 

 USCの人工網膜プロジェクトは、網膜色素変性症に代表される網膜外層疾患の患者の網膜上に特殊な電極を含むシステムをインプラントすることでその外層の機能を代替し、失われた視機能を取り戻す試みである。すでに人眼での臨床トライアルが進行し、2002年2月から2004年6月の間にUSC施設で6名にArgusⅠと呼ばれる4×4の16電極からなる第一世代のシステムがインプラントされ、全員に少なくとも光覚が生じ、カップなどのモノの認識やモノの動き、大きな文字などが読めるまでに改善したという成果が得られた。2007年7月からはArgusⅡと呼ばれる6×10の60電極からなる第二世代のシステムが、米国、メキシコ、ヨーロッパの多施設でインプラントされるようになり、現在もそのトライアルは継続中である。

 さらに人工網膜プロジェクトから派生したリサーチとして、網膜に適切な電気刺激を与えると神経節細胞死の抑制や視細胞の賦活化が期待できるという結果から、上脈絡膜腔に刺激電極を置いて網膜の神経回路の保護、再構築までを行おうという取り組みも始められた。現在はまだ適切な刺激量や刺激部位、固定法などをtry & errorで試行錯誤しているところではあるが、視機能が残存している段階で施行できるようになれば、今後もう一歩進んだ視機能の回復改善を望むことができるようになるだろう。

 新しい治療法分野のリサーチとして、血管閉塞に対するMicrobubbles(MB)を用いた超音波療法があげられる。理論的には血管内に入れた1~10μmサイズのMBに超音波が当たることでその性状が変化・共振し、その閉塞部を貫通もしくは開口、滞っていた血液を再還流させるというもので、現在は臨床応用可能な超音波機器やMB種別、最適設定値などの選択中でもあるが、並行してヒトへの治験も行われつつある。その過程ではこれまで明らかでなかったウサギ網膜における各部位の絶対的血流速度を超音波によって測定することにも成功し1)2)、同部位では動脈の収縮期の速度は静脈のおよそ2倍であり、動静脈とも毛細血管側より視神経乳頭近傍で速くなり、さらに耳側では鼻側よりも約13.6%速くなることがわかった。

 新世代の硝子体手術機器の評価と次世代機の開発研究もリサーチの柱の一つで、ここでは特に、手術中にどの機器でどんな設定にしたら眼内にどれくらいの力がかかるのか3)、影響があるのか、今まで感覚でしか分からなかったことを豚眼や実験モデルを用いて数値化、分析した。新世代のあるシステムではcut-rateを800から2500回転/分まで上げてもその切除量は水の場合ではそれほど変わらないのに対し、硝子体の場合では回転数にほぼ比例して増加することが判明し、吸引圧を100mmHgずつあげるとほぼ定量的に切除量も増加、カッターを25G、23G、20Gとサイズアップすると同条件では切除量がおよそ2倍になるという結果も明らかになった4)。さらにA社とB社の機器を比較してみると切除量にかなりの違いが出るのだが、そのカギは最近のtopicであるDuty Cycleにあることも明らかになってきた。次世代機ではこの概念が重要な役割を担っていくと考えられ、より安全なHigh cut-rate machineとなるのはもちろん、alldisposableであったりwireless、linelessであったりと、機能に加えて利便性も大きく向上した機器になることは間違いのないところであろう。

 振り返ると、様々なリサーチに携わることでより広い視野から物事をみることができるようになった気がする。ただ留学生活の根幹はむしろ研究よりも、各国、各分野の人達との出会い、異国の文化に触れること、そして家族の絆の大切さにあるのかもしれない。一度きりの長い人生の中のほんの数年間、できることなら長い夏休みだと思ってぜひ多くの方々に留学生活を経験していただきたい。若い先生方には特に。留学のススメである。

<文献>
 1) Ultrasonic Doppler measurements of blood flow velocity of rabbit retinal vessels using a 45-MHz needle transducer(accepted in Graefe’s Archive for Clinical and Experimental Ophthalmology)
 2) Blood velocity measurement in the posterior segment of the rabbit eye using combined spectral Doppler and power Doppler ultrasound (accepted in Graefe’s Archive for Clinical and Experimental Ophthalmology: Co-Author)
 3) Vitreoretinal traction created by conventional cutters during vitrectomy(accepted in Ophthalmology: Co-Author)
 4) Performance Analysis of Millennium Vitreous Enhancer (MVE) System (under review in ACTA Ophthalmologica) 

【略歴】
 1999年 新潟大学医学部卒業
 1999年 新潟大学眼科入局
 2000年 海谷眼科医院
 2001年 長岡赤十字病院眼科
 2002年 聖隷浜松病院眼科
 2003年 新潟県厚生連 村上総合病院眼科
 2005年 新潟こばり病院眼科
 2006年 新潟大学眼科
 2007年 University of Southern California, Doheny Eye Institute留学
 2009年新潟県厚生連 村上総合病院眼科