2011年10月28日

 演題:「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
 講師:遁所 直樹(とんどころ なおき)
     社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長)
   日時:平成23年10月12日 (水) 16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要旨】
1)初めに
 昭和62年6月25日に五十嵐浜に飛び込んで首の骨を折り、重度の障がい者となりました。社会復帰をしたいと思っても、どうやったら社会人になれるのか、病院に2年半、施設に3年半おりました。社会的な入院と施設入所待ちのための6年にしてはならないと思い悩んでいました。 

 平成5年9月にダスキン障がい者リーダー海外派遣事業13期生としてアメリカの障がい者の生活を研修することができました。そこでは資格を取得して自立生活センターという障がい者が障がい者のための介護サービスや権利擁護活動を行っていました。特に私よりも重度の障がいをもって生き生きと勉強している姿を見て、日本では否定されていたこと(それはすごい理不尽なことと思っていましたが)アメリカでそうではなく合理的な配慮を求めて主張してよいことを確認したのです。日本では入学を認めてもらえなかった男性の障がい者(日本人)がカリフォルニアの大学で勉強していることからも納得しました。 

 ちなみに当時は私のような障がいがいちばん不幸であると思っていましたが、今は不本意な理由でレッテルを貼られ差別を受けている障がいの方がいらっしゃることを強く感じます。(平成23年11月13日新潟大学南キャンパスときめいとにおいて黒岩弁護士さんと障害者差別禁止法についてディスカッションします) 

2)資格取得
 目標は定まったのですが、現実的にどのように動いて良いか解らず、新潟に帰ってきてから、しばらく自宅での生活が続きましたが、行政書士・社会福祉士の資格を取得し、介護老人保健施設に就職しました。今までお客様であるという立場から社会人として厳しい現実を経験した2年半でした。結局体をこわして辞めることになりましたが、人間関係の難しさ、社会人として責任を学びました。 

3)自立生活支援センター新潟発足
 平成7年10月に篠田さんという脳性麻痺の障がいを持った方が中心として自立生活支援センター新潟を新潟市西区で立ち上げたのです。いつかは何らかの形で関わりたいと思いながら、接点がなく、高齢者福祉の援助者として活動をしておりました。彼らは月1回の入浴介助の生活保障しかなかったときから権利を主張し制度拡大のため活動されてこられました。私自身としては新潟県医療費助成が訪問看護で利用できるように要望書を提出し実現したこと、行政書士のワープロ受験を認めてもらったことなど啓発され実行してきました。 

4)NPO法人自立生活センター新潟
 平成12年市町村障がい者相談事業を自立生活支援センター新潟が新潟市から委託され、その相談員として自立生活支援センター新潟に就職したのです。そこから、平成15年支援費制度、平成18年障害者自立支援法と障がい者の制度がめまぐるしく動き始め、措置から契約に障がい者サービスも変わる時期に、NPO法人の申請を手探りでしたことを思い出します。介助サービスを受ける立場から介助サービスを提供する事業所となり、素人集団が経営に着手しても、なかなか軌道に乗ることができません。 

 さらに三条市水害、中越震災、中越沖地震など新潟で大きな災害が起こり、全国の障害者団体から問い合わせ先、および被災地支援の窓口としてその責任を果たすべくできることを少しずつ行いました。そのさなか、前事務局長が心不全で倒れ、運営は滞ることが多くなり、同時に職員も疲弊してこの時期は組織の立て直しに力を入れ途方に暮れたこともありました。 

5)そして社会福祉法人へ
 試行錯誤しながら10年たった平成22年、土地と建物をNPO法人所有にしたことを機会に、社会福祉法人の申請を行ったのです。NPO法人は創始者が抜けたらその理念を継続することは難しいといわれております。社会福祉法人にすることで、高齢者になっても、障がいをもっても最後まで地域で暮らすこと、さらには一般市民の視線に立った当たり前の暮らしができるように支援するという方針を継続していきたいと願い、社会福祉法人設立に至りました。 

 法人は障がい者が主体となって活動することを特徴としています。自立生活プログラムとピアカウンセリングを継続的に行うため、この10月1日地域活動支援センターぴあポートを開設しました。トイレットペーパーの販売、自立生活プログラムとして毎日の食事作りから始めています。 

 この10月から同行援護、グループホーム、ケアホームの住宅補助が開始されております、さらに来年からは障害者相談支援事業として指定特定相談事業(ケアプラン作成)および指定一般相談事業が開始されます。この大きな社会保障の制度の変遷に対応することができる懐の大きな法人として成長できるように努めていきたいと思います。
 

【追記】
 遁所さんが勉強会でお話するのは、今回が3回目です。そして登場する度に、進化した姿を披露してくれます。 

 第91回 2003年12月10日
 「期待せずあきらめず」遁所 直樹 
  新潟市障害者生活支援センター分室 
 頚椎損傷による四肢麻痺という障がいから、精神的にも立ち直り資格を得て、相談員として自立生活支援センター新潟に就職したころでした。「期待せず、諦めず」、記憶に残る言葉でした。家族をはじめ、多くの支援する人に巡り合うことができました。      
 
http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/chapter6-4.html 

 第121回 2006年4月12日
 「なぜ生まれる無年金障害者」遁所 直樹 
   NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
   兼 新潟学生無年金障害者の会 代表 
 当時の所属はNPO法人となっていました。全国の無年金障害者と手を取り合い、新潟での学生無年金障害の訴訟を起こしている最中でした。この訴訟を通してさまざまな弁護士さんと知り合いになれたといいます。「負けて勝つ」 国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負けるが、その後に制度は変わることがあるという話、新鮮でした。
 http://www.tcct.zaq.ne.jp/munenkin/niigata-kousaikiji.html 

 そして今回、第188回 2011年10月12日 
 「NPO法人から社会福祉法人へ ~ 自立生活福祉会、今からここから」
   遁所 直樹 
   社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長
 障がい者が主体となって活動することを旨とし、障がいを持っても最後まで地域で暮らし、当たり前の暮らしができるように支援する社会福祉法人を設立したということです。

 社会福祉法人自立生活福祉会ホームページ
 http://blog.canpan.info/jiritsu/

 学生時代の頚椎損傷による四肢麻痺という重い障がいは、遁所さんに大変な苦痛と努力を強いたのみでなく、社会的弱者のために頑張るという大きな目標を与えてくれたのだと思います、いや信じます。そんな彼をリスペクトし応援したいと思います。遁所さん、ますますの活躍を祈念しています。

2011年10月20日

「学問のすすめ」第5回講演会 済生会新潟第二病院眼科
 1)私と緑内障
    岩瀬 愛子 (たじみ岩瀬眼科)
 2)神経再生の最前線ー神経成長円錐の機能解明に向けてー
    栂野 哲哉 (新潟大学)

  日時:2011年10月29日(土)16時30分~19時30分
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

 リサーチマインドを持つ臨床医が育たなければ、医療の創造はありません。
 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、「学問のすすめ」講演会(主催:済生会新潟第二病院眼科)を、平成22年2月から開催しています。
 第5回講演会は、世界に誇る「多治見スタディ」を成し遂げた中心人物の一人である岩瀬愛子先生(たじみ岩瀬眼科)と、今井記念緑内障研究助成基金の平成22年度助成受賞の栂野哲哉先生(新潟大学眼科)に講師をお願いしました。
 

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私と緑内障
     岩瀬 愛子 (たじみ岩瀬眼科)
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【講演要旨】
 半生を語るという命題をもらい、どのようにして今までやってきたかを語るように依頼された。若い方の参考になるのか、まったくもって不明だけれども、自分を反省するよい機会としたい。

 昭和55年に岐阜大を卒業して眼科に入局した時、自分のテーマは「緑内障」と決めていた。当時の岐阜大は、早野三郎教授の下、黎明期の眼内レンズ関連の研究が主流であったのに「私は緑内障をやりたいのです」と研修医の分際で生意気にも早野教授に直訴したことがある。もちろん、眼内レンズ研究の動物実験のお手伝いもしていたが、願いかなって研修医としての私の最初の学会発表は、「閉塞隅角緑内障眼の生体計測」であり、早野教室としての最後の学会発表は、妊娠9カ月半で発表した「Mucopolysaccharidosisによる緑内障の病理」であった。後者は指導医舩橋正員先生のご指導で論文となった。

 直後に産休・育休に入り、勤務に復帰した時には、早野先生は学長になっておられ、後任の教授はなんと「緑内障」の北澤克明先生であった。テーマとして頂いたのは「ハンフリー視野計の日本第1号機」での仕事で、これは、同期の富田剛司先生(現東邦大眼科教授)が、最初に取り組み、器械の日本語化とデータベースの検証をしていたが、途中で留学されたことでその後の岐阜大のハンフリー視野計の仕事はすべて私にまわって来ることになったものであった。例えば、世界の収集サイトの一つとして「STATPAC用の正常眼データの収集~日本人正常眼データの同ソフトへの参加」、「SITAプログラム用の正常眼および緑内障眼データ収集」や「各種視野解析ソフトの開発・評価」などがあり、これらの関連研究で国際視野学会(IPS)にも参加させていただけるようになった。元々「緑内障」をテーマにしたい私であったので、IPSで多くの国内外の視野研究者及び緑内障研究者と接することができるようになったことは大変勉強になった。

 1990年、多治見市民病院眼科に赴任した。しかし、「自治体病院」での「研究」は周囲の理解がなかなか得られにくい状況であった。「自治体病院は大学のような研究機関ではない」、「学会出席のための休診は極力少なくして市民のために働けばよい」、「全科当直も当然であり、眼科24時間救急対応はDuty、研究をしている時間はあるのですか?」「男性医師でも言わないことを女医のくせに」などといわれ、そのたびに、さらに色々意見を言うと「眼科だけに特例は認められない。前例がないことを言わないでください」と返ってきた。これは当時よく病院職員から言われた台詞である。しかし、こだわりの「緑内障」を自分のライフワークとするべく、あきらめたくなかった私は、環境を整えるため市や市長、病院の職員に働きかけ、一方で臨床の成績をあげることで研究を続ける権利を確保しようと日々戦っていた。

 赴任から10年たった2000-2001年日本緑内障学会の疫学調査を多治見市で行うこととなり(多治見スタディ)、調査だけではなく同時に、多数の一般市民への眼科検診も実施することになり結果的に18000人の市民を検査した。この一大事業は、それまでの私の経歴と環境とをフルに生かして緑内障研究に貢献できる大きなチャンスとなった。そして、同時に、それまで、自己中心的に、臨床と研究とを確保しようと戦っていたつもりの私に、実は、赴任後10年の間に起こった、すべての人とのすべての事柄が、自分のためになっており、ひいてはこの事業を成功させ、そしてその後の研究につながっていることをわからせてくれた。「前例のないことを強引に言い出す女医」に根負けして親身になって一緒に考えてくれていた元病院職員は、人事異動で市役所のいろんな部署に配属されており、多治見市全体を巻き込む疫学調査という一大事業に、やはり親身になって各部署から協力をしてくれた。卒後ローテーションのない時代に直接眼科に入局した私は救急対応の知識は極めて少なかったが、「Dutyの全科当直」の時に電話で呼び出して来てもらった他科の医師から初めて学び、それが多治見スタディの巡回検診会場での救急対応に役にたった。「多治見スタディ」の実施期間には、岐阜大眼科の医師や、日本緑内障学会の多くの医師と団体戦で戦った。
   *「多治見スタディ」
  http://www.ryokunaisho.jp/general/ekigaku/tajimi.html

 その後、「久米島スタディ」にもつなぎ、今もなお、論文化で団体戦は続いている。これら、多くの人の、すべての知識、すべての知恵を総動員するような研究に参加できたことは、本当に幸せなことであった。北澤先生の指示で始まったことではあるが、神様がくれた仕事であったように思っている。「緑内障」をテーマに、「あきらめない」で仕事をしていてよかったと思う。 

 ところで、私の卒業した小学校に、亡き父がそこの校長をしていた頃に作った石碑がある。「立志」と刻まれている。父の座右の銘は「なさざる罪」であった。戦艦大和の沈没時に生き残った父にとっては別の意味もあったかもしれないとも思うが、私には「志を持ってそれを貫け、実現するように常に努力せよ、余裕があるようではいけない。余裕があるならもっとできる。責任のあるものは、最後まで努力をしなければならない。出来ることをしない場合には、それを、なさざる罪という。」という意味だと言っていた。そう教えられて育ってしまったので、本当は、「余裕」は大切なのではないかと今は思うけれども、いつも「余裕があるならもっとできる」と思ってしまう。 そして「志を持ってそれを貫く」「あきらめない」私の周りの人には、多大な迷惑をかけているような自覚も、最近やっと出てきたが、いまさら変われないかもしれない。

 「緑内障」になぜそんなにこだわるのか?私の母方の祖父は、昭和20年3月の東京大空襲の焼夷弾の下で緑内障の発作を起こしたと私に教えてくれた。「緑内障」は大好きな祖父の敵(かたき)なのである。

 私は今、公設民営化を機に、多治見市民病院を退職した。一開業医として、患者さんの日常に一番近いところにいる診療の中で、「緑内障」についての何か、大学などの研究機関では見つからない何かを、いつか発見できるのではないかと、わくわくしながら、小さなアンテナを張って診療している日々である。まだまだ、あきらめないつもりである。

【略歴】
 1980年 岐阜大学医学部医学科卒業
 1981年 岐阜大学医学部眼科助手
 1989年 岐阜大学学位取得(医学博士)・眼科専門医
 1990年 多治見市民病院眼科医長・岐阜大学非常勤講師
 1995年 多治見市民病院眼科診療部長
 1996年 International Perimetric Society(IPS:国際視野学会) Board Member
 2002年 日本緑内障学会評議員・IPS:Vice President (2002-2006)
 2005年 多治見市民病院副院長・日本眼科学会評議員
 2008年 金沢大学非常勤講師(眼科)
 2009年 たじみ岩瀬眼科院長・東海大学客員教授(眼科) 現在に至る

【賞罰】
 2003年 日本緑内障学会特別賞 (多治見スタディへの貢献に対して)
 2004年 AIGS Award (on behalf of Japanese Glaucoma Society)
 2006年 社団法人日本眼科医会表彰 会長賞
 2007年 第2回World Glaucoma Congress Poster入賞 

【主な論文】
1)The prevalence of primary open-angle glaucoma in Japanese: the Tajimi Study.
 Iwase A, Suzuki Y, Araie M, Yamamoto T, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group, Japan Glaucoma Society.
 Ophthalmology. 2004 Sep;111(9):1641-8.
2)The Tajimi Study report 2: prevalence of primary angle closure and secondary glaucoma in a Japanese population.
 Yamamoto T, Iwase A, Araie M, Suzuki Y, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group, Japan Glaucoma Society.
 Ophthalmology. 2005 Oct;112(10):1661-9.
3)Prevalence and causes of low vision and blindness in a Japanese adult population: the Tajimi Study.
 Iwase A, Araie M, Tomidokoro A, Yamamoto T, Shimizu H, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2006 Aug;113(8):1354-62.
4)Risk factors for open-angle glaucoma in a Japanese population: the Tajimi Study.
 Suzuki Y, Iwase A, Araie M, Yamamoto T, Abe H, Shirato S, Kuwayama Y, Mishima HK,  Shimizu H,Tomita G, Inoue Y, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2006 Sep;113(9):1613-7. Epub 2006 Jul 7.
5)Performance of frequency-doubling technology perimetry in a population-based prevalence survey of glaucoma: the Tajimi study.
 Iwase A, Tomidokoro A, Araie M, Shirato S, Shimizu H, Kitazawa Y; Tajimi Study Group.
 Ophthalmology. 2007 Jan;114(1):27-32. Epub 2006 Oct 27.

 

 

 

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神経再生の最前線ー神経成長円錐の機能解明に向けてー
    栂野 哲哉 (新潟大学医歯学総合研究科視覚病態学分野)
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【講演要旨】
 大学院に在籍していた4年間、私は新潟大学の分子細胞機能学教室(注1)の五十嵐道弘教授のもとで神経再生に重要な成長円錐に関連する研究を行った。
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(注1)新潟大学医学部分子細胞機能学分野〈医学部生化学第二〉教室
  http://www.med.niigata-u.ac.jp/bc2/study/index.html
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 再生医学とは、胎児期にしか形成されない人体の組織が欠損した場合に、その機能を回復させる医学分野である。細胞レベル、組織レベル、器官レベルでの再生が必要となるケースが存在するが、後者になるほどその実現は困難となる。これまでの多大な研究成果により、いくつかの分野では臨床応用も始まっている。しかし、網膜や視神経を含む神経組織においては細胞体の脆弱性や分裂能の欠如、成人組織内では神経幹細胞がほとんど見られないなど幾多の困難がある。ES細胞やiPS細胞などの幹細胞技術の進展がこれらを打開しようとしている一方、神経細胞が機能を発揮するために最も重要な点である神経回路の再生という課題が残されている。

 緑内障を含む軸策索損傷による神経細胞が再生を果たし機能を再獲得するためのステップは次のとおりである。①細胞死シグナルの抑制、②軸索伸長のための細胞内の状態の切り替え、③グリア瘢痕の抑制、④標的ニューロンへの軸索誘導、⑤シナプスの形成。いずれのステップも重要であり日々研究努力が注がれているが、私の所属した研究室では主に④標的ニューロンへの軸索誘導、についてのメカニズムを分子細胞生物学的なアプローチでの解明することに力を注いでいる。 

 軸索誘導とは神経細胞が一本の軸索を伸長させ、標的のニューロンや組織に正しく導くための機構のことである。伸長している軸索の形態学的な特徴として先端に存在する成長円錐(注2)があり、この器官が外部の様々なシグナルを細胞内の骨格変化へと転換し、伸長方向を定めている。
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(注2)成長円錐
 成長円錐は、神経が伸びていく先端に存在する、運動性に富んだ構造体で、神経と神経(時には神経と筋肉)のつながりを作る(学術用語では「神経回路形成」「シナプス形成」)のに必須の役割を果たします。すなわち、標的となる神経(あるいは筋肉)の所まで、間違わずに成長円錐が伸びていって、正しい場所に到達したらそこで停止して、「シナプス」という神経同士の連絡する構造体を作る、ということです。この原理は、脳の形成や働きに絶対不可欠なものです。
 (分子細胞機能学教室(注1)のHPから)
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 この成長円錐による、軸索誘導の分子学的メカニズムが明らかとされた研究の一つに、ニワトリの網膜を使った実験がある。鳥類の網膜は視蓋と呼ばれる領域に正確な地理的投射を行っているが、これを実現するためにephrin-Eph 系と呼ばれる細胞表面にある認識機構が存在する。Ephはephrinと接触すると細胞内の骨格に変化を与え、伸長方向を反転させる(反発シグナル)。網膜神経節細胞においては鼻側に比べ、耳側でEphファミリーの一つEph A3がより多く発現しているが、視蓋においてはephrin A2が後方→前方の傾斜を持って発現している。その結果鼻側の神経軸索は視蓋後方に、耳側の神経軸索は前方に、といった地理的投射が可能となる。神経系の発生では、このようなシステムが決まった時期、場所に発現することにより正確な回路が形成される。 

 成長円錐には多彩な機能が存在するにもかかわらず、それを説明するに十分な分子学的基盤はほとんど知られていなかった。そこで我々の研究室ではまず、成長円錐に存在する蛋白質を網羅的に同定すること(プロテオーム解析:注3)を試みた。
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(注3)プロテオーム解析 プロテオミクス(proteomics)
 プロテオミクス(proteomics)は、ある系に存在するタンパク質を網羅的に(数百種類から2,000種類以上まで)同定する手法で、どのタンパク質がどの程度の量、存在するか、といった情報までわかります。新潟大学医学部分子細胞機能教室は成長円錐についてプロテオミクスを適用し、一挙に1,000種類近くの分子情報を把握しました。これは成長円錐に関して、世界で初めての研究で、さらにこれを推し進め、少なくともその内の一割以上が、成長円錐に強く濃縮されて局在し、また18種類のタンパク質がその中で、成長円錐の機能を支える分子であることを証明しました(PNAS 106: 17211-6[‘09])。
 (分子細胞機能学教室(注1)のHPから)
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 新生ラットの全脳を試料にステップワイズの遠心分画法を用いて成長円錐分画を取得、さらにこれを界面活性剤処理することにより細胞膜分画を得た。一般的なプロテオーム解析では2次元電気泳動により多くのタンパク質をゲル上に展開するが、不溶性蛋白質や、微量のタンパク質の同定に弱いという問題があった。そこでプロテオーム解析の先導的研究室である都立大学(現:首都大学東京)の磯部俊明先生らとの共同研究により2次元クロマトグラフィーを応用したプロテオーム解析をおこなった。これにより短時間の解析にもかかわらず945個の蛋白質を同定することができた。さらにその存在を確認するために、マウスの大脳皮質培養細胞を用いてこれらの蛋白質のうち、抗体が使用可能であった131種類のものについて免疫染色を行った。その結果全ての蛋白質で成長円錐への存在が確認され、本プロテオーム解析法の有用性が実証されたといえる。

 次にこれらの蛋白質の中から、成長円錐の機能に深くかかわっているものを同定することを試みた。まず、免疫染色における染色の度合いを数値化し、軸索と成長円錐での染色比を算出した。以前より成長円錐への局在があることが知られているGAP43の染色比を基準に、これと同等あるいはそれ以上の染色比がみられた68種類の蛋白質を選出し、機能の確認実験を行った。

 機能の詳細が未解明な蛋白質について検討する際、目的蛋白質を選択的に発現させないように遺伝子改変させたノックアウト動物が用いられてきた。しかし、細胞レベルでの実験が目的である場合にはコスト、労力、時間いずれも過大である点が問題であった。そこで近年そのメカニズムが明らかにされ、研究にも応用されているRNA干渉(RNAi)による遺伝子ノックダウン法を用い、培養マウス大脳皮質細胞におけるこれら候補蛋白質の神経軸索伸長への関与について検討した。その結果17種類のタンパク質においてRNAiの導入により、軸索伸長が有意に抑制されることが確認され、これらが成長円錐の機能に大きくかかわっていることが示唆された。今後はこれら候補蛋白の分子間相互作用や局在変化などの成長円錐内での詳細な機能についての発展が期待される。

 4年間の研究生活で私の得たものは数多くあるが、2つあげるとするならば医学論文のより実践的な読み方を習得できたこと、論理的思考に基づいた研究計画の立て方を学べたことである。是非これらを今後も研究生活に役立てたいと感じている所存である。

【略歴】
 1999年 新潟大学医学部卒業
  同年 新潟大学医学部眼科入局
 2000年 長野厚生連小諸厚生総合病院
 2005年 新潟大学大学院卒業
 2006年 新潟県立新発田病院医長
 2008年 新潟大学医歯学総合病院勤務
    現在に至る
【賞罰】
 今井記念緑内障研究助成基金 平成22年度助成受賞 

【おもな論文】
1)Role of Ser50 phosphorylation in SCG10 regulation of microtubule depolymerization.
 Togano T, Kurachi M, Watanabe M, Grenningloh G, Igarashi M:
 J Neurosci Res. 2005 May 80(4): 475-480.
 http://www.med.niigata-u.ac.jp/bc2/member_list/togano.pdf
2)Identification of functional marker proteins in the mammalian growth cone.
 Nozumi M, Togano T, Takahashi-Niki K, Lu J, Honda A, Taoka M, Shinkawa T, Koga H,Takeuchi K, Isobe T, Igarashi M:
 Proc Natl Acad Sci U S A. 2009 Oct 106(40): 17211-17216
3)Progression rate of total, and upper and lower visual field defects in open-angle glaucoma patients.
 Takeo Fukuchi, Takaiko Yoshino, Hideko Sawada, Masaaki Seki, Tetsuya Togano,Takayuki Tanaka, Jun Ueda, Haruki Abe,
 Clinical Ophthalmology, Vol.4, 1315 – 1323(2010)

 

2011年9月14日

 演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」
 講師:関 恒子 (長野県松本市)
  日時:平成23年9月14日 (水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
1) 始めに
 私は両眼に黄斑変性症を持っている。1996年先ず左眼に、その10ヵ月後右眼にも異常を自覚し、近視性血管新生黄斑症と診断された。1997年左眼に強膜短縮黄斑移動術、1999年右眼に全周切開の黄斑移動術を受けている。術後はかなりの視力の改善が見られたが、合併症と再発のために入院手術を繰り返し、現在は網膜萎縮の為に視力が徐々に低下している。治療はないが、今も通院検査を続け、時折ロービジョン(以下LV)ケアを受けている。
 医学的治療からLVケアへの過程、LVケアが私に果たしてきた役割、その中で気付いた点等を自身の経験を紹介しながら述べてみたい。 

2) 医学的治療からLVケアへ
 治療の結果はどうあれ、医学的治療を受けられることだけでも患者には救いとなる。患者は医学に見放されることが何より辛く、私の経験でも視力低下が進行する中、経過観察だけで過ごした1年間が最も辛い時期であった。患者はLVケアやリハビリよりも、先ず医学的治療による回復を強く願うので、LVケアやリハビリに至るまでにはある程度の期間が必要である。
 私が始めてケアを受けたのは、治療が一段落して落ち着いた日常生活を取り戻した頃で、発症してから約4年後だった。手術後視力は改善したものの歪み、暗視野、コントラスト感度の低下、両眼視ができないこと等から不便さを感じ、よく失敗もしていたので、ケアの必要性を自らが感じるようになっていた。 

3) LVケアが私に果たしてきた役割を整理してみる
 1.現在様々な視覚補助具があるが、それらについての情報を与えられたことによって、視力低下が進行しても大丈夫という安心と自信が生まれた。 

 2.視力低下の進行に応じた適切な補助具の選定を助けてもらうことによって、日常生活を維持させることができ、これが他人に甘え過ぎるのを防いでくれた。 

 3.視力が低下すると聞いた時、いろいろな事ができなくなると思い、自分の将来に希望をなくしたものである。できなくなった事は確かにあるが、今まだ殆どの事ができている。活動の幅を狭めないようにし、充実した人生を可能にしてくれたのがLVケアである。 

 4.医学的治療だけを受け、病気と必死で戦っていた頃は、LVケアを受ける程悪くなりたくない、それを受ける時は回復を諦め、将来をも諦める時だと思っていた。だが今は自分の人生を諦めない為にLVケアがある。 

4) どれだけの人がLVケアを知り、活用しているか
 LVという語自体、一般の人だけでなく、眼科の患者にさえ認知度が低い。私の調べた限り英語圏の外国人(医学関係者でない)も誰もこの語を理解しなかった。又地元の病院を訪れた際、電子ルーペを使っていた私の周りに眼科の患者とその家族が集まってきたが、誰も電子ルーペを知らず、その病院にはLV外来が標榜されているにも拘らず、それが何の為の場所か誰も知らなかった。
 LVケアの必要性とその重要性がもっと理解され、多くの人が活用できる場所であって欲しい。     

5) 私が受けてきたLVケアの中で気付いた疑問や問題点
 1.拡大鏡選びの原則に対す疑問
 拡大鏡選びはできるだけ広い視野を確保する為に文字が読み取れるうちの最低の倍率のものがよいとされる。この原則に従って購入した拡大鏡は、私の場合実生活の中では殆ど役に立たなかった。家の中の様々な条件下での使用を考えると余裕のある倍率の方が有用である。長文を読むにも疲れが少ない。私見では原則よりも個々の状態や主に何に使うのかで選ぶほうがよい。 

 2.拡大読書器
 私の知人は給付金で拡大読書器を購入したが、全く使用していないと言っている。使用中気分が悪くなる、又使用してもよく読めないからだそうである。使用法を習熟することによって有用にすることができるのではないだろうか。
 私程度の低視力者(障害未認定)にはかなり有用と思うが、20万円前後で高額である。拡大読書器よりはるかに安価な電子書籍リーダーやiPod等にもっと視覚障害者を意識した機能(拡大倍率をもっと大きくする等)を付加することはできないだろうか。 

 3.製品の個体差
 補助具を購入する際、他の機種との比較はできるが、同機種同士の比較はできない。その為個体差に気付かず、粗悪品を購入してしまう事がある。私自身正規品より劣る機能のものを購入し、知らずに使っていた経験を持つ。又正常使用での故障の多さも気になる。 

6) 終わりに
 視力の低下を告知された時、失明した場合のことやこれから先できなくなる事ばかりを考えたものだが、やがてまだできる事がたくさん残っていることに気付いた。どんな境遇においても、人は自分に残されたものに希望を託して生きるより仕方がないと思う。
 私は今自分に残された視力を最大限に活用し、人生を豊かにしようと努力しているつもりだが、この努力を支えてくれているのがLVケアである。LVケアがもっともっと普及してくれることを願っている。
 

【略 歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
 趣味は音楽。フルートとマンドリンの演奏を楽しんでいる。
 地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。

  

【追 記】
 関さんには、これまで2度お話して頂いています。 

 第135回(07‐06月)  済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
  講師:関 恒子(患者;松本市)
    日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

 第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:「賢い患者になるために
      -視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
  講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者) 

 これまでの講演もそうですが、今回もまた患者の気持ちが良く判るようにお話して下さいました。以下の言葉が印象に残っています。
 「悪くなるのに、何もしないことが辛い」、「医者に見放されるのが怖い」、「ロービジョンケアもいいが、やはり治ることを期待している」、「ロービジョンケアを受け入れるには、ある程度の期間が必要」、「視力は改善しても、日常生活は不便」、「ロービジョン者(低視力者)は、周囲の人に理解されにくい」 

 勉強会に参加された方から、以下の感想も届いています。
1)関さんのお話は、前向きな気持ちばかりでは無かった事に共感しました。何の病気でもそうですが、医師に「治療法が無い」と言われた時の絶望感たるや、想像するだけでも恐ろしいです。勉強会で話した(自分の)「見え方」を伝えるのは、家族やごく一部の親しい知人だけで、誰にでも言える訳ではありません。家族にも心配をかけまいとして、なかなか言えない方もいる様です。一緒にいる時間が多い人にこそ伝えるべきだと感じます。 

2)病気となってからの絶望、容認、順応という過程の中で、順応という部分でのプラス思考に感銘を覚えました。できないことよりもできることを積極的に探され、フルートやドイツ文学に興味をもたれ、活動していることは大変素晴らしいと感じました。また、視野や視力が悪くなってくることを想定して今できること、これからできなくなりそうなことを考えて行動されていることも大変素晴らしいと思いました。
 多数の補助器を購入され、お試しになられているということをお聞きしましたが、同機種での個体差(バラツキ)が多々あるということに驚きました。手作りが多いためでしょうか?ユーザーに取っては厄介なものであると思いました。 

3)障碍者として認められないで過ごす日々は色々な面で大変だと思います。だからこそ、ご自身が探し出されて切り開かれた人生に素直な敬服感を抱きました。何もしてもらえなかった一年間、治療での苦闘の三年間とご自身がつけられた決断。少しづつ低下する視力の八年間。期間こそ違え私にもあった日々です。 

 関さんがご自身の経験を理詰めでお話して下さるので、私たちにとっても理解することが可能となり、視覚に障がいを持つ方にも共感を得ているようです。
 関さん、今後もお話を聞くことが出来る機会を持ちたいと思います。宜しくお願い致します。

2011年7月20日

報告:第185回(11‐07月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 盲学校弁論大会
  「新潟盲学校弁論大会イン済生会」
   日時:平成23年7月20日(水)16:30~18:15 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、ネット配信致しました。50数名のアクセスがありました。 

1)落語
  演目:「転失気」 「二人旅」
  演者:たら福亭美豚 (たらふくていヴィトン;新潟盲学校小学部6年)
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 自己紹介
 僕は、新潟盲学校小学部6年の加藤健太郎です。僕には、もう一つの名前があります。落語で、高座に上がる時の高座名、たら福亭美豚です。小学部2年の時の文化祭で、始めて大勢の人の前で発表してから、デイサービスや自治会で高座をさせてもらっています。昨年には、新潟県内を中心に活躍されている、落語家さんと出会うチャンスをいただき、たまに稽古をつけてもらったり、寄席に上がらせてもらっています。僕の落語を聞いて、たくさん、笑ってください。そうすると、僕も、楽しい気分になります。
 

2)盲学校弁論大会イン済生会
 1.「震災を通して」
    丸山 美樹(まるやま みき)  専攻科理療科2年
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 3月11日東日本大震災がおきました。その日は卒業式で、私は学校から帰ろうとしていた時でした。突然の揺れに驚き、大きくて長い揺れと学校が少し音を立てながら揺れていることに怖さを感じました。 震源地は宮城県沖、宮城県震度6、東京も火がでたところがある、そう聞いて不安な気持ちが溢れました。私には宮城県や岩手県、東京にも友達がいたからです。 学校から帰ってきて見たテレビには宮城県や岩手県の地震の被害の映像が流れていました。私がそれを体験したわけでもないのに泣きそうになりながら震源地に近い場所に住む友達にメールや電話をしました。 

 ほとんどの子からは大丈夫だと遅くなっても返事はきましたが、ただ1人岩手県の子と連絡がつきませんでした。テレビにはその子がすむ宮古市の地震と津波の被害の映像が、不安を煽るように何回も流れていました。どうか無事でいて、そう願いながら連絡を待つしかできませんでした。待っている不安の中、緊急地震速報の鳴る音やテレビの映像が流れる度、怖くて不安が増していきました。 

 こうやって怖がるだけで自分は何もできないのが、とても悔しかったです。被害を受けた場所の友達からくるメールに大丈夫だよと言葉をかけてあげるだけでした。傍にいてあげたいなと思うだけで何もできない自分は、とてもちっぽけでした。 そんな自分の小ささ無力さを実感する中、連絡がつかなかった岩手の友達からメールが届きました。安心から涙がでました。涙で滲んだ液晶画面には怪我は少しあるが大丈夫、あなたの言葉でがんばることができた、「本当にありがとう」そう書いてありました。 何もできていないと思っていた私には、そのたった一言のありがとうが嬉しくて嬉しくて、さらに涙が止まらなくなりました。私のつたない言葉が誰かの心を支えることができました。 

 今回のこの災害を通して言葉の力、言葉の大切さをとても実感できました。今まで何気なく使っていたありがとうを、これからはしっかりと伝えていきたいなと思いました。 

 (弁士紹介)
 専攻科理療科で国家試験に向けて勉強を頑張っています。写真を撮ること、音楽を聴くことと歌うことが好きです。部活では、バレー部、野球部、自然部など7つの部活に所属し色々な活動に参加しています。6月には北信越盲学校バレーボール大会と北信越盲学校野球大会に参加してきます。自分ができることを精一杯頑張ってきます。
 

 2.「過去・今・将来」 
    笠井 百華(かさい ももか)中学部3年
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 「だから障害者はやなんだよ!」 何でそんなことを言われるのか、悲しくなりました。小学校の時、クラスの皆や他の学級の人たちから避けられるようになりました。変な噂が流れ「あいつに近づくと汚れる」「あまり関わらない方がいいよ」と言われ、仲の良かった友達が私の周りから離れていってしまいました。私が話しかけても無視をされたり、物を隠されたりしたこともありました。私の目が少し見えにくいというだけで、どうして無視されたり、嫌な思いをしたりしなければならないのだろう。視覚障害があっても同じ人間なのに、とても悔しかったです。 

 中学校に進学するに当たり、私は新潟盲学校中学部に入学しました。周りの人から見た盲学校の生徒は、勉強内容が簡単、人の介助が必要なイメージがあるかもしれません。私もこの学校に来る前は同じようなイメージがありました。人数も少ないし、友達が出来るかなって思っていました。 

 でも、実際は違います。盲学校には、幼稚部から高等部あります。しかも、私の父よりも年上の人も真剣に学んでいて、色々な人たちと年齢を超えてお話が出来ます。例えば、勉強のやり方や部活動の悩み事など、深刻なことから、芸能人や学校の話まで、気軽に話が出来ます。中学部の皆とも仲良くなれたし、年上の高等部の方々とも、何でも話せる仲間がたくさん出来ました。このような仲間が体育祭や文化祭などでは、一つになって行事を盛り上げます。 

 勉強もわかりやすくなりました。拡大教科書やルーペ、拡大読書器などを使えば、以前は細かくて見えづらかった字も読みやすくなりました。点字を使って勉強する人もいます。見えにくい人には、スポーツは何も出来ないと思われがちですが、フロアバレー、グランドソフトボール、陸上などたくさんのスポーツがあります。音や床面、方向などを頼りにしながら競技しています。  

 新潟盲学校でも運動部が沢山あります。私は小学校の時は球技が好きではありませんでした。しかし、フロアバレーをやって初めで球技が楽しいものだと知り、好きになりました。だから私は部活動でフロアバレーをしています。いま、中学校生活を振り返ると、新潟盲学校に入学して良かったと思います。話せる仲間もでき、勉強もわかりやすくなり、部活動で汗を流し、充実した毎日を送っています。 

 将来私は、小学校の頃の自分のように、困っている人たちを助けられる人間になりたいと思います。そのためには、私に出来ることを増やしたり、人間的に成長して人を思いやる優しい心を身に付けたりしたいと思います。もっと人間らしく大きく成長したいです。障害のある人もない人も、お年寄りや子供など年齢に限らず、みんなで助け合っていく社会にしたいです。その社会の実現を目指して頑張っていきたいです。 

 (弁士紹介)
 私は、バレー部に所属し毎日練習をがんばっています。富山で行われる北信越バレーボール大会にも参加しました。初めての遠征で、とても楽しかったです。万代太鼓部にも所属していて、夏休みには新潟まつりに参加する予定です。部活動に勉強に毎日が充実しています。学校生活の中で悩むこともあるけれど、大切な友人がいるので頑張れます。中学校生活最後の年、思いっ切り何事も取り組みたいと思います。
 

【後 記】
 ここ10年、本勉強会で毎年7月に盲学校弁論大会を行い、毎回、多くの感動を貰っています。
 たら福亭美豚(たらふくていヴィトン)師匠は、前にも登場して頂いたことがありましたが、今回は変声期を迎えていました。しかしカスレ気味の声をテクニックでカバーするほどに、立派に成長していました。多くの人に笑ってもらえることが自分の喜びという思いに溢れた語りでした。笑顔と笑いは人の心を明るくします。
 丸山美樹さんの弁論は、優しさや繊細さに溢れていました。「ありがとう」の言葉をこれからも伝えて下さい。応援します。
 笠井百華さんは、明るい中学生でした。障がいのために受けた悔しさ、盲学校で生き生きと勉学に部活動に励んでいること、、、弁論を聞きながら、頑張れ!とエールを送りました。

 弁論大会では、盲学校の生徒さんの決意を聞くことが出来ます。それに対して私たちは何もしてあげられないのですが、「証人」としてその決意をお聞きすることは出来ます。今回も弁士の皆様の決意をしっかりとお聞きしました。私たちは、その夢がかなうようことを応援します。 

 今回は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、初めてのネット配信を成功させることが出来ました。今後も配信の予定です。ただ、、、ネットでも参加できますが、都合の付く方は、会場まで足を運んで講師との話し合いに参加して下さると嬉しいです。

2011年7月19日

「学問のすすめ」第4回講演会 済生会新潟第二病院眼科
 1)臨床研究における『運・鈍・根』
    三宅養三 (愛知医大理事長 名古屋大学名誉教授)
 2)経角膜電気刺激治療について  
    畑瀬哲尚 (新潟大学)    

    日時:2011年7月30日(土) 15:00~18:00   
  会場:済生会新潟第二病院 B棟2階研修会室    
 主催~済生会新潟第二病院眼科    参加費 無料  

 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、(チョッと大袈裟ですが)講演会「学問のすすめ」を開催しています。

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臨床研究における『運・鈍・根』」              
 三宅養三(愛知医科大学)
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【講演要旨】  
 安藤伸朗先生から「学問のすすめ」という主題で、臨床医におけるリサーチマインドの重要性を話すように依頼された。福沢諭吉の「学問のすすめ」には「天ハ人ノ上二人オ造ラズ人ノ下二人オ造ラズ」という有名な言葉があるが、これは「人間は生まれたときは皆同じ、歳を経て人間の差ができるのは学問をするか否かである」ということが言いたかったのである。そのため安藤先生がこの主題を選ばれたのは、ひとたび医師になった以上、終生学問を続けなければ碌な医師にはなれないことを強調されたかったのではないかと思う。  

 さて臨床研究における「運・鈍・根」という題を私が選んだのは、一生おもしろく学問を続けるにはどうすればよいかを自分の経験から得た独断的な思考から述べてみようと思ったからである。古くは北里柴三郎も強調しているように、臨床医学を行うためにはまず、あるいは常に、基礎医学を学ぶ(あるいは経験する)ことが極めて重要である。生体の基礎的なメカニズムを知らずに臨床医学は行うことは倫理的にも許されないとすら思われる。いや、そのような大げさなことではなく、基礎研究を経験して臨床を行う方が、どれだけ臨床に深く、また興味を持って従事できるかは、それを経験した人でなければ分からない。

 研究とはクイズ解きのようなものであるが、臨床研究の場合、神か悪魔が造った”疾病”という複雑なクイズの材料は、多くの想定外の側面を持っている。すべての研究で想定外の結果を得るということはそれ自体興味深く極めて重要なことであるが、臨床研究でそれが真に価値あるものである絶対条件は、その結果が正しいということである。  

 まず臨床研究における「運・鈍・根」の「鈍」とは何を意味するのだろうか。あまり時流に乗らず頑なに一つの研究を続けられることを指すのであろう。頭が切れ、先が読めすぎる人、すなわち「敏」に満ち満ちた人は臨床研究には向かないことがある。医師と患者の信頼関係を保ちながら正しい診断、その時点では最も患者にとって良い治療、治療効果あるいは病態経過の正しい評価を、非常に長期間にわたってフォローするという、あまり刺激的ではない地味な「根」の要る作業がまずできるかどうかであろう。その上でリサーチマインドを持って、その複雑な疾病を独自の思考方法でじっくり観察しているうちに「運」に巡り合え、大きな発見に繋がることがある。眼科学の歴史に残るような大きな臨床的新知見は、多くがこのような過程を経て見つけ出されており、また興味深いことに、多くの場合に基礎研究も経験した人がそれを成就している。  

 自分の40年を超す大学人としての経験を振り返ってみても、例えば私のライフワークの一つである夜盲症の研究は、眼科医になってすぐに生理学の御手洗玄洋先生の下で鯉の網膜単一細胞内電位を記録する研究に従事していたことから始まった。網膜水平細胞からの電位が研究テーマであったが、ときに記録された双極細胞からの反応が極めて興味深く、双極細胞が障害されるとどのような見え方になるかという単純な興味から、特殊な夜盲症にのめりこんだのが、その後30年以上続くことになる研究の始まりだった。  

 とにかく「鈍・根」で多くの症例を集め、正確な機能検査を続けているうちに、それまで一つの疾患と思われていた夜盲症が全く異なった二つの疾患の集合である可能性に気づき、最終的に遺伝子学的にそれを実証するまで、多くの論文を書き、また双極細胞に関する多くの新知見を得た。双極細胞の分析に適した2つの疾患に巡り合ったこと、またちょうど私の研究と時期を同じくして双極細胞を自由に変化させうる薬物が開発され動物で使用できたこと、これらはすべて私の持つ強力な「運」であろう。この一連の研究に30年以上を要し、現在も研究は進行中である。  

 もう一つのライフワークである黄斑部局所ERG(FERG)の開発とそれにより発見した新しい遺伝性黄斑疾患であるOccult macular dystrophy(OMD)もまさに「運・鈍・根」の賜物であった。FERGは1976年に米国留学をした時から始めた研究であったが、米国での3年間の研究では臨床的に使用可能な装置を開発することはできなかった。しかし3年間、日本に帰ってどのような工夫をするかを日夜考えて帰国した。帰国後恩師の御手洗教授に相談したところ、キャノンをご紹介くださった。キャノンは御手洗家とは極めて縁の深い会社である。その後のキャノンの熱心なご協力により、1986年に最も情報量の多いFERG装置の開発に成功した。研究を始めてから実に10年を要したわけだが、成功の最大の秘訣は、御手洗教授がキャノンをご紹介くださった「運」と10年間も粘っこくFERGを追い求めた「鈍・根」である。さらにこの装置を用いてその後20年以上にわたって根気よく5000例以上の臨床例の検査を行った。  

 その途上OMDが発見された。このOMDの遺伝子異常は残念ながら名古屋大学在籍中には発見されなかったが、私の持つ強力な運は退官後に移った東京医療センター・感覚器センターで開花した。そこでOMDの大家系が見つかり、新潟大学の臼井知聡先生、感覚器センターの岩田岳、角田和繁先生という、この家系の臨床分析、遺伝子分析に重要な貢献をされた方々によりOMDの変異遺伝子が同定された。FERGの開発に乗り出してから、通算34年を要したことになる。  「運・鈍・根」は昔から汎用された用語であるが、臼井知聡先生から、これに「縁」を加えるとより私の言いたいことに近づくと示唆して頂いたこと、東京女子医科大学名誉教授の大森安恵先生から、「鈍」は作家・渡辺淳一の「鈍感力」にも通ずる感覚であることを指摘して頂いたことに深く感謝したい。

【三宅養三先生;略歴】  
 三宅養三 (愛知医科大学理事長 名古屋大学名誉教授)  
 1967年 名古屋大学医学部卒業  
 1968年 名古屋大学眼科入局  
 1976~79年 ハーバード大・Retina Foundation留学  
 1997年 名古屋大学眼科教授  
 2000~2004年 国際臨床視覚電気生理学会・理事長  
 2005年 名古屋大学名誉教授、国立感覚器センター所長  
 2007~2010年 愛知淑徳大学教授、愛知淑徳大学クリニック院長  
 2010年 愛知医科大学理事長

 

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経角膜電気刺激治療について      
 畑瀬哲尚 (新潟大学)
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【講演要旨】
 これまで、視神経損傷や緑内障などの難治性視神経疾患に対して、さまざまな視神経機能回復の治療が試みられているが、十分な効果のあるものはない。近年、経角膜電気刺激(transcorneal electrical stimulation、以下TES)は網膜のミューラー細胞を賦活化し、Insulin-like growth factor (IGF-1)を誘導させ、網膜神経節細胞に対して神経保護作用を高める効果を有することが分かり、視神経疾患や網膜疾患に対する治療応用が報告されている。我々は種々の網膜視神経疾患にTESを行い治療効果を検討した。  

 対象は非動脈炎性虚血性視神経症28例31眼、発症後半年を経過し視神経萎縮に陥った症例(多くは視神経炎後や圧迫性視神経症)21例30眼、網膜色素変性症7例14眼、外傷性視神経症7例7眼、緑内障5例7眼、脳神経外科手術後の視力障害2例2眼等計70例91眼に対してTESを行い、治療前後で視力、視野検査等を行った。刺激条件は電流強度200~1600μA、パルス幅 10mS / phase、刺激頻度 20Hz、刺激時間30分間とした。施行間隔は約1か月とし、施行回数は3回を基本としたが、継続希望が強い方はそれ以上行った。視力の変化はlogMAR換算にて0.2以上の変化を改善ないし悪化とした。  結果は、非動脈炎性虚血性視神経症では7例7眼で改善、その他は不変であり、悪化はなかった。視神経萎縮に陥った症例では4例4眼、外傷性視神経症では4例4眼で改善を認め、その他は不変であり、悪化はなかった。緑内障では全例で不変だった。脳神経外科手術後の視力障害では2眼全例で改善を認めた。網膜色素変性症の症例では1例2眼に改善が疑われる結果を得たが、この結果についてはさらなる検討が必要と考える。  

 今回の検討から、急性期の疾患では自然改善との区別が難しい例もあるが、視神経疾患(非動脈炎性虚血性視神経症、視神経萎縮に陥った症例、外傷性視神経症、視交叉疾患脳外科術後)ではTESが有効な症例があり、副作用もないことから、積極的に試みてよい方法と考えられる。その一方、緑内障に対しては無効であった。  

 TESの臨床応用はまだ始まったばかりであり、今後、治療効果の判定基準や有効TES実施回数、長期効果など明らかにすべき課題や疑問がたくさんある。まず行うべき課題は、質疑応答で御質問をいただいたように、TESの効果を評価することができる他覚的検査法(CCDカメラを使用することによるRAPD(*)の定量的測定や電気生理検査など)の確立を実現させていくことだと考えている。

*RAPD~relative afferent pupillary defectの略  
たとえば右眼が視神経症で視力低下していて左眼が正常の場合、ペンライトを右眼から左へ動かすと左の瞳孔が縮瞳する。そこから右眼にライトを戻すと、ライトが来た瞬間には右眼は間接反応のため縮瞳しているが、ライトの明るさを右眼は感知できないのでライトを照らしているにも関わらず瞳孔がかえって開いてゆくという奇異な反応が見られる。これをRAPDと言い、視神経障害に出現する反応である。

【畑瀬哲尚先生;略歴】  
 畑瀬哲尚 (新潟大学)   
 2002年 新潟大学医学部卒業、
      新潟大学医歯学総合病院眼科入局   
 2003年 十日町病院眼科勤務   
 2004年 佐渡総合病院眼科勤務   
 2005年 海谷眼科勤務   
 2010年 医学博士   
 現在  新潟大学医歯学総合病院眼科医員

 

2011年5月19日

 演題:「初めての道を歩く」
 講師:清水美知子 (歩行訓練士;埼玉県)
  日時:平成23年5月18日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 「道」という語には、「人が歩く空間」と「ある地点とある地点を結ぶ道筋(経路、ルート)」の意味がある。ここでは街の中の道と経路について考える。日常生活で「初めての道」に遭遇する状況には、行ったことのない場所へ行く時、初めて来た場所から家へ戻る時、引っ越しや転勤等で生活環境が変わる時、そして少し状況が異なるが、道に迷った時などがある。しかしほとんどの場合、外出の起点と終点は自宅のため、「初めての道」も、その始まりと終わりは「よく知った道」といえる。 

[道をたどる] 
 街の中の道(歩道あるいは路側帯)は縁石、柵、白線などで車道と民地から区分され、視覚的に明瞭である。晴眼者は、現地に立てば道の境界や延びる方向を一目で認識でき、いわゆる“けものみち”と違い、道そのものをたどることは容易である。しかし、視機能が低下すると知覚できる空間は狭まり、例えば杖を第一次歩行補助具として歩く場合、聴覚や嗅覚によって得られる情報以外で、知覚できる空間は杖の届く周囲数メートルの範囲である。初めての道で、幅、車道や民地との境界、方向等を知るためには、数メートル円単位の探索を場所を移しながら何度も繰り返すことになる。これは極めて効率が悪く、実用的な方法とはいえないだろう。

 では、情報を地図や人の説明から入手できるかというと、一般的に地図は一望することのできない広さの地理情報を示すもので、ここで重要と考える小さな空間(「近接空間」)情報を表示した地図はない。しかも、必要な手がかりの種類や量は視機能の程度によって異なるため、他の人からの説明が必ずしも役立つとは限らない。交差点についても同様のことがいえ、形状、大きさ、交通制御の種類をその場で知ることは難しい。 

[経路を策定し、それをたどる]
 初めての場所へ行くには、まず現在地と目的地を含む地理的環境の情報が必要となる。高台から低地にある目的地へ行く時は経路全体を一望できるが、多くの場合経路全体を見渡すことはできない。地図や人の説明から地理情報を入手し、現在地と目的地の位置関係(オリエンテーション)を確認する。視覚障害者が自身で使える地図(触地図あるいは言語地図)は、晴眼者が使う紙に印刷された地図と比べ、そこに盛られる情報量は圧倒的に少なく、経路を策定し、たどるに十分とはいえない。

 街の中の経路は基本的には単路(街区の一辺)と交差点で構成される。街区の一辺は通常数十メートルで比較的真っ直ぐであるから、次の交差点まで見通せ、晴眼者にとって単路を次の交差点に向って歩くのは容易である。そこで、晴眼者にとっての「目的地までの経路をたどる」(ウェイファインディング、wayfinding)という課題は、方向転換点(ある特定の交差点)の特定とそこでの進路(直進、右折、左折)の選択が中心となる。視覚障害者の場合、前述のように近接空間情報が乏しい状況では、気づかずに車道や民地に進入したり、駐車場への進入路を道あるいは交差点と誤認するなど、単路でもウェイファインディングの難しさがある。 

[現在地の更新]
 経路をたどるには、目的地へ向かって歩きながら現在地を逐次更新する必要がある。沿道の街並も目じるしも実際に見るのは初めてであり、直感的に現在地を認識するのは難しい。携行した地図上の(あるいは記憶にある)道路名や交差点名と現地にある表示を突き合わせたり、通過した交差点の数と方向の転換、およびその回数から現在地を推定する。晴眼者の場合、現在地の認識は「どの道(単路)、どの交差点にいるか」であるが、前述のように単路でのウェイファインディングも難しい視覚障害者の場合、単路を外れることは珍しいことではなく、”現在地”が民地内あるいは車道内であることもある。さらに気づかずに交差点を渡っていたり、あるいは曲がっていたという事象も起き、現在地の認識・更新が困難である。 

 以上のように、視覚障害者は地理情報ヘのアクセス(事前および移動中)が困難であり、眺望や現地情報(道路名,位置,道順などの表示、商店名など)が利用できないなどの理由で、利用できる経路情報は晴眼者に比べ非常に少ない。最近、触地図作成システム(新潟大学渡辺研究室)、位置情報表示(例:トーキングサイン)、視覚障害者用GPSを使った地理情報閲覧、言葉による道案内(例:ウォーキングナビ)などの視覚障害者向け地理情報提供サービスが実用化されつつある。今後晴眼者との情報格差が縮まることを期待したい。 

 経路をたどるためには、その基本要素である単路と交差点のたどりやすさが重要である。民地あるいは車道との境界の明確化、車両交通との分離あるいは棲み分け、道を不法に占拠する事物の除去、道の方向を示す「線」(点字ブロックはこの一例、他にも軒先や舗装の境界が作り出す「線」がある)の作成など、歩行空間を整備することで、近接環境情報が乏しい「初めての道」でも道を失わず、経路をたどることが容易になると考える。街を歩く時、視覚障害者にとって快適な歩行空間が確保されているかという視点から、「道」を見直してみてほしい。 

【略歴】
 1979年~2002年
   視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅視覚障害者の訪問訓練事業に関わる。
 1988年~
   新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて、視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2002年~
   フリーランスの歩行訓練士
 2003年~
   「耳原老松診療所」(大阪府堺市)にて、視覚障害外来担当。

 

【後記】
 いつもながらですが、清水美知子さんの講演の時は、清水ファンが大勢参加され、今回も眼科外来に人が溢れ、会場は熱気でむんむんしていました。
 聴衆に問いかけながら進行する清水節は、今回も全開でした。講演の最初に「初めての道を歩く」と聞いた時に、どんなことを想像したかということを、参加された方々に問いかけました。学生、ヘルパー、視覚障害者、ボランティアの方々と多岐の立場の人が皆、意見や感想を述べ合い、それぞれの立場での意見が述べられました。
 「街は、視覚障害者が一人で歩くことを想定して出来ていない」「ガイドヘルプを頼み過ぎ」、清水語録のオンパレードでした。最後に語った言葉も印象に残りました。「視覚障害を持つ方々は、これまで訓練など受けなくても歩いていた。すなわち歩く能力を持っている。しかし現実の社会には、歩行の邪魔をするものが多い。こうした視覚障害がある方が歩く邪魔を取り除く街を作ることが出来れば、もう少し歩きやすくなる」
 「歩く」ことは、足の運動だけでないことを改めて考えさせられました。 

 参加者の方々からの感想の一部を紹介します。
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●盲学校の子どもたちは、とかく大人に囲まれた生活ですので、ややもすると大人が先走ってしまうあまり、子どもが自発的に行動することが少なくなってしまうこともあります。子ども自ら声を発することができる環境をつくり、恥ずかしがらず声を出せるようになることが「援助依頼」の第一歩になるんだと思いました。 

●ありのままの厳しい現実を,視覚障害者が安心して受け入れ納得できるような,思いやりのある話方をされます。冷静に目の前の困難の解決策を考えていけるよう促していると感じました。理想論で終わらず,具体的でとても分り易かったです。 

●(初めて。。。)の言葉には、人それぞれに受け止めが異なると考えています。その人のツールにもよります。私の場合は、盲導犬というツールを得た事により、自身にとって、又盲導犬にとっての道を開拓したくてたまらない日々です。過去に歩いたり、通った道であっても環境によりその道はまったくの(初めての道)となります。 新潟大学の学生さん達の思いのこもった地図は利用者にとって有効です。ただ彼らが目指す地図を作るためには、徹底的にその立場の人たちの意見を聞いてほしいと思います。 

●光覚弁になって、一人ではじめての目的場所へ向かうために、はじめての道を歩いた経験が無いので、改めて考えると、難しい課題と感じました。 結局は、「皆さんも、ご自分でよくお考えになってみてください」、ということなんですよね。 

●視覚障害者が単独で初めてのところを歩くことは歩行訓練では想定していない、初めて聞く事実でした。しかし自然に考えれば妥当なことだと思いました。 ぶらりと目的地もなく散策のため気晴らしので歩けるようになる日が来るとよいなと願っています。 

●難しいテーマでしたね。歩行を考えてしまうのですが、私自身は人生のこれからのことも初めての道のような気がしていました。今まで生きてきていた時間とこれからの時間・・・人間はもしかすると一生「初めての道」を歩き続けているような感じがしています。 

●晴眼者と視覚障害者では、眺望空間、すなわち知覚できる空間の広さが異なり、得られる知覚情報の精度・解像度には差があります。「どんな形でもいいから自分の足で歩く」ということが清水さんの基本ではないかと感じます。清水さんの歩行訓練を見ると、歩行訓練は、視覚障害を負った方々をempowermentするものなのだと感じます。

2011年4月19日

「学問のすすめ」第3回講演会 済生会新潟第二病院眼科
1)眼の恒常性の不思議 “Immune privilege” の謎を解く
   ―亡き恩師からのミッション

    堀 純子 (日本医科大学眼科;准教授)
2)わがGlaucomatologyの歩みから
    岩田 和雄 (新潟大学眼科;名誉教授)

 日時:2011年4月2日(土) 15時~18時

 場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 主催~済生会新潟第二病院眼科

 難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。若い人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、(チョッと大袈裟ですが)講演会「学問のすすめ」を開催しています。 

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眼の恒常性の不思議 “Immune privilege”の謎を解く
 -亡き恩師からのミッション-

   堀 純子 (日本医科大学眼科;准教授)
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講演要旨
 私の故郷は、一年の半分近くが雪に覆われる豪雪地帯で、塾などとは無縁の田舎で、興味は誰からも与えられるものではなく、自分で見つけるしかなかった。長い冬の末に、積雪の表面の変化や空気の匂いの変化を感じ取り、そこから暖かい春をあれこれと想像するといった風土で、今から思えば、研究の過程に似ている。未知のことをしたい、未知のところに行きたい、ばかり頭にある学生で、当時の岩田和雄教授に紹介状を書いていただき東大に入局した。 

 東大で水流忠彦助教授(当時)率いる楽しそうな角膜グループに入れていただいた。水流先生がご紹介してくださった東大循環器内科(現東京医科歯科大学循環器教授)の磯部光章先生は、免疫副刺激シグナル分子の機能を調節して心移植後の拒絶反応を抑制したことをScienceに報告したばかりの「時の人」だった。同様の分子の機能調節を角膜移植のマウスモデルで試したところ、拒絶が抑制されたばかりか、角膜移植片が生着している宿主に、角膜ドナーと同じドナーの皮膚を移植しても拒絶されない、という現象を観た。他のドナーの皮膚は拒絶されたので、「抗原特異的な免疫寛容」である。免疫学の難解な専門用語が、生き生きとした生体の現象に変わった瞬間である。 

 角膜移植や眼免疫の文献でStreileinという名前を何度も目にし憧れていた。1996年のICER(横浜)でStreileinを見つけ、留学を願い出て、翌年からスケペンス眼研究所の彼のラボのポスドクとなった。Streileinは、「Immune Privilege 」(免疫特権)の研究に最も力を注いでいた。移植学の父と呼ばれノーベル賞を受賞したMedawarが1940年代に生んだ Immune privilegeという概念は、Streileinらにより一つの学問分野として確立していた。Immune privilegeは、「高度な生命活動に必須の特殊な臓器(眼、脳、生殖器官など)が、過度の炎症による機能障害に至ることなく、恒常性を維持できるように、特別に有している免疫抑制性の性質」、と理解される。そのしくみを解き明かし伝承することが私のボストン時代からのミッションとなった。 

 留学中、私は「Frankenstein-maker」と呼ばれながら、角膜全層やパーツ、神経網膜、腫瘍、神経幹細胞スフェアなど様々な組織や細胞を腎被膜下に移植し、各々の組織(細胞)特有の免疫特性を解析した。臨床における各々の移植後の拒絶リスクと対策について有用な情報を提供するとともに、免疫特権組織が特有に発現するFasL などの「炎症を制御する分子」に興味をもった。帰国後、環境面で苦慮する時期があったが、ミッション中断の発想は無く、国立感染症研究所に居候して継続した後、日本医大にラボを整えた。 

 研究(学問)をする心的環境は、自分自身がその分野に興味をもっていて、何らかのミッションを感じていれば、十分であると思う。研究費や設備や研究人員などの環境は、ゼロからでも構築できるものだ。“Find a right person and a right place.” という恩師の言葉を幾度も思い出した。地理的にも学問分野的にもグローバルな交流を広げて協力者を増やすことと、良いもの(正しいこと)は必ず認められると信じること、が大切だと思う。 

 2004年にStreileinが他界し、 「Immune Privilege の謎を解く」というミッションは不動となり、「炎症を制御する分子群」の探索と機能解析を今日まで続けている。B7-H1, GITR-L, B7-H3, ICOS-Lなど眼組織に恒性発現する副刺激シグナル分子が、眼内でTリンパ球をアポトーシスにしたり、制御性T細胞に変化させたり、または、脾臓を巻き込んだ免疫寛容誘導に関わったり、と各々異なる役割を分担しながら、眼の恒常性を維持していることを明らかにしてきた。最近、また新規の候補分子を見つけた。どっぷりと分子免疫研究に専念したいと思ったこともあるが、眼科臨床医である以上、眼の研究をするのがミッションであり、眼分子免疫という道からブレないように意識している。 

 MedawarとStreileinからの “forward flow” と、日々生じる “eddy current” の相乗効果により、新しい発見が少しずつ生まれている。研究は、美しく整えた花壇を披露するようなものではなく、雪解けで顔を出した土に偶然新しい緑を見つけるようなものだと思う。 

—最後に
 最近になって、非常に多くの眼疾患の病態に免疫応答が関与することがわかってきた。ARVO2011のSunday Symposia(5月1日8:30~)に”Innate and Adaptive Immunity in Ocular Defense and Diseases”を企画した。ぶどう膜炎や角膜炎のみなく、AMD、緑内障、眼腫瘍と免疫の関与がわかる機会なので、ご参集いただき、眼免疫に興味をもっていただければ幸いである。 

【堀 純子 ; 略歴】
  1990年 新潟大学医学部卒業、東京大学医学部眼科研修医
  1992年 東京大学医学部眼科助手
  1994年 同愛記念病院眼科
  1997年 ハーバード大学眼科スケペンス眼研究所研究員
  2000年 東京大学医学部眼科助手
  2001年 国立感染症研究所免疫部協力研究員
  2002年 日本医科大学眼科講師
  2004年 日本医科大学眼科助教授(現 准教授) 現在に至る 

  2000年 Cora Verhagen Prize
  2004年 日本角膜学会学術奨励賞
  2005年 日本眼炎症学会学術奨励賞
  2007年 日本女性女性科学者の会奨励賞
  http://tlo.nms.ac.jp/researcher/506.php

 

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わがGlaucomatology その歩みから
   岩田和雄(新潟大学名誉教授)
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講演要約
 当日の講演の内容から、次のいくつかのメッセージを記載し、ご参考に供したい。
 学問は素朴な好奇心をベースにしていろいろな概念やら現象を疑うことから始まる。 学問を志すものは、現在みるように、あふれ過ぎてすぐ手に入る情報で好奇心が麻痺されぬよう強烈なエネルギーを常に蓄えておかねばなるまい。情報で直ぐに疑いが晴れたり、好奇心が満足するレベルに留まっていては学問は覚束ない。 

 夜も昼もひたすら真実をもとめて探求をつづければ、必ず新発見のチャンスが訪れるものだ。 ただ、それを見のがすか、それが新天地を開拓する引き金となるかは、その人の学問レベルとセンスにかかっている。 セレンデピテーは必ずしもノーベル賞受賞者にのみ訪れたわけではない。 私の半世紀に及ぶ緑内障学からもそのことはいえるとおもう。学問するに遅すぎることはない。未知が溢れているからだ。 

 緑内障学に志す人達に期待したいことは、日本の正常眼圧緑内障は質も量も世界を遥かに凌いでおり、その病因、病態の追究は日本の権利であり、義務でもあリ、恵まれたチャンスでもある。 欧米への安易な追従を断ち切り、突飛な面を開拓して真理を追究せねばなるまい。  

 数学者の藤原正彦氏による学問を志す人に関する4つの性格条件を解説し、参考に供したい。
  1)「智的好奇心」 が強烈であること。よい学者になれる不可欠な資質である。学業成績はあまり問題ではない。
  2)「野心的であること」 やってやるぞ!と強烈な野心を抱き、創造にむかっての活動なしでは意味がない。智的に優れているだけでは、型にはまった仕事しかできない。
  3)「執拗であること」 失敗を繰り返しても、生涯追い続けることだ。諦めてはいけない。
  4)「楽観的であること」 悲観的になれば終わりだ。 果敢な楽観的鈍才にチャンスがある。 

 言うはやすく、おこないは難し・・・・ではあるが、それこそ学を志すものの生き甲斐と言わねばなるまい。 最近のマスコミは日本の若者が元気がなくなったと嘆じているが、決してそんなことはない。 元気がないのはマスコミ自身である。 

【岩田 和雄 ; 略歴】
  1953年 新潟大学眼科入局
  1961-63年 ボン大学眼科留学(アレキサンダー・フォン・フンボルト奨学生)
  1972年 新潟大学教授
  1993年 定年、新潟大学名誉教授

  日本緑内障研究会創設以来のメンバー
  緑内障に関する特別講演: 
   臨眼総会(1984年)、日眼総会(1992年)、日本緑内障学会(1992年)等
  第2回日本緑内障学会会長(1991年)
  名誉会員: 
   日本緑内障学会、日本眼科学会、日本眼光学学会、日本神経眼科学会、
   Glaucoma Research Society等

 

2011年2月15日

新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 
 日時:2011年2月5日(土)  15時~18時
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

教育講演
『前頭葉機能不全 その先の戦略
 ~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~』
  立神 粧子(フェリス女学院大学音楽学部/大学院音楽研究科教授)  

 2001年秋、夫が仕事中に突然解離性くも膜下出血で倒れ、後遺症として高次脳機能障害が残った。2年ほど大きな改善は見られず悶々としていたなか、2004年大学からのサバティカルの1年を利用して、NewYork大学リハビリテーション医学Rusk研究所の通院プログラムに参加した。Y.Ben-Yishay博士が率いるRusk研究所は脳損傷通院プログラムの世界最高峰と言われている。

 Ruskの訓練は、神経心理ピラミッドを用いたホリスティックなアプローチである。Ruskでは器質性による前頭葉機能不全を前提としている。認知機能を9つの階層に分け、ピラミッドの下が症状の土台であり、その基本的な問題点が改善されていなければ、ピラミッドのそれより上の問題点の解決は効果的になされないとする考え方で、ピラミッドの下から訓練は行われる。9つの階層とその説明は下から以下のとおりである。

Ⅰ.「訓練に参加する自主的な意欲」 
 自分に前頭葉の機能不全があることに気づき、その問題に立ち向かうために自らの意思で参加するという強い思い。

Ⅱ.「神経疲労Neurofatigue」
 「覚醒」「警戒態勢」「心的エネルギー」に関する欠損。脳損傷による脳細胞の欠損のために、日常生活のすべてが以前より困難となり、脳損傷者は常に神経が疲労しやすくなっている。

Ⅲ.(1)「無気力症Adynamia」 
   心的エネルギーが過少であることによる問題。基本的に「自分から~をする」ことができない。
   1:自分から何かをする発動性の欠如、2:発想の欠如、思いの連鎖がない、3:自発性の欠如、無表情、無感動。

  (2)「抑制困難症Disinhibition」 
   心的エネルギーが過度であることによる欠損。自分で次の諸症状を意識し、抑制することができない。
   1:衝動症、2:感情の調整不良症、3:フラストレーション耐性低下症、4:イライラ症、5:激怒症、気性爆発症、6:多動症、7:感情と認知の洪水症。

Ⅳ.「注意力と集中力Attention & Concentration」
 選択的注意とその注意力を維持する集中力に関する問題。

Ⅴ.「コミュニケーション力と情報処理Communications & Information Processing」 
 情報のスピードについてゆくことと情報を正確に受信し、人にわかるように発信することに関する問題。

Ⅵ.「記憶Memory」
 
出来事を習得したり覚えておくことができなくなる記憶の問題と、自分に欠損があるということの気づきが途切れる問題。記憶断続症。

Ⅶ.(1)「論理的思考力Reasoning」
   1:言われたことや書かれたことをまとめたり、同類に分類できる力である「収束的思考力、まとめ力」の問題と、2:異なる発想を思いついたり臨機応変に対応できる力である「拡散的思考力、多様な発想力」の問題。

  (2)「遂行機能Executive Functions」
  日常生活における以下の能力に関する問題。
   1:ゴール設定、2:オーガナイズ(分類整理)する、3:優先順位をつける、4:計画を立てる、5:計画通りに実行する、6:自己モニターする、7:トラブルシュート(問題解決)する。

Ⅷ.「受容Acceptance」 
 自分に機能不全があり人生に制限がついたという事実を認識して受容できること。真の受容には下位の階層のそれぞれの症状に対する戦略を自ら使い、自己を高める努力が伴う。そういうことの必要性を真に理解すること。

Ⅸ.「自己同一性Ego-identity」
 脳損傷を得ても、「自分が好きな自分」でいるために、以下の過去・現在・未来の自分を再統合し、障害を得た新しい自己を再構築すること。
 1:発症前に何かを達成できた自分、2:障害を得た自分に必要な訓練や努力に現在進行形で取り組んでいる自分、3:機能不全による限界を認識しつつ将来こうなりたいと思う自分。

 神経心理ピラミッドの働きの大まかな説明は以上である。Ruskではこれらすべての階層の問題のひとつひとつに戦略(対処法)がある。月曜日から木曜日までの朝10時から午後3時まで、対人コミュニケーションや個別の認知訓練、カウンセリングまでをも含む構造化された時間割の中でシステマティックな訓練が行われる。こうした訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。

 

【略 歴】
 1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
 1984年 国際ロータリー財団の奨学生として、シカゴ大学大学院に留学
 1988年 シカゴ大学大学院にて音楽学で修士号取得、博士課程のコースワーク修了
 1988年 南カリフォルニア大学大学院へ特待入学
 1991年 南カリフォルニア大学大学院にてピアノ演奏(共演ピアノ)で音楽芸術博士号取得
 1993年 帰国後、フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科の専任講師
 ~現在 フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授、音楽芸術博士
 http://www.ferris.ac.jp/music/bio/m-04.html

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 1985年 シカゴ・コンチェルト・コンペティション優勝
 1988~91年 コルドフスキー賞、最優秀演奏家賞受賞
 1992年~現在 ベルリン・フィル、ロンドン響、バイエルン放送響、フィレンツェ歌劇場、MET歌劇場などの欧米の主要オーケストラの首席奏者や歌手たちと国内外で共演。世界各地でリサイタル多数。

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 ご主人の小澤富士夫氏は、東京芸術大学のトランペット科を卒業後、プロの演奏家として活躍。その後ヤマハで新製品の研究開発業務に携わり、ヤマハ・フランクフルト・アトリエの室長として長年ヨーロッパに赴任。帰国後の2001年、仕事中にくも膜下出血を発症、後遺症として高次脳機能障害(記憶障害、無気力症、認知の諸問題)が残る。
 高次脳機能障害を治すためサバティカルを利用して、1年間ご主人とともに米国に滞在し、ニューヨーク大学Rusk研究所「脳損傷通院プログラム」に通う。ご主人は奇跡的に回復し、一人で大阪に出張できるほどになった。

『ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論』
 2006年 『総合リハビリテーション』(医学書院)4月、5月、10月、11月号に、「NY大学・Rusk研究所における脳損傷者通院プログラム」を治療体験記として発表。以来Rusk研究所の通院プログラム、神経心理ピラミッド、機能回復訓練などに関する講演を行う。

『前頭葉機能不全/その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
 2010年11月 
医学書院より出版。
 医学書院のHPに以下のように紹介されている。
「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」
 http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912

 

2011年2月9日

報告:『新潟ロービジョン研究会2011』高次脳機能と視覚の重複障害を考える2
教育講演 
1)「高次脳機能障害とは?」
   仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院;眼科医)
2)「高次脳機能障害と視覚障害を重複した方へのリハビリテーション」
   野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員)
3)「前頭葉機能不全 その先の戦略
    ~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド ~」
   立神粧子 (フェリス女学院大学)
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講演抄録】
1)「高次脳機能障害とは?」
   仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院;眼科医) 

 1. 高次脳機能障害の定義
 学術用語としての高次脳機能障害は、脳損傷で生じる認知・行動・情動障害全般を指し、記憶障害・社会的行動障害・遂行機能障害・注意障害という高頻度で生活へ影響が特に大きい主要症状の他に半側空間無視・失語症・失行症・失認症などがある。その特徴の一つとして病識の欠如があり、これがさらに社会生活復帰への支障を大きくしている。一方、行政用語としての高次脳機能障害は、学術用語で挙げた症状に以下の条件がつく。
 1) 実際に日常生活または社会生活に制約がある
 2) 脳損傷の原因となる事故による受傷や疾病の発症の事実が確認されている
 3) 先天疾患・周産期における脳損傷・発達障害・進行性疾患を原因とするものは除外
 4) 身体障害として認定可能な症状を有するが主要症状を欠く者は除外(たとえば、失語症だけでは、音声・言語・咀嚼機能障害に入るため除外される)
 高次脳機能障害者支援の手引き(改訂第2版)には診断基準が記されている。これは国リハのホームページから申込書ダウンロードが可能だ。
 (http://www.rehab.go.jp/ri/brain_fukyu/kunrenprogram.html 

 2. 主要症状
 1) 記憶障害
 ・物を置いた場所を忘れたり同じことを何回も質問するなど、新しいことを学習し、覚えることがむずかしくなる
 ・社会生活へ復帰する際の大きなハードルとなってしまうことが少なくない
 2) 社会的行動障害
 ・すぐに他人を頼るような素振りをしたり子供っぽくなったりする
 ・我慢ができず、何でも無制限に欲しがる
 ・場違いの場面で怒ったり笑ったりする
 ・一つのものごとにこだわって、施行中の行為を容易に変えられず、いつまでも同じことを続ける
 3) 遂行機能障害
 ・行き当たりばったりの行動をする
 ・指示がないと動けない
  これは、目標決定、行動計画、実施という一連の作業が困難になることで、すなわち、見通しの欠如、アイデアの欠如、計画性・効率性の欠如ということができる。
 4) 注意障害
 ・気が散りやすい
 ・ 一つのことに集中することが難しい
  そもそも注意とは何か。これは「意識内容を鮮明にするはたらき」と説明されている。対象を選択する。選んだ対象に注意を持続する。対象以外へ注意を拡大する。対象を切り替える。複数の対象へ注意を配分するなどが注意のはたらきだ。注意障害の患者を眼科で診るときは、以下の配慮を要する。
 ・ほとんどの眼科検査で集中力が不足して十分な検査ができないことが多い
 ・視力検査は短時間で一回の検査を終え、日を替えて続きを行なうのがよい
 ・視野検査では眼疾患が存在しなくても全体的な沈下をきたすことがある 

 3. 他の高次脳機能障害の症状
 1) 半側空間無視
 ・自分が見ている空間の片側を見落としてしまう障害
 ・食事で片側のものを残したり片側にあるものにぶつかったりする
 ・線分二等分試験や模写課題などで検査される
 2) 失語症(行政用語としては高次脳機能障害に入らない)
 ・うまく会話することができない
 ・その中には、単に話すことができなくなることだけでなく、人の話が理解できない、字が読めない、書けないなどの障害も含まれている
 ・音声・言語・咀嚼機能障害の3級または4級に入る
 3) 失行症
 ・動作がぎこちなく、道具がうまく使えないなど、手足は動くのに、意図した動作や指示された動作ができない
 ・マッチを擦って煙草に火をつけるといったような系列を有する行為を意図的に行うことができなくなる
 4) 失認症
 ・視覚失認…物全般がわからない
 ・純粋失読…文字がわからない
 ・相貌失認…顔がわからない
  失認症は、症状が視覚に関わることが多いため、患者自らが眼科を受診する。いわば、視覚の高次脳機能障害ということもでき、ロービジョンの範疇に入るものと思われる。しかし、その対策は一筋縄ではいかない。まして、高次脳機能障害の主要症状に視覚障害が重なったら、その対応はさらに困難であるということは明らかである。今後の検討が望まれている。 

【略歴】
 1989年3月 東京慈恵会医科大学医学部医学科卒業
 1991年4月 同大学眼科学講座助手
 1995年7月 神奈川リハビリテーション病院眼科診療医員
 2003年8月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座講師
 2004年1月 Stanford大学留学
 2007年1月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座准教授
 2008年2月 国立身体障害者リハビリテーションセンター病院第三機能回復訓練部長
 2010年4月 国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長 

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2)「高次脳機能障害と視覚障害を重複したB氏のリハビリテーション」
   野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員) 

 B氏の4年間に及ぶリハビリテーション期間の内、前期(2007年8月~2008年3月の9か月)の取り組みについて報告した。
 Ⅰ B氏のプロフィール
  1.基本情報  40代男性、S市在住、妻・娘と同居。
  2.生活歴・職業歴 教師として20数年間勤務。野球部の監督や同和教育・生徒指導の担当者として活躍していた。
  3.疾病・診断名  脳梗塞(2006年10月)・全盲・軽度の高次脳機能障害。前頭葉・右側頭葉・両後頭葉・脳梁に広範囲の損傷。
  4.高次脳機能障害の症状  易疲労性、集中力の低下、注意障害、記憶障害(前向健忘)、空間認知障害、遂行機能障害などがあった。
  5.訓練開始時点での強み  孤立感、孤独感が強く精神的に混乱しているが、真面目で前向きな性格や、知性や判断力が健在であることを感じさせる言動も見られた。家族の支援もしっかりしていた。

 Ⅱ B氏のリハビリテーションの経過
 『前期の課題』安心できる環境とゆっくりした時間の流れの中で、適度で適量な刺激を提供すること。全盲+記憶障害+空間認知障害は非常に厳しい条件だが、何とかして日常生活でのADL自立をめざす。 
 『前期の状況』B氏も奥さんも、切羽詰まった状態でわらをもすがる思いで鳥居寮に来られた。本人の孤立感・孤独感は非常に強いと思われる。現状は世界も能力も縮小した状態にあるが、潜在的能力はあり、徐々に拡大していく可能性は大きい。この段階での行動上の困難は大きいが、指導員との関係が中心であり比較的環境調整が容易なため、歩行訓練士でも対応が可能だったと考えられる。 

 『前期の支援方針』
 毎日朝夕に職員の打ち合わせをして、状況の確認と対応の統一を図る。初期には易疲労性に留意し休憩を多く取り、また注意障害を考慮して伝えることは一度にひとつかふたつに留める。感情と結びついた記憶は残りやすいため、出来れば楽しい記憶にするように務める。予定した訓練をこなすことより、B氏の語りをゆっくり聴き、受け止めることのほうが重要であるという視点をもつ。 

 『B氏に対して実施した、主に認知にかかわる訓練技法』
 ・エラーレスラーニング:迷う前にタイミングよくB氏にとって分かりやすい話し方で正しい答えを提示する。
 ・構造化:日課や家具の配置、移動ルートなど、さまざまなことをわかりやすくシンプルにすること。
 ・環境調整:施設での人間関係や家族に対する支援などもふくめて、B氏が落ち着けるような環境を作ること。
 ・スモールステップ&シェイピング(段階的行動形成):行動をわかりやすい小さな単位に分けて考える、それをもとに、行動を作り上げていくこと。逆シェイピングという技法もある。
 ・過剰学習:確実に誤りがなくなり自信がつくまで繰り返し練習すること。
 ・手掛かりの活用:触覚的なわかりやすい手掛かりを設置することで、手続き記憶の強化を図る。
 ・記憶の強制は避ける:自然な形で記憶力を使うようにしていく。
 ・ポジティブ・フィードバック:良いところを見つけて伝える。少しずつでも自分で出来ることが増えると、自己効力感・自己肯定感を高めることにつながる。
 ・散歩の活用:季節の風を感じること。感覚入力の豊かさが脳に対する良い刺激になる。
 ・般化:鳥居寮で出来るようになったことが、自宅でも出来ることを目指す。 

 Ⅲ まとめ
 高次脳機能障害と視覚障害を重複した方のリハビリテーションを進めるために、また当事者や支援者を孤立させないために、多くの人たちが経験や意見を交流できるネットワーク作りが必要ではないだろうか。

【略歴】
 1950年生まれ。岡山県津山市出身
 
    立命館大学文学部卒業。
 1979年京都ライトハウスに歩行訓練士として入職(日本ライトハウス養成9期)
    以来歩行訓練士として31年間同じ職場に勤務。
 (2011年3月末定年 その後は嘱託で仕事を続る予定) 

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3)「前頭葉機能不全 その先の戦略
    ~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~」
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授) 

 2001年秋、夫が仕事中に突然解離性くも膜下出血で倒れ、後遺症として高次脳機能障害が残った。2年ほど大きな改善は見られず悶々としていたなか、2004年大学からのサバティカルの1年を利用して、NewYork大学リハビリテーション医学Rusk研究所の通院プログラムに参加した。Y.Ben-Yishay博士が率いるRusk研究所は脳損傷通院プログラムの世界最高峰と言われている。 

 Ruskの訓練は、神経心理ピラミッドを用いたホリスティックなアプローチである。Ruskでは器質性による前頭葉機能不全を前提としている。認知機能を9つの階層に分け、ピラミッドの下が症状の土台であり、その基本的な問題点が改善されていなければ、ピラミッドのそれより上の問題点の解決は効果的になされないとする考え方で、ピラミッドの下から訓練は行われる。9つの階層とその説明は下から以下のとおりである。 

Ⅰ.「訓練に参加する自主的な意欲」 自分に前頭葉の機能不全があることに気づき、その問題に立ち向かうために自らの意思で参加するという強い思い。

Ⅱ.「神経疲労Neurofatigue」 「覚醒」「警戒態勢」「心的エネルギー」に関する欠損。脳損傷による脳細胞の欠損のために、日常生活のすべてが以前より困難となり、脳損傷者は常に神経が疲労しやすくなっている。

Ⅲ.(1)「無気力症Adynamia」 心的エネルギーが過少であることによる問題。基本的に「自分から~をする」ことができない。
  1:自分から何かをする発動性の欠如、
  2:発想の欠如、思いの連鎖がない、
  3:自発性の欠如、無表情、無感動。
  
(2)「抑制困難症Disinhibition」 心的エネルギーが過度であることによる欠損。自分で次の諸症状を意識し、抑制することができない。
  1:衝動症、2:感情の調整不良症、3:フラストレーション耐性低下症、4:イライラ症、5:激怒症、気性爆発症、6:多動症、7:感情と認知の洪水症。

Ⅳ.「注意力と集中力Attention & Concentration」 選択的注意とその注意力を維持する集中力に関する問題。

Ⅴ.「コミュニケーション力と情報処理Communications & Information Processing」 情報のスピードについてゆくことと情報を正確に受信し、人にわかるように発信することに関する問題。

Ⅵ.「記憶Memory」出来事を習得したり覚えておくことができなくなる記憶の問題と、自分に欠損があるということの気づきが途切れる問題。記憶断続症。

Ⅶ.(1)「論理的思考力Reasoning」
  1:言われたことや書かれたことをまとめたり、同類に分類できる力である「収束的思考力、まとめ力」の問題と、2:異なる発想を思いついたり臨機応変に対応できる力である「拡散的思考力、多様な発想力」の問題。
  
(2)「遂行機能Executive Functions」  日常生活における以下の能力に関する問題。
  1:ゴール設定、2:オーガナイズ(分類整理)する、3:優先順位をつける、4:計画を立てる、5:計画通りに実行する、6:自己モニターする、7:トラブルシュート(問題解決)する。

Ⅷ.「受容Acceptance」 自分に機能不全があり人生に制限がついたという事実を認識して受容できること。真の受容には下位の階層のそれぞれの症状に対する戦略を自ら使い、自己を高める努力が伴う。そういうことの必要性を真に理解すること。

Ⅸ.「自己同一性Ego-identity」 脳損傷を得ても、「自分が好きな自分」でいるために、以下の過去・現在・未来の自分を再統合し、障害を得た新しい自己を再構築すること。
 1:発症前に何かを達成できた自分、
 2:障害を得た自分に必要な訓練や努力に現在進行形で取り組んでいる自分、
 3:機能不全による限界を認識しつつ将来こうなりたいと思う自分。 

 神経心理ピラミッドの働きの大まかな説明は以上である。Ruskではこれらすべての階層の問題のひとつひとつに戦略(対処法)がある。月曜日から木曜日までの朝10時から午後3時まで、対人コミュニケーションや個別の認知訓練、カウンセリングまでをも含む構造化された時間割の中でシステマティックな訓練が行われる。こうした訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。

【略歴】
 1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
 1984年 国際ロータリー財団の奨学生として、シカゴ大学大学院に留学
 1988年 シカゴ大学大学院にて音楽学で修士号取得、博士課程のコースワーク修了
 1988年 南カリフォルニア大学大学院へ特待入学
 1991年 南カリフォルニア大学大学院にてピアノ演奏(共演ピアノ)で音楽芸術博士号取得
 1993年 帰国後、フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科の専任講師
 ~現在 フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授、音楽芸術博士
 http://www.ferris.ac.jp/music/bio/m-04.html
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 1985年 シカゴ・コンチェルト・コンペティション優勝
 1988~91年 コルドフスキー賞、最優秀演奏家賞受賞
 1992年~現在 ベルリン・フィル、ロンドン響、バイエルン放送響、フィレンツェ歌劇場、MET歌劇場などの欧米の主要オーケストラの首席奏者や歌手たちと国内外で共演。世界各地でリサイタル多数。
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 ご主人の小澤富士夫氏は、東京芸術大学のトランペット科を卒業後、プロの演奏家として活躍。その後ヤマハで新製品の研究開発業務に携わり、ヤマハ・フランクフルト・アトリエの室長として長年ヨーロッパに赴任。
 帰国後の2001年、仕事中にくも膜下出血を発症、後遺症として高次脳機能障害(記憶障害、無気力症、認知の諸問題)が残る。
 高次脳機能障害を治すためサバティカルを利用して、1年間ご主人とともに米国に滞在し、ニューヨーク大学Rusk研究所「脳損傷通院プログラム」に通う。ご主人は奇跡的に回復し、一人で大阪に出張できるほどになった。

 

「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」
 2006年 『総合リハビリテーション』(医学書院)4月、5月、10月、11月号に、「NY大学・Rusk研究所における脳損傷者通院プログラム」を治療体験記として発表。以来Rusk研究所の通院プログラム、神経心理ピラミッド、機能回復訓練などに関する講演を行う。

 2010年11月『前頭葉機能不全 その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
 医学書院より出版。医学書院のHPに以下のように紹介されている。「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」。http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912

 

【印象記】
永井博子 (神経内科医:押木内科神経内科医院)
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 教育講演の仲泊聡先生
 眼科医でこれだけ深く高次脳機能障害に係っている方がいらっしゃるということがまず驚きでした。高次脳機能障害といっても沢山の症候があり、理解するのも大変なのですが、広い範囲に渡って平易にお話ししていただきました。今なら佐藤先生を受け入れられたかもしれない、というお言葉が印象的でした。今後の視覚の高次脳機能障害への取り組みの発展に期待を持ちました。 

 教育講演の野崎正和先生
 私は勉強不足で、視覚障害者専用の訓練施設があることを知らなかったので、非常に新鮮でした。歩行訓練士という職業も初めて知りました。中途視覚障害者ということで、病気の受容からして、大変なことと思いますが、出来ることをやっていく、楽しくやる、将来への希望をもつ、など佐藤先生のお話と共通しますし、視覚障害者や、高次脳機能障害者だけでなく、リハビリをやるすべての方へのメッセージだと感じました。 

 教育講演の立神粧子先生
 あらかじめ安藤先生から御紹介していただいて、本を読み、お話をお聞きできることを非常に期待していました。医療とは全く関係ない分野にいらっしゃるのに、専門的なことをすべて理解していらっしゃることに驚きかつ感銘いたしました。とても実践的な訓練なので、これを日本で、日本語で受けることができたら、と思いました。
 

野崎正和 (京都ライトハウス鳥居寮;歩行訓練士)
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 懇親会の音楽会はとても楽しいものでした。残念なことは、私が演歌人間で、ジャズなどを聞いてもよくわからないという点です。それで何が楽しいのかといえば、演奏している皆さんが、長くされているすごく上手な方から、それほど長くない方までとても楽しそうに演奏しておられたことです。楽器を演奏できるのはいいなーと思いました。 

 仲泊先生には、先生が取り組んでおられる視覚障害リハビリテーションの今後を左右するようなプロジェクトについて教えていただきました。もし、協力させて頂けるようでしたら、安藤先生から学んだ「自分に出来ることを精一杯楽しんでやる」精神で取り組みたいと思います。 

 立神先生のお話は、本当にサプライズでした。先生の著書の「前頭葉機能不全 その先の戦略」を、あとで購入して拝読いたしました。現場でリハビリテーションに関わっている立場としては本当に参考になることばかりでした。常に神経心理ピラミッドを念頭に置いて考えたいと思いますが、全体として自分の職場でどう活かすかと言う点では、バックグラウンドが違いすぎて、どうしたらよいかまだわからない状態です。 

 私は、高次脳機能障害で全盲のB氏のリハビリテーションについて発表させていただきました。つたない発表のため、高次脳機能障害の代償手段がほとんど使用できない全盲という条件の厳しさや、このような方が地域で安心して生活しながら社会参加していくための支援システムをみんなで考えて欲しいということなどを十分お伝えできなくて申しわけありませんでした。これからも少しずつ勉強していきたいと思います。 雪の新潟はとても温かでした。

 

立神粧子(フェリス女学院大学教授)
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 講演の時間が延びてしまい、学会の最後でお疲れの皆様を「神経疲労」にさせてしまいました。でも、神経心理ピラミッドの説明なしではRuskの概念は理解できないので、あれはあれで仕方なかったと思っています。講演の機会を与えて下さり有難うございます。 

 仲泊先生は、非常にコンパクトにわかりやすく高次脳機能障害を説明されました。安藤先生のご指摘にもありますように、佐藤先生の入院当時のことを正直に話されたことも共感を持ってお聞きしました。10年ほど前は、日本の高次脳機能障害者とその家族にとっては、まだまだ希望が見えない医療やアドバイスだったと記憶しています。 

 野崎先生のお話しは、現実の問題に即した実践的な視点で有意義なものだったと思います。
 講演後に、永井先生からもお声をかけていただきました。よろしくお伝えくださいませ。
 

新潟市 リハビリ医
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 仲泊聡先生の講演
 特に興味深かったのは、半側空間無視と半盲の視野検査所見の違いです。固視点を変えると半盲の場合は、見えない部分が固視点の変化について行くのに対し、半側空間無視では変化しないというものでした。半側空間無視は、リハビリテーション分野で失語症と同様頻度の高い障害ですが、眼科的な視点からのお話は初めてでしたので興味深いものでした。視覚に関係した高次脳機能障害のリハビリテーションの実際も機会があればお聞きしたいと思いました。 

 野崎正和先生の講演
 対応が困難な高次脳機能障害を併せ持った視覚障害者のリハビリテーションに積極的に取り組んでいらっしゃる様子が良くわかりました。具体的なことは時間がなくあまり聞けませんでしたが。リハビリテーション医療との連携(高次脳機能の検査の結果やそれに基づいた方針や対応の仕方などの情報伝達)についてもう少し、お聞きしたかったです。 

 立神粧子先生の講演
 早速、書籍は注文しました(今日来ました)。神経心理ピラミッドは、高次脳機能障害者の障害を理解するのに役立ちそうですね。同じ図を、慈恵医大リハビリテーション科の橋本圭司先生の教育講演で目にしました。橋本先生は、高次脳機能障害者のグループセラピーを展開している方です。Ruskのプログラムの内容を知るには読んでみるしかないですね。  

 質疑で出された意見について
 リハビリテーションは必要ないのではというのは極端だと思いますが、リハビリテーション医療が高次脳機能障害に対応できていないのは事実だと思います。障害の評価も難しい上、検査の結果から活動(生活、仕事、自動車運転など)の制限を説明しにくいこと、さらに、職業リハビリテーションと医療が連携していないことなど問題点が多いのが現状です。今後の課題と受け止めます。

 最後に、医療者、障害者が一同に会して勉強するという貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

 

新潟市 病院ソーシャルワーカー
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 この度はシンポジウムに参加させていただきてありがとうございました。とても実りのある会だったと思います。

 仲泊先生も眼科医として高次脳機能障害について深く関わって下さる事にとても感謝しております。新潟県の場合は、高次脳機能障害者に対する支援があまり充実しておらず、又、神経内科・脳外科・リハビリ科・精神科などの先生が各個人で様々苦悩なさっている状況の中、眼科の先生からもご意見いただく事ができれば今後の支援も発展することでしょう。実際に、当院では眼科の細かい検査などは出来ないため、わざわざ別の医療機関に受診してもらい、患者さんの負担も大きいです。障害が重複している患者さんも多くいらっしゃいますが、当院の診療体制では全ての障害に望むような医療サービスが受けられるわけではありません。 

 野崎先生のご講演もとても勉強になりました。私は病院のソーシャルワーカーであり、患者さんが地域でどのように生活しているか全て把握しているわけではありませんが、あの方のようなリハビリ指導員がいらっしゃる施設があるとこちらとしても自信を持ってご紹介できます。新潟でももっと開拓していただきたい位です。 

 勉強不足で立神先生の名前を知らなかったのですが、実際にアメリカでプログラムを受けられて、誰よりも高次脳機能障害の難しさをご理解なさっている方だと思います。その中で、ご主人と一緒に新潟まで足を運んでくださったり、ピアニストとして、教育者として研究者としてご主人の障害と共に人生を歩んでいる姿が素晴らしかったです。 

 最後に質問して下さった小林さんという方、彼も若くして障害を負い、今も苦労して生活なさっている場面も多いと思います。その中で障害を理解して欲しいと訴える姿と、障害の受容、リハビリテーションとは何かについてを答えて下さった佐藤先生に感動しました。 

 簡単ですが、私の感想を書かせていただきました。
 今回安藤先生が1人事務局でご準備から最後の後片付け、懇親会までセッティング・調整をして下さって大変ご苦労なさったと思います。ありがとうございました。私はソーシャルワーカーであり、診療したり、リハビリしたりすることはできませんが、患者さんが地域でより質の高い生活ができるように今後も支援していきたいと思います。

 

新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 
 特別講演 重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる
   佐藤 正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
       医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)  

 高次脳機能障害は、交通事故や転倒などによる外傷性脳損傷や脳血管障害・脳腫瘍・脳炎・低酸素性脳症などの疾患により発症します。脳の一部が損傷を受けることで、記憶、意思、感情などの高度な脳の機能に障害が現れる場合があります。このような障害を高次脳機能障害といい、外見上障害があることがわかりにくく、一見健常者との見分けがつかない場合もあり、そのため周囲の理解を得られにくいといった問題もあります。障害の程度によっては本人ですら気づかないということもあり、そこにこの障害の難しさがあります。2011年2月5日(土)午後、真冬の新潟に全国11都府県から120名が集い、外の寒さを吹き飛ばすような熱気に包まれ、盛況のうちに終了することが出来ました。この度、講師の先生に講演要旨をしたためて頂きましたので、ここに報告致します。 

新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 1
 日時:2011年2月5日(土)  15時~18時
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 

特別講演   座長:永井 博子(神経内科医;押木内科神経内科医院)
 「重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる」
   佐藤 正純 (もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
       医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)  

【講演要旨】
 障害を負うまでの私は概ね順調な人生を送ってはいましたが、それでも秀才揃いの受験校に入学して自身の限界を見せ付けられた挫折、国立大学医学部に入学するまでの1年間の浪人生活、その在学中の父の早世など、若いうちに抗えない運命に立ち向かうための心の鍛錬をする機会があったのは幸せだったのかもしれません。

 横浜市大救命救急センターに医局長として勤務して、多くの患者さんの生死に立ち会ったことから、医療の限界と医のあずかり知らぬところで神に支配されている人の生死を実感したことは、私の死生感にも大きな影響を与えました。

  脳挫傷による1か月の昏睡から覚醒した時、友人はおろか家族の顔も確認できないほど視覚は失われ太陽が東から昇ることも1年が365日であることも忘れているほど記憶は失われていたのに、ピアノの前では指が自然に動いてジャズのスタンダードナンバーが弾けたことは残存能力の証明となり、心の支えにもなりました。 

 視覚と高次脳機能の重複障害への適切な対応がされないまま社会復帰は不可能と判断されてリハビリセンターを退院しましたが、「これ以上、何をお望みですか?」と言われて、それを挑戦状と感じて自らのリハビリプログラムを立て始めたことが自立に繋がったようです。 

 私にとってのリハビリテーション、すなわち全人間的復権の根本は、働き盛りの37歳で障害を負った自分がこのままで社会復帰もできずに人生を終えたくはないという人生の哲学、そして、自身のそれまでの技術と人脈を生かすとすれば、医学知識と臨床経験を生かした教育職で社会復帰を目指すべきではないかという目的。最後にその目的を達成する手段として音声読み上げソフトと通勤のための独立歩行の技術が必要と気づいてその訓練の場所を探したことが社会復帰に繋がりました。特にパソコンに記憶された情報を読み直す反復訓練は脳の可塑性をもたらして記憶障害の克服に役立ちました。 

 受傷6年後に教壇に上がって最初の講義を終えた時、生きていて本当によかったと思えた自分は、そこでリハビリテーション(人間的復権)の一段階を達成して初めて障害受容もできたのだと思っています。 

 私が今まで精神的な支えとしてきたことは、諦めるのではなく明らめる(障害を負った今の自分の可能性を明らかにする)こと。リハビリの内容を音楽や鉄道マニアといった自分の趣味などの楽しみに結びつけ、小さな結果の達成を喜んでリハビリを楽しむように心がけたこと。過去の自分を捨てて新しい自分を構築するのではなく、過去の経験と現在の可能性を重ね着して豊かな人生(重ね着人生)を築けば良いと思ったこと。瀕死の重傷から神様の導きで生かされた自らを『Challenged』(挑戦するよう神から運命づけられた人)と信じて、自分に与えられた仕事は神様から選ばれて与えられた試練と考えて決して諦めないと誓ったこと、などです。 

 これからも医師は一生勉強、障害者は一生リハビリと唱えて、常に楽しみと結びつけ、達成感も確認して心のリハビリを楽しみながら、より高い復権を目指した人生を進んで行きたいと思っています。
 

【佐藤正純先生の紹介】
 1996年2月、横浜市立大病院の脳神経外科医だった佐藤正純先生(当時;37歳)は、医者仲間と北海道へスキー旅行に行った。スノーボードで滑っていて転倒、頭部を強打し意識不明、ヘリで救急病院に運ばれた。頭部外傷事故で大手術の末、1ヶ月後に奇跡的に意識を取り戻した。しかし、待っていたのは、皮質盲(視覚障害)、記憶障害(高次脳機能障害)、歩行困難(マヒ)という三重苦であった。 

 趣味の音楽を手始めに懸命なリハビリを続け、6年後の2002年、三重苦を乗り越え医師免許を活かして、医療専門学校の非常勤講師として再出発した。今でもリハビリを重ねながら講師以外に、重度障害を負った障害者のリハビリ体験について語る講演活動を行い、さらには横浜伊勢佐木町のジャズハウス「first」で健常者に交じってジャムセッションのピアニストとして参加している。 

 「障害を負ったからといって人生観を変える必要はありません。昔の自分に新しい自分を重ね着すればいい。1粒で2度美味しい人生を送れて幸せです。」と佐藤先生は語る。
 参考:http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d19.html

【略歴】 佐藤正純 (さとう まさずみ)
 1958年6月 神奈川県横浜市生まれ
 1984年3月 群馬大学医学部医学科卒業、
      4月 横浜市立大学付属病院研修医
 1986年6月 横浜市立大学医学部脳神経外科学教室に入局
       神奈川県立こども医療センター、横浜南共済病院、神奈川県立足柄上病院の脳神経外科勤務を経て
 1992年6月 横浜市立大学救命救急センターに医局長として2年間勤務
 1996年2月 横浜市立大学医学部付属病院脳神経外科在職中にスポーツ事故で重度障害
 1999年12月 横浜市立大学医学部退職
 2002年4月 湘南医療福祉専門学校東洋療法科・介護福祉科非常勤講師として社会復帰
 2007年4月 介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館医療相談員として復職
       湘南医療福祉専門学校救急救命科 専任講師
       筑波大学附属視覚特別支援学校 高等部専攻科理学療法科 非常勤講師
       神奈川県立保健福祉大学 保健福祉学部 リハビリテーション学科 
       ゲスト講師などを兼任して現在に至る。 

 ・視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)副代表
   http://www.yuimaal.org/
  杉並区障害者福祉会館障害者バンド「ハローミュージック」バンドマスター
 

【公開講座 & 交流会に参加して】
 佐藤正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
      医療相談員:介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」)

 受傷から8年後、社会復帰から2年後の2004年に札幌にお招きいただいて最初の個人講演会をさせていただいてから年平均5件のペースで40件近くの講演を経験してきましたが、今回のようにリハビリテーションの専門家である先生方と並んでの本格的なシンポジウム形式は初めてだったので、開演前は柄にもなく緊張していました。 

 それでも、いつもの私のペースで冗談と雑談を交えながら訥々と話すうちに時間が足りなくなって予定していた内容のうち、どうにか60%の結果ではありましたが、最初に哲学ありきとする私のリハビリテーション理論、趣味などに結びつけ、達成感を感じることで楽しみながら進める心のリハビリ、神に生かされ、障害も神から与えられたものと悟る死生観と障害受容などはお伝えできたのではないかと思っております。 

 神奈川リハビリテーション病院入院中には担当医としてお世話になった仲泊聡先生を前にして、視覚と高次脳機能が合併した障害に対する神奈川リハビリの対応を批判しながら話すのはとてもやりにくかったのですが、一人の患者として率直にぶつけた思いを、仲泊先生がよく理解して受け入れてくださったのは有難かったです。 

 訓練開始前に白杖持参を受け入れていた私を評価して、自身の障害に合わせたリハビリテーションプログラムに沿って私の歩行訓練を担当してくださった東京都盲人福祉協会の山本先生もそうですが、野崎正和先生はリハビリテーションの中でも特に訓練生と生の会話をする時間が取れる立場を利用して、患者さんを丸ごと受け入れている温かさを感じました。 

 また、私がかつて所属していた高次脳機能障害者の団体「日本脳外傷友の会」でも何度か紹介されて名前だけは知っていた秘密の組織「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」について立神粧子先生から非常に貴重な情報をいただきました。そして、単なる私個人の理論ながら、私が心の拠り所として、相談を受けた方にも伝えていた「1粒で2度美味しい重ね着人生」は神経心理ピラミッド理論の自己同一性とも一致する点があることは自信に繋がりました。 

 喫茶「マキ」での懇親会では、眼科医でありプロミュージシャンでもある佐藤弥生先生の登場に圧倒されて逃げ出したくなりましたが、私の要望に応じて集まってくださった地元のジャズバンド、小林英夫バンドとのセッションで、思いがけずジャズのメッカである新潟でのひとときの演奏を楽しむことができました。
 

【印象記】

仲泊 聡(国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長 眼科医)
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 1995年7月1日、私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。医学部を卒業して7年目の夏でした。そのときの私は、障害者という概念について考えたこともない不届きな眼科医でした。大学の授業には障害の概念や社会の福祉システムについての項目はあったはずです。しかし、全く印象に残っていません。弟が脳膿瘍で片麻痺になり6歳で亡くなったことは自分の人生観に大きく影響していると思っていました。物心付いた頃には叔父の一人が失明し白杖を持っていました。従兄弟の一人が頸随損傷で四肢麻痺になっていました。それにもかかわらず、障害者は自分とはあまり縁がないような印象をもっていました。今となってはそれが不思議なくらいですが。

 佐藤正純さんが同院に入院されていたのは、1997年1月からの約1年と伺いました。私も眼科の外来でお目にかかっているはずです。重度の高次脳機能障害の患者さんでピアノがとびきり上手な人がいるといううわさは、私の耳にも入ってきていました。当時、私は「その」世界に飛び込んでまだ二年生です。佐藤さんの症状を紐解くことはまだ難問中の難問だったと記憶しています。

 1998年に私は放射線科の医師と一緒にファンクショナルMRIの仕事を始めました。通常のMRIではわからない大脳の機能低下を画像化するためです。2002年、国のモデル事業で高次脳機能障害の仕事が始まり、同院もその一員となり、リハ医師が中心となってガイドライン作成に向け高次脳機能障害の方のリハプログラムが試行錯誤で検討されました。私も研究要員としてファンクショナルMRIの仕事で参加させてもらっていました。そして、何と立神粧子先生の旦那様が同院に入院されていたのは、そのモデル事業が始まった頃だったのです。だから、私は眼科の診察をしていたに違いありません。佐藤さんに出会った頃よりはもう少し高次脳機能障害に対する知識も増えていたかもしれませんが、結局、あまりお役に立ててはいなかったようです。

 お二人のその後の壮絶な戦いを知り、そして、今を知ることで、自分の無知無力を反省するとともに、「決して諦めない」ことへの勇気が湧きました。10余年の月日を経て、かつて神奈川県の七沢の森の中で、このお二人と袖触れ合ったご縁を噛み締めつつ今回のお話を伺うことができました。そして、改めてリハへの「動機付け」の重要性を感じました。今後の診療活動の糧とさせていただきます。ありがとうございました。


永井博子 (神経内科医:押木内科神経内科医院)
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 特別講演 佐藤正純先生
 私は神経内科医として日頃神経難病の方と御家族にどうやって病気を受容していただくかで悩んでおりますので、佐藤先生が自分の専門分野の病気になって、どうやって病気を受容していらしたのかに、とても関心がありました。このことに関してはあまり触れてはいらっしゃいませんでしたが、リハビリに目標を設定することにより、達成感を持ちながらリハビリを続けられること、楽しくリハビリをやること、など常にポジティブに考えて行動していらっしゃることに感銘しました。 

 全体を通して
 最近、ようやく高次脳機能障害に少しずつ、関心が向けられるようになってはきましたが、まだまだ理解されていないというのが現状です。仲泊先生のお話にあったように、国も関心をもってくれるようになりましたが、対象となる高次脳機能障害を限定してしまっている状況です。そのような時期に、高次脳機能障害と視覚障害の重複障害の方のお話をうかがえて、かなり理解を深めることが出来たと思います。

 最後に小林さんの、リハビリは必要なんでしょうか、というなげかけ、そして、佐藤先生の、90分の講義が出来た時初めて病気を受容出来ました、というお言葉は、我々医療従事者は常に心に留めておかなければならないと思いました。 

 

野崎正和 (京都ライトハウス鳥居寮;歩行訓練士)
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 懇親会の音楽会はとても楽しいものでした。残念なことは、私が演歌人間で、ジャズなどを聞いてもよくわからないという点です。それで何が楽しいのかといえば、演奏している皆さんが、長くされているすごく上手な方から、それほど長くない方までとても楽しそうに演奏しておられたことです。楽器を演奏できるのはいいなーと思いました。 

 さて、以前から佐藤正純先生のお話をお聞きしたかったのですが、安藤先生のお力でかないました。しかし、私はパネラーになっていなければ、2月の新潟まで聞きに来れたかどうか分かりません。 そういう意味では、たくさんの参加者の皆さんに恥ずかしい限りです。先日、佐藤先生のお話をCDにして当事者のB氏にプレゼントしました。最近B氏も地域の学校や老人会などでお話をする機会が少しずつ増えていますから、佐藤先生のこなれたお話がとても良い教材になると思います。

 

立神粧子(フェリス女学院大学教授)
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 佐藤先生は、おひとりで自分と向き合う力をお持ちの方で、自らの能力を最大限に生かしていらっしゃるところが素晴らしいと思いました。Ruskの「自己同一性」の哲学と共通する哲学をもって、今もこれからも、重複障害を持って生きるということに真摯に取り組まれていかれるであろうと思います。 

 

新潟市 精神科医
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 初めて参加しましたが、このような会が長年継続されていることが素晴らしい。医師・専門職・当事者・一般の色々な立場の方が一緒に集まり勉強できる会で、しかも全国各地から集まっておられる事に驚きました。今回は精神病とは違う脳神経的障害である脳機能障害に関心を持って参加しました。 

 佐藤先生は心身ともに強靱な方で両方の力が相俟って回復されたかと感じました。同業者としては特に意識が戻らないときに回復したきっかけが、ポケベルで「先生急患です」と呼ばれたことに反応したというお話は大変印象的でした。リハの途中で「これ以上は無理」と打ち切られたときに、逆に奮起してアクティブになり試行錯誤して自立的にリハを行ったこと、一日一日の変化は分からなくても一週間、一ヶ月前の自分と比べて「自分を誉める」こと、自分を高めて行く努力、そして遂に一人歩きできるようになる、その過程に感動しました。

 耳からの情報は生の能力を喚起するような力があるのではないでしょうか。小さいときからの音楽的情緒的な豊かさが生きるのに役立った様に思います。 本日は哲学的な感慨も受け、「死は諦めで、生は明めである」という言葉など貴重な示唆を頂きました。病気ではなく事故で起こった高次脳機能の障害について学ぶ良い機会を与えて頂きありがとうございました。

 

新潟市 リハビリ医
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 今回は、公開講座にお招きいただきありがとうございました。リハビリテーション医療に携わるものとして感じたことを簡単にまとめてみました。 

佐藤正純先生の講演
 高次脳機能障害と視覚障害という難しい障害の重複にも関わらず、目標をたてて、実行していくその力に感動しました。自らリハビリテーションプログラムを作ったことなど驚かせられることばかりでした。原動力は「明るさ」でしょうか。一方、リハビリテーション医療に対する鋭い批判にはリハビリテーション関係者としていろいろ考えされられました。リハビリテーション医療は、医療者がゴールを設定し、ゴールに到達したと判断した場合は終了とするのが普通です。しかし、医療者が判断するゴールは必ずしも正確ではないこと、利用者の希望や要望を聴いているのか疑問であることが佐藤先生の例からわかります。障害が変化していく可能性を念頭に、フォローして、状態に応じた適切な対応をしていくことの必要性を感じました。 

質疑で出された意見について
 リハビリテーションは必要ないのではというのは極端だと思いますが、リハビリテーション医療が高次脳機能障害に対応できていないのは事実だと思います。障害の評価も難しい上、検査の結果から活動(生活、仕事、自動車運転など)の制限を説明しにくいこと、さらに、職業リハビリテーションと医療が連携していないことなど問題点が多いのが現状です。今後の課題と受け止めます。
 最後に、医療者、障害者が一同に会して勉強するという貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

 

新潟市 病院ソーシャルワーカー
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 この度はシンポジウムに参加させていただきてありがとうございました。とても実りのある会だったと思います。佐藤 正純先生の聡明さと素晴らしさにとても感動しました。障害の事を誰よりもご理解なさっている先生にとって、障害を受け入れる事がどんなに難しかったことかと思いますが、今の人生を楽しんでいらっしゃる姿が眩しかったです。